私と『誰も知らない』に関する最悪な映画体験について、書き残しておきたい。書きやすい文体として饒舌体としているが、誰が読んだって読まなくたっていい。ちなみにオチはない。ただただ、最悪だった、という話。
2004年公開、是枝裕和監督が脚本製作総指揮を行い、主演を務めた当時14歳の柳楽優弥がカンヌ国際映画祭の最優秀主演男優賞を受賞した作品である。『万引き家族』が話題になった際に取り上げられた作品でもあるため、耳にしたことのある人は多いのではないだろうか。
本作は1988年の巣鴨子供置き去り事件という、母親が4人の子供を家に置き去りにした事件を題材とした、いわゆる社会問題系の映画だ。
私はこの作品を、他の誰もこんなクソ最悪なシチュエーションでは観てはいないだろう、というシチュエーションで観た。
平たく言えば私はこの映画を、家出していた母親が半年ほど経って帰ってきた少し後に、その母親に連れられて映画館で観た。
私の両親は二人ともよく言えば自由なタイプで、悪く言えばたぶんあまり常識がない。私が十歳に満たない頃にどっちの不倫が原因だか知らないが、あれこれとあった結果、母親は携帯をはじめ何もかもを置いて家を出ていった。こちらから連絡はつかず時折一方的な電話があるのみで半年が経ち、ある日、「今から帰る」という電話を寄越してへらへら笑いながら帰ってきた。私が泣きわめいてもへらへらと笑うだけで説明も言い訳も謝罪も一切なかった、それが我が母である。
その母は、それまで映画館で映画などほとんど観ない人間であったのに、帰宅から少し後に私を連れて公開されたばかりの『誰も知らない』を観た。あるいは、家出前は父がうるさく自由に趣味の時間が取れなかったのかもしれないが、私には知る由もない話だ。
『誰も知らない』のストーリーについてはWikipediaなどにかなり詳細に載っているので、こちらでは特に記さない。とりあえず適当なサイトでストーリーを読んでほしい。そして薄っすらとでも察してほしい。私の体験がどれだけ最悪だったかを。
もう20年近くも前のことなのに、一度しか観ていないのに、今でも映画の色々なシーンを思い出してしまう。けれど自分がどう思ったのかは、少ししか覚えていない。世間でも評価されている通り子供たちの演技が妙にリアルで、子供ながらに、ああ、私はもう助からないのだな、というようなことを思った記憶だけがある。
そうして、映画を観た後、映画の中の母親と同じように私の母は再度家を出ていき、幸せそうな別の家庭を持った。母の映画の感想がどうだったのかは、聞きたくもないし知りたくもないし、映画を見たあと母は何も言わなかった。
映画を観ていて良かったのかもしれない、と今となっては思う。今の私はごくごくまともな、この不景気の世では少し恵まれているくらいの生活を送れていて、このまともな生活を手に入れるためには、他の子供たちよりも別ベクトルの頑張らなければいけないことが多かったように思う。頑張ることができたのは、もしかしたらこの最悪な映画体験があったおかげかもしれない。一切関係していない可能性も十分にあるが。
あのとき私は救われたかった。映画の中では子供たちは誰にも助けられず、子供たちは誰にも知られないまま生きていく最後が描かれていて、私はそうはなりたくなかった。私はまともになりたいと望んで、結果的にまともになることができた。
そうは思うものの、あの映画の意義はなんだったんだろうかと今でも考えることがある。世界は変わったんだろうか。『誰も知らない』ものを、知る人は一人でも増えたんだろうか。
少なくとも2010年代前半、毒親という言葉の一次ブームだろうか。あのころ学生だった私は、家の不満を少しでも漏らそうものなら肉親にも他人にも窘められた。乱暴な言葉は使わず、起きていることだけを訴えても、親にも事情があるのだと黙らされた。大人になり、経済的に完全に自立した今になって振り返っても、私の両親の言動は著しく大人としての責任感と良識を欠いたものだったと思うが、私が悪かったのだろうか。そして今は少しでも、子供を取り巻く環境は変わっているのだろうか。
なんのためにあの地獄は模倣されたのか。誰も知らない子供たちのことを誰かに伝えて、何か変わったのか。私はどうすればよかったのか。少なくとも今の私は、恵まれない子供がいると分かっていても何も行動には移せない。今でも考えてしまう。子供はあの映画を観てどう思えばいいのかと、監督に聞いてみたい。そもそも想定されていない観客なのだろうけど。
ちなみに母親が別で持った家庭はまた十年足らずで終わったので、あの映画の母親もどのみち幸せにはならなかったのだろうなと勝手に思っている。
それでも、今でも思い出す。映画の中の母親が、知らない家の軒先で知らない家族の“母親”をしている姿を。
ちなみに主題の都合上母親ばかり悪し様に書いているが、父親も負けず劣らずだったことには留意されたい。というかまあ、映画と同様に子供にとっては『実行犯ではなかった』というだけの話。
まあ妻が逃げた後は普通に子供を虐待し始めるタイプだったので、映画以降は紛れもない実行犯だったのだが。これが話のオチといえばオチになるか。
思ったより反応がついてちょっと驚いた。内容が内容なので、てっきり誰も関心は持たないだろうと思ってたから。
ちょこちょこコメントをもらったので追記すると、あくまで私の意見としては「こんな映画を撮りやがって」という話ではない。映画を批判するコメントも肯定するコメントも否定はしないが。難しい題材だから、人によって意見が違うのは当然だと思う。
ただ、恐らくあのときの私が観るべきものではなかったし、私には意義が分からなかった、という話。きっと意義が分かる人もいるんだろう。
言いたいことが膨らみすぎて霞んでしまったけれど、記事のメインの意図は言うなれば「新車の納品日がクソ暴風雨で最悪だったので、日記を書いておこうと思う。あと痛ましい愛車の写真も載せておく」みたいな話だったんだ。タイミングが悪すぎるにも程度ってものがあっただろ、って。
同情はありがたく受け取るし、笑う人は笑ってくれればいいし、正直なところ言及の“4DX超え”はかなり笑いのセンスがいいと思う。その程度の話だと思ってほしい。
4DX超えてる