はてなキーワード: 真摯とは
だんだんどんな記事を書いたら「うんち」がつくかがわかってくる ちょっと愚痴を書いてしばらくしてトラバがついているから見に行ったら「うんち」とだけ書いてあって頬が緩む くると思ってたよと思う これはもう以心伝心、いわば友情じゃないですか
知らねえ奴のクソトラバに適当に返事をしたら、案外真摯なトラバが帰ってきて驚いたりする 誰かの質問に答えたら思いの外感謝されて嬉しかったりする
でもみんな増田なんだよな 俺は誰が誰なのか全くわからない なんだったら一連のトラバツリーの会話の相手の同一性だって常に疑わしい
増田に対して感じてる友情は儚い 吹けばとぶ影みたいなものにすぎない
自分の書いた記事にブックマークコメントがつく それを読んで、ブックマーカーの人柄がだんだんわかってくる 増田とブコメはラリーこそないものの発話とそれへの反応なわけで、こっちとしては同じブクマカからブコメをもらうたびに少し会話したような気分になるわけだ 長くいるにつれて段々この人ならどんな反応しそうっていうのもわかってくるんだ この人となら現実で会っても結構盛り上がれるだろうな、ってくらいの親しみを持つ相手も出てくる
でも俺は増田なんだな ブクマカは増田としての俺を認知していない
逆に増田としてのブクマカをブクマカとしての俺は認知していない
寂しいことだよ 一方的に知り合うだけだ
増田は悲しい
息子は幼い頃からNHKスペシャルの人体、人体Ⅱを録画して繰り返し見るくらい、身体の成り立ちや仕組みに興味を持っている。なので、基本的なことはだいたい理解しているのだと思う。
そんな下地があるからか、月経とそれに伴う身体の不調について説明した時もすんなり理解して、私が月経の間は子どもだけでお風呂に入ってくれるようにもなった。
自分が性の話題はタブーとされた家庭で育ったから、月経を恥ずかしいことでもなんでもない、当たり前の身体の仕組みなんだと息子に伝えられたことは良かったと思ってる。
そんな息子が未だに解けない謎がどうやって卵子と精子が受精するのかということ。子ども向けの図鑑には、受精については説明があっても、セックスについては当然説明が無い。まだ幼稚園の頃から何度も質問されたし、今でもなぜ結婚していないのに子どもができるのか、などと聞いてくる。だいたいのことは理解できているのに、きっとそこだけぼんやりしてるんだろうな。それは知りたくもなるよね。
これまで子どものいろんな質問に真摯に向き合って答えてきたつもりだけど、セックスについては自分の中の抵抗が強すぎる。とりあえず、もう少し大きくなって適切な時期になったら説明するね、と毎回逃げている。
だけど、子どもが真正面から質問してきたことに目を背けてしまったことがずっとひっかかっている。これで良いんだろうか。
当たり前の生の営みをフラットに伝えたいのに、なんでこんなに抵抗を感じてしまうんだろう。結局のところ、私はセックスを恥ずかしく隠すべきことだと考えていて、息子に知られたくないし、想像されたくない。性をタブーにしたくないとは思っていても、ここが自分の限界らしい。
まぁでも、自分が子どもの頃に親からセックスについて真正面から説明されたら嫌だっただろうし気持ち悪く感じてしまっただろうなとも思う。
twitterで同じジャンルのファンと繋がる、つまり相互フォロワーになるという目的で使うタグだ。
だが上位ツイートに出てくるのはほとんどが、神絵師と呼ばれる数千~数万フォロワーを抱える絵描き層だ。
では彼ら彼女らはそのフォロワーのすべてと相互フォロワーであるのか?
否である。
「私と同じくらいのフォロワー数がある、
人気のクリエイターはこの機に繋がってください。
広めてくださいね」。
そういう意味だ。このタグはもはや承認欲求を満たすために使われている。
私もある程度人気な界隈で絵を書いている一人だ。
私は一番最初に友達つくりのためにこのタグを使ってから、もう使っていない。
数千人のフォロワーがいるなら、その人達から友達ができたらいいと思っているからだ。
気になる人は神絵師や神字書きだろうとなかろうと、そもクリエイターでなかろうと、ファンなら誰でも仲良くさせて貰えれば嬉しいからだ。
もっとも、だからみんな私みたいにするべきだと言うつもりはない。
が、このタグやジャンルを承認欲求のために使うのはジャンルにもファンにも失礼だと思う。
でもそれを隠す努力をしてみてほしい。
本人が思ってるより見ててばれてるし、きついです。
自分でもどうかしてると思うのだけど、上司への妄想がとまらない。
上司を慕っています、尊敬しています。それは間違いない。でも、それ以上に、ひわいな妄想をしてしまう。
隣で上司の話を聞いている最中に、ふと上司の足もとを見て、スラックスのしたの肉体を感じると、
コンサートとか行くと、音楽に身をゆだねる感覚ってあるじゃない、
もうなんだろう、だめなんだよ。
ぎゅってされてる感じがしてきて、全身がどろどろになってくる。
あれ、どうしたらいいんだろう。ばれてやしないか。
現実逃避はよそう。検査数も論文数も臨床試験もすべて数字で出ているので数字をみるべきなのは増田だぞ
死者数1点のみにこだわるとしても、死亡率で言えばロクに検査ができていない状態でフィリピンに次いで高いし、
まさかとは思うけど欧米並みに増えない限り、医療関係者もそれ以外の人間も、死んでいいって話じゃないよね?
山梨大学が言ってることは、全文同意だが、抗議したければするべきだ
OECD諸国の中でも最低レベルのPCR実施件数 4)なのだから、尾身氏も認めているように日本の感染者数の実態は知りようがなく、現在の報告水準よりも相当程度高いと見積もられる 2、5)。PCR検査を最低水準にとどめることで、数字に現れる感染者数を低く抑え込むことが、「ほぼ奇跡」なのだとしたら、かつて国際的に問題とされた日本の研究不正と土壌はそっくり同じではないか。感染者数の実態は分からないが、立場の違いを超えたコンセンサスであり、論理的に突き詰めれば、我々が第4報で述べた通り 2)、また尾身氏も認める通り 5)、相当数の陽性患者が見過ごされているのが日本の現状である。
では死亡者数の方はどうか。論理的な帰結は、感染者数の実態が分からない以上、死亡者数も低いPCR検査件数の中で診断できた症例に限られるため、報告されている死亡者数が実数よりも低値とみられることである。これを裏付ける根拠の一つとして、第4報では、国立感染症研究所が公表しているインフルエンザ関連死亡迅速把握システムによるインフルエンザ・肺炎死亡報告の超過死亡に触れた 2)。
インフルエンザの流行はほぼ終息していたにもかかわらず、東京において、2020年の第8週、9週で閾値を超える超過死亡が生じていたことについては第4報で触れたが、その後、第13週まで超過死亡が継続していたことが明らかにされた 7)。また、本システムの調査対象の21大都市のうち、報告のない5都市と、5週もしくは9週までの報告に留まっている6都市の合計11都市を除いた10大都市の報告では、東京のほかに仙台(12週)、熊本(7、9-11週、13週)でも超過死亡が報告されている。新型コロナウイルスによる真の被害規模を示す指標として「超過死亡」が注目されており 8)、さいたま市や京都、大阪など第5週もしくは第9週以降の報告が滞っている感染流行地域の報告をまって真の被害規模を検討することが求められる。
以上示した通り、現在の報告数だけ見て感染者数、死亡者数が低く抑えられていると結論づけるのは早計であり、「ほぼ奇跡」と称している状況自体が幻想にすぎない可能性も高い。それでもなお、「ジャパニーズミラクル」などと持ち上げるのには、「仰ぎ見られるような感染症の専門家が陣頭指揮を執っている」とわざわざ言及することと無関係とは言えまい。WHOのテドロス事務局長が中国寄りと批判されてきたが 9)、WHOも落ちたものである。
(略)
WHOが表明すべきは、欧米と比較するなら「パンパシフィックミラクル」「アジアミラクル」であり、死亡者数で日本を取り立てて持ち上げる根拠は乏しい。加えて図2を参照いただくと認識が変わるだろう。図2は、図1から中国を除き、台湾を加えたものである。他の西太平洋地区の17カ国と比較し、フィリピンと日本の死亡者数の急増が止まっていないことが分かる。日本は、4月11日頃の変曲点以降、右肩上がりで死亡者数が増加し続けている。5月16日時点の人口10万人当たりの死亡者数は、日本が0.57に対し、韓国が0.51、ニュージランドが0.43、オーストラリアが0.39、マレーシアが0.36、中国が0.35、台湾が0.03であり、この時点でも西太平洋地域の中ではフィリピンの0.76に次いで高い水準にある。
(略)
世界中のオープンデータがリアルタイムに入手できる今、取り繕ったり、欺いたりするのには自ずと限界がある。自己正当化に固執せずに、アカデミズムの精神でデータに基づいた建設的な議論を促進することこそ、輝かしい日本を取り戻すために、一層求められている。専門家を称する人々に盲従するのはアカデミズムの欠如と衰退にほかならない。
科学教育研究所の小田垣孝九州大学名誉教授や東京工業大学の小野京右名誉教授など、さまざまな専門家も声を上げ始めた 17、18)。世界の取り組みに真摯に耳を傾け、日本の英知を結集して政府を支援していくことが、死亡者数の推移から第1波の収束も定かでない中、来る第2波、第3波への備えとして最も重要である。
わかりみが深い。
個人的に、女性専用車両論争があれだけヒートアップするのも、確実に「論争が楽しい」が含まれてると思う。
男側からすると、痴漢はクソってのは基本的に自明なんだよな。被害の深刻さとかについて認識の相違はあるかもしれないけど、そりゃそんなことするやつは最低だよなってのは99%以上の男が同意すると思う。
だから痴漢叩きは盛り上がらない。痴漢はクソですねというのは当たり前のことで、男も女もそれに合意してる。「痴漢はクソですね」「そうですね」これでは論争になりようがない。痴漢に擁護できる点なんてないもの。
いっぽう、女性専用車両は揉める。これは痴漢への心情とは独立した問題で、女性専用車両が絶妙な施策だから燃える。
女性専用車両は男性を排除しており、形式的には「公共交通機関が特定の性に基づく排除を認めている」ということになる。いっぽうで、それが痴漢からの避難所として有効に機能していることも事実だろう。実効性はあるが、理念からは良くない点が見つかる。理念と実効性が背反の関係になってしまっているので、人々はどちらを選ぶべきかで引き裂かれることになる。
それでも、「差別ですが実効性はありますね」という(議論の上での)落とし所はありえた。理念派は実効性があることを認め、実効派は差別であることを認める。これなら両者痛み分けで対立にはならない。
ところが「差別ではないです」という主張が実効性を主張する側から出てきてしまったのでさあ大変。差別とはなにか、という神学論争が始まってしまった。こうなるともう、本来の痴漢の問題とはかけ離れた、純粋に議論のための議論が闘わされる土俵ができあがったということだ。
もちろん、理念を重視してそれは差別だと主張する人も、本気で差別を憂えていたり差別に憤りを感じている場合が多いだろう。他の差別事例で差別者側が言っていたようなレトリックを平気で使う女性専用車両賛成派の人というのは遺憾ながらありふれているので、他の差別問題に真摯に取り組んできた人からみるとそんな理屈は容認できないっていう義憤は生まれて当然。
でもそれはそれとして、論争めっちゃ楽しいんだよな。相手の主張のアラを衝き矛盾点を探し比較のために他の事例を引っ張ってくるという知的作業は純粋にそれ自体が楽しい。「こいつの言っていることはムカつくが論理的に正しいことは認めざるを得ない」なんて言われたらもう快楽中枢ドバドバですよ。最高のお褒めの言葉じゃん。敵側にもそれなりの理があるならなおさら。その理をいかにねじ伏せることができるかというゲームはおもしろい。敵の熱量があればあるほどこちらもやる気が湧いてくる。
根底には「いやそれは差別やろ。たとえそれが許しがたい犯罪であったとしても、公的な対策は差別にならんようなやりかたで行われるべきやろ」という憤りがもちろんあるし、「なんでこんなに差別について深く考えてる人がこんな差別的な主張を支持しちゃうのか……」みたいなつらみや悲しみもあったりするんだけど、3割か4割くらいは議論が楽しいからやっているという面があるのは否定できない。
仮に「犬とダニのどちらがペットとして優れているか」だったら、たとえ知的作業が楽しくてもここまでの快感は得られないだろう。どちらも競技としてやっていて、本質的には別にそんなのどーでもいいと思ってるからだ。でも根底に憤りや正義感があればこそ、つまり本質ではどうでもよくないと思っていればこそ、自分が論争に参入する動機もできるし、同じ理由でヒートアップした敵によって自分のやる気が刺激される。お互いのやる気がお互いのやる気を高めあう永久機関かな。
新型コロナウイルスの感染者が100人を超えた。しかしはてブの東京のコロナブコメはどことなく他人事だ。「都知事選がー」とか「日本がー」と、自分ごとにせずどこか人に頼ってる面がある。これは何故だろう。
東京都民(ここでいう「東京都民」は地方出身者で東京在住の人も含む)はどことなく自分の住んでいる街を良くしようと思っていない節がある。北海道でも新型コロナウイルス感染者数が多いが、自分の知り合いの北海道民は「道民の恥」と言って、自分事のように考えていた。東京都民から「東京の恥」という言葉を聞いたことがない。
「まあ田舎者の集まりだから」とか「人が多いから」とかさも環境が悪いからのように言いがちだ。自分が住んでいる街を大切にしないのに地方を平気で腐す。
ロクに新刊チェックもしてないアホはSF読みではありえないし、
いま増田で「アニメが衰退してる〜」とか言ってるアホがいるけど構図は同じ。
そういうアホに乗っかって騒げば騒ぐほど、単にその誤謬を強化して広めるだけになる。
・あるSF編集者が自分の担当したアンソロジー本(『日本SFの臨界点』と『2010年代SF傑作選』)の表紙を掲載し、そのツイートが広くバズった。
・それを見てある読者が twitter で以下のような発言を行い、反響を呼んだ。
「なんでSF小説とかアンソロの表紙って漫画・アニメ絵の女の子ばっかなの?恥ずかしくて持ち歩けないんだけど。自らターゲット狭めてマーケット小さくしてる気がする。(中略)誰も彼も「売れるから」で思考停止している気がしてならない。」
それに対して当該編集者がfusseterで以下のような反論を行った。
・「女の子」に関して
・イラストレーターには『性別を指定しない抽象的なキャラクター像』で発注したもので、『女の子』ではない,
・キャラクター的であることそのものに対する違和感にしても、少なくとも現場ではそういうものにしようという意向ではなかった。
・「恥ずかしい」に関して。
・特に若年層ではキャラ絵が「恥ずかしい」と思う感性はあまりないはず。
・キャラ絵が想像力を狭めるということはなく、むしろ想像力を喚起するもの。
・表紙に対する意見について
・表紙を描くイラストレーターたちにも評判を気にして傷つくなどの感情はあるんだから、そういう人に届く危険を認識したうえでSNSを使え。
・事実として違う(SFマガジンの書評欄に見られる書籍の表紙を引き合いにだして)。
・今回の表紙の意図について
二者間で応答された論点は以下のように要約される。
1.なぜSF小説・アンソロの表紙はキャラ絵の女の子ばかりなのか
1.は事実認識としては適当ではない。ただ、主観的で不正確な感覚でも、その感覚が広範に共有されていればシーンに対する認識としては強度を持つ。
たとえば、読者の記憶に残りやすい「目立つ」コンテンツの表紙にアニメ絵率が高かった(ように思える)場合、多くのユーザーは「表紙にアニメ絵ばかり」という認識を持ち、関係するアクターやシーンの振る舞いもその認識に沿って動いていく可能性がある。
ハヤカワは伊藤計劃の『ハーモニー』『虐殺器官』の文庫化の際に、伊藤計劃作品のアニメ映画でキャラデザを務めたredjuiceを起用した。ちなみに表紙に、ではない。本をすっぽり覆うタイプのオビにイラストを反映させたのだ。実質的には「アニメ絵の表紙になった」とみなされても仕方がないし、事実そのように勘違いしている人も散見される。
シライシユウコのイラストレーションに対するファンダムの記憶は伊藤計劃や百合SFと密接に結びついており、2010年代の「気分」を確実に決定づけていた。
「シライシユウコが表紙を描くこと」は他のイラストレーター(キャラ絵寄りであれそうでないであれ)が担当するより確実にある種の指向性を帯びやすい。
どういう指向性か、と問われるとなかなか言語化しにくいが、このイラストレーターが伊藤計劃の『ハーモニー』の単行本版の表紙を担当したこと、伴名練のデビュー作である『少女禁区』の表紙を担当したこと、ライトノベル作家の短編が多く採られた『ゼロ年代SF傑作選』の表紙も担当し『2010年代SF傑作選』がその「再登板」でもあること、百合SFブームを決定づけた『SFマガジン』の百合SF特集号の表紙も担当していたこと、等々から鑑みて、「百合SF」に代表される近年のSFを代表するイラストレーターとみなされうる、といったところだろうか。
もちろん、シライシユウコは上記以外にも多くのすばらしい仕事を残している。ヤングの『時をとめた少女』など『2010年代SF傑作選』よりも「少女性」が強い絵も描く一方で、円城塔の『エピローグ』(単行本版)やヴァーリイの『逆行の夏』などのようなさほど「少女性」が目立たない絵もある。
そうしたイラストレーターが表紙を担当することで、某評論家のいうように様々な出自、トーンを持つ収録作のイメージを一つのカタにはめることになるのは否めない。それはイラストレーターの罪ではない。
『日本SFの臨界点』に関して言えば、伴名練が編纂するということで『なめらかな世界と、その敵』での「キャラ絵の人物がアップになっている表紙」が文脈的に意識されているのだろう。
『なめらかな世界と、その敵』の収録作はジュブナイル的な色彩を帯びた作品が多く、表紙の選択はかぎりなくマッチしていたと思う。だがその文脈を発表年代も書き手もバラバラなアンソロに持ち込むのは(表紙を決めるのは編集者なので作家ではなく編集部として)作品群を「私物化」、あるいは領土化する行為として糾弾されてもしかたがない。
とはいえ、アンソロジーを編集するのはひとつの創作活動でもある。DJのようなものだ。どんな作品を選ぶか、どんな順番で収録するか、といったことが作品個々の印象や読み味を大きく左右し、「一冊」のイメージを決める。その点で、表紙を「私物化」するのも表現の一部であるかもしれない。増田個人の意識としてはアンソロの表紙もまた(アンソロ自体のコンセプトにもよるが)「私物化」されるべきと考える。
ハヤカワは伴名練という作家に過剰な文脈を背負わせすぎなきらいもあり、それはあまりよろしくないと感じるが、『日本SFの臨界点』は伴名練の作品・批評のひとつとして見なすべきではないか。
アンソロを編纂するということはそのくらい暴力性を孕んだ行為なのだ。「埋もれた作品を発掘する」などといった無邪気な善性だけで成り立っているものではない。作品について一切指向性を持たせたくないのなら、表紙をつけず、amazon あたりで短編単位でひとつずつ売るしかない。
2.に関しては編集者の反応があまり噛み合っていない。「恥ずかしい」と感じることはどこまでも個人的な感情なので、「若者には違和感がない」と反論してもあまり意味がない。発端となったツイートで「恥ずかしい」に続く文がマーケティングの話なので、マーケティングの話をされていると思ってもしょうがないというか、増田も普通に読んでればそう取ると思うが。
また、編集者の立場としてはイラストレーターを守りたい気持ちで「いや、恥ずかしくないんですよ」と反論したくなるのもわかる。表紙についての議論をすることに対してやや脅迫的ともとれる言辞をしているのも、そうした仲間を守りたい意識のあらわれだろう。その判断は編集者として間違ってはいない。
ともあれ、その人が「恥ずかしい」と感じたならば「恥ずかしい」のは仕方がない。また、読者や作家にもそうした感覚に共感する人々が一定数存在するようなので、そうした心情を斟酌しないのはいかがなものかと思う。最低でも文面の上ではそうした消費者の感情に向き合うふりくらいはしておくべきではなかったか。
Twitterではよく「表紙が恥ずかしくて買えないとかガキか」という意見が目にされたが、そういうマウントの取り方もよくないと思う。
3.については(元の発言者は重要視していないとしているが)完璧に食い違っている。片方は「キャラ絵にすることでターゲットを狭める」と主張し、もう片方は「キャラ絵にすることでターゲットを広げる」と主張している。百合SFブームを仕掛け成功させたことや、この論争がそもそも『2010年代傑作選』と『日本SFの臨界点』が"バズった"結果生じたものであることを踏まえると、(編集者もまたマーケティングのプロではないにしろ)編集者側に理があるように思える。
SFというものはキャラクター文化と親和的なのだから、そっち方面から未開拓の読者を拾った方がよいと判断するのは筋が通っている。「キャラ絵で買わない新規消費者」より「キャラ絵がついてることで買ってくれる新規消費者」ほうを多く見積もっているのだ。興味を持ってくれる読者層を有効に開拓してこなかった業界の怠慢を一挙に巻き返そうとしている節はあるにしろ。
ある一定の方向へ突出しすぎている表紙を出すことでそれ以外の読者を切り捨ててしまう可能性はある。たとえば、ライトノベルの表紙絵はキャラ絵を好む読者以外へのリーチをハナから諦めている。キャラ絵を用いてる点では『臨界点』と変わらないが、よりパラメータがいわゆるオタク寄りに調整されている。最近、スニーカー文庫のハルヒが角川文庫から再発されるにあたり、有名ないとうのいぢの表紙から実写を用いたいかにも一般向けの表紙へ切り替わったことがあった。これは「キャラ絵を切り捨てる層」への訴求を試みた例だろう。
ハルヒのメインターゲットであった層を掘り尽くしたので、本来ターゲットにしていなかった層も掘る余裕が出てきたのだ。メガヒット作ならではの展開といえるだろう。
間口を広く取れるのは後者だ。特定の層により訴えるのは前者だ。
どちらを取るかは出版社の戦略次第だ。ハヤカワが大手より体力の低い中小出版社であることも考慮にいれるべきかもしれない。
だが、特定の層に訴えるマーケティングはときにその層に含まれていないと感じた消費者への疎外感を生じさせる。そのことには出版社は自覚的であるべきだろう
個人的な感想をいえば、シライシユウコ絵が「マンガ・アニメ的絵」だという意識はあまりなかった。林静一から中村祐介に至るイラストレーターの系譜(もちろん彼らにくらべたらややまんが的ではある)に連なるような存在として認知していた。
『臨界点』のイラストもそこまでキャラ絵として意識していなかった。「恥ずかしい」と感じられるキャラ絵とは、それこそライトノベルの表紙絵くらいのレベルだと思っていたのだ。
たとえば、『臨界点』がライトノベル的な表紙であったら、増田も「切り捨てられた」と感じたことだろう(それはそれとして本を買いはする)。
こんなことを萌え絵に対して不感症になっている典型的な日本人の謗りを受けそうであるし、実際そういう面も否めないのだろう。増田はよくTwitterで論争になる公共の場所で広告に使われる萌え絵について「恥ずかしいだろ」と(その是非とは別のレイヤーで)思ってしまう人だ。本当に「恥ずかしさ」の基準はひとそれぞれだなと思う。
今回話題になった表紙が即女性に対するオブジェクティフィケーションにつながるとは思わない。
一方で、キャラ絵を用いたSF小説の表紙が女性という表象にまったく何も背負わせていないとも思わない。本人たちが意図するしないにかかわらず、文脈的には「百合SFムーブメントを作り上げた編集者」が、「伊藤計劃の百合SFやSFマガジンの百合特集号の表紙を描き、百合のイメージが強いイラストレーター」や「百合SFムーブメントの一翼を担った新進作家」と作ったものなのだ。人はそこに「少女」を見る。その「少女」は私たちの築き上げてきた「少女」のイメージを背負っている。そこに無自覚ではいられない。
私たちはどのレベルの「恥ずかしさ」で合意するのか。SFという貧しく狭い領域でマーケティングとコンプライアンスをどう天秤にかけていくのか。
今はまだ問いの出ない問題だ。作家にしろ編集者にしろ読者にしろ、一個人ではどうにもならない問題でもある。
だが、他人の感じる「恥ずかしさ」を「時代遅れ」と切り捨てることなく、あるいは読者同士で向き合うことで、ある方向へ流れていけるかもしれない。そこから先は、未来の話だ。作家たちの語るべき領域だ。
余談。あるミステリ作家が「消費者の意見に対して真剣に向き合わず、味方を囲い込んでる」と例の編集者にキレてブロックしたことについて。むしろ、fusseterの文面ではTwitterでの論争の不毛さに触れているように、犬笛にならないように注意を払っているように感じた。よくやるように擁護ツイートのRT連発みたいな行為にも走っていないし。
個々のフォロワーたちが発言したり群れたりするのは止められないだろうし、それを「味方を囲い込んでる」ように見えたとすれば、多分に先入観が強い。
「意見に向き合え」というのはその通りだと思う。本人がおそらく可能な限り真摯に向き合っているつもりなのはfusseterで重ねられるエクスキューズからも読み取れるが、だとしても人はどこかで何かから目を逸らしてしまうものだ。当事者になればなるほど防衛機制は強まる。ただ例の編集者は自分に対して意見を言ってくる人を尽く敵と見做して戦争をしかけるタイプには見えないし、あの作家の言うことなら無碍にはしないはずなので、ブロックする前に意見交換を行なって互いの認知を均したほうが幾分有益であったはずだ。
この問題については意見を出してる作家や業界関係者でさえ恐る恐るというか、批判にしろ擁護にしろ通り一辺倒のことしか言っていない印象がある。
その穏当さが党派的な対立を強めていはしないか。業界のトピックとして捉えるなら、公の場で作家同士でもっと突っ込んだ話し合いを行うべきではないのか。
https://anond.hatelabo.jp/20200626025834
これを読んで、何社かベンチャー・スタートアップを経験した身としては「わかる」しか言えなかったこともあり、ダメなのを見抜く力じゃ無いけど、これ聞いておけば良かったなというものを思い出しながらちょろっと書いてみました。
ちなみに今はベンチャーではなく、そこそこ大きな会社で働いています。
自分の経験を振り返って書いてみました、なので実際には違うこともあれば、もっとこうだろ的な話もあると思います。
当たり前なんだけど、こちらにも選ぶ権利があるので、転職の面接や内定語の条件交渉・質問等で卑屈に鳴る必要はない。
コロナで落ち着かないことも多いけど、自分もコロナが始まるぐらいから転職活動して決まったので、転職を考えている人は頑張って欲しい。
自分の経験からですが、SaaSの開発・提供とあわせてコンサルティングも提供している会社もあります。
昨今のSaaS隆盛もあり、面接の時にはやはり今後SaaSをどう成長させていくか、進化させていくかといった未来を語ることが多いです。
でもちょっと待って欲しい、それは確かに未来を語ってて素晴らしいのだけど、主力商品なのかどうかを確認して欲しい。
実際に自分の経験だと、SaaSを開発・提供しているのは事実だけど、売上構成比の大半を占めるのはSaaSを併用したコンサルティングであり、実際にSaaSはほぼ使われていなかったというケースが何回かあった。
コンサルティングが悪いということではないけど、いわゆるSaaSベンダー+ちょっとしたコンサル(カスタマーサクセス)を想定して入社したら、SaaSが使われていないとか、主にコンサルがメインだったとかだと、残念な転職になりかねない。
上記の続き。
実際にそういう会社はベンチャー・スタートアップという環境や立場もあり、売上数字を立てるのに必死でSaaSの成長をおろそかにしがちだったりする。
例えば数億円の調達をしていても、そういう方向性を選んで経営しているという事実があるので、調達額にダマされてはいけない。
数億円調達しても、実際にはエンジニアを採用する・開発系SaaSに投資するというより、コンサルや営業のために人を雇うなどしていることが多いからだ。
「実際のところどうなんですか?」という話をえらい人を交えてすると、どうしても本音が聞き出せないからだ。
メンバーと1対1なら必ず本音を引き出せるわけではないが、確度は上がると思う。
逆にそういった場を提供してくれない、依頼してもなんだかんだ理由を付けて断られる場合、その会社は赤信号に近い黄色信号だと思った方が良い。
ちゃんとした会社ほど、選考はお互いの目線合わせが大事だと認識している。
例えば20人ぐらいの会社で、エンジニアが12名、ビジネスが3名、バックオフィスが2名、経営が3名という会社。
例えば20人ぐらいの会社で、エンジニアが5名、ビジネスが10名、バックオフィスが2名、 経営が3名という会社。
どちらが良い悪いという話ではなく、社内のパワーバランス的な見方もあれば、何故そのような分布になっているのかというのが大事だと思っている。
後者の場合はエンジニアが大量退職して少ないのか、これからビジネス以上に増やしていくのか・・・
単純に経営側に理解がなくて必要最低限の機能開発を社内でおこない、不足は外注しているからエンジニアの正社員は不要なのか、などなど。
大事なのは分布だけではなく、なぜそのような構成になっているかだ。
こういう所も含めて真摯に回答してくれる会社であれば、ハズレを引く確率も低くなる。
まだまだたくさんありそうな気もしますが、ざざっと書いてみました。
ダメな会社をゼロイチで見抜くのは非常に難しいため、成功する確度を上げていくしかないかなと。
当たり外れが大きいのがベンチャー・スタートアップ界隈なので、それに疲れたら従業員数もそこそこ多くて、ある程度年数の経過している会社に入るのが良いなと思います。(今の私です)
嫌いなクライアントがいる。
悪い人ではないと思うが、とかく日程とかカリキュラムとか
けっこうな金額のサービスなので、本気で必要な人達が忙しい時間を何とかさいて
毎週私と「相談して」次の日の日程とか決めて、毎回
裕福な奥さんと言う感じなので、費用は気にしなかったんだろうけど
いかんせん本気度が他の人と比べると低すぎて、こちらのモチベーションも
正直低くなる。
ドタキャンも合計4回。
まだ1ヵ月半しか経ってないんだけど?
週一回の通話になぜそんなに体調壊す?
毎週テストがあるのわかってて申し込んだよね?
使いたかったわ。
自分の要望聞いてもらって当然のような態度が、透けて見えるんだよね。
普通の英会話ならそれで良かったかもしれないけど、ここはそーゆー人のが
少ないから、余計に悪目立ちするのかも。
早く終わってくれないかな。
しかしその特定痴漢に対して仕返しをし損ねたのでその後もずっと恨みをため込んでいる。
その恨みをより広い相手にぶつけて受け止めてほしがる。
しかし主語デカ発言でお気持ちを受け止めさせようとする人に対し、人間はあまり優しくない。
そしてそういう精神構造には際限がないということを多くの人が人生のどこかで自覚しているから。
新卒で入った会社で職場全体のストレス源になっている物凄いモンスターお局様と遭遇し、意味不明ないじめを受け、
「高齢独身で働いてる女性は必ず精神不安定になり職場の害悪」という一般論をネットに何度も書くようになった。
私はせめて当該お局様のみを憎むべきであったのに、
社長のコネで引き取られていてアンタッチャブルなそのお局様に誰も対処できなかったフラストレーションから
「高齢独身で働いている女性」という風に対象レンジを拡大し、無関係な人達に八つ当たりをすることで留飲を下げていたのだ。
小島慶子さんにしても、
大元は何かまっとうに憎むべき相手と理由(体験)があったのだと信じる。
けれども対象拡大主語デカ発言とそれをしてしまう自分の精神構造とを検討して戒めることがなかったために、
八つ当たりで広範囲に嫌な思いさせることを狙うのがすっかり癖になってしまっているように見える。
自分の身にたまたま起きたことを一気に社会問題にまで拡大してくれるから。
そして同じ精神構造の同じ性格の人間が同じ理由ですでに集まっている。
そうして、仲間と一緒に主語をデカくしながら特定属性に範囲攻撃をし始めることになる。
自分の恨みや無念を無関係な人にも横暴にぶつけていける攻撃の実感と権力感で快楽が発生する。
このような時、社会思想の仲間というのは実はただの八つ当たりを好む性格同士の仲間だ。
個々の体験を共有するために乱暴な抽象化を行い、主語のデカい属性への攻撃で合意する。
何かの問題解決ではなく、本来の恨みへ復讐することですらなく、もはや八つ当たりの快楽自体を追い求めている。
男一般を凄く憎んでる女の集団がフェミニズムとかリベラルとか言われていても
でもどちらも「個人の恨みを八つ当たりにまで拡大してしまうことを自分に許してしまう性格」という同じタイプの人の集団で、
これについては保守とかリベラルとかはあまり関係がないと思う。
こういう主語デカ八つ当たりが好きな人というのは明らかにいて、そういう発言を多くしたりいいねや☆を付けたりしている。
野蛮な時代だとこの種の性格の人は「女は劣等」とか「朝鮮人は劣等」という”社会思想”に多く隠れていたんだけど
それは差別だとわかりやすいため不当さを批判されるようになり気分よくなれなくなってきたため、
今では「男は害悪」とか「日本人は劣等」という”社会思想”にも潜むようになっている。
これはその人達の性格の問題であって、本来の社会思想の問題ではない。
どのような思想であっても、主語デカ八つ当たりの快楽を求める性格の人が入り込む。
これ自体は社会の問題でも思想の問題でもなく、個人の性格の問題なので、
そう言う性格の人が自分で自分の精神構造に気付き、性格を戒めてやめていかなければいけないのだ。
本来の社会思想の人か、八つ当たり快楽追及者かの見分け方として、
人を助ける活動を地道にやることに重点を置いている人は前者の可能性が高まる。
右翼であっても私財を投じて日本人の子弟を扶けようとか援助しようという人間は立派な性格だし、
左翼であっても自分の頭と体で貧困者の面倒を見て汗を掻いている人間は立派な性格だし、
一方で「敵対陣営に嫌な思いをさせること」ばかり楽しそうに追及している人は右翼であれ左翼であれ尊敬しにくい。
痴漢については満員電車を減らすことと監視カメラを増やすことぐらいしか現実的対策がないと思う。
せめて小池百合子知事を憎む…のではなく強く働き掛けを行うことで実現に向かっていくことが建設的態度ではないかと思う。
このような現実ベースの話で異論討論が起きているのをあまり見たことがない。
しかし気持ちについては個々人が自分で解決していくしかないものだ。
自分の無念とか、それを他人に八つ当たりして受け止めさせたいという欲望とか、
自分自身一時的にスカッとしても、結局憎悪が膨れ上がるし、他人の分の憎悪まで勝手に持ってくるようになるし、
そうして自分が何年も何十年も憎悪と共に過ごすことになるだけだ。
自分のそういう性格を思想のように取り繕ったりしてはいけないし、誰かや社会のせいにしてもいけない。
それは自分の心のハンドルを自分で握らず、程度の悪い何かに預けてしまう行為に他ならない。
pikopikopan 攻撃を楽しむ人間になってはいけないには同意する。ただ一個人の力で対処出来ないことや境遇に恵まれてなかったことを該当者だけの責任にする訳にはいかない。
「一個人の力で対処出来ないことや境遇に恵まれてなかったことを該当者だけの責任にして済ませよう」
なんて話はどこにもしてないつもりですが・・・。
私は社会思想自体は否定していないということも繰り返し断っていると思います。
負の連鎖を防ぐ側ではなく生み出す側なので区別することが必要だし
当人にもろくなことはないため自分で戒めてその性格から脱却した方がいい
という話をしました。
kincity 性的イシューで「本来なんの関係もない無辜の男性」が「痴漢やクソリプしてくる奴」相手の注意指摘の文言に非常にヒステリックに噛み付いてくる心理について当人たちが認識・分析すべきでは?何故黙ってられない?
個別の事例次第ですが
痴漢について男性全体を巻き込んで非難したり責任を分担させようとしたりする発言については、八つ当たりが含まれており反発があるのは仕方ないと思いますし、それについては八つ当たり発言者が「始めた人」だと思います。
ただしそのような八つ当たり要素が無い発言に対してもクソリプはゼロにならないことは確かです。
dogear1988 増田がそうだった様に、人が傷を癒すにはそうした言動をする期間が大なり小なり必要なのだが、ネットではそれに対する批判が集まる過程で寧ろ反発心を強め、誰も幸せにならない悪循環。難しいね。
個人的には、ネットで情緒的に人とつるむこと自体をやめた方がいいと思っています。
twitterやはてなブックマークなどでは八つ当たり仲間を見つけるのは簡単すぎます。
ああいうアクションは社会を良くしないし、自分の心も良くしないし、
なのに社会思想風看板やのなんらかの大義名分がくっつくと何か立派なことをしてる気持ちにまでなるんです。
skgctom 何で「私は職場で高齢独身女性に酷い目に遭わされたので高齢独身女性が嫌いだ」を「高齢独身で働いてる女性は必ず精神不安定になり職場の害悪」と言い換えたのだろう。「酷い目に遭った私」はどこへ行ったの?
えーと
だからまさにそれについての話だったんですが
「私は職場で高齢独身女性に酷い目に遭わされたので高齢独身女性が嫌いだ」
「ある高齢独身女性に嫌な目に遭わされたので、別の無関係な高齢独身女性を見ても条件付けで嫌な気持ちが起きる」
という事実と自分の心の動きを高度に客観視して把握してますよね。
そういう人なら無暗に無関係な人を攻撃したり八つ当たりしたりしないわけです。
自分の心が無関係な高齢独身女性に嫌悪感を持つのは自分の心の問題であり、対象のあの人に責任の無いことなのだ
とわかっているんです。
高齢独身女性全般への嫌悪の反応を正当化する方へ向かうんです。
「実際結婚もしてない人ってみんな最後はヒステリーお局になるんだよ、嫌われて当然。きもい。迷惑だよねー」とか。
自分の中の恨みとか不快感とか攻撃欲を正当化するために、八つ当たりを肯定するために、
というかskgctomさんは
「高齢独身で働いてる女性は必ず精神不安定になり職場の害悪」が
不適切な八つ当たりの例であるということは理解してくれているでしょうか?
grdgs 「お前ら攻撃的。お前ら口が悪い」と常々言っている人たちが得てして普通に攻撃的で口が悪かったりするので、そのような鏡がない人たちにも伝わるといいですね。
あなたは日本人に対する差別的発言を(わりと許される空気もあったため)繰り返していたところ
風向きが変わって非難を浴び面目を失った人だと理解しています。
日本人全体を憎悪して差別的呼称を繰り返すというのはやはり主語デカ八つ当たり病だったというほかないと思うし、
そのうえで…
1.「差別発言」を咎められたのを「言い方の乱暴さ」を咎められたというようにすり替える意図であれば感心できません。
2.仮にあなたと同レベルの差別的発言をあなたの”敵”がやっているとしても、それはあなたを正当化しません。
(これはこの文の主旨の主語デカと別の話なので本当に蛇足ですね。)
建設的な日本批判日本人批判をしてくれればちゃんと読みたいと思います。
differential どう対策しても痴漢をゼロにできるとは思わないが、過去と現在の喫煙や飲酒への風当たりの変化を知るオバハンは、痴漢もっともっと風当たり強くなって良くね?とは思う。喫煙者より無条件に嫌われるべきと思う笑 ブコメ見た感想 知らんけど 無自覚バイアス
痴漢は誰に聞いたって犯罪者であって、喫煙や飲酒より社会から甘い扱いを受けているということはないと思うのですが…。
また「喫煙者が無条件に嫌われるべき」というのも危ういものを感じます。
私は喫煙者の健康被害の観点から煙草は社会からなくなる方が良いと思っていますが
問題解決ではなくあなたが何かを憎悪して快楽を得たいだけに見えるので与したくありません。
既に明確に犯罪者である痴漢をさら憎んで風当たりを強くする(これ以上どのように?)ことで問題解決になる、という不思議な主張も
あなたのシラフの理性が言わせているというよりは、やがて抱えきれずに誰かに八つ当たりを始める攻撃心の萌芽のような気がします。
暴動で訴えかけるしかなく、それほどまでの絶望感に包まれた黒人の怒りを真摯に受け止めようよ。
https://note.com/humuuuueh/n/ne9660012a363
↑への反応を見ていて思ったのだが(そして↑への反応に限らずフェミニズムに関するあらゆる議論でも同様だろうが)これからフェミニズムが変わることは無いだろう。
何故なら、フェミニストにとって、現在のフェミニズムに改善すべき点など一つも無いからだ。
改善すべき点が無い、つまり、フェミニズムは既に「完成」している。
↑の記事へのブコメでも、それ以外でも、フェミニズムに少しでも批判的な意見へのフェミニストたちの反応は一様である。
つまり「その批判は不当である」「あれは当たらない」「筋悪である」「それはフェミニズムではない」「フェミニズムを誤解している」といった反応であり、フェミニズム側の瑕疵が発見されることは無い。
現代においてフェミニズムを批判する事は悪であり、少なくともフェミニズム側において、その批判を受け入れる理由は何処にも無いし、あるいは批判から何か改善点を見出す必要も無い。
何故なら、改善というのは誤りを認めるという事であり、現在の完全なフェミニズムには認めるべき誤りなどあり得ないからである。
こうした点を不正だと考えるのは全く早計である。論理的に考えて、もし仮にフェミニズムの命題が全て完璧に真なら、それ以上の改善点を見出さない事はむしろ論理的に真摯な態度とさえ言えるからだ。
ただ問題は、従って、これからフェミニズムを取り巻く状況は変わらない、という事だ。10年後も、20年後も。という事は、↑の記事を書いた人のような人は、これからも現れ続けるだろう。
現在のフェミニズムの主張を真に受けるなら、まず第一にフェミニズムは性嫌悪ではない。現在ある性コンテンツの全面的な規制を望んでいる訳でもない。
従って現在のフェミニズムがもっと社会に浸透したとしても、性コンテンツが絶滅することはあり得ない。
ただし女性を消費する性コンテンツが女性蔑視を含んでいるのも事実であるし、それを批判し続ける権利は当然フェミニズムに認められるべきであろう。従って、性コンテンツへの(規制ではないが)批判はこれからも残り続ける事に成る。
であれば↑の記事の筆者の様に、“誤ったフェミニズム”、”フェミニストでない者”から攻撃を受ける女性も絶えることは無いだろう。
そして、その事の責任をフェミニズムに求めるのは全く不当である。そのようなフェミニストでない者の行動の責任はフェミニズムには無いのだから、フェミニズムがそのような者を改善する事はあり得ないし、そんな筋合いは無い、反応を見ても分かる通り、フェミニスト達にもそんな気は一切無い。
あくまでフェミニズムと関係無い者の行動であるから、これからフェミニズムがどれだけ社会に浸透し、その正しさが認められようと、そのような者が減る効果は無い。
従って、↑の記事の筆者の様に、自らの身体的特徴によって傷付く者は出続けるし、その責任はフェミニズムには無いし、つまりフェミニズムに対し記事の筆者が傷付かない様に何かをする必要があると考えるのは、全く不当な事である。
フェミニズムは完成している。
これからアップデートすることは一切あり得ない。改善すべき点など一つも無いから。
当方キャリア10年以上のWebエンジニアだけど、自分の職業について物申す
エンジニアはなんか特殊な技能がある風でエラソーな顔をしてるけど
最初にコンピューター作った人とかRubyとかRailsを思いついて作った人は
すごいけど、我々はGoogleと賢い人の巨人の肩の上に乗っかって作ってるだけである
それは自転車を作ったやつはすごいけど、乗ってる人は別にすごくないのと同じである
乗ってる人のことを技術力がある、すごいとは誰も言わない
乗ってる人の中でも競輪とか、ロードレースで優勝した人はすごいけど、
生活のために乗ってる人とか、ウーバーイーツで宅配するために乗ってる人は
大してすごくない
誰でもできるのだけど、多少しんどいことを
そして多少なりとも経験の蓄積による、付加価値も出せるかもしれない
何が言いたいかというと
無意味な宗教戦争に巻き込まれ無いこと、そのような本質的でないことにこだわらないことが大切
こだわるべきは
最後まで愚直にやりきる意志を持って、しんどくても真摯に向かい合ってやりきっていくこと
常に情報を仕入れて、巨人の肩にうまく乗って、工夫していくこと
若くて、心がまっすぐで、地頭いいやつが強いです(白目)
あれ主人公と結婚しようとする男性がキーパーソンで、世間的な慣習に囚われ卑屈で地に足がついてない男性と、
目の前の仕事に真摯に向き合い自分なりに社会との繋がり方を見出そうとしている主人公が対比されているんだよね。
男との出会いで「定職についてないとやばい」とか「結婚は問答無用で女の幸せ」だとか「アスペっぽい奴はどこいったってつまはじきにされるぞ、協調性を身につけよ」みたいな社会通念やら同調圧力に主人公はどんどん飲まれそうになっていくけど、
すんでのところで今までの自分が醸成してきた価値観を思い出して自我を取り戻すというストーリーになってる。
題材の奇抜さもあるけど高評価の理由は内省的にまとまりがちなワープア文学をそんなカタルシスでまとめあげたところにあると思う。
社会との繋がり方、生き方を見出すことに現代文明で生きる人間の喜びはあるのではないかと問うている。そこら辺が「苦役列車」なんかとの大きな違いにもなってる。
いまや誰もかれもが、運動といえば馬鹿の一つ覚えのようにジョギングをしている。
そもそもジョギングとはかつてのテニスやフェンシング、乗馬のようにハイソなスポーツであり、庶民がやるものではなかった。ジョギングは自己と周囲の他人にたいして一定の配慮ができる人のみに許されたエレガントなたしなみだったのである。
それが、外に出て走り回りさえすればジョギングをやったことになり、あたかも流行最先端のワークアウトをしているかのごときイメージがつきまとってしまった結果、実施人口が増え、一気に民度が下がってしまった。
新型コロナウイルスの流行においては、ウイルスの混入した飛沫を吹き散らかしながら公道を走り回るモンスターが多数発生し、ジョギングは悪そのものとなった。
このような事態となったのも、ジョギング=簡単かつ流行最先端のワークアウトという根拠のないイメージを大衆に流布し多数の参入を招いた者の所行があったからである。
我々は過去に遡り、このような根拠のないイメージを矯正し、今こそジョギングを人口10万人あたり0.2人までが実施可能なマイナースポーツに戻さねばならない。
これは誇張ではない。日本の人口規模、もともと馬や飛脚が走ることしか想定していなかった江戸時代の道路計画がほぼそのまま引き継がれている日本の公道にとっては、それぐらいの実施人口がかろうじて許容可能な適正レベルなのである。