はてなキーワード: 賢明とは
橋下市長の辞任で始まった大阪市長選挙では、主要政党は一切の対立候補の擁立を見送った。それにより市長選は現職の橋下と新人のマック赤坂の事実上の一騎打ちの様相だ。一部では、これまで連戦連敗のマックにようやくの勝機を見出す動きもあるが、少し冷静になってほしい。今回の市長選をめぐる報道を見つめ直すといくつかのおかしな点に気付くはずだ。
まずひとつには、マックが橋下行政への言及を避けていることだ。他の泡沫候補が大阪都構想始めとした橋下批判を鮮明に打ち出しているのに対し、主要対立候補であるマックは「大阪都構想がどうのこうのとか、そういったちっぽけな問題よりもスマイルあふれる大阪にしたい」として、橋下行政に対し是とも否とも言わない。何故マックは言わないのか。それはマックと橋下が繋がっているからではないだろうか。
そんなことを言うと増田がまた法螺を吹いていると思うかもしれない。しかし情況証拠は揃っているのだ。報道ではマック赤坂の所属政党名は一切伏せられているが、賢明な諸君はマックがスマイル党総裁であることはご存知だろう。もし橋下も同じスマイル党だとしたらどうだろう。この度の選挙は完全に出来レースと言えるのではないだろうか。そんなことはにわかに信じられないかもしれない。それももっともだと思う。だからもうこれ以上は何も言わない。増田の言うことが真実かどうかは、橋下自身のこのツイートを読んで各自で判断して欲しい。
普段人に見せないように思考整理のために書いてる日記の一部を投稿する。
身近に相談できる人間がいないから話を聞いてもらう代わりに読んでもらえませんか。母親に相談しても心配事増やすだけだし…。
昔ブログやってた名残で、個人の日記にしてはすっごく気持ち悪い文章です。
2014/03/03
ちょっともう手詰まり感半端無くて目覚めるたびに「早く夜になって寝たいな」って感じで現実逃避してますが皆さん如何でしょうか。
私は最近幸福に生きる能力、というか精神を平穏無事にする能力が著しく欠落してるから、もう無理して幸せにならなくてもいいんじゃないかと思えてきました。
ただ、幸せに生きられないなら、損益で言うなら損にしかならんのに生きる必要はあるのか、という問いかけに有効な回答が出来ないままでいます。
こんな幼稚な思考実験をしてるうちに周りは刻々と変わっていくわけで、別れの季節であるこの時期、色んな人がいろんな場所へ旅立っていきます。
最近父親のガンが再発し、幸いな事に全く命に別状はないのですが、「どんな命も永遠に続くことはない」って当たり前のことをまざまざと見せつけられたようで、
今拠り所にしている居場所、この場合は実家もいつか消えてなくなって、その時、俺は天涯孤独になってしまうのか否か、考え始めると眠れません。
旅立ちの話ですが、やはり長く懇意にしていた(向こうはどう思ってるのか知りませんが)連中も遠いところへ就職していき、ますます物理的な居場所が無くなっていく気がしちゃいます。
孤独に耐えられる人間になればいいのでしょうか?居場所を頭の中に作れる人間になればいいのでしょうか?それって敗北じゃありませんか?
何に対する敗北なのでしょうか、おそらく世間一般の幸福のあり方に対してだと思います。
「お前の幸せは邪道」って言われてる気がして「俺は楽しいのに何だお前らは」と言いたくなります。
以上のような事柄が誰も言ってないのに私の頭の中で湧いてきます。未練の表れなのでしょう。人生に優劣はないかもしれませんが悔いの有無はあるものだと思います。
2014/03/04
しんどい時期です。どれくらい続くか分からんやつです。日中、働きながらずっと生きる理由探してて、何度考えても人の生死の判断は個人の自由って結論から離れられません。
なら現在、将来の見通しに価値を見いだせない自分の人生は、自分の判断で終わらせても、理屈上何の問題もないように思えます。
母が言うには自分の命も他人様の物らしいですが、しっくりきません。自分が納得できる生きる理由がほしいです。納得が全てだと思います。
テレビやレジャー、ネットサーフィンで一瞬フワッと元気になってもすぐに「やっぱ生きる理由無かったら死んでも良いよなあ」と沈み込みます。
「こんな程度の感動や笑いで元気に振る舞えるような半端な病み方はしてないぞ俺は、俺の病み方は特別だ」と謎の反発心が有ります。
他の病んでる連中とは一線を画したいんでしょうか。病んでる連中界でもなんでもいいから、何者かになりたいのでしょうか。承認欲求がかなり歪に発露しているように思えます。
よろしくありません。こういうことを鬱々と続けているから、私の人間的魅力はますます低下し、周囲からは人がいなくなり、ますます承認欲求を満たす手立てが失われていくのに、辞められません。
焼畑農業みたいな人間関係しか構築できないようです。しかし改善しようにもする気がありません。逃げですね。はい。すみません。
苦手なことは極力しない生き方をしてきたんで、今更健全な人間関係構築とか言う苦手な課題にアタックする気力が無いですし、もし構築できたとしても定期的にやってくるであろう病みによって瓦解します。
定期的に病む性質を持った自分に、人並みの人間関係を構築して維持できるような人間的魅力なんてないです。
ではその性質を改善したらどうか。と思うわけですけどこれも難しいと思います。
幼少期からその傾向があったわけで、自分の直感というか、生きてきてこれは限りなく正解に近いと確信してるんですけど、生まれながらにして定期的に病む質なんだと感じています。
となると、棺桶に入るまでこの性質とは付き合いつつ生きるというのが賢明な判断であって、性質と付き合いつつ生きるということは「人並みはずれて劣った人間的魅力をぶら下げて天寿を全うする」ことに他ならず、
そんなクソみたいな人生をこれから送ることを強いられている現状に絶望し、いっそもう明日にでも死んでもうた方がいいんじゃないかと、毎日思考が不健康まっしぐらな堂々巡りをしています。
死ぬ勇気もないとは思いますが、元来発作的に何かをする癖がある自分なので、なんとなーく。
「ああ、たぶんこのままだと死因:老衰だけは無いな、ストレスが原因で大病患ってくたばりあそばすか、終わっちゃうかどっちかだな」とふわふわ思ってます。
こんな特別でもなんでもないテンプレみたいな病んだことを日常的に考えて病みをアイデンティティにしてるからアカンのでしょうか。いや分かってるんですが。今は辛い。
http://anond.hatelabo.jp/20140301215951
喫煙者だけど、「タバコ吸っていいですか?」って訊くと1割位の人は断ってくるよ。
「タバコ吸っていいですか?」はなまじ質問調だけにNOと答えてもいいと誤解されることが多い。本当は断りを入れてるだけで、NOという答えは想定していないんだけどな。
なので、「吸っていいですか?」と訊くのはやめて、「タバコ吸いますね」という言い方に変えた。
この言い方だと吸うなと言いづらいから、99%の人は文句をつけない。
それでも言ってくる奴はたいてい頭おかしい奴なので向こうが悪いという扱いになる。
男と女は別の生き物だ。
女の体は子を産んで育てる仕組みがメインの構造している。それなのに、学校は男女同じ、仕事も同等、育児は等分、とか歪(いびつ)過ぎる。それが当たり前とか生物としての感覚が麻痺し過ぎてる。
けれど、現在はそういう流れになってしまっている。なので、ここまできて今更、男は働いて女は子育てに専念っていう力技はナンセンスだし、人材活用の観点からみてももったいない。しかし、今まで通りの、学校出て少し人生経験して結婚して子供産んでのパタンだと、結婚したり子供作るのが必然的に30超えてからになる。30オーバーのBBAと誰も結婚したくないし、身体的にも妊娠率は下がる。結果、超少子高齢化社会、または移民流入による犯罪社会の到来。そうしないためにはどうするか。
つまり、女子は18歳までに高等教育を終えてしまう。そして5,6年社会に出た後、相手を見つけて出産して、何年か育児した後(または育児しながら)社会に復帰する。
勘違いしないでほしいのが、18で学生終了とはいっても高卒ではないということ。18までに大学教育を終えてしまうのだ。
男の子と女の子の成長を見守ってきた人には理解できると思うが、女の子のほうが圧倒的に成長が早い。
幼稚園の年長ぐらいになると、女の子はほとんど一人前の人間として成立しているのに対して、男の子はまだ先生の趣旨を理解していない(何をやってるのかがわからないからとりあえず周りに合わせているだけの状態)。18歳時点でも比べてみるとわかる。18の女は大人と同じだが、18の男の精神レベルはまだ小学生に毛が生えた程度だ。男は成熟までにあと10数年は必要。
幼稚園 3年間 2~5歳
小学 4年間 5~9歳
中学 3年間 9~12歳
高校 3年間 12~14歳
大学 4年間 14~18歳
小学校だけは年数が違うので、男女別クラスになる。あとは男女一緒だが女子だけが若い。
小学校4年で足りるのか?→足りる。男女の学力差は小学校時代が一番はっきりしている。
低学年の内など、2,3ヶ月でできる内容を、バカな男子に付き合わされて1年間かけてやらされているのが現状。
18で大学レベルの教育を終えた後は、基本的には「ご自由に」だ。どんな人生を歩んでもよい。
例として以下のようなモデルケースをあげよう。
高等教育を終えた女は5,6年独身生活を謳歌する。その間に人生の伴侶(別に結婚はしてもしなくてもいい)を見つけ子を宿す。まだ23歳だ。妊娠する可能性は今の30オーバーでの初産に比べると圧倒的に高いし体力もある。25で二人目を産んでもまだ20代真っ最中。社会に復帰する体力も十分に残っているからそうしたい人はそうすればいいし、伴侶の給料にもよるが育児や家事に専念したい人はそうすればいい。15年間子供に専念して、それから復帰したとしてもまだアラフォーだ。十分新しいことを始められる。今のように独身のまま何の基盤も無くアラフォー突入して人生見失うことにくらべると隔絶の感がある。
このケースに対して、「若くして子を産んだ結果、厳しい人生を余儀なくされている人たちが今でもたくさんいる、若く生むのはよくない」、という意見があるかもしれない。賢明な人は上のケースの女とこの意見の女の違いはすぐにわかるだろう。上のケースの女は高学歴、意見の女はDQNだ。
もちろん細かい調整は必要だろう。しかし、少子高齢化問題と女性人材の活用問題を本気で考えていくなら、このぐらいの改革が必要だ。
(逆に移民国家にしたいなら今まで通りでもよい)
じゃあなぜ税金だすのか、というのはぶっちゃけ今すぐ切りたいのは感情としてはあると思います。
無くて困るかといえば困らないし、むしろ税金投入するなら出資元の税収元に割引券なり還元すべきことはあるはずでしょう。
じゃあなぜ税金をだすのか、といえばいまからその手の芸術ただひとつだけでごはんたべてた人が明日からコンビニバイトできるかといえば使い物にならないからです。
いきなり無収入のホームレスの生活保護対象が、きれいなホームレスが生活保護を豪邸や大家族引き連れて発生するわけです。
芸術という高尚な技術で生きていた私たちがいきなり無収入とか都市はどういう扱いを強いるんだと、かなりたちのわるい市民が発生するわけです。
一応大義名分があって法的や世情的に反論できない死角からの攻撃に対して、やむなく税金で維持するというところが賢明でしょう。
条件付で助成額を減らしてゆき、現在のホームレス転換予想数を減らし、芸術だけでごはんたべていこうとか甘い考えの人をすくなくしてゆき
最終的に社会的生産性のある人間に更生するための都市計画予算としての芸術助成金でしょう。
じいちゃんばあちゃんのたまり場で税金でいきいき老人活動の場になっているところを人道的に処理しているところだと思います。
「BUNRAKU」が大人気Tシャツになってミシュランガイドに載って観光バスが迷惑なくらい止まって、大阪土産は文楽人形焼きで決まりとかになれば
助成なんていらないでしょうし、そこまで社会的生産性を高める事ができる人間がその芸術云々に係るのであれば、むしろ助成をする側になるでしょう。
一世代前までがんがん資金をなんの意味もない完全に生産性のない分野に現金をつっこんでいた投資が破綻したところを、うまく処理している部類ではないかと思います。
リーマンショック、サブプライム、みたいな過剰投資をいきなりぶち切ってその保障と責任をかぶるよりは、人道的に更生の道を自分に探させる、投資損失額を税金でまかなうよりも
米Apple社が消費者に3250万ドルを返金するという( http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYEA0E07U20140115 )。
このカネは「App Storeで子供が親の承認を得ずに購入し」た分のものらしい。
Appleにとっては痛くも痒くもない返金額だが、ここまでする必要があるのだろうか?
子供はそこまで未熟だろうか? 少しばかり子供を馬鹿にしすぎではないか?
しかし、お店に並んでいる商品をお金を払わずに持ち帰ってはいけないことくらいは理解していた。
通販カタログのマークシート式注文書を塗りつぶして商品を勝手に注文したり、クレジットカード番号を盗み見て何か買うようなこともなかった。
高校時代、「オヤジ名義で口座を作って馬券を買っていた」とんでもない同窓がいたが、カネにまつわる子の不始末と言えば自他含めてこの程度である。
カネの正しい使い方を教えれば済む問題である。
というより、カネの使い方が分からなければ、ネットだろうがリアルだろうが手酷い目に遭う。
ペアレンタルコントロールのように、いくらシステム上で保護しても、オツムがアレならカネは翼を生やして飛んで行く。
ちなみに、前述の馬券同輩は今、銀行マンとして真面目に働いている。
1 オナ速の登場
先日電車でJKが「○○ちゃんはオナ中でオナクラに入ってた」なんて宣ってたが、これは断じてオナニー中毒の少女がオナクラで働いてたという意味ではなく同じ中学で同じクラスという意味だ。
しかしながら、タイトルにある「オナ速」のオナは今度こそオナニーのことであるから自慰マニア各位は安心するように。ただし、それはオナニー速報のことではなくオナニー速射でもなくて、残念オナニー速読でした。
勘違いされがちだが速読は特殊能力でもなんでもなく誰でも速く読めばそれで速読なのだ。速読の習慣の多寡によってスピードに著しい差があるため、まるで速読自体が超人技であるかのように思われているが何ともあほくさい話である。つまり、頭の硬い大人たちが速読という誰でも訓練なしにその場でできる素朴な行為を勝手に特別なものと考えて挙げ句の果てには不可能と決め付けて凝り固まっているだけの話なのだ。そしてそうした洗脳された可哀想な人を思い込みから救うための治療法をわざわざいかめしく速読法と呼称しているだけのことだ。
だからオナニー速読ではそういうくだらない風潮に小石を投げてもっと単純に楽しめよと訴えかける。つまり、オナ速は世にはびこる速読法の類いのものではなく、あえて言うなら読書の楽しみ方である。
まず声をゴリラにして叫びたいのは、このご時世読書の楽しみ方が画一化され過ぎているということだ。スローリーディングが近年もてはやされているが、それも読書の楽しみ方の一端にすぎない。スローリーディングの最も不自由な点はスローへの不必要なまでの拘りである。速さも遅さも両方大切なのに。
自由や個性という言葉を強調する人間に限って、単に不自由で没個性な自分のやり方を正当化したいだけで、自由や個性とは程遠いシロモノであるのはよくあることだが、だからと言って自由や個性を叫ぶのを止めてしまうと人間社会の硬直化に対する抑止力が女性の「硬いのはチンポだけにしてよね」という台詞しかなくなってしまうというジレンマがある。
こと読書に関しても、自由という名の不自由の押し付けであることを恐れずに私は言いたい。今こそ全人類が読書解放運動を起こすべきであると。読書にまつわる先入観を捨てて、読書を再定義&新発見していかねばならない。読書ってまだまだこんなもんじゃないぜってところを見せてやらないといけないぞっと。誰に見せるのかは知らないけど。
よく言われることだが、文字情報というのはそれ自体は画像よりも遙かに情報量が少ない。しかし、文字の意味するものを想像し推し量ることで初めて豊かな情報を含んだ感覚が読み手の前に現れる。換言すれば、想像力と推理力いかんで全くもって読書体験が違ってくるということだ。
したがって、みんな「読書」「読書」と共通する言葉で呼び習わしているけれども、その中身は「あなたとわたしでまるで違ってた」ということが当然あるわけである。
だから、異次元な読書に遭遇してもそれもまた1つの読書法であると寛容の心で迎えることにしよう。受容すること、それがあなたの読書を豊かなものにする。
ところで、何故オナ速という名前にオナニーが含まれるのかというと、読書にはオナニー的な側面が色濃いからだ。ここでのオナニーとは単なる自己満足の同義語ではなくて、胸を高鳴らせながら「オカズ」と呼ばれる情報を探して、良いオカズを見つけたら食い入るように「味わい」、「集めた」オカズからより興奮度の高い「妄想」を作りあげる、という一連の特徴を有する行為のことだ。
うーむ、改めて考えると読書ほどオナニーに酷似した行為はない。そう思わないだろうか?よく考えてみてほしい。
ここで、読書のような高尚で知的な行為がオナニーのような低俗で馬鹿な行為のわけがないと思う諸君は、エロ漫画やエロ小説から類推してもよい。具体的には、エロ動画→エロ漫画→エロ小説→小説→高尚な専門書というオカズの状態遷移図をイメージして欲しい。
そして実際にエロ動画を楽しむ時のような気持ちと心構えを保持したまま矢印にしたがってオカズを推移させてみるとよい。そうすれば、高尚な専門書もその本質においてはエロ動画となんら変わる所がないのが認められるであろう。ただし、チンコは出さずに楽しむこと。
なるほど読書は確かに限りなくオナニーに近いことが分かったけれども、賢明な諸君は既にお気づきだろうが、それでもただ一点、陰茎の有無という点が異なる。もうお分かりだろう、オナニーには陰茎があるのに読書には陰茎がない。
そしてこの一点のために、読書とオナニーの間には深い深い断絶が生じているのだ。読書という本来楽しい行為が文字通り去勢されて、無味乾燥なものに堕してしまっている。
若者の活字離れが叫ばれて久しいが、実は近年ではケータイ小説やラノベの隆盛によって活字と接する機会がむしろ増えているのだという。
それを知り、今こそ読書を復権する一世一代の大チャンスであると考えた私は、まず読書と自慰の間の橋渡しに取りかかった。そろそろいい加減に読書と自慰の両者は和解しても良かったのだ。誰もやらなかったから私がやった、それだけのこと。
3 これがオナ速だ
以上を踏まえ、オナニーとしての読書を前面に出した速読がオナ速である。
繰り返すが、これは速読法ではなく読書の楽しみ方である。速読法というもの自体が実にナンセンスなことは既に述べた。よって、従来の速読法を去勢されたものとして否定的に見る。全否定まではしないけど。
ではオナ速の方法を紹介しよう。オナ速に入門したはいいが何から始めて良いか分からないという新入生は必見である。ただし、技法論に終始して楽しみが失われては本末転倒だから、最低限の技法の紹介にとどめる。
それではまず、君はエロ漫画を速読する習慣を身に付けねばならない。オナ速は楽しさをモットーとするが、開放的な享楽の裏には必ず厳しい統制があるものだ。エロ漫画片手に厳しく行こう。
先ほどの状態遷移図を今一度見てもらおうか。エロ動画→エロ漫画→エロ小説→小説→高尚な専門書。
これを見ても分かるようにオカズカーストの最上位に位置するのはエロ動画である。最もオカズとしてのパワーが強い。
次がエロ漫画、その次がエロ小説と続く。困った時はまず身近な相談役のエロ小説先輩に聞く。それでも解決しない時はエロ漫画先生に、それでもまだ解決しない時はスクールカーストの最上位のエロ動画校長を用いれば良いのだ。
しかし君たちはまだ駆け出しのヒヨっ子なので、最初からエロ漫画先生の力を積極的に借りたほうがいいだろう。エロ小説先輩は気が優しいけどちと力不足だ。
さてエロ漫画の読み方だが、分かっているとは思うがチンコは出さない。そしてこれが重要なのだが心のチンコをしごく。
「ネットペニス」という言葉をご存知だろうか?かいつまむと、どれほど処女力の高い女性であっても2chの男どもの手にかかれば毎日妄想内で犯されまくりで、実質ネットごしに処女喪失したのと一緒じゃね?という話である。
この話で重要なのはネット上でも処女喪失が成立することではない。そんなことはどうだっていいことだ。
本当に大切なのは、バーチャル世界でもペニスが存在することの発見、そしてそこから論理的に導かれる、ペニスがあるならオナニーだって出来るじゃないか!という気づきである。
まだピンと来ない人もいるだろうから具体的に言おう。これをエロ漫画に置き換えると、物理的にはチンコを出さないけれども、精神的にはチンコを出してオナニーすればいいと。そういうことなのだ。
そもそもオナニーに物理的チンコは不要である。第一に物理的チンコは性感帯の一部に過ぎないし、第二にその性感というのも単なる快楽物質の分泌に過ぎない。言うなれば、チンコは快楽スイッチの1つに過ぎない。
その快楽スイッチが身体に存在するのは甚だ不便だと思ったことはないだろうか?心にスイッチを備え付けたい。思春期にそう強く切望していたのは私だけでは無いだろう。
それは可能である。可能なのだがそれに納得して貰うために少し説明しなければならない。
まず基本事実として、人間は適切なオカズさえあれば深いエクスタシーに達することができる。言い換えれば、物理チンコなどなくても純粋に精神的な手段で快楽が得られる。これをエナジーオーガズムと呼ぶ。
次に、オカズを物理的に調達しなくとも純粋に心の中で妄想するだけで、オカズとしての働きを十二分に果たすことができる。これは妄想を習慣としない人には信じがたいだろうが事実である。
以上何でもない2つの事実を確認したが、この2つからとんでもないことが分かる。純粋に精神的なスイッチを作ることが可能なのである。これを精神的チンコと定義する。
そして他でもないこの精神的チンコをしごくことこそがオナ速の極意なのである。なんだってー!? 要するに、心の中に精神的チンコと呼ばれる快楽スイッチを作り、それをこすりながら読書する。これがオナ速の全貌である。
4 オナ速の実践
とは言っても、精神的チンコをしごく感覚はなかなかつかみづらい。そこでまず感覚のつかみやすいエロ漫画から始めるのである。
その際にページを「読めないギリギリの速さ」でめくってほしい。読めるギリギリじゃなく読めないギリギリ。限りなくセーフに近いアウトで頼む。読めてしまったら従来の読書法に先祖返りする危険性が高いからである。
ギリギリ読めない速さでめくりながら読もうと努力するのだ。読めてきたらまたスピードアップして「読めないギリギリの速さ」にする。この繰り返しで少しずつ速くしていくこと。
勘違いする人が続出しそうなので言っておくと、これは一見すると速読習得法のようだが全く違う。速さは従来の読書を回避するためのものに過ぎない。実際のところ、速さが欲しいなら「読めないギリギリの速さ」にせずに最初からビュンビュン飛ばせばいいのである。それをしないのは速さ自体はどうでもいいからだ。
さて、読めないギリギリの速さで読もうと努力すると言ったが、その努力のしかたも大切である。絶対にやってはいけないのは、立ち止まること(停止)と目など身体を緊張させること(緊張)、である。
停止と緊張を避けるには、ページをめくる速さを一定にするとよい。淡々と流すようにリズミカルにページをめくる。理想はエアロバイクを漕ぎながらのタブレットによるオナ速である。これなら絶対に停止と緊張が起きない。
さてページをめくるリズミカルな動作は何かに似ている。そう、シコシコに似ている。あとは言わなくても分かるな?そう、めくる動作に合わせて精神的チンコをしごくのである。
合わせると言ってもタイミングが重要だ。ページをめくった次の瞬間、ちょうど紙面を視認した瞬間が黄金のタイミングだ。このタイミングでスイッチオン。ここから少しでもズレるとガクンと成功率が落ちるので注意しよう。タイミングをつかむには身体でリズムをとりながらやるのが良いだろう。コツをつかむのに1ヶ月は最低かかると思う。
成功すれば一瞬視界が明るく光って快感が生まれるからすぐそれと分かるはずだ。安定して成功するようになったら、今度は吹き出しのセリフも正確に読み取ろう。
それも出来るようになったらエロ小説に取りかかり、それも出来たらやっと高尚な専門書に進むことができる。長い道のりだが決して無駄ではない。全てはエロ漫画のように生き生きと読書をするためだ。
エロ小説や高尚な専門書の読み方もエロ漫画と基本的に同じだけど、しごくタイミングには少し注意が必要である。文章だけの本の場合、おすすめのタイミングは数行をまとめて目に入れてその次の瞬間である。一行ずつしごくやり方も試行錯誤したがどうもうまくいかない。数行ごとが良いと思う。
数行ずつのまとめ読みをマスターしたら5行、1/2ページ、1ページと増やすことになるが、無理に急ぐことはない。無理をしてオナニー性が薄れたと感じたら数行ずつのまとめ読みにただちに戻るべきだ。
ともかく、以上の方法を実践すれば新鮮な読書体験が得られるであろう。その感覚、喩えるならエロ漫画のような読書。何がエロ漫画だと思うかもしれないが、とにかくエロ漫画なのである。
5 将来の展望
これまでオナ速という一見不思議で実は本質を突いた読書法を紹介してきたわけだが、ここで衝撃の発表がある。それは、私たち人類は知らず知らずのうちにオナ速をしているのだ。なんだってー!?
例えば、美味しそうなシュークリームを見た時にパッケージをどんな気持ちで読むか考えてもみてくれ。思いっ切り精神的チンコをしごいてないだろうか?それは否定しようがないれっきとした事実だ。
気になる異性からのメール、面白そうなゲームの特設サイト、すごく注目してる新製品の情報、それらをどんな態度で読んでいるか?それはもう目を血走らせて食い入るように見ているのではないか?
そのような読書態度はエロ動画に対する態度と全く同じであることに気付いてほしい。みんなしごいて見てるだろう。
そのようなありのままの人間理解に基づいて情報社会というものを捉え直さないとダメ。これまでの無味乾燥な情報科学では限界があることは明白であり、古めかしい情報観は終焉を迎えようとしている。もう夢見る少女じゃいられない段階に来てるんだよ。
オナ速というのはそのほんの始まりに過ぎず、決してゴールではない。
こんなに泣けるなんてって思った数日。
何が一番悲しいのだろうと思った数日。
私たちファンってなんだったんだろう 無力だなあと思った数日。
そんなに苦しんでたのに全くわからなかった自分を反省した数日。
ヲタの気持ちはやっぱりヲタが一番理解してくれるなと思った数日。
予兆はあったにせよ、やっぱりこのタイミングこの形で知るというのは、驚きで、知った日は驚きすぎて涙も出なかった。
去年倒れて以来思うところあったのかな?やっぱりイル活のせいで入試を受けれなかったり、卒業式も出られなかったり(確か韓ヅメの記者会見の日、あれ飛ばしていいと思ったんだけど。どうぞ来てませんように卒業式出てますようにって祈ってた。)、べくその接触商法・極寒酷暑の中の屋外イベ、詰め込みスケ(経費削減のせいか2回公演の後握手会とか) 高額お接待ファンミ(夏ツアーのMCでグアムの告知する時いやな顔しながら言っていて、おいおい君も出るんでしょうにと思ってた。) などで色々考えたんだろうか。もっと遡って言えば きぼむとさんだの解雇とか見て思うところあったのだろうか。
小さいときから芸能人を目指して練習生で下積んできたわけでないからどうしてもアイドルになりたいという渇望とか アイドルという職業に執着はなかったんだろうな、デビュー当時の映像を見ると本当に恥ずかしがりやで このひといつそれなくなったんだろうと動画とか見るたび思ってたよ。芸能人に向いてませんでしたって本人から言われてはもうぐうの音も出ない。活動休止でなく引退っていうのがらしいといえばらしい。
後 契約が残ってたのに揉めずに辞められたのは本当によかったと思う。
ついでに言うなら暫定的引退 って書かれてたけど、どうかな、戻ってきてほしいけどもう戻ってこない気がする。なんか違う分野ですごい活躍しそう。
ふつう(何が普通かはわからないけど)の家庭で育って(いつか撮影の時、ママお手製の海苔巻の差し入れを嬉しそうに頬張ってたよね。)、ずっと大学生になりたいって言ってた。望み通り大学生になっていっぱい色々な可能性を作ってほしかった。九九も満足に言えないアイドルになってほしくなかった。
片や新学期の時は活動休ませてもらい学校が休みの時に活動してる人が同じグループにいて不公平感もあったんだろう。(っていうか、なんで事務所は試験受けさせたり卒業式出させたり、大学生と兼業させてあげなかったんだろう)長い目で見て本人の為にはこの選択は賢明だったって私も思う。すべて推測だけど・・・。
だから まだわからないけど もし望み通り学生にまた戻れるのなら、わあよかったねって手放しで喜ぶし、学生でなくても望んだ道に進めるのならそれはそれで私も自分のことみたいに嬉しく思う。
でも 突然のさよなら と もう一生会えない というのが寂しすぎて・・・・すごくつらい。つらい気持ちの方が断然勝ってる。
バカみたいに能天気に次会うのは12月かなー帰ったら向こうの活動追うの楽しみだなーとか思ってた私に教えてあげたい。そして 向いてなくないよ おかげでたくさん楽しい思い出も幸せな気持ちももらったよって伝えたかった。
お疲れ様も今までありがとうもこれから頑張って 遠くから祈ってるよ ばいばいも何も伝えられずに、もう一生会えないなんて悲しかった。今 どんな髪型して どんな服着て どんな顔して 健康そうなのかつらそうなのか もうわからないままなんだね。
今年頭からずっと考えてたって、そんな中 ちゃんと夏のツアーも変わらない様子でまっとうして偉かったな(周りのメンバーもね。どんだけ周りに心配かけたことだろう。皆 何食わぬ顔でやり切ってえらかったよね。すうの苦労を思うとちょっとつらい。)
向いてないって思うほど苦しんでたけど(あの最近の野球写真のやつれっぷり は なんかそんな苦悩を推察させる。)、そんな中 少しでも 一個でもいいから ああ楽しかったってこと 嬉しかったこと あったよね あったといいな、全部の笑顔が嘘ではなかったよね。って信じたい。
もう会えないかもしれないけど ずっとすきです。あいしてます。ずっとしあわせでいてね。
大切な名前をぎゅっと握ってずっと心の中で呼び続けるよ。
正直言ってグループペンでなく個ペンだったので、私ももうグループからは離れる。
わたしたちはわたしたちにしかわからないりゆうではなれていくのだろう
そういうと かなしがる きみのひとみ。
界隈で喧しく「生産性の概念欠如」が取り沙汰されている。曰く、日本の企業や社会には生産性という概念が欠如しており、これが経済の停滞や労働搾取をもたらしている、
というものだ。多くは企業者の立場からのもので、日本企業の文化的・制度的な生産性軽視を論じている。そうした「文化的背景」や「企業の人事制度」という点は今後も
議論されるべきであろう。、、、だがこのエントリーで論じたいのは、他エントリーで多くなされている下記のような主張が「本当だろうか?」というものだ。すなわち
>生産性を向上させれば、同一のアウトプットに対しより少ないインプットで済む
>従って、生産性の向上は「アウトプット量の拡大…よりよい商品提供」か、「インプット量の減少…余暇の拡大」を生む
>かくして、生産性の向上により、社会の富や厚生の拡大がなされるのだ!
という主張である。一見正しいように思えるし、うん、実際の所間違いではない。
だが筆者は、多くの論で曖昧に付されている点があると考える。それが何かといえば、「インプットは労働力=時間だけど、アウトプットはお金なの?それともモノなの?」
という点だ。生産性の問題を経済の問題として考えるのであれば、そして個々の企業ではなく将来に渡る社会全体の変化を取り扱うのであれば、それが「名目」なのか「実質」
なのかという点を明確にしなければならない。そして実際、この点を明確することでより有益な論点が摘出できる。
そこでひとつ、明確に「生産性」と区別して論じられるべき概念を提案しようと思う。「生産力」だ。
====
本論では下記のように用語の定義を行いたい。
・「生産性」:一単位の労働力投下に対し、アウトプットとして得られる「金額」の増加分
・「生産力」:一単位の労働力投下に対し、アウトプットとして得られる「モノの量」や「モノの質」の増加分
簡易な例を提示しよう。
皆さんが田んぼを耕して農業生産を行うとする。一定面積の土地に対し、100の労働を投下し、100kgのコメを生産し、それを100万円で売っている。いまここで新たな技術が
開発され、80の労働で100kgのコメが生産できるようになった。するとどうなるだろうか?
・「生産力」は、100kg / 100労働 だったのが 100kg / 80労働 となった。1労働に対する生産「量」でいうと、1.25倍となったわけだ。
・「生産性」は、100万 / 100労働 だったのが 100万 / 80労働 となった。これも「生産力」と同じ、1.25倍となっている。
かくして我々は 「いままでと同じ量働き、1.25倍の所得を得る」か「いままでと同じ所得で、80%働き、20%を余暇に充てる」という選択肢を選ることになる。
、、、だがここには重要な大前提が存在する。生産力と生産性がおなじ動きをするのは、「コメの価格が変わらない場合に限る」のだ。
ではモノの価格を決定するのは何であろうか?
もし「生産力」の拡大が個々の企業のみで起こったのであれば、その企業が他社に比べて競争優位を持つにとどまる。つまりその企業が「今より低い価格でも戦える」ように
なるだけで、価格はその企業の戦略によるだろう。だが検討するべきは、こうした「生産力」向上が社会全体で実現した場合、つまり我々の望む「日本社会の生産性拡大」が
実現しようとした場合だ。
社会全体でみた商品の価格決定は、極めて単純に「需要量と供給量のバランス」によって決まる。つまり「足りなければ高く」「過剰なら安く」だ。そして、、、賢明な読者の
方ならお気付きの通り、「生産力」の向上は「供給量」の増加をもたらし、その供給量に「需要量」が追いつかないのであれば、、、価格は下落し、「生産性」は向上しない。
労働に対する貨幣的評価が変わらなければ、給料(名目賃金)は、上がらない。
もちろん、価格が下がれば需要が増える場合もある。つまり「欲しいけど価格が高くて買えなかった」製品の生産力が向上した場合、価格の下落が需要の上昇を呼び、全体として
収益が拡大、生産性の向上をもたらす。これは成長産業のモデルであり、企業間の厳しい競争と市場の拡大が循環している場合、生産力=生産性の拡大は至上命題となるだろう。
例えば例に挙げた「コメ」。食べ物という商品は、いくら価格が安くなっても食べる量がそんなに増えるわけではない(かと言って不足すると大問題)。コメにしろ野菜にしろ
、需要量に対して供給量が10%上回っただけで、価格は20~30%下落したりする商品だ。つまり農業の「生産力」向上は「生産性」を減少させる。(蛇足となるが、TPPの議論
などで「農業の生産性を上げれば万事上手くいく」と言っている論者には、量と価格の関係を厳密に区別できていない方が多い)
さらに、「需要」が拡大しない産業における「生産力」拡大は、単純に失業者を増やす。なぜかといえば100の固定需要に対し、それを満たす供給量の生産に必要な労働力が減る
からだ。生産力が向上しているから、より多い生産が不要なら、「働く人が過剰になる」。こうした「特定産業における過剰人口」は、本来であれば成長産業に仕向けられる。
成長産業はその需要が満たされるまで労働力を吸収し、その需要が満たされるよう生産力の向上を図る。つまりよく言う「生産性の低い産業から、生産性の高い産業へ労働人口が
移行」するのだ。、、、だがいま見てきたとおり、「生産性の低い産業」とは単に「需要が満たされており」「且つ生産力向上を図り」「過剰人口が発生した」産業も含まれる。
必ずしも努力や工夫の足りない・低レベルな産業ではないということを留意するべきだろう。
さて、今までのところを整理しよう。
1.「生産力」の拡大が「生産性」の拡大をもたらすのは、価格が変わらない場合
2.「需要」が頭打ちの環境下では、「生産力」拡大は「生産性」の縮小をもたらす
3. 社会全体で需要=成長産業がない場合、「生産力」拡大は失業をもたらす
多くの方がお気づきと思うが、今の日本は完全にデフレ経済=需要不足だ。そうした環境下での「生産力」向上がなにをもたらしたのかは想像に難くない。産業の多くが内需に頼る
この国で、デフレ経済を15年ほども続ければ、企業内での「生産力」向上への意欲が毀損されているのは驚くに値しない。むしろ、厳しい雇用規制により失業者が街に溢れかえる
ような状況が避けられていると考えるべきであろう。(もっとも、雇用規制が新たな成長産業の誕生を阻害しているという論者もいるわけで、循環的な問題を紐解くのは一筋縄では
いかないということか。紐を解くのに縄では足らぬとは皮肉なことだ)
また、アウトプットの量が給与に評価されないというのもご納得いただけるのではないだろうか。これは必ずしも労働者だけの問題ではなく、企業自体が「生産力」向上=「生産性」
縮小というジレンマを抱えているのであり、作ったものが貨幣として実現しないという社会全体の問題を内包していると見るべきだろう。
、、、そして、こうした「モノやサービスの実体的生産」が「貨幣としての生産」に結びつかないという問題は、一国の経済においてより根本的な問題として取り扱われる領域でもある。
http://sencha77.blog.fc2.com/blog-entry-338.html
さて、筆者もこの国の根本的問題は少子化にあると考えているし、少子化に限らずいかに「人間の活動」を活発にするかが社会に幸福に直結すると考えている考えている。しかし
これまでの議論を踏まえると、ひとつの疑問が生ずる。
上で「生産性」を金額による評価基準と定義した。しかし子育てはカネを生むだろうか?残念ながらノーだ。いやノーであるどころか、、、子育てはカネを生み出さずむしろ消費する。
つまり「生産性」で見ればマイナスだ。実際我々はそう感じているのではないだろうか?子供を産み育てれば、それだけお金が必要になるではないか、子育てにかかる金額と子供を持つ
ことによる幸福とはどちらが大きいだろうか、と。いや、子育てに限った話ではない。今や恋愛も、結婚も、はたまた地域へのボランティア活動すら、「カネを費やす消費活動」と
化しているのではないか?
本質的に我々の社会を豊かにするのは「生産力」のはずだ。モノを作り、サービスを生み出し、それを社会の成員と分かち合うことで世の中が豊かになる。しかしそういった「生産活動」
の中には、「貨幣経済」を基に置くものとそうでないものとがある。「貨幣経済」に基を置く活動、一般に我々が「仕事」と呼ぶものは、すべからく貨幣=金額によって評価され、その
評価によってより効率的な生産を志向し、新たな生産物を生み出し、社会全体に流通する。一方で「非貨幣経済」貨幣によって評価をされない活動、例えば家事や、友人との交歓や、
恋愛から結婚まで、お金にはならないが社会に欠かすべからざる活動が行われている。
「貨幣経済」(あるいは市場経済・資本主義)は、あくまで「生産力の発揮」をより効率的に行うのに資する存在であって、それ以上でもそれ以下でもない。事実これまで見てきたように、
社会全体として需要がある限り「生産力」向上が図られてきた。、、、では「非貨幣経済」の効率性はどうだろう?結論を言えば上昇した。家事を例に取ればわかりやすいが、すべて
手作業でやっていた時代から、炊飯器・洗濯機・システムキッチンなどなど「生産力」の向上は著しい。しかし、しかしだ、こうした「非貨幣経済」の活動を支える機械や設備が増加した
ということは、それの購入や維持により多くのカネがかかるということだ。しかし「非貨幣経済」の生産活動自体はカネを産まない。
つまり、「非貨幣経済」においても、「生産力」の拡大は「生産性」の縮小、、、というよりマイナスへの増進を意味する。そして「貨幣経済」においては失業者が生み出されたが、
こちら「非貨幣経済」においては、マイナスとなったカネの補填が絶たれるが最後、単純にその活動自体が萎縮し、消滅する。
さて、話が随分と大きいところに来てしまった。
上記のような問題を如何に解決するか?については意見がないことはないが、本来の話題から外れるのでここでは省略しよう。ここで主張したいのは、「生産性」を考える上では「カネ」と
「モノ」を厳密に区別するべきということだ。そして「モノ」の生産は必ずしも「カネ」として実現しない。それは「貨幣経済」においては「需要」(…同じく「モノ」単位としても観測
されるべき)との関わりのため。そして「非貨幣経済」においてはもともと「カネ」でその活動を評価していないためだ。従っていかに社会を豊かにするかを考えるときは、まず「モノ」的な
個人的には、貨幣経済がなくなることはないだろうし、資本主義に限界が来たとも思っていない。しかし、それらはあくまで社会全体の機能の一部として位置づけられるべきものであり、
その一部にすぎないセクターの「カネ」という評価基準をありとあらゆる部面に適応させるのは、おそらく「非貨幣経済」の縮小で見たとおり、我々の生活を徒に貧しくするだけに終わる
だろうと思うのだ。
なるべく短く、平易にまとめたため、こうした分野を専門に取り扱っている人なら「なんて適当な内容なんだ」と思われること請け合いの論となっている。例えば価格下落は実質賃金の上昇を
もたらすとか、失業者の増加は人件費を引き下げ新たな均衡をもたらすとか、はたまた供給は需要を作るから需要不足は社会的に起こりえないとか?
また私個人としても、未だ考えのまとまっていない領域が多くある。「質」の向上は「生産性」に結びつくか?社会的に見て「余暇」と「失業」は何が違う?海外貿易による影響は?貨幣に
とはいえ、一般の方々へ思考の枠組みとして「生産性」と「生産力」の区別とその必要性は明快に提示できたと思う。また、単一企業視点にとらわれず、マクロレベルで「生産力」と「需要」を
見なければ、我々が抱く本質的な課題には接近できないこともご理解いただけると思う。筆者個人としては、後半の「貨幣経済によらない生産活動」というところをもう少し掘り下げたいが、
私的にまとまっていないこともあり、簡易に付した。当論がネット界隈の皆様方にとって有益であればありがたい限りであるし、私個人としても皆様の様々なご意見・反論を得たいという気持ちに
溢れているということをご提示し、筆を置きたいと思う。
読む限りでは、あなたに過失はないので、殺処分だろうが、飼い主が苦悩の末自殺しようが、しらっとしていればよい。
おそらく殺処分はないだろう。そこまでいくと、役所側が訴えられる恐れがある。
常習的なノーリードで度々苦情がきていたモンスター飼い主に、お灸を据えるための脅し文句だろう。
その点で、あなたが恨まれ役として役所に利用された可能性に憤るならば、次は役所に突っかかればよい。
しかし、あなたのように、お粗末な人間に対して不寛容で、抜け目なく連絡先を聞き、
治療費を請求をするタイプの人は、合理的な反面、ヘイトを買ってトラブルに巻き込まれやすいものだ。
相手が裁かれる様子をむしろ楽しむような性質がなければやっていけない。
それが半端だと、悩むことになるだろう。
良心の面で半端なら、論理的に整理した上で態度をはっきり決めるべきだ。
責任の所在があいまいで割り切れないなら、法律の専門家に判断を仰ぐべきだろう。
上記のようなタイプでない人は、面倒事になるのを嫌って、
お粗末な人間にふっかけられても多少のことはおおらかに済ますものだ。このタイプの人は、
お粗末な人間は常に一定数存在すること、たまに自分に流れ弾が当たることを普段から覚悟しているため、
子供を連れて買い物帰りに、近所の高級マンションの前でリードのついていない犬に出会った。
毛並みは良さそうだし、ゴミ出し用通路が開いていたから、飼い主が油断してる隙に出てきたのだと察する。
子供がその犬を「ワンワンだ!」って喜んで指差したら、犬が驚いたのか大声で吠えてきて子供を追いかけようとして、子供は私の裏に隠れようと足に絡みついてきたせいで、私は子供ごと転倒。手が買い物袋で埋まっていたために受け身を取れず、頭を打つ。
飼い主はそこでようやく自分の犬が粗相をしたことに気付いたようで、「大丈夫ですか!?」と声をかけてくるものの、手を貸す素振りも、散らばった食材を集めようともしない。
とりあえず、娘には見た目の傷はなさそうだけれど、私は頭が痛いし、何か後であったら困ると、
・リードのついていない犬が吠えてきたため私と娘が転倒したこと
・何かあった時のその犬の飼い主の連絡先
を紙に書いてくれるようお願いしておいた。
ついでに私の携帯番号も教えておく。
荷物を家に置いた後、娘を連れて近くの整形外科に行き、外傷の他、何か炎症がないかチェックする。
私が頭を打った時に多少血が出たのと、娘が膝を擦りむいたぐらいだった。念のため先生に紙を見せて経緯を説明し診断書を作ってもらう。
飼い主に、診断書を取ったこと、治療費がいくらかかったかをメールで送るが、3日経っても何の音沙汰もない。
同じようなことがあってもよろしくなかろうと、役所に行って、あの紙と診断書を見せて、これこれこういうことがあったので、あのマンションの住民に注意をして欲しいと伝えた。どうやら同じような苦情が他にもあったらしく手を焼いていることを愚痴られる。私に愚痴られても。
警察には被害届を出すほどではなかろうとやることはやった気になってしばらく経ったら、例の飼い主から電話が。
今更になって診断書の件でお金を払ってくれるのかなと期待して出たら、「おたくのせいで、うちの犬が保健センターに連れてかれた」「役人は吠えて人に怪我をさせるので殺処分になるかもしれないと言っている」「おたくから役所に何か言ったのではないか。そちらにも非があったことで、お互い様なのだから、役所に電話して、何もなかったと伝えて欲しい」と早口で伝えてきた。
私と娘の怪我程度で殺処分になるのは大袈裟だからきっと他の余罪があるのだろう、私どもでは殺処分にして欲しいなんてことは伝えていないと冷静に返すも、
「役所に文句を言いに行ったことは認めるわけね。じゃあ、それを取り下げて来て下さい」と上から目線は変わらず。
怪我の治療費を払ってくれるってことでもないなら私には関係のないことですからと伝えて、電話を切る。そしてその番号を着信拒否。
電話の最中は売り言葉に買い言葉のようになり、私も冷静ではなかったが、もしかしたら、本当にその犬が殺処分になるかもしれないと考えると、私がその犬を殺したということになるのではないかとモヤモヤし始めた。もちろん、娘にはあの犬が殺処分になるかもしれないなんてことは言ってない。娘が判断できることではない。
私が重い買い物袋を抱えていて機動性がなかったという点では私にも非がある部分がある気もするが、ではこれが私たち親子ではなく、杖をついた老人であれば非はないだろうし、私の方が加害者のように言われる覚えはないだろう。
ある意味不幸な出会いと言ってもいい。可愛い小型犬であり、噛んだわけでもない。
私は役所に殺処分を止めるように連絡するべきなのだろうか。
トラバやブコメをみる限り、少なくない人が役所に電話した方がいいとあったので電話してみた。
休日なので担当者は不在だったこともあり、そういう事案を受けているかは確認できなかったが、「その程度のことで殺処分になることはない。勘違いではないか?」という話はあった。
読む限りでは、あなたに過失はないので、殺処分だろうが、飼い主が苦悩の末自殺しようが、しらっとしていればよい。
おそらく殺処分はないだろう。そこまでいくと、役所側が訴えられる恐れがある。
常習的なノーリードで度々苦情がきていたモンスター飼い主に、お灸を据えるための脅し文句だろう。
その点で、あなたが恨まれ役として役所に利用された可能性に憤るならば、次は役所に突っかかればよい。
しかし、あなたのように、お粗末な人間に対して不寛容で、抜け目なく連絡先を聞き、
治療費を請求をするタイプの人は、合理的な反面、ヘイトを買ってトラブルに巻き込まれやすいものだ。
相手が裁かれる様子をむしろ楽しむような性質がなければやっていけない。
それが半端だと、悩むことになるだろう。
良心の面で半端なら、論理的に整理した上で態度をはっきり決めるべきだ。
責任の所在があいまいで割り切れないなら、法律の専門家に判断を仰ぐべきだろう。
上記のようなタイプでない人は、面倒事になるのを嫌って、
お粗末な人間にふっかけられても多少のことはおおらかに済ますものだ。このタイプの人は、
お粗末な人間は常に一定数存在すること、たまに自分に流れ弾が当たることを普段から覚悟しているため、
理不尽な不利益を被って泣き寝入りする可能性があっても、自己犠牲の精神でおおらかでいられるのだ。
たったこれだけの文章しか書いていないのに私のことが見透かされたようでした。私が、鈍臭い頭でっかちの中途半端な馬鹿だったんでしょうね。これからは前者で徹底することにします。
id:xevra さんもご助言ありがとうございます。そのように対処します。
犬に罪は無い。だが、飼い主は裁かれるべき。警察に被害届を出して警察沙汰にし、和解条件に犬の管理を厳密にさせる事を入れて殺処分を回避するような方向が良いと思う。 http://b.hatena.ne.jp/xevra/20130929#bookmark-163337630
http://anond.hatelabo.jp/20130911131953
今後もしばらくは応援しつづける所存だ。
理由は3つ。
1. 箱押しが楽しい
私はれに推しである。
単純に箱押しすることも考えたが、やはりれにの素晴らしさは半端ない。れに寄りの箱推しだと明言できる。箱で推さないなんてMOTTAINAI!!
れに推しでまとめることも考えたが、かなこぉ↑の笑顔、しおりんやあーりんの可愛らしさ、そしてももかの頑張りぷりを考えると今は箱推しの方が賢明。将来的にはどうなるかわからん。
ジョギング中にウォークマンでももクロ。長距離を走り続けることができる。
ペースが落ちてきたら走れ!を聞けばいい。
車のHDDにもアルバム三枚入れてある。ドライブが最高のイベントになる。電池に不安のあるiPhoneなんていらない
3. 日々の疲れや何もかもを吹き飛ばしてくれる
しかし、動く彼女らが見たくなったらyoutubeという手がある。
ただ、現時点ではyoutubeがももクロの動画を参照するに適した手段ではないかと思われ。
私がももクロに固執する理由はこんな感じ。
で、本題。
グリーン、イエロー、ブルー、ホワイト、レッド 馬鹿じゃないか?
ブルーはあっても無くてもいい。でもそれ入れたら6色いるでしょうがっ!!
ホワイトってなんだよ。箱色か? 知らねえよ。
パープル用意しとけよっ! 誰が買うのって? 俺だよ俺。俺俺。
今、私はガラケーを使っている。
今後もしばらくは使い続ける所存だ。
理由は3つ。
単純に複数回線持つより安上がりということもあるが、カネというより気持ちの問題。 MOTTAINAI!!
テザリングでまとめることも考えたが、バッテリー・帯域制限・回線維持費を考えると、今はまだルーターの方が賢明。将来的には通話機能とルーターは集約されると思う。
特にプロバイダ契約ブッチして、E-Mailさえ使えなくしてからは充電頻度が激減した。
キャリアが提供する通話サービスは、SkypeやLINEに取って代わられるかもしれない。
ただ、現時点ではガラケーが最も通話に適した手段ではないかと思われ。
私がガラケーに固執する理由はこんな感じ。
http://anond.hatelabo.jp/20130830202223(最初のトラバ先)
http://anond.hatelabo.jp/20130831142238(自分の記事)
元増田の人が2nd Seasonを書いてくれたので、こういった若い人たちに役立ちそうな知識をさらに追記してみたい。
(実は若くなかったら申し訳ない)
念のために書いておくけれど、僕は最近のラノベ専門学校の実態は知らないし、体験入学に行ってみて入らないというのは、優れた判断だと思う。
実際に教師の質をどう担保しているのか不透明だし、やはり意識の低い学生も多い。(自分の時は、おおよそ2割=10人は中退した)
教師は別に仕事を持つ社会人が多く、どちらかというと偏った業界の偏った人格の人達で、しかも扱う分野が本来主観的なものであって、生徒への評価も心情的になりやすい。
それに、最近のラノベブームで、雨後のタケノコのように学校が開かれているのかもしれない。
そういったところはやはりノウハウも無いだろうし、授業の質も低いだろう。
(余談だが、僕が通学していた当時は、まさかこれほどラノベが流行するとは正直誰も思っていなかった。ただ、先生は「これからミステリー小説のように定番ジャンル化するだろう」と予言していた。涼宮ハルヒも出ていない頃だ)
だから、専門学校に通わないというのは、比較的低リスク・低コストで賢明な判断だと言える。
しかしながら、元増田が挙げてくれた問題について、それを断定のまま終わらせてしまうのはもったいない。
特に3番目の問題、
でも、文章を書く営みって、そんな秩序立ったものではないですよね?
元増田が残念なのは、この深い疑問を、専門学校の体験入学ごときで解決してしまった気分になっていることだ。
僕自身、先生に教わったり罵倒を受けたりしながらも、この疑問に突き当たった。
そして、学校の内側と外側の両方で、この問題について世の中の頭の良い人達がどのように携わってきたか、それなりに気にしてきた。
おそらく、以下の参考資料を全部精読し、実習を行い、誰か信頼できる人からの客観的な添削を受け、頭だけではなく全身に技術をしみ込ませることができれば、決して取り戻せない数百万円と数年を賭して専門学校に行く必要など、皆無だろう。
また、下記ばかりでなく、もっと体系的でしっかりした知識が学べる大学なり海外大学なりケンブリッジやオックスフォードもあるかもしれない。
そういったものがあると分かったら、単純にそこへ行くべきだ。
文芸的な文章を除く基本的なライティングについては、古典的な書籍がたくさんある。
下記2冊は、ここで紹介するのが恥ずかしいくらい基本的な書籍だ。
さて、上記のような確立した情報伝達技術ではなく、独自の表現をしてみたり、人を感動させる文章を書きたい場合、そういった技術は教える・教わることができるのか?
それを体系的に扱うことは確かに難しい。そもそも人の感情であったり、表現から受け取る印象が非体系的だからだ。
だからといって、先人がそれを教育の世界で取り扱おうと努力してこなかったわけではない。
どうしても総論ではなく各論になってしまうが、それでも個人的に見て良書は多い。
「文章作法を学校教育のように教えられない」結論に至るのは自由だが、下記書籍を全部読んでから至っても決して遅くない。
「作文」の価値を捉え直した、文章表現の入門書。作品でも製品でもなく、純粋な「作文」そのものの価値を再発見している。
大学の講義をまとめた本。固いタイトルに反して、極めて柔らかい語り口で柔らかい内容を講義してくれている。
だけど、書くことの意味について、「美」について、とても鋭い視点であふれている。
前の文章でちょっとだけ出した。レトリック、つまり、文章で人の心を動かすための体系的知識(!)を取り扱っている名著。
レトリックは長らく馬鹿にされていたらしい(結局、ただの言葉のあやではないか?)が、それを感覚論・認識論・記号論の観点から再評価した名著。
なぜ直喩が隠喩より優れた修辞技法になり得るのか? といったことが詳しく書いてある。
大江健三郎による文学論。そもそも小説や文芸作品とは何を目指すものなのか? といったことを明確に書いてくれている。
それは同時に、読者としての私たちが誠実な文芸作品の中に何を求めるべきなのか? ということでもある。
文章読本は色々あるが、その中でももっとも実践的と言われる丸谷才一の本だ。
歴史的仮名遣いで読みにくく感じるかもしれないが、内容そのものは平明だったと思う。
(しかし、いまなぜか手許に無いので詳しいことは書けない。「ちょっと気取って書け」くらいしか思い出せない)
E.M.フォースターによる文学理論。Amazonで8000円くらい。僕はカチグミなので古書店で1000円で入手できた。
「ストーリーはあまり美しい要素ではありません」という衝撃的な宣言が印象に残っている。
小説というものを本来どう味わうべきか? どう書かれるべきか? という熱のこもった講義録だ。
新装版が出るんだ……。
芥川賞を最年少(23歳)で受賞しながら、文壇に属せず、独りストイックに小説を書き続けている作家の文学指南書。
テクニックの本ではないが、ここで明らかにされている執筆姿勢には衝撃を受ける。
ホームレスをしていた25歳のコリン・ウィルソンが大英博物館で一気呵成に書き上げた文芸評論書。
「アウトサイダー」というキーワードのもと、文学・美術・舞踏・哲学などなどを横断的に眺め渡した名著。
本気で読むと人生が狂う。
先の記事で書いた。全日本人が読むべき。
なんだかこういう本のことを書けるのが嬉しくて、ついかっとなってリストアップしてしまった。今は反省している。
偉そうに書いたけれど、結局は僕も文学界新人賞で名前が小さく載ったくらいの実績しかない人間で、そんなには当てにはならないだろう。
しかし、僕自身が当てにならなくても、何が当てになりそうかの感性は結構あるつもりだ。
教育における教師とはそういうもので、自分ができなくても人の作品を見て添削できたりはする。
失敗している人からだって、むしろ失敗している人だからこそ学べることもある。
そういった人達の行く末をよく見て、やはりラノベなんかやめて、楽しくOS・エディタ・コンパイラでも作ろうと思って欲しいのだ。
こちらの記事を見て大変すばらしい記事でしたので、私もジャーナリストの端くれとしてメディアを書かせていただきました。
クラウドソーシング狂想曲:クラウドワークス vs ランサーズ
ランサーズが不利な記事掲載でThe Startupにクレームを入れて黒煙が上がる: やまもといちろうBLOG(ブログ) http://kirik.tea-nifty.com/diary/2013/08/the-startup-033.html
----------------------------------------------------
今までにないテイストの記事を。スタートアップに寄生してドヤ顔でメディアを語ってるメディアがスタートアップ界隈で2013年の旬な分野の一つであることは間違いありません。先日寄稿した記事ではtechawaveをマーケットリーダーとして取り上げました。
スタートアップメディア市場について私個人の見解を述べておきます。あくまで私のフラットな見解です。(本稿が仮に広告記事であればここまであからさまな記事は書けないでしょう)この種の比較記事は取材して書いたのでは、事実を正確に記載して並べるだけというのがオチです。事実を比較する記事とは別軸で、どういう理由でどちらが勝つのか?を読者は知りたいのではないでしょうか。
ジャンル特化型のスタートアップメディアも多数出てきていますが、数年後に巨大なプラットフォームとして残るのは総合型だと思います。よって、事実上Techwave vs The Startupの戦いだと思いますので、本稿のタイトルはそうしました。両社のポジショニングを下記に記載。
http://uploda.cc/img/img5213041c088c9.jpg
私の周囲でスタートアップメディアを読者側として購読している人が何人かおり、そのサンプルを元にポジショニングを作成しました。後述するビジネスモデルの項で触れますが、読者の規模のスケールが事業上の肝になるので、単価の高い記事が流通していて、質の高いライターがいるTechwaveの方がスケーラビリティがあります。
実際に両方を購読した人に聞いてみると、ライターの質がTechwaveの方が圧倒的に良いという意見が多かったです。Techwaveの方が相対的に有利なポジションを獲得しています。
最大の論点:マーケットはどこまで伸びるのか?
スタートアップメディアを語る上での最大の論点は「マーケットのアップサイド」です。鶏と卵理論で、スタートアップメディアという市場が成熟するに連れてライターが増えたり、購読する読者側も増えるでしょう。スタートアップメディアが新たなメディアとして定着するのは自明ですが、それが既存のメディアを代替し得るほどのものになるのか、ポータルサイトの市場を潰すほどになるのか、ノマドのお小遣い稼ぎで終わるのか。
個人的には、最低でもポータルサイトの市場をある程度潰すような市場には成長すると思っています。ITVの河野さんあたりに、寄稿にあたりどのようなライターの質の算出をされたのか、お伺いしておきたかったですね。
ビジネスモデルの解説です。
・炎上モデル:PVに比例したアドセンス報酬によるPV数の1〜2%(ゆえに粗利が1-2%)
・将来的には広告もあり得る
■the Start up vs techwave現況
theStartupが未だに提携されていないのは、市場ではtechwaveの勝ちと思われているからなのかもしれない。事業開始1年でtechwaveより有利なポジショニングを取り、事業モデル上1社が勝ちやすい市場であろうため、賢明な読者であればもう勝てないと判断する可能性がある。
どのポジショニングを取るのかが一番重要。その後のオペレーションも勿論大事ですが、ポジショニングが生命線。Techwaveの有利なポジショニングの前に、The startupの優位性は機能しないでしょう。
Techwave vs The startup、他のメディアや個人ブロガーの方によるその勝敗を占う記事も見てみたいですね。僕と違う軸の記事が出ることを期待しています。