はてなキーワード: 苦役列車とは
なんか本を読むときってめっちゃ気合い入れなきゃいけない気がしてて、それってやっぱり
「本を読むためには多くの時間が必要」っていう前提意識があるからなんだよね。
でも本のレビュー記事とか読んでると、この本は2時間程度で読めます。とか書いてあって、
「そんなこと本によって違うに決まってるだろ、1時間で読める本もあれば10時間かけても読み切れない本もあるよ。」
ってのが当然正論だと思うんだけど、
その辺の適当なビジネス本とか、気まぐれで買った「苦役列車」とか、
どのくらいで読めるのかなと気になった。
でも冷静に考えると、1,2時間でも確保して本読むことだけに集中するのはちょっと難しいかも。
そういうことを考えていると、「でも本当に俺の生活はそんなに忙しいの?実は無駄なことに時間使ってない?もっとタイパ良く生きていこうZE☆」
みたいなもう一人の自分が疑問を投げかけてくる。
はぁ・・・
人生つらい
幸せに生きたい
あれ主人公と結婚しようとする男性がキーパーソンで、世間的な慣習に囚われ卑屈で地に足がついてない男性と、
目の前の仕事に真摯に向き合い自分なりに社会との繋がり方を見出そうとしている主人公が対比されているんだよね。
男との出会いで「定職についてないとやばい」とか「結婚は問答無用で女の幸せ」だとか「アスペっぽい奴はどこいったってつまはじきにされるぞ、協調性を身につけよ」みたいな社会通念やら同調圧力に主人公はどんどん飲まれそうになっていくけど、
すんでのところで今までの自分が醸成してきた価値観を思い出して自我を取り戻すというストーリーになってる。
題材の奇抜さもあるけど高評価の理由は内省的にまとまりがちなワープア文学をそんなカタルシスでまとめあげたところにあると思う。
社会との繋がり方、生き方を見出すことに現代文明で生きる人間の喜びはあるのではないかと問うている。そこら辺が「苦役列車」なんかとの大きな違いにもなってる。
話を聞いてください
7年という時間頑張って だめで
7年という時間頑張って だめで
7年という時間頑張って だめで
20年なくなって 老人になる
まさに、だめの見本の人生でした
ようするに天涯孤独で
人を助けてきたという記憶もありません
がんばりはしたんだけど
あなたのため っていうイジメも受けた 退職勧奨なのかなぁとおもう
わからない
でも いまよりもマシな会社もないだろうし
わかんない
ちょっとでも引き下がっちゃだめっていうのは
引き下がる私にって尾は
引き下がったお前が悪いって 現実ではあるけど
残酷だけど 全部取られていくのを黙ってみてるだけ
全部なくなって 借金漬け
やっぱり 派遣がいいのかな
守ってくれる人 誰もない人は
どんどん うばわれていくけど
どうやって 生きたらいいですか?
10年頑張っても 奪われて終わる
でもなんか、そんなひとでも生きられる方法
中卒19歳。父親が性犯罪おこしたせいで、一家離散して、日雇いバイトとかしてるのが主人公。
専門学校行ってる人間できた奴と友達になったけど、リア充生活の友達と主人公とは溝ができる。
で、主人公が劣等感からなのか、本音なのか、リア充の彼女を性的に煽ったり。
昔やったブスが風俗店で出てきて、そいつの今の彼氏の前でブスだのマンコ臭いだの煽ったり。
職場でも殴られて殴り返したり。
家を追い出されていくところなくなって。最後ケンカ後放置されて、裸で海へ。って感じなんだけど。
かなり面白かった。
こういうクズが普通の感覚だし、同じ環境で産まれたら同じ感じのことしてんなーと思った。
このクズと一般で言われるものが、普通の感覚だと思うし、普通の感覚してたらクズ扱いされるってのはどうかと思う。
でも、こういう感じだと社会が成立しないから社会のルールは必要で。だけど、社会のルールがしかれると、クズになった人は一生抜け出せないなと思った。
ある日、ぼくが行きつけのバーに足を踏み入れると、こんな会話がなされていた。
「わたしって○○が好きなんだよね」
「ああ、××ってやつですね」
「おー、わかっているじゃん!(握手を求める)」
バーのカウンターには5、6人の客がいたと思う。その店は小さくてカウンターしかなく、みんなで話題を共有するところだった。それにも関わらず、二人は二人だけに通じる言葉で盛り上がっていたのだ。
池下チエの元カレである田無タクミに、新しい彼女ができた。チエはその手助けをしてくれたため、タクミはお礼がしたいと食事に誘い、タクミの彼女とチエの彼氏の西尾みのるも含めて4人でご飯を食べることになる。
みのるとタクミは初対面。なおかつチエと肉体関係がある同士ということで微妙な間柄なのだが、会話をしていくうちにお互い百人一首が好きだということがわかってくる。そして、二人で相手が口にした上の句を聞いて、下の句が当てられるかというゲームをしだすのだ。
チエは百人一首がわからない。そのうえ、タクミの新しい彼女まで、このゲームに参加しだしてしまう。
一人取り残されたチエは……怒って部屋を出ていってしまうのだ。
『婚前特急』と冒頭のバーの会話に共通しているのは、「限られた人間で知識の確認をしあう」というのと、それによって「阻害」が生まれているということだ。
ぼくはこの手の会話は世界で一番醜いと思っているし、参加しないようにしている。なんの発展性もなく、周囲を排除するような排外的な会話になんか加わりたくない。
そうして、ぼくはバーで一言も口を開かず、朝までずっといた。
こうした会話はサブカル好きのあいだで頻繁に行われている。彼らの会話は本当に幼稚で、頭がくらくらしてくる。ずっと「知識の確認」に終始しているのだ。
A「○○って知ってる?」
B「知ってるよ」
A「すごい! ××は?」
B「知ってるよ」
A「すごい!」
そんな会話を横で聴きながら、ぼくはどうやったら世界が平和になるかについて考えていた。結論だけ言えば、サブカル好きを文化シーンから早急に退場させるしかない。
2010年に芥川賞を受賞した小説『苦役列車』はこんな話だった。
中卒で家を飛び出し、日雇いの肉体労働で生計を立てている貫多には、長らく同年代の友人がいなかった。稼いだお金もソープで使い潰すような毎日を送っていた貫多だったが、仕事現場に専門学校生の日下部が働きに来るようになる。二人は年齢が近いこともあり、現場終わりに飲みに行くような仲になっていくのである。
貫多にとっては久々にできた友人だったが、二人の関係は突然終わってしまう。日下部が貫多との飲みに女友達を連れてきたのが原因だ。
二人は貫多を置いてきぼりにし、二人だけで趣味の話題に盛り上がってしまう。
一人取り残された貫多は……怒って店を出ていってしまうのだ。
サブカルの醜さを浮き彫りにしたこの小説は、見事日本文学のトップの称号を得た。なんていったって石原慎太郎が認めたのだ。
サブカルとは要するに安易な優越感を売る「ファストフード」でしかない。
町山智浩や吉田豪、菊地成孔などをフォローし、発言を真似すれば、自分も「わかっている」側にいられると考える浅ましさ。実際は、自分で何の価値判断もせずに、彼らの美学にフリーライド(タダ乗り)しているに過ぎない。ファストフードを貪り食い、自分は「グルメ」なんだとドヤ顔をしている。結局は、他人の真似事でしかないのに。
たまに「大槻ケンヂが好き」と公言するアイドルが出てきたりして、何がメインなのかさっぱりわからない中途半端な雑誌で対談したりしている。そんな人間ははっきり言って「信用できない」。
なぜなら「オーケン」が取り上げられるのが、必ず「主流とはちょっとズレたものが好きな私」という文脈だからだ。
大槻ケンヂなんて、メジャー中のメジャーだ。「サブカル」でのなかで一番目立つものを手にとっておきながら、「一般的な女の子とはちょっと違ってマイナーな趣味嗜好を持つ私」というブランディングを展開している。
安易そのものじゃないか。本当に自分だけの美学を持っていて、それに合致するマイナーなものが好きなんだったら、大槻ケンヂなんか手に取るはずがない。ネットの片隅にしかないような、誰に言ってもわからないものを偏愛しているはずだ。
「大槻ケンヂ」に手を出す時点で、安易なエゴイズムが芽を出している。
雑誌『TokyoGraffiti』を開いてごらんよ。「消費」を、あたかも「経験値アップ」だと思っている連中が大集合している。彼らはサブカル文化人やサブカル雑誌が誉めそやしたものをコレクションすれば、自分の「レベル」(「ステージ」と言い換えてもいい)が上がっていくと思っている。
ドラゴンクエスト6には「かっこよさ」というパラメータがあったが、すぐに次作で消えている。堀井雄二はわかったんだ。「センス」だとか「オシャレさ」だとかいうのは、決して数値化できないし、競うことでもないってことを。
「美学」っていうのは外にあるものじゃない。自分の内側にしかないのだ。ぼくらはそれを孤独と向き合いながら、井戸を掘るようにして、少しずつ深めていくしかない。美学っていうのは他人の真似事で生まれるようなものじゃない。
他人の美学に安易に乗っかって、得意顔をするのは、結局のところ、滑稽でしかない。
じゃあ、この現状を打破するにはどうすればいいのだろうか?
彼らに間違いを気づかせ、正しい道(自分だけの美学を磨く旅)に向かわせるにはどうしたらいいだろう?
ぼくは『小説の読み方の教科書』(岩崎夏海)を読むことでしか解決できないと思っている。
この本は「本当の読書」とは何かを教えてくれる。ぼくらはあまりにも汚染されてしまった。誰よりも詳しくなきゃいけないだとか、センスが重要なんだとか、これを理解できるのは頭がいいからなんだろう、とか。
岩崎夏海はそんな現状を正しく認識し、解毒剤を処方してくれる。
誰かを仮想敵とするような読書はやめなさい、と。「本を読む」っていうのは孤独な作業であり、作者の「問い」と「自己」を真摯に向き合わせることなんだ、と。
これはすべての消費行為に言えることだと思う。「誰かに勝つための消費」をサブカルはしてしまっている。
そして、それはすべて他人の価値観に基づいているのだから、始末におえない。「あの人が褒めていたから、これを見れば周りに勝てる」って具合にね。
誰かの価値観に依存して、他者を阻害して、そうやって得意顔になっているエゴイストたち。
こんな人間が蔓延っているようでは、日本の文化は早晩終わってしまうだろう。そうなる前に、彼らの目を覚ましてあげなきゃいけない。ぼくはそのために生きるよ。
それぞれが、それぞれの美学を成長させ、それに乗っ取って生きていけば、ぼくは世界がもっと楽しくなるに違いないと、信じている。中沢健の美しさを、ぼくらは見習わなきゃいけない。
人類の歴史を紐解けばわかるように、自分だけの美学を磨いた人間だけが、世界を驚かし、未来に名を残すことができるんだ。
そう、紀里谷和明のようにね。