はてなキーワード: 活字離れとは
この前ネット番組の特集で「この先本屋さんは先細りで存在自体が危うい」っていう内容を放送してたんだけど、観ていて非常に悲しかった。
原因は若者の活字離れで、一か月に一冊も読まないことも稀ではないらしい。
私は本屋さんが大好きだ。
家が貧乏なこともあり、家族旅行なんかは本当にごく稀で、記憶の限りでは片手で数えられるほどしか行ったことがない。
それも近所で、傍から見れば旅行かどうかすら怪しかっただろう。
大人になるまでTDLどころか遊園地にさえ行ったことがなかった。
そこはビルになっていて、何階ものスペースが本でぎっしりと埋められている。
私は数多の本が棚に並ぶ、その景色が大好きだった。
ぎっしりと棚に並ぶ本の一冊一冊にそれぞれの世界、物語が詰まっているのだと思うと、私はその世界のあまりの広さと大きさに圧倒された。
そうした物語の数々を想像すると胸が高鳴り、見たこともない世界に憧れた。
大人になった今でも本屋さんに入ってたくさんの本を目にするとワクワクするし、世界の広がりを見せてくれるようで勇気をもらえる。
存在は知ってるみたいな感じ
社員数348名
売上高194億円
平均年齢45歳
雑誌:文学界、オール読物、月間文藝春秋、**週刊文春**、CREA、CREAトラベラー、Numberなど
新卒採用は年3人くらい
売上の内訳は調べたけど分からず
たぶんだけど普通に文春新書や文春文庫で出ている本がメインじゃないかと予想
売上は緩やかに落ちていってる(業界全体がそうなので他社寄りマシ)
値段:480円
発行部数:四半期あたり47万部、週あたり3.8万部(2022、ただし印刷数である)
購読者割合:70代男性が最も高く、若いほど少ない(活字全盛期がたしか昭和40年代だから、単にその世代なんだろう)
週当たり
2008年 6.2万部
2015年 5.1万部
2022年 3.8万部
大体年間5%の減少(売上で言えば0.5億円ペースで減少)
スマホ普及前から減っていて(活字離れ)、スマホ登場後減少がやや加速
会員売上:推定2.6億円
PV等:自社5億/月、外部含め8.6億/月、Twitterフォロワー68万
・一番売れている
・全体の事業の規模から言えば週刊誌は割りと趣味みたいなものなのかもしれない
・雑誌冬の時代なのでどの週刊誌も減ってきている、新聞とどっちが先になるなるかという感じ
・電子版が伸びてきているが、2022年2023年はそれほど伸びていない
・15年で売上が6億円分くらい減っているが、電子版でどのくらい増えたかは未知数(総じて微減か?ただ記事をどこにどう売ってるか不明なのでひょっとしたら増えてる可能性もある)
・小学館700人、集英社770人、講談社920人、新潮社480人、と見ると大体規模感が分かる
・週刊少年ジャンプが週あたり10万部くらい、と見ると大体規模感が分かる
・日経電子版の有料会員数が89万人、ガーシーのメンバーシップ推定4万人、とみると有料会員1万は少なく見える
・ガーシーが消えたのは文春にとってデカかったのではと思う
・現状の「300人に1人が雑誌を買ってる」という状態でも成り立つようなビジネスなので、週刊誌が万人受けする必要はなさそう、それこそ袋とじみたいな存在なのかもしれない
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訂正、補足ありがとうございます
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別のところで調べたけど、「発行部数」と「実売」はかなり乖離があるらしく、発行部数で見るのは危ないっぽい
日本ABC協会(Audit Bureau of Circulations,新聞・雑誌部数公差機構)の2023年上半期の各誌実売部数を見たら全然数字が違った
https://www.sankei.com/article/20231224-AFQCTVQYHBNNDFX6CMBIJQXMCE/
『週刊文春』 20万8418
『週刊現代』 12万5869
『週刊新潮』 12万2781
『週刊ポスト』 11万7835
『週刊プレイボーイ』 6万9205
『週刊大衆』 6万8150
『AERA』 3万4570
半期で20.8万部、1年で41万部だとすると、年間売上は約2億円であり、もうお小遣い程度にしかならない(松本人志の年収より低そう)
今日先輩のFBを見ていて思ったことをつらつら述べてみようと思う。彼女曰く「〇〇という本屋が閉店となってしまうそうです。活字離れが問題で、出版界はかなり厳しい状況下に置かれているそうです。だから云々」という部分に関して少し違和感を覚えたのである。例えば、この部分「活字離れが問題とされていて、出版業界はかなり厳しい状況下に置かれている」という部分。まずは「活字離れ」というのは何のことを表すのだろうか?もしそのままの意味で受け取るならば、「活字離れ」というのは「文字離れ」のことを意味するのでは、と考え少し調べてみると「活字」に関する明確な基準は無く曖昧な定義であった。このままでは話にならないので、「活字離れ」イコール「文字離れ」と仮定する。そうすると、あら不思議、「活字離れ」と言うのは実におかしい言葉だとわかるのである。例えば、僕らが日頃から接しているツイッターやFB,ネット記事に至るまで、すべてが文字情報で、みんながつかう「LINE」だろうと、僕らの周りをとりまくすべての情報が文字でまみれているのである。そう考えると、「活字離れ」「文字離れ」なんてものは存在しないのではと思ってしまうのである。
また、彼女の話の中で、「活字離れ」が問題とされていて、出版業界がかなり厳しい状況に置かれている、と書いているがこれはとんでもない事実誤認であることがわかる。何故かと言うと、出版業界を衰退にみちびくのは「読書離れ」であり、「活字離れ」では決してないのである。おそらく出版業界が倒れそうになっているのは、昔からある出版業界の古き因習によるものであると推測しているが、この話をすると長くなりそうなので止めておくことにする。そこで、今回の本題に入ると、「若者の活字離れ」が叫ばれている中で、それに反論するような形になるが、おそらくこの「若者の活字離れ」は勝手に頭のわるいおっさんどもがこじつけでやっているに過ぎないと思っている。しかし、そこに関して堀さげることに意味があるとおもうのでやっていようとおもう。彼らが、「若者の活字離れ」を叫ぶことによって、我々若者に求めていることとしては、「本という紙の媒体を見る」という行為を我々若者に強いたいのである。ではなぜそれを強いたいのか。それは次回のお楽しみである
1 オナ速の登場
先日電車でJKが「○○ちゃんはオナ中でオナクラに入ってた」なんて宣ってたが、これは断じてオナニー中毒の少女がオナクラで働いてたという意味ではなく同じ中学で同じクラスという意味だ。
しかしながら、タイトルにある「オナ速」のオナは今度こそオナニーのことであるから自慰マニア各位は安心するように。ただし、それはオナニー速報のことではなくオナニー速射でもなくて、残念オナニー速読でした。
勘違いされがちだが速読は特殊能力でもなんでもなく誰でも速く読めばそれで速読なのだ。速読の習慣の多寡によってスピードに著しい差があるため、まるで速読自体が超人技であるかのように思われているが何ともあほくさい話である。つまり、頭の硬い大人たちが速読という誰でも訓練なしにその場でできる素朴な行為を勝手に特別なものと考えて挙げ句の果てには不可能と決め付けて凝り固まっているだけの話なのだ。そしてそうした洗脳された可哀想な人を思い込みから救うための治療法をわざわざいかめしく速読法と呼称しているだけのことだ。
だからオナニー速読ではそういうくだらない風潮に小石を投げてもっと単純に楽しめよと訴えかける。つまり、オナ速は世にはびこる速読法の類いのものではなく、あえて言うなら読書の楽しみ方である。
まず声をゴリラにして叫びたいのは、このご時世読書の楽しみ方が画一化され過ぎているということだ。スローリーディングが近年もてはやされているが、それも読書の楽しみ方の一端にすぎない。スローリーディングの最も不自由な点はスローへの不必要なまでの拘りである。速さも遅さも両方大切なのに。
自由や個性という言葉を強調する人間に限って、単に不自由で没個性な自分のやり方を正当化したいだけで、自由や個性とは程遠いシロモノであるのはよくあることだが、だからと言って自由や個性を叫ぶのを止めてしまうと人間社会の硬直化に対する抑止力が女性の「硬いのはチンポだけにしてよね」という台詞しかなくなってしまうというジレンマがある。
こと読書に関しても、自由という名の不自由の押し付けであることを恐れずに私は言いたい。今こそ全人類が読書解放運動を起こすべきであると。読書にまつわる先入観を捨てて、読書を再定義&新発見していかねばならない。読書ってまだまだこんなもんじゃないぜってところを見せてやらないといけないぞっと。誰に見せるのかは知らないけど。
よく言われることだが、文字情報というのはそれ自体は画像よりも遙かに情報量が少ない。しかし、文字の意味するものを想像し推し量ることで初めて豊かな情報を含んだ感覚が読み手の前に現れる。換言すれば、想像力と推理力いかんで全くもって読書体験が違ってくるということだ。
したがって、みんな「読書」「読書」と共通する言葉で呼び習わしているけれども、その中身は「あなたとわたしでまるで違ってた」ということが当然あるわけである。
だから、異次元な読書に遭遇してもそれもまた1つの読書法であると寛容の心で迎えることにしよう。受容すること、それがあなたの読書を豊かなものにする。
ところで、何故オナ速という名前にオナニーが含まれるのかというと、読書にはオナニー的な側面が色濃いからだ。ここでのオナニーとは単なる自己満足の同義語ではなくて、胸を高鳴らせながら「オカズ」と呼ばれる情報を探して、良いオカズを見つけたら食い入るように「味わい」、「集めた」オカズからより興奮度の高い「妄想」を作りあげる、という一連の特徴を有する行為のことだ。
うーむ、改めて考えると読書ほどオナニーに酷似した行為はない。そう思わないだろうか?よく考えてみてほしい。
ここで、読書のような高尚で知的な行為がオナニーのような低俗で馬鹿な行為のわけがないと思う諸君は、エロ漫画やエロ小説から類推してもよい。具体的には、エロ動画→エロ漫画→エロ小説→小説→高尚な専門書というオカズの状態遷移図をイメージして欲しい。
そして実際にエロ動画を楽しむ時のような気持ちと心構えを保持したまま矢印にしたがってオカズを推移させてみるとよい。そうすれば、高尚な専門書もその本質においてはエロ動画となんら変わる所がないのが認められるであろう。ただし、チンコは出さずに楽しむこと。
なるほど読書は確かに限りなくオナニーに近いことが分かったけれども、賢明な諸君は既にお気づきだろうが、それでもただ一点、陰茎の有無という点が異なる。もうお分かりだろう、オナニーには陰茎があるのに読書には陰茎がない。
そしてこの一点のために、読書とオナニーの間には深い深い断絶が生じているのだ。読書という本来楽しい行為が文字通り去勢されて、無味乾燥なものに堕してしまっている。
若者の活字離れが叫ばれて久しいが、実は近年ではケータイ小説やラノベの隆盛によって活字と接する機会がむしろ増えているのだという。
それを知り、今こそ読書を復権する一世一代の大チャンスであると考えた私は、まず読書と自慰の間の橋渡しに取りかかった。そろそろいい加減に読書と自慰の両者は和解しても良かったのだ。誰もやらなかったから私がやった、それだけのこと。
3 これがオナ速だ
以上を踏まえ、オナニーとしての読書を前面に出した速読がオナ速である。
繰り返すが、これは速読法ではなく読書の楽しみ方である。速読法というもの自体が実にナンセンスなことは既に述べた。よって、従来の速読法を去勢されたものとして否定的に見る。全否定まではしないけど。
ではオナ速の方法を紹介しよう。オナ速に入門したはいいが何から始めて良いか分からないという新入生は必見である。ただし、技法論に終始して楽しみが失われては本末転倒だから、最低限の技法の紹介にとどめる。
それではまず、君はエロ漫画を速読する習慣を身に付けねばならない。オナ速は楽しさをモットーとするが、開放的な享楽の裏には必ず厳しい統制があるものだ。エロ漫画片手に厳しく行こう。
先ほどの状態遷移図を今一度見てもらおうか。エロ動画→エロ漫画→エロ小説→小説→高尚な専門書。
これを見ても分かるようにオカズカーストの最上位に位置するのはエロ動画である。最もオカズとしてのパワーが強い。
次がエロ漫画、その次がエロ小説と続く。困った時はまず身近な相談役のエロ小説先輩に聞く。それでも解決しない時はエロ漫画先生に、それでもまだ解決しない時はスクールカーストの最上位のエロ動画校長を用いれば良いのだ。
しかし君たちはまだ駆け出しのヒヨっ子なので、最初からエロ漫画先生の力を積極的に借りたほうがいいだろう。エロ小説先輩は気が優しいけどちと力不足だ。
さてエロ漫画の読み方だが、分かっているとは思うがチンコは出さない。そしてこれが重要なのだが心のチンコをしごく。
「ネットペニス」という言葉をご存知だろうか?かいつまむと、どれほど処女力の高い女性であっても2chの男どもの手にかかれば毎日妄想内で犯されまくりで、実質ネットごしに処女喪失したのと一緒じゃね?という話である。
この話で重要なのはネット上でも処女喪失が成立することではない。そんなことはどうだっていいことだ。
本当に大切なのは、バーチャル世界でもペニスが存在することの発見、そしてそこから論理的に導かれる、ペニスがあるならオナニーだって出来るじゃないか!という気づきである。
まだピンと来ない人もいるだろうから具体的に言おう。これをエロ漫画に置き換えると、物理的にはチンコを出さないけれども、精神的にはチンコを出してオナニーすればいいと。そういうことなのだ。
そもそもオナニーに物理的チンコは不要である。第一に物理的チンコは性感帯の一部に過ぎないし、第二にその性感というのも単なる快楽物質の分泌に過ぎない。言うなれば、チンコは快楽スイッチの1つに過ぎない。
その快楽スイッチが身体に存在するのは甚だ不便だと思ったことはないだろうか?心にスイッチを備え付けたい。思春期にそう強く切望していたのは私だけでは無いだろう。
それは可能である。可能なのだがそれに納得して貰うために少し説明しなければならない。
まず基本事実として、人間は適切なオカズさえあれば深いエクスタシーに達することができる。言い換えれば、物理チンコなどなくても純粋に精神的な手段で快楽が得られる。これをエナジーオーガズムと呼ぶ。
次に、オカズを物理的に調達しなくとも純粋に心の中で妄想するだけで、オカズとしての働きを十二分に果たすことができる。これは妄想を習慣としない人には信じがたいだろうが事実である。
以上何でもない2つの事実を確認したが、この2つからとんでもないことが分かる。純粋に精神的なスイッチを作ることが可能なのである。これを精神的チンコと定義する。
そして他でもないこの精神的チンコをしごくことこそがオナ速の極意なのである。なんだってー!? 要するに、心の中に精神的チンコと呼ばれる快楽スイッチを作り、それをこすりながら読書する。これがオナ速の全貌である。
4 オナ速の実践
とは言っても、精神的チンコをしごく感覚はなかなかつかみづらい。そこでまず感覚のつかみやすいエロ漫画から始めるのである。
その際にページを「読めないギリギリの速さ」でめくってほしい。読めるギリギリじゃなく読めないギリギリ。限りなくセーフに近いアウトで頼む。読めてしまったら従来の読書法に先祖返りする危険性が高いからである。
ギリギリ読めない速さでめくりながら読もうと努力するのだ。読めてきたらまたスピードアップして「読めないギリギリの速さ」にする。この繰り返しで少しずつ速くしていくこと。
勘違いする人が続出しそうなので言っておくと、これは一見すると速読習得法のようだが全く違う。速さは従来の読書を回避するためのものに過ぎない。実際のところ、速さが欲しいなら「読めないギリギリの速さ」にせずに最初からビュンビュン飛ばせばいいのである。それをしないのは速さ自体はどうでもいいからだ。
さて、読めないギリギリの速さで読もうと努力すると言ったが、その努力のしかたも大切である。絶対にやってはいけないのは、立ち止まること(停止)と目など身体を緊張させること(緊張)、である。
停止と緊張を避けるには、ページをめくる速さを一定にするとよい。淡々と流すようにリズミカルにページをめくる。理想はエアロバイクを漕ぎながらのタブレットによるオナ速である。これなら絶対に停止と緊張が起きない。
さてページをめくるリズミカルな動作は何かに似ている。そう、シコシコに似ている。あとは言わなくても分かるな?そう、めくる動作に合わせて精神的チンコをしごくのである。
合わせると言ってもタイミングが重要だ。ページをめくった次の瞬間、ちょうど紙面を視認した瞬間が黄金のタイミングだ。このタイミングでスイッチオン。ここから少しでもズレるとガクンと成功率が落ちるので注意しよう。タイミングをつかむには身体でリズムをとりながらやるのが良いだろう。コツをつかむのに1ヶ月は最低かかると思う。
成功すれば一瞬視界が明るく光って快感が生まれるからすぐそれと分かるはずだ。安定して成功するようになったら、今度は吹き出しのセリフも正確に読み取ろう。
それも出来るようになったらエロ小説に取りかかり、それも出来たらやっと高尚な専門書に進むことができる。長い道のりだが決して無駄ではない。全てはエロ漫画のように生き生きと読書をするためだ。
エロ小説や高尚な専門書の読み方もエロ漫画と基本的に同じだけど、しごくタイミングには少し注意が必要である。文章だけの本の場合、おすすめのタイミングは数行をまとめて目に入れてその次の瞬間である。一行ずつしごくやり方も試行錯誤したがどうもうまくいかない。数行ごとが良いと思う。
数行ずつのまとめ読みをマスターしたら5行、1/2ページ、1ページと増やすことになるが、無理に急ぐことはない。無理をしてオナニー性が薄れたと感じたら数行ずつのまとめ読みにただちに戻るべきだ。
ともかく、以上の方法を実践すれば新鮮な読書体験が得られるであろう。その感覚、喩えるならエロ漫画のような読書。何がエロ漫画だと思うかもしれないが、とにかくエロ漫画なのである。
5 将来の展望
これまでオナ速という一見不思議で実は本質を突いた読書法を紹介してきたわけだが、ここで衝撃の発表がある。それは、私たち人類は知らず知らずのうちにオナ速をしているのだ。なんだってー!?
例えば、美味しそうなシュークリームを見た時にパッケージをどんな気持ちで読むか考えてもみてくれ。思いっ切り精神的チンコをしごいてないだろうか?それは否定しようがないれっきとした事実だ。
気になる異性からのメール、面白そうなゲームの特設サイト、すごく注目してる新製品の情報、それらをどんな態度で読んでいるか?それはもう目を血走らせて食い入るように見ているのではないか?
そのような読書態度はエロ動画に対する態度と全く同じであることに気付いてほしい。みんなしごいて見てるだろう。
そのようなありのままの人間理解に基づいて情報社会というものを捉え直さないとダメ。これまでの無味乾燥な情報科学では限界があることは明白であり、古めかしい情報観は終焉を迎えようとしている。もう夢見る少女じゃいられない段階に来てるんだよ。
オナ速というのはそのほんの始まりに過ぎず、決してゴールではない。
ブログの人気ジャンルの一つに「書評ブログ」というものがある。読んだ書籍をもとに記事を書き、内容の紹介をして、アフィリエイトに誘導したりしている。
彼らは実にたくさんの本を読んでいて、とても感心する。記事にするのもとてもエネルギーのいることだろう。
しかし、同時に彼らを見ているとある疑問が湧いてくる。「いったい読書で得られることってなんなんだろう」という根源的な問いだ。
一般的に本を読むのは良いことだとされる。だから、新聞では活字離れが嘆かれるのだし、学校では朝読書が導入されるのだ。読書は読者の視野を広げ、思考を深め、よりよい人生に導いてくれる。
そんなことがまことしやかに信じられているが、書評ブログを見ていると果たしてそうだろうかと思ってしまうのだ。
彼らはたくさん読んで、たくさん書いているが、それによって何かが深められているという跡がまったく見えてこない。
さすが博識だなぁとか、すごくうまい文章だな、と思うことはまるでない。
本の知識はその本の記事のなかで完結していて、他の記事に生かされて絶妙に面白い記事が書かれる、ということがまったくない。
商業で活躍する優秀なコラムニストはそれをやってのけるが、彼らにはそういう兆しは一向に見えてこないのだ。
そもそも彼らがやっていることは厳密には書評ではない。内容の要約だ。彼らの記事にアクセスが集まるのは、彼らが書いていることが面白いからではなく、本の中身が優れているからである。
例えば、プロブロガーを名乗っているイケダハヤトさんのブログなんか、記事の半分以上が引用で構成されている。ほとんど本の内容を写しているだけだ。
とりわけ興味深いのはビジネス書を中心に書評しているブログだ。
彼らはたくさんの仕事術を紹介してくれるが、それが彼らの仕事にどう生かされているのか、まったく見えてこない。
この方法よりこっちの方法が良かった、という比較も書かれないし、果たして実践しているのか謎だ。
それで「夢がかないました」と言うのでどういうことか見に行くと、自分の本が出せたことだったりする。ビジネス書を読むのは本を出すためで、ビジネスとは関係なかったということだろうか。
民間私立の学校事務(専門、予備校含む)でここ最近契約または嘱託での求人が増えたような気がする。
中には正社員登用ありの学校法人もあるようだけど、いつ正社員契約になるのか記載もないので契約のまま使い捨てられるんじゃないかとビクビクしてる人もいるのでは。
学校事務に限らず契約社員は一般に福利厚生の充実を除くと昇給賞与なしでその割に正社員と同じ責任を負わせるのだ。いつでも切られる可能性があって仕事量は正社員並みの扱いなのに給料は安く買い叩かれる。
察するに今、学校法人は帝国の統計による少子化の問題や子供の活字離れの増加といった状況下で人件費の大幅な削減やサービス業に方針転化するといった悪循環に陥ってるのではないか。その一環として正社員枠が減少し、いつでも切れるし需要過多気味の契約社員の採用に力を入れてるのではないかと見た。
そういえば年が明けてからの朝日求人WEBなどを見ると新着の学校事務の募集は殆どが契約社員での採用だった。(業界地図、四季報などで)前年度に比べるとますますそのような傾向になってるように見える。
近年、昭和の言葉じゃないものが「昭和の言葉」扱いされるのをよく見かける。
別に古い言葉じゃなくて、今も使われている言葉なのに、どうも自分の知らない言葉、日常聴き慣れないというだけで、「昭和の言葉」扱いする人がいるようだ。
「聴き慣れない表現」「文語的な表現」と言うなら分かるけれども、「昭和の言葉」とはどういう了見か。
例えば、この「どういう了見か」という言い回し。これを口に出そうものなら、彼らは重箱の隅をつっつくかのように、「センスが昭和」と笑い立てる。
「青少年の活字離れ」なんてデータはない。青少年の読書量調査では近年一貫して読書量は伸びている。
個人的には、ライトノベルの隆盛(流石にそろそろ頭打ちが囁かれているが)などは、今の青少年層が過去の青少年層より
遥かに活字に親しんでいる、という背景が無ければ説明しにくい現象だと思っている。
ただし出版社にとっては商売的に厳しくなっているのは事実で、この原因は
・図書館施設の充実・利用促進施策の成功による、貸出数の大幅増加
によるもの。あくまでマクロトレンドや出版業界外の要因によるものなので、出版社の少々の青少年層取り込み努力や
青少年層の読書量増加で覆せるものではない、というだけの話だ。
若者の○○離れ
ttp://copipe.cureblack.com/copipe/2010/02/10/14080
22 名前:水先案名無い人[sage] 投稿日:2010/02/08(月) 16:04:07 ID:0T55La0F0
若者の~離れって書いてる時点で本質を見極めようとする意思が無いことがわかる
そんなんだから取り残されるんじゃねぇか
78 名前:水先案名無い人[sage] 投稿日:2010/02/10(水) 11:07:38 ID:H0E/XAlx0
若者の
79 名前:水先案名無い人[] 投稿日:2010/02/10(水) 11:12:33 ID:nOw/UkxH0
マスゴミは最早若者を自分たちを破産に追いやる敵としか見てないみたいだな。
80 名前:水先案名無い人[] 投稿日:2010/02/10(水) 11:17:34 ID:ekdUmQVG0
離れすぎワロタ
81 名前:水先案名無い人[sage] 投稿日:2010/02/10(水) 11:22:51 ID:X0DvL6Oj0
交通事故離れwwww
82 名前:水先案名無い人[sage] 投稿日:2010/02/10(水) 11:28:28 ID:fW4bKTKi0
若者はどこへむかってんだよww
83 名前:水先案名無い人[sage] 投稿日:2010/02/10(水) 11:29:55 ID:KaMuf/k30
マスゴミって頭おかしいんじゃないの
84 名前:水先案名無い人[sage] 投稿日:2010/02/10(水) 11:38:17 ID:rgcANaWL0
»78
離れた方がいいものがあるなw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AA
元よりインテリは知識面での優位性を持ってその地位が確立されるのではなく、知識を用いて社会に奉仕するからこそ、社会から大切にされるという物だけに、そこを履き違えて知識だけを溜め込んだだけの存在は、度々周囲から否定的に扱われては当人らが憤慨するという現象を招いている。
他方では、知識を得る事自体が否定的に扱われ、先に挙げた活字離れ・理科離れを加速させる傾向にある。これらでは本来、学問を修めるべき学生に在ってすら学問から遠ざかるという状況も見られる。この場合では学問を真面目に修めている側が、「ガリ勉」などとして揶揄されるケースもあり、学問の習熟を妨げる事態も発生している模様である。
笑いたければ笑え的なタイトルにしてみた。
マンガしか読まない典型的な活字離れ世代の俺だが、それでもどうにか自分の気持ちを人に伝える程度の文章ぐらいは書けるようになったようだ。
夏目漱石とか芥川龍之介とか、ああいう文豪と呼ばれる人たちの長ったらしい小説を読まないと文章なんて書けないと思っていた。
これはどういうことだろう。
増田で投稿する俺のエントリーがよく当たるのだ。文学作品に触れる機会なんて無かったわけだから、難しい比喩表現のストックも無ければ四字熟語や諺に強いわけでもない。
それなのに、100ブクマ以上ついたエントリーの方が、それ以下のものよりも多い。
断っておくが、「○○するためのたった一つの方法」といった、無能御用達の3流ビジネス啓発本(サンマーク出版とかが出してるようなやつ)のようなTIPSでブクマ数を稼いだわけではない。
自分の失敗談や、価値観や人生観をつたないながらも実直に表現してきたつもりだ。
あれ? 俺ってなんか凄くね? そんな俺が今から本を読みまくって、賢くなったらもっと凄い文章が書けるんじゃね? とふと思ったの。
まぁ、はてブのユーザーから共感得られたってそれが読み物としての面白さのバロメータってことにはならないんだろうけどさ。
ただ、一つだけわかったことは、本は一切読まなくても他人から共感を得られる文章は書けるようになるってこと。ブクマは、やっぱり沢山付く方が嬉しい。
出版は老舗の雑誌が次々と廃刊し、テレビは視聴率低下によって広告離れが起き、音楽は久しくミリオンが生まれていない。
一方、ネットの世界に目を向けてみるとニコ動、youtube、pixiv、twitter等々、様々なサイトが盛り上がりを見せ、大きなうねりを生み出そうとしている。テレビ等の既存メディアとは対照的だ。
だがしかし、言ってしまえばネットのコンテンツはどれもこれも素人の提供する予算もクオリティも低い代物である。
長らく映画ファンの間では邦画がつまらない理由は「ハリウッドに比べて予算が少ないから」と言われてきた。
何故、既存メディアの提供する潤沢な予算で作られたプロのコンテンツよりも、ネットのコンテンツが支持されるのだろうか。
ネットのコンテンツの中には、企業制作の予算のかけられたコンテンツも存在するが、それらも不思議と支持されていない。何十分の一、何百分の一の予算で作られたyoutubeの動画の方が支持される。
この現象を紐解くために、低調な既存メディア内において、根強く支持されるコンテンツに目を向けてみよう。
そうすると人気バラエティや人気お笑い芸人に対して、「脱力」だとか「ゆるい」だとかのキーワードが頻出していることに気づく。
二つとも、元はマイナスな意味を持っていた。「脱力」は「落胆」と同義だったし、「ゆるい」の場合は、例えば「ゆるキャラ」は当初は嘲りの目線が多分に含まれていた。
ここでは「脱力」「ゆるい」を総じて『ロウ』と呼称しよう。
今、世の中で支持されているものはそのほとんどが『ロウ』なものだ。
お笑いのネタ番組はキッチリと構成されたコントを見せるものから、数秒の一発ギャグを次々と見せるという『ロウ』なものに変化したし、別の潮流の『すべらない話』も人がいてただ面白い話をするだけ、という『ロウ』なものだと言える。
深夜バラエティがゴールデンに行って失敗するのは、『ロウ』なものから予算のかけられた『ハイ』なものになってしまったから、と言える。
そして、『ロウ』なものが何より一番溢れているのは、そう、インターネットの世界だ。
素人の一個人がお金をかけずに作った動画なんて、「ロウ」としか言いようがない。
では、何故『ロウ』が人々の心を惹きつけるのだろうか。
その答えは、コンテンツ産業の中でいち早く不況に見舞われていた出版業界を見ればわかる。
出版業界では90年代半ばから「出版不況」と言われるようになったが、既に80年代には「活字離れ」と言われる現象が起きている。
「活字離れ」という状況下で、それでも数百万部売れるベストセラーは、「文章力がない」「素人が書いたようだ」と書評家が酷評するという奇妙な現象が起きていた。
ここでも『ロウ』が支持されるという状況が立ち現れたのだ。
評論家の中島梓は著書『ベストセラーの構造』にて、「私にも書けるかもしれない、というアマチュアの親しみやすさ」が支持される要因だ、と分析した。
四半世紀経過した現在、まったく同じ分析が下されたネットのヒットコンテンツがある。『初音ミク』だ。
ネットには『ロウ』が溢れている。『ロウ』の「アマチュアの親しみやすさ」が人々を惹き付け、「私にもできるかもしれない」と思わせる。その思いは初音ミク等のソフトウェアがサポートし、発表する場所はネットが与えてくれる。そうやって生まれたコンテンツを見た人がまた同じ思いに駆られ……ネットはそうやってぐるぐると回り続ける。
地デジはおそらく失敗するだろう。何故なら双方向を視聴者からのリアクションしか想定していない。ネットの双方向は、互いに作りあい刺激しあうことだ。
一億総クリエイター社会では、受信機は同時に送信機ではなくてはいけないし、コンテンツを見る場所は同時にコンテンツを発表できる場所でなくてはならないのだ。