はてなキーワード: 因果とは
文化資本ガチ勢がガチ勢同士でつるむためのチケットでしかないだろ。くだらねえよ。意味ねえじゃん。
教養なんてあっても幸せになんてなれないし、むしろ邪魔まであるだろ。
自分で言うのもなんだが、俺にはかなりの教養がある。つまりお前に意見をするチケットがある。こんな話は反吐が出るから詳しくは言わないが、文系、理系、文化、芸術などなど、どの点をとっても俺の教養パワーにはほとんど隙がない。なぜ隙が無いのか?文化資本に恵まれているからだ。
どうして俺が反吐を出しつつも、こうして自分に教養があることを声高に主張するのかというと、教養のあるみなさん(笑)は教養の無い人の意見を聞いてくれないからだ。
教養のある皆さんにもよく考えてほしいんだが、教養のある奴が、教養のある故に幸福になっているところを見たことがあるか?
無いよな。
教養があって幸福なやつは、持ち前の向学心によって身についた職業に関する専門的な知識と、持ち前のハピネスパワーゆえに幸福になっているのであって、教養そのもののおかげで幸福になっているわけではない。
毛沢東の家には70万冊の蔵書があったらしい。全部読んだわけでは無いだろうが、それにしてもドン引きするほどの読書家だと伝えられており、頭も死ぬほど良かった。
だが毛沢東はイカれた思想に傾倒して人間不信をこじらせて中国人を殺しまくった。世界で最も多くの人を殺した人間だ。
「狂う」なんて、教養さえあれば防げそうな不幸ランキング第一位なのに、毛沢東は狂ってしまった。むしろ当時はインテリほど共産主義に傾倒して狂っていた。
毛沢東が不幸だったのかは知らないが、ああはなりたくないのは事実だ。
毛沢東は「偏った教養」「正しくない教養」しか持っていなかったから狂ったのかもしれない。確かにそれは事実かもしれない。
「正しい教養」「真の教養」があれば毛沢東みたいにならないで済むのかもしれない。
教養にこだわる人は、なぜだか知らないが、それが真の教養なのかどうかに異常にこだわる。実際、この記事にも「お前がこの行で言ってるそれは"真の教養ではない"」といったコメントがいくつもつくだろう。俺は彼らのことを"真の教養おじさん"と呼んでいる。
だが、じゃあ「正しい教養」「真の教養」とは誰がどうやって決めるんだ?お前が決めてくれるのか?それともなにか権威のある人や集団が決めるのか?
お前や、あるいは"権威のある人や集団"が毛沢東ではない証拠はどこにあるんだ?
よりよく生きるために「正しい教養」が必要なのに、「正しい教養」が何なのか決められないのだとしたら、それはもう教養は無意味だと言っているのと同じだろ。
原爆開発は、人文知や、宗教や、教養が、科学の暴走を止められなかった好例として解釈されることがある。
オッペンハイマーは、教養があれば原爆開発を思いとどまれただろうか?そんなわけはない。そもそも、彼に教養がなかったという見方が間違っている。彼はアメリカ政府に選ばれた世界有数の天才で、優秀な科学者であると同時に優秀なリーダーでもあった。少なくともお前よりは教養があっただろう。
原爆を作ってしまったオッペンハイマーには教養があった。もちろん「真の教養」は持っていなかったのかもしれないが、「真の教養」が何なのかは誰にも分からない。
すると、今度は「教養があるからといって狂わないわけではないが、教養があれば狂う可能性を減らすことはできる」みたいな反論が帰ってくるかもしれない。
では、教養があると狂う可能性をどのくらい減らせるんだ?データはあるのか?「可能性を減らせる」などと主張するのであれば当然根拠となるデータが必要だと思うが、お前は示せるのか?俺は示せない。
世の中を見渡すと、むしろインテリこそ狂ってるイメージすらあるだろう。芥川龍之介なんて、インテリだからこそ狂ってしまったとしか思えない。
逆に、無教養な人のことを考えてみよう。日本国内にいる、高校を出てすぐに就職し、1年に1冊も本を読まないし、音楽も聞かないし、美術館にも行かない人のことを考えてほしい。
彼らは必ずしも不幸だろうか?そんなわけないよな?
そもそも、地球人のほとんどは無教養だ。恐らく90割は、日本の水準で考えれば完璧な無教養だと言って良い。海外に行けばわかるが、先進国以外の国民は驚くほど無教養だ。
世界の成人の識字率は80割ほどだと言われている。20割は文字すら読めない完膚なきまでの無教養だ(真の教養おじさんに言わせれば、文字が読めなくても真の教養のある人はいるのかもしれないが)。
俺やお前が想像するような「高い教養のある人」は、この地球におそらく1%もいないだろう。では、地球人の99%の無教養な人は、不幸な人生を歩んでいるのだろうか?
そんなわけはない。彼らもそれなりに幸福に日常を生きている。家族と談笑し、仕事でそれなりに人望を得て、休日は近所の人と茶を飲んだりして過ごしている。
無教養で不幸な人も確実に存在するだろうが、無教養で幸福な人もそれと同じくらい確実に存在している。
教養が無いからといって不幸になるわけではないし、教養があるからといって幸福になるわけでもない。では、この教養という奴には、何の意味があるんだ?
次に、「教養があると生活が豊かになる」と主張してくる奴が現れる。これを言われると俺も弱い。割りと一理あるからだ。
よく聞くのは、「石の名前がわかれば散歩をしているだけで楽しい」のような意見だ。
リンゴを見たときに連想する単語の違いが頭の良し悪しで決まるとする極めて不快な漫画を、お前も見たことがあるだろう。内容は極めて不快だが、一理も無いと言えば嘘になる。
だが石の件は、実は因果が逆で「散歩していても楽しいから」「石の名前がわかる」ようになった可能性を否定できていない。散歩が楽しい人は何も知らなくても散歩が楽しいのではないだろうか。逆に、石の名前はわかるけど散歩が楽しくない人だって大勢いるわけだ。
また、石の名前がわかるようになったことで損なわれる感覚について議論していない点も問題だ。石の名前がわかることは、石の美しさを楽しむ上で本当に必要なことなのだろうか?
さらに、教養を身につけることに使ったリソースで別の楽しいことができた可能性についても議論していない。
お勉強が得意なお前は貴重なリソースを使ってでも石の名前を覚えたほうがコスパがいいのかもしれないが、石の名前を覚える時間で、Youtubeで猫がチピチピ言っている動画を見たほうが幸せになれる可能性だってあるだろう。石の名前を覚えずに今を生きることがそれほどコスパの悪いことなのだろうか?
「教養があると生活が豊かになる」という意見は確かに一理ある。認めてもいいと俺は思っている。だが、それほどの効果は無いのも事実だ。
教養があれば幸福になれるかどうかはお前にはわからないし、俺にもわからない。もちろん真の教養おじさんにもわからない。
あるのは意味じゃなくて、生き方だよ。教養のある生き方と、教養の無い生き方があるだけだ。この2つの生き方に、良い悪いは一切ねンだわ。
教養のある奴は教養のある奴としかつるまないし、無い奴は無い奴としかつるまない。例外はあるだろうが、基本的にはそうなっている。
なぜなら、教養があるやつは常にマウントをとって教養の無いやつを差別するからだ。
この投稿にも「お前は無教養、なぜならこの行でこんなことを言っていて、この発言はお前の無知から来ているからだ」みたいなコメントがたくさん付くだろうけどさ。
そういうコメントこそが、文化資本ブルジョワのお前が、文化資本力に劣る人間を差別してる一番の証拠だろ。
だからさ、文化資本ブルジョワのみなさん。みなさんは、文化資本に恵まれた地域・家庭・社会・遺伝子に生まれてよかったですね。
近くに図書館があって、美術館があって、あるいは美術館に行く金を親が出してくれて、親が音楽を聴いていて、良い先生に恵まれて、親が大学の授業料を出してくれて、あるいは奨学金の情報にアクセスする手段に恵まれて、大学が家から近くて、あるいは一人暮らしをするガッツがあって、あるいは大学に行かなかったのに向学心があって、毎日勉強するやる気と健全な精神と健康な肉体に恵まれて、専門科目以外を勉強する余裕があって、良い友人に恵まれて、教養をたくさん蓄えて文化資本家階級になれてよかったですね。今日もお得意の教養を使ってたくさんマウントを取りましょう。
自称教養人のコメントなんてこんなもん。本人は教養を身に着けたと思っていても、この程度のコメントしか出力されねンだわ。
いまから晒す教養に一家言ある彼らが、より多くの、より質の高い"真の教養"を身につけたとしよう。彼らはもっとマシなコメントができるようになるだろうか?俺はNOだと思う。彼らのコメントこそが教養の無意味さを立証している。
acridian 文字扱う仕事してる人間から見るとかなりらひどい文字の打ち方してる。blueboy氏くらい原稿整理してみてくれ/ほんとに教養あるなら教養にスキがないとか口が裂けても言えんだろ…
→俺は本文で「ほとんど」隙がないって書いてあるよなwなんでそこを切り取ったの?日本語も読めないのにチケット持ってるフリすんなよ。文字を扱う仕事をしてる人間のacridianさん、「かなりらひどい」って何ですか?こっそり編集するなよ。俺の文章はひどくて、「文字扱う」「打ち方してる」「ほんとに」は酷くないのか?blueboyが誰なのか知らんが(そいつを知らないとここではチケットが発行されないのか?)まあなんだ、お前もblueboyを見習えよw
itotto 教養なさそう
jkob 特に教養らしきものを感じない文章だった。教養の有無で狂ったとか狂わないとか幸福とかそうでないとか何が言いたいのかよくわからない。
grdgs なにが教養に含まれるかでなく、教養の定義が根本的に狂っている増田。教養があれば狂わないとお前らは言っている!と狂うゆえに狂った藁人形をこさえている。
→これ言い方を変えただけで"真の教養おじさん"と言ってることは同じだよね。定義が狂ってると言うなら、お前がまず定義を示せよ。そもそも教養などというふわっとしたものが定義可能だと思ってる時点でヤバいけど。
toratsugumi 教養ってなぁ、理解力のレンジを広げて、楽しめるコンテンツを増やす背景情報かつ前提条件であって、別にマウントを取る手段ではないぞ?第一、こっちから乗りに行くのではなく、向こうが勝手に下に潜り込むのだ。
→これもそう
frothmouth 衒学と教養はまた違うんじゃないかな/個人的には教養を身につけるために学ぶよりも、好きなことをやっていたらある種の教養も身に付いた、方が好きですね
→衒学と教養はなにがどう違って、この2つはどのように定義されるのですか?その定義は誰が考えたもので、なぜその定義が正当だと言えるのですか?これに答えられないなら真の教養おじさんと言ってること同じだよね。
cider_kondo 本当に教養あったら「80割」みたいなあからさまな釣りは恥ずかしくて入れらんないと思うぞ…/教養主義って「無学でも古典良書の組織的な読書で人格陶冶できる」という信念のことで文化資本をむしろ否定する思想だよな
→そのまんまの「真の教養おじさん」で草。で、古典良書にはどのようにアクセスするのですか?無学で、本を読むのが苦手で、あるいは怠惰で、近くに図書館が無く、放課後は寝たきり老人の介護をしないといけない彼らは、小難しい古典良書をどのようにして読むのですか?
教養がないとこうなっちゃうことを身をもって証明してくれてるのかな?
aquatofana クメール・ルージュへようこそ。/それでも共産主義者が「既得権益者」を排除しようとするのは筋が通ってなくもないのだが、こういうこという奴ってたいてい根拠のない反共産・反社会民主主義なので手に負えない。
→え、どゆこと(笑)俺は本文中で毛沢東のやったことを「狂っている」と完全に否定したし、教養があるやつを殺せなんて一言も言っていないよね。大丈夫?書かれていないことを読み取ろうとするのは教養うんぬん以前に、なんか見えちゃいけないものが見えちゃってるだろ。最近クメール・ルージュを知って、つい使いたくなっちゃったのかな?カンボジアの歴史に興味を持ってくれてありがとね。あと「ようこそ」は草。
tamasuji 下らなくて意味がないと言いながら「俺には教養がある」とアピールするのが意味不明で面白い。 あとで消す
→え、本文1文字も読んでない人?チケットがあることを示さないと君たちは話も聞いてくれないだろ?だからチケットを持っていることを示した上で、チケットにチケット以上の意味がないことを説明したんだが、どこが意味不明なんだ?あ、あとで消す必要はないですよ。
Kouboku 毛沢東は狂っていない。大躍進も文化大革命も自己の権力維持のためにやった。手段の是非はともかく、狂って起こしたわけではない。文章読んだけど、多分増田みたいな人こそ毛沢東に傾倒すると思うよ。
→保身のための合理的な行動だったとしても手段が狂ってるんだから狂ってるんだろうよ。自分の利益になるんだったら人を殺していいのか? 「毛沢東に傾倒すると思うよ」わたしは毛沢東に傾倒しておりません。
amunku 長い。私は教養があるから幸せなんじゃなく楽しいから教養を積んでる。勉強するのがこんなに楽しいなんて、なぜ中学の時にわからなかったんだろう。増田は教養はあるが視野と共感力が無い典型的な器用貧乏なんだろな
→「なんで中学の時にわからなかったんだろう」この理由がわからないのが答えなんじゃないですか?勉強するのが楽しいかどうかはホルモンの量で決まって、お前は成長にともなってホルモンが増えたんだろ。成人するとホルモンが多くなる遺伝子を持って生まれてきて、よかったですね。
restroom 文庫本や新書ぐらいなら、文化資本に恵まれていない人でも十分に入手できます。私の実家は地方で、両親は高卒でしたが、父は読書家で教養を持っていました。
y-mat2006 人から話を聞いたときに新しい知見を得られた!と思わずに、マウント取られて口惜しいと思うような寂しい人生は送りたくない。
→見えちゃいけないものが見えてて草。
日曜の真っ昼間っから、本気でそう思ってる。
クソ毒親毒兄は当然ながら、小中学校動物園のクソ猿も、なんなら無関係の恵まれているやつも全員厳罰に処すべきだという感情が未だに消えん。不平等すぎる。
どうにか肥溜めから脱出した瞬間はよかったよ。マイナス100が0になったらそりゃね。しかし、世の中ってのは0の人間は出来損ないって思ってるらしい。まさか街の変わり者に自分がなるとは。
死ぬ前に私みたいなやつをどうにかフックアップしたい気持ちはなくはない。現状金には一切困らない状態にはあるが、誰かに助けてもらった記憶などないので、どう助けるかもわからん。能動的に調べるのもダルい。金を突っ込む以上のことをするほどのモチベーションはない。
ガソリン巻いて火をつける、なんてめちゃくちゃ簡単にデカすぎる被害を起こせてしまうし、車で暴走して群衆に突っ込むのも大して難しくない。それを起こさないで今まで真っ当に生きてるの、完全に偶然でしかない。なんの因果か知らないが、そういうことをしようとは全く思わない。それどころか仕事でめちゃくちゃ理不尽に私のせいにされたり、意味不明な当たりが強い人がいても、特段イラついたりしない(同僚いわく、「俺がアレ聞いてて凄く腹立ったのに、当の本人が全く気にしてなくて毒気抜かれた」とのこと)。そんなことより育ちが良いし性格も良い同僚のほうが私の精神にダメージ与えてるよ。
まあ、これからもそんな気は起こさないように、ひっそりと人間社会の末席を汚させていただきますわ。育ちも性格も良いって自負してる奴へ、お前を許さない。
ただヤリモクなだけでしょ。因果が逆。
昔から色即是空、空即是色と言われるように、意識なんてあると言えばある、無いと言えば無いという程度のもの。
原子が流れ分子が波打ちシナプスのミステリーサークルが不確かな論理的輪郭を持つ
そんなのが崩れることは当たり前。むしろ一瞬も意識が同一を保つことはなく、もし意識を生存の定義とするなら、常に我々は死に続けている。
花が咲いて枯れて土になるように、ヒトも生きて死に朽ちるように、雨が川になって海に戻るように、全ては一である。
お前はそこにいない。お前は全てだ。お前は世界だ。シナプスのつながりが特定の表象を生み出すように、縁がお前の輪郭を形作る。一瞬として同じ形はない。全ての瞬間で何も変わっていない。
一つのシナプスが死んでも、脳は動き続ける。一人の人間が死んでも、お前は動き続ける。
お前は意識の中に居るのではない。お前は意識ではない。お前は脳ではなく、お前はホモ・サピエンスではない。
お前は知覚できない古代からの物質の本流の先端に在るだけであり、連綿と続く因果こそお前だ。
因果は全が一になり、一つとしてつながりのない存在はなく、それこそがパラメータの集合のゲシュタルトとなっている。世界のゲシュタルト、お前のゲシュタルト。
素人には、「因果関係を示したものではない」というのがよくわからぬ。
もちろん、散布図だの2つの時系列のグラフを並べるだので「相関してるね~。でも、因果関係はわからないね~。」という状況があり得るのはわかるけど、そんなもんpublishableな研究ではないだろう。
特定の因果関係を想定した複数の(微分)方程式からなるモデルに落とされている、複数の競合する仮説を実証的に比較した結果、「あっちが正しい・こっちが間違っている」という結論が出てくるのではないのか。
狂う論、よく言及される鬱病が原因!ではなく何が原因で鬱病になっているのか、それが改善出来ないなら一時的に薬でなんとかしてもどうしょうもないのではと考えるんだが、大丈夫な人は鬱病だから薬飲んどけ、寝ろ!なんとかなると本気で思ってんのかな。思うに因果が逆なんだよな鬱病だから人生が駄目なのではなくもう人生駄目だから鬱病なんじゃ
布団に入って私が子1と絵本読んでる時に、子2がふざけて私の眼鏡を奪うから「やめて」と言って眼鏡を取り返してたら、子1が私を取られた気持ちになったのか泣き出した。それを聞いて、離れた布団で1人で寝てる夫が、子1に向かって「怖いよねー」。
は??? ふざけんなよ他人事かよ。そもそもなんで私がそうなってると思ってんだよ。なんでいつもいつも子供2人とも私の布団で私のケアを要求してて、お前のとこには行かないんだよ。なんでいつも子どもは私に抱っこをせがむんだよ。「怖いよねー」じゃねえよお前が や ら な い からだよ。
そんで中断したけど子1に絵本読んであげようと思って、夫に「子2と遊んであげて」って言ったら、自分の布団から「おいでー」と呼ぶだけ。はあ?と思って「子2と遊んで」ともう一回言ったら「どうやって遊ぶの」って、おいおまえどんだけ無能なんだよ。新生児の時も子供が泣いてるのに「僕の抱っこ嫌がるから」とか言って頑なに抱っこしなかったよな、そんで私が抱っこできなかったから私の親が抱っこしてたのも謎だったな、おまえは「そんなこと覚えてない」とか言ったけどな、その時と全然変わってないな?
因果が逆なんだよ、普段やってないから子供が寄り付かないんだよ。それで私が文句言ったら「僕はこんなに(家事は)やってるのに文句しか言われない」って今そういう話じゃないだろ、トーンポリシングって知ってるか? そんで感謝してほしいのかも謎、私も感謝の表明なんてされたことないけどな????
布団に入って私が子1と絵本読んでる時に、子2がふざけて私の眼鏡を奪うから「やめて」と言って眼鏡を取り返してたら、子1が私を取られた気持ちになったのか泣き出した。それを聞いて、離れた布団で1人で寝てる夫が、子1に向かって「怖いよねー」。
は??? ふざけんなよ他人事かよ。そもそもなんで私がそうなってると思ってんだよ。なんでいつもいつも子供2人とも私の布団で私のケアを要求してて、お前のとこには行かないんだよ。なんでいつも子どもは私に抱っこをせがむんだよ。「怖いよねー」じゃねえよお前が や ら な い からだよ。
そんで中断したけど子1に絵本読んであげようと思って、夫に「子2と遊んであげて」って言ったら、自分の布団から「おいでー」と呼ぶだけ。はあ?と思って「子2と遊んで」ともう一回言ったら「どうやって遊ぶの」って、おいおまえどんだけ無能なんだよ。新生児の時も子供が泣いてるのに「僕の抱っこ嫌がるから」とか言って頑なに抱っこしなかったよな、そんで私が抱っこできなかったから私の親が抱っこしてたのも謎だったな、おまえは「そんなこと覚えてない」とか言ったけどな、その時と全然変わってないな?
因果が逆なんだよ、普段やってないから子供が寄り付かないんだよ。それで私が文句言ったら「僕はこんなに(家事は)やってるのに文句しか言われない」って今そういう話じゃないだろ、トーンポリシングって知ってるか? そんで感謝してほしいのかも謎、私も感謝の表明なんてされたことないけどな????
これ、単純に能力不足で他人から対等に見られない機会が多すぎて拗らせてると思う
他人の評価基準を推察できてなかったり、メリットデメリットや効率性を合理的に判断できてなかったり、因果を正しく繋げて思考できてなかったり、文章から読み取れる足りてなさが結構エグいから普段の言動に滲まないよう隠せてるとは思えない
これに比べたら、謝ってリカバリーできるような小さいミスで生まれるマイナスポイントなんて誤差みたいなもん
自分の斜め上、後頭部近くにある旋毛から2mほどのところから、この人間を見下ろしている。
この体を動かして40年を過ぎたが、実に多くのシーンを目撃してきた。
正確には、目撃してきたのではなく、「コレ」を構成する一つ一つの細胞を統制してきら。
コレを動かすことで、放り込まれてしまったこの世界のゲームをこなしてきた。
時間が進むにつれてエントロピーが増大し続ける中で、同じペースでエントロピーを増大させないことは、意図を持った行動としてむしろ悪目立ちする。
コレは放っておくと、分子のランダムな動きによるものか、予期しない行動を起こす。
そこで自分は行動を補正したり、上書きすることで、なんとか制御してきた。
コレが「予感」だと認識している現象は、こちらが俯瞰しながら先手を打つことで生じる。
誰がゲームを作ったのか?
それは私だ。
私がこの世界を描画している。
君はそれをプレイしている。
アレを動かすことで。
群の性質と挙動をいくつかのレイヤーに抽象化しておきゲームの難易度は高まった。
個の特性は見えないほどに小さくなるが、あるところでそれが全体に影響を及ぼす。
分子が失われる、細胞が失われる、個人は破壊され、集団もランダムに壊滅することがある。
君の次の一手はなんだ?
たまに行くしまむらはなぜか男の靴下のワゴンの目の前がサニタリーショーツ売り場になってる
横はスポーツブラ売り場だし
行くたびに嫌でも目にするからどきどきする
大体ラブホテルには一人で先に入るわけだけど
廊下ですれ違ったカップルが手とかは繋いでないけど楽しそうに会話してるとラブラブだぁってなんかよけいどきどきする
何を間違えたのかいつか車の中に女性のオナニーグッズの空箱が放置されてたことがあって
「アダルトグッズ」って答えたら
初めて行ったソープはエレベーターでプレイルームに上がるシステムで、女の子と一緒に乗ったんだけど恥ずかしくて全然目が合わせられなかった
こんなグッズあるんだ…ってどきどきする
眺めてたら5分ぐらい平気で経過してた
大抵、SNSで公開しづらいトピックを増田で書いている。個人的にそういうことにしている。
鍵アカウントだろうとなんだろうと、他人の目がいつまでも気になって仕方がない。自意識過剰なのだ。
知人から「あいつ、いい歳してこんなこと言ってら」と鼻で笑われたくない。
「まあ!平日にこんなこと言って……どうしようもない人!」「食事時に妙なもん見せて……許さないよ」
そう思わせたくもないのだ。
だから、私は増田で猫のうんちについて書く。しかも「うんち」について、「嬉しい」と思う感情について書く。
タイトルも「猫」「うんち」「嬉しい」の三語をきちんと入れて、非常にシンプルだ。
おそらく猫のうんちの話を読みたくない人はここまで読んでいないだろうから、猫のうんちについて書き続ける。
我が家では猫を三匹飼っている。
一匹は四歳、もう一匹は三歳、もう一匹は十五歳だ。
普段三匹ともふわふわ転がってニャーニャー言ってるだけなのであまり意識しないが、改めて書くとそれぞれの年齢にかなり開きがある。
上記の三匹の中で、最もでかいうんちをするのは十五歳である。若者と暮らしつつ、気圧されることなく平然とビッグうんち。それだけでも大したもんだ。
四歳と三歳は子猫の頃から一緒に暮らしているので、共に過ごした年月=年齢として数えやすい。
だが、十五歳はちょっと複雑だ。長い付き合いと言えばそうなのだが、十五歳は私が十代、高校生の頃に育ての親が実家で飼い始めた猫だ。
飼いたての頃は瘦せっぽちの子猫で、子猫だてらに細い喉から轟音を響かせていた。
あまりに喉から鳴る音がビッグすぎるので、Yahoo!知恵袋で「猫の喉の音が大きすぎます。病気でしょうか」とトンチンカンな質問をしたのもいい思い出だ。
うんちから話が逸れた。
最初に十五歳のうんちがでかいということを発見したのは、育ての親である祖父だ。
十五歳がアメリカ原産の猫であることから、祖父は「うんちもアメリカンサイズ」と称していた。
インターネットでうんちを実在の国に例えるの、いいんだろうかと思うが、大きさを称える表現だから良しとする。その発言をした人物はもう亡くなっているのだし、責めても仕方がない。
五年前、祖父が骨髄腫とその合併症で亡くなった。それからは祖母の認知症は、坂を転がり落ちるように悪化していった。
十五歳(当時十歳か 若いね)の世話によって随分歯止めがかかっていたようだが、転倒事故で入院してからはもうダメだった。
老人の事故と入院は本当にダメだ。事故を境に、とうとう十五歳の面倒も見られなくなってしまった。
結局のところ、十五歳の面倒を見る家族が実質いなくなってしまったことから、十五歳を引き取ったのだ。そういう経緯で、十五歳は我が家で暮らしている。
そして、何の因果か昨年、十五歳は祖父と同じ血液、リンパ系のガンになってしまった。
猫の病気というと内臓が弱るか、認知症か。なんとなくそう考えていたところで割と珍しいとされる部位に発生した悪性腫瘍、晴天の霹靂だった。
診断を医師から聞かされたときはショックでちょっと寝込んだが、今のところ十五歳は凄く元気だ。
寝室に行こうとすると、先回りしてベッドに潜って待っていて、ニャー、と啼く。
台所で鶏肉を切ったり、ツナ缶を開けたりすると、食べたくて仕方なくて四歳や三歳よりもがっついて腕を伸ばしてくる。
今もこうしてパソコンのキーを叩いていると、横に来て「撫でてくれ」と言わんばかりに前足で二の腕をつついてくる。
そんで、この家で誰よりもでかすぎるうんちを出す。人間と同じくらい迫力のある成果物を毎日出す。
くせえ!と言いながら、毎日毎日でかすぎるうんちを、私は喜んでいる。
今でも十五歳の体内に病魔が巣食っていることを考えると憎いが、十五歳は凄く元気だ。
だから、次第に、まあ、そういうこともあるか、生き物だものなあ、と思うようになった。
生きていりゃ血液の病気にもなるし、認知症にもなる、内臓も悪くなる。実際、私の肝臓は事故で立体パズルのように割れたことがある。なんでもあるね、生きてりゃ。
毎日誰かに寄り添う元気が湧いて、食欲があって、うんちをもりもりする体力がある。
ありがてえなあ、ありがてえ。生き物として上出来だよ。それで上出来だ。
本当に毎日でかすぎるうんちを出していて、お前は最高だよ。
猫のうんちがでかすぎて、私は本当に嬉しい。
「死んだら無になる」って誰が言いだしたんだろう、と思い調べ始めたが……思ったよりも大変だなこれ
『近代日本人の死生観』という論文……国士舘大学の講演会資料?……に以下のような記述がある
一九〇一年、死を宣告された政治思想家の中江兆民は、間近に迫った自己の死を強く意識しながら、『一年有半』、『続一年有半』を著しました。そこでは身体(駆殻)こそがすべてで、精神などというものの実在を想定する必要はない、死とともに個人の存在は終わるのだというさっぱりとした考えがけれんみなく提示されています。
へぇ~、明治のころにはもう最近の日本人がしばしば言いがちな「死んだら無になる」って考えを持った人がいたんだなあ
じゃあこの「死んだら無になる」って考えはどの時代までさかのぼることが出来るんだ?
「神」の存在は否定しても「霊魂」の存在は否定しない考え方もあるようなのだ
断見(だんけん)とは、因果の法則を無視して、人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解で、断滅論(ucchedavādā)ともされ、邪見のひとつ[1]。反対語は常見(じょうけん)。
まさしく「死んだら無」の考え方
しかし、この仏教の断見という考え方が現在日本の「死んだら無」という考え方に直接つながっているわけではおそらくないだろう
こうした考え方が広がっていく背景には、近代科学が前提とする唯物論的な世界観の影響があるのは確かです。しかしまた、現世を尊ぶ儒教や神道、また霊魂の実在ということを否定する仏教の伝統が影響を及ぼしていると見ることもできます。
じゃあ唯物論について調べるか……と思ったがここで調査打ち切り
なんか唯物論の西欧での歴史をざっくり眺めてると、神の存在は否定していないように見えるんだよな……ここらへんキリスト教の知見が足りないのかもしれない
そしてなぜか途中から共産主義の話になる、わけわからんくなってしまった
キリスト教の歴史について書かれた初学者向けの本を先に読むべきかもしれない
もともと私は幕末~明治の日本人の宗教観を調べていたのだが、面白そうなテーマがあってつい脱線してしまった
2002年刊行の『死と唯物論』という本が面白そうなのだがすぐには入手できなさそうだ
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Wikipediaの「無神論の歴史」のページの記述で関係ありそうなところをピックアップしておくか
「チャールヴァーカ」の項
パーリ経典によれば、紀元前6世紀のアジタ・ケーサカンバリンが仏教徒と議論をして「身体が滅びるとともに、賢者も愚者も等しく滅する。彼らが死後も存在するということはない」といったことを既に説いている[3]。
江戸時代の日本の「浮き世」の考え方(=現世利益)ととても相性がいい
「死んだら無」とはすなわち祖先もまた無になったということになるので受け入れ難いか?
これも「死んだら無」の論理だったが先祖を敬うことは推奨する思想になっていたのが上手いところ
流行りはしなかったようだが
エピクロスは「死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い」という語録も残しているようだ。原子論的(唯物論的だ)な考えから導き出された思想か
西洋の啓蒙時代まではキリスト教の影響が大きすぎて無神論の考え方は全然育たなかったみたいだ
ざっと見た感じ現世利益と唯物論の合わせ技で生まれる発想みたいね
誰が言い出したんだという話からはズレるが、現代日本で「死んだら無」って言ってる人は漫画の影響とかありそうな気もする、知らんけど