はてなキーワード: 経済的負担とは
身近な発達障害者と左利きを見ると、左利きも人知れず生活に困難を強いられています。英語で障害は困難を意味する difficultyと言います。
なぜ左利きは健常者なんですか?
参考
世の中の製品(道具や機械、楽器など)は、右利き用に設計されているものが多い。これは左利きにとって不便なだけでなく、危険性が高い場合がある。また一般に左利き用の製品は右利き用に比べ割高であり、経済的負担を強いられる。
機械の操作ボタンの多くは(向かって、以下同)右側に配置されている。
エレベーターのボタン、パソコンのテンキーやエンターキー、カメラのシャッターボタンなど、ほとんどが右利きを前提にしている。ただし定員の多いエレベーターは左側にもボタンがある機種もある。
テレビ受像機の電源スイッチや、自動販売機の硬貨投入口は向かって右側にある。
ノートパソコンのマウスの差込み口(USBジャック)、DVDなどの光学ドライブは右側についているものが多い。また有線ネットワークアダプタのコネクタが左側に付いていることが多く、ケーブルを挿すと左側のスペースにはみ出るほか、CPUクーラーの排気口も左側に付いていることが多く、熱気が左側に排出されるためマウスを左側に置きにくい。
マウスを使用する際、メインでクリックする方を左ボタンとしている。(右手の場合に押しやすい人差し指が左ボタン、押しにくい中指が右ボタンに配置される)
電話機の受話器は左手で持つように配置・配線がなされている。右手でダイアル・またはプッシュボタンを操作したり、メモを取ったりするため。
缶コーヒーや缶ジュース等の飲み口(プルタブ)は右手で開けやすいよう、切り口が左奥方向に折れていく構造になっている。
アイロンの電源コードは本体右側から出ている物が多い。左手でアイロンをかけるとコードが邪魔になる。
机に引出しが付く場合は概ね右側にある(ただし学習机では引出し部分が机の左右どちらにも置けるものもある)。
公衆電話ボックスの折れ戸式の扉は、左手では非常に開けにくい構造になっている。
電子レンジやコインロッカーの扉は左開きであるが、これは左手で開けて右手で品物を出し入れするためである。
文字の多くは上から下への縦線と左から右への横線で出来ているが、左から右への横線が左手では書きにくい。これは習字や英語の筆記体で特に問題になる。左利きは紙を右へ傾けて字を書くと横線が左上から右下への斜線になるため書きやすくなるので、多くの左利きが無意識のうちに紙を傾けて書く。また鏡文字を書いてしまう左利きもいる。
横書きで左から右へ文字を書く場合、書いた文字に左手が触れ、乾いていないインクがにじんでしまうことがある。(縦書きやアラビア文字、ヘブライ文字ではその心配はない。)
なお左利きでも右利きと同様にペンの鞘を右手前に倒して(ペン先を左前につきだして)持つ者もおり、その場合は上記の左から右への横線の書きにくさや、横書きの際に乾いていない文字に左手が触れるといった問題が起こりにくく英語の筆記体も普通に書ける。
はさみの噛み合わせはほとんどが右利き用であり、左手では非常に扱いづらい。(刃が噛み合わない。)ただし左利き用や両利き用のはさみも存在する。
片刃である日本剃刀、小刀、和庖丁の多くも右利き用である。また両刃であるカッターナイフも左手で持つとロック部分を手のひらで覆うかたちになるのでしっかりと握ることが出来ない。
缶切りも本来は右手で引く力を利用して開けるが、左手では押し込む操作となる。(近年ではプルトップ式が主流になり、困難は減った。)
錠前、コルクスクリュー、パチンコなどは、右手で回転しやすくなっている。なおスロパチンコにはCRサンダーVという左ハンドルの機種があった[8]。
剣道では利き手に関わらず、右手が柄の鍔側・左手が柄頭を握るように指導される。
まだまだ山のように左利きは社会生活に困難があり発達障害者と同様、社会においてできないことも、右利きより得意なこともあります。人口割合もどちらも15%で日本にはそれぞれ1000万人暮らしています。困難があっても見えにくかったら障害者扱いされないのですか?
数ケ月前に、前の職場の知り合いA子(アラフォー)の結婚式(+披露宴+2次会)に出席した。
招待された時は、事故で手術して退院した直後だったので、「今は経済的に余裕がないから申し訳ないですが…」と正直に断ったのだけど、「(式から2次会まで)どうしても来てほしい...来てくれないと困る…」と言われて出席することにした。
数年間疎遠で、当時でもそんなに仲が良いわけでもなかった自分を招待するということは、A子にもよほどのっぴきならない事情があるということなのだろうと思って。
出席するために仕事も休んだ。
今思えば「まぁ、お祝い事だし、困った時はお互い様だから(しょーがないか)」って、甘くなってたんだと思う。
当時はあまり交流はなかったけど、結婚式に呼んでくれるほど、好意的に思っていてくれたんだって、ちょっと嬉しかったし。
最近、結婚式に出席した他の友人経由で、A子が「最初から(結婚式は)黒字になる計画だった」と、話していたと聞いた。
確かに、当日は食事や引き出物、会場の飾りつけなどはかなり質素だった。
今まで、結婚式は人を呼べば呼ぶほど赤字になると思っていたので、A子の発言は衝撃的だった。
当日は往復の交通費(帰りはタクシー)と、3万円のご祝儀、2次会費用で5万円近くの出費。
正社員から派遣になって、お金なくて~っていつも倹約しているシングルマザーの友人も断り切れずに出席していたから、彼女の感じた経済的負担は私より重かったはずだ。
「このお金があれば、子供においしいものを食べさせてあげられるのに」って、彼女が思ったかどうかは知らないけど。
結婚式(披露宴)って日ごろお世話になっている人への結婚の挨拶を兼ねた恩返しの場だと思っていた。
人を集めれば集めるほど集金できるのが当たり前になって、結婚式だらけになったら、呼ばれる方は破産してしまうよ。
自分たちのやりたいことの為に、ゲストの都合はお構いなし、ゲストへのもてなしも削って、何故そこまでして結婚式がしたかったのだろうか。
いや、ブライダル会社にまんまと乗せられたんじゃないかと思う。
結局、新郎新婦が周囲の人からどう思われようと、ブライダル会社の儲けは変わらなくて、金銭的なしわ寄せはゲストに行ってるわけだから。
夫は本当に何もしないらしい。そればかりか家政の不具合を見つけては「おまえに責任がある」となじる。
奥さん側は朝から晩まで体を動かしっぱなし。いつも疲れた顔をしている。残業が難しいので仕事が進まない。休日に出てくることもある。飲み会とかも難しい。肉体的にも疲労しているが、精神的にもつらいようだ。
風邪などの病気の世話とかはまだマシ。子供が育ってくると、不登校や非行、発達障害などの問題が現れる。このときが大変。夫の非協力的態度、無理解、世間体重視、子供への誤った対応などで、子供の状況が悪化する。特に抑圧的な態度を持っている夫を抱えている人は非常に苦しんでいる。不登校と転校を繰り返す子供を抱えた人、中学校から引きこもって家族に暴力を振るうようになり警察沙汰を繰り返している子供を抱えた人などを知っているが、どちらも夫が非協力的で苦しんでいる。
年の離れた夫を持つ知人
夫が早く退職、家事負担も経済的負担も全て妻が引き受けている。夫は嘱託になり週に数回元の職場に「勤務」、ほかはぶらぶらしているらしい。これまでいろいろ家事を手伝うように工夫をしてきたが、どうにも変化がないらしく、最近はあきらめているそうだ。私は定年後に家事好きになった男性も何人か知っているが、全くだめな人もいるということらしい。
数名の女性から聞く愚痴の中から紹介したが、上記の人たちはいずれも結婚したのを後悔し、離婚を考えている。もちろん事情はいろいろあるので濃淡はあるんだけど。
明治期まで日本人の85%を占めていた農民、漁民にとって貞操観念なんてなかった。
セックスは単なる娯楽であり子を得るためのものであり、恋愛とはまったく別物であり、妊娠とも切り離されていた。だから男も女も村中のみんなと寝たし、父親が誰かすら誰も気にしなかった。
罪悪感なんてまったくない、西洋的概念とは別種のあっけらかんとした奔放な性がつい100年ほど昔まであった。
これは他の娯楽がほとんど存在せず、村の外にも逃げ場がなく、村人は皆信用できる相手だったからこそ成立した文化だが、昔の日本人は性衝動という厄介なものを実にうまくコントロールしていたものだと思う。
もちろん、こうした性文化になった背景には子供が大きな経済的メリットであるという事情があった。子は労働力であり、老後の保障であり資産であった(最悪の場合、売り飛ばせる。間引きも悪いことではなかった)。
現代は少子化が問題になり子供が経済的負担となっているが、これは愛情やら公費負担でどうにかなる問題ではない。これは、子供の経済的価値を再発見できるのかという問題である。
子供は近代西洋が生み出した概念であるが(「子供の誕生」フィリップアリエス)、このような近代的思想の限界点に差し掛かっている今、西洋とはまったく別種の知と性を生きてきた日本人の過去は様々なヒントを与えてくれるように思う。
もう少しで、意味のある言葉を発するかもしれない時分の子を持つ。
かわいい。なにを欲しているかわからない泣き声をあげても、笑顔を見せても。
しかし自分自身には、子孫を残さなければという本能的な感情はなかった。
それでいて収入や環境、親となる自分たちの健康状態といった不安要素があった。
あまつさえ、これから生まれてくる子にとって、明るい将来・未来がある社会だとは思えない。
こうした思いは、今も変わらない。
それでも子を作るのに踏み切ったのは、妻に年齢的な出産のリミットが迫っていたからだ。
妻の希望を叶えられないことも善しとは思えなかった。
作らないでチャレンジしなかったことに後悔させたくない、したくないと思った。
日本死ねという思いには至らず、保育園に預けて共働きできていることも幸運だと思う。
本当にこれでよかったのかという疑問は晴れない。
楽天的にはなれない。
どうにかなるよ、どうにかするんだよ。という人は、どうにかならなかったときの責任を負わないのだ。
だが不安のないレールを敷いてやれたとしても、それが子ども本人にとって幸福であるとは限らないのではないか。
ということを誰にも、妻にも、言えずに、日々仕事と子育てでいっぱいいっぱいになっている。
妻は、二人目も望んでいる。
第二子、第三子をもつなら、あまり間をおかないほうが経済的負担が軽くなる仕組みもある。
だとしてもためらう。
一部のラディカルフェミニストがピルや緊急避妊薬を蛇蝎のように嫌う背景には、「生殖の為に、女は有害な行為を受容させられる」「その過程においてコンドーム装着を受け入れさせることは、男への、女による影なる支配力の行使である」という、「男」へのマウント意識があるのではないかと思う。彼らにとって、生殖は選択不可能な苦行であり、反面、男への影響力を駆使するための手段でもある。そこに、産むことも性を謳歌することも万人に与えられた権利である、という意識はない。
一方、リプロダクティブ・ヘルス・ライツの整備に反対する保守層は、女性が人生に対する主体的な選択を行うことを、「ふしだらである」として忌み嫌うかたちで、その権利を奪おうとする。しかし、性教育の不徹底と、不完全な避妊方法である"コンドーム教"の盲信は、避妊失敗の社会的責任を、男性のみに背負わせる。女を妊娠させたとき、男は責任を取らねばならない。育児・出産によって労働の機会を失う女たちを「養う」ことで、男たちは権力を得る。生殖を巡るパワーゲームを維持するという構図において、彼らの利害は一致する。結果として、リプロダクティブ・ヘルツ・ライツの話題そのものを忌避する社会が完成する。
リプロダクティブ・ヘルツ・ライツを巡る議論においてのみ、本来なら敵同士であるはずの彼らの利害が一致する。この構図は、彼らのプロレスじみた対立が、本質においては「同じ権力構造の内部でマウントを取り合っているに過ぎない」のだ、という事実の証明に他ならない。男性のありとあらゆる性の営みを監視し・支配するラディカル・フェミニズムの主張は、結果として、敗戦と高度成長によって闇に追い遣られた「影なる支配者」としての女の復権に等しい。そして、一部のミソジニーをルーツとする保守主義者は、女性の社会進出を嫌う。育児出産が女の手に占有された世界において、女が労働によって金銭的自由を得てしまえば、男たちはパワーゲームに勝てない。男の欲望を受け入れ癒し、子孫を増やし育む機械である女と、女によって欲望を充足され、労働し、財を得て、社会を富ませる機械である男。どちらが権力を握るべきか。彼らの諍いは、どこまで行っても、同じ地点に収束する。
日本における家制度は、男尊女卑の見掛けを取りながら、男を肯定し、てのひらで転がし、そして扱き使う「女たち」の、影なる支配によって成り立ってきた。そうして労働力と構成員を吸い上げてきたのが、それぞれの時代における「社会」だ。人は社会に帰属し、「世間」の強制力は空気のように蔓延する。保守的な男女観に固執する限り、彼らは、どこまで行っても、彼ら自身を苦しめる抑圧から逃れ得ない。その事実を、このところネットで頻発する「アンチ・フェミニズム」の趨勢は象徴しているように思う。
リプロダクティブ・ヘルス・ライツへの問題提起は、女が生殖への主体性を手にするための運動だ。しかし、同時に、男が「自らの意思で」生殖、もっと言えば異性との利害を伴った関係性に踏み込んでゆくこ権利を得る活動でもある。二者間の合意によってパートナーシップを構築するとき、男は「働かなければ価値のない生き物」ではない。そして、純粋な利害関係に基づくパートナーシップが、男性による労働の社会的価値を損なうことはない。出産・育児と労働を天秤に掛けるとき、労働を選択する女性ばかりではないからだ。
一般に、「金のない男」が若い女と恋愛できないのは何故か。女が打算的だから、男に養われ、楽をしようと意図するから、ではない。現在の日本社会においては、生殖そのもののコストが女性側に一任され、経済的負担は男性の側に強く圧し掛かる。金のない男はその負担を負うことができない、と判断される。それは合理的帰結に過ぎない。
単独で家族を養うに十分な社会的資本を持たない彼らが、現代社会において異性と関係を結ぶためには、ハンデを飛び越えるに足る利害調整力と、自分の社会的な立場を見極める市場観察力、利害の一致する相手を見出し、交渉する主体性と行動力が必要となる。しかし、アンチフェミニズムを標榜する視点において弱者男性の問題が論じられるとき、男女関係における責任問題の現実的側面に目が向けられることはほとんどない。
彼らの世界に、「主体的に選択し、行動し、異性関係を構築する」という選択肢は存在しない。その選択肢を得た個人は、現代社会においてもはや弱者ではないからだ。保守的な男性の世界観においては、「男性としての名誉」も、トロフィーとしての女も、世間に従い、勤労し、地位を獲得することによって、主体なき「社会」によって宛がわれる。しかし、社会全体の資本が不足し、そして、かつて公共財であった女が人権を獲得してしまったこの時代、トロフィーを得るためには、生まれながらのステイタスと弛まぬ努力、そして大いなる運が必要となる。加えて、トロフィーを獲得しても、幸福になれるとは限らない。双方が主体的選択と責任意識を放棄して「規範」によってマウントを取り合う関係性、外的抑圧によって維持された家族関係において、性的抑圧は再生産され続ける。
セックスが「男女の問題」ではなく、「主体的な二者間の問題」であるとき、生殖に関与する両者は、二人の協力者である。
男性側のアクションとしての、コンドームに代表される避妊手段、女性側のアクションとしてのピルやIUDの使用、リスクヘッジとしての緊急避妊薬の存在、性病検査の徹底。生殖に参加する関係性の帰着を見据えた上で適切な手段を選択することで、初めて、両性にとっての「主体的な生殖の選択」は可能となる。この状況下においては、「全てのセックスはレイプである」という命題は否定される。その上で、生殖に前向きな人々が、意思以外の諸要因を理由に断念せざるを得ない状況を減らしてゆくこと、が、理想的な(あくまでも理想的な!)「少子化対策」と呼べる。このことは、シラク三原則が成果を挙げたことによって実証されている。
しかし、この「現実的側面に対して、現実的に議論する」こと、そのものが、世間の一部の人々には(蛇蝎のごとく!)忌避されている。フェミニストを名乗る、ミサンドリーに支配された「女たち」と、家社会、部族社会の論理に連なる男女関係を信望する保守主義者の人々、女によって自らの居場所と財産と名誉を奪われたと盲信する「男たち」。インターネットにおける緊急避妊薬を巡る議論への反応から見て取れる。彼らはひとの良心や想像力をも支配したがるのと並行して、パートナーシップを構築する二者が対話し、尊重し合うことを志向するというごくごく当たり前の幸福を、社会の構成員から取り上げるべきだ、と主張する。生殖の主体的選択が一般化したとき、救われるのは"望まぬ妊娠をさせられた女性たち""中絶を強制される女性たち"だけではない。男らしさ規範による、自尊心の欠損や経済的な搾取に苦しむ男性もまた救われることになるというのに、である。
リプロダクティブ・ヘルス・ライツを巡る議論は忌避され、遠ざけられる。問題提起を行えば、「フェミニスト」からも「保守主義者」からも袋叩きにされる。この風潮は、そのまま、日本におけるフェミニズム・リベラリズムの歪みの象徴であるように思われるのである。
1歳の娘をバギーに乗せ、3歳の娘の手をとりながら、私は横断歩道の前で待っていた。
住宅地にあるバス通り、それなりに交通量は多いが、信号機はない。
朝の通学時間帯には、地域の父母が旗を持って立ち、子どもたちの通学の安全を守っている。
結局、スピードを落とすことなく走り去る自家用車やタクシーを十数台ほど見送った後、やってきたバスが横断歩道の手前に停車してくれた。
3歳の娘は危なっかしく傘を肩に預けながらも笑顔でバスの運転手に手を振り、私は軽く会釈をしながら横断歩道をようやく渡り終えた。
自宅への道を急ぎながら、娘は「みんな、なかなか止まってくれないよね」と、ぽつりと呟いた。
つくづく、この国で子どもを産み育てていくのは大変なことだと思う。
出産費用にはじまり、医療費に教育費はもちろん重くのしかかる。
家族が増えれば住居の広さも必要になり、自炊するにも食材が増えた分だけ、食費の増加は避けられない。
年に一度くらいは遠方の祖父母に子どもと会う機会をつくろうと思えば、交通費もかなりのものだ。
子どもを育てるコストを負担しつつ、自分たちの老後に備える必要もある。
問題は、その原資となる収入だが、今や雇用の安定など私たち20代や30代には望むべくもない。
成熟し、縮小していく社会において、高度成長期のような右肩あがりの成長に伴う給与上昇は考えられない。
となれば、椅子取りゲームで競争に勝ち、立場と給与を力づくで手に入れるしかない。
勝利しなければ、生き残らなければ給与の上昇を見込めないどころか、今の仕事すら失うかもしれない。
そしてその競争に参加するには、子どもの存在は重たい足かせになる。
家に帰って子どもの世話をするために、そして週末には子どもに時間を使うために、働く親たちは必死の思いで自らの仕事を効率化する。
だがそれでも、突発的なトラブルがあり、夜遅い時間に設定される会議があり、そして就業時間後のコミュニケーションが命運を握る社内政治がある。
子どもを持つ親は、子どものいない同僚たちと対等に競争に参加することは難しい。
この国のビジネス社会は、仕事にすべてを捧げ、集中する覚悟と実践を要求する。
この競争は、ブラック企業だろうと、優良企業だろうと、実はさほどの違いはない。
では、夫婦の内の片方が仕事に全力を注ぎ、もう片方が子育てを一手に引き受ける分担をすればいいのだろうか。
私たちの親世代で一般的だったように、企業戦士と専業主婦という分業により、家庭を経営していけばいいだろうか。
答えはノーだ。
なぜなら、私たちの親世代と私たちでは直面しているリスクの大きさが違いすぎるからだ。
かつて、日本企業は滅私奉公を要求するかわりに、少なくとも正社員として働く男性たちの雇用を守ってきた。
そのしわ寄せは、結婚によって退職する若い女性社員や、パートタイム労働者が負っていたが、彼らは主たる生計者ではなかったから、それでも「雇用の安定」というお題目は守られていた。
今は違う。
主たる生計者が期間限定の雇用に甘んじている状況は珍しくない。
正社員ですら、いつ競争に敗れ、仕事を失うかわからない危機感に常にさらされている。
どちらかが仕事を失っても、次の仕事を見つけるまで、家計を支えるためだ。
競争に勝たなければ所得の上昇が望めない社会で、成長し、お金を必要とする子どもたちに応えるためだ。
そのためには、母親である私は急いで仕事復帰しなければならなかった。
数が足りない認可園に入れないリスクに対処するために、先着順の無認可園を徹底的にあたって予約金も支払った。
秋生まれになるように調整したのは、産休明けにシッターを利用して急いで仕事復帰し、認可保育所選考のポイントを加算するためだ。
11月生まれで1月後半からシッター利用で復職、生後半年を待たず0歳で認可保育所に入園できれば、私たち夫婦の収入でも対処できる。
本当は4月や5月頃生まれの方が、0歳入園でもほぼ1歳に近く、子どもとの時間を持つことができるが、それでは約一年も仕事を離れることになり、復職のハードルが高すぎる。夏から翌4月までをシッターで乗り切るのはあまりに経済的負担が大きかったので、断念せざるを得なかった。
結局私は2人の娘を産んだが、仕事を離れていた期間は通算で一年に満たない。
そこまでして復職しても、いわゆるマミートラックからは逃れられないが、それも甘受するしかない。
「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログが話題になったが、ネットで何を叫ぼうと誰も助けてはくれない。
同情の言葉くらいはもらえるかもしれない。数年先には状況が変わるかもしれない。
それでは目の前の子ども、不運にもレールに乗れなかった家庭には手遅れだ。
誰もが自分の生きる場所を守り、しがみつくことに精一杯の世の中で、他者に手を差し伸べる余裕がある者などほとんどいない。
保育園に入れないのも自己責任だと切って捨てられる、それが現実だ。
ちなみに、そこまでして入った保育園も、子どもが体調を崩せば利用できない。
行政が提供する病児保育のサービスはあまりに貧弱で、フルタイムで働く私たちには使いこなせる余地がなかったから、いざという時には高額な病児ベビーシッターサービスも活用している。
そこまでしてでも、母親が正社員という立場を守って働き続けなければ、子どものいる家庭を守ることはできない。
少なくとも私はそう考えている。
母親は一度仕事をやめ、子どもが手を離れる年にまで育ったら、再び仕事を探して働けばいいという識者がいる。
そういう人は、十分な学歴と意欲があり、健康な体を持ち、自分自身以外に面倒を見るべき存在がいない若者ですら、安定した仕事を得ることが難しい社会の現状を知っていて、そんなことを言っているのだろうか。
誰もがいつ仕事を失うかわからない、そして失業した際のセーフティネットがあまりに貧弱なこの国の仕組みを理解していて、言っているのだろうか。
ひとり、あるいは複数の人間を新生児から社会人まで育て上げる責任の重さを、親になったからには背負わなければならない。
それも親になるという選択をしたのは自分たちなのだから、自己責任の範疇である。
費用も、機会も、制度をいかに利用して乗り切るかも、すべて親の才覚にかかっている。
それでも、私は自分たち家族が驚くほど細い綱渡りをしていることを自覚している。
もし娘たちや私たち夫婦の誰か1人にでも何か不慮の事故や病気があれば、この綱渡りを続けられる保証はない。
ここまでは、物質的な話だ。
子どもを育てるには、物理的金銭的に大変な努力が必要なのはもはや否定できない。
次に、親になる者が直面するのは、精神的な困難だ。
公共交通機関に子どもを乗せるなという論争が、日々至る所で巻き起こっている。
冒頭、娘が呟いたように、横断歩道をゆっくりとしか渡れない幼い子どもを連れた親は、道を渡ることすら容易ではない。
必要なしつけはしているつもりだし、公共の場でのふるまい方を教育するのは当然親の務めだと考えている。
それでも、子ども連れでいることで向けられる世間のまなざしに、どうしようもなく辛い思いをすることはある。
一人だったらとくに気にすることもなく車の間をぬって渡ってしまえる道も、子どもが一緒だから、安全を確認するまで辛抱強く待つ。
走り去る車をじっと見つめる娘の澄んだ瞳と、だんだん冷たくなっていく小さな手のひらに、どうしようもない心の痛みを感じながら、私は待つ。
もちろん、指定席を子どもも含めて人数分取っているが、たまたま私たちの近くに乗り合わせたビジネスマン風の男性は、あからさまなため息をつき、はしゃぐ娘たちを見て舌打ちする。
大きな声はださせない、椅子にはきちんと座らせる、そして食べ散らかすような菓子類は与えない。
飲み物はこぼさないようにストローやマグを準備し、それでも万が一に備えてタオルや着替えは常備する。
万全の準備をしているつもりでも、子どもの機嫌が悪くなることがある。
だが、帰省シーズンともなれば、指定席車両のデッキも自由席券の乗客で溢れ返り、苛立つ彼らは泣きじゃくる子どもを抱えて現れた親を睨み付け、ため息をつく。
一体、子を持つ親はどうふるまえばいいのか。
子が公共の場所で泣かず、疲れたとわがままを言わないようになるまでは、外になど出るべきではないのか。
容赦なく投げつけられる批判のまなざしを、せめて子どもが直接こうむることがないよう、親は細心の注意を持って配慮し、矢面に立つ。
自分で選んだ生き方なのだから仕方がない、これも自己責任だと言い聞かせ、今日もぐっと奥歯をかみしめる。
仕事を持ち、愛するひとと結ばれ、子どもをもうけて家庭を築き、社会に参加する。
本当に幸せなことだ。
川の字に並んで眠る夫と娘たちの寝顔を見る時、私は自分の歩んできた道が間違ってはいなかったことを自覚し、そしてたとえようもないほどの幸福感に満たされるのを感じる。
だが同時に、ひどく不安にもなる。
私はこの先も、この幸せを守り続けていけるのだろうか?
家族の健康を守り、仕事を守り、娘たちの未来を保障し、自己責任をまっとうできるだろうか?
身の丈に合わない幸せを追い求め、手にしてしまったのではないかと悩むことがある。
本当は、私のようなごくありふれた個人がまっとうできる責任など、自分ひとりが生き抜くくらいのことなのかもしれない。
仕事に集中し、結婚も出産もしなければ、私がとるべき自己責任の対象は私1人分でよかったはずだ。
ただ、保育園に子どもをいれられなかった親が怒り、子どもの障害とともに生きる親が絶望してしまうこの世の中で、ありふれているはずの家庭を持つ親が何を考えているのかを伝えたかった。
今、この国で子どもを持つということは「自己責任」の範囲を子ども全員にまで広げるということだ。
それでも子どもが欲しいなら、産み育てる責任をまっとうしてほしい。
…ありふれた幸せに憧れているだけなら、残念ながらお勧めできない。
だが、各論では真逆であり、子どもを持つことはリスクであり、ペナルティでしかない。
私たちは誰もが自分の幸せを自由に追求する権利があるが、子どものいる幸せは非常に高価だ。
子どもを持っても、誰も褒めてはくれないし、助けてもくれない。まして見返りなどないし、批判にさらされることが増えると覚悟してほしい。
それでも子どもを持つのは、子どものいる幸せがそのリスクやペナルティを度外視させ、高価さに見合う以上の精神的な充足をもたらしてくれるからだ。
私は正直、覚悟が甘かったから、今でも時々こんな風に心を痛めたり、迷ってしまう。
まだまだだな、と思うばかりである。
第三 被告の答弁
一、請求原因第一項の事実並びに本件府中ゴルフ場がいわゆるメンバー制のゴルフ
場で、その利用料金が一人一回につき会員二五〇円、非会員二、五〇〇円ないし
三、〇〇〇円であることは認めるが、その他の事実関係は知らない。本件娯楽施設
二、本件娯楽施設利用税の徴収は、次に述べるとおり、地方税法及び東京都都税条
(一) 地方税法第七五条第一項各号は、娯楽施設利用税の課税対象施設として、
「(1)舞踏場、(2)ゴルフ場、(3)ぱちんこ場及び射的場、(4)まあじや
ん場及びたまつき場、(5)ボーリング場、(6)前各号に掲げる施設に類する施
設、(7)前各号に掲げる施設以外の娯楽施設で道府県の条例で定めるもの」を挙
げている。ところで、娯楽施設といえば、概念的には、娯楽または射こうを目的と
して公衆に利用させる施設を意味し、施設の利用により客に遊びを楽しませ、又は
客の射こう心をそそるようなものがこれに該当するから、その範囲は広く、その内
容も多種多様であるが、娯楽または射こうを目的とする施設のすべてが娯楽施設利
用税の課税対象施設になると考えるのは行き過ぎであり、そこにはおのずから社会
通念上の限界が存在する。前記(7)の条例で定める課税対象施設に関し、「もつ
ばら青少年の利用するスポーツ性の強い卓球場、スケート場」、「動物園または百
貨店の屋上等に設けられている子供の娯楽施設で射こう心をそそるおそれのないも
の」、[娯楽性の少い天然湖沼のつりぼり類似の施設」、「天然スキー場のスキー
リフトで娯楽機関と認められないもの」などについては課税を差し控えることが適
当である旨の自治庁の課税行政上の指導助言(依命通達)が行なわれているのは、
右のような理由によるものである。しかし、他方、課税対象施設としての適否を考
える場合に、単に娯楽性が微弱であるとか、スポーツ性が強いとかいう点のみを考
慮するのも必らずしも妥当ではないのであつて、娯楽施設利用税は、ゴルフ場、ボ
ーリング場等において、その施設を利用する者の支出行為に担税力を見出して課税
する一種の消費税であるという点に着目すれば、この娯楽施設利用税という税は、
原則的には、娯楽又は射こうを目的とする多種多様の施設のうちで奢侈性の著しい
と思われるもの、すなわち、利用について比較的高額の対価を要するものを対象と
して、その利用行為に課税しようとするものといえるのであるから、課税対象施設
としての適否を判断するにあたつては、単に抽象的に娯楽性の強弱やスポーツ性の
有無を諭ずるだけではなく、その施設の利用にあたつて相当高額の経済的負担を必
要とするものであるかどうか、従つて、利用者の利用上の支出行為に担税力を見出
せるようなものであるかどうかという点についての考慮がなされなければならな
い。
もちろん、ぱちんこ場や射的場のように、主として射こうを目的とする施設は、何
よりもその射こう性のゆえに課税の対象となつているといえるであろうが、この場
合にあつても、その根底には、右に述べたような点についての考慮がなされている
のである。なお、利用について対価を必要としない娯楽施設についても、その利用
行為に課税しないことが既存の同種の課税施設との関係で課税上の負担の均衡を欠
くと認められるときは、そのような施設も課税の対象となるのであるし、課税しな
くても課税上の均衡を破るものではないと認められる場合には、課税の対象としな
地方税法第七五条第一項第二号が娯楽施設利用税の法定課税対象施設として「ゴル
フ場」を掲げたのは、以上のような観点から、それが全国的に所在し、かつ娯楽施
(二) 原告は、右第七五条第一項第二号及び第七八条の二の規定が憲法第一三条
1、スポーツをする権利が憲法第一三条にいう生命、自由及び幸福追求に対する国
民の権利に含まれるものであるかどうかについての論議はしばらく措くとして、ゴ
ルフも一つのルールに従つて行なわれる運動競技であるという一面からみれば、ス
ポーツとしての性格を有しているものであることはいうまでもない。そして、ゴル
フの普及に伴つて、ゴルフ場の利用が漸次大衆化してきていることもまた事実であ
ろう。しかしながら、他面、ゴルフ場の利用については、その入会金及び利用判金
の額からみても、相当高額の対価が必要とされているのが実情であり、利用者もむ
しろ高額所得階層に属する者が大部分であり、少くともその中心を占めているとい
うことは否定できないところであつて国民生活の水準から考えると、現状では、ま
だゴルフ場の利用をスケート場や卓球場の利用と同一に論ずることはできないので
ある。地方税法は、ゴルフが娯楽であるか、スポーツであるかというような点はと
もかくとして、現状においては、ゴルフ場を利用するには相当に高額の経済的負担
を必要としているというゴルフ場利用の実態にかんがみ、それを利用する者の利用
上の支出行為に担税力を認め、娯楽施設利用税を賦課しようとしているにすぎない
のであつて、ゴルフそれ自体を禁止したり、あるいは制限しようとしているもので
ないことはいうまでもない。
原告の主張によると、スポーツをすることに税を課することは担税能力のない者
からスポーツを奪う点において、これを直接制限することと選ぶところがないので
許されないし、一定の施設の利用を必要とするスポーツについては、その施設の利
用に対して税を課することもスポーツに対する間接の制限となるというのである
が、以上述べた点から明らかなように、現実問題として、ゴルフ場を利用するには
相当多額の金銭的負担を余儀なくされ、ある程度の経済的余裕がなければ利用でき
ないという実情から考えれば、それを利用できる者は一応担税力があると認められ
ることになるのであり、娯楽施設利用税は、まさに、そうした点に着目して賦課さ
れているのであるから、賦課によりスポーツに対する直接、間接の制限となるとい
うことは考えられない。もちろん、娯楽施設利用税が賦課されることにより、ゴル
フ場を利用するに際しての負担が幾分増加することにはなるが、それだからといつ
て、ゴルフ場の利用に関しては、娯楽施設利用税が賦課されるために、その結果と
して高額の負担が強いられるというような関係、あるいは課税されるために担税力
のない者のゴルフ場の利用が妨げられているというような関係は認められないので
あつて、娯楽施設利用税の賦課とは関係なく、ゴルフ場の利用についてはもともと
相当高額の負担が必要とされているのであるから、この点についての原告の主張は
まつたく失当であるというはかはない。
因みに、内閲総理大臣の諮問機関である税制調査会は、その第一次答申(昭和三
五年一二月)において、「ゴルフ場の利用については、その実態からみて、相当に
高額の負担がなされていると認められるところであるので、娯楽施設利用税と同種
の税である入場税等との負担をも考慮して定額税率について引上げを行うことが適
当であると考える」旨を答申し、さらに、昭和四一年度の税制改正に関する答申
(昭和四〇年一二月二九日)においても、「ゴルフ場の利用料金の実態にかんが
み、定額によつて課するゴルフ場に係る娯楽施設利用税の標準税率を六〇〇円(現
行四〇〇円)に引き上げることを希望する」旨の答申をしているのであり、このこ
とからみてもゴルフ場の利用に対して課税することが憲法第一三条に違反するもの
でないことは明らかである。
2、次に、憲法第一四条違反の点についていうと、なるほどスケートもゴルフも、
一定の施設を利用して行なわれるスポーツであるという面では類似性が認められる
けれども、それぞれの施設の利用の面についてみると、ゴルフ場利用の実態が前記
のとおりであるのに対し、スケート場は、現状では、もつぱら青少年が利用し、そ
の利用料金も低廉であつて、通常、その利用に際しての支出行為に担税力を見出す
ことは困難である。このように、利用上の負担及び利用階層の点において重要な差
異が認められる以上、このような施設利用の実態の相違が課税行政に反映し、課税
の上でゴルフ場の利用行為がスケート場の利用行為とは異なつた扱いをうけるの
は、むしろ当然のことである。従つて、ゴルフの利用行為に対して娯楽施設利用税
が賦課されるのは、前記のように合理的な根拠にもとづくものであつて、なんら平
(三) 原告は、更に、地方税法第七五条第一項第二号及び第七八条の二の「ゴル
フ場」とは、パブリツク制のゴルフ場のみを指し、本件府中ゴルフ場のようなメン
バー制のゴルフ場を含まないと解すべきであり、少くともメンバー制ゴルフ場の会
員の利用に対しては娯楽施設利用税が課されるべきではないと主張する。
しかし、一般に娯楽施設といえば、利用料金を徴して第三者に利用させることを
目的としているのが通常の場合であるが、娯楽または射こうを目的とする施設を無
償で利用させている場合であつても、課税の均衡維持の面からその利用行為に対し
て課税することができることは、前記(一)に述べたとおりである。もちろん、娯
楽又は射こうを目的とする施設は、それぞれ例えば、ゴルフ場又はたまつき場とし
ての一定の規模(一定の広さ、大きさ、設備等)を有しているものでなければなら
ないのは当然であろうが、その施設が課税の対象となるものかどうかを考えるにつ
いては、それが娯楽施設として一定の規模を有するものであることが客観的に認め
られるものである限り、施設利用が有償であるかどうかということは必ずしも絶対
的な要件とはならないのである。従つて、原告が指摘している社団法人日本クラブ
におけるまあじやん室や東京弁護士会の撞球室の事例も、前記依命通達の趣旨から
考えて、会社、工場等の厚生施設と同種のものと認められる場合には課税しないこ
とが適当であろうし、同種のものと認められない場合には、課税対象施設として、
地方税方第七六条第二項により、その施設の経営者を利用者とみなして課税するこ
とができるのである。
ところで、原告は、メンバー制のゴルフ場の利用は、会員が自己の所属する団体
の経営するゴルフ場を利用する関係であつて、特定の個人または法人がゴルフ場を
設け、営業としてこれを第三者に利用させているバブリツク制のゴルフ場の場合と
は異るというのであるが、その利用の面についてだけ考えると、いずれも第三者の
経営するゴルフ場を利用するという点では同一であつて、単にその利用の形態ある
いは利用者の範囲について相違が認められるにすぎないのである。すなわち、メン
バー制のゴルフ場をその会員が利用する関係は個人の邸宅内の施設(例えばプー
ル、ゴルフ練習施設等)をもつぱらその個人が使用するような関係とは全く異るの
であつて、自分の庭で自分がゴルフ遊びをするということにはならないのである。
そうすると、娯楽施設利用税は、パブリツク制のゴルフ場の利用に対してのみ課
税すべきものであつて、メンバー制のゴルフ場の会員たる資格を有する者の利用行
為に対しては課税すべきではないという原告の主張は、まつたく根拠のないもので
あつて、失当といわざるをえない。
三、以上述べたとおりであつて、府中カントリークラブ(ゴルフ場)は、株式会社
東京スポーツマンクラブが経営し、地方税法第七五条第一項第二号及びそれにもと
づいて定められた東京都都税条例第四八条の一五第一項第二号に規定するゴルフ場
に該当するものであるから、当該ゴルフ場における利用行為については、株主、正
会員、非会員のいずれを問わず、地方税法第七八条の二及びそれにもとづいて定め
られた東京都都税条例第四八条の一七第二項の規定により定額の娯楽施設利用税が
原告が昭和四〇年九月一一日、右ゴルフ場を利用したことに対して、五〇〇円の
娯楽施設利用税を徴収されたのは、右のとおり地方税法及び都税条例の規定にもと
づくものであつて、原告のいうように法律上の原因なくしてなされたものではない
第四 証拠(省略)
この話って女性の上昇婚志向と女性の社会進出の不整合により自縄自縛に陥る(相対的な問題なので絶対的な枠の拡大が出来ない)って話とセットなんだけど、そういう話の大前提が抜けてて、なんでフェミニズムとの摩擦になるか全く説明されてないよねこれ。
ここでまとめられている人が前提としているコンテキストを補足しておきましょうか。そうでないと話が分からない。 ①観測事実 結婚相手に求めるものについて、男女共通のものに加え、女性のみ相手の年収は自分より上であるべきという嗜好を持つ(出典:出生動向基本調査)
② 1より、収入の男女平等が実現されると、高年収の女性ほど自分の求める男性の数が少なくなり恋愛敗者となる(有名高齢フェミニストから実際それを悔悟するような空気も)。同時に貧乏でキモいおっさんもマッチングから外れる
③恋愛敗者となった女性は、いい男の2番目・3番目さんのほうがマシと考えシングルマザーになろうとする。経済的負担を回避するためにシングルマザー福祉を求める。財源はシングルマザー以外、いまり独身男である。④上記方向の結果として、キモくて金のない“すでに負けた”おっさんを、税金経由でイケメン高収入男性の子に貢ぐ社会制度でさらに奴隷化することになる。このシナリオは北欧では現実に観測されている。
「キモくて金のないおっさんを救え」というより、「いい男の二番目さんになれる制度を実現した場合、ただでさえ哀れなキモくて金のないおっさんを税金でさらに痛めつけることになるから、さすがに可哀想すぎる」という話なんですな。ここでまとめられている人たちは、シングルマザー支援は反対だが、高収入女性が貧乏イケメン・フツメンを専業主夫として養うなら問題ないという主張の人たち。
私自身はフェミニズムとの対決なんてものは全く興味なくて「全ての人が幸せになれる福祉の在り方」に興味があってこの界隈のデータと接しているのだけど、データの部分だけ無視されて感情論で「フェミは馬鹿だ」「いや反フェミが馬鹿だ」と罵り合う構図が我慢ならず、データを中心にたくさん書かせていただきました。
子育てによる労力負担を考えると、男女平等と少子化対策、格差問題に対する対処を全て並立するようにするには、キャリアに乗り始めた若い女性が覚悟を決めて低収入男性を専業主夫化するつもりで養う、という答えくらいしかないんですね。これはフェミニスト側の海外事例研究でもあった議論です。
全ての人が幸せになれる選択が取られない場合、ごみ処理場のように輪番で不幸を回して公平性を確保して、それも不可能なら最後の手段として最大多数の最大幸福でケリをつけるのかなあ……と思ってます。
散々書いてるけど私は人権主義の観点からまともに全員の人権を守ろうとするとフェミニズム的な主張が反人権的な結果を生むことがあると書いているだけで、男性側にジェンダーと結びついてかかっていた社会的圧力を女性も分担することで完全なジェンダーの平等が達成されるという、男女平等主義なのでそこはご理解いただきたい
ちまたでは相変わらず「最近の草食系男子は~」なんて言ってるけど、俺らが結婚もできなきゃ恋愛もできないのは当然だろ。
昔はみんな結婚していたっていうけどさ、昔の子供なんて10人生まれれば何人かは死んでたんだろ?
もちろん栄養状態とかもあるけどさ、でも基本的そうやって(たとえ受動的にであれ)環境に適した優秀な種を選別してきたのが人類だろ。
早い話が昔結婚していたような奴らはそういう選別を乗り越えてきたエリートなんだよ。
一方で俺らなんて、むしろ死ぬことも許されないで強引に成長させられてしまったような種だろ。
何も優秀じゃないやつを現在でも殺せとは言わんよ。
むしろ自分も含めて、昔なら死んでしまうか途中でコミュニティから追い出されてしまうやつが生きられる現代は素晴らしいよ。
そういうやつらが増えたからこそ、できたことだってたくさんあると思うよ。
でもだからと言って俺らみたいなのが積極的に種を残した方がいいかっつったらそうじゃないだろ。
俺らはほっといても種を残せるようなやつらみたくは生まれてないんだよ。
片腕を持たずに生まれた子供に、永遠と両腕をそろえることを強要して、それができなければその子を蔑むようなもんだろ。
ほっとけば勝手に死ぬところを無理して生かせたようなもんなんだから、せめて好きに死なせろよ。
っていうか政府はさっさと重婚を認めるか、昔見たくお妾さんを復活させろよ(もちろん男女が逆でも断然OKだ)。
女だって草食系男子なんかの正妻になるよりイケメンの2号になった方がどう考えても嬉しいだろ。
もちろんそうなるとイケメンには経済的負担が大きいから税制上の優遇とか必要になってくるけどさ、別に俺らだってそれでいいよ。
俺らが我慢して税を払えばイケメンと暮らしてる女性が助かるんだろ?
そういうのに幸せを見つけられるのがむしろ俺らの唯一のメリットだろ。
分かったら女はさっさとイケメンにでも抱かれてろよ。
半径5kmで生活しているだとか、仲間、絆という言葉が好きだとか
で、上昇志向がないと
上昇志向ってのは、東京に上京して成功してやるぞ的なものらしい
なんだよそれって話だけど
この話に出てくるひとってなぜか、低学歴低偏差値の子だくさんの人たちだよね
マイルドヤンキーとは何かを語って、カテゴライズするのはいいんだけど、そうじゃない人にも十分当てはまるじゃんって思うわけですよ。
たとえば若者の大学の選択のデータで地元の国立大学を選ぶ人が多くなってるんだよね
早稲田なんかはそれに焦って営業頑張ってるって記事にもなってる
この話では、経済的負担を考慮してなんて話だったりするんだろうけど、もっと別の視点もある
そりゃ今現在も東大は1位だし、そこまで勉強ができたら上京してでも通うだろうけど
1位じゃなきゃダメなんですか的発想だけど、べつにそこまでして追い求める対象としての魅力が薄れてると思うんだよね
バブルのころのなにがなんでも東京みたいな時代ではないってこと
東大じゃなければ地元でいいやくらいにはなってるよ。それが早稲田とか私立は割り食ってる
つまりマイルドヤンキー論は若者論じゃなくて、田舎論じゃなくて
田舎から東京に出てきた俺から見たら、ここ10年の東京の求心力の低下のほうが日本の若者文化論を語る上で重要で、
インターネットの一般への普及によって、テレビ、マスメディアを中心とした中央集権的情報消費が崩れたってことだよ
Jリーグの盛り上がりとか、地方アイドルとか、10年前に比べたらずいぶん地方の文化としての魅力はあがったと思っている。
東京の中でいうと、渋谷が文化発信地として地位が低下してる事とかも書きたいけど、俺の知識じゃどうにもならないので誰か書いてほしい
音楽産業の衰退とともにこの流れがやってきたとおもってる
そんななかで電車男だなんだと秋葉原がメディアに持ち上げられたよね。
あれメディアが持ち上げてやったんだ的な流れあったけど、実際はコンテンツとしてネタがなくて仕方がなく立ったと思う。
かつてテレビにあった渋谷的コンテンツが死にかけて、その穴を埋めようと必死に探したのが秋葉原系コンテンツだったと。
聞くにしても、初音ミクや声優の時代になってる。紅白に水樹奈々が出る時代だ。
渋谷がまだ文化として繋ぎ止めているのは、小規模ライブハウス、クラブくらいか
この分野ではまだまだライバルはいない感じだけど、今後どうなるだろうね。
渋谷の文化的地位氏の低下は中央集権的東京の地位が低下していることを意味していると思うんだよね。
音楽産業はマスメディアありきだから絶対東京じゃなきゃだめだけど、オタク産業って東京じゃなくてもやれるでしょ?(ゲーム会社とかアニメ会社とか、東京以外多いよね)
秋葉原はあくまでも消費地として魅力があるんだろうけど、渋谷のそれとは意味合いが違うよね。池袋で腐女子系ショップが増えたように、消費地だからほかでも良い、秋葉原じゃなければってわけでもない
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で、なんだけど、マイルドヤンキー論を展開しているひとって田舎馬鹿にしてるよね
いろいろなんだろうけど、懐古的というか、かつての東京と田舎を比較してるよね
で、それに従わない人たちをバカにしてる感じ
焦りにも似たなにかだとおもうな
僕の大好きな東京になぜこないの?なぜ憧れないの?東京だぜ!?あの東京にあこがれないなんておかしいでしょ!
みたいな感じをうけるよ
人口減少時代ですから、そうはいっても東京の一人勝ちだと思いますよ
年収200万円台で結婚するという現実 - チョコっとラブ的なにか
ここらへんをぼんやり眺めていて自分語りをちょっとしてみたくなってきたので書いてみる。ちょっと特殊な例だと思うし参考にしてくれる人がもしかしたらいるかなぁという期待を込めて。たぶんこういうことを書くのは最初で最後。特殊な例ゆえ個人特定できる人もいるかもしれませんが、そこはかとなく生暖かく見守ってばらしたりしないでやってください。お願いします。
まぁいわゆるデキ婚なわけですが、ちょっと普通のデキ婚と違ったのは自分自身が子供が生まれても尚まだ法的に結婚できない年齢である17歳だったところでした。子供が出来たころは一応自分は高校生をやっていて(学年的には2年生)、相手は普通に結婚できる年齢の年上でした。まぁ客観的にみると完全にDQNですよねw。いや実際DQNだったんだと思いますが。18歳になったら結婚しようと思っていたのだけれども私の両親から猛反対をうけていたので(子どもを産むこと自体ね)それはかないませんでした。
あと、なんで子供産んでもらうことにしたのという問いは私には愚問なのですよね。個人思想的には中絶反対派なんだと思う。社会的にそうあるべきとまでは思っていないけれども。
収入は高校生の身で当然0だったので子供が出来たことが分かってすぐにバイト先を探して働き始めました。たしか最初のバイトは時給1200円だったんじゃないかな。フルタイムで働いていたけど月収にして20万にも満たない。ボーナスなんかもバイトなので当然なくて年収でいうと200万ぐらいになると思う。ちなみに彼女は結構稼いでるほうだったのですが出産に向けてだんだんと仕事を減らしていくという感じでした。
出産前からわかっていたのだけど、男の子二人の双子でした。出産時の経済的負担は正直しんどかったです。切迫流産の可能性があって彼女は3か月ぐらい入院してしまったのでその入院費用が実際問題払えなかった(30-40万ぐらいじゃなかったかな)。なので彼女の両親から援助をしてもらいました。本当に感謝しています。出産時の費用は双子ということもあり帝王切開だったので保険が効いてなんとか自分で払えました。出産一時金も二人分もらえましたしね。
出産前後から2-3社の転職を繰り返し、正社員にもなり年収でいうと400万弱ぐらいまでに、子供が生まれて半年ぐらいのころにはなってました。そのころにはそんなに経済的に本当に厳しいという感じはしていなかったと思います。が、200万の収入のままだったらどうだったんだろうと思うとちょっと空恐ろしいです。17,8の若造にそれだけの給料を払ってくれていた当時の会社には感謝したいですね。
今現在子供は7歳で小学二年生です。夏休みの自由研究をまだ終わらせていないので、なんとかサポートしてやらないとなぁなんて考える毎日を送っています。ちなみに20歳の誕生日に彼女とは籍を入れたのですが2年弱で離婚(ここはあまり突っ込んでくれるな><)。今は私と子供二人の三人で暮らしています。児童手当と児童育成手当をもらっているのですが児童扶養手当が母子家庭のみ対象なのがなんだかなぁという感じです(いやたぶん所得制限にはひっかかるのですが)。所得制限してるんだから母だろうか父だろうが関係ないだろうと思うのですよねぇ。男性差別なんていってみたり。
別に何がいいたいってことはないんだ。何かを主張したいわけでもない。ただ自分はこうだったよってことを軽く書いてみただけ。未成年の子作りを肯定しているわけでも、200万収入での子作りを肯定しているわけでもないです。ただ、同じような状況にたつことがもしあったときこんなことを書いているやつがいたなぁとちょっと思い出してもらえればそれでいいのです。それだけです。
id:tokoroten999 子供がその年齢でよく親権取れましたね、とマジレス
ん。争いが無かったからですよ。