はてなキーワード: 文科系とは
フリーソフトウェア運動を支持します ←IT業界「官製不況乙」
個人の決定権は個人に帰属すること保障します ←それができないから安楽他殺を求める人がいるのだが
表現の自由を保障します ←京アニ報道の自由の行き過ぎを見てなんかおもわんのか 表現無罪はナシ
公的機関でのUNIX/Linuxデスクトップ導入を推進します ←1種類強いウィルス開発されたら軒並みアウトになりそうねcfサマウォ
公的機関でのFLOSS利用および貢献を推進します ←わからない
公的機関広報のためのActivityPubプロトコル方式のSNSサーバーを設置し運営します ←だれも使わないからツイッターに全転送してAPI規制まで見えた
公的機関および市区町村役所Webサイトの視覚障害者向けアクセシビリティ向上を目指します ←同意、すぐやるべき、そのための色覚障害者1人ずつ採用までやるべき
マイナンバーを国際標準規格であるDecentralized IDs(DIDs)へ移行を推進し秘密鍵によって保護された新マイナンバーおよび新マイナンバーカードを発行します ←ワイトもそうおもいます
新マイナンバーカードはDIDsによって市区町村役所だけでなく郵便局や銀行、コンビニなど一部の商業店でも再発行できるようにします ←ADHD「5枚ある」移民「1枚300万で買うで」
DIDsを応用した新マイナンバーカードによって運転免許証や保険証、金融機関カード、商業施設ポイントカードなどを1枚に統合します ←ワイトもそう思いますしすぐやってほしいし免許証を身分証明にしなくても自動運転タクシーでいいじゃんだしタスポは今すぐやってほしい
UNIX/Linuxを含む主要OSへ対し国民が利用するDIDsに関わるアプリケーションを開発し配信します ←郵便局の配布してるAIRつかった年賀状ソフトクッソ使いづらいのおもいだした たぶんレジューム機能の特許ライセンスが高かったんだろう
公的機関および市区町村役所からボトムアップされた情報を元にトップダウンで統一的な新システムを構築し公務員の業務軽減を計ります ←昭和からやってるはずのペーパーレス計画ってのがあったけどもう一回かっこいい名前つけてあげればすすむよ ゲーミング政府とか
最小単位の町内会および消防団など自治会へ対して統一的な運営・コミュニケーションシステムをホスティングサービスとして提供します ←jimboでよくね あと人的原因のクラッシュ・誤操作・誤消去は無理っすね 今でもギリギリや
DIDsを応用し何処の市区町村役所および国民のインターネット接続端末からでも統一的なアクセス方法により公的情報の取得を可能とします ←今もマイナンバーカード+公的認証で確定申告やってるやつとどこがちがうの
公的機関および市区町村役所が求める個人承認を印鑑からDIDsを応用した新マイナンバーカードによる電子署名へ移行します ←マイナンバーカードをもっとギラギラしたケースにいれないと図書館のカードと間違えて捨てるやつとか出るぞ
DIDsを応用した国政および地方選挙のインターネット投票を開始します ←今すぐやれ
DIDsを導入しようとする企業へ補助金を交付します ←今もやってるやろ 2020マイナンバー化みたいなやつ 二重になる
都市圏企業による地方リモートワークを推進し地方リモートワークを導入した企業へ対し補助金を交付します ←名目に要注意 政府で音質よくテレビ電話会議回線とカメラセット提供させろ あと税務署が遠隔身内を名目雇用して経費削減するやつを嫌うからちょい面倒 マルサのネットストーカー化を先にみとめりゃいいんだけどさ
日本銀行による日本円兌換電子通貨を発行し決済へ利用できるようにします ←デフォルトスタンダードのスイカでよくね
フリー無線LANスポットを増やします ←増やしすぎて干渉してる都会カフェとか多いんじゃないの東京様だけは
HTTPS over DNSの普及を推進し国民の通信の秘密を守ります ←わからんけどがんばれ
Web Assemblyの普及を推進します ←わからんけどがんばれ
WebTorrentの普及を推進しインターネット接続端末のCDN化を推進します ←わからんけど便利になるといいね
全国図書館のシステムを統合し統一的なアクセスを実現します ←著作権者「図書館も閲覧者が10円とか払ってくれる改正してくれないとベストセラー作家でも死ぬんじゃが」蔵書検索は素人がやってるから100万くらいで事業ごと買えってこと? それともグーグルスカラーのこと?
法律および個人情報へ影響しない範囲の国内ビックデータをCSVやJSONなど様々な形式で無償公開します ←必ず今先んじてやってる人の生活に影響するから調整が必要
日本国周辺の海図および航路図を電子データとして無償公開します ←海賊・密漁船がバンバンきちゃうよ
国土地理院によるOpen Street Mapへの貢献を推進します ←むしろ国連あたりがグーグル・マップ買ってその出先機関になればいいのでは てか国連がグーグルに乗っ取られたほうが楽では
公共交通機関の現在位置を電子データとして提供します ← 4G・5G・wifiアンテナの密度が薄すぎる田舎の人(3Gなら届く)「バスがワープして乗り遅れた!どうしてくれる」
気象庁の基本的な気象情報をCSVやJSONなど様々な形式で公開します ← ウェザー社「ぐぬぬ」
ユニバーサルサービス料を現在の3円から適正価格へ引き上げます ←へえ、やすかったの?
すべてのインターネット接続端末の購入時にユニバーサルサービス料の徴収を義務付けます(通信契約月額支払いのユニバーサルサービス料は引き続き徴収) ←へえ~
NHK受信料を廃止しNHK運営費をユニバーサルサービス料から拠出します ←あ~これのためか。総務省がNHK全部官営にもどすやつね。放送の独立大丈夫?
NHK地上波ラジオおよびテレビのインターネットストリーミング放送を開始します ←ラジコ「ぐぬぬ」
NHK地上波ラジオおよびテレビ放送の全アーカイブを配信します ←サーバー用意できるのグーグル傘下ツベだけでは プリンプリン物語の録画ビデオは未だにさがされてるだろ 京アニじゃなくても焼損があったのでまずアーカイブ化をすすめないと
NHKオンデマンドの動画ストリーミングをWebTorrentを応用し分散化します ←しらんけどがんばれ
GPS受信困難地域および施設へ対して高度情報を持ったGPSビーコンの設置を推進します ←えっ今ないの
自動運転研究を推進し支援します ←自動車会社「少しはもらってるよ^^」
電動キックボードなど小型電動個人モビリティを普通自転車の枠組みとし規制管理監督します ←道路がそれほど広くないのがまずもんだい 乳母車の横でビュンビュン
ドローン規制を緩和しルールを厳格化します ←おじいちゃんもう済んだでしょ
宇宙および海洋ブロードバンド衛星の拡充を目指します ←日本は自力で衛星あんまり飛ばせてないでしょ 税金重いし
日本海溝海底地震津波観測網の拡充を目指します ←今で十分早いし数分前にわかってても逃げられんとこに済んで働いてる人が問題では
BONICなど分散コンピューティングによる人道的研究を普及および推進、貢献します ←人道的の意味がわからない AIが中国はここで政治犯拷問してるとか北朝鮮のミサイル発見とかやるの
義務教育へ対し週5以上のコンピュータおよびインターネット、プログラミング教育を実施します ←どうしてもコンピューターとの会話になじめない文科系特化型脳、女性脳の人がかわいそうというか活かしきれないのがもったいない 才能ない子まで全員をコンピューターとの会話力に特化しちゃうとたぶん人工授精とか全員保育園とかしないと出産率・新生児生存率がめちゃ下がる(今でもひどいけど) それよりコンピューター利用詐欺ふくめて人間の悪意にきづかぜ、なれさせつつ安心・信頼を育てたりしていかないと全員鬱になって終わる 鬱になったりもせず人間同士のコミュニケーションとコンピューターとのコミュニケーションの両方が抜群にできる人ってのはほんとうにビル・ゲイツレベルの一握りだと思う
あと円安で食糧生産するには動物・植物と会話できる人も残さないといけない 士農工商社会にもどるね
全般的に金とキカイで世間をどうにかしようとしてるけど、そういう社会を維持する才能のある人間ってのは社会でも一握りしか生まれてこないってことが問題になるとおもうので、少子化と教育改善(振り分けとか社会人に延長した義務?教育とか)で今ある資源をいかしたほうがお安く済む部分も(特に後半)多いとおもった
以上
河野 真太郎氏の私が一橋大学の教員を辞めた理由〜国立大に翻弄された苦しい日々
これが分断統治であるということの意味は、「教養対専門」の対立は、「大学改革」を押し進めるための人為的な対立だ、ということである
これは事実に反すると思う。「教養対専門」の対立は「大学改革」を押し進めるための人為的なものではなく、新制大学発足当初からある構造的なものである。そして、大学設置基準の大綱化を奇貨として大学側が旧教養部を解体したことで、むしろその対立が緩和されたと考えられる。
例えば、平成10年の大学審議会の議事録に以下の認識が残されている。
△ 教養部再編の時に各大学が積極的になったのは、教官グループ内の差別がなくなるということがインセンティブになったから。これから、大学院専任と学部専任という仕分けができてくるとすると、教養部の時に一度解決しているのに新たな差別を持ち込むこととなり、非常に強い抵抗があると思う。
また、旧教養部の成立から解体までを詳しく分析した第3章 教養部の形成と解体 一教員の配属の視点から 吉田文は、大綱化の背景を以下のように要約している。
P.61
一般教育に関わる規定が大学設置基準から消えた背後には、一般教育そのものに対する大学内外からの批判や不要論よりもむしろ、一般教育のみを担当する教員やその所属組織の存在に対する大学教員自身の卑下と格差解消の願望の歴史があったといってよいだろう。
もちろん河野氏も「とはいえ、大綱化によって、それまで存在しなかった教養対専門の分断・対立が生まれたという話ではない。その対立はずっとあった」と述べてはいるが、ではその対立とは一体どんなものだったのか。
P.65
民主化の旗手のようにいわれて新制大学に導入された一般教育であるが、専門教育しか行ってこなかったうえに、新制度下の組織編成も専門教育を行う学部が中心であった旧制度下の大学には、一般教育の根付く場がなかったのだといってよい。新制のもとでの教育がスタートしてわずか数年のうちに一般教育の座りごこちの悪さは、どのようなタイプの大学にとっても問題となって、それぞれの方式で解決策を見出そうとした。
で、一般教育の座りごこちの悪さはどのようなものだったかというと、
P.66
こうした(引用者注:教養部を法制化して学部と格差を埋める)要望が出されるに至った背景には、教養部が劣悪な教育・環境条件におかれていたことがある。名古屋大学の場合では「学部だと・・・文科系で教授三十二万五千円、助教授が十七万円。・・・理科系になると教授百二十三万円、」助教授でさえ七十五万円になる。それが、教養部となると、教授でも文科系が十三万五千円、理科系四十四万七千円。とても学部助教授諸君の足元にもよれない。」(名古屋大学、1989、p. 250)といった状況が記されている。こうした物質的な条件格差に加えて、「ごく最近のことだ。全学教授が顔をそろえた席上で『大学ではねぇー、こんな風にやっとるんだが、教養のはどうだね』と、・・・教養部の教授たちは、さぞくちびるをかみしめたことだろう」(名古屋大学、1989, p. 251)というような、条件格差を身分格差とみなすような日常が教員間には醸成されていたようだ。
このように、大綱化のはるか前から深刻な「教養対専門」の格差と対立が存在したのである。上記の名古屋大のエピソードは1950年代後半から60年代初頭の間のものと思われるが、そのエピソードをわざわざ1989年発行の大学史に載せるぐらいだから、大綱化直前の大学内の空気を推して知るべきだろう。そして、大綱化によってカリキュラム編成の裁量拡大が大学側に与えられ、このような格差を是正するために旧教養部を解体することを大学教員側が決断したのである。
ツイッター上には大学設置基準の大綱化によって旧文部省が大学の教養教育を破壊した、という言説が蔓延っている。しかし、教養教育を破壊したのは1990年代の当の大学教員側である。「教養対専門」対立に関する河野氏の主張も含めて、これらは大綱化を巡る歴史修正主義ではないか。
キズナアイ騒動で社会学が話題になっている。その騒動の中で、「社会学って自分の好きなことを言っているだけの学問なの?」とか、「客観的な視点が無いならそれ学問じゃなくね?」とか、「社会学って必要なの?」とか、様々な言葉が飛び交っている。
ところで、僕は大学に進学することを考えている、文系選択の高校生である。そこでふと気づいたのだが、これから受験に臨むというのに、僕は社会学について何も知らない。知らないというのは、騒動で飛び交っている言葉に対して、「それってまぁこういうことじゃね?」という程度の考えができるだけの知識すら持っていない、ということである。将来ひょっとしたら選択肢に入ってくるかもしれない学問なのに!
そんなわけで、ネットで軽く社会学について調べてみることにした。
「社会学」と検索すると、真っ先に、ウィキペディアの一文目が表示された。
社会学(しゃかいがく、英: sociology)は、社会現象の実態や、現象の起こる原因に関するメカニズム(因果関係)を統計・データなどを用いて分析することで解明する学問である。
分かったような、分からないような。とりあえず、“統計・データなどを用いて分析する”ということは分かった。とするならば、騒動で言われていた、「客観的な視点が無いならそれ学問じゃなくね?」ということに対しては、「統計・データなどを用いて分析しているらしいよ」と答えることができそうだ。でも、まだ何となく腑に落ちない。
そこで思い出したのが、「そういや社会学って、社会科学の中にある分野だったよな」ということである。それなら「社会科学」も調べてみようか。
社会科学は、客観的に社会の真実を探求する事とともに、人類にとっての有益を追求する。また、文科系の学問において基礎となる間主体的な洞察力の活用と自然科学に由来する客観的視点を両立することで成立する。
うん……? ざっくりまとめると、
・社会の法則みたいなものを見つける→それを利用することで、みんなが幸せになることを目指す
・「これ法則っぽくね?」ってカンを働かせることと、客観的な視点を使うことの、両方をする
ってことでいいのかな。
いまいち理解できないのが、“自然科学に由来する客観的視点”の部分だ。これ何?
「自然科学」で検索すると、高校生が何となく信頼を寄せるウィキペディアには、残念ながら調べたい情報は出てこなかった。社会科学との対比の「自然」の部分に関する説明が多かったのだ。……ん? ということは、僕の調べたいことは、両者に共通する「科学」の部分にあるのではないか? その考えを以て思い返してみると、“自然科学に由来する客観的視点”、そう、“由来する”って書いてあったじゃんか。つまり、客観的視点の由来が自然科学なだけであって、社会科学が客観的視点を用いていない訳では無いってことだ。ああ、こんなことだから「最近の子供は読解力が無い」なんて言われてしまうんだろうな。ともかく、客観的視点は「科学」のものであり、それを知りたいならば、「科学」について調べればよさそうだ。そんなことを思いながら、「科学」のウィキペディアのページを開く。
こうすればこうなる、といった事象を集めることから、原因と結果を探してゆくのが科学的方法である。言いかえれば、究極的な目的であるなぜ (Why) を一端棚上げにして、まずいかなる状態で、どのような (How) 現象が起きているのかを記述することと、どのような条件下で何が起きるかを記録し、それに基づいて因果関係を分析しようとするのが科学である。
……分からん。「科学」で調べた時に、「科学とは 簡単に」という検索候補が出てきた気がするので、そっちで調べてみる。
https://www.geek.sc/archives/623
(小学校や中学校の理科の授業を挙げて)先生は実験前に皆さんに何かプリントを配って、「実験をしたらこういう結果になる」ということを説明したり、「実験によってどういう結果になると思うか、自分の考えを書きなさい」などのような指示を出したりしたと思います。そして、本当にその結果が得られるかどうかを検証するために、実験が行われたと思います。それが科学です。
なるほど、何となく分かった。科学とは、仮説→実験→検証という、小中学校の理科でやった流れのことなのか。ああ、じゃあ社会科学的な科学とは、「これ法則っぽくね?」ってカンを働かせる(仮説)→客観的な視点を使う(実験・検証)で、その実験・検証に使う客観的な視点が、社会学においては“統計・データなどを用いて分析する”ことなんだな。じゃあ、「社会学って自分の好きなことを言っているだけの学問なの?」って言葉は、半分合っていて、半分間違っていることになる。自分の好きなことだけ言って根拠が無いのであれば、それは「好きなことを言っている」ということになるけど、根拠があるならば、それは科学で証明された立派な法則だ。もっとも、優れた科学者なら、仮説の時点で言っていることはかなり正しくて、後は証明するだけ、ということもあるかもしれない。千田さんが何かオラついているのは、もしかしたらそういうことを言いたいのかもしれないなあ、なんて。
まあそれは置いといて、社会学を含む社会科学は、科学的な手続きを踏んで成り立ってきた法則を利用することで、みんなが幸せになることを目指す学問なのだから、どう考えたって人類にとって有益だ。だから、「社会学って必要なの?」というのはおかしいような気がする。
これでふわっと社会学について知ることができたし、「それってまぁこういうことじゃね?」と言うことができた気がする。ネットで軽く検索して得ただけの弱っちい知識ではあるけど、それだけでとりあえずは、例に挙げたような飛び交っている言葉は解決できそうな気がする。もちろん、議論はその上に成り立っているものであるはずだし、そうでないと時間の無駄だ。だから、これを「はっ、当たり前のことばっか書き連ねやがって」とか「いやここおかしくね? 幼稚な理解だな」とか言って、一笑に付してもらわないと困る――Twitterで何か言っている人たちとか。なので、この文章で違和感のあるところがありましたら、ご意見の程よろしくお願いいたします。
32歳。80人の女性を抱いた。
元々顔は整っている方だったが性格が根暗だったのであまりモテなかった。
貧弱なもやしっ子だったので、小学校ではいじめられ、中学校でもスクールカーストとしては下層だった。
そこで自信がついたのか、高校で文科系の部活に入ったからか、少しずつモテるようになる。
今まで女の子にちやほやされる、なんて経験がなかったのでイキりまくった。
顔が中の上くらいでも、文科系の部活においては「イケメン」キャラだ。
今考えると恥ずかしい話だけど相当イキっていたと思う。3年間で6人と肉体関係を持つ。
大学時代。
大学1年の時、はじめてネットで知り合った人と肉体関係を持つ。
大阪の人妻だった。今考えると人妻の自宅で旦那が不在時にヤリまくったというのも冷や汗ものだが
その時はまごう事なきサルと化していた。ここで、「ネットで女性を抱ける」という自信と経験がついてしまった。
元々、小学校時代に虐げられた経験の反動でプライドが高く、大学時代には「他の人より全ての面で劣っていたくない」と思うようになっていた。
ピグマリオン効果と嚙み合ったか、自己承認の手段がそれしかなかったのか、今となってはもう不明だが
「性の知識と経験」に関して、とにかく(少なくとも周りの男には)負けたくない、と思うようになった。
勿論、自分から他人にあけひらかす事はなかったが、どんな陰口や昔の同級生にバカにされても「でも俺はセフレが複数人いるし」と思うだけで全てを耐えることができた。
大学時代の4年で7人を抱いた。
そんな中、大学卒業時の飲み会で「お前は何人抱いたことある?」という話になった。
いつも通り「まあ、そこそこだよ」と答えていたが、大学の友人が冗談で「コイツ80人は抱いてるって~!」と大声で言ったのをきっかけに
飲み会のテンションなのか「80人を抱いた男」という事になってしまった。
当然、飲み会の与太話、今や誰もその事を覚えていないだろう。
だけど、自分の心には「すごいと思われるラインが80人ならそのラインを越えてやろうじゃねえか」といらぬ闘志が沸いてしまった。
社会人になって、お金を稼ぐ手段が出来た。会社も緩く、時間と金が出来た自分はとにかく手当たり次第に女性を抱きまくった。
知り合い、合コン、ネット、最初はマッチングアプリなんて邪道だと思っていたがそのプライドもとうに捨てた。
ありとあらゆる手段を使い全国を回った。抱きまくった。
自分の中のルールとして「強姦、睡眠、騙すような手口でのセックスと中絶は絶対にしない、させない」という事だけは心がけた。
勿論、失恋直後などの心が弱っている時を狙う事はあったが、全て和姦だった。
自分の性の嗜好で無理やりするのがNGだったことは本当に神に感謝したい気持ちだ。
ストーキングもされたし殺害予告もされた、刺されたり勿論、性病を貰ってしまう事もあった。
そうしてお金や体や精神やその他諸々を犠牲にしながらも先日、風俗などの女性を除いて、80人を達成してしまった。
もちろん、世の中には80人以上抱いたり、校長のようなもっともっと凄いヤツがいたりするのだって分かっている。
ただ、それでも自分の中で、「80」という数字を越える事が出来た。
そんな僕の心の中に残ったのは、「老いへの恐怖」だった。
いつの間にか女性を抱く事が生きる意義になっていた自分にとって、抱けなくなる事は生きる意味を失うことになっていた。
中折れする事が少しずつ発生してきた。3回戦の途中でどうしても勃たない事が増えてきた。
80人も経験すれば、上達もする。今までの感想から、それなりにテクニックがあることも、下半身がよい形である事もある程度自覚をしている。
そんな、自分のセックスの才能(と努力)が失われていくのが怖い。ただただ、老いていくのが怖い。
もはや自分がセックスする事は二次的な楽しみとなり、今は「まだ自分が若くて食べられる内に、一人でも多くの人に美味しいものを食べてもらいたい」そんな驕り昂ぶりの中で生きている。
自分の鮮度が落ちていくのが、怖い。
オチも何もないけれど、ここにひっそりと記しておく。
その理由としては、ノリが嫌い、暑苦しい、声がでかい、等色々見かけます
自分自身体育会系ですが、文科系の友達もいますし、体育会系の友達もいます
体育会系と文科系混ざって遊ぶこともあります、文科系の友達に第一印象を言われたのが、「体がでかくて声も大きかったから少し怖かった、でも話してみたら良いやつでガラッと変わった」
と言われました、自分としては部活で声を出したりしてたので、自然と地声も大きくなっていてこれが普通だと思ってたんですけど、文科系の人からしたら普通じゃなかったみたいです。
文科系の友達もいると言っても、自分でも嫌いな文科系というのはいます、文科系にかぎらず体育会系にもいますが、
達観ぶるんです、相手の事を下に見ているというか、、先生にも敬語をしっかり使わなかったり、相手を見下すような目線をしてるんです、とにかくレッテル張りが好きで体育会系の人にたいしては体育会系=バカみたいな態度をとったり
そういう人は苦手ですね、
ネットで体育会系を嫌ってる人はさっき言ったような人が多いと思うんですよね、体育会系的考えにも良いところとわるい所があります、もちろん文科系にも良い所と悪い所もあります、自分は体育会系だから文科系だからと言ったレッテル張りをせずに両方歩みよっていった、方が相手の成長にも、自分の成長にも繋がると思います
「いくつになっても夢を抱き続けていたい」「年をとっても夢を語りたい」という台詞をふと思い浮かべた。決して若いとは言えない年齢だが「事業としてこうしたことを実現させたいんだ」という人を見るにつけ、「この人はすごいなあ」と思うようになったのはいつからだろうか。
小さいころは学者になるのが夢だと文集に書いてあった。“よくわからない薬品で遊んでボカン!”といった非日常的な世界に憧れていたからだろうか、Dr.スランプアラレちゃんの則巻千兵衛やポケットモンスターのオーキド博士のように、小さいころに見ていたアニメの世界の中にいたコミカルで気さくな学者キャラクターが好きだったからだろうか。当時なぜそうなりたかったのかという答えについて、今や断片的な記憶しか持ち合わせていない。
また、その夢を追いかけることはできただろうか。いわゆる理系の学者に憧れていたが、高校では理科よりも歴史が得意だったという理由から文系を選択した。そんな理由で大学に入ったものの「文科系の学問ってあまり面白くないな」と思い、理転をした。(幸か不幸か、いわゆる文理融合と呼ばれる大学にいたので、退学とか仮面浪人という選択肢は取らずに済んだ。)選択肢はいくつかあったわけだけど、その中でも分野的にはコンピューターが得意だなと思って、情報系に転向した。夢や目的よりも、ネガティブな理由だったりスキルとしてこっちのほうが適正があるなといった理由で自分の進路を決めてきたので、夢は追いかけられていないのだろう。
というか、そもそも夢って何だろう。夢を実現することをゴールとするならば、それに向かって努力をするというレールができる。それを研鑽していけば、夢を追いかけるということになるんじゃないか。つまり夢を抱くということは、ゴールを設定するということになるのだろう。仮に夢が「宇宙飛行士になりたい」というものだったらそれに相応した勉強をして、研究成果を出すことが夢を抱き、夢を追いかけることになる。そんな単純な論理だと思う。
だけど今の自分にはそのゴールが何なのかがわからない。得意な分野・必要とされる分野で求められる事を遂行してここまで生きてきた。いわば、夢の抱き方、ゴールの設定の方法がわからないのだ。
たぶんそれなりに評価されて生きてきたんだと思う。だから夢みたいな確固とした目標がなくても、なんだかんだ生きていけたんだと思う。だけど、いま後ろを振り返ってみると、何も残っていないような気がした。ステージとしてどんどん高いところには立てていると思うんだけど、まっすぐというよりはクネクネした道を通ってきていて、正直この先どうなるかもはっきりとはわからない。
夢がなくても生きてはいける。だけど、夢を抱いていたらどんな生き方になっていたのだろうか。この目で反実仮想の世界が見れるなら、見てみたいものだ。
作品のクオリティ自体とそれを好く人間のヤバさは関係ありません。
男編
4. 『桐島、部活やめるってよ』(ルサンチマンが強い)
5. 『愛のむきだし』(ダメなサブカル人間である可能性が強い)
6. 『ガールズ・アンド・パンツァー』(オタクというわけでもないかもしれないが、ほぼ確実にアレ)
7. 『レザボア・ドッグス』(マスキュリンでぼんくらという最悪な取り合わせ)
8. 『ファイト・クラブ』(軟弱な文科系であればある分だけダメさが比例する)
9. 『コマンドー』(ユーモアセンスを勘違いしている可能性が高い)
女編
1. 『塔の上のラプンツェル』(高確率でメンヘラ)
4. 『ビューティフル・マインド』(支配欲の強い差別主義者)
8. 『新しい靴を買わなくちゃ』(白痴である可能性が高い)
[追記]
「『(500)日のサマー』や『バッファロー'66』が入ってないのは手落ち」というご意見に関しましてはまったく仰る通りであり、『この映画を好む人間はヤバい!』編集部におきましては慙愧の念にたえません。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/04/post-4998.php
「天才テスラも驚愕? カーボンナノチューブが勝手に電気回路を作り上げた」
交流高電界で電気双極子が整列している話なのに「勝手に」とするとオカルトになってしまう。
テスラとか内容と本質的な関係がない。「電界の発生にテスラコイルを使いました。」ってだけ。
それなのに本質的なことは何も書いていない。たとえばテスラコイルで何キロボルト作っているのとか、
CNTを溶かしている泳動分散媒質は何なのとか、周波数はどれくらいなのとか。
ライターさんは文科系の人だし、今回の記事はアメリカの大学の広報記事を要約しただけ。
内容を理解せずビデオがキャッチ―だからと安直な翻訳記事を書くからよくわからないヘンテコな記事が出来上がる。
元のACS論文も見てないんじゃないか。YOUTUBE動画紹介記事なら同じ翻訳でも「らばQ」さんとかの方がレベル高いくらい。
稿料が安過ぎるなら出版元・編集のレベルが低いんだし、十分な稿料ならライターさんの実力不足。
元記事の大学広報ビデオだと、ビンの中のナノチューブが燃える位の高電界かけてる。
(ファラデーケージ無しでやってるのかな?)
ちょとだけ言わせてほしい。A子の容姿についてしか書かなかっただけで、「容姿しか見ていない」になるのはちょっと言いすぎやしませんかね?
あのですね、確かに容姿についてしか元増田は書かれていないけれど、特筆すべき点ということで書いただけで、A子が好きな食べ物だとか、バンドだとか、そういうことを買いてどうなるんでしょう?
ついでにいうと、ブックマーカーの皆様方が思うより、女の世界において、容姿っていうのはかなり強い影響力を持ってると思う。
男性もね、中学くらいまでは価値観が未分化で、「いけてる/いけてない」の二分法で、一種のカースト制度だと思う。
スポーツが出来る子は、足も速いし球技も出来て、クラスの中心で、ヤンキーがモテるとは言わないけどヤンキーが多かった。
ファッションとしてのヤンキー、主流派のたしなみ、みたいなもんだったと思う。
とにかく、そういう「いけてる」とそうでない人たちという、カースト制度があったのを憶えてる。
でも、高校も後半、大学になるころには、価値観も分化していって、一絡げに「スポーツが出来る」じゃなくて、「野球が得意」「サッカーが得意」っていう風に細分化して、「ピアノがうまい」「歌が上手い」「数学が得意」っていう文科系や理数系の長所も異性の魅力として認めれらるようになって、たいていの男子は多少なりとも異性として誰かの目に留まるようになっていったでしょう?
誰もが誰かのオンリーワンになれる。
お腹の膨らんだ頭頂部が寂しいオジサンだって、結婚してるでしょう?
一方で、女性はね、10代の頃も20代の頃も30代になっても、「女子」という競技の中でしか勝負できないじゃないですか。
顔の造形は佐々木希のような端正さ、ジブリ映画の主人公のような好奇心を秘めたまなざし、陶器のような白い肌、ガラスで出来てるような光を反射する爪。
一挙手一投足はおろか、瞬きの時のまつげの揺れ一つで、空気を変える。
そんな子がいたら、それは容姿についてまず描写してしまいますよね?
かわいい子は逆にいじめられるっていうけど、それは男性が考える嘘だと思う。
「かわいいは正義」
本能的に、叩けない。
だから、やっぱり容姿について書くのは、別に不当なことじゃないし、だからといってそれが責められることでもないと思うんですよ。
女子力がない女子が生き抜くためには、しぐさや化粧のテクで女子力をアップさせるか、敵の少ない戦場で勝負をしていくしかない事情もあると理解できませんか?
男性のバリエーションが豊かになるので(中学のように「いけてる/いけてない」だけじゃなくなるので)、女子からみた取りあいは少なくなるけど、男性からみたら、一番きれいな子と、それ以外というふうに見るでしょう?
自分を受け入れてもらうことだけで、相手を愛するとか受け入れるという発想が皆無になってしまうことが今でもある。
異性に全く相手にされない時代の呪縛で、それがひょっこり顔を出したとき、それに気づいたときのハッとする感覚、それは特別なことじゃない。
かなりの女子が持ってる。
私には好きな人がいた。それは中学と高校という多感な時期を一緒に過ごした同級生だった。
私と彼女は中高一貫の女子校で出会った。こう書くと百合だと思われるだろうが、あくまで私の性癖はヘテロであり、好きの感情は友情の域を超えないのだが、確かに私は彼女に憧れていたし、好きだった。
初めて彼女に出会ったのは中学一年で、彼女は隣のクラスだった。同じ部活動の子を経て知り合った。彼女はすらりとした身長で、絵と文章が上手な少女だった。文科系の遊びが好きだった私はすぐに友達になりたいと思った。しかし、人見知りで内気な彼女は話しかけてもろくに反応がなく、あまり接する機会もないまま学年が一つ上がった。
中学2年になって、私は彼女と同じクラスになった。驚いた。まさかこんな奇跡が起こるなんて思ってもみなかった。しかも、彼女と仲のよかった子は全員別のクラスで、彼女は一人で昼食を食べていた。
チャンスだと思った。
私も親しい友人が全員別のクラスになってしまったため、一人で昼食を食べていた。私は彼女に声をかけようか悩んだ。中学一年の時一度話しかけた時にすげない反応をされたことが怖くてなかなか声をかけることができなかったのだ。それでも私はある日勇気を振り絞って言った。一緒にお昼を食べませんか、と。震える声で言った。私の不安をよそに、彼女はあっさり承諾してくれた。それから彼女と一緒に昼食を食べるようになり、どんどん彼女と親しくなり、ついには放課後の習い事まで一緒に通うようになった。
彼女は演劇部の花形で先輩後輩問わず大勢からファンレターをたくさんもらっていた。そのころ流行っていた文章投稿サイトでは常にランキングの上位にいた。出会い系に電話してのこのこやってきた男を眺めるといった衝撃的な遊びをやったりもしていた。まさに、私にできないことを平然とやってのけるッ、そこにシビれるあこがれるゥ!といった感じだった。
それに反して私は実に平凡だった。何のとりえもない、誰にも顧みられることのない地味な存在。満たされない承認欲求を持て余した私には彼女はあまりにも私の欲しいものをすべて持っていた。純粋に彼女が羨ましかった。彼女は常に求められていた。輝いていた。本当に平凡だった私はそんな彼女に一番近しい存在になれたようで有頂天になった。
しかし、だんだん私は物足りなくなっていった。私の彼女に対する感情と、彼女の私に対する感情がイコールでないことに気付いてしまったのだ。
というのも彼女は常に孤独感に苛まれており、さびしい、とか、どうせ私は一人なんだ、とかそんなことばかりを言い、私からしてみれば一緒にいる私はなんなんだ!?という思いにならざるを得なかったのだ。私からみれば彼女の周りは常に彼女を気にする人で溢れていたし彼女は確かに私を含め大勢の人から愛されていた。しかし孤独感なんてものはとどのつまり本人の感じ方次第で、客観視にはなんの価値もないということを解するには当時の私はあまりにも幼く、彼女の状況に寄り添ってあげられず彼女に対する感情をどんどんこじらせていってしまった。
とにかくネガティブな発言をし続ける彼女を否定し、私の望む彼女を彼女に押し付けた。押し付け続けた。まるで彼女の管理者であるかのように傍若無人に振舞った。さびしいだと言えば、何を馬鹿なことをあなたの周りにはこんなに人がいるのに甘えるなと言い、孤独だと言えば、あなたより孤独な人なんていくらでもいる被害者ぶるなと言った。ある時などは、彼女がひどく品のない替え歌を歌ったことがあった。私はそんな歌を彼女に歌ってほしくなかった。再三歌うのを止めてくれと彼女に言ったが彼女はやめなかった。私はついに彼女を平手打ちした。彼女の眼鏡が飛んだ。その後どうして関係を修復したのかまったく記憶にない。だが、飛んで行った眼鏡のことは今でも鮮烈に覚えている。
高校に進学し彼女が学校を嫌がり登校日数ぎりぎりになった時も、私は彼女にとにかく頑張れと言い続けた。あなたには才能があるのだからもっと努力すべきだと。気の持ちようだと。疎外感なんてものは気のせいだ、無力感なんて欺瞞だ、あなたは恵まれているのだからと。
私の言葉が届かないのは彼女のなかで私の価値が低いからだと思った。なんとか私の中の彼女の存在くらいに、彼女の中での私の存在感を持たせたかった。彼女に私を認めて欲しかった。私がいるということを認めてほしかった。しかし中身のないハリボテをいくら繕おうとも全くの無駄で、結局私の想いは報われることはなくそのまま高校卒業となり私と彼女は別々の県に進学した。
遠い地に離れ離れになったが彼女と疎遠になるのが嫌で、私はなんとか彼女との接点を持ち続けようとした。そのころはまだSNSなどはなく、当時彼女がやっていたHPサイトの掲示板に時折書き込んだりメールしたりするだけだったが、とにかく頑張った。連絡すれば無視されることはなく返事はあった。一年に一度会うか会わないかだったが何とか連絡がつく状態を保ち続けた。彼女の住んでいるところの近くに住んでいた友人を紹介してより彼女の情報が入ってくる状況を作ったりもした。なりふりなど構っていられなかった。
そうしているうちにSNSが台頭してきた。もともと熱心にHPの更新を行っていた彼女はSNSでは非常に饒舌で、SNSさえあれば彼女の日々の暮らしや考えていることなどが詳細に知ることができた。
しかしSNSでの彼女はあくまでも昔のままで、いつも自分の不幸を嘆いていた。世間に毒を吐いていた。だんだん周りが結婚し、子供ができ始めた。彼女はずっと結婚願望があり、何人も彼氏が変わったが結婚には至らなかった。
そんなある日彼女がフェイスブックで幸せそうな同級生の投稿に嘲笑われている気がして辛いと言った。日々の生活に行き詰まりを感じていた私はそんな彼女に自分を重ね、そんなに自分を追い込まなくてもいいじゃないかと言いたくなった。ずっと彼女に辛辣なことしか言えなかったが、いまこそ辛さを分かち合えるかもしれないと思ったのだ。
確かに彼女たちは幸せそうで、あなたの望む幸せを持っているかもしれない。私はあなたの欲しがる幸せを幸せとは思わないので彼女たちをなんとも思わないけど、私の望む幸せを彼女たちが持っていたら妬ましいと思うだろう。でも、私の望む幸せはあなたにとってはどうでもいいことだから私の妬みなんて的外れだと思うでしょう。それとおなじで、誰もあなたを馬鹿になんてしていないよ、元気を出して、と。
彼女は怒った。
励ましが欲しいんじゃない。こんなものはチラ裏なんだからいちいち構うな。放っておけと。
壊滅的なすれ違い。私の言葉は一切彼女に届かない、この関係はすでに手遅れだ。そう悟った。いや、ずっと気付いていたけど見ない振りをしていた。彼女の感情に寄り添えない自分勝手な私は彼女にとって彼女の大切な人ではないということに。挽回はもう不可能だった。
彼女はSNS上では他の人には会いたいと頻繁に言っているのに、私に会いたいと言ったことはない。連絡するのは常に私から。誕生日にメッセージを送るのは私だけ。
正直疲れたのだと思う。私の努力なしには継続しない関係に。あまりにも些細なつながりにしがみつき、これは友情だと妄信していた。しかし、こんな関係は友情とは言えない。友情ではないことをずっと認めたくなかったが、私はついに諦めた。
私は怒った彼女にごめんと一言だけ言って彼女をフォローすることを止めた。見ているとやっぱりなにか言いたくなってしまうから。彼女も翌日私がフォロー解除したことに気付き私のフォローを解除した。解除後私について一言だけ、もう会うこともないから別にいい、とのエアリプがあった。完全に彼女との18年にも渡る縁が断たれた瞬間だった。
長い、本当に長い片思いだった。震える指先でフォロー解除ボタンを押したとき、ちょっと私が泣いたなんてきっと彼女は思いもしないだろう。
ただ、いま久しぶりにフォロー解除前後のやり取りを見直そうと彼女のアカウントをのぞいたらなんとブロックされていた。
フォロー解除後はしばらくブロックされていなかったし(未練がましくちょっとの間フォロー外から眺めていた)、フォロー解除後も特に彼女に対するエアリプをしたわけでもないので、少なくともどこかのタイミングで私に対して何かを思うタイミングがありそしてアクションを起こしたのだ。どうでもいい存在であればブロックなんてする必要などないのだから、私という存在が彼女に何かしらの瑕疵を与えることができたのかもしれないことを少しだけ喜んでしまった私は、本当に救いようがない。
自分は10年ほど前、全国大会常連の放送部にいて、ほぼ休日のない高校3年間を送っていました。
例外もあるかもしれないんですが、総文祭で大会がある文科系部活動ってのには大抵「全国常連校」があります。
自分たちもそうだったし、放送以外の部活の人たちも結構そうだったと思いますが、文化部でも全国常連校って多くが体育会系ノリだし、ちょっと軍隊気質です。
そしてそんな中、軍隊のような反復練習もこなしつつ、「どうすればもっと良くなるか」を考えて取り組み、レベルアップしていくような人が一定数います。
滝先生がどうとか、指導方法がどうとかではなく、結局はそのものと向き合う本人の問題じゃないかと思うのですよね。
先生は全国大会に向けてうまく生徒たちを誘導しているなーとは思うのですが、だからといって久美子たちから考える機会を奪っているようにも見えないのです。
高校生くらいって、「やりたいこと」と「できること」に折り合いをつけて考えるようになってくる時期です。
「できること」の選択肢を広げてくれるのであれば、滝先生のような指導をしてもらえる方がうれしいかな、と個人的には思います。
小松 美羽(こまつ みわ、1984年(昭和59年)11月29日)は、日本の版画家。アーティストとして風土に所属している。
長野県埴科郡坂城町出身。2004年(平成16年)に女子美術大学短期大学部を卒業した。
2009年(平成21年)に「美しすぎる銅版画家」としてメディアに取り上げられて注目を集めた。
小松美羽オフィシャルブログ「千年先のMIWACODE」Powered by Ameba
http://ameblo.jp/komakoma-blog/
画歴
●日本版画協会入選(東京都美術館) ●女子美優秀作品賞2度受賞(ガレリアニケ・大学校内) ●大学版画展(町田市立国際版画美術館) ●ROSES展(スパイラルガーデン) ●銅夢展(すどう美術館) ●絵と花のコラボ展覧会(神戸異人館・ライン館) ●阿久悠トリビュートアルバム「Bad Friends」(ポニーキャニオン)ジャケットと挿絵を担当 ●流通専門誌 「 Value creator 」表紙を担当(年間) ●阿久悠トリビュートアルバム「歌鬼3」ジャケット・挿絵担当 ●TSUTAYAオリジナル絵本・絵担当 ●ギャラリータグボート(絵画・版画取り扱)
週刊プレイボーイ 掲載12月15日 週刊SPA! インタビュー掲載
12月15日 CS275池袋ウェストフードパーク「MEGA美の泉」OA(26:30~)
12月16日 阿久悠氏トリビュートアルバム「Bad Friends」発売
12月16日 夕刊フジ 阿久悠氏トリビュートアルバム「Bad Friends」発売紹介記事掲載(小松がジャケットと挿絵を担当)
12月16日 CS275池袋ウェストフードパーク「MEGA美の泉」OA(18:30~)
3月29日 日本テレビ「DON!」美人スペシャリスト特集コーナーにてVTR&生出演
4月22日 au携帯ニュース情報サイト「ニュースEX」にて「美しすぎる文科系女子」特集に登場(1週間連続)
4月24日 J-WAVE「kiss and hug」内「WHAT'S YOUR JOB?」コーナーにてゲスト出演
5月30日 スポニチアネックスにて阿久悠トリビュート「歌鬼3」紹介記事掲載
7月14日 阿久悠トリビュート「歌鬼3」発売 ジャケット・挿絵担当
7月 女子美術大学オープンキャンパス・卒業生紹介タペストリー
8月 ソニー・エリクソンau公式サイト インタビュー記事掲載
9月6日 読売テレビ ズームインSUPER(関西ローカル部分)出演
9月14日 日本テレビ「oha4!NEWS LIVE」仕事人名鑑プロファイルコーナー出演
12月18日~26日 TOKYO CHARACTERS COLLECTION 2010 バイナルメーションbyディズニーストア ミッキー作品展示(青山スパイラルガーデン)
タンブラーに書こうかと思ったんだけどやめたことがあって、コミュニケーションに関することだからそれはどうでもよくなっちゃったんだけど、ここでタンブラーじゃなくて匿名ダイアリーに書こうと思ったことに興味関心が移った。
フォロワーって初期ツイッターのころの、RSSリーダーの大量フィード購読者みたいのとは別になっちゃったなぁという。
フォロワーとなんとない空気感の中で気のせいかもしれない相互的な人間関係というものが醸成されている。あ、タンブラーはいまでも初期ツイッタ的なのかな。俺の使い方が身近な人+αしかフォローしてないから、タイムラインからそういう感じを幻想的に受け取っているだけかもしれない。
まぁなんだ、俺のフォロワー話を聞けよ。二分で済ませるから。キーボード打つ方は10分くらいかけてんだぜ。さっき新星堂で買ってきた木村カエラのベストでいうと3曲分くらいかな。Sun showerいい曲だよな。ホレ、これだよ。 http://www.youtube.com/watch?v=lIt1k9TwtTg
Instagramなんかもまぁ俺は個人的な人間関係において使っており、Twitterはアカウントによるんだがまぁ大抵飲んだことあるか飲みたいねぇなんて話してたりそうでもない方々をフォローしフォローされておるわけだが、はて何の話だっけ。
自分のタイムラインを信じる、という感覚を抱く人は居ると思うんですよ。全く何を言っているのかわからないというひともいるとおもう。たとえば1000フォローしていたらこんな感覚はないだろうし、人付き合い重視でクソツマンネことしか書かないひともフォロー外さないとか、そういう人もこの感覚はないとおもう。
そんでその上で他人の、というかフォロワー氏のタイムラインが彼を裏切らないよう、自分がタイムラインの一部として踏み外さない。いつものみんなの範疇にとどまる。いきなり文科系コミュニケーション論とかタイムラインに流入させない。少なくとも自分はそう心がけようか、みたいな。
ていうかね、パーソナルブランディングなんですよ。セルフブランディングと違うよ。ああこれ両方多義語だ。ダミだ。つまり自分で自分を操縦するための規定をおくということ。その並走として自分のタイムラインを信じられるような情報流入のコントロールをしたり、他人に流す情報の属性や質を加減したりチャンネルを切り替えるということ。
こんだけ情報発信のチャンネルを切り替えやすい世の中もないですよ。マツコデラックスだって媒体によってモードを切り替えているというし、だからみんなたまにはmixi日記書こうぜ!
サークルの元指導者に、過去に売りつけられた機材と車を、「お前らのものは俺のもの」理論で盗まれたが、もはや為す術がない
でもやっぱり、こんなの受け入れたくない。
A だけ見ると、二重取りではないか。品物とその代金の両方を手に入れてるじゃないか。本当に悔しい。
このサークルは、これまで吸われるだけ吸われて、正当な(正義な?)方向転換をしたら財産まで奪われるのか。
世の中、やっぱり良識がない人間の方が得するようにできてるのか。
納得行かない。
映画「桐島、部活やめるってよ」をWOWOWで見た。
スクールカーストを描いていて、よく描けていると思うし、何というか邦画にありがちな説明的台詞が少なくてよかった。
たとえクラスではカースト下位であっても、部活(文科系の映画部、吹奏楽部)では上位にたてることがある。情熱や技能があれば。というより、ひたむきに打ち込むものを持つのは尊いし、生きて行くしかない。という辺りが主題かな。
大学卒業して八年が経った今、スクールカーストの捉え方が昔の自分とは違っている。
昔だったら、チャラ男パーマがムカつくとか、彼氏を自慢してる女の子の性格が悪いとか、そんなことしか思わなかった。
今は違う。
彼ら、チャラ男や性格悪い女の子の気持ちが、少しはわかる。俺だってどうしたらいいかわからないんだよ、仕方ないじゃない、虚しい、という叫びが聞こえる、気がする。
帰宅部でチャラチャラするとか、そんなことしか出来ない世界に閉じ込められて苦しんでいる。桐島の不在によって。
昔の自分、彼らを羨ましがってた。美人/イケメンの取り巻きを。
部室というか溜まり場で、オタ友達と漫画を回し読みして、当然ながら下位カーストにいて、上位カーストを羨ましがってた。美人はあっちにしかいないし。アホみたいだが、実際、アホだ。
だがしかし。今になって思えば、それでよかった。そうとしか出来ない。俺、うまく立ち回ってたな。
いろいろ記憶が蘇った。
よい映画でした。
就活ないって…なくても相当に大変じゃないの?おたくの学部は。
みんなおかしくなってるよね。
理科系なら(学部卒でなければ)研究という話題があるとはいえ、
文科系になると、大学院に進学すると就職が難しくなるから、学部卒が大半。
それで、就職活動のなかで、大学で学んできたことの話なんてほとんどない。
でも、学問の話でも内定はもらえる。そもそも、内容より話しぶりその他の外観的な部分が大切みたいだ。
これではどうにもしようがない。
誰かひとりのせいではないよね…
一流私大文系。14卒就活生。地方出身。東京で一人暮らし。1浪。
予備校の授業には顔を出すけれども、前日に短時間で予習するだけで、復習は全くしなかった。
英単語や古文単語といった暗記モノが大の苦手で、最後までまともに覚えられなかった。
大学に行きたいというよりも、一人暮らしをしたいという気持ちが強く、大学受からなかったら専門学校でも行こうと思っていた。
でも大学に行くなら祖母でもわかる有名大と思って、高望みして受験したらなぜか受かった。
何校か受かって、どこへ行こうか選ぶこともできた。
そういう経緯で大学へ進学したけど、入学当初から就活が不安だった。
受験勉強も満足にできない、こんな自分が会社で働くことなんでできるんだろうかと思っていた。
だから、1年生の頃から、就職活動関連の新書や雑誌記事を読み漁った。
新書ではよく、マニュアル本が否定されていたから、そういう類の本は読まなかった。
一時期、新書にハマって就職活動以外も読み、講演会に行くこともあった。
サークルは文科系に3つ属し、その中の1つ(2、30人規模)では代表をやった。
成績は上の下あたりで、留年の心配はなく、少し第二外国語を頑張って資格を取った。
1年生の秋から冬にかけて、専門学校に通い、簿記2級を取った。
2年生の冬にTOEICを、何も勉強せずに受験し、750点以上取れた。
ゼミでは、何人かで論文を書き、そのときはリーダーの役割をやった。
周りを見ると、複数インターンに行っている人もいた。
絶対に通るインターンをいくつか教えてもらったけど、あまり興味が湧かなかった。
なぜならそれは金融系のものだったが、エリート意識が根付いていそうで嫌だったからだ。
大学では、自分の大学にプライドを持っている人が多かったが、自分にはそれが受け入れられなかった。
愛校心は人並みかそれ以上にあるのだが、偏差値が高いからといって、他の大学から見て上にいるなんて思えなかった。
そういう考えのもと、あまり同じ大学の人が受けないような、中小企業やベンチャー企業に入りたいと思うようになった。
12月1日にナビサイトがオープンしてからは、システムエンジニアに絞ってエントリーしていた。
システムエンジニアに絞ったのは、今でもはっきりとした理由は見当たらない。
でも多分、新書の中で、社会人に必要なスキルとして英語と会計とITが挙げられていたことと、
ベンチャー企業の多くはIT系で、ITの知識を持っていると転職しやすいと無意識に感じていたのがあるんじゃないかと思う。
そういうわけで、文系でもシステムエンジニアになれる、中小企業やベンチャー企業を多数エントリーしていた。
週に何度か説明会に参加していた。
でも周りを見ると、一日に複数説明会に参加していて、焦ってしまい興味のない会社の説明を予約してはキャンセルしていた。
年が明けて、大学の定期試験が終わってからは、説明会に加え、OB訪問も行うようになった。
システムエンジニアの人ではなかったが、他の業界を知ることができて良かった。
この頃は、大手企業の子会社でシステム開発を行っている所を中心に見ていた。
そこから掘り下げて、保険系のユーザー系SIerに狙いを定めた。
そんな中、転職サイトで調べていると、こういう会社は親会社から出向した人が上司にいることが多いとわかった。
上昇志向が強い方ではないが、ある程度で出世が止まってしまうことに違和感を覚えた。
この記述を見てから、今まで考えないようにしてきたことが溢れ出してきた。
研修制度や福利厚生、給与のことを考え始め、大企業の方がいいのではないかと思うようになった。
また、何となく決めたシステムエンジニアに絞るのではなく、総合職を目指してもいいのではないかと思った。
ある程度のレベルの大学なのに、最初から大企業を目指さないのはおかしいかもしれないとも思った。
入学当初は働くことができるか不安だったが、就活関連の新書などを読んで、
中小企業やベンチャー企業でなら自分でも働くことができるかもしれないと考えていた。
しかし中小企業と大企業の差を知り、周りの大手志向も助長し、大企業へ舵を切ろうとしたところで、劣等感に苛まれている。
自分なんかが大企業で働くことなんてできるのだろうか、というのが邪魔をして、ここ数日まともに活動できていない。
転職サイトは就活本に載っていたから見るようになったが、正直見なければこんなに悩まなかったと思う。
でもまだ選ぶことのできる段階から現実を知ることも大事だとも感じた。
システムエンジニアというのは、選ばない方がいい職種なんだろうか。
メーカーなどで総合職として働く方が、自分には合っているのだろうか。
最近はそういうことを考えては、先が見えない道のりに不安で一杯だ。
自分は、プライベートより仕事を優先させてもいいと思っている。
しかし精神的に不安定のところがあるから、社員同士が仲の良い雰囲気の所がいい。
もしものときに転職できるように、社外でも通用する能力を身につけたい。
地方や海外への転勤も厭わないが、最終的には地元か三大都市圏に腰を据えたい。
忙しい時期に深夜勤務や休日出勤があるのはいいが、それが恒常化しているのは嫌だ。
この条件を全て満たす所はあるのだろうか…
何かTM2502氏が(蛇足)あーんまーりだぁー! - Why do you need ...?と嘆いていたので、実際青二才氏の該当エントリ(体罰と「想像力」と「公共性」と… - とある青二才の斜方前進)を読んでみたところ文章があまりにも汚いので、添削修正して翻訳してみました。え、何故自身のブログに書かないのかって……? だって、何かヤじゃん、何かさ。
なお、強調するタグ等はiPhoneからの更新なのでありません! ごめんなさい! あ、あと青二才氏本人から消せと苦情が来たら消しますのでご了承ください。また私自身国語が苦手なので、もし何かおかしい部分がありましたら修正いたします。
では、以下が本文となります。
僕は経済学の人だから「公共財の概念」から見て、体罰は必要だと考える
Twitter等で「教育目的なら体罰も必要になる」と発言したところ「体罰が無くても教育はできるし、クラス運営もまともにできる」と反応が返って来た。この発言の問題点を浮かび上がらせる為に、ここで岡田斗司夫さんとの対談での東浩紀さんの発言を引用する。
「体罰ならまだ明確な線引きができるが、これがハラスメント(嫌がらせやいじめ)ともなれば、もはや線引きさえできなくなる。従って、生徒と関わらないように、関わらないようにすることこそ教員の合理的な行動である。」
以上の発言は「いじめ問題」だけに限れば的を得ている。つまりは「教師に与えられた「権限」と、教育者が「求められる水準」が不一致になっている」ことが問題である。
家の中で「しつけ」をする機会が共働き等で減れば、ますますこの「不一致」は拡大する。たとえば「子ども」が教育の現場に増えたら、教育の現場に「勉強教えろ!」と親御さんが言ったところで、現実は授業が聞けずコミュ力が無い子供がそうでない子供の授業を妨害し、勉強を教える以前の問題になる。これは病院や自動車教習所も同じだ。
ここで経済学を使って例えれば、確かに患者も生徒も(及びその保護者は)「お客様」ではあるが、その考えは50%は正しく、50%は間違っている。確かに、医者も先生も「正しいこと」は教えられるが、「正しいこと」を守ったり実行する気がない人には教えても無駄だ。
とりあえず学校も病院も、基本的には「病気を治す・免許取るのはあなただから、目的を果たしたければちゃんとやってね」という場所なので、体罰や反抗的な人が荒らしたりすることも少ない。(そして、利用者に「大人」の割合が多いからね)
だけど『公共財』という概念で考えたときに「リスクを負うのはあなただから、あなた自身がちゃんとやってね」では済まないのが「公教育」の難しさである。
ここでいう『公共財』とは、道路や学校の授業、映画館や電車のように「みんなで使う・共有するモノ・サービス」のことを指す。
経済学の用語だから難しく聞こえるが、要は「映画館でしゃべる客・暗闇でおっぱい触る男、喘ぐ女は死ねばいい」「電車の中で吐くなよ!臭いじゃないか!!あああ、そこ((((;゚Д゚))))もらいゲロするなよ(´・ω・)」というだけの話だ。
しかしそんなお客でも、お金払ってる以上は排除できない、理由は原則として誰でも利用できる施設だから。例えば電車で隣の椅子に、横に巨乳女子高生が座ってても、臭いホームレスが座ってても、同じ料金を払わなければならないからだ。
この『公共財』という概念は、学校に対しても適用してもいいと考える。理由は授業はバカでも賢くても平等に受けられ、そこで授業中に騒ぐ奴がいれば「俺の勝手」ではすまない。
そして騒ぐ奴に限り「スクールカーストが高い」場合が多く、生徒同士で注意して自浄する事もできない事が多い。僕が体感した例としては、腕力の強い野球部部員が若い女教師いじめて辞めさせられる(注釈:「辞めさせられた」という述語が「野球部員」か「女教師」のどちらの主語に掛かってるかは不明)というパターンを目撃したことがあるし、そういう生徒は自分よりも弱い・優しいから殴ったりしない先生にはでかい態度をとる。
更に高校も大学も簡単には「停学・退学」を行うことはできないから、そういう生徒が教育サービスを劣化させるという事はどの段階の教育にも言える。
だが経済学上は「問題児は業務妨害・営利妨害」と判断でき、問題児に対してしかるべき制裁をくだせないような教育現場は、真面目で優秀な生徒に対し罪悪である。
自分の思想は「保守的な(個人的)功利主義者」と定義しているので次のように考えている。明らかに迷惑な生徒は「人権の範囲内で」殴られて然るべきであり、また殴られない現状こそがおかしい。(※私も宿題忘れて殴られたことはあるので。)
「公の利益の最大化」を考えるなら、むしろ体罰は人権問題と衝突しないで容認されるべきで、人権と衝突するのは「教育的要素がない」場合であり、つまりは「(迷惑な生徒の)暴力」に対して衝突するのだから、悪いのは体罰というツールではなく、体罰を振るう相手や目的を定義しない「人間」の方だ。
そもそも教育現場を『公共財』として見て、教師を「インフラ」として見れば、教師に高いハードルを求めるような「体罰は絶対ダメ」だという論調や、「偏差値が高くなるような教育をやれ」という論調を、教師の仕事として定義するのはおかしい。
学校は塾の代わりじゃないし、教師はあなた達の召使いじゃない!
公共財を守るために、躾の悪い子どもに体罰を振るのは仕方ない事で、まして体育会系の学校だとなおさらだ。それを体育会系でも関係なしに「全面的に(いついかなる時も)体罰禁止」という言い方をメディアで、ネットで、報道が、政治家が、庶民が主張するのはイかれてる!
スポコン的なシゴキを否定するなら、au等が「巨人の星」を使うのは「体罰推進作品」を使うのは不味いのではないか。
だけど、体罰反対論者に聞きたいのは「星一徹は飛雄馬憎しで、体罰を行なっていたか?」という議論。
あらゆるハラスメント(嫌がらせやいじめ)でも同じ議論ができるけど、体罰そのものを「悪」という人達は、体罰された相手との相互関係を考慮しておらず「頭ごなしな人達」こそ愛がないのではないか?
一徹氏を全面的に賛同するわけでは無いが、星飛雄馬がプロになって注目選手になれたのは間違いなく一徹のしごきがあったからだ。
学校においても、全国区のスポーツ学校になるために「体罰」は切っても切れない関係のはずた。それを文科系の知識人等が自分の価値観、愛情の形で「あれは暴力だ」と言っているに過ぎないのではないか?
例えば、自分の子が万引きしたときにビンタしたと打ち明けた母親がいるが、その場合は子どもが「被害者」なんですか? 親が感情的になったから、悪いのは親なのですか?
答えは求めてないから、いらないよ。てめーの脳天に杭を打ち込んでやりたいと思ってるだけだ!