はてなキーワード: 因習とは
自逆風自慢、というのはたぶん、「謙遜してる」つもりなのかもしれません。
読んで字のごとく愚かな妻だけれど、これは自分の伴侶=奥さんとなった人を本気で貶めているわけではありません。
婚姻した時点で、夫婦や親子は身内なので、身内は他人に話すとき、下げて話すのが良しとされています。
たとえば、社外からの電話で、自分の上司あてだったとします。その場合は「○○は席を外しております」などと言います。
上司でも自社の人間については、役付きも敬称をつけない。それと同じ感覚です。
「外に対して内をへりくだる」と表記されている小町があったのでリンクしますね。
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2016/0621/766839.htm
ですので、もう結婚して籍を入れたカップルは、自分のパートナーについて、この「身内=へりくだる表現」をします。
お子が生まれたら、どんなに内心天使と思っていても、夜泣きが大変ですよーとか言われたりするでしょう。
出来がいい子供でも、近所の方の前で褒めてくれず、むしろ良くないかのように言われるのは、「身内=へりくだる表現」です。
それはそんな事思ってもいないのですが、過剰な謙遜が、良しとされる不思議な因習ではあります。
幼少時にそういう表現をされて、自分は親の期待に応えていないなどと思うのは、実は違う場合もあります。
話を戻しますと、愚痴のように思える言葉も、ただの「身内=へりくだる表現」であり、
まぁ幸せぶりを見せつけるのも上品じゃないので、嫉妬されないようにという気持ちもあるのかもしれないですが、
愚痴に思えるような内容の話も、真に受けないでもいいかもしれません。
本当に愚痴&不満があるなら暗い表情でしょうし、そのあたりは個々の見極めかなぁ。
でも結婚式という因習の概念がこの世から消えてなくなってほしい。
1.ダルい
式場の下見とかプラン選びとか招待状とか云々
やってる暇ある?貴重な休日潰すなよ。
スマ婚とかいって楽にできるよ~みたいなプランもあるけどそれすらダルい。
歩いたってケーキ切ったって盛り上がらねーだろなにが楽しいんだよクソ茶番
3.家庭環境が複雑な人どうしてんの
入念な準備のもと盛大に結婚式を挙げたカップルの3組に1組は離婚。
どっちかが片親で…て場合とか気まずくなんないの?
うちの例を挙げると、親族や親同士の仲はめちゃくちゃでとても一堂に介せないけど
子としてはどちらにも良くしてもらったので親の再婚相手も呼びたいし実親も呼びたい。
どちらかを呼ばない式なんかやりたくない。
4.金が無い
これが最強の理由。
やるとしてもちょっとショボかったね~wくらいの結婚式しかできないだろう
そうやってチマチマ貯めた小金
普通に愛する伴侶との新生活に使いたいって皆さん思わないのでしょうか?
恋人はいつも式どうしよっか~みたいな話ししてくる。歴代の相手いっつもそう。
人の結婚式にだって正直知り合い程度なら金払いたくないし休み潰したくない。
親も親戚も会社の上司も友達も誰も彼も当然結婚したら結婚式をやると確信している
というか結婚式をやらないと貧乏人不幸可哀想サイコパス人間失格みたいな扱いしてくる
各方面それぞれ食事会やお礼送ったりなんかどうかなと提案してみてもハァ?みたいな反応
自分はマジで社会不適合者としてこのまま結婚せず死んだほうがいいのではないかとすら思えてくるよ
本当にこんな悪しき風習は滅んでくださいと祈る日々です。
下記は、両立支援・雇用平等関連資料・パンフレットダウンロード | TOKYOはたらくネットの資料です。
良いことが書いてあるので、是非読んでみてください。
http://www.hataraku.metro.tokyo.jp/equal/siryo/23saiyou04.pdf
例えば、障害者が応募できないとしている企業には一切選考も面接もせずに、先入観で「障
害者では仕事ができない」と決めつけてしまう考え方があるのではないでしょうか。
また、家庭状況(親の職業や兄弟姉妹のことなど)を選考・採用のポイントとして考えるこ
とは、親が大名ならその子はたとえ能力は低くても大名という封建時代の考え方とあまり変わ
「企業防衛上同業者の子弟は困る」、「自営業をやっている家の子は定着性が悪い」、「親の職
業がしっかりしていない家庭の子は、金銭を扱う仕事なので困る」といった考え方には、応募
者の基本的人権を無視することに痛みも感じない一方的な人事の体質というものがあるのでは
ないでしょうか。
企業にとって従業員を採用することは、その繁栄成長につながる大変重要なことですから、
単なる憶測や、予断と偏見に左右されない公正な選考というものがいかに大切であるかは、企
業経営者が一番よく御存知のことであり、強い関心をもっていることと思います。
「うちの会社の選考体制は、長い間にわたって改善を重ねてきたものだから大丈夫だ」と安
心する前に、同和問題をはじめとする人権問題についてどの程度認識しているか、正しく理解
もし、十分に認識・理解していない場合には、やはり予断・偏見といったものが残存してい
以上のことがらを点検するためのチェックポイントは次のとおりです。
② 雇用条件・採用基準に適合するすべての「人」が応募できる原則が確立されています
か。
③ 次のような人を排除しようとしていませんか。
ア 同和地区出身者 イ 女性 ウ 障害者 エ 母子家庭や父子家庭の人
オ 定時制・通信制課程修了者 カ 外国籍の人 キ 特定思想・信条の人
ク その他(高齢者、HIV感染者等、刑を終えて出所した人、破産者など)
④ 応募者本人の適性や能力以外のこと、例えば、親の職業や家庭状況等を採否の基準と
していませんか。
⑤ 採用方針、採用予定の職種や人員が計画的・合理的に定められていますか。
守るべきことがら
考 え 方
https://anond.hatelabo.jp/20170916180720
「共同体のルールは尊重すべきもので差別ではない」と言う人がいる。
しかし因習という言葉で示されるような差別的なルールは、元増田が示したように現に存在する。確かに私たちからすれば、それは差別である。
とはいえ、それは今自分らが属する共同体から見た意見であって、実際には共同体同士の意見の相違、西欧に端を発する価値観に身を浸した自分らが勝手に「差別だー」と言えるだけかも知れない。その定義からして差別であることに違いはないにしても、その共同体には差別以上に大切なことがあるのかも知れず、それを無視して私たちの価値観を押し付けるのもいいことなのかどうかわからない。
そういうふわっとした文脈で見るならば、この問題は「差別するのも自由ね」ということではなく、「その風習が「差別」だとしても気にしないある共同体の価値観」が尊重されている、ということになる。つまり単純に、差別云々よりも優先される大きな枠組みがある、ということだ。
話は変わるが、「男女は違うのだから区別は必要だ」などと言いながら無根拠なジェンダーロールを押し付ける人がいる。これは一つの例えで、「◯◯は区別で差別ではない」ということを言う人が、そのじつ差別をしていることは多い。だから、差別と区別は根本的に同根だと主張することには「あなたが区別だと思っているそれは差別かも知れませんよ」という啓発の意味がある。実際問題、区別する以上はそこに区別する意図があり、その意図が区別される側からすれば不利益を被るものである場合、更にそのことに区別する側が無自覚な場合(事実、往々にして無自覚である)は、こうした啓発には十分な意義がある。
しかし、差別と区別は違う。何が違うって、単純に言葉が違う。区別=差別と考えることは(ある意味で)わかりやすいかも知れないが、それでは人類皆差別主義者となってしまう。「生きるのは罪なことだ」と嘯いているうちはまだいいが、そこから「だから私も当然差別をする」までの論理的な距離はゼロである。「差別」という言葉で告発されるべきアホみたいな現実は山ほどあるし、それは生きる上で「区別」することを避けられない人間において、それでもこりゃあないよと言いたくなるような、一線を超えたものである。
ちなみに、以上のような話題になると、「私も当然差別しているが、差別していることを自覚している」という人が現れる。自覚の有無で人間としての高貴さを測ろうとするこのタイプは、実のところ、自分の差別-区別スキームを他人に押し付けているだけで、過去の人たちが作った「差別」という言葉には興味がない。その「自覚した差別」を「区別」と呼び、「無自覚な差別」を「差別」と呼べばいいだけなのに、なぜか自分の用語法に拘る。それは、彼らが本当は差別に興味がない、あるいは差別をなくそうとは思ってないからだ。「差別がなくならない世界を知っている私」を誇っているだけである。
長々と関係あるのかないのかわからない話をしたのは、「差別する自由」というのは、「差別がなくならない世界を知っている私」のどうでもよいアピールの亜種でしかなく、本当にクソみたいな話だと思ったからだ。別にそれだけなら勝手に言ってろという話だが、改めて言うと、そこから「だから私も当然差別をする」までには何の論理的な手続きも必要としない。その結論を止めるのは、ただ現実にクソどうでもいいことでアホみたいな差別されて不利益を被っている人の声を聞くことだ。
がんばれクソども。
子供プログラミング教室の生徒にすら負けそうなエンジニアが会社に大勢いる。
そもそも世界的に有名なIT企業は日本に1社たりとも存在しないときた。
そもそも、日本の何がしょぼいって、IT業界のみならず、日本の超非合理的な社会がもう終わっている。
今時、長時間労働することが正義みたいな根性論まるだしのバカな国は日本くらいだぞ?
そんなことしなきゃ会社がまわらないなら、もうビジネスモデルがいけてない。さっさとたため。働いているやつはさっさと辞めろ。
人がいないだと?それは後程語らしてくれ。でも今の国賊政治家がバカのひとつ覚えのように老人に金をばらまく。老人様の長寿推進に税金をがっつり投入しておいて、少子化放置プレーじゃ未来はもっと人がいないぞ。老人は溢れかえるがな。
無益なヒエラルキーとか本当無駄。年をとればとるほど、頭を使う仕事ができなくなってくる。
もう固定観念でしかものを言えない。いい年をとったおっさんが精神論語りだしたらそれは論理性がゼロである証拠だ。今すぐクビにしろ。
本来、これから必要となってくる分野に多額の税金を使ってでも注力していく必要があるが、政治家という名のデストロイヤーはもう老人がかわいくてかわいくてしかたがない。老人に税金使うことと、税金狙いで無益なものを建てたがるハイエナ建築業界ね。地方創生とか、人口減の前に全てが無意味。まず少子化どうにかしろっての。
先進諸国(日本は違うぞ)はSTEM領域に集中投資して、人材の育成に励んでいる。STEMって何っていってるやつはググれ。
日本は因習的すぎて、既得権益をなんとか生きながらえさせようとそんな無益なことばかりだ。
しかし、ITこそ優秀な人材が投入されるべき業界なんだ。現実はそうじゃない、
まずは優秀な人材を確保しなくてはいけない。でもどんどん年寄りだらけになっていっている。。。政治家がバカすぎて、高齢化を望んでいるときた。なんでこんな意図的にこんな社会を作っておいて暴動がおきないのか不思議。
おっと脱線したが、アメリカとかEU内の国は移民や難民もくるが、それをプラマイゼロにしているかどうかはわからないが、expatsと言われる専門技能を持った優秀な人間を世界中から集めている。
国内だけじゃ優秀な人は限られる。でも世界からその知能を集めれば、日本もまだいける!
と言いたいが、日本じゃ無理。誰が好き好んでこんな(政治家のせいで)衰退まっしぐらな日本で働きたいのか?日本語の勉強するぐらいなら英語の勉強するわ。
というわけでこれは無理ゲー。
日本でできることと言ったら多分、これ。
昔から日本だと、いや、今でも優秀な人の中には医者、弁護士、これらの仕事を選ぶ人も少なくないだろう。
まず医者。医者の数は最低限でいい。病院行ったって老人だらけ。そんな老人に薬ばらまいて長寿社会作るくらいなら、医者なんて目指さずIT業界に来てくれ。
おまえら利益主義の医者が税金むしりとって、やみくもに寿命引き伸ばした結果が今の日本だ。今の老人の寿命とひきかえにまじで日本の社会が死ぬ。
だから医者を減らして安楽死施設を導入しろ。20年前にできていてもおかしくないのに、今なお存在しない。
弁護士。これもそのうちAIによって置き換えられるだろうから、そんな将来どうなるかわからない仕事をやるくらいならIT業界に来てくれ。
会計士も結構優秀。でも弁護士以上にAIによって仕事がなくなるぞ、今すぐやめてIT業界に来てくれ。
待ってるよ!
三木谷はいいやつだぞ、楽天の中の人にはな。ただ空気が読めないから失言もするし、大目に見てやってくれ。
話は変わるが、楽天かっこいいじゃん。
これを読み終わる頃にはAmazon派だったおまえも、すっかり楽天派に変わっていることだろう。
なんか新聞の折込チラシを見ているみたいでワクワクするじゃん。もう死ぬまで暇つぶしって老後の人間にはたまらない。
使いにくいだと?
そんなもん、慣れだ、慣れ。もうストレス感じなくなるまで楽天で何か購入してくれ。
意味はある。今までそういった流れがなかった中で、前例を作ったんだ。
いいことも、悪いことも事例として残るなら、社会的にはメリットだと思う。
ただ中の人間は無益さ感じているがな。当たり前だけど、英語なんて、適材適所で使うべきものだわ。あとTOEIC800程度じゃ糞ほどの役にも立たない。
あとここだけの話、そのへんの日本企業より因習的だし、The 日本企業だと思う。
なぜなら、
IT業界とかどれもこれもぱっとしないし、国内だけをターゲットとしているものばかりだし、
メーカー系は軒並み潰れていくだろうし、
そもそも労働人口減少を問題視するんじゃなくて、因習的で非合理的なことを良しとする時代の変化に対応とれない爺婆が無益すぎるヒエラルキーによって権力を持っていることが最大の問題だと思う。そのバカなおじさんによって成り立つ非合理的な組織のせいで、1時間で終わるようなことを1日がかりでやるはめになり、無駄に人手が必要になることが問題だと。
先日、フランス人のカップルに出会って、いろいろな話をしていたところ、
若い世代間において、支払いは基本フランスでは割り勘だという話を聞いた。
男女は常に平等であるという概念と、自立心を持つ女性が増えていることが要因のようだが、
話を聞いていて、非常に納得できた。
そりゃそうだ。収入面だって、男だけが努力して勉強し、収入のいい会社に入るわけではないし、そういった概念は、女性が働いていなかった時代の名残でしかない。
日本は因習的だし、あらゆる非合理性に対して何の疑問も持たず、当たり前だからという理由でそれを行う。
だから社会通年的な概念がいつまでも古臭いし、ビジネス面では新興国にどんどん抜かれていく。
メディアはバカだから、若者のなんとか離れとか言って、時代の変化に価値観がついてこれていない。
日本ももう少し論理性を持って、思考し、もっと社会的に成熟してほしい。
遅れているって自覚がないから、クールJAPANだのおもてなしがすごいだの自画自賛に走る。その姿は本当に醜いし、成長の意思すら感じられない。暗に落ち目であることを自覚している表れだと思う。
理由はこの時代に、日本で子供を産んだ場合、自分たちの問題ではなくて、子供の未来が心配だからだ。
なぜなら自分の世代ですら将来の年金等の社会保障に疑問を感じるし、これから生まれてくる子供はさらに厳しい時代を生き抜かねばならない。
政治家も少子化対策をする気配すら見せないし、本当日本は老人だけの国になるんじゃないかと皮肉を言いたくもなる。
これからの世代の保証ばかりを削り、老人には手厚い医療制度、と介護制度。その結果幸か不幸か寿命も伸び、さらに長い期間保証し続けなければならないという悪循環。
そりゃいくら税金があったって足りないよ。日本は資源大国ではないのだから、そのしわ寄せは常に現役で働いている世代だ。
いつまでも病院にダラダラ通い、生にしがみつく年寄りを養い介護するためだけに子供を作るとか、思いたくはないが、そう感じることもあるし、今の日本に子供を生むという行為に対して親として責任をとる自信がない。勉強をがんばって未来ある国(があるかどうかはわからない)で生活できるかどうかは当人の努力次第だが、リスクが大きすぎる。日本の社会に絶望して働く意思をなくし、ニートになる確率のほうが高いんじゃないかとも思ってる。
子供が大人になり、自分たちに介護が必要になったとき、子供はまだまだ現役で働かねばならず、介護すら受けられない。保証もない。
悲観的で本当に申し訳ない。
でも日本の政治って革新的じゃないというか、社会が因習的だし、今の問題を抱えたまま崩壊するまで大きな変化は起きないんだろうなと思っている。
すいません。愚痴になってしまいましたが、日本の社会に悲観し子供を作ることができない家庭があるということを知ってほしかったです。
文化大革命は中国共産党主導による中国の倫理論の変革だ。下層階級を党主導部が利用し、寺院や仏像などの古来の文化を破壊する事件が相次いだ。多数の死者をもたらしたとされる。
中国の文化大革命は主に政府にとって目障りなインテリ層を中心に粛清された。技術者・富裕層、一部の農民・・・そしてそのような政治劇が1976年まで繰り広げられた。そしてこれは、実は日本ではいつ起きてもおかしくないのかもしれない。
日本の中にある貧困崇拝は非常に内向きの古臭い発想だが、これが日常生活の中に持ち込まれたのが日本版ラテン思想だろう。これはまさに文化大革命時の毛沢東思想に近い。文革期の中国共産党の富裕層に対するの敵対意識と、現代日本のインテリ・富裕層叩きは、私には非常に類似点が多いと思うのである。
日本のこういった発想は、とある大学生によると富裕層でない階級で青年期を過ごした人間が富裕層になり、彼らの振る舞いに不満を抱いた人の思想が広がったことに由来するという。この思想はそもそも古くない考えである。私の知る限り、2000年当時にはありえない考え方であった。
それ以前の日本(今でもそうかもしれないが)は金持ちを目指すことが美徳とされ、貧しいことはむしろ恥ずかしいことであると言われていた。ちなみに、この考え方は2010年代前半ですら通用した常識である。
私は月に1000円~2000円払ってロト6やロト7を買っており、億単位の賞金が当たることを見越して様々な研究をしていると、富裕層叩きを見るたびにないと思う。昔は無機質な中間層と違う趣のある文化に憧れていたが、後で知ったのだが、今増えている富裕層は最近まで中間層は貧乏人だったもので、もともと富裕層の資質がなく、富裕層叩きのメインターゲットとされている人達だ。
今日本各地に行くと、そういう外国水準の所得単位での分別すら無理になっている。文化面での貧困化が徹底されている。デモ行進を見ると、以前は都市部だから許されたような右派系の排外デモがある。中国で外交危機があって反日デモがにわかに活発化したのと同じだろう。
実際街頭で往年の宗教勧誘のように日当を対価にデモ行進に参加させるケースも増えている。地方都市に多い。現在起きているデモ行進などは思想の左右問わずに日当で集めて頭数をそろえているのが多数であるというのが現実ではないだろうか?
中国人は過去に同じことを難解も経験していることだからそれを熟知しているんだろう。だから日本人の私はこんなことは発言をしたくないのだが、2017年、日本でも「文化大革命」が起こるのだろうと、ガックリしてしまうのである。トランプ政権になってからアメリカが日本と同じ道を辿り始めたように、70年以上平和を守り続けた日本が、中国と同じ道を辿ろうとしてる。
日本にノンポリ層が健在であることが救いだ。毀誉褒貶ある。こういった精神すべてを賛同することはない。あの地域には外国ではPC問題になるような文化が多すぎだ。しかし私は、世界で当たり前の対応のできる者が健在であることにほっとする。「政治的中庸がいなければ日本は存在しない」と言われるほどの現状がどこまで持つのだろうか?
オタクの姿勢もかっこいい。この集団は、昭和末期時代からも宮崎事件の余波で権力とたたかった。反骨姿勢は今も生きている。彼らについては私も言いたいことはあるが、それでもこういうことは本当にスゴイよ。
一方、非ノンポリ階級の対応はよくないよね。でもこれは「腑に落ちて」しまった。彼らは多数派になりつつある。日本を見てほしい。強い先祖返りを髣髴とさせる。一人ひとりの威圧感も凄まじいが、実際にデモにいくと左翼や右翼の兵隊みたいな感じが不気味でしかない。
この日常を経て、キビキビと「塩生活」に明け暮れる彼らがファシズムの片棒を担ぐわけだ。ノンポリは非国民と。逆に強烈なイデオロギーを持つ層は、左翼や右翼を見ると「ホッ」とするわけだ。日常を感じるから。
プロ市民のイデオロギストっぷりは私も批判し続けているが、ついにマジでノンポリを嫉視するようになってしまったんだなあと、本当にガックリきてしまう。ある意味、戦争前夜臭くて不快だったが。
私は民主主義そのものの社会的価値は否定しない。事実70年以上も守り続けてきているし。それ以上に豊かな生活にあこがれている。1995年に両親の転職(貧乏職から転身!)で関西から関東に越してきたとき、新しい生活に胸を膨らませた。1990年代から2010年代までオタクとしての経験もある。家族代々鉄道好きでもあった。
しかしそのような「豊かな」暮らしを経験した私だからこそ、その風情とか肯定的な表現を守ること、また新しく築くことはあっても、根本にある負の因習は打破しようと、そう訴えたいのである。守る価値のない因習を拒否し、破壊する発想が必要だ。残念ながらそれと矛盾するのが、「所謂畳精神化するアメリカ」であり「日本の文化大革命の兆し」ではないか。本当に私に未来はあるのだろうか。
日本人に問いかけたい。貧乏人だらけの国と同レベルの発想に恥ずかしく思わないのかと。君たちの憧れる今では黄昏の国の日本は江戸幕府をぶっ壊して新しく国を作り、経済的・科学的・文化的豊かさを受け入れたのではないかと。そして、そもそも何故貧乏を恥じ、お互いに豊かになることを目指したか考えてみよと。
近いうちに21世紀版の文化大革命が日本でも起きる。願わくばそれが起きないように努め、万が一起きても自分自身が巻き込まれないようにしたい。
最近の文化人はサブカル系であろうが自由や個性を追求しないし、因習とたたかうことはない。むしろ逆で、愛国ポルノを煽ったり、抑圧主義を美化したり、鉄道オタクですら呆れる観光列車を好き好んで乗るほどだ。
だから日本の文化を好む人は例え外国の流れが含まれていてもまだ「島国日本のガラパゴス情報空間」の洗脳に否定的で、それを敬遠する進歩的層と言える。が、そこでも結局、所謂畳精神などの日本的古典性と矛盾するような本家版や世界版で当たり前の価値観はすべてゴッソリと検閲され、日本的枠の中に押し込まれてしまうのはあんまりだ。
乗り物オタクだって、例えば車やバイクはたったの10年前まで暴走族の名残があったし、鉄道でもアングラ文化的な根強い考えがあって、右翼スキャンダルから分かるように反PC構造にオタクが翻弄されたりもする。しかし、だからこそ、オタクは自由を追及し、因習とも権力ともたたかってきたのである。
アメリカであればマドンナの「ホワイトハウス爆破したい」発言を冷笑する感覚と、日本であればサブカルの凋落に違和感を持たない感覚、権威主義感覚、封建主義に固執する感覚、愛国ポルノを煽る感覚、抑圧主義を美化する感覚、鉄道オタクですら呆れる観光列車を好き好んで乗る感覚、全部同じだ。
「鉄道好きを撲滅せよ」「私鉄は東京から出て行け」という鉄道社会構造そのものの否定のような暴論、「ポスト管理社会主義」という現代人権感覚そのものの否定のような暴論、「サブカルを根源ごと潰せ」というカウンターカルチャー完全否定、右翼を「普通」だと思い込み、それを批判する発想の方がおかしいと嘲笑うアレ・・・全部全部、同根であり、全世界からドン引きされる島国日本性なのだ。
その先を突破する必要がやはりある、と思う。権威思考でなければならない。整然としてなければならない。たとえ地方人でも車やバイクは自転車や歩行者より優先されなければならない。例え車やバイクが嫌いでも大人として認められるために免許証を取得せざるを得ない。この道以外の選択肢があるだと宣伝している政治だって、ゴールは一通りしかない。
平成末期の、21世紀に生かされていると思いきや、実際には中世のような途方もないくらい後進的な価値観がそこかしこに幅を利かせていて、家父長制的なイエの構造やサブカル排斥的思想が、会社を包み、社会を包み、学校を包み、日本国や日本人そのものをくるんでいてその長に今の政治がある。これ全部把握したうえで対抗勢力がなきゃまずいよ。
例えば文筆業の私が小説を書くとするなら、現代日本をベースにした作品であれば、車社会と軍事政権で身動きの取れなくなった鉄道オタクがロードバイクで車を蹴散らし、鉄道オタクそのものが気に食わない権威階級をビビらせるような、そういう表現を考えるだろうね。
ファブリーズの件もそうだが、今の日本は「超潔癖主義」に蝕まれすぎではないかと思う。くさやが臭いのは誰がどう考えても事実なので、地元はこのCMに便乗するくらいでいいと思う。
何かにつけて「地域差別ガー」というバカにはあきれてしまうが、つまるところ地域の抱える不都合な事実を外部が指摘することを拒絶するけつの穴が小さい子供である。それこそ、彼らの好きな言葉を借りれば「言論弾圧愛好家」ではないか。文化や社会には二面性がある。
私が生まれて間もない頃の話だが、1980年代~1990年代の鉄道文化が洗練されていたという話題がSNSや掲示板で流行している。はっきり言って、不良が巣を作りそうな文化がそこにあったわけだが、それでも鉄道ファンは誇らしく思う。「鉄道王国」も日本文化だと自尊心を持っているはずだ。
本来文化・社会性とはそういうものではないか。2000年代の新自由主義旋風だって文化や科学技術などの高度化の裏に犯罪の高度化や富裕層人口のインフレの問題もあった。2010年代も1960年代の再来のようなのムードの裏に貧困問題があった。オートバイブームの裏にはシビアな封建もあった。
オタクが今日社会全般で受け入れられているという。あれといえば、昭和の負の遺産にもかかわらず迷惑者が誰も輩出しなかったことを「世界に誇る日陰者」と自画自賛する書き込みが拡散されたことが多くの人に衝撃を与えたものだった。案の定、オタク自身の努力で出世が実現するとスゴイ発言まみれになった。
冷静に考えてほしいのだが、同じ大衆の同胞であるべき人達がそれと村八分にされる時点で、そもそもすごくなんてないのである。そもそもオタクとは昭和時代の学歴社会化実験の失敗に伴いヤンキーと共に発生した負の遺産である。本来ここで必要な発想は、負の歴史として再発防止策を考えることであり、恥かしく思うべきことである。
仮にもしオタクがすごかったとしてもそれは個人個人がすごいのであってオタクはすごくないのである。社会が立派だったとしても、それは日本人の寛容性のことである。もしあなたが大衆の一員であれば、さほど無関係ではないか。
私は「オタクスゴイ」とそっくりな問題を抱えているのが「マイルドヤンキー」ではないかと思っている。地方のリア充の話題が出ると、なぜか不良とこじつけた話題が出てくる。不良とは縁のない人でもヤンキーのように扱われる、あの変な社会の空気である。
当たり前だが、リア充すべてが悪人なわけではない。大体ヤンキーの本来の意味は実は汚い。もともとはアメリカ人の白人を罵る言葉として生まれたものだ。ジャップと同じ意味合いでアメリカ人が「ヤ○○」の言葉を使うものとしてとらえてほしい。
マイルドヤンキーに代わる言葉はあるだろ。とんでもなくダサそうな文化を謳歌しているのは一握りの地方民のうちの一部とか、不良経験者だけではないかと思う。あのグダポンの撒き散らす固定概念への批判としてもいうが、私は地方を何度も見てきたが、北関東でもマイルドヤンキーなんて一握りの数しかいなかったよ。
そもそもマイルドヤンキーの言葉の根底に都会人による地方人への偏見がある。車好きを例に挙げるまでもなく、外国には日本人が思い浮かべる都市部の人間は殆どいない。むしろマイルドヤンキーの特徴として挙げられる、「買い物先でショッピングセンターに依存している」人は日本を出れば都市部ですら腐るほどいる。国土全体で鉄道依存社会が成り立つ国は、日本を除けば、オランダみたいな地形に恵まれる地域やシンガポールのような都市国家以外にない。
私はこの潔癖の究極が「子供」至上主義だと思う。日本人はみな車嫌いで鉄道好きというおかしな風潮も、子供のために嗜好を装う仕草だという。必死すぎる。大人な人は、それが普通ならしょうがないと受け入れるべきではないか。一番ひどいのは私鉄だ。
子供は日本人の美徳だと、道徳的な人を表す言葉として普及しているが、これはあの押しつけがましい「道徳」と同じうさん臭さを感じて、私は不気味に思っていることである。子供って要は非現実的理想の追求であり、病気だ。
そもそも日本の私鉄社会の根源は鉄道の公有化の失敗だとか戦争の連続による財政難だとか、歴史上におけるネガティブなものの副産物である。今でも「幼稚」とかいう。それはつまり堂々とした対等な存在としてリスペクトするものではなく、結局これは子供なる年齢を使った言葉で「恵まれない現実にある人達」を見下している、前時代的な、差別を連想する表現である。
欧米圏を見ればわかるように、鉄道は弱者というか、つまりよそ者、あるいは貧乏人や弱者のためにある公共施設であって、所得関係なしに使うことをよしとする、ましてや商売の道具としてみなす日本はおかしいのである。
一昔前ですら日本ではここまで「子供」はうるさくなかった。子供は大人らしい事由で成熟した男女を目指した途上段階であり、気づけば加齢で大人になっていた、あるいは10代ですでに見た目も中身も大人同然という人もごろごろいて、それがわずか15年ほど昔までの常識だった。
あるいは「リア充な美しい大人は好きですか」というように、青年性を脱した兄や姉であるべきだった。正しさではなく「美しさ」が評価された。この美しさという言葉自体清潔を意味するもので今の異常な潔癖主義に通じたのも、もちろん事実ではあるけどね。
特定の環境を聖域化し、あるいは特定の人を「聖人」化してみなし、それを潔癖性を極めた発想とともに崇拝し、潔癖と反する不都合な事実を見て見ぬふりをしたり、あるいは無理してでも隠蔽させようとしたり、それを指摘する存在を許さない、あの感覚。グダポンの言葉を借りればこれは畳精神である。
昔の高校を題材にした作品から黒髪すっぴんさんの描写を削減し、わざとそうでない人を代わりに差し替える。これも聖域を作る発想に由来することではないかと思っている。
その点、例えば私が韓国の学生をみて感動をしたのは、日本において学生というと黒髪が少ないイメージなのかもしれないが、実際には黒髪のおりこうさんが多くいたこと、そういう風潮がそこかしこにあったため、他人に緊張することがなかったからである。
バスの停留所で会話したローカルの若い女性は、なんかお茶目で、自分の生活圏にやってきた外国人を楽しませようというホスピタリティがあって、ものすごく魅力的だったが、やっぱり大人でオタクで、至上主義のない国のほうがよほど大人も魅力的だなと感じたのだった。
これは地方にも言える。マイルドヤンキーの連中なんてありゃ「普通のリア充か重度なオタク」だ。オタク?ってくらい偏執的で、大衆らしさに欠けている。いわゆる元ヤンさえ良くも悪くもリア充らしさがない(事実、彼らが外国に行くとサブカルオタク扱いになる)広い意味での問題なのだ。
日本に出てくるテレビのタレントには個性らしさがない。オタクがいない(例外はあるが)。根っこからのおりこうさんであることを売りにした俳優・声優がいないし、変わった趣味を売りにする者もいない。誰もがそうなるありのままもないし個人差もない。
これは、日本人の一定割合。どちらかといえば韓流ファン経験のある人たちで、同じくマイルドヤンキーか学がありそれなりに品格のあるような人が、ものの感じ方の成熟が遅れたことにあるんじゃないか、と私は思っている。子ども時代や貧乏なときは誰もが感性が幼稚で極端な理想を抱くものだ。
しかし、大人になり、10代になり、豊かになれば、あらゆる体験を通して現実を知るというか、様々な存在を知って、自分自身の肉体と考えの成長もあって、そういう非現実な理想を一度捨てることになると思う。代表が大学生における運転免許取得ラッシュだ。「免許取得者は学のない人のほうが多い」とか「都会人は一生免許と無縁」の虚構に気づく。
私達ネット原住民的には中二病とか高二病とも揶揄される、つまり冷笑主義にも陥るのだが、その現実・実在、不都合性を含めた事実の中にある魅力に気づき、そこから新しい夢を見出だしたりするのが、普通の諸外国ならハイティーンか遅くても20代で経験する段階で、日本人もかつてはそうだったのではないか。
そういうわけで、高学歴だろうと、立派な社会的地位にいようが、年齢が中高年だろうと、マイルドヤンキーと変わらないような潔癖主義の理想を振りかざして現実を拒絶したり自由な創造表現のユーモアを叩くあの感じは非常に納得がいかない。幼稚な人が多すぎる日本の現実がほんとつらいです。
(韓国などの例外を除く)外国のコンテンツは、優れた表現ほど徹底的に不都合な現実・事実に向き合っている。だが、それをただそのまま描いたり、不穏に誇張するだけではなく、そこから楽しさや夢を見出だそうとする傾向があると思う。その際にはお堅い因習を破ることになる。
だがその独創性の第一段階にある「お堅い因習を破ること」を全力否定するのがグダポンのいう「畳精神」であり、右派や私の言う「コリアニズム(文化的右傾化)」である。つまりどんな理不尽でもそれがしきたりで、その空間では聖域性を守るために自分が屈しなきゃいけないし、適応しない他者は咎めなきゃいけないという枷を兼ねた同調圧力も発生する。韓流ブームにものすごく親しんだ人ほど危ない。
ティーンエージャーになる前の現実離れした理想主義(と、それを理想を向けられた側がそのまま受けとめなければいけないということ)に畳精神やコリアニズムはとても相性がいいのである。新しい幼稚な感覚と、古い老いた因習をコラボさせると、アニメや漫画か特撮ドラマかビデオゲームまがいな、子供だヤンキーだという狂うジャパンがあふれるのである。
私が現代の日本はともかくとして一昔の韓流・華流コンテンツを敬遠したのは、アメリカのコンテンツとは違い、理想主義を極めたあのディズニーでさえ、そのテーマパークや映画などに「不都合な現実を受け入れた上でのイマジネーション」がないからだ。理不尽なものを批判的に描くこともなく、拒絶せずにそれを受け止めることすらしない。現実逃避ありきなのだ。
私の記憶する限り韓国や中国のテレビドラマやアニメには、日本人がネガティブ過ぎるとして驚いた自転車乗りの姿が描写されていない。1990年代や2000年代(2010年代)に日本型の暴走族が話題になったが、それを風刺するような作品は出てこない。当たり前だが韓国人や中国人のオタクを風刺するような作品もない(日本ですらオタク風刺作品はあるが)
そういう子どもたちはこうしたコンテンツの変わりに漫画や小説(ライトノベルを含む)やゲームのいかれた様子を見ることで、それを教訓にすることができるわけである。日本の作品で言えば喧嘩番長や龍が如くに出てくる「不都合な現実を誇張した」不健全で卑猥な日本の風景も、実は意外にも理想や夢とどこか通じるものがあるし、その中にもやはり社会に対するメッセージもある。
そう考えると、欧米程でないにしても自由な創意工夫性は日本においてはなんとか健在であり、その自由表現の娯楽を通して成長につながることもできたりし、その上でまた新しい夢が見れるというのが、本当にすごいと思っていて、韓国や中国にもそういうクリエイティビティを獲得するには、まず日本同様に現実至上主義と畳精神の解体を加速させることが必要なのだ。
子どもが横でスヤスヤ寝てるけど、この子が大きくなる20年後30年後、日本と世界がどうなってるのかって。
少なくとも日本は、アホのようにくだらない習性または因習が再生産され続け、遅効性の毒ガスとして充満してる。それがはてな含めネットで日々可視化されて、この社会の空気は無色透明ではなくて、薄っすらあるいは濃厚に紫色であることが、自分のような普段能天気な人間にも嫌になるほど見えてくる。歴史的あるいは文化的には好きなところがたくさんあって、知らない人に親切にされて嬉しいことも多いのに、そういうことと紫色のガスは、表面の皮を少し剥がしたところで、互いに切り離せないほどばっちり癒着し、太い血管で繋がってると思うと、心の底から悲しく、ガッカリする。
表
多少嫌なことがあっても、少しも顔に出さずに相手を気持ちよく迎えること。
おかしいことにはおかしいと言って、正義に基づいて徹底してそれと戦うこと。
ミスの指摘を受けたら、自分の主張はともかく相手の身になって、それを素直に聞き入れること。
裏
何かおかしいなと感じても、何となく空気を読んで、その中身を真剣に追及しないで無言の同意を繰り返すこと。
おかしいと感じたら感じたで、丁寧な対話ではなく、メディアを使った一方的な攻撃を相手が崩れるまで続けること。
あるいは、本当は少数しかいないそうした過剰な攻撃者や、それに反射で賛同する中身の乏しい声を怖れ、信念のわからない無難な火消しをいくつもの企業が行うこと。
この対比は実際雑で、それ自体なら悪くない表が、必ずしもこんな残念な裏として現れるとは限らない。それでもやはり、往々にしてこのように裏返っているのを感じる。
もちろん、こんな気分はかなり昔から、"その時代の20-30代"とか、何かのきっかけでモヤっとした誰かが、その時代なりに感じてきた気分なんだろうから、おそらく別に新しいことではない。とはいえ、2016年に現実にこのように生きているのが自分や家族なのだから、昔と比べて新しくない→なのでそんなことは気にしない、とは全くならない。
もう既にひと通りの教育は受け終わってしまったし、自分の内面もかなり固まってきてて別に勇気もないし、経済的な自由度も下がってるけど、それを理由に諦めて、物事がダメになっていくのをただ見送るのだけはやめる。
別にトランスジェンダーではなく身も心もおっさんだけど、最近何故か女装したい。
だって女性の服かわいいじゃん?別に姫系に限らず30代向けのでもさ。
デパートやショッピングセンターに行ったらレディースコーナーばっかでそれこそ様々な年代・層に向けた服が色々あるじゃん?
落ち着いた色合いのでも明るさあるし、すっげー羨ましい。
メンズコーナーってそもそも少ないじゃん?
で、そこからさらに系統を絞ると「あぁはいはい、こんな感じね」みたいになるじゃん?
普段ファッション誌読まないしはやりとかわからんからショップの中に入ると
「うわぁうわぁ何の組み合わせが良いのかわかない、そもそも今の服ってショップに入店して良い服なの・・・?」とか
考えながら色んなモノをすり減らしてるけど、結局テンプレおっさんスタイルが出来上がる。。。
そうじゃねぇ、俺も「アレも良い、コレも良い、どうしよう…」みたいなショッピングして、
家の中でキャッキャッ良いながらファッションショーしたい。
でもお化粧とかいう毎日行う必要がある賽の河原のような無駄な作業は全力でお断りします。
※肌の寿命を延ばすとか肌荒れをケアするとかの基礎化粧品の類いは別
「化粧しないと失礼」みたいな謎の因習が世の中には存在するみたいだけど(※そのくせ何故か高校までは禁止されている)、
今日先輩のFBを見ていて思ったことをつらつら述べてみようと思う。彼女曰く「〇〇という本屋が閉店となってしまうそうです。活字離れが問題で、出版界はかなり厳しい状況下に置かれているそうです。だから云々」という部分に関して少し違和感を覚えたのである。例えば、この部分「活字離れが問題とされていて、出版業界はかなり厳しい状況下に置かれている」という部分。まずは「活字離れ」というのは何のことを表すのだろうか?もしそのままの意味で受け取るならば、「活字離れ」というのは「文字離れ」のことを意味するのでは、と考え少し調べてみると「活字」に関する明確な基準は無く曖昧な定義であった。このままでは話にならないので、「活字離れ」イコール「文字離れ」と仮定する。そうすると、あら不思議、「活字離れ」と言うのは実におかしい言葉だとわかるのである。例えば、僕らが日頃から接しているツイッターやFB,ネット記事に至るまで、すべてが文字情報で、みんながつかう「LINE」だろうと、僕らの周りをとりまくすべての情報が文字でまみれているのである。そう考えると、「活字離れ」「文字離れ」なんてものは存在しないのではと思ってしまうのである。
また、彼女の話の中で、「活字離れ」が問題とされていて、出版業界がかなり厳しい状況に置かれている、と書いているがこれはとんでもない事実誤認であることがわかる。何故かと言うと、出版業界を衰退にみちびくのは「読書離れ」であり、「活字離れ」では決してないのである。おそらく出版業界が倒れそうになっているのは、昔からある出版業界の古き因習によるものであると推測しているが、この話をすると長くなりそうなので止めておくことにする。そこで、今回の本題に入ると、「若者の活字離れ」が叫ばれている中で、それに反論するような形になるが、おそらくこの「若者の活字離れ」は勝手に頭のわるいおっさんどもがこじつけでやっているに過ぎないと思っている。しかし、そこに関して堀さげることに意味があるとおもうのでやっていようとおもう。彼らが、「若者の活字離れ」を叫ぶことによって、我々若者に求めていることとしては、「本という紙の媒体を見る」という行為を我々若者に強いたいのである。ではなぜそれを強いたいのか。それは次回のお楽しみである