はてなキーワード: 鬼畜とは
犯罪を犯さざるを得ない精神状況、経済状況に追い込まれた犯人は、その時点で何らかの弱者なんだよね。
真の強者はわざわざ犯罪に手を染めることはないので、すべての加害者は本質的に弱者なんだよ。
そして、その弱者が別の弱者を傷つけるから、ややこしいことになる。
弱者被害者に同情する者もいれば、弱者加害者に同情する者もでてくる。
弱者被害者に同情する者からみると、弱者加害者に同情する者は鬼畜にしかみえず、ネットで叩きまくる。
叩かれた弱者加害者に同情する者からみれば、こいつら頭おかしくね?となる。
弱者問題は、社会全体で解決する必要があるのに、弱者同士が対立することで、永遠に解決不能に陥ってる。
その状況が続くことを、真の強者は望んでいる。
高市早苗を自民党総裁に推す動きがあるようだが正気だろうかと思う。高市にはナチスシンパと取られる言動の過去があり国際社会に対する国家の顔とするにはヤバすぎる。
2014年にはネオナチ政治結社との記念撮影写真が問題視されて海外でも報道された。
https://www.theguardian.com/world/2014/sep/09/neo-nazi-photos-pose-headache-for-shinzo-abe
更に1994年には『HITLER ヒトラー選挙戦略』小粥義雄著という本への推薦文を寄せていてこれも火種となる可能性がある。(記事中に推薦文画像)
https://buzzap.jp/news/20140910-takaichi-hitler-book/
因みにこの本の著者は自民党東京都支部連合事務局広報部長である。
でも高市がなんでこんな軽挙妄動をしたのかは説明が要る。これは彼女のキャリア形成に大きく関わっている。
まず、1990年代前半には安定と思われていた戦後民主主義への疑義、反発を表す論壇でのブームがあった。それで国法学や地政学、カール・シュミットやナチスに関わった人物を再評価する流れがあった。例えば福田和也の『奇妙な廃墟―1945』はフランスのナチス詩人達を再評価して同国の極右文芸を論ずるものだが、書かれたのはフランス革命200周年の1989年である。
この福田が論壇文壇に上がって来たのは『HITLER ヒトラー選挙戦略』の前~前前年ぐらい。民主主義(仏革命)への異議がナチス再評価へ至るディレッタンティズムな流れだ。鬼畜系などのサブカルクソ野郎はこの底辺である。
高市は松下政経塾に入塾し保守的政治家への指向を最初から持っていたのだが卒業後はコングレッショナル・フェロー制度により米民主党のパトリシア・シュローダー議員の下で働いた。同議員は女性の権利を強く志向する議員でありその後の高市の立場とは相容れない。
政治家になる前に松下政経塾入塾、米国でコングレッショナル・フェローというのは売りになる立派な経歴であるが、高市は後者の経歴、特に師事した議員の事をずっと表に出さなかった。数年前にコングレッショナル・フェローの経歴虚偽疑惑が噂された原因の一端はこの為だ。
シュローダー議員への師事を終えた高市は帰国してCNNデイウォッチなどのTVキャスター等を勤めた。Wikipediaの高市早苗の項では1990年がTVキャスター初登板のように書かれているが間違いである。
CNNデイウォッチでの政治的立場はリベラルだが、仏革命200周年のフランスの祭典のニュースでは反仏革命の思想を紹介するなど保守的な立場を窺わせている。
ところで自民党の票田には神道周辺の右派が居り、老人や学校の先生など一般社会からやや外れた人らを構成員としていた。神社の寄合を核とした緩い繋がりで、その社会的妥当性をやや欠く集団を自民党が票田としつつ、自民党の現実主義が暴走を防ぐという構図である。例えば遺族会の会長には右翼的な政治家を当てないという知恵が自民党にはあった。
90年代の自民党は旧態依然の族議員が幅を利かす男社会であって女性議員が活躍する筋は無かった。高市は三バンのうちTVキャスターで看板はあるが世襲ではない為地盤はない。その為無所属で当選した高市も最初はリベラルを標榜して自由党に入った。
地盤が無い議員が地盤を持つにはどうしたらいいか?族議員の様な支持基盤を持つには?特に居場所がない女性議員であれば?
その答えが神道系固定票へのアピールであったのだ。教育勅諭には良いことも書いてあるとかユルい事を言っていればいい。現実政治との擦り合わせなんて立場は出さずに思想的に理解を示すのが支持に繋がる。
『HITLER ヒトラー選挙戦略』の出版もそれへの推薦文も自由党時代の事だ。これはつまりナチス再評価のサブカル&ディレッタントなブームへの迎合と高市のその後の支持層への秋風だったのである。
高市はこうしてリベラル議員への師事の隠避と宗教右翼層へのアピールにより自民党で女性議員が活躍する道を拓いてきた。総務族と言っても良いキャリアも出来た。
しかし問題なのは高市の開拓した道以外に女性が自民党でやっていく道筋が無い事だ。小泉時代には経済自由主義での道が見えたかに見えたがその後無くなり高市路線だけが残った。
これが安倍チルドレンなどの新人女性議員が差別発言をわざわざするという原因になっている。女性議員はそれまでの人生的蓄積やキャリアをアピールせずアンビバレントで複雑な大人の人格を出さず、イデオロギー的純粋さを見せること。これのカリカチュアライズされた子供アニメの悪役みたいなバカが杉田水脈であるのは言うまでもない。
そもそも現在の自民党は世襲がきつすぎてキャリアのある人が登用される可能性がほぼない。それで高市コースだけキャリアパスが確立されていればそこを歩むしかないのは必定である。
今の就職活動では同じ色のスーツを着るのが常識になっているが、嘗ては特に女性は色付きのスーツを着る自由があった。
それで白いスーツを着ていき、面接で「あなたの色に染まります」と言うキモイやり方があったのだが、高市の拓いたパスはまさに白いスーツの女性議員の量産と言える。その原初は高市の米民主党議員に師事したキャリア隠避だ。
以上が高市が『HITLER ヒトラー選挙戦略』への推薦文を寄せるという軽挙妄動の原因とそれで拓いたキャリアパスである。
こんな過去があって、更に数年前にネオナチとの写真が流布されてサミットとかに出るのは無理なんではないか?
高市の総務省キャリアは放送行政に寄っている。だとすると女性版ゲッベルズとか書かれるのが目に見えている。自民党への不信に対抗するのに女性、と考えたのだろうが安直だし、それはそもそも支持基盤の保守論壇(嘗ての宗教右翼系)の視野を外から見てないから気が付かないのだろうと言う外無い。
俺と妻は性欲強めの好き物夫婦だった。毎晩子供達が寝た後に、様々なプレイを試した。だがそれもマンネリ化していた。
ある日、長女4歳が風呂場で俺の性器に興味を示し、いじってきた。楽しげなその様は妻にそっくりで、素質を感じた俺は深く考えもせず、娘にフェラと手淫を教え込んだ。幼い娘にやらせることに背徳感があり、それがますます欲情を募らせた。
不器用ながら一生懸命やる長女は可愛らしく、妻に教えると妻も止めずに興味深く見て、教えていた。褒めると娘は喜んでくれた。
「この子には素質がある。だけどこのことが外にばれたらまずい。教えるのはこの子だけにしよう」と妻と二人で決めた。
それからしょっちゅう、娘と妻と「秘密の遊び」をするようになった。性行為は9歳のころから始まった。妻は2階寝室に長女を連れて行き、他の子供たちが2階に来ないように見張ってくれた。ときには自分もセックスに参加して、手で勃起させた俺の陰茎をそのまま長女の陰部に導くこともあれば、娘と2人でフェラすることもあった。
娘はかわいらしい笑顔だった。楽しい親子の行事で、興奮するアブノーマルなプレイだった。
それ以外は普通の親だった。プリキュアやアンパンマンごっこをしたり、わがままに手を焼いたり、学校行事に参加したり、他の子供達とも分け隔てなく育てた。娘も俺たちを慕っていた。
思春期ならともかく幼い頃からこれが普通と吹き込めば傷つかない。セックスに抵抗感がなくなるだけ。今時それが普通。何の悪影響もない。そう確信していた
中学になって生理が来ると、妊娠させてはいけないからと性行為をやめた。長女を困らせたり負担をかけることはしたくないから。それにいつかは辞めなければいけないことだと覚悟していた。長女はがっかりしていた。
今、俺は何千、何万もの人から怒り、憎しみ、悍ましいものを見るような目をぶつけられている。鬼畜親父、娘が可哀想、と。
娘は性交を楽しんでいたんだ。俺は娘を喜ばせるためなら何でもしてきた。娘がいじめられている時は真剣にアドバイスし、いじめた同級生の元に向かった。
娘は笑顔で慕ってくれていた。俺を、妻を、家族を。娘は幸せだったはずだ。
なのに、どうしてこうなるんだ。不思議で仕方ない。
娘には言われた。自分の家庭が異常だとわかってずっと悩み苦しみ、自分は汚いんだと自責した、と。死にたかった、自殺を試みた、と。
思えば高校生になった娘は暗い顔をするようになっていた。クラスや部活のトラブルかな?と気にかけた。「何かあれば相談するんだぞ。父さんはお前の味方だからな」と声を掛けつつ、思春期になれば色々あるもんな…と思っていた。
申し訳なく思いつつ、今でも納得いかない部分がある。だって、娘は幸せだったんだ!あの時の娘の笑顔、自分達の親としての頑張りや思い出まで否定したくはない。自分が異常だと思わなければ、吹き込まれなければ、今でも幸せだったんじゃないか…と思っている。
長女以外の子供達からは今でも俺たちを慕う手紙が届く。姉を恨む子供達に、恨まないでやってくれ、と返事を書いた。
小山田圭吾の障害者虐待に関して執筆されたQuick Japan(QJ)やRockin' On(RO)の記事、そして北尾修一によって発表された村上清と小山田圭吾を擁護するブログ記事を読んで、改めて感じたのは「自分たち(=サブカル業界人)の欲求や愉悦のためには、他者の尊厳を踏み躙ること、他者に負担を負わせることを何とも思わない」と云う、昔も今も変わらないサブカル業界人の自己中心的な体質です。そして、この体質は、町山智浩ら旧体制『映画秘宝』と瓜二つです。
件のQJ連載記事『いじめ紀行』の中で村上清は「イジメはエンターテイメントだ!」と明言しました。それが本当ならば、村上清は何故、彼自身をイジメた加害者を取材しなかったのでしょうか?何故、村上清は、彼自身をイジメた加害者を探し出し、彼(ら)を取材して、村上をイジメた時に加害者(ら)が覚えたであろう興奮や愉悦、或いは村上自身が舐めた辛酸や屈辱感について、詳細にレポートしなかったのでしょうか?何故、村上清は加害者(ら)と「アレはヤバかったよね(笑)」と、いじめトークで盛り上がらなかったのでしょうか?村上清が言う「救いが無いことも含めて、イジメはエンターテイメントだ!」と云う主張が本物ならば、村上にはそれが出来たはずです。
もちろん、村上清がそれをしなかった/出来なかった理由は分かりきっています。本当は「村上清にとってイジメは、決してエンターテイメントではなかった」からです。記事を執筆した当時の村上清は、彼自身をイジメた加害者に対して、依然として恐怖感や忌避感を抱いていたのです。
本当は村上清は、彼自身をイジメた加害者にリベンジしたかったが、それは村上には出来なかったのです。本当の加害者へのリベンジが出来ないことは、村上清にとって大いなる屈辱であり、劣等感の源でした。その代償行為として『いじめ紀行』を執筆し、それを通じて仮想的に加害者となることで、被害者としての屈辱感を解消しようとしたのです。
この村上清の行動は、見れば見るほど町山智浩ら旧体制『映画秘宝』と瓜二つです。
小山田圭吾に対する世間の批判が高まった後、町山智浩はTwitterで「悪趣味・鬼畜系カルチャーの原動力は、電通・ホイチョイ・フジテレビ的なカルチャーへの対抗心だった」と云う主旨の発言を行いました。また町山智浩だけでなく、旧体制『映画秘宝』全体が、ジョックス(米国スクールカーストで上位である体育会系)に対する怒りと憎悪を撒き散らしていたことは周知の事実です。
では町山智浩らは、その電通・ホイチョイ・フジテレビ・ジョックスに対して復讐したでしょうか?していません。町山智浩らの怒りや憎悪を向ける本来の相手である、電通・ホイチョイ・フジテレビ・ジョックスには町山らの力では敵わないから、その鬱憤を晴らす代償行為として、女性や同性愛者やアニメ愛好者を攻撃して、憂さ晴らしをしていたのです。或いは『映画秘宝』内部のカースト下位の人間(ギンティ小林等)に対してパワハラやイジメをして、いじめ加害者としての立場を楽しんでいたのです。
そして、町山智浩による筋違いな鬱憤晴らしは、今なお止むこと無く続いています。現在も町山智浩は、女性差別・蔑視発言や同性愛者差別・蔑視発言を繰り返しています。
このように比較することで、悪趣味・鬼畜系であろうがなかろうが、また90年代から変わることなく現在も、サブカル業界人たちは、恨み(?)を晴らすべき本来の相手に敵わないが故に、その鬱憤を晴らすために「弱そう/反撃してこなさそうな相手」を選んで攻撃している卑怯者たちであることが理解できると思います。
この投稿は、以上です。
表題に反して、今回は小山田圭吾や村上清の話が主ですが、サブカル全体の話と考えて投稿します。予め言いますが、長文です。
小山田圭吾が障害者や在日朝鮮人に対して虐待やイジメを行った或いは関与したとして、東京五輪を機に一般人に広く認知され、これに伴って、過去に雑誌『Rockin' On(RO)』及び『Quick Japan(QJ)』が小山田に対して行ったインタビュー記事が注目されています。
それと共に注目を浴びているのが【小山田圭吾自身が、スクールカーストの中では上位ではなく、むしろ下位だったのではないか?】とする仮説です。件の雑誌記事でも「小山田圭吾がイジメの加害者だった?!」と、インタビュアーが驚く場面があります。外見的なイメージから「むしろ小山田圭吾は、イジメを受ける側だった」とインタビュアーも想像していたのでしょう。また、インタビュアーだけでなく、これまで雑誌記事の存在を知らず読んだことも無かったファンも同様に、外見的なイメージから「小山田圭吾がイジメをしていたとは想像もできなかった」とショックを受けていた人が少なからず見られました。
あまり他人の外見を云々したくはないのですが、小山田圭吾は顔立ちは整っているものの、身長はどちらかと言えば小柄で、頭部が大きくて肩幅が狭く、体格的には恵まれておらず、お世辞にもスタイルが良いとは言えません。(しかし、そんな小山田圭吾でも「オシャレでイケてるモテ系」に仕立て上げて持て囃すことが可能だった訳ですから、親の七光りやスタイリスト/メイク担当者の優秀さだけでなく、当時のマスメディアと一般人との間に、如何に大きな情報発信能力の差が有ったか、それを指し示す一つの証拠と言えるでしょう。)このような外見的な印象に関しては、アンチだけでなくファンの間にも共通認識が有ったからこそ、インタビュアーもファンも「イジメ加害者」と小山田圭吾がカミングアウトしたことには落差を覚えて驚いた訳です。
小山田圭吾を擁護する人間の一部には「小山田圭吾は、インタビュアー(村上清)に迎合して話を盛ったのではないか?」とする者もいます。
例えば、北尾修一などのQJ関係者、それに小山田圭吾ファンなど、村上清と小山田圭吾を擁護する側の人間の意見を総合すれば、彼らの仮説は概ね「村上清は、彼自身が『いじめサバイバー』だから、いじめ問題を無くすための試みとして連載企画『いじめ紀行』を立ち上げた。小山田圭吾は村上清の人間性に絆されて、連載企画を盛り上げる為に話を盛った」と云う感じです。
正直に言えば私も現在は、小山田圭吾が話を盛ったと云う仮説は少し可能性が有り得ると考えています。しかし、私の仮説は、村上清と小山田圭吾を擁護する北尾修一たちの言うような「美しい関係性」を想定した仮説とは異なります。私の仮説を、以下に述べます。
=仮説ここから=
そもそも「村上清は、社会に存在するイジメ問題を解決する又は発生件数を減らす為に連載企画『いじめ紀行』を立ち上げた」と云う前提は、果たして事実なのでしょうか?(※そもそもの話をするならば、村上清が『いじめサバイバー』とされていること自体も事実であるのか疑わしいのですが、煩雑を避ける為、ここではそれが事実であるものと仮定して話を進めます。)
むしろ村上清は、イジメの「被害者」になったことで彼自身が背負い込んだ劣等感を解消する為に、己がマスメディア関係者となった今(※記事を執筆した当時)こそ、イジメ問題の記事を書くと云う手段/大義名分によって合法的に「加害者」の立場になろうと試みた、それによって「被害者」であることから生じる劣等感の埋め合せにしようとしたのではないでしょうか。
何か/誰かを「観察/取材」して、それに基づいて執筆した記事を雑誌等の公的媒体に「発表」すると云う行為には、一種の「暴力性」が不可避的に付き纏うものです。観察や取材の対象に対して、好意的な感情を抱いている場合ですら。況や、SNS等の個人的なネットメディアが発達した2021年現在とは異なり、当時の雑誌と一般人との間には、情報発信力の差や「何となくマスメディアの人間は一般人よりも格上」と云うイメージなど、圧倒的な権力勾配が有りました。そのような権力勾配を利用して、取材と称して他人の領域にズカズカと入り込むこと、カメラやテープレコーダーを向けること、記事にして発表すること、これらの行為の持つ圧倒的な「暴力性」。
北尾修一によれば、村上清は極めて優秀な人間のようです。そんな優秀な人間が「取材/執筆と云う行為の持つ『暴力性』」に気づかないはずが有りません(それに気づかないならば、端的に言えば馬鹿でしょう)。おそらく村上清は、このように考えたのではないでしょうか。「マスメディアの人間になった自分(村上清)は、今や取材や執筆の名目で合法的に、他者に対して『暴力』を振るうことが可能になった」と。
取材対象者が「被害者」ならば、取材と称して心の古傷を抉り、取材対象者が苦しむところを観察して「加害者」の立場を擬似体験して楽しめば良い。取材対象者が「加害者」ならば、贖罪意識を持つ人間は、良心の呵責を起こさせて苦しむ様子を観察して楽しむも良し、過去の過ちを反省していない人間は、調子に乗らせて問題発言をするように仕向け、社会から批判を受けるように仕向けるも良し。どっちに転んでも村上清にとって「イジメはエンターテイメント」となる訳です。
差別や犯罪の被害者が、その苦しみから逃れる為に加害者の側に立とうとすることは、往々にして有ることです。例えば、白人から人種差別を受けた黒人が、鬱憤を晴らす為に黄色人種を人種差別するように。村上清も、そんな被害者の一人だったのではないでしょうか。
村上清は、彼の取材対象として小山田圭吾を選択しました。その選択の動機には、もちろん既にROの記事が先行して存在したことも有ったでしょうが、ひょっとしたら「オシャレな渋谷系のモテ系のミュージシャンに対して『取材と云う名の暴力』を振るうことが出来る」と云う愉悦の予感も有ったのかもしれません。更に、相手がイジメの「加害者」ともなれば、その悪行を証言させて世に知らしめる事で、世間からバッシングを浴びるように仕向けて復讐することもできると、そう考えたのかもしれません。しかし、村上清が想定した以上にQJの編集者や読者が本物の鬼畜系クズだったことから『いじめ紀行』を発表しても小山田圭吾への批判が一向に高まらなかったために、小山田圭吾を転落させるまでに到らなかったに過ぎないのではないでしょうか。
ここで私は、取材の暴力性に関して、別の可能性も考えます。当時のマスメディアは、果たして本気で「小山田圭吾はイケてる/格好良い」と考えていたのでしょうか?実は「コイツ、ヒョロヒョロのヘナチョコのくせに、自分のことを格好良いと勘違いしてるw」とか「コイツ、無理してワルぶって、イジメを武勇伝として語ってやがるw」とか、マスメディア関係者は表面的には持ち上げつつも、心の底では小山田圭吾を小馬鹿にしていたと云う可能性は無いのでしょうか。持ち上げて落とすのは、何と言っても、マスメディアが好む暴力の典型です。
そして、小山田圭吾も、己自身のスクールカーストが低いと見做されていることや、マスメディア関係者から心の底で小馬鹿にされていることを感じ取って「いやいや、オレはイジメられっ子じゃないから!むしろオレは、イジメる方だったから!」と、ROやQJの取材に対して虚勢を張ったのではないでしょうか。村上清が、もし本当に「いじめサバイバー」だったならば、小山田圭吾には同じイジメられっ子の臭いがすると気づいたかもしれません。もし、そうだとすれば、余計に小山田圭吾が虚勢を張ることに拍車を掛けたことでしょう。「いやいや!オレ(小山田圭吾)はオマエ(村上清)とは違うから!」と。
小山田圭吾が「報道内容には、一部、事実とは異なる部分が有る」と言いながらも、事実関係を説明することを避けて頑なに沈黙を守っているのは、もしもイジメ加害者であることを否定すると、和光学園在籍中の自分のスクールカーストが低かったことを認めることに繋がり、それはイケてる渋谷系として持て囃された自身のプライドが許さないのではないでしょうか。
=仮説ここまで=
さあ、如何でしたでしょうか?北尾修一は頻りに「こう考えるのが自然」「普通こう考える」と云う表現を用いましたが、私はそれを避けたつもりです。
身内であるサブカル業界人(北尾修一)が、自分たちに都合が良いようにアクロバティックに美化したストーリーと、村上清にも小山田圭吾にも利害関係を共有していない第三者(私)が、ごくありふれた話として考えたストーリー。どちらが本当っぽく感じたでしょうか?それは貴方自身が決めて下さい。解釈の無理強いは致しません。
「長々と書いて、一体これが旧体制『映画秘宝』と何の関係が有るんだよ?」と思われたかもしれませんね。しかし、勘が良い方は既に気づかれたはずです。これらの「若かった頃にイケてなかった人間が、大人になってから加害者になることで、若かった頃の劣等感を埋め合わせようとする」「ワルぶって武勇伝を吹聴する」と云う行動様式は、旧体制『映画秘宝』の主流派(町山智浩ら)と瓜二つであると云うことに。それに、小山田圭吾の語るイジメの話に登場する被害者が障害者や在日朝鮮人など反撃が出きなさそうな弱者ばかり選択しているところも、町山智浩ら旧体制『映画秘宝』が(電通・ホイチョイ・フジテレビやジョックスへの怒りや憎悪を唱えつつも、本丸のソイツらを避けて)女性・同性愛者・アニメオタクとかを攻撃対象にしているところに似ています。
要するに、悪趣味・鬼畜系であろうがなかろうが、サブカル業界人は五十歩百歩ということです。
思った以上に長文となりましたが、この投稿は以上です。
「Dr.STONE」といえば科学監修の名目で毎回名前がクレジットされている「くられ」氏ですが、この「くられ」氏も90年代は鬼畜系カルチャーでならした人物です。
しかしこの「くられ」氏はいじめや差別ネタなんてレベルじゃございませんでした。
実際にこの人が作った本で本物の爆弾テロリストを生んでるんですよ。
「くられ」氏が編集長を務めた「危ない28号」という雑誌に爆弾の製造方法を詳細に書き記され、それをテキストに実際に爆弾を作って街中で爆発させた事件がありました。
以下、ここ参考
https://ameblo.jp/7ninblog/entry-11047336229.html
JCO臨界事故に怒りを感じた男が,JCOを爆破しようとして,爆発物を作成,JCO近くの住宅街にそれを放置した事件.
2000.1.6 07:00頃,東海村のJR東海駅から北へ300mほどの住宅街の,踏み切り脇,東海駅東口タクシー乗り場のベンチ前に,赤い液体が入った,清涼飲料水のペットボトルや,金属製と思われる銀色のボンベなどの不審物が,黒いバッグに入れられて放置されているのを,通行人が見つけて茨城県警ひたちなか西署に通報した.
同県警は,爆発物の可能性もあると見て,重装備の機動隊爆発物処理班を派遣.
処理班がバッグをX線で調べたところ,中には塩化ビニール管が2本,鉄パイプが1本入っており,これらはリード線で乾電池などとつながっていた.
また,真鍮管,タイマー,アルミ缶,百円ライターなども見つかった.
鑑定の結果,これが殺傷能力のある爆発物であること,爆発物の一部は,安全装置を解除して,タイマーをセットすれば,すぐに爆発させられる状態だったことが判明した.[1][2]
塩化ビニル管や鉄パイプ、アルミ缶などに、アセトン系の爆薬が詰められ、起爆装置の雷管に鉛筆のキャップを使用。「グロープラグ」と呼ばれる模型の飛行機などのエンジン用点火プラグが装着されていた。[2]
この爆発物は,前年末に発生した,2件の爆弾事件の遺留品などと似ていた.
1件目は1999.12.24,大阪府摂津市のJR東海・新幹線車輌基地「大阪第1車輌所」にて,新幹線から回収したばかりのゴミ袋が爆発.
大阪府警摂津署の調べによれば,爆発物のアルミ缶の中に,有機溶剤をしみ込ませた粉末が詰められていた.
爆発した後の現場には、乾電池4個と充電池、小型のアルミ缶、リード線のついたふたのようなものが落ちていた。[2]
2件目は,その3日後,JR浦和駅のコインロッカーで,その点検中,ロッカー内にあったアルミ製の箱が爆発,管理会社従業員(当時53)が指に1カ月のけがを負った.
埼玉県警浦和署の調べによれば,箱は持ち上げた途端に爆発する仕掛けになっていた.
アルミケースから外にひもが出ており、その先端がロッカーの内壁にテープで固定されていた。
また,発泡スチロール製の球状の不審物は、直径約6センチの半球状のものを2つ重ね合わせて作られていた。
これら2件の事件について,大柴は
「ロッカーの管理がずさんで、警告のために仕掛けた。爆発で死者が出てもいいと思った」[2]
などと供述した.
警察によれば,大柴は同年11月から12月までの間、東京や埼玉などのホテルを泊まり歩きながら、アルミニウム容器に火薬を詰めた上で導火線をつないだ爆発物を製造。
同月20日に,浦和駅西口にあるコインロッカーに仕掛けたという.[2]
「東京駅で新幹線に乗り、小田原駅で下車する際に爆弾を置いた。1時間以内に爆発するようタイマーを仕掛けていた」
と供述した.[3]
大柴が、爆弾づくりのテキストにしたとされる雑誌は,データハウス社(東京都新宿区)発行の雑誌「危ない28号第三巻」(99年3月発行、定価1400円).
特集「危険物!」と題して、爆発原料の入手方法、市販材料や身近な家庭用品を使った爆薬、火薬の作り方などを図解入りで詳細に解説している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B1%E3%81%AA%E3%81%8428%E5%8F%B7
『危ない28号』(あぶない28ごう)は、データハウスから1998年から1999年まで季刊誌として発刊されたアングラ雑誌である。不定期刊誌『危ない1号』の実質休刊後、インターネット系のアングラ・ライターを中心に編集され、第5号まで発行された。現在(2021年7月)では全5巻ともに絶版となっている。
日本がまだコンピュータやインターネットの黎明期だった1998年、KuRaReを編集長にサブカルチャー、アングラ本として発刊される。ハッキングや兵器、ドラッグなど、実行すれば犯罪者になってしまいそうな情報が満載の雑誌であったため、全国18都道府県で有害図書指定されることとなった[1]。
2000年1月に浦和駅、東海村、大阪で発生した一連の爆弾事件で、犯人が同誌を参考に爆発物を製造したと供述したため[2]、刊行済みだった第5巻を最後に廃刊を余儀なくされた。
こっちはくられ氏の本でガチの爆発物テロが発生し、負傷者も出し、下手をすれば死者もでていたかもしれないんですよ。
そんな人間に集英社の週刊少年ジャンプ編集部は漫画の監修をさせ、毎週のように名前を載せ、特集記事に写真付きで掲載してるんですけど、その事をジャンプ編集部や集英社の人達は理解してるんでしょうか?
こっちは本当の死者が出ている可能性があったんですよ??
くられ氏は「実際に作るとは思わなかった」「真似してもらうために書いたものじゃない」とか言い訳してたみたいですが、「どのご家庭にもあるものでカ~ンタンに爆弾が作れちゃいマス♪」なんて事細かに実用性のある爆弾の製造方法を記しておいてそれは無いんじゃないすかね。
真似してもらいたかったんでしょ?実際に爆弾作ってもらいたかったんでしょ?だから書いたんでしょ?
そんで本当に作ってテロ起こっちゃったから慌てて保身に走ったんでしょ???
つうかさ、くられに限らずこの辺の鬼畜系ライターが心底みっともないのって、鬼畜ブームが去った途端みんな言い訳を始めたところなんだよね
「ある種のジョークでやってました、まさか真に受ける奴が出てくるとは思いもしませんでした」ってさ
根本敬も唐沢俊一も自殺した青山正明も殺害された村崎百郎もみ~んな同じような苦しい言い訳をしていた。
村崎百郎なんて殺された時まわりの連中「まさかこんな恐ろしい事になるとは・・・!」って悲しむフリしてみせてたけどさ、ほとんど自然の摂理のようなもんだろ。キチガイ煽ってキチガイに殺されたってさ
そんで追悼本なんか出したりして、ダッセエの。
話は逸れましたけど、最近の小山田圭吾を発端とする90年代鬼畜ブームを断罪する流れでいうならくられ氏も当事者であり、こっちはいじめ差別どころか死者も出てたかもしれない爆発物テロ事件が実際に起きましたから。
その流れで言えばくられ氏が関与している週刊少年ジャンプ連載漫画「Dr.STONE」は即刻連載中止、絶版回収にするべき
良くてもくられ氏が監修した部分は全面的に削除するべきです。
おまえへの反論
よって、何も知らない第3者のお前が語る主張の方が偏りよろしく主観的である。
(北尾氏は自業自得といってるし、「小山田圭吾と村上清は悪くない」とは結論づけてないだろ笑)
(2)26年前の過去の記憶を辿って推測するしかないのは当然であり、
良い解釈もなにも拡散される内容と自己の記憶とイメージの乖離があるから本音を語ってるだけ。
「M氏」と表現するのは、炎上と攻撃が続く中で芸能人でもない名前を公表することは控えておこうという
プライバシーへの最低限のマナーとか配慮かもね。(悪意持って都合よく切り取り攻撃される恐れもあるからね)
「デビルマン」については、理性と冷静さを失ったお前らのような身勝手で独りよがりな怨念が、
あのデーモン達のように小山田に集中砲火を浴びせているこの惨劇を例えているんだろ。
(3)お前は当時のライターじゃないだろ?そしてその界隈にすらいないだろ?北尾氏以上に村上氏の何が語れるの?
あと、拡散されている「孤立無援のブログ」については、確かに切り取りと巧妙な順番の入れ替えによって
悪意ある印象のミスリードが行われているのは明らか。北尾氏を批判する前にまずそこ認めろよ。
(どうせお前もあのブログに乗せられて被害妄想膨らませて叩いてたんだろ?)
(4)「既成事実化」って単語ばっか使ってうるさいけど、適切じゃないから使うのやめろ。
北尾氏の内容は、状況を見てあの記事が書かれた経緯を「推測」しているだけ。
美化してるというよりも、書き手にそういう意図があったのだろうとプロ視点で解釈してるだけだろ。
実際に北尾氏のブログが出る前から、原文読んだ勢からもそういう意見あったし、自分も同じように捉えていた。
(5)はぁ、、しょうもな。村上氏はいじめられていた側だよね?
この「いじめ紀行」ってのは、いじめられていた側の視点から生まれた企画なんだよ。
当時もいじめはアウトだし、「いじめ自慢」なんか小山田サイドからしたら断られるはずなのに(現に最初は渋っていた)
許可した背景には、村上氏なりの強いコンセプトがあった。それを小山田も受け取ったからあの記事ができた。
「いじめ紀行」の冒頭でも、世間はいじめは悪と言いつつ綺麗事ばかりで、
世の中からいじめが無くなることはないというようなことが書いてるだろ。
だから村上氏なりの視点でいじめ問題を紐解くきっかけを模索していたんだろ?
「いじめっ子といじめられっ子の対談」という手法は見る角度によっては悪趣味で間違っていたし、
いじめはエンターテイメントだと自虐的に表現しながらも、決していじめを肯定しているような企画ではないんだよ。
当時の鬱屈した社会の中で、未熟なライターがデビュー記事であの小山田圭吾と過激だけどかつて誰もやっていなかったことを企画して実現しようとしていた。
その熱い思いに小山田も動かされた。結果的に考えが甘く、いじめられっ子との対談企画も失敗したわけだが、
2人がやろうとしていた実験的試みは、露悪的だけどほんの少しだけ社会に風穴を開けるきっかけになったのかもしれない
(今は違う形で穴をあけてるが、、)
そういったものをライター目線で振り返れば宝石と例えてるだけ。お前のサブカル偏見で単純化するな。
(6)当時を知る北尾氏の証言と推測が出てきてくれたおかげで、一部だけど冷静な意見もでてはきていて、
少しは全国民が共有してしまった「鬼畜いじめ妄想」を止めるような方向へ進んだようにも見える。
が、同時にいまだお前のように被害者を傷つけたーとか妄想を繰り広げ、拡散を助長するようなバッシングを続けるやつもいて、
逆に独りよがりのお気持ち正義マンをあぶり出してくれたのかもしれない。悪態ついているブコメとか見るとよくわかるよ。
北尾氏には感謝としか言いようがない。ある意味、北尾氏から村上氏へバトン。
このアンフェアで建設的じゃない状況から早く脱して前に進めということ。
元ラーメンズ・小林賢太郎が、過去に行ったお笑いコント公演の中でナチスによるユダヤ人虐殺をジョークのネタにした事が発覚し、この情報が海外にも拡散してサイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)の知るところとなり、東京五輪開閉会式の総合演出担当を解任されましたね。
小山田圭吾の障害者虐待が世間一般に広く認知された結果、小山田が東京五輪開閉会式の音楽担当を辞任した際には、一部の人間が「90年代には、悪趣味・鬼畜系カルチャーが存在を許されていた、時代の空気が存在して云々」と小山田を擁護し、それに対して町山智浩は「小山田圭吾は悪趣味・鬼畜系とは無関係(だから、自分[町山智浩]たちには責任は無い)」と反駁しました。
ラーメンズは悪趣味・鬼畜系ではないと思いますが、間違い無くサブカル領域に属する芸能人です。また、今回問題視された90年代半ば当時の彼らの芸風が、当時の、いや、今もサブカル界隈に根強く蔓延る「不謹慎なことを言う/するのがオモシロイ/カッコイイ」と云う風潮の下に成立していたことも明らかでしょう。そして、この風潮を作り出すことには、旧体制『映画秘宝』界隈も関与していたと言えます。たとえば『キネマ旬報』の編集部を襲撃して同誌の編集部員に暴力をはたらいたことを、町山智浩はパイ投げ事件などと称して矮小化して面白おかしく笑い話扱いしていますが、アレは「言論の自由を脅かす暴力事件」以外の何物でもありません。しかし、サブカル界隈の身内贔屓の体質は、町山智浩の仕出かしたことに対して真摯な批判や反省を行うことを忌避する道を選びました。昔から、サブカル業界人は身内贔屓が大好きで、これは松江哲明の性的強要・搾取にダンマリを決め込んだのを見ても判るように、今も変わりません。
ラーメンズがお笑いコントの中でナチスのユダヤ人迫害・虐殺をジョークのネタにしたことに関して、擁護として「米国のサウスパークや英国のモンティ・パイソンもジョークのネタにしているのに、何故、彼我に批判の差が有るのか?」と言う人もいましたが、個人的には、連合国側の人間と枢軸国側の人間では、それをジョークのネタにする資格に差が有るのではないかと思います。何か死傷者を伴うような事件があって、それをジョークのネタにするのは、被害者の親族が言うならまだしも、加害者の親族が言ったらアウトになるのと同じです。
一般的な傾向として多くの日本人は、自分たちが枢軸国側であったこと、戦時中にはナチス政権ドイツと同盟国だったことについて、自覚が稀薄だと私は思います。だから、ナチスドイツをポップカルチャーの一部として、エンターテイメントとして、カジュアルに消費するのだと思います。
さて、エンターテイメントとしてナチスドイツの残虐行為を楽しむといえば、長年に渡って率先してそれを実行し続けてきた人間が、旧体制『映画秘宝』に1名います。ナチス強制収容所ネタのエクスプロイテーション映画が大好きと公言し、自ら「所長」と名乗ってそれらの作品の"素晴らしさ"を布教している、赤毛で入れ墨だらけのオジサンが1名。そう、高橋ヨシキです。高橋は、間違い無く、悪趣味・鬼畜系の範疇に属する人間です。高橋ヨシキによる布教活動は、日本において「ナチスドイツによるユダヤ人迫害・虐殺を、カジュアルに楽しんで消費しても許されるのだ」と云う風潮を作ることに寄与し続けてきました。
もちろん、高橋ヨシキの存在や布教活動が、ラーメンズを生み出した訳ではないでしょう(ラーメンズのネタの公表よりも、高橋ヨシキの布教活動開始の方が時期的に後だと考えられますし、世間的に認知されたのも、ラーメンズの方が高橋ヨシキよりも先でしょうから)。しかし、ラーメンズのネタが世間に発表されてしまった後、長年に渡ってそれが見過ごされたのは、観客である一般人たちの中に「コントのネタなのだから(批判するのはおかしい)」「たかがフィクションのネタに何をマジになってるの?」と云う間違った考えや言い訳の口実が存在したからです。これは、ナチスドイツによるユダヤ人迫害・虐殺と云う出来事が"エンターテイメント・コンテンツ"として、誤った"市民権"を獲得していたからでしょう。そして、高橋ヨシキによる「ナチス強制収容所エクスプロイテーション映画は素晴らしい!」という布教活動は当に、その誤った"市民権"を獲得するための活動でした。だから、次のようには言えると思います。
「高橋ヨシキによる『ナチス強制収容所エクスプロイテーション映画は素晴らしい!』と唱える布教活動は、ラーメンズのネタの"誕生"には影響を与えなかったかもしれないが"生存"には影響を与えたであろう。したがって、その点については、高橋ヨシキ及び彼に同調した人間に責任が有る」と。仮に時代の空気と呼ぶべき何かが有ったとしても、それは勝手に生まれたのではなく、それを意図的に作り出した人間がいるのです。この場合、それを作り出した人間の一人は、間違い無く高橋ヨシキです。
SWCの人たちも驚愕するのではないでしょうか。21世紀の日本で、ナチスドイツによるユダヤ人迫害・虐殺をネタにしたエクスプロイテーション映画を「面白い!素晴らしい!」と公言・賞賛し、他人にも観るように推奨活動している人間が存在して、しかも堂々とメディアに登場し続けていると知ったら。誰か英語が得意な人がいたら、高橋ヨシキがしていることをSWCに報告すると良いかもしれませんね。もしもそうなった時、町山智浩はSWCに対して「悪趣味・鬼畜系カルチャーをやっていたのは、電通・ホイチョイ・フジテレビに対する対抗心が有ったから」と弁明できるのでしょうか。見ものです。
それと、SWCといえば思い出しましたが、長年に渡る町山ウォッチャーならばご存知のとおり、過去に町山智浩自身が他人に対して「オマエのことSWCに通報しといたからな」と言ったことがありました。その矛先が自分の近しい人間に向けられた時、町山智浩はどうするでしょうか。
この投稿は以上です。
暴力団組員とか闇金業者とかが自身のやった鬼畜な行いを告白するとかならわかるんよ
彼らは一生日の当たる職業につくつもり無いんだろうし(それでも普通は匿名だと思うけど)
でもミュージシャンが実名でそれやるってどういうことよ?とすごい謎
そんな風潮本当にあったのかと。
違うんかなあ?
まず、最初に彼の語ったいじめ(と言うより暴力行為)は決して許されるものでは無いと言う事を申しておく。その前提の上で、一個人の意見を述べたい。
この問題に関して調べていくと、90年代鬼畜カルチャーという文言をよく見かける。私は現在30歳で当時の空気感がわからないが、鬼畜カルチャーに関しての個人的感想を述べたい。
当時のお利口で軽薄でゴージャスな成金文化へのアンチテーゼみたいなものだったのだろうか。綺麗なメッキを剥がした下のグロテスクな現実を暴くという大義名文の下、弱者を痛めつける事をコンテンツ化し面白がり消費していたのだろう。消費する事が強者であるバブル文化の中で、それに乗り切れなかったものが、強くあろうとしてもがいた結果なのかとも感じた。
そんな時代の空気感の中で、メインのカルチャーに馴染めなく、自意識過剰な斜に構えた者たちへの娯楽として供給された文章が、例の案件だったのではないか。
小山田氏の語った行為は許さない事だが、当時の消費者が求めていた娯楽を提供したと言う点では、彼は仕事をこなしたと言えると私は思う。その内容はいいか悪いかを置いておいて。
何度も述べるが、私は小山田氏の語った行為に関して擁護はしないし、許されない事だと思っている。だが、当時の時代の空気を考えると加害者は彼や出版社で無く、鬼畜カルチャーを面白がってた人達にもある。当時の空気感を無視せず、そこを社会全体で追及し、反省するべきではないか。
現在の彼に対する私刑ともいえるネットリンチを見てて思う事がある。これは90年代悪趣味カルチャーと地続きではないかと。
意気揚々といじめはダメだと語り、彼に退任を求めてた姿は、次第に彼への攻撃をコンテンツ化し、エンターテイメントとして消費しているように感じた。集団いじめの本質は、誰かが理由を作りその理由を元にターゲットを決め、皆で面白おかしく攻撃する。現在の私刑リンチは、皆が非難している小山田氏の加虐行為と被らないかと私は思うのだ。
鬼畜カルチャーがメッキの下に隠された加虐性をコンテンツ化し供給するものだと仮定すれば、現在の私刑カルチャーは加虐性にメッキを塗りたくり正義感のラベルの下で楽しんでいるように思える。
上記の点を踏まえ、私は個人個人が自己の加虐性を認め、90年代鬼畜カルチャーを総括し、負の連鎖を断ち切る必要性を感じている。
村崎百郎の場合は「精神疾患罹患者の苦しみをビジネスとして喰い物にしてきた人間が、その報いを受けて悲惨な最期を遂げる」と云う悪趣味エンターテイメントを、自らの命と引き換えに提供したのだから、身体を張ったと言えるかもしれませんね。もっとも、村崎百郎の精神疾患に関しては、ビジネス上の(もしも本物の精神疾患罹患者や関係者から差別的だと抗議を受けた時に「精神疾患罹患者の当事者が書いているので差別ではない」と言い訳するための)フェイク、ギミックだったのではないかと云う疑惑を抱いています。まあ、死ねば官軍なので真相は闇の中ですが。
こんな事件があったんだね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%B4%8E%E7%99%BE%E9%83%8E
2010年7月23日午後5時頃、村崎は読者を名乗る32歳の男性に東京都練馬区羽沢の自宅で48ヶ所を滅多刺しにされ殺害された[2][16]。自ら警察に通報して逮捕された容疑者は精神病により通院中で[17]、精神鑑定の結果、統合失調症と診断され不起訴となった[18]。
悲惨な最期というのは、殺人事件で、しかも結局犯人は病気が原因で不起訴になってしまったのか。
いくら生前のご本人の言動に弱者を虐げるものがあったとしても、命を落としてなお犯人が罪にすら問われないのは無情だとも感じられる。
でも、法律の専門家が不起訴だと判定したことだから、どうしようもないことだったんだろうね。
マンガ家・森園みるくが激白、“鬼畜ライター”村崎百郎刺殺事件の真実! 憑依、幽体離脱、魔術訓練… 死は予見されていた!?(インタビュー)
https://www.excite.co.jp/news/article/Tocana_201709_post_14564/
精力的な創作活動を続ける森園氏だが、今年「めちゃコミック」をはじめとする電子書籍サイトより配信が開始した漫画『私の夫はある日突然殺された』が各方面で話題沸騰中だ。村崎氏の死に関する実録エッセイである同書によると、彼は生まれつき“電波”を受信する特異な霊体質だったが、小学5年生の夏休みに海で溺れかけた際に宇宙の始まりを目撃し、その神秘体験を通して身体に侵入した何者かのメッセージを受け取り始めた。この“何者か”こそ、鬼畜活動に邁進する使命を授けた存在なのだという。そして、なんと村崎氏は、自身の死さえ予知していたというのだ!
――森園先生、よろしくお願いいたします。早速ですが、村崎さんは本当に死を予知していたのですか?
森園みるく氏(以下、森園) 主人は、殺された年に何度か「俺は精神病者に殺されるから、ごめんね」と言っていましたね。そして、「世界は終わるが、それは俺にとっての世界で、他の人にとっての世界は終わらない」と謎めいたことも……。特に脅迫状がきたり、前兆があった訳ではないのだけど、予知通りに2010年7月23日に、私が食事に出掛けている間に殺されたんです(※)。しかも、主人が最後に仕事で使っていたPCがありまして、そこには<ミズの中からさざ波を立てて移動しながら浮かび上がる十字架のイエス像>という文章が残されていました。
※ 村崎氏は、読者を名乗る32歳の男に自宅で48カ所を刺された。容疑者は自ら警察に通報して逮捕されたが、精神鑑定の結果「統合失調症」と診断され不起訴となった。
精神鑑定の結果不起訴になった犯人の殺人事件という、難しい題材ではあるけど、遺族の手で漫画化されたのか。
漫画を通じて多くの人にいろいろなことを考えさせるのだろう。