はてなキーワード: 見立てとは
覚醒するというより、炭を入れすぎた蒸気機関のように、暴走すると言ったほうが近い
回転する頭の速度について行けずどんどん消えていく
集中力は上がるが、落ち着いて何かを丁寧に作業するのには向かない
だが飲まないよりかは格段に、文字が吐き出されていくようになるのだ
どこか遠い南国で、上裸の黒人が日照りの中、安い賃金で文字を育て
麻袋に積んで極東の国へ。文字を焦がし、引いてお湯を注ぎ、文字を手から吐き出す
見た目はとげとげとして、まるで豆を砕く挽器みたいな面白い文字の形だが
珈琲のどちらの字も、「玉を付けた髪飾り・かんざし」の意を持つらしい
かんざしの玉を豆に見立てたのか
なかなか乙だと思った木曜の朝
https://anond.hatelabo.jp/20191212165757
読んでいて草。
久々に今や絶滅危惧種である昔ながらの国籍透視系の能力者ネトウヨ(今の行儀が良くなった保守系の人達と違うと言う意味でもあえてこの単語を使う)に出会ったが、あいつらフェミニスト、ポリコレ、LGBTと言った先鋭化しきった彼等の言う所のパヨクと言う海外でいう所のSJWとか言うリベラルとそっくりだ。
この人達は右左の方向性の違いはあっても思考の方向性は全く同じ。
特にフェミニストと近いと言うより親和性が高いのは一部の保守系の俗にいうお母さん保守とか呼ばれる連中や宗教系の人達だった。
ここから長くなってしまうが、この手のネトウヨにもフェミニスト他リベラルにも共通して言えるのは。
こうして見ると政治スタンスに関係なく、この手の人々の行動が似通っているのは根底に常に自分を優先するクレーマー気質が強いと言う事も言えるだろう。
その自分本位の思考回路の結果が他者への配慮をも全く考慮しない行動に繋がるのだ。
また右左どちらの人から見てもこれ等のクレーマー気質の人間は敵よりも余程厄介な所謂無能な味方でしかないのは事実であろう。
ある種この様な暴力的で攻撃的な人間の行為そのものが自身の所属する思想や集団に対しての評価の下落や票の継続的な減少等の割と致命的な事態を招く事を繋がる。
その結果は自身の所属する思想や集団の悪評をも招く事になり、全体の評価を下げる事にも繋がる。
何にしろこれ等の人々は右左の思想関係なく、まともな人から見れば、関係ない人物や中立勢力及び本来味方とも言える勢力や人物にも平然と噛みつき、迷惑行為を行う単に迷惑な人物及び集団であるのは明白である。
その事は選挙の結果にも響いてくる。
これ等の行為が当時の自民党の政権交代の一端であったのは事実だろう。(また当時自民党の側にフェミニスト団体やキリスト系が加担して規制を推し進めていたのも事実だが。)
そして現在のフェミニスト等と言った集団による赤十字やJA等に対しての迷惑行為の積み重ねがリベラルの散々たる結果の一端になっているのは想像に難くない。
以前ツイッターでこれ等の人々は現実社会では最底辺であり、統合失調症等の精神病なのではないか?や通院歴のある人間が多いと言う事実なのか判らない情報を結構見かけた事があったが、少なくとも一般の視点から見れば、普通に常軌を逸した常識的ではない行動ばかり行っているのは事実であり、世間にもそう言う風な目で見られるのも仕方がない所であろう。
これ真面目な話だからな。
フェミニズムは応援したいんだ。確かに男女格差、ていうか女性差別はある。
それは是正しなきゃならない。
しかし、ツイフェミにはアホしかいない。ていうか、フェミニストのうちでツイフェミと差別していい連中だ。
高輪AIさくらなんか、あれなんや? 可愛くすんな? セクハラ応答すんな? キチガイだあいつら。
「可愛い」などに「ありがとう」と反応するのは、ハラスメントになり得る表現だということくらい知ってるが、それは会社の話。
一般社会では、普通に会話として十分許容される会話でしかない。
んなこと言い出したら、「不快」や「苦痛」を理由にどんな会話も駄目になる。
絵だけじゃない、小説やら広告などの文章だってやられる、実際広告はやられている。
フェミニズムはそもそも女性が社会で自立することに意義がある。
しかし、あまりに行き過ぎたそれら規制方向への考え方は、もはや暴走と言っていい。
女性自身を「被害者」と見立てることは、フェミニズム本来の趣旨とは大きく違う。
家父長制は女性を奴隷にしたかもしれないが、被害者とは見ていない。そこから自立して平等な人権を与えるというのがフェミニズムの目的であったはずだ。
当社は東京の割と真ん中あたりに会社がある中小企業ですけども、先日の三連休の各地の浮かれっぷりを見て、
これまでだらだら準備していたけど、昨日急ピッチでちゃんと運用できるように。
出社したい人は週に2日までOK。でもその場合は混雑時間は避けるように時差出勤。
毎日会社に出ないと仕事が進まないという人も、会社にいる時間は時短できるようにし、家でもできる仕事は可能な限り家ですること。そうすることで電車の混雑時間を避ける。
コロナの流行は二段階、三段階に分かれるのではないかというのはよく言われていることですが、これから二段階目が来るのではないかという見立て。
結局のところ、手洗いうがいといった基本的な対策は、自粛ムードと合わさってより確実にみんなが実施するし、みんなが実施することでR値が下がると思われる。
集団免疫は60%だかそれくらいが免疫を持つことでと言われてますが、逆に言えば60%くらいの人たちが手洗いうがいを完全に実施することで、集団免疫と似たような効果が得られるものと推察できます。
がしかし、世の中の雰囲気は3連休で完全に変わった。60%が40%になっただけでも感染の拡大は止まらない。そしてそれより多くの割合で警戒が緩んでいるのではないかと見られる。
それはニュースじゃなくて街行く人々を見てても思う。
ということで、これから感染が拡大するかどうかは定かではありませんが、拡大する率がとても高く感じられる。
そして拡大してからじゃ準備は間に合わないので、今の内にできる手はとっておくことに。
https://anond.hatelabo.jp/20200323025005
――ところで、わたしは昔から、最後のスタンザは少し弱いのではないかと思っていたのですが……。
( ・3・) 弱い? 「リング」と「スプリング」とで韻を踏むのはありきたりだとか?
――弱いというよりは、ピンとこないといったほうが正確かもしれません。「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」――これはどういうことなんでしょう。
( ・3・) 彼女のほうが歳上だったんじゃないか? 50歳くらい。
――それはたしかに too late な気がしますが、もし年齢が離れていることが問題なら、彼女が三月生まれであれ、七月生まれであれ、一年のうちで生まれた時期に言及する意味はないはずなんです。
( ・3・) 春に生まれようが夏に生まれようが誤差みたいなものだからな。
( ・3・) ははは、まさか。
――ここに一枚の写真があります。1975年に撮られたものです。
https://twitter.com/kedardo/status/1242030916232339458
( ・3・) ボブ・ディラン、本を読む。
――何という本ですか?
( ・3・) 『クリスタル・マジック』と書いてある。マジックのつづりが変だけど。
――目次には次のような言葉が並んでいます。「ケンタウルスが獅子を狩る」「シャンカラの理論は現実をどう捉えるか」「ハクスリーの知覚の扉」「アジュナチャクラあるいは第三の目」「カバラの諸相」
( ・3・) 神秘主義のロイヤル・ストレート・フラッシュという感じだな。
――星座が何であれば、支配星は何、エレメントは何、という表も載っています。
( ・3・) 本を読め、ただしまともな本を、と釘を刺したばかりだというのに。
――まともな本も読んでいますよ。このころディランはチェーホフやコンラッドに傾倒していたはずです。 [3] [4]
( ・3・) じゃあ『クリスタル・マジック』はたまたま手にとっただけで、内容を真に受けたとまではいえないんじゃないか?
――1974年、コンサート・ツアーを再開した理由を、ディランは次のように語っています。「わたしの惑星系 (my planetary system) において土星が障害となっていた。その状態がしばらく続いていたが、いま土星は別の場所へ移動した」 [5]
――1976年のアルバム『ディザイア』のバック・カヴァーには、タロットが描かれています。
( ・3・) タロット! イタロ・カルヴィーノの『宿命の交わる城』は何年だっけ。ちょっと待って――第一部・第二部の合本が出たのが1973年。英訳は1977年だ。
――1978年のインタヴューでは、占星術を信じているのかと単刀直入に訊かれています。
PLAYBOY: OK, back to less worldly concerns. You don't believe in astrology, do you?
DYLAN: I don't think so.
PLAYBOY: You were quoted recently as having said something about having a Gemini nature.
DYLAN: Well, maybe there are certain characteristics of people who are born under certain signs. But I don't know, I'm not sure how relevant it is.
PLAYBOY: Could it be there's an undiscovered twin or a double to Bob Dylan?
DYLAN: Someplace on the planet, there's a double of me walking around. Could very possibly be. [6]
( ・3・) 信じているかといえば、信じてはいない。星座と人間の気質とのあいだには何か関係があるかもしれないが、どの程度なのかは分からない。――うーん、言質を取られるのを避けているみたいだ。
――もともと質問に率直に答える人ではないのですが。
( ・3・) 思い出した。昔、日本の有名な批評家がイェール大学に文学を教えに行ったんだが、向こうでは占星術が流行っていて、同僚の学者の生年月日がどうのこうのと書いていたっけ。あれも70年代半ばじゃなかったかな。
――期せずして、アメリカにおける神秘主義の流行、というテーマに足を踏み入れてしまいました。
( ・3・) ……引き返そうか。
――「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」の意味をめぐって脇道にそれてしまいましたが、実は、意外なかたちで問題が消滅します。
――いえ、問題自体が消えてなくなってしまうんです。アルバム発表から一年も経たないうちに、歌詞が書き直されて、最後のスタンザは大きく変わります。1975年のライヴ録音を聴いてみましょう。
To know too much for too long a time
She should have caught me in my prime
Instead of going off to sea
And leaving me to meditate
( ・3・) ジェミニを連想させる "she was my twin" も含めて、占星術につながりそうな表現はなくなったな。詩の問題の解決を、人は問題の消滅によってうやむやにする。
――「彼女はわたしの双子だった」も、考えてみれば謎めいた表現です。「本当の恋人だった」と「双子だった」とが置き換え可能かといえば、そうではないと思います。
( ・3・) 歌詞だけじゃなくて、コード進行も旋律も変わっているぞ。
――そうなんです。これまでわれわれが検討してきたことの少なからぬ部分が、このヴァージョンには当てはまらなくなっている。ディランにしてみれば、もう「わたしはそこにはいない」んです。
( ・3・) うなぎみたいなやつだな。
――歌詞の変更は1975年以降も続きます。「彼」と「彼女」とが入れ替わったり――
( ・3・) 体が?
――立場がです。第一スタンザで「孤独を感じ」「まっすぐに歩いていればよかった」と願い、第二スタンザで「夜の熱気に打たれるのを感じ」るのは、「彼」ではなく「彼女」になります。80年代にはさらに全面的な変更があり、90年代には――
( ・3・) もはや原形を留めなくなった?
――いえ、それが――。
( ・3・) それが?
――おおむね元のかたちに戻りました。
( ・3・) ……。
――……。
( ・3・) 「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」も?
( ・3・) 抑圧された占星術の回帰……。なくなったはずの問題の再燃……。まるで人生のようだ。
――これで「運命のひとひねり」は概観できました。全体について何かありますか?
( ・3・) 英語は易しめだったな。
( ・3・) 「彼」と「彼女」との間に何があったのか、曲のなかでは詳しく語られないけど、これは、その、いわゆる一夜の関係というやつなの? [7]
――なぜそう思ったんですか?
――ただ、それだと、彼女がいなくなったときの彼の傷心ぶりや、「指輪をなくしてしまった」のくだりはうまく説明できません。
( ・3・) そうなんだよな。じゃあ、ある程度つきあった恋人たちの最後の夜だったんだろうか。
――第一スタンザに、「体の芯に火花が走るのを感じた」とありますが、これは恋に落ちるときの表現だと思います。まあ、よく知っている相手に対して改めて火花を感じる、という可能性もゼロではありませんが。
( ・3・) すでにつきあっている恋人同士なら、見知らぬホテルの前でまごまごするのも不自然だしな。うーん、こんがらがってきた。一方では、彼と彼女とは一夜の関係に見える。ある日の夕暮れに物語が始まって、翌朝には彼女は姿を消している。その一方、物語の後半では、彼は生涯の伴侶を失った男のように見える。
――常識と観測結果とが矛盾するときは、常識を捨てなければなりません。
( ・3・) 何を言いだしたんだ急に。
――ある日の夕暮れから翌朝まで、と考えて矛盾が生じるのであれば、そう考えるのをやめればいいんです。
( ・3・) いや、でも、ある日の夕暮れから翌朝までじゃないの? ネオンの輝く見知らぬホテルに長期滞在して、数年後の朝に彼女はいなくなりました、なんていくらなんでも無理があるだろう。
――キュビズムの絵画では、ある対象を複数の視点から捉え、平面のキャンバスに再構成して描きます。
( ・3・) 何を言いだしたんだ急に。
――ある日の夕暮れから翌朝まで、という枠組みのなかに、出会いから別れまでの一切が凝縮されたかたちで描かれているとしたら?
( ・3・) 時間の流れが一律ではなかったということか?
――いいですか、時計の秒針が聞こえてくるのは、彼女がいなくなった後です。それから彼にとっての永遠の現在が始まり、彼女がいた過去は、彼の記憶のなかで遠近法的な奥行きを失うんです。
( ・3・) 時計を一種の仕掛けと見立てて、内在的に解釈するわけか。理屈は通っているかもしれないが、常識を捨てさせるには、まだ十分ではないと思うぞ。
――では、時間の流れが一律であるとは限らないという外在的な傍証を。1978年のインタヴューです。
Everybody agrees that that [Blood on the Tracks] was pretty different, and what's different about it is that there's a code in the lyrics and also there's no sense of time. There's no respect for it: you've got yesterday, today and tomorrow all in the same room, and there's very little that you can't imagine not happening. [8]
( ・3・) おい、詩に暗号が隠されていると言っているぞ。
――その点は保留にしてください。
( ・3・) 時間の意識は失われている。過去、現在、未来が同じ部屋に混在して、想像しえない出来事などほとんどない。
( ・3・) 「運命のひとひねり」の解題ではないんだな?
( ・3・) そうだな、まだ腑に落ちるとまではいかないが、時間の扱いは気に留めておいたほうがよさそうだ。
――はい。実は、キュビズムの絵画や、時間の意識をもちだしたのは、次に聴く曲「タングルド・アップ・イン・ブルー」でも同じ問題がでてくるからなんです。邦題は「ブルーにこんがらがって」。ディランの重要な曲を挙げるとしたら、まず10位以内には入る。人によっては1位かもしれない。というわけで、ウォーム・アップは終了です。次は少し難しくなりますよ。
そのようにして彼らは「タングルド・アップ・イン・ブルー」を聴き、「シェルター・フロム・ザ・ストーム」を聴いた。窓のかたちをした陽だまりが床を移動し、寝ていたストラヴィンスキーの首から下が影に入ってしまった。もう次の曲に進む時間は残っていなかった。デレク・ベイリーのCDを持って帰らなければ、と彼は思った。マイルス・デイヴィスやビル・エヴァンスならいつでも買い直せる。しかしベイリーは品切れのまま再発されないことだってありうるのだ。
「もう帰るのか?」と上司は言った。
「はい。それで、デレク・ベ」
「おまえの家は一戸建てだったな、たしか。陽当たりと風通しは良好か?」
「陽当たり? まあ、それなりには。それで、デ」
「窓からの眺めは?」
「眺め? まあ、壁しか見えないということはありませんが。そ」
「じゃあ、決まりだな」と上司は言い、リムスキー=コルサコフの両脇を後ろから抱えると、目の高さまで持ち上げた。
「新しいパパだよ」
かくして予言は成就し、わたしは持っていったもの以上を持ち帰ることになる。小さなモフモフと、モフモフの当面の生活に必要なモフモフ用品とを。
まずはこの子に、猫としてまっとうな名前をつけよう。このままだと、もし何かの拍子に迷子にでもなったら、「リムスキー=コルサコフ! リムスキー=コルサコフ!」と大声で呼びながら近所を捜し回らなくてはならない。獣医にかかるときだって、きっと問診票に名前を書く欄があるだろう。常軌を逸した飼い主だと警戒され、信頼関係を築くのに支障をきたすかもしれない。
しかし、猫に名前をつけるのは難しい――T・S・エリオットの Old Possum's Book of Practical Cats にもそう書いてある。クラシックの作曲家では大仰すぎる。ジャズ・ミュージシャンではどうだろう。わたしはCDとレコードの棚の前に立ち、名前の候補をピック・アウトしていく。チェット。論外である。マタタビに耽溺してばかりの猫になってしまいそうだ。ドルフィー。才能も人格も申し分ないが、早世の不安がつきまとう。ベイリー。デレク・ベイリーのCDを取り戻すまで、わたしはあとどれだけの道を歩まなくてはならないのだろう。
わたしは気づく。予言は成就していない。少なくとも完全には成就していない。人知を超えた力によって予言はねじ曲げられ、わたしは持っていったもの以上ではなく、持っていったもの以外を持ち帰ったのだ。新しい家の探検を終え、お腹を上にして眠る小さなモフモフよ、おまえのしっぽが曲がっているのも、運命のひとひねりのせいなのか?
[1] 実際にはEより少し高く聴こえる(テープの再生速度を上げているため)。
[2] これ以降、歌詞の引用は2小節ごとに改行を加えている。
[3] Bob Dylan. Chronicles: Volume One. Simon and Schuster, 2004. p. 122.
[4] Sam Shepard. Rolling Thunder Logbook. Da Capo Press, 2004. p. 78.
[5] https://maureenorth.com/1974/01/dylan-rolling-again-newsweek-cover-story/
[6] Interview with Ron Rosenbaum. Playboy, March 1978; reprinted in Bob Dylan: The Essential Interviews. Wenner Books, 2006. p. 236.
[7] 草稿では、第三スタンザは以下のように書かれたあと、大きなバツ印がつけられている。"She raised her weary head / And couldn't help but hate / Cashing in on a Simple Twist of Fate." 初めは娼婦として描かれていた点を重視することもできるし、その構想が放棄された点を重視することもできる。
[8] Interview with Jonathan Cott. Rolling Stone, November 16, 1978; reprinted in Bob Dylan: The Essential Interviews. Wenner Books, 2006. p. 260.
従兄の慎一くんは、私の父の兄の子だった。彼は自分の父親のことを、かならずしもふざけているわけではなく、よく「ご当主」と呼んでいた。
大学ではゴルフ部の主将を務め、それとは別になんだかよくわからないイベントを季節ごとに催すインカレサークルも創設していて、むしろラグビーよりはそっちで有名だったと聞いた。
私が入学して一週間とたたないうちに、あらたまって訪ねてきた彼はお茶を共にした。
蜂蜜入りの菓子パン、アンチョビをのせたトースト、今はなきフラム・ド・フラムで買ってきた胡桃入りのドフィノワと、たっぷり平らげてからタバコに火をつけて籐椅子に体を沈めた彼は、大学生活で私が守るべき心得をつぎつぎに並べてきかせたが、その忠告は大学生活のほとんどすべての分野にわたった。
わたしは今でも、そのときの彼の言葉を一語一語、あらかた暗誦できる。
試験では、優になるか不可になるか、どちらかだな。中途半端じゃ無意味だ。良になってみても無駄だよ。
自分の専攻なんか無視して、最高の講師の講義ばかりとるんだ――例えば、アークライトのデモステネスとか……。
服装はね、なるべく立派なのがいい。ユニクロのシャツにチノパンなんていう格好はいけない。手頃なショップで見立ててもらうんだね。
……サークルはさしあたりボランティア関係に入っておいて、並行して自分の興味のあるサークルも兼部して、二年の初めに後者に専念するといい。文化祭に関わるのはやめておけ。
……地方の人間とはつきあうなよ。田舎の金持ちより都会の中流家庭のほうがまだ付き合いやすい」
向かいの建物の切妻の向こうの空が夕日にかっと赤くなったと思うと、しだいに暗くなってきた。
私が暖炉に薪木を足して電灯をつけると、光のなかに従兄の上品なロンドン仕立てのゴルフズボンと、チェック柄のネクタイが浮かび上がった。
「……大学の先生たちを、中学や高校の先生みたいに扱っちゃいけない。近所の坊さんに対するような態度で接することだ。
……二年目の半分は、一年目にできた好ましくない友だちと手を切るのに使うことになる。
……K大の連中には気をつけろよ――ーあいつらはみんな不愉快な口をききかたをするホモ野郎だ。と、いうより、あの手の連中にはいっさい近づかないことだな。ろくなことはないよ……」
帰りがけに、彼はさらにこう言った。
その部屋は広くて快適で、大学からも近く、新入生の身でこんな部屋にあたった私は幸せものだと思っていた。
「大学に近すぎる部屋に入ったばっかりにだめになったやつはいくらでもいる」と言った従兄の声は実に重々しかった。
「色んな人間が気安く入ってくるようになるんだ。翌日に使う教科書を預けていっては、翌日の昼に取りによる。君は缶チューハイをだしてやるようになる。そして気がつくと、大学じゅうの不良学生にただで居酒屋を開いてやったような結果になるんだ」
私には、彼の忠告をひとつとして正直に実行した覚えはない。すくなくとも、部屋はぜったいに変えなかった。窓の下にはニオイアラセイトウが生えていて、夏の夕暮などには、その香りが窓一杯に流れこんできたのだから。
「子供の遊ぶ声なんて微笑ましいのに迷惑がるなんて心が狭いのね」ってそもそも言ってることが伝わってない気がする。
そういう人の言う遊ぶ声って「キャッキャッ」みたいなのを指してると思うけど、迷惑がってる人の指す子供の声っていうのは「キィィヤァァァーーー!!!」みたいな奇声とか大きな子が年下っぽい子をバカにしたような言動のことを言ってて、しかも公園で遊んでるんじゃなくて建物と建物の間とかの道路やコンクリの上でやるから反響がものすごい。公園でもない反響がものすごい場所で奇声をほぼ毎日聞かせられ続けてても「微笑ましい〜^ ^」なんて言ってられるわけがない。キチガイだろ。
しかも遊んでるんじゃなくて、私のところのは自主練か知らないけどずっとコンクリの上でボールをバウンドさせてる。1人で。しかも向かいのアパートの壁をゴールに見立ててるのかそこに向けてボールを投げるからその音もストレス。ダンっダンっダンっドンみたいな音が頻繁に聞こえる。公園もすぐそこにあるのになんで他人のガキのボールつく音に生活リズムを左右されなきゃいけないんだ。公園行けよ。夕方になるとボールをつくやつがいるなんて知らないで最近引っ越して来たから余計に気になるのかもしれないけど周りの家の人たちもよく耐えられるな。てか印がしてあるわけでもないんだからお前の感覚でゴールを考えてるとしたら意味のない練習だろ。車とかにぶつけたらどうするかとか考えろよ。
公園でボール遊びがダメだって言われるのは多分ボールを追いかけて道路とかに飛び出したりして危ないっていうのもあるからむやみに禁止してるわけじゃないと思う。周りが家に囲まれてる公園なら仕方ないと思うだろ。「公園じゃボール使えないもんね、道路とか建物と建物の間で遊ぶのも仕方ないね」とはならん。普通は。だから「公園が使えないからそうなる」も変な反論だと思う。反論にもなってない。
「自分たちだって子供の頃人に迷惑かけたんだから」ってよく言うやついるけどそんなの「自分も迷惑かけたし仕方ないよね〜」ってなるわけないだろ。迷惑なもんは迷惑なんだから。なんならそこまでうるさかったんだとしたら自分のときのことを思い出して申し訳なくなるくらいだわ。そんな例の出し方なんて、今店やってる人が万引きにあったとしても「自分も子供の頃万引きしてしまったからなんも言えないよな〜」と同じだろ。その人の背景がどうであろうとダメなものはダメだろ。
ていうかそれで「心が狭い人」扱いされるならそれでいいです。
噂に違わず、そして期待に応える素晴らしい映画だった。その素晴らしさの仕組みを読み解きたい。
ドメインは2つ。ソン・ガンホ演じる父の無職一家とイ・ソンギョン演じる事業家の裕福な家庭の2つ。
クラス図は、裕福な一家の方はシンプルで父・母・娘・息子である。無職一家の方は少し複雑になる。
同じ父・母・娘・息子と構成は同じだが、それぞれが偽のロールを実装し元の素性を隠蔽している。
作品というアプリケーションの中で、この2つのドメイン間でのメッセージのやりとりでストーリーは駆動していく。
最初のイベントはチェ・ウシク演じる無職の息子が友人の代理として、裕福な家庭へ家庭教師の面接を受けにいくところから始まる。すでにこの時点で偽のロールとして継承している。そして、以降芋づる式に無職一家は裕福な家庭に偽のロールを継承しながら組み込まれいてる。いわゆる密結合である。密結合はいろいろと良くないことが起こる。そして映画でも良くないイベントが起こる。
あとは、映画を観てもらうとして、基本的には密結合した2つのドメイン間でのイベントが発火するごとにインシデントが発生しシステムダウンに向かうストーリーと見立てる。
という感じでシンプルに構造を解析すると、映画の中での重要なガジェットに気づく。
それは「臭(にお)い」である。
無職一家のそれぞれの元クラスのさらに親クラス、貧困層に実装されている臭いは偽のロールにも引き継がれ、ところどころでメッセージとして出現する。ただし、出現するだけでイベントは発生しないようにみえる。
言葉や行動など偽のロールで実装した可視化されたメッセージと、根源クラスにある非可視な臭いのメッセージのやりとり。臭いを隠蔽できなかった時点でシステムとして破綻は目に見えてた。
ここで、構造をもう一段掘り下げる。
無職一家の父・母・娘・息子というクラス自体が映画でのロールという偽物である。
つまり、俳優そのもののオブジェクトがあって役になり、作品の中で偽物を演じるという3段階の構造になっている。
多重継承は常に複雑度を増し、予測もしなかったような振る舞いをする時がある。
つまり、作品だけを見ると貧困層と富裕層の悲喜劇に見えるが、それ自体が富裕層の遊びになっているのでは?という視点で、実際少なくないレビューがそれを指摘している。いわく、本当の韓国の貧困を描いてない等の指摘である。
言いたいことはとても分かる。
監督のポン・ジュノの経歴を見ても、普通に大学に行って映画アカデミーに再入学、小説家の祖父をもつという貧困とはあまり近くない。
社会問題を描くときに当事者でないと本質を描けないのかという問題は本当に根深い。
極論すれば、殺人をテーマにするならば人を殺さないといけなくなってしまう。
そして、されに言ってしまえば、当事者が自分たちの問題を作品化する能力があるかどうかという問題と、そういった作品が果たして当事者たちが触れる機会があるかどうかという話になる。
そこまで行くとすべてがゲームになる。
ある社会問題に対して、インテリが作品をつくり富裕層ではないけれど貧困層でもない聴衆が消費し、何とかしないといけないねと言いながら何もしないといういつものパターンである。
パラサイトもそういったアンチパターンの一つかどうかは今の時点では分からない。
パラサイトはノンフィクションではない。とても上手く設計されたフィクションになっていて、アカデミー作品賞が贈られたことにも疑問の余地がない。
二月一日
間もなく、特別展「人、神、自然-ザ・アール・サーニ・コレクションの名品が語る古代世界-」が終了すると気づいたので足を運んだ。自分は美術館に通う習慣を身に着けてから大体十五年が経過しているが、東京国立博物館の東洋館をきちんと観たことはない。いい機会だと思い、東洋館全体をのんびりと回ることにした。
特別展の会場は東洋館の二階にあり、会場そのものは常設展の最初の部分、すなわち中国や西域の仏像のあるあたりを抜けた後にある。特別展の内容そのものは興味深かったが、コレクション全体が雑多なもので構成されているというか、あまりにも時代と地域に幅がありすぎて、どのように展示したらいいのか少し迷っているような印象を受けた。とはいえ、普段はなかなか見られないマヤ文明の仮面などをじっくり見られたし、普段なら絶対しないような比較をする楽しみもあった。知らなかったのだが、グアテマラのほうがメキシコよりも良質の翡翠を産出するらしく、文明の中心地の人々は必死になってそれを求めたり、乏しい材料で何とか良いものを作ろうと苦心したそうである。
で、常設展に関してだが、展示スペースが地下階から五階にまで渡っており、ざっくり見ても三四時間はかかった。その中で特に面白く思われたのは、中国や朝鮮半島の品々だ。というのも、青銅器や勾玉などの作りが、日本とよく似ているところもあればまるで異なっているところもあり、比較する楽しみがあるからだ。また、饕餮の刻まれた祭器の類も自分は好きで、根津美術館に立ち寄った時にはのんびり眺めている。理由はわからないのだが、自分はそれと同じくらいに玉の類にも心惹かれる。西欧の君主たちの王冠も立派だとは思うが、金やダイヤモンドではどうも少しまぶしすぎる。自分が東アジアの文化が好きな人間だからそう感じるのだろうか。
とはいえ、自分が好きなのはどうやら宋代までらしい。どうも、明代になると技巧的になりすぎるというか、色が鮮やかすぎるように感じられる。確かに、黄色などの発色は鮮やかだし、竜のうろこなども実に細かく表現されているのだが、技術的に優れていることが美しさに直結するかどうかは別問題だ。自分としては唐三彩と呼ばれる、赤や緑や土の色を活かした陶器が美しいと思う。ある程度の素朴さがないと、親しみが持てない。台湾で見た、清代の象牙を削って作った細工なども、優れてはいるが技巧をひけらかしすぎているように思われる。
あとは、天然の石を削ってザクロに見立てていたものはよかった。故宮博物館にあった、翡翠だか瑪瑙だかを削って作ったのと同じ発想で、天然の石の色彩や質感を生かしながら表現しているものだ。あとは漆を刻んだものもよい。色がおとなしくて上品だ。
もう一つ興味をひかれたのは、漢代の画像石だ。学生時代の古典の教科書の表紙に出ていたので覚えていたのだが、実物を見たのは初めてである。宴の様子が見て取れるようで、ある者は楽器を弾き、またある者はボードゲームをしている。そのボードゲームの盤は真上から見たように正方形で表現され、遠近法は無視されている。エジプトの絵画と同じで、何が書かれているかがわかりやすいことが、写実性よりも優先されたのだろう。十字軍時代のチェスをする騎士を描いた絵画でも、似たようなことをしていた覚えがある。
そうだ。途中のフロアでは「生誕550年記念 文徴明とその時代」という、また別の企画展をやっていた。自分は書に対しては無知なのだが、解説によれば、文徴明は科挙には合格しなかった人物だそうである。しかし、温厚な人柄と勤勉実直な性格で、やがて文章の校閲に関する職に就いた。九十年の生涯のうち三年しか勤務しなかったが、一流の人々と交わることでその才能を開花させた、とのことだ。人生は仕事だけじゃないよな、という気持ちをまた新たにした。
自分にはそれこそ古代中国の官僚のように、職を退き水墨画に描かれたような山奥に引っ込んで、時折訪れる友人と琴棋書画をたしなむ、みたいな生活にあこがれる傾向があるのだが、ほどほどに働きつつ、土日に友人とボドゲをしたり美術館に足を運んだりするのは、十分近いんじゃないか、って近頃は思っていて、そんな気分になれたのも、今日の気分転換に成功したからなのだろうな、という気がした。
近々、同じ敷地内の法隆寺宝物館にも行こう、と帰りの電車で考えた。あそこのカフェは閉館間際になるとほとんど人がいない穴場なのだ。
二月八日
特別展「出雲と大和」にふらりと向かった。前回の「正倉院の世界」がとてもよかったので、これも行くしかない、と思われたからだ。
おおよそ弥生時代から奈良時代初期にかけての日本美術を楽しめる。特に銅鐸などは、教科書で見たものもたくさんあり、懐かしく思われた。国宝や重要文化財がごろごろとある。三角縁神獣鏡も大量に見ることができた。恥ずかしながら、これが中国の神仙思想と深い関係にあることを知らなかったので(忘れていたので?)、そこに刻まれていたのが解説を読むまで西王母だとはわからなかった。しかし、こう考えると日本への道教的な要素の導入は、かなり早いのだな、と思われた。
他にも多くの埴輪があり、細かく当時の祭祀の様子が説明されていた。これは知らなかったのだが、出雲の周囲では四隅突出型墳丘墓という、独特の形をした古墳が広く分布しているそうである。そういうまじめなことをしかつめらしい顔をしながら読んでいると、自分は振り向く鹿を表現した埴輪に肛門があるのに気づいた。正確には肛門ではないかもしれない。埴輪を焼くうえで必要な技術的な要請から開けられた穴なのかもしれない。しかし、尻に穴が開けられていたのは間違いない。
下世話な話だが、自分は動物の彫刻を見るといつもその性別を確かめたくなる。別に馬の彫刻に陰茎と陰嚢があって何が面白いのかと問われればそれまでなのだが、生真面目な騎馬像にもそういうものがついているかと思うとどことなく愉快な気持ちになる。それから、先週観たような民俗学的なものであっても、素朴な男性像と女性像ではどんな風に性器を表現しているかを確かめるのは、文化ごとの感受性が端的に表現されていてなかなかに面白い。
脱線が続くが、本当に不思議なのは、世界中の文化で男性器と女性器を絵にしたり彫刻にしたりすることが普通に行われているし、中には神々として崇拝することだってあるのに、ギリシア・ローマに由来する彫刻や絵画では、女性器も陰毛もすっかり省かれてしまっていることで、これは男性像の性器も小さいほうがよろしいとされたことと関係しているのだろうか、などと何かと勘ぐってしまうのである。
閑話休題。この特別展で私が一番見たかったのは、七支刀である。「日本書紀」を読んでからぜひ見てみたいと思っていたものだ。刻まれた金の文字はかすかにしか読み取れないが、専門家でも何でもない私が「月十六日丙午」とある部分を読み取れたので楽しかった。だいたい、こういう文字の刻まれたものを見るのは楽しくて、ほんの二つか三つの変体仮名をしっているだけでも、巻物を見る楽しみ増えるというものだ。
ほかにも、神社に奉納された刀剣や武具などもあったが、私はそれらには、古代の品々ほどには心はひかれなかった。あとは、「出雲国風土記」が朗読されているコーナーがあったが、そこでは本当にハ行がファ行で発音されて、チやヅがティやドゥと読まれていた。
帰りは東京駅の田舎そばを食べて帰った。非常に歯ごたえのあるそばだが、定期的に食べたくなる味だ。いつもは昼に寄ることが多いので肉野菜そばか天ぷらそばだけだが、夕飯なので野沢菜と肉味噌れんこんをつけた。ちょっと贅沢をしたので気持ちよく眠れた。
昨年からYouTubeに良質のミステリーが転がっているので、ぜひおススメしたい。
それは、桜を見る会の野党合同ヒアリング動画である。はじめこそ、野党のヌルい進行や追及に、軽いイラつきを覚えるかもしれないが、そこはどうにか慣れてほしい。
面白いのは、官僚の答弁である。ありとあらゆる日本語を駆使して、嘘ではないが事実でもないことを口にして、秘密や真実を隠し通そうとするその様は、まるでミステリー作家が、様々なトリックを以って読者を騙そうとしているのに似ている。
直近のヒアリングでは、「首相事務所が推薦した人物でも招待を断ったケースがある」ことを理由に「首相による推薦者の私物化」を否定しようとしている。しかし、私の見立てはこうだ。
この「招待を断ったケース」、というのは、他省庁の推薦などと重複していたために、首相側の推薦を断った、ということではないだろうかと私は推理する。あるいは、推薦者が作業中に逝去してしまったとか。
野党ヒアリングは一事が万事この調子で、優秀な官僚のみなさんが、まるでミステリー小説の容疑者かのように、どうアリバイを取り繕い、言葉巧みに読者を欺こうとしているのか、非常にエキサイティングに楽しめる。
少し前にはてブでも話題になったが、事実と主観を区別できないしゃべり方を意図的にしてくる、優秀な官僚のみなさん。特に、酒田課長という、この物語でキーとなる登場人物が、私のお気に入りの登場人物である。
酒田課長は、「名簿廃棄操作のログ」について「ログの内容を公開することはセキュリティ上の懸念がある」ことを理由に、ログ調査を頑なに拒んでいる。
野党が「ログを公開するのでなく、ログを内部で確認して、その日時についてのみ報告せよ」と詰めても、一部や全部にかかわらず、ログに関することを公にするのはセキュリティ上の懸念があるとの一点張り。
私は思う。こう詰めてみてはどうかと。「報告は不要。内部で確認するだけでよい」と。そうすれば、ログについて公開される情報はない一方で、ログを確認した官僚はその情報が従前の答弁と異なっていれば、何らかの対応をとる必要があるわけなので。
屁理屈をこれだけこねてくる官僚に対しては、そのロジックを一部受け入れる一方で、同じロジックで相手を責めるのが良いと思う。
二日前から家の周りに猫が居つくようになった。
白黒ぶちでしっぽは半分。完全な成猫ではなく若干幼さが残っている。
非常に人懐っこい。こんなおっさんにもすり寄ってくる。しかし首輪はしていない。しかも去勢されていない(タマタマが付いている)
最初は迷子かなとも思ったが、この年齢まで手術をしていないような飼い主である。
放し飼いであれば家に帰るのだろうが、早朝から夕方過ぎまで家の周りにいる。
捨てたのだろうか。ここは住宅街である。せめて誰かに拾われてくれ、とでも猫に言って。
非常に腹立たしい。
週末、娘とその友達が放っとけないようで抱っこしたり撫でたりしていた。
今日は月曜日。娘が学校に行く前に家の周囲を回ると、猫の鳴き声がした。
そのまま一緒に学校まで着いていったのかもしれない。
そこで誰かに拾われ飼われればそれでいい。
しかしもしまた家に帰ってきたら、餌を食べさせなければならない。
家に入れるための準備もしなければならない。
非常に腹立たしい。
(追記)
交番に遺失物として届け出を出す。万が一、飼い猫である可能性があるので。
その際、飼い主が現れるまで自分が預かること、現れなかったらそのまま自分が飼うことを伝えるつもりだが、預かっている間に去勢手術をしてもいいのだろうか。3か月も待てないので。
手術以前に獣医に連れていって必要な予防接種もしなければならないが問題ないのだろうか。
誰か教えて欲しい。
(追記2)
帰りしなに娘にLINEすると、猫はまだいるとのこと。少なくともこの猫に行く当てがないのは間違いない。
とりあえず猫の餌を買って帰り、猫に食べさせた。
その後動物病院に連れていき、診断した結果、超健康優良児であるとのこと。
ノミもいない、寄生虫もいない、エイズでも白血病でもない、栄養も十分足りている。
獣医師さんの見立てでは、昨年の4月か5月頃に生まれたのではないかとのこと。
家の中で飼われてはいなさそうで、例えば工場とかに住み着いてて餌付けされていて、そこを縄張り争いに負けて追い出されたのではないか、と。
ワクチン接種は落ち着いてからまた。その後に去勢手術になるとのことだった。
動物病院の帰りにとりあえずの猫用品を買い揃え、ペット用ウェットティッシュみたいなので全身を拭いてから家に上げた。その位、汚れは無かった。
追加で餌をやり、最初はうろうろしていたが11時頃には落ち着いてソファで横になった。
トイレが心配だったのでことあるごとにトイレの場所を確認させ、昨夜は自分も一緒にソファで寝て、結果朝方に無事トイレに成功してひと安心。
交番に届けるのはやめとこうと思ってる。
早く名前を決めなければならない。
エロい目で見てるかどうかはすぐにわかるとおっしゃりますし、多分その見立てに間違えはないと思われます。
そして、逆はあまりないように思われますが、同じ現象には心当たりがあります。
それは、キモがっているかどうかです。夜道にしばらく同じ方向を歩いた場合、あるいは閉所に一緒にいた場合、多くの人がこちらを警戒しキモがります。
これは生物的な自然な反応なのでしょうがありませんと反論する人がいそうですが、それをいうと、エロがるのとキモがることにどれだけの差があり、どれだけひとがそれを隠したままでいられるか。そして「(隠すなんて)簡単なことだろ?」と無責任に言ってのけることができるのか?
エロいと思う感情、キモいと思う感情もコントロール下に置けないことでは同等ではないでしょうか。感情を持つ人種性別に貴賎はありませんし、感情の種類にもそうです。笑い、怒り、悲しみ、エロさ、キモさ、全ての感情はひとの持つ感情として平等のはずです。
そしてそれらを努力で抑えることは難しいはずです。「私の方が絶対に努力してる」と言い切れる指標はどこにもないからです。
パイスラ広告を性的でキモいという感情とパイスラ広告を性的でエロいという感情に実は差がないです。不満の声をあげるかどうかだけです。
パイスラ広告を性的でエロいと思う目線がキモいと思う目線がキモいという袋小路に入り込むので今回は何がいいたいのかというとせっかくのエロがキモキモで消えていってもったいないなと。
、という合わせ技だな。自分は「中田さんは御自身のブランディングのために間違いを広めている」という判断した。なので(どうひいき目に見ても良くはなく)悪いことをやっているなあ、と思っている。
この状況をたとえて言えば、遠い異国の地に日本語を教える学校があって、そこの教師が
と教えていたら、さすがに「その説明は無いでしょ」と言いたくなるよね。そのくらいならまだ笑い話で済むかも、だけど、
と教えていたらどうだろう。教わった卒業生が来日したときに交通事故に遭うかもしれない。そうなったとしたら日本語学校の教師は無実と言えるのかな。(日本の道路は右側通行か否か?、そんなこと詳しくは知らないのだけど、たまたま適当に読んだ本に書いてあってそれをうのみにした結果)「いやー知らなかったんです」で済むのかな?そうだとしたら事故に遭った卒業生は気の毒だろうなあ。
こう書くと、
という意見が出てくるのだけど、そもそも教わる生徒側はその対象について「わかってない」のだから、調べようと思ったとしても調べることができないことが多い。だからよく知っている人を教師と見立てて「教わる」わけだよね。自分で調べることができれば教師は不要なので。
だから、教師役の人は「できるだけ正しいことを教える義務」というか、自分が教える知識がどういうことに由来しているのかを説明しないとならないのではないだろうか。これは言いかえれば、
「ここまでは(これこれこういう理由で)正しい(もしくは多数の人に支持されている説)なのだけど、別のこの件についてはまだよくわかってない(とか、教師の自分は個人的にこう考えている)」