はてなキーワード: 聖人とは
なんか政治不正!裏金!みたいなのめんどくさいしアホらしいので、
政界で不正を起こしたら、その人は死刑にすればいいとふと思った。
その代わり給料を倍にする。
そして、聖人君子のみが政に参加するようになる。めでたしめでたし。
むりぽお(^ω^)
ロールプレイングゲームの「ロールプレイ」って何だろうって私はずっと不思議だった。
STGの主人公だってACTの主人公だって皆それぞれの役割を演じているんだ。
それなのにRPGゲームだけがどうしてロールプレイを名乗るのかが不思議だった。
TRPGをコンピューター上で再現してマスター不要で進められるようにしたのが大本の始まりだったとして、そこから何十年たってるのに何時までたってももっと相応しい名前を考えないのは何故なのだろうと思いながらRPGを遊んでいた。
アクション要素が薄いor成長要素が強いからRPGですと言われても、果たしてそれはロールプレイなのかと納得出来ないでいた。
コンピューターRPGは確かにロールをプレイするゲームなのだと理解した。
最初のうちは神の目線でコントローラーを握っていたはずの自分が、いつの間にか主人公と一体化していたんだ。
高揚感のあるBGMが鳴り響く最終決戦の中、一緒に冒険してきた仲間たちを救うためにラスボスを絶対に倒してやるという決意が何度も胸に湧き上がった。
何でラスボスを倒すのかと問われれば、それはEDを迎えたいからではなくて、この世界を救いたいからなのだと本気で思っていた。
その瞬間、確かに私は世界を救うヒーローとしての役割を演じていた。
そして自分がヒーローとなり世界を救うために、これまでの戦いで培った自分の戦闘スタイルを駆使して目の前の苦難を打ち砕くことに対して圧倒的な使命感を燃やしていた。
あの高揚感は何だ。
大切な人を守ろうとしていた。
人間の脳には、フィクションの体験と現実の自分の体験を混ぜ凝ぜにして錯覚を引き起こすような欠陥がある。
それは確実だ。
何故なら私が実際にそうなったからだ。
そして私はそれを喜んで受け入れ、あの世界の住人として最後の戦いに挑んでいた。
いいロールプレイングゲームは役割を演じるゲームである以上に、プレイヤーに進んでその役割を演じさせてしまうゲームなんだ。
間違いない。
人間が現実と空想を切り離せないバグった生き物である事を利用し、いつの間にか役割を本気で演じさせてしまうシステムなんだ。
私の中にあったコンピューターロールプレイングゲームという名前に対する疑問は長い時間をかけてようやく氷解した。
よく出来たRPGは、プレイヤーに思わず演じたくなる役割を提供し、そしてプレイヤーがその役にのめり込めるように創意工夫をこらし、最後にはそのゲームで起きた体験をかけがえのないものにしてしまうのだ。
その道が英雄か、殺戮マシーンか、聖人か、それはゲームによって違う。
だが、完成度の高いRPGは、そのゲームがプレイヤーに与えてきた役割をいつの間にかプレイヤーに納得させ、プレイヤーの側が進んでその役になりきろうと自分の心を動かしていくように仕向けてくれる。
ありがとうUNDERTALE。
私の長年の疑問が1つ解き終わった。
水原なんとかってのがCMに出て日本人を使えとクレームが入ったそうだ。
これのどこが差別か?
不快なシーンに対してクレームが入ることは問題視されていなかったことを考えると、韓国人を見て不快に感じる人がクレームを入れるのも同義だと思うのだが。
日本人の嫌韓は韓国人の反日とは訳が違う。真逆だ。能動的に発生したものか、受動的に発生したものかの違いだ。
古臭い手段だが、昔からよくこの手の共通の敵を作って内部不満の矛先をその仮想的に向けさせる手段は用いられてきた。
反日は統制力のない無能な政治家にはもっとも難易度の低い政策だったんだ。
ただそれには歴史を歪曲でもしない限り、反日の辻褄を合わせることは難しいだろう。
それなりにIQが高い人間じゃないと、政策レベルで行わる反日教育に対して疑問を感じることなく日本が嫌いになるだろう。
その結果、日本人の中にも韓国を嫌う人も大勢出始めた。それはあくまで現実の韓国人を見て、だ。洗脳されて嫌いになったわけじゃない。
そりゃそうだ。ある人におまえ嫌いだと言われ続け、嫌がらせをされ続けていて、誰がその人と良好な関係を築こうと思うか?
距離を置こうと考えるのが普通だ。こっちも嫌いになることが普通だ。
これは韓国の反日政策の影響であって、こちらが耐える必要がどこにあるのだろうと思う。
徳川の時代に若い男だけがかかる死に至る病がはやって、男が激減
序盤こそわかりやすかったけど、本格的に過去編に入ってからは文章多いし歴史ものってことでわかりにくい言葉がたくさん出てくるしで正直挫折しそうにもなった
でも土日で体力あったし慣れてきたら読めるようになった
でも一気読みじゃなかったら都度読み返さないと内容把握できなくて挫折してたと思う
・話のキモになっている病気について単にそういう病気があったから逆転したーというだけで病気を放置したままにしないこと
・中学レベルの日本史の知識の裏を独自の解釈で埋めていってくれて、無味乾燥だった日本史の知識がどんどん色づいて感じられるようになっていったこと
あと性格もほぼ同じに見える
女も男もほぼみんな同じ顔に見える
いまんとこ読んでて楽しかった話は、
だな
なんだかハイローだなんだとオタクが最近EXILEをめっちゃ持て囃すようになってるけど俺はこれから先何があっても絶対にEXILEを許さない。
なんでわざわざそんなことを増田に?と思う人もいるかもしれないけど、俺は声を大にして叫びたいのだ。
だって、人一人の人生がめちゃくちゃにされてんだぞ。街がめちゃくちゃにされても復興できるかもしんないけど人生だぞどうしてくれんの!ねぇ!!
後、増田しかまともに聞いてくれなさそうだしリアルでこの話をすると家庭は崩壊するし弟が社会的に人権を失う。かもしれないし。
簡潔に申し上げますと、俺の自慢の弟がハイローのせいでEXILEにハマって、
EXILEの!最近結婚発表したあの人!!あいつ!武井咲と結婚したあいつ、わかる?ご本名、田崎敬浩さんって言うんだねあの人。弟が言ってた。
その、TAKAHIROのことを。弟(成人済、理系大学生、(祝)就職先内定)が、あろうことか、おねえちゃん、ねえちゃんって。
百歩譲っておにいちゃんならわかるけど、おねえちゃん。思い出しただけでくらくらしてきた。
俺の絶望がわかるか。ちなみに俺のことを弟は別におにいちゃんとは呼ばない。兄貴とさえ呼ばない。年が近いのもあるのかもしれないけど。
俺の弟はもーとにかく本当に自慢の弟で、頭いいし背が高くて顔も悪くないしスポーツもできるし性格いいし中高とカースト上位の人間で、まあモテて、だけどオタクの俺を馬鹿にすることもないしで、ずっと自慢の弟だった。俺は運動できないし顔は普通だと思いたいけど背は低いしでモテたことはなく、カースト底辺で震えてた人種だ。弟との遺伝的繋がりが信じられないレベルだ。それでも俺が弟への劣等感にあんまり長くは苛まれなかったのはひとえに弟があまりに「出来た」奴で、家族で一番俺に優しくて、兄貴とは呼ばなくてもたまにであっても俺をちゃんと兄として扱ってくれたからだ。
それが、こんなことになっちゃって、しかもちょっとは俺のせいとも言えるので、どうしようもないのがまたつらい。弟の彼女に顔向けできない。申し訳ない。
弟は、身内のオタク(俺)のこと無視しないタイプのカースト上位の人間だから、オススメの漫画とか聞いてくる。めっちゃ嬉しかった。たぶんあいつはこの世で五本の指に入るくらい優しい。オタクで、おおきなおともだち兼任の俺を恥扱いしなかった。親にはされたけど。だから俺はまどマギとかブラボとかまあ、ソフトなやつからちょいディープなのまで色々すすめて、あいつも毎回それを見たりプレイして感想聞かせてくれた。
知り合いに何か、その人の好きなものをオススメされるのが好きだって人間、善人すぎて涙出るだろ。マルチにはほんと気を付けてほしい。兄は心配です。まあ、そのせいでこんなことになってるんですけど。
中学のとき、俺は弟にとても軽い気持ちでBLEACHをすすめた。中2心にも師匠の美学みたいのかっこよくて、あとおっぱいサイコーだったから。なんかこういうと最低の兄貴な気がしてきた。でも俺は夜一さんがすっげぇ好き。男なら更木。
そうしたら予想以上に弟はBLEACHにハマって、俺よりハマって、師匠のこと尊敬し出した。今もしてる。BLEACHのおかげで色んなことを知った、BLEACH好きな人とたくさん話してみたいってスマホを持ちはじめてからはTwitterにBLEACH用のアカウントを作ったりもしてた。後なぜかBLEACH全巻セットがうちには2セットあったりもする。だけど、それだけならまだ、ギリギリよかったんだけど。
だからか去年、BLEACHが連載終了するってなったとき、弟はちょっとヤバかった。
脱け殻みたいになって、ぼーっとして、たかと思うとBLEACHの連載が終わるまでの日数を数えてばたばたしたり。
俺は何もできないしまあせめてと思ってBLEACHの話に付き合ったりしていた。そのとき。
弟はどうやらTwitterのフォロワーにハイローをすすめられた、らしい。
「ハイロー?って映画がBLEACHのジェネリックだってすすめられたんだけど、知らん?」「知らん」
それが頭のまともな弟との最後の会話だった。この後起こることを知っていたら絶対止めてた。タイムマシンがほしい。
ハイローの確か2作目を観に行って、帰ってきた弟は俺の知らない人間になっていた。
目を真っ赤に腫らして、映画のパンフを大事そうに持って帰ってきた。2部あった。俺の分だった。
いい映画だったから、観てほしいんだけど公開終了近いし、だからパンフだけでも。
俺はその日たぶんはじめて弟に弟の好きなものをオススメされた。めちゃくちゃ嬉しかったのを覚えている。ただ仕事が繁忙期並みに忙しくなってしまったせいで結局映画を観に行くことは出来ずじまいだった。もし、俺も観に行けていたら何か変わったのだろうか。
弟はそれから順調にハイローにハマり、順調に一族にもハマり始めた。
そうこうしてるうちに服の系統が三代目系に傾き、聞く音楽が洋楽から一族のになって。だから俺ははじめあいつは三代目にハマったのだと思っていた。弟の口から「おねえちゃん、ねえちゃん」という単語が出だしたのもこの頃だったと思う。忙しかったせいでよく覚えてないけど。
俺が「おねえちゃん」の正体を知ったのは手のつけようがなくなってからのことだった。
いわく、凛々しくてかっこいいけど、目がくりくりして大きくてかわいい、きりっとした太めの眉毛は意志が強そうでかわいくて、笑うと笑窪が両頬にできて、へにゃっとしてかわいい。足がすらっと長くておっぱいがおっきくて、寂しがりで歌がうまくて動物と子供に好かれて子供好きで、優しくて頑張りやさんの、おねえちゃん。
誰が男の、しかもEXILEのTAKAHIROだと思う???俺は新手の萌えキャラかと思ったし若干萌えた。しにたい。
あんまりにも普通におねえちゃん呼ばわりするので俺の頭がおかしくなったのかもと思ったよ。違うよな、TAKAHIRO、男だよな。なんでこんなことになったんだろう。ハイローにハマったとき、好きなのはホワイトラスカル?と雨宮兄弟で、雨宮マサキが一番好きだって言ってた。その雨宮マサキをやってたのがTAKAHIROらしい。つまりハイローがなかったら弟はTAKAHIROにこんな風な傾倒はしなかったんじゃないか。憎い。ただ憎い。存在が憎い。
弟は、前からアクティブだったけど、最近輪をかけて活動的だ。6月7月は舞台を観に行ったらしい。10月にはファンミがあると言って今からわくわくしている。舞台で見た、生のおねえちゃん()は本当にかっこよくてかわいくて、アカペラで聞けたとか言う歌がうまくて泣いたと言っていた。弟の彼女(交際2年目)はたぶんおねえちゃんの正体を知らない。親戚か誰かだと思ってる。俺は、本当のことを教えるべきなのか否かずっと迷っている。
それで、先日の結婚発表である。俺は、正直、ちょっと期待した。結婚だ。しかも授かり婚。いけると思った。弟が正気を取り戻してくれるんじゃないかと思った。違った。あいつの愛は深かったのだ。
弟は、喜んでいた。それもすごい喜んでた。
ねえちゃん、ひとりじゃなかったんだ、寂しがりの人だからそれだけずっと心配だった、ねえちゃんが幸せだって言うなら俺も幸せ、赤ちゃんほしいって言ってたもんな、ねえちゃん、神様ありがとう武井さんありがとう、ねえちゃんをお願いします、幸せになって、来月のCD待ちきれない来年のライブも楽しみファンミでおめでとうが言いたいチケット当たれ、ねえちゃん、すき。
だいたいこんな感じ。
すごく自然にTAKAHIROをおねえちゃんと呼んでいること以外はただただなんか聖人みたいなコメントだった。俺はよくわかんないけどファンミのチケットもきっと当たるよ。お前の徳の高さには神様もびっくりすると思う。なんでこんな方向性に発揮したのかは置いといて。
弟は、もう取り返しがつかないのかもしれない。少なくとも俺はもう弟になにもしてやれない。俺がBLEACHをすすめなかったら、映画に行くのを止めていたら、こんなことにならなかったのだろうか。そう思うと悔やんでも悔やみきれない。
両親がまだ気づいていないらしいのだけが今は救いだ。おおきなおともだちの俺と縁を切りたがったこともある世間体大好きの両親がこの事を知ったらと思うとぞっとする。
俺の自慢の弟の、たぶん順風満帆そのものだった人生をめちゃくちゃにしたEXILEを、TAKAHIROを、俺はたぶん一生ゆるせない。
たとえば、山の木を伐採しまくったとする。今でこそ科学的検証の積み重ねで、木の根の保水作業や、土壌保持能力が失ったと言われてるが、昔はそんなのわからない。
だから「山の神」というのを仮定して「それの意にそぐわないことをしたから怒った。木を大切にしないとならない。」という流れ。
対人関係も悪行ばかりしたことも、細かく分ければ、それぞれの個人が怒ったり、噂が流れて助けられるものが助けられなかったりで、
その結果、なにか不幸なことが起きたとして、「天罰」すなわち、神が罰を下した。と抽象的に取り扱うがゆえの存在。
ニュートンは近代科学の祖と言われるが、神学者でもあり「神が作ったこの世の理を明らかにする」という動機付けで行われている。
そして、科学的検証が行われて行って、科学的検証が馴染むようなものは科学の手に委ねてきた。しかし、要因が多く絡む要素。再現が苦手な要素については科学は苦手とする。
科学で立証しづらく立証されてないものはどうなるか?とすると、たとえば、根拠に基づく医療のエビデンスレベルで、
2a ランダム割付を伴わない同時コントロールを伴うコホート研究(前向き研究、prospective study, concurrent cohort studyなど
2b ランダム割付を伴わない過去のコントロールを伴うコホート研究(historical cohort study, retrospective cohort studyなど)
その道に詳しい人というのは昔の聖人と呼ばれる人。
西洋、イスラム圏だとみんなアブラハムの宗教で、その聖人たち。
特に幸福論とか、どういう生き方がよいかなんてのは科学に馴染まんから、まだ宗教の担当なだけ。
と言っても、儒教、仏教の開祖こと、孔子やブッダは「怪物乱心を語らず(孔子)」「毒矢の例え(ブッダ)」で挙げられるようにこの世に在らざるものに非常にドライ。
ただ、儒教や仏教がもともと「わからんものを取り扱うための手法」「先祖礼拝」の道教、ジャイナ教や神道と混ざって、この世に在らざるものを取り扱うようになった。
まあ、日本においてはGHQで道徳関連がみんな教育から消え去ったのもあったのが一回りしての新興宗教ブームだとは思うね。
本来あんな新興宗教に頼らなくても、良い生き方はそれ以前の書籍には数多く取り扱われてる。
と言ってもどうせ孔子もブッタもこの世にはいないんだ。今その教えを伝えてるという人も書籍によらざるをえないから、宗教団体に属する必要性はないね。
以前、婚活エントリーを書いて、ちょっとブクマがつき、数時間ではあるがホッテントリに上がったことがある。
内容というのは、年齢が年齢だから、結婚したいものの、婚活アプリを使っても効果がなく、過去に女性から虐められた経験があるため、諦めた、というものだ。
その時のコメントに「聖人君子なんていないし、女性も人間なんだから受け入れろ」というものがあった。
内容を覚えている人などいないだろうが、私は過去(小中学生時代)に女子に散々身障呼ばわりされ、時に寄ってはバスまで降ろされたこともある。
どんな理由があったにせよ、人をホビー感覚で身障呼ばわりしてはいけないし、正当な理由もなしにバスを降ろしたりしてもいけない。
コメントを付けた人からしたら、「小中学生時代のいじめや悪口なんて女につきものなんだから言ってもキリがない」ということなんだろうが、
それはあまりに第三者の無責任なアドバイスというやつで、こっちからしたら許す理由もない。今だってそいつの職場に乗り込んでやりたいくらいだ。
女叩きでもミソジニーでもないが、一方的に負わされた痛手を忘れろ、というのはあまりにも無神経極まりない。
コメントを見た時の怒りというか、虚しさというか、そういった感情が今もまだ拭えない。
もちろんその女に向けられた感情ではあるが、「何者も傷つけたことがない」というのがそこまで厳しい条件なのだろうか。
何者も侮辱したことがなく、悪口を言ったことがない、ということが聖人君子をだと言うならば、聖人君子を求めて一体何が悪いのだろう…
悪意とか殺意とか憎悪とか、対象が私じゃないってわかってても、そのエネルギーをぜんぶ吸収しちゃうよね。そういうことがもしかしたら君にもあるって思うと、私が嫌われるとか私が君を嫌いとかそんなことにはかかわらず、私が、わたくしとして考えるほんとのこころからの願いなんて、人を傷つけたくない以外には一個もないから、自分の言葉の攻撃性を自覚してから何にも言えなくなっちゃったよ。伝えたいこととか理解してほしいこととかマジでなんもない。それどころか伝わってほしくないこと理解してほしくないことばっかりだ。それでも言いたいことってあって、何で言いたいのかわかんないけど、言わないと多分自分が死ぬんだろうなって思うよ。うんこしなきゃ死ぬじゃんね。憎悪とか好意は対象がある、その人に対して死ねって言えばいいし好きって言えばいい。それと比べると、嬉しいとか寂しいとか悔しいとかそういう私だけの感情、どこにやったらいいんだろう。絵は描けないし歌も歌えないよ。消化も昇華もできず堆積してゆくばかりのあれこれを雑多に心の中にほっといていたら、いつの間にかiphoneの下書きに感情が思考が腐敗したものがもう何百件も、裏垢でも作ったらいいのかなって思うけど、私は自分の感情をわたくしから切り離したくない、から、匿名の世界で、感情とか命とかコンテンツにするのはいやだよ。心なんて壊れればいいわたくしなどなければよいと散々思って、つらいことを重ねたら心が壊れるって思った、聖人の真似、神様の真似をしつづけたらわたくしが消えると思った。つらいことを重ねつづけたらじぶんがどんどんボロボロになって、相対的に世界がすごく綺麗にみえるようになった、しらない綺麗をたくさんみることができて、生きていてよかったっておもった。聖人と神様にはあと一歩でどうしてもなれない、ここだけ、ここだけ越えれば神様になれるんだってところまで何回もおちて、すごくもがいた、わたくしが消えるようにすごく頑張って、人の事を嫌うことはなくなった、それでも、いくら頑張っても、やっぱり誰かを好きになってしまう最後の壁が消えなかった。どんな人のことも大好きになってしまう、ちょっと話しただけでも。見ず知らずの人の事なんて本当にどうでもいいんだ、どうでもいいのに、ちょっと話したら好きになってしまう。私はとっても人間だった。心があった。道端に花が咲いていること今日も朝が来ること朝が来ない日も夜が綺麗なこと人が生きているということにいちいち心を使っていたら私の心がなくなってしまいそうなのに、それでもなくならなかった。感じる閾値が下がれば下がるほど生きているってすごくよくわかる、それがうれしい、生きていることが幸せだって心から思っちゃうこと、たのしい。知っていましたか、実は画面の向こうには人がいます。知っていましたか、実は人には心と感情があります。どこにあるのかわからないけれど確かにある、地球とは別にある電脳空間の中では、そんなことを覚えている人は誰も居ないみたいだ。さっきも言ったけどこの世界では感情も命もコンテンツになるみたい、だからすごくこわい。それでもどうしても人が好きで、ちょっと特殊な別世界でも、やっぱり現実と複雑に絡み合ってて、今日はこんないいことがあったんだ今日はこんなつらいことがあったんだ。SNS映えのしない毎日にたしかにあるしあわせ、いいねの数に数値化されないしあわせって、とっても人間らしくてすてきだ。わたしはそれをききたい、きみのそれをききたい。これをここに投稿することがもはや私の姿勢に反しているね。誰がよんでるか誰が見ているか知らないけれど、心とナラティヴをきちんと持っている神様でも聖人でもないきみといつかお友達になれたらいいな。ちょっと話したら好きになっちゃうみたいに、きみのこと、誰か知らない君の事、無条件にわたしはすきだよ。今日も生きていてよかった!
1997年に結成した彼らは、00年代V系シーンにおいて、その重厚なサウンドと自他への憎悪や怨念、そして寂寞の篭ったような世界観という強烈な個性から、多くのファンを獲得し邁進してきた。
そしてその世界観を自ら打破し、ロックやテクノ、メタル等の様々な音楽要素を取り込むなど、新たな個性として「多様性」を得た結果、今やファンも老若男女様々な層が増え、20周年の今年は日本武道館2days公演を納めただけでなく、更に年末にもう一度玉ねぎの下で大規模な主催イベントを控え、その日に向けて日夜怒涛のツアーやイベントに勤しんでいる。
私は、ファン歴で言えば中堅どころにあたると自負している。
もう十余年もムックの音楽に浸り、彼らのライブサウンドに酔い、最早生き甲斐やライフサイクルの一環として「次のライブに行くために、また彼らの音楽を生で楽しむために」と社畜生活に従事する日々。
長らく夢烏(=ムックのファンの呼称。ムッカーと読む)を続けてきて、もちろん不満に思う事や上がろう(=ファンを卒業しよう、追っかけをやめよう)と思った事も多々あった。
しかし彼らの最大の魅力は良くも悪くも「変化し続ける事」と「ファンを裏切る事」である。
何だかんだと文句を垂れ、貶しては「やっぱりムックは最高だ」と舌を巻く羽目になるからこそ、次の良い裏切りを期待して離れられずに、盲目的に好きであり続けている。
そして自身の周りの夢烏仲間も「だせぇwww」「無いわwww」「新アー写ぶっさwww」等と貶しては、生のパフォーマンスを拝んだり、新しい歌詞を読んで「やっぱムックいいわ…好き…かっこよすぎ…」と滂沱と溢れる涙を拭い、感涙に咽びながら新しい告知に躊躇無くクレジットカードを切っていた。
2008年夏にリリースされた19枚目のシングル、「アゲハ」。
このリリースをきっかけに、あるバンドのファンが怒涛のようにムックに流れ込んできた。
ムックと同じ事務所に所属する大御所バンド、L'Arc〜en〜Cielのファンである。
このシングルにはラルクのギタリスト、Kenが楽曲のプロデューサーとして参加している。
日頃ラルクの活動の無さに飢えているファンが、ラルクの片鱗を求めてムックの音楽に興味を持ったのだ。
ムックは元々、リーダーであるギタリスト、ミヤのワンマンバンドである。
幼い頃より音楽を嗜み、プロデュース、作曲、編曲等々多方面のマネジメントを行うミヤに対し、音楽のド素人から始まった他メンバー。技術的な部分から何から、3人はミヤに首を垂れ従い続けるのが常であった。
「メンバーもファンもひたすらミヤのご機嫌取りに徹するバンド」等とも称される事もあったし、夢烏を自認する私も事実そういうバンドだと自覚する。
なお余談だが、興味のある方は是非今年リリースされた「M」というインタビュー本をご一読頂けるといいだろう。
リーダーから何故出来ない、お前に期待しているのに、というスパルタ虐待親よろしく高いスキルを要求され、心身に支障を来たす者もいれば、トラブルを起こす者もいた、解散しなかったのが不思議でならないかつての殺伐としたムックが。
そして20年という歳月を経て、ようやく分かり合おうとし、ほんの少し分かり合えるようになってきた彼らの、ありのままの成長の軌跡が綴られている。
さて、そんなムックが、よそのアーティストにプロデュースを頼むだなんて。
当初は「は?ムックのサウンドが好きなのによそにプロデュースされるとか無いわ」という気持ちと「あのとんでもワンマンバンドがよそに力を借りるなんて、少しは丸くなったんだなぁ」という気持ちを抱いていた。
実際楽曲そのものは、これまでのムックには無かった新しいテイストが組み込まれ、彼らの「多様性」に新たな1ページが加わったなぁと感慨深かった。満足であった。
しかしそのシングル曲が含まれるアルバムツアーから、ライブ公演に違和感を覚えるようになった。
「アゲハ」と、同アルバム収録のもう1曲のKenプロデュース曲「空と糸」のイントロで、何故か、黄色い悲鳴が上がる。
V系というジャンル柄、ファンは盲目的に思い入れを持つ曲が各々あったりする。また歴史を重ねるごとに、昔の音源はだんだん演奏頻度が下がる。
そうした中で、たまにいわゆるレア曲を演奏したりすると、イントロの時点で泣き出したり、歓喜の絶叫を上げるファンは沢山居た。
何ならこのツアー中は100%演奏するし、シングル曲故に今後もセットリストに組み込まれる可能性は非常に高い。
私はただたた首を傾げる事しか出来なかったし、周りの夢烏友達もそうであった。
その正体に気付いた時には、奴らはすっかりムックに居座っていた。
あれは忘れもしない、某年の恵比寿リキッドルームでのライブ。
早めに着いた私は、グッズ販売の待機列で友人を待っていると、数人程前にやたら声の大きい2人組が和気藹々と歓談していた。
V系のファン=バンギャもある種のキモオタなので、声が大きいのもよくある事だと、会話をBGMにTwitterを眺める私の耳に、信じがたい台詞が飛び込んできた。
「ムックはチケ代が安いから、ラルク待ってる間の暇潰しにはコスパがいいよね」
「Kenちゃん、ゲストで来てくれないかな。Kenちゃん見たい」
先の台詞は百歩譲って許そう。
いくら盲目に、宗教的にバンドを愛するバンギャと言えども、複数のバンドのファンを掛け持ちする事はザラだ。
特に本命バンドの活動が乏しい場合、あの爆音の非日常空間が恋しいあまり、他のバンドに手を出す事はしばしばある。
そして本命バンドと比較して、やっぱり本命バンドが一番好きだという実感を改める事は私も多々ある。
ムックが一番好きな人達ばかりのアウェイ環境で、よくもまあ大声でそんな事がしゃあしゃあと抜かせるものだと少しイラつきはしたものの、気持ちは分からなくもない。
しかし猫も杓子も二言目だ。
そう言うのならばKenソロのライブに行けと。公演が無いならばDVDでも観ていろと。チケットに書かれた出演者をよく観ろと。貴様の目は節穴かと。ムックにラルクの片鱗のみを求めているのかと。
音楽シーンにおいて特に興衰の激しいヴィジュアル系というジャンルでは、新たなリスナーの獲得が今後の生死を左右する。だから、新しいファンが、殊に音源やグッズを購入し、ライブにまで足を運んでくれる存在が増えるのは大歓迎だ。
それでもムックの純粋なファンではなく、ムックを通して結局ラルクしか観ていない。カードだけ剥ぎ取られて、開封もせずに捨てられるプロ野球チップスのようだと感じられる、ムックが本命バンドの自分からすれば侮辱としか思えない発言だった。
気持ちは分からんでもない。ただせめてこの場においては、まっすぐにムックを観てくれないものか。とにかく不愉快で悲しくて仕方が無かった。
しかしムックは、みるみるそれらのファンを増やし、固定させていった。
その後もKenのプロデュースの機会も増え、ラルクメンバー絡みのイベントに参加し、オールナイトイベントなんかにも出るようになり。いつかの2人組が望んだ通り、ワンマンライブにゲストで現れるようにもなり。
気付けば、スタンディングのライブで友達とはぐれた時、自分の周りにいる人間は知らない空気を纏っていた。
先述の通り、私はファンが増える事は喜ばしく、歓迎すべき事だと思っている。
以前はモッシュピットに棒立ちで、ぶつかられ露骨に嫌そうな顔をしながらも近くで見たいからと動かない、危なっかしい新規ファンも居たが、最近はムックのノリに慣れたのかそんな人間も見かけなくなった。
ムックそのものをちゃんと観に来ているファンが増えた実感もある。
しかし、あれからずっと変わらずKenプロデュース曲で上がる黄色い悲鳴。
チケットのファンクラブ先行受付がある度に、既存の夢烏同士の規模を圧倒的に上回る人脈での人海戦術で、人数の何倍も申し込んでは、ひたすら身内に、余れば興味の薄い人間にまで回されるチケット。
「ムックは昔から、皆仲が本当に良い」「ボーカルさん可愛い、女の子みたい」「リーダーさんが人を殴るなんてありえない」という、誤解を超えて定着してしまった新しい解釈。
そして何だかんだ言っても結局、Kenが関わる話題が上がっては「Kenちゃん来ないかな」。対盤で未発表枠が告知されては条件反射で聞こえる「絶対ラルクでしょ」。
何より許しがたい、「今のムックの動員や売り上げは、ラルクに支えられているようなものでしょ」という、あまりにも乱暴で横柄な認識。
そして自分達が総意であり真実であるかのように振る舞う。いつしか私も、仲の良かった旧来の友人達も、周りを念入りに警戒してから遠慮がちに感想をぼやくようになった。
もちろん、いいファンと悪いファンがいるのは重々承知しているし、それは旧来の夢烏にも言える事だ。
それでも、メンバー間のトラブルや修羅場があったからこそ生み出された過去の楽曲やパフォーマンス。そして背景としてそれらがあったからこそ、紆余曲折と凄まじい努力を経たからこその「今の彼ら」が在るのに、「今の彼ら」しか切り抜かれていないようで悲しく思えてならない。
V系における2ちゃんねるのような某掲示板で、貢ぎやセフレ要員として簡単に繋がりを持てると、繋がり入門麺とまで称されたメンバーに対して、手放しで可愛いだの聖母だの褒めちぎる。
バンドの運営をほぼ全て自分を中心に回し、ステージでミスしたメンバーや段取りの悪いスタッフを一切の遠慮なく睨み付け、手や足を出す事もザラだった、田舎のヤンキー気質の抜けないワンマンリーダーを、優しいだのと聖人君子のように捉える。
先述のメンバー程よろしくなかなか女関係が汚く、今やすっかりほうれい線の強い老け顔に対してただただ馬鹿のひとつ覚えのようにかっこいいを連呼する。気持ち悪さが売りであり、コールアンドレスポンスとして罵声が求められるパフォーマンスに対してきゃー可愛いなどと場違いな歓声を上げる。
元よりお馬鹿キャラではあったものの、立派な一人の成人男性としてオフショットでは煙草を吸ったり、平均的な態度振る舞いである事は容易に見て取れるのに、そうであると押し付けんばかりにひたすらバカわいいなどと称する。
昔の楽曲も好きだけれど、暗いから最近の曲の方が好きだなどと抜かす。
汚い部分もひっくるめてのムックは今時のファンの中では息絶え、やがてムックの中でも無かった事にされるのだろうかと、一抹の寂しさを抱いた。
ファンの在り方は様々だ。貶し愛と呼ばれる、極端なツンデレのような愛し方をする者もいる。ガチ恋と呼ばれる、本気で結婚したいと考え必死に札レターを贈る者もいる。アイドルのように無条件に可愛いかっこいいと愛でる者もいる。
ムックが本命バンドの人間もいれば、他のバンドが本命だという人間もいる。
必死な人もいれば、緩く追っている人もいる。
十人十色、千差万別。色んな愛し方があって当然だし、「多様性」を強みとするバンドならばファンも多様であっていいと思う。だからこそムックは、色んなものを身につけ、色んなものを培い、色んなものを味方につけて、色んな道を歩んできた。
とりあえず、これからもムックに金を落とし続けてくれればそれで結構なので、頼むからせめてダイブする時は柔らかい靴で・アクセサリー類は外す・髪は括る・ステージにもフロアにも余計なアピールをせずさっさと転がって降りるの4点くらいは徹底をお願いしたい。
それと人海戦術チケ確保も程々にして頂きたい。激戦チケットとの交換カード用に、自分にとっては余計なチケットを申し込んで転売するのもほんとに勘弁して下さい。
あーあ、やっぱりラルクソ居なくなって欲しいな。何だかんだ言ったけど、やっぱ存在が無条件にただただムカつくし気持ち悪いわ。
さん付けとかたつえちゃん呼びもきしょいし、下手くそな小学生の夏休みの工作以下のお手製土産(笑)を「声かけて下さい!」とか拡散してるのも本当にきしょい。
それもラルクソの文化?男性アイドル追っかけてる夢女子腐女子のオタ中学生みたいですね。
ガチ恋も増えた臭いけど、やってる事だけじゃなくて身なりもオタ中学生みたいな糞ダサデブスだし、見た目も繋がるためのお金も何の努力もしてないから本当に見苦しい。
せめてまず痩せろよ。1人で2人分くらいスペース取ってるデブ本当に殺意沸く。
何食ったらそんなデブになるの?何処かの相撲部屋に所属してるの?ちゃんこが美味しいのは仕方ないだろうけど、ここは土俵じゃないんですよ。
万が一にも動員落ちたら1人でチケ20枚くらいは買い支える気持ちでいるから、ここらで一発ムックには炎上してみて欲しい。
子供は二人。上の子は自閉症の診断あり。下の子は自閉症かどうかはよくわからない、というかたぶん違う?けれども言葉の発達が遅く、なかなかに育てづらいタイプの子。
妻が上の子の問題に気づくのは早く、1歳くらいにはもうおかしいと言っていた。
増田は初めての子で、他に乳児と積極的に接触を持ったことがなかったし、自分の子に障害があるなんて夢にも思わないので、まぁこんなもんだろ、と思っていたが、両親にも発達の問題を指摘されたことで、
「おぉ。そうか。妻が正しいのね。こいつには問題があるのか。」と認識。
実はその前に、妊娠中にもいろいろ問題があって、もっと重篤な奇形かもと言われたこともあり、
というよくあるパターンには陥らず、
「発達障害ってやつなのはほぼ間違いなさそうだな。じゃあ、どうすりゃいいのだろう。」
と素直に考えられた。
と、いうことで、amazonで本を買って、インターネットで情報収集して、自閉症の早期療育の親の会に 入った。
本の著者の医師の診察を受けるために県外の病院を受診し、地元の地域の自治体の療育センターも受診。
早期療育親の会の本を参考に家庭で療育を開始。自宅から1-1.5時間かけて毎週療育エージェントにも通い始めた。
小学校入学を控える現在、彼のIQは100を超え、日常生活で困ることはほぼない。
社会性の問題は多少あるのだろうが、もはや彼を見て自閉症だと思う人はいないだろう。
そして、下の子。
健常なのかなぁと期待していたが、明らかに言葉が遅く、また発音が不明瞭。
この子もか…と思い、上の子同様県外の専門医にも地域の療育センターの医師にも診てもらったが、お二人とも自閉症とは違うようだ、という見解。
しかし、同じように行かない。
家庭での療育も全然思うように行かないし、エージェンシーでのトレーニングも何かあんまり効果があるんだかないんだか。
逆に、幼稚園での他の子との関わりではいろいろと良い刺激があるよう。
そんなこんなで、今も毎週5日間働きその次の日は療育エージェンシーへ行く。
上の子での通所終了から下の子の通所開始までに数ヶ月はあったけど、その時期もまた別のところに通わせたりしていたので、こんな生活になって、もう3年以上だ。
週休2日のうち、もう1日は休めることもあるけれど、今は子供たちが夏休み中なので元気ならそれはそれで遊びに連れていかなきゃならん。
普通に5日働いて、翌日はいつも通り療育へ。高速使って車で。少し渋滞があったので行きは1.5時間ほど。昼ごはんをファミレスで食べて、療育中の待ち時間はPC開いてお仕事。帰りは渋滞なしで1時間くらい。
帰宅したら連れていった下の子が発熱しており、妻が解熱剤のませたり夜の看病。
診察待ち会計待ち処方待ちで疲労が蓄積。
午後はもともと予約してあった上の子の眼科の受診。自閉症で診てもらっている先生に斜視を指摘されてご紹介いただいた眼科さんで、これまた遠い。高速使って1時間くらい。
そしてこの眼科さん、評判が評判を呼び激混み。待っている時に座るところがないくらい。
検査待ち診察待ち会計待ちを終えて、また1時間かけてようやく帰宅。はぁ…
俺は良い父親だ。沸点高いので基本的にあまり怒らないし、稼ぎはたいして良くはないが悪くもない。
タバコは吸わないし、家でお酒を飲むことはほぼないし、かといって外で飲む機会も月に1回あるかないかくらい。
これといって趣味もなく、休日はほぼ子供達のために使っている。
別に無理してやっているわけではないし、遊びたいわけでも飲みに行きたいわけでもないんだけど、体力がなくて貧弱なのでもう少し休みたい。
そんで、休みを休むことに使えるのであれば、例えばジムとかで運動して健康的になりたい。
でも、今の状態では、ただでさえ疲労困憊で鍛える余裕なんてない。
健康維持のために運動するのって、体力と時間に余裕がないとできないのな。貴族のたしなみだな。
子供を持つとこんなことになったり、生命保険額を上げなきゃいかなくなったり、家を買うか、とかなったり、いろいろ大変だ。とても大変。
あぁ、でも違うな。やんなきゃいけないっていうんじゃなくて、やりたいんだよな。
だから俺がやりたいだけなんだな。
あれだ、ほら、マザーテレサとかもさ、もちろん偉いっちゃた偉いんだけど、あの人はああいう生き方を自分がしたいだけとも言えるじゃん。
親もそういう感じだよな。聖人じゃないので他人の子供は知ったことではないが。
そしてこれは、物語が進むごとに超人になっていくハル(まあもとからそうなんだけど)も聖女でも聖人ではなかった、ただの東京のJKにすぎないんだよ、という提示でもある。
これは本当にそう思う。
ハルだって千葉とのコミュニケーションを拒否している時点で、聖女でも聖人でもなく普通の東京のJKなんだと思う。
増田が言う通りハルには千葉を相手にしてやる義理なんてない。けれども、千葉には確かにハルにこだわる理由があった。ハルもそれを理解して、その上で千葉の手を払いのけた。
そして最後のルペちゃんの教育が千葉にとっての救いになっているところも完全に同意するところ。聖女はハルでもキヨリでもなく、ルペちゃんだったんだなと思う。人を変えるなんてことは常人には能力的にもモチベーション的にもとても不可能なことなのに、それをやってのけている。
千葉の気持ちがわからんでもないひとりのクソオタとして、千葉についての雑感を以下に記す。
政治的な観点からの物言いは極力さける予定だが、そう見えるだろうなというところもあるので注意。
また特にオチはなく、そしてネタバレは一切回避していない。未読者は即ブラバされたし。
実は、ともったいぶる必要もないのだが、実際のところ千葉はハルにマジ惚れしており、それが千葉というキャラクタに深みを与えている点はけっこう興味深い。
千葉は従前にも説明した通り、異世界転生(転移)チートハーレム無双モノの主人公をメタったキャラだ。
そういう観点に立てば、キヨリも【千年に一人レベルの美少女で、主人公(千葉)に強く惹かれており、従順な性格でもちろん処女(初登場時はフェラすら知らない)】という異世界転生(転移)チートハーレム無双モノのヒロインをメタったキャラだというのが見えてくる。
雑に(本当にひどく雑に)ノクタでやる異世界転生(転移)チートハーレム無双ネタとしてこれらの要素を考えるなら、前世で陰キャラとして鬱屈した人生を送った千葉は、転生した異世界で成長促進+その他のチートを得ることによって勇者となり、最高の美少女であるキヨリをゲットして男に成り上がる。
ハルも含めた三角関係として見るのであれば、前世を象徴するヒロインとしてハルがおり、異世界を象徴するヒロインとしてキヨリがいる。そのふたりをハーレムの一員としてゲットすることによって千葉は前世の鬱屈を解消しつつ、異世界でウハウハする――みたいな話になるわけだ。
「俺、アイツのことなんて何とも思ってねーから。誤解すんなって」
「誤解って何よ? あたしも知らねーし。断るにしても付き合うにしてもあんたの勝手なんだから、あたしをダシにすんなってムカついてんだよ」
(中略)
「え、いや、なんで怒ってるの? だから俺、ハーレム攻略も順序が大事だと思ってるし、最初の女は元同級生で奴隷メイドのハルで決まりと思ってるし……」
(チーレム主人公である)千葉からは、美少女キヨリの登場に(ツンデレキャラである)ハルが嫉妬したように見えている(もちろんハルはそんな千葉がただただウザく、そんなこっちの気持ちを解さないことにムカついているだけだが)。
(普段はこういうチーレムモノを愛好する)俺は、ある種のお約束を逆手にとる作者一流の諧謔をここに見る。
さて、ここで注目しておきたいのは千葉がキヨリにさほど興味を示さない点だ。彼は明らかにキヨリ<ハルの論理で動いており、なんならキヨリがモーションをかけてきたことをネタにハルを釣ろうという、キヨリのことをただのエサとしか思ってないフシさえある。そしてそれがまたハルをムカつかせる(ちばはじつにばかだな!(ドラえもんっぽく))。
この傾斜はチーレム主人公のメタキャラから明らかに逸脱しており、ある種のご都合主義だと言える(本当にキヨリとくっついてハルの前からいなくなってしまうと話に絡められなくなるという作者の都合)。
ただこれは作内でちゃんとケアされており、それが千葉はハルのことが本当は好き、という点なのだ。
もともと千葉とハルがこの異世界にやってきたのは、暴走トラックに揃って轢かれたせいだが、ハルの視点から見ると
そのときすぐ教えてくれれば避けれたかもしれないのに、わざわざ私のとこまで走ってきて抱きついてきたせいで、2人とも死んでしまって異世界まで吹っ飛ばされた
となる。
となる。
千葉のこの叫びは流れをちゃんと追っていくと中々に壮絶で、初めて読んだ時は、
いやー……。ほんとさー……、千葉さー……、お前さー……、馬鹿だよ。なんでさ、ハルのことを理解しようとして自分のことを理解してもらうようにコミュニケーションとれなかったんだよ、そうしないとわかってもらうなんてできるわけないだろ。でもさー……、俺はお前のその気持ちわかるよ。陰キャだもんなあ、教室の中心で輝いてるようなイケてるJKに自分の本心なんてなかなか打ち明けられるもんじゃないよなあ、相手は自分たちのことキモオタって言ってたんだもんなあ、無理だよなあ、言えないよなあ、ほんとその気持ち、わかるよ。
てなことを思いましたまる。
というところで終わらせてもなんなのでもう少し続けると、これは千葉が【俺が生命をかけて守ろうとしたんだからハルは感謝すべきだ、そして異世界で成り上がる俺の側にいるべきだ】という子どもじみた欲が破綻した瞬間だ。これによって千葉とハルは決別する。
千葉サイドの論理でこの瞬間を斬るなら、(千葉より圧倒的にコミュニケーション能力に長け、千葉を批評するほど状況が見えていた)ハルだって俺(=千葉)の気持ちに気づいてフォローしてくれなかっただろう、となる。
もちろんハルにそんなことをする義理はなく、批判されるいわれはない。けれども千葉がここで暴発してしまう論理は物語の中にちゃんと担保されており、千葉は意味なく怒っているわけではない。千葉の理屈や感情を理解することで共感してやれる余地は残っていて、千葉はただクソミソに叩かれるサンドバッグとしてここに存在するわけではない。
そしてこれは、物語が進むごとに超人になっていくハル(まあもとからそうなんだけど)も聖女でも聖人でもなかった、ただの東京のJKにすぎないんだよ、という提示でもある。
『JKハル』は、ハルをとにかく称揚し、千葉をとにかく叩くような物語ではないのだ。
レベルキャップによってチートに陰りが見え、ハルやキヨリとの関係も破綻した千葉はその後、ルペちゃんに教育されるようになる。
「確かに童貞くささはまだ抜けきらないけど、言われたことぐらいはちゃんと出来るようにはなったよ。ハルちゃんもキヨリちゃんも、千葉くんのこと育ててやるつもりなかったからか、自分で工夫するってこと知らなかったんだよね。だから私は、まずは立場から教えてあげたよ。優しくしたり、叱ったり、甘やかしたり。ほんと時々はぶったりもして、それから泣くまで褒めてあげたり。あとセックスの後はだいたい不機嫌になったふりして、自分の何が悪かったのか考えさせたかな。根は真面目だし、一つのことにハマれば熱心になる子なのはわかってたから。今じゃあの子も私のこと『ママ』って呼んで甘えてる。素直にはなったから、最近はちょっと放置と無視の期間を設けて、自分でもっと工夫して私の気を引けるように様子見してるとこ。お金は持ってるし暇な時間もあるようだから、いろいろ貢いでくれるよ。だけど、私って物よりは愛情が欲しい人だから。お店の前で土下座くらい出来るようになったら、褒めてあげようかなって思ってるんだ。えへ」
土下座のくだりはさすがにどうかと思うが、基本的には泣いてわめく程度のコミュニケーション能力しかない赤ちゃんの千葉を、ルペちゃんママが教育してあげている話だと言って良い(「千葉くんのこと育ててやるつもりなかったから」とハルとキヨリが直球で批判されているのも面白い)。
俺はここに救いを見る。
『JKハル』は男尊女卑の世界で超前向きな東京JKがサバイブする話だが、その主要な価値観として、相手とコミュニケーションを取ろうとせず自分をおしつけてばかりやつはクソ(男女関係なく)というのがある。コミュニケーションをとって相手のことを思いやりわかり合おうとするのを是とする世界において千葉は圧倒的に弱者であり、それがルペちゃんによって改善されていく。彼は今後、少しずつコミュニケーションが取れるようになって、本当の意味での友人、そして恋人ができるときがくるかもしれない。少なくともその可能性はしっかりと開かれた(番外編ではそんな千葉の活躍が描かれた)。
第一に人間には(例えば日本人には国法で保証された)人権があるのだけれど、じゃあそれって常に守られてるかって言えば守られていないよね。
殺人事件の被害者は死体になっちゃってるけれど、彼には生存権がなかったかと言われれば、あった。茨城の自殺で自殺しちゃった子供にも、人権はあった。だから「人権さえあればいい」というのは誤りで、あったとしても誰もがそれを意識して守らなければそんなものはないも一緒なんだよ。
第二に、人種差別や性差別は、いま現在ではそれが「悪いことだ」とされていることでも、ちょっと前までは日常的に行われてきた行為がたくさんあるよね。「A子さんもそろそろ結婚しないと困る歳よね?」なんて会話は、地方では本当に日常的に行われていて、おそらく言ってる側も悪意なんて特にない。このケースは言った側に人権侵害の意図があったわけじゃなくて、人権やら差別に対する知識/認識が足りてないから起きたケースだといえる。
第一と第二からわかるのは、人権っていうのは、それを学ぶのも、意識するのも、守るのも、非常にコストがかかるっていう事実だよ。一般的に暮らす人は、毎日おびただしい数の人権侵害をしている。しかもそれが侵害だっていう意識もとくにない。
人権の意味と意義とそれの守り方を学ぶのは、それこそ哲学について修士できるほどの学習コストがかかるし、日々の生活の中で何の侵害もしないようにするのは聖人クラスの気遣いが必要だ。「そんなことないだろ普通の暮らしをしていれば、他人に迷惑をかける事なんてないはずだ」って言う人は、ただ単に見込みが甘いだけで、むしろそういう人ほど、学習コストを払っていないだけの、無自覚の加害者である可能性が高い。友人同士の日常会話も含めれば、人間は、多かれ少なかれ侵害をしているんだよ。
個人的な感想で言えば、そういうふうにお互いの権利を少しづつ侵害し合うのは、完璧な生物ではない人間にとって仕方がないと思う。多少のことは目をつぶり、相手が苦痛を受けてたら素直にごめんなさいをする。目に余る部分は改善していく気持ちを持つ。そうして社会生活を送っていけば、それで良いとは思う。それは人権や差別の問題に、人生が終わるまでの間、人生のすべてを投資するという意味ではなく常に考え続けて、そういう世界と付き合っていく覚悟を必要とすることなのだけれど。
しかし、一部の原理主義的な人、今ある混沌に耐えられない潔癖な人が、「自分よりも分かってない」人々に対して「いいからこの規則を守れ!」と言い出すものがポリコレなんだよ。
ポリコレはある種の言葉狩りであり規範なので、人権のそもそもの成り立ちに対する理解や、歴史的経緯に対する考察とか必要ない。メリットで言うならば、人権に関する高コストな学習をしないでも、表面を取り繕った秩序を社会にもたらすことが出来る。
しかし一方で、人権の概念やその必要性に対する理解なくただ振り回す棍棒にも堕しやすいわけで、そりゃあ当然マウンティングの道具にもなる。
この件に対する増田の(そしておそらく、良識派の多くの人の)誤解の最たる点は「人権の概念や成立やその運用や問題点について学ぶことは、相当高コストだ」っていう一点にあるんだよ。だからこそ廉価版/劣化版のポリコレなんてものが登場したし、いまも一定の用途で(例えば政治家の公開発言や、企業の広報などで)利用されている。