はてなキーワード: 経済的とは
AI臭いな。プロンプトとして「あなたは社会学者です。この説に対して意見を述べてください」と入れた上で作ったらこうなったよ
反論が指摘するように、高額納税者が自分たちの税金が公共福祉に使われていないと感じるのは理解できます。しかし、税金の使途に関しては、政府がより透明性を持って情報開示し、税金が適切に使われるようにする責任があります。また、高額納税者が報酬を得ること自体が悪いと主張するわけではありません。ただし、高額納税者が長年の努力や才能によって得た報酬には異論がないものの、経済的権力や格差が存在することも無視できません。
確かに報酬の偏りは、その人の努力や才能によって得られたものである場合もありますが、それだけでは説明しきれません。社会全体の持続可能性や公平性を考慮すると、高額納税者にも適切な税負担が求められます。富の再分配は、底辺の人々の機会を増やし、社会全体の生産性や経済成長を促す役割があります。
したがって、高額納税者が報酬を得ることやその報酬を公共福祉に還元すること自体は問題ではありません。問題は、公平な税制度が適切に実施されているかどうかです。税金が高いという不満に対しては、税金の使途や目的を明確にし、税制度の公平性を確保することで、高額納税者にも納得感を持たせることができるでしょう。
脅しなんだよな。そして語ってる奴がたいていウエメセ。
脅しについては後述。
「俺、この世の仕組み見抜いちゃってるんで」って奴
座禅で肩を棒で殴ったりもする
なんなんあの人たち
省略すると(ここのやつらは原文読まない)アンフェアだと思ったので。
「わたすは知ってる」は、ただ単に楽な暮らし方を知ってるって程度。
「世界の仕組み」がこうだと考えたら楽じゃん? って方向。
前述の若い坊主には「救いたいからこそクドクドと説法」多いが、その親父世代は淡々とやるべきことをやってる感じ。
どうせみんな救われるんだから(経済的なこと考えないでよいなら)布教とかいらなくない? 檀家でギリギリわしの世代はもつし。
↑って思ってるかどうかは知らないけど、逃げ切り体制に入ってるし、本当に信じてるなら下の世代のこと考える必要はない。
そんなのに頼ってどうすんだって感じ
頼るとか頼らないとかじゃなくて、真理なんだから
ほわっとでも信じれば救われるていうのが革命的。
「南無阿弥陀仏」唱えれば万全。
なーんまーいだー
49日なんてないよ、根拠ないじゃん
ないです。死んだ瞬間極楽浄土転生。
これについては知識が(情報が少ない)ないなぁ。馬鹿高い院号とか。
悪いところではあるのかもしれないし、葬式で残されたものが納得するためのものなのかも。&先行投資
なまんだぶなまんだぶ
フランスは夜泣きしても放置らしい。食事も外で買ってきて手の込んだ料理はしないらしいし、経済的事情なんかより、こういう日本で言う手抜きが当たり前とかそういうのが出生率に寄与していそうな気はする。
育休中の妻が対応してくれるけど泣くとおれも起きるから常に寝不足
リモート勤務だから流石に家事は全部やってるけど妻がいい加減限界を迎えてる
2人目以降を作らない(作れない)のは経済的な事情が原因とは聞くけどそれ本当?
うちはそれなりにお金持ってる夫婦だけど、まず疲れ果ててセックスの話にすらならないし
次は幼児を育てながらあの新生児を育てるの?って感じになってる
一時保育とかベビーシッターはたまにだったらお願いできるけど
いや本当に世の中の家庭はどうやって育ててるの?
リモートの旦那がいて1人しか育ててないの限界なのにワンオペの奥さんどうしてんの?
なんで2人目作れるの?記憶なくしちゃったの?
素直にすごいし真面目に謎なんだよな
わかり手こと小山晃弘も、白饅頭も、弱者男性のことを収入・容姿・コミュ力・モテなどが不足した社会的弱者ととらえてきた。
そしてその層の生きづらさと鬱屈の責任を、弱者男性と対をなす「強者男性」ではなく、「弱者男性を相手にしない女性」に結びつけてきた。
声なきマイノリティのあり方に耳を傾けるテイを取りつつ、彼らの声を聞き届けないのはあくまで「女」だということにしていた。
こういう風に「女性」に矛先を向ける議論は、多くの弱者男性当事者にとって心地よい、受け入れやすい議論だった。
自分を弱者男性だと考える人が「強者男性」の格差について正面から向かい合ったら、そこには自責の余地が生まれる。
自分は「彼らより」収入が少ない。容姿が劣る。コミュ力がない。なぜそうなのか。どうすればいいのか。
考えても解決するわけではない「劣り」について考え続けるのは、緩慢な自傷行為だ。
それとは真逆に、「女性」に矛先を向ける議論は、他責の矛先を提供してくれる。
弱者男性が救われないのは、彼らの弱さに配慮しない社会、彼らの弱さを受け入れない女が悪いから。
そこでは「弱さ」は所与の前提になり、ことさらに「なぜ」を問われるべき課題ではなくなる。
ところが去年、白饅頭が医療従事者を社会的強者として叩いて炎上した。
https://togetter.com/li/1926636
今回、わかり手が大谷の容姿をネオテニーだ中性的だとdisり、白饅頭がそれを擁護して炎上した。
https://togetter.com/li/2098940
どちらも、これまで彼らがあえて焦点化してこなかった「強者男性」自体を直接射程に入れた議論だ。
「医者はもっと強者であることを自覚して(医療負荷について悲鳴を上げたりせず)わきまえろ」「大谷の顔は小綺麗で知的でブルジョワっぽいからキモい」「SAPIXっぽい」「高学歴エリート層と同じ」「実家が経済的に豊かであり、幼いころから潤沢な英才教育を受けていたアマチュア・エリート出身者」「メス化」…。
ここで語られていることが事実かどうかはさておき(たぶんだいぶ事実と違う)、
それも、「強者男性にはもっと旧来のマスキュリニティを発揮してほしい」という、倒錯した批判だ。
(「白饅頭の言う「かわいそうランキング」で下位に位置する強者=医療従事者の訴えが世間に聞き届けられるのはおかしい」と言いかえてもいい)
彼らがこれまで語ってきた世界観と、世間で活躍する「強者男性」たちの実像のズレが露呈しつつある。
だから彼らは、そうした現実をファンタジーの方に合わせようとして、
彼らの先入観と違う振る舞いをする「強者男性」を批判している。
彼らは強者男性にいつまでも「古き良き強者男性」らしくしていてほしい。
雄々しく、力強く、堂々としていて、だからこそ思うままに「メス」を手に入れられる、
そうした軸において弱者男性がかなわない「アルファオス」であってほしいのだ。
この数年プチバズり続けているタワマン文学(窓際三等兵など)は、
こういう「おとぎ話のような強者男性」像に対するアンチテーゼにもなっている。
そこで語られるのは、端的に言えば、教育・就職先・文化資本・社会階級をめぐる堂々巡りの自意識だ。
そこでの「成功者」は、マッチョでもないしモテるわけでもないしコミュ力が高いわけでもない。
単純に「親が金持ちで人脈があってSAPIXや鉄緑会に入って良い大学を出て良い会社に入って
高収入を得て美しい妻を娶って生まれた自分より目鼻立ちの整った子を自分以上のレールに乗せられる男」が
人生の勝ち組であり、その中でも新参者や中途半端な位置づけの人間は「さらに上」への嫉妬に身を灼かれる。
この世界観の中でも女性は相変わらず「トロフィー」ではあるが、
トロフィーを手に入れられる人間とそうでない人間の差はほとんど宿命的な筆致で描かれ、
そこにはもはや「女性は弱者男性に目を向けるべき」などという主張が介在する余地は全くない。
一億総中流と言われた社会が解体しきって、日本でもペアレントクラシーによる
階級再生産のサイクルが強固に確立したことを苦々しく再確認する物語だとも言える。
わかり手や白饅頭らは大谷批判の中でこうした論点を取り込もうとして、失敗してしまった。
その白饅頭自身が今やnoteで稼いだ金で買ったタワマンに住んでる勝ち組だから、という皮肉な現実はさておいても、
そもそもこうした露骨な階級社会論は、これまでの「女性が悪い」系の弱者男性論とすこぶる相性が悪いからだ。
タワマン文学時代の強者男性とは、すなわち階級的強者であり、自らがずっと勝ち続けるための盤石の基盤を整えた勝ち組たちだ。
そうしたペアレントクラシーによる階級の固定化を緩和するなら、再分配すべきは、女ではなくカネと教育だ。
でも、こんな野党みたいな話をして、弱者男性を自認する当事者が「そうだそうだ」と溜飲を下げるだろうか。
そんなわけがない。「いま」弱者男性である当事者が、カネと教育の再分配によって階層を浮かび上がれるはずがない。
語ってはいけない真実、語れば絶望しかもたらさない真実というものがある。
九州の片田舎から大学入学を機に上京。仕事は順調。堅実な生活しているため経済的にとても余裕がある。
結婚して家庭を作り、子どもを産み育てることこそ幸せ、それ以外の生き方に価値を見出さない田舎の両親とは
疎遠になった。仲が悪いわけではないが、帰省するたびに「なぜ結婚しないのか?歳をとって一人はさびしいぞ」
と言われ続けてきた。カミングアウトする勇気もなく、カミングアウトすることで両親を思い悩ませることもないと
ごまかしながらここまできた。田舎では独り者は変わり者。田舎の人間関係をすべて捨ててずっと一人で生きてきた。
最近歳の離れた彼と知り合った。20代半ばの彼はワーキングプア。毎日夜勤で働きづめ。海外から技能実習生として来日している。
祖国に残した大家族を養うためにひとり日本で働いている。技能実習生という制度についていま議論されているが、まさに使い捨ての調整弁。
そんな彼を金銭的にも支えている。家族と仲が良く、毎日のように国際電話で祖国の親兄弟と話している彼は自分が捨ててしまった
家族の絆を大切にしている。俺が彼に施す行為は単なる自己満足なのか愛なのか?彼が喜ぶことは何でもやってあげたいこの気持は
愛であると信じたい。
経済的理由などで分かれる事になると、後になって後悔するタイプだと思うで、今は現状を受け入れるしか無いと思うぞ。改善は無理。惚れた弱み。
改善する努力はし続けるべきだが、離れるのは無理。
ただしある日突然スイッチが切れたように離れることができるかも知れないし、どう見ても彼氏さん食わず嫌いなので、パチッとはまって働くようになるかもしれない。
ツイッターで知り合った気の合う人に会いに、飛行機乗って数日一緒に過ごして、帰り際、前からずっと考えていた告白をついに実行した。すると派遣の仕事をしていると言っていた彼氏が「実は今まで一度も働いたことがない」と別の意味の告白をしてきた。絶望。数日号泣したが別れを惜しむ涙なのか好きな人が20代半ばでホンモノの無職だったという涙なのかわからない。
やたらLINEの返事が早かったり、毎晩数時間のLINE通話ができてたり、あまりちゃんとした仕事してないんだなとは思っていたがまさかニートだとは思ってなかった。低収入の派遣労働者と就労経験のないニートでは天と地ほどの差がある。見抜けなかった自分も悪かった、人生経験が浅かったからだろうか。わたしは都内の偏差値だいたい70の某国立大学に通う大学生で、恋愛経験も浅い。身の回りに中卒なんているわけもなく、「好きな人が無職」とは考えもしなかった。
その後、「バイト始まるまでもう会わない」とかいろいろ条件をつけて働かせようとしたが、浅はかだった。身の回りにニートがいなかったから、こんなにも働かないものとは知らなかった。彼氏は「面接に落ちることが怖い、バイトが怖い」などと言って、やっとバイトを探して1日行ったかと思ったら2日目の前日に心労で倒れたらしい。まだ彼の人柄が好きで付き合いたかったが、らちがあかないので、倒れてからしばらくしてとりあえず通話でまた告白して付き合うことになった。
精神の病を疑い、お金がないとか親に反対されるとか言うのを数ヶ月何時間も説得してやっと精神科に通わせたが、特に診断は出ず。働けない原因がわかって働けるようになれば、、そうでなくても、あわよくば障害者年金とか出たら、、という淡い希望も崩れ去る。彼氏はただの健康なニートだったらしい。終わってる。
しかも、あっけらかんとして「早く働きなさいよー!」「うるせー!」みたいな話ができるニートならよかったのだが、誇り高い陰気なニートで、自分で「無職」「ニート」「働いてない」という言葉をいちいち「こういう状態」とかお茶を濁して言うし、働けという内容のことを遠回しに遠回しに伝えても、話してる間に何も言葉を発さなくなったり過呼吸?頭痛?で話を続けられなくなったり、とにかく面倒臭い。何かの病気か?とは思うが診断はおりないし治療もできないしどうしようもない。飛行機に乗らないと会えない距離なので一緒に病院にも行けない。自分で臨床心理学を学ぼうとした時期もあったが、重圧でわたしまで病んできたので辞めた。
それでも彼氏の親が太くて生活に困っていなければまだいいのだが、彼氏だけの問題でなく家族も終わっているようで、実家暮らしの彼氏は両親と兄姉と5人で田舎の団地暮らしで60代の母、30代40代の兄姉はみな中卒や小卒(?)無職、一家の収入源は土方で過保護で非常識な頑固オヤジ(指のひび割れをアロンアルファで治す)だ。両親ともに歯なし。母と姉はスマホすら持ってない貧困家庭。これ8050問題ってやつだ初めて見た。家族に就労者という見習うべきロールモデルが少ない上、過保護な親の影響で行動を制限されることもあり、そのせいもあって高校を中退して社会からドロップアウトしたらしい。わたしが家族ごとどうにかしようとした時期もあったが、顔も見たことないジジババ一家をわたしがどうこうできるわけもないのでそれも諦めた。あと母親はネトゲで知り合った精神障害者と不倫してる。
一方でわたしも親は同じ大学の同級生の中では裕福ではないし、家賃と(勿論国立大の)学費は親に払ってもらって生活費は奨学金とバイト代から出しているが、進学のために毎月10万以上貯金している。彼氏と会うための交通費3万はその収入の中からわたしが毎回ほぼ全額出す。食事は割り勘かわたしの奢り。対して彼氏に今までもらったものはLINEスタンプや入浴剤。彼氏は貧乏で服装や持ち物があまりにボロボロなので見かねてブランドものをプレゼントしたりして、今は金銭面から2ヶ月に1度という頻度でしか会えない。遠距離恋愛に無職を掛け算すると大変だ。わたしは進学予定なのでしばらく就職はしない、あと5年もすればわたしも働いてるだろうし、大学での成績もいいし、国内トップレベルの高学歴なら多分将来安泰だろうから、数年このまま耐えれば働かない彼氏とも金銭的に困らないで生活はできそうだが、それだけ自分のメンタルがもつのか、耐える価値があるのかもわからない。しかも、彼氏は過保護な親に東京に来ることを否定されて怒鳴られてかなり参っていた。25の息子が家を出るからって怒鳴る親も親で、それでそんなに凹む息子も息子だ。
そんな中卒25歳8年間無職実家暮らし貧困遠距離彼氏だが、それでもわたしは彼のソフト面が好きである。ノリが合うし話も合ってとても優しくて、わたしより遥かに気遣いができてわたしのことが好きで、わたしの家にいる時進んで家事をしてくれて一途で毎日かわいいとか好きとか言ってくれる。わたしが将来ATMになりそうだから媚びてる、という様子ではない。(人の心は読めないのでその可能性を完全に否定することはできない)ただハード面が終わりすぎているので、話している時、「好き」とか言ってる時、ハグしてる時、ずっと「でもこの人中卒ニートだよな」と思うと心がどんより重くなる。なんなら逆に快感になってきた。ちなみに顔はかっこよくなくてガリガリで低身長。わたしと付き合うまで童貞。
ただ人生でまだ二人目の彼氏だし、多分探せば他にそうして優しくしてくれる彼氏、しかも働いてる人は、見つかるのだろう。それでもなかなか諦めがつかず未だに付き合っている。正直、けっこう別れたい。でも気がつけば「好き!」とLINEをしている。わたしも終わってる。「無職の彼氏を支える献身的な彼女」みたいな幻想に浸って自己満足しているのかもしれない。終わってる。助けて。結論、助けてほしい。1日しか働いたことなくてそれすらトラウマになってる、終わってる男を働かせる方法か、あるいは終わってる彼氏への未練を断ち切る方法を知ってる人がいれば教えてください。てかわたしを叱ってください。いや叱らないで慰めてください。年上の無職相手にずっと気を遣って説得して慰めて、金も払って、疲れた。せめてマイル貯めようかな。
(追記)
いろいろご意見、アドバイスや忠告などありがとうございます。おかげで、多少は頭と心の整理がつきます。将来の展望について色々な可能性を視野に入れつつ、やっぱりとりあえず解決策を模索しながら関係性は継続します。
子供は産みたくないので産む予定や願望はないです。結婚願望もなかったです。でも彼氏と出会ってから結婚もアリかもとなってきました(勿論わたしがクッソ働いて極太収入源になって養う前提で)。
ちなみにわたしの属性を付け加えると、東大生で、特別性格が悪いということはなくて、また特別デブスというわけでもないと思います。同性異性関わらずリアルにもネットにも友達がいて、身体は健康で155cm/40kgです。ありがたいことに同性にも異性にも容姿を褒められることがあります。高校までは恋愛に興味がなくて、大学生になって初めて彼氏ができた陰キャオタクです。(初めてできた彼氏は同じ東大生で優秀でタイプだったけど、ポケモンに興奮する性癖を隠さないので引いちゃって別れました。)サークルもバイトも勉強もそこそこで頑張っていて、都内のボロいけど大学に近いワンルームに住んで毎日自炊して節約するような、タンスの中はSHEINとGRLとGUばかりみたいな、経済的にもごく平凡な大学生だと思います。親には彼氏の存在自体隠してます(上記のような事情を言えるわけないので)。彼氏がわたしの一人暮らしの家で居候するとしたら、親に隠し通さなければいけないのでちょっと苦労しそうです。
・予期せぬ出費や経済的な困難
私と『誰も知らない』に関する最悪な映画体験について、書き残しておきたい。書きやすい文体として饒舌体としているが、誰が読んだって読まなくたっていい。ちなみにオチはない。ただただ、最悪だった、という話。
2004年公開、是枝裕和監督が脚本製作総指揮を行い、主演を務めた当時14歳の柳楽優弥がカンヌ国際映画祭の最優秀主演男優賞を受賞した作品である。『万引き家族』が話題になった際に取り上げられた作品でもあるため、耳にしたことのある人は多いのではないだろうか。
本作は1988年の巣鴨子供置き去り事件という、母親が4人の子供を家に置き去りにした事件を題材とした、いわゆる社会問題系の映画だ。
私はこの作品を、他の誰もこんなクソ最悪なシチュエーションでは観てはいないだろう、というシチュエーションで観た。
平たく言えば私はこの映画を、家出していた母親が半年ほど経って帰ってきた少し後に、その母親に連れられて映画館で観た。
私の両親は二人ともよく言えば自由なタイプで、悪く言えばたぶんあまり常識がない。私が十歳に満たない頃にどっちの不倫が原因だか知らないが、あれこれとあった結果、母親は携帯をはじめ何もかもを置いて家を出ていった。こちらから連絡はつかず時折一方的な電話があるのみで半年が経ち、ある日、「今から帰る」という電話を寄越してへらへら笑いながら帰ってきた。私が泣きわめいてもへらへらと笑うだけで説明も言い訳も謝罪も一切なかった、それが我が母である。
その母は、それまで映画館で映画などほとんど観ない人間であったのに、帰宅から少し後に私を連れて公開されたばかりの『誰も知らない』を観た。あるいは、家出前は父がうるさく自由に趣味の時間が取れなかったのかもしれないが、私には知る由もない話だ。
『誰も知らない』のストーリーについてはWikipediaなどにかなり詳細に載っているので、こちらでは特に記さない。とりあえず適当なサイトでストーリーを読んでほしい。そして薄っすらとでも察してほしい。私の体験がどれだけ最悪だったかを。
もう20年近くも前のことなのに、一度しか観ていないのに、今でも映画の色々なシーンを思い出してしまう。けれど自分がどう思ったのかは、少ししか覚えていない。世間でも評価されている通り子供たちの演技が妙にリアルで、子供ながらに、ああ、私はもう助からないのだな、というようなことを思った記憶だけがある。
そうして、映画を観た後、映画の中の母親と同じように私の母は再度家を出ていき、幸せそうな別の家庭を持った。母の映画の感想がどうだったのかは、聞きたくもないし知りたくもないし、映画を見たあと母は何も言わなかった。
映画を観ていて良かったのかもしれない、と今となっては思う。今の私はごくごくまともな、この不景気の世では少し恵まれているくらいの生活を送れていて、このまともな生活を手に入れるためには、他の子供たちよりも別ベクトルの頑張らなければいけないことが多かったように思う。頑張ることができたのは、もしかしたらこの最悪な映画体験があったおかげかもしれない。一切関係していない可能性も十分にあるが。
あのとき私は救われたかった。映画の中では子供たちは誰にも助けられず、子供たちは誰にも知られないまま生きていく最後が描かれていて、私はそうはなりたくなかった。私はまともになりたいと望んで、結果的にまともになることができた。
そうは思うものの、あの映画の意義はなんだったんだろうかと今でも考えることがある。世界は変わったんだろうか。『誰も知らない』ものを、知る人は一人でも増えたんだろうか。
少なくとも2010年代前半、毒親という言葉の一次ブームだろうか。あのころ学生だった私は、家の不満を少しでも漏らそうものなら肉親にも他人にも窘められた。乱暴な言葉は使わず、起きていることだけを訴えても、親にも事情があるのだと黙らされた。大人になり、経済的に完全に自立した今になって振り返っても、私の両親の言動は著しく大人としての責任感と良識を欠いたものだったと思うが、私が悪かったのだろうか。そして今は少しでも、子供を取り巻く環境は変わっているのだろうか。
なんのためにあの地獄は模倣されたのか。誰も知らない子供たちのことを誰かに伝えて、何か変わったのか。私はどうすればよかったのか。少なくとも今の私は、恵まれない子供がいると分かっていても何も行動には移せない。今でも考えてしまう。子供はあの映画を観てどう思えばいいのかと、監督に聞いてみたい。そもそも想定されていない観客なのだろうけど。
ちなみに母親が別で持った家庭はまた十年足らずで終わったので、あの映画の母親もどのみち幸せにはならなかったのだろうなと勝手に思っている。
それでも、今でも思い出す。映画の中の母親が、知らない家の軒先で知らない家族の“母親”をしている姿を。
ちなみに主題の都合上母親ばかり悪し様に書いているが、父親も負けず劣らずだったことには留意されたい。というかまあ、映画と同様に子供にとっては『実行犯ではなかった』というだけの話。
まあ妻が逃げた後は普通に子供を虐待し始めるタイプだったので、映画以降は紛れもない実行犯だったのだが。これが話のオチといえばオチになるか。
思ったより反応がついてちょっと驚いた。内容が内容なので、てっきり誰も関心は持たないだろうと思ってたから。
ちょこちょこコメントをもらったので追記すると、あくまで私の意見としては「こんな映画を撮りやがって」という話ではない。映画を批判するコメントも肯定するコメントも否定はしないが。難しい題材だから、人によって意見が違うのは当然だと思う。
ただ、恐らくあのときの私が観るべきものではなかったし、私には意義が分からなかった、という話。きっと意義が分かる人もいるんだろう。
言いたいことが膨らみすぎて霞んでしまったけれど、記事のメインの意図は言うなれば「新車の納品日がクソ暴風雨で最悪だったので、日記を書いておこうと思う。あと痛ましい愛車の写真も載せておく」みたいな話だったんだ。タイミングが悪すぎるにも程度ってものがあっただろ、って。
同情はありがたく受け取るし、笑う人は笑ってくれればいいし、正直なところ言及の“4DX超え”はかなり笑いのセンスがいいと思う。その程度の話だと思ってほしい。
とりあえずボランティアから始めてみたらいいんじゃない?(特に子供やたくさんの人と接するタイプのやつ) 経済的な役には立たないけど
コロナが流行り始めた頃、30代以下は直接的にコロナで亡くなる人より、経済的理由で間接的にコロナに殺される人のが多くなるんだろうなと思った。
コロナ禍から3年で漸く5類以降となろうとしてる今、実際のところどうなのだろう?
個人的な所感では、コロナで「無理しない」方が善という価値観が広がって、むしろ労働環境がましになって生きやすくなったのでは?と思う。
体調不良で無理に出勤する方が仕事にとっても悪影響、ステイホーム推奨、接待や会食も控えようという新しい生活スタイルに社会全体がシフトして、
同時にハラスメントへの対応や心理的安全性の確保も浸透した気がする。
観光業や飲食業など打撃を受けた業界ももちろん多いだろうが、案外コロナのおかげで生きやすく働きやすくなった人も多いんじゃないか?
以下のくだりが、とても印象的だった。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。
自分だけが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。
ただ、被害者という言葉で共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災を経験したひとと、東日本大震災を経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験の共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの。
多分、増田は上記の言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。
ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマの性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北のもっとも大きな漁港のひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社と生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。
しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。
他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年の津波の前から漁港で生計を営んでいた。1933年の津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所で人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波の記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前、東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。
大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人の末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家筋からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉で自身のつらみを含ませて表現したのだった。
父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情。
個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。
たとえ、誰と震災の経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。
震災を経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波の破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。
こうしたファミリーヒストリーな視点でそれぞれの思いがある一方で、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
という上司の言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロな視点での気づきをもたらすのも災害だ。
そして、それが何かの理由で、自分自身のファミリーヒストリーや神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分のある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマのなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。
実をいうと、よりマクロな視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性が被害を増幅させている、という視点を最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。
1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理の文脈で救援対象として、比較的ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市の社会構造の脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年の震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災が自分が仕事として防災の世界に入るきっかけを作った。
神戸の都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入、低所得層が脆弱な埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀の鉄道の時代に入ると、阪神間の交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地に住宅地を建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代、都市の生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸の産業のシンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者、低所得者ばかりとなった(インナーシティの形成)。
これに対して1980年代、神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済の再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設、物流機能強化のための明石大橋建設、最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。
その一方、社会の脆弱層への支援、行政による市街地の再生は後手に回っていた。
オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域、長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地(長田区のスラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったかは番町地区で検索をしてほしい。
このような経済格差や脆弱性が生み出された、マクロな構造変動のなかで襲ったのが1995年の大地震であり、被害が社会経済的に脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。
社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害が高齢者、低所得者に集中したのは、ある意味、歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロな政治的・経済的な動向と切り離せないということだ。
そして、このような格差や脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコとシリアの大地震でも、当てはめることができる。
このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつのきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。
パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。
また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロな特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっとも重要なエントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。
だから、トルコとシリアで現在進行形の震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロな視点で、特定の家族や地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGOや支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係でSNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権が物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分が支援したお金が支援先の一家族あたりの支援額(しかも第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。
そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。
というのは、居酒屋のトイレの洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。
災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。
性的消費や性的搾取は定義が先にある言葉ではなくて現象が先にある言葉だからな
現在女性が社会的ミームや広告やメディアや文化風俗その他、性的選択や性的自由を軽視される人権軽視を受けているもの
どこからがセクハラで何がセクハラじゃないのか?どこからがパワハラで何がパワハラじゃないのか?どこからがイジメで何がイジメじゃないのか?的な
主体性や人格を置き去りにして女体や性シンボルとして記号化が行われてる状況とでもいうのか
本人が望んだプライートな場などでの主体的「性的自由」以外のケース、つまり本人が積極的に望まない場合に性的に扱われないことを当然に期待できる人格的尊厳の毀損のこと
本人に悟られないようエロい目で内心見てしまうのは「人を性的に扱う」ではないが、言動として外に出したら「人を性的に扱う」となる
公共の場や望まない場で「性的客体化」を拒む自由、「記号化」されて女性性を扱われない自由というかな
主体×主体としての性ではなく、女性が一方的に鑑賞・評価・嗜好品等として性的充足のために扱われる客体化されることでの性的自由の侵害のこと
ワイは堅い説明ばかりしちゃうタチなので分かりにくかったらすまん。柔らかい説明は他の人に聞いてくれ。
アンチフェミって低学歴なこと多いので理解力なくて何度説明しても分からんやつばかりで説明に疲れたから面倒くさくなってフェミニストさんはみんな説明しやんのやろ、、多分、、、
「望んでAVにでてる女はいない」という主張の具体的意味は次のものが思いつくな。実際そのフェミニストがどの意味で言ってるかは不明だが。
・AV業者の大人たちが複数人でまだ社会常識のない20歳などの子供を囲って断りにくい雰囲気で契約書にサインさせて、もしくはホストやスカウトとグルでなかば洗脳的にAVに堕としてるパターンのことを指してる
・AVスカウトの常套句「バレない・○○には載らないから出てこない・あとで消せるよ」などを騙してると呼称してるケース
・AV女優に結構いるらしい、軽度知的障害者などを言いくるめているパターンのこと
・女性を経済的に困窮させる経済的差別をしながら生活保護課では風俗を勧める一連の流れを指してる
・自ら望んでAVに出演した女性は保護を必要としないので例外としてそもそも話題の中に入ってないケース
・AV女優や風俗をカジュアル化させて気軽で大したことがないかのような雰囲気作りを随所で行ってることを子供を騙してると呼称してるケース
・風俗斡旋業者の羽振りの良さや借りただけのブランド品等を使った営業を騙してると呼称してるケース
・日本の性教育や人権教育の乏しさからくる権利意識や自尊心の乏しさを指して男(政治家)が認識を捻じ曲げて正常な判断能力を奪ってると呼称してるケース
・AV界隈が性犯罪者やアウトな人物を起用した真っ黒運営も行ってきたにもかかわらず自浄なくそのままそれらを擁してるにも関わらずキラキラプレ芸能界的な皮を被ることを指して騙してると呼ぶケース
・取り返しがつかないリスクの極めて大きな企業対個人の契約であるため、未だ十分な個人の権利保護の法整備がなされてないという意味で使われてるケース
・日本社会全体の性的搾取を大したことない・よく分からないとして軽視した風潮そのものに影響された性的搾取に過剰適応している女性のことをそう呼んでるケース
まだあるかもしれん。かならずしもそのフェミニストさんが合ってるか間違ってるかは分からん。所詮は市位の有志なので女性学の専門家というわけでもないなら全ての人が必ずあってるわけじゃないからな
正しいことを言ってるフェミニストさんだけ支持したらええよ
パッと思いつくのはこんな感じかな。分かりやすいといいのだが。長くてすまんな。フェミニストも個人が毎回一つ一つ説明しきれないのかもな。
まあこれだけで多分一冊の本が出るレベルなんで、詳しく気になったらフェミニズムの本を色々読んでみることをお勧めするよ。これからの社会平和には必要だよ。
弱者男性について書いてもらったらほぼ障害者と同じ扱いでワロタ
弱者男性がインセル(Involuntary Celibates=自発的にセックスができない人たち)となることがあります。彼らは、社会的に孤立しており、女性に対する不満や怒りを募らせ、時には暴力的な言動に出ることがあります。このような問題について、私たちは深刻な関心を持つ必要があります。
弱者男性がインセルになる原因には、様々な要因があります。たとえば、経済的な問題や、心理的な問題、社会的な偏見や差別などが挙げられます。これらの問題が深刻化すると、彼らは自分自身を憎み、他人を攻撃するようになる場合があります。
一方で、弱者男性を取り巻く問題に対しては、社会が対策を講じることが求められます。たとえば、就職や教育、医療などの面での支援や、社会的な偏見や差別をなくすことなどが挙げられます。また、彼らが自分らしく生きられる社会を実現するためには、社会全体が共に取り組むことが必要です。
弱者男性を取り巻く問題に対する対策が不十分な場合、彼らがインセルになることがあることを忘れてはなりません。私たちは、彼らの孤独や苦しみに向き合い、彼らがより豊かな人生を送れるように、支援や理解を示すことが大切なのです。