はてなキーワード: 外記とは
あなたが中学生の時、ともすれば高校生の時、こんな話を1度くらいは聞いたことがあるだろう。
「自分は教科書を10周くらいしないと覚えられないけど、学年トップの人は教科書1周しただけで全部覚えるらしいよ」
他にも、こんなことを語ってる人を見たことはないだろうか。
「普段勉強全くしてないけど、テスト前に教科書チラ見したら満点とれた」
凡人の自分たちは、一度くらいはそんなことを聞いたり見たりして憧れたのではないだろうか?
しかし社会人になると、そういう人間は全く見かけなくなるのである。
「Pythonの教科書1発見たらすらすらコード書けるようになった」
確かに、契約書を一発で覚えるとか、レジュメを全部頭に入れられるとか、
プログラミングもある程度習熟した人であれば、類似の言語であればすぐに書けるようになる。
しかし自分が少年時代に見たような「天才児」は消えてしまうのである。
結局彼ら「天才児」はどこにいったのか?と言えば、まぁそれなりにいい企業に入って居たり、勉強についていけず落ちこぼれたりしているのである。
何故かと言えば、「天才児」が教科書1周で頭に入ったり、一夜漬けでテストでいい点を取れたのは
「塾」に行っていたからだ。「中学校受験」をして、既に学んだ内容でできることだったからだ。
新しい事、新しい知識、新しい型になると、途端に彼ら・彼女らは覚えられなくなる。身に着けられなくなる。
20代を過ぎ、脳みそが成熟したぐらいになると脳の早熟も意味を失う。
もしこれを見ている子供がいたら、周りの天才児を見てもどうか気を落とさないで欲しい。
大学や企業に入れば、どえらい発明や発見をした「天才」と呼ばれる人たちは
学生時代は勉強が苦手だったり、案外記憶力が悪かったり、その分野以外はポンコツだったりする。
出生
天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。
父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安は信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老・土屋昌続の与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。
武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。
ただし一説では、武田勝頼から疎まれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。
遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行衆連署傳馬掟書』慶長6年1月、個人蔵)[2]。伊奈忠次、彦坂元正と連署しており、「大久保十兵衛」[3]と記され黒印が押されている
甲斐武田家が滅んだ後、長安は徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康が甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分が信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。
長安は大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正10年6月、本能寺の変で信長が死去して甲斐が家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康は本多正信と伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安は釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康は関東に移ることになる。この時、長安は青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正らと共に奉行(代官頭)に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。
また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安は長谷川長綱、彦坂元正、伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。
天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安は八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。
長安はまた、家康に対して武蔵の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役となる。
慶長6年(1601年)春に徳川四奉行補佐にて甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康が長安の経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである。
慶長8年(1603年)2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。
慶長10年(1605年)、大久保長安を普請奉行として武蔵御嶽神社の本社を普請。
慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である。
これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていたと言われている。
慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[4]。
しかし晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日、中風のために死去した[5]。享年69。
長安の死後に生前の不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査を拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安の嫡男・藤十郎(37歳)、次男・外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。
ほとんど外様に近い立場から[6]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクションの対象となっている。
無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。
金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分の遺体を黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[7]。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20211026/k00/00m/040/079000c
乱歩館の焼失で未整理分の資料が犠牲になったことに対して色々言及されているが、調査が済んでいなかった理由はタイトルの通りだと思われる。
以前に池袋の旧江戸川乱歩邸で聞いたことがあるのだが、まだ邸内にあった全ての遺品の整理は終わっていないそうな。バックに立教大がついていてもこの状況なのだからいわんや民間の施設、だ。
こんな事例もあるので、江戸川乱歩に限った話でもない。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36105020U8A001C1CR0000/
“書簡は虚子記念文学館が高浜家の資料として所蔵していたが、調査は手つかずのままだった。昨年、鴎外記念館で企画展が開かれた際、別の資料を貸し出した虚子記念文学館側が、この書簡の存在を伝えたことで、本格的な分析が実現した”
Angel Beats!というアニメが世間では好評価だが、個人的には麻枝准特有のギャグと掛け合いがきつく、終盤の展開に全く乗れず泣けず、学園モノで萌えありバトルありギャグありバンド演奏シーンあり死後の世界で考察勢が好きなそうな世界観に色々詰め込んだわりには「天使ちゃんマジ天使」とLiSAのメジャーデビュー作ってこと以外記憶に残らない凡作くらいにしか思ってなかった。
批判的な反響がありつつも結果的に売れたのでじゃあ次にと作られたCharlotteも学園モノで萌えあり異能バトルありギャグありアイドル要素ありタイムリープ要素あり主人公2回も闇落ちありと色々詰め込みツッコミどころはあっても1クールで話としては完結していて「ABから進歩してるじゃん」と個人的には思っていた。
ただ世間的にはむしろ逆らしく「ABは良いけどCharlotteは…」なんて人が多いんだと(売上的にも平均3万枚だったABに対しCharlotteは1万枚いかなかったしなぁ)
神様になった日はどうなるんやろなぁ…
某MMORPGを長らくやってた
ゲーム自体は懐かしくて楽しいのはもちろんなのだが、知り合いが誰もいないのでほどなく退出
自分の記憶では、自身の引退のきっかけは東日本の震災だと思っていた
関東なので生活自体はできていたが、震災直後はインする気力もなく、やっとログインするも疲れ切って…みたいな記憶だった
けど調べてみたら2011年が震災で、アイテムの購入履歴の最後が2013年だった
震災後2年ゲームやってたんだな、何してたんだっけか、ほとんど覚えてない
案外記憶も当てにならないんだなあと思う
オンラインゲームなので放っておいても徐々に離脱するものではあるが
ギルメンも抜けたりインが空いたりで過疎っていき
最後の方には自分ひとりがインしているような状況だったような気もする、もう覚えてないけど
ゲームマネーの利用履歴を見ると、最後の方はイベント限定のキャラクターやペットを購入するも使わずに放置、みたいな感じだった
記憶している最後のイベントはけっこう力入れてたし、キャラカード等も漏れなく購入してた
で、なんだったかのスキルを最上位クラスまで上げて、やったーって喜んで
なんだろうな、気が済んだんだろうな、その後はもう記憶がない
Fランですかね。
こちらはある士業の人です。お仕事が欲しいので、将来クライアントさんになる予定の人たちに手ほどきを、と、いくつかの大学で半年=12回の授業をうけもっています。
大学の報酬はふつうの仕事の時給の五分の一とかです。場合によってはこっちの士業組織が手当を出すので大学の負担はただです(手続きあり)。
でもぜんぜん進度がちがいます。偏差値62の大学と57の大学とでは、ぜんぜん聴く意欲ってのが違うんです。
57の大学のほうがお金だしてでも来てくれといってくるので、安くてもしょうがないね、といっているのですが、
1000円しない教科書(amazonで品切れなしに入手可能)を最後まで買わない学生多数。
ノートを「どこを書けばいいか」聴いてくる人多数。(しかたないので教科書をまず買ってマーカー線引き+欄外記入しろと指導)
あと、この分野でもネットつかわないと論文一報読めないので、読んでもらわないと意味がないので、
検索実習やらせたんですが、今自宅に自分のつかえるネットがないって人、いっぱいいるみたいですね。
62の大学のほうは私じゃない人が担当ですが、毎年2回目までに全員教科書もってくるそうです。
講義後出席アンケートもみるかぎり理解度が雲泥の差です。うちも二回目までに教科書をもってこないと不可とかいったほうがいいですね。
・規模
・廃棄本のごく一部を出してるだけ
特に2番目。
(なにせ、所蔵スペースは世界的な問題なわけで何処も困ってる。
一々調べられないし、手をかけられる冊数ではなく、ましてやそこに人員を裂けるわけがない)
たとえば、寄贈依頼があって調べたら、すでに複本があったケースの寄せ集め。
既に所蔵していて、絶対に廃棄して問題ないと確信しやすいもの。
たとえば、最新版からさかのぼって○年前の辞書以外は廃棄、という主義の場合。
たとえば、当面の「聞きました」実績を作るために一部を展示。
図書館で本をもらえる機会!ってのは案外記憶に残るから回数少なくても別にいい、とか。
上の方々の主義によって、廃棄本を誰かに差し上げる理由や規模は大きく変わる。
もちろん年に1回と決めて、大切に資料を保管し続ける図書館も多い。
でも知ってほしいのは、そういう配布予定の資料を保管する場所すら、もうない、ということ。
さんざん話し尽くされて、投げかけられる疑問も定番となっていて
それなのに未だに打破できない理由が元の記事には書かれているように思います。