はてなキーワード: 因習とは
「君の名は。」を観た。映画としては面白かったが、監督の東京至上主義的発想がにじみ出ていて気分の悪い作品だった。以下ネタバレこみでどこが気持ち悪かったか書く。
まず、三葉が飛騨に住んでいるのに東京の話ばかりするところが気持ち悪い。飛騨は一応岐阜の一部であり東海地方である。テレビも名古屋のニュースが入るはず。ならば、まず三葉が向かうべき都会は東京ではなく名古屋のはずである。もちろん、東京と名古屋では都市の規模に明確な差があるけれど、「カッフェ」はたくさんあるし雇用も最低限はある。実家の様子を見に行くことを考えれば名古屋に就職するという選択肢も考えられるはずで、そこがすっぽり抜け落ちているのが不思議だ。小説版では三葉が名古屋のことを「大きな田舎」と表現する場面があるらしいが、当たり前だが飛騨よりは名古屋のほうが何倍も都会だ。三葉たちが困っていたのは「カッフェ」がないこと、雇用がないこと、訳のわからない因習があることだ。それらから逃れるためだけならば東京ではなく、岐阜市なり名古屋市なり富山市なり近くの地方都市に引っ越せばいい話である。(岐阜や富山は雇用が少ないかもしれないけれど)三葉が「田舎」を脱出したいという気持ちはわかるが、その向かう先が「東京」である必然性は感じられなかった。
次に、三葉たち糸森村の若者たちが最終的に三人とも上京するというのが気持ち悪い。繰り返し書くが、三葉たちが「田舎」から脱出するなら名古屋に引っ越すという手段もある。それなのに三人が三人とも東京に出てくるのはなぜなのか?また、百歩譲って名古屋が飛騨と同じレベルの「大きな田舎」だとして、「田舎」に彼らが残らなかったのはなぜか?糸森が消滅したとして、その地元に愛着があるなら欠点はあれど飛騨に残るという考え方も抱けたはずだ。特にテッシーは親父が土建屋でその跡を継ぐという選択肢も考えられたはずであり、岐阜で就職することもできたはず。東京に行った三葉と地方に残ったテッシーという対比もできたのに三人とも上京してしまうというのが腑に落ちなかった。
そして、彗星が墜落したあとの三葉とテッシー夫婦以外の糸森町民の姿が描かれないのも気持ち悪い。町は半分くらい吹っ飛んだが避難は完了したはずで、三葉の妹やおばあちゃん、親父さんは生き残ったはずである。それなのにせいぜい三葉の親父さんが週刊誌に載ったことがわかるくらいで妹やおばあちゃんの後日談はない。あたかも彗星によって三葉たち以外の糸森町民は抹殺されてしまったかのようだった。また三葉たちは生き残ったが、糸森という文化は彗星墜落によって消滅してしまった。これは瀧が過去を改変する前も後も実は変わっていないように思えた。田舎の文化や田舎に残った人たちを瀧は実は救えていないのではないか。
(そもそもおばあちゃんや妹は生き残ったのかという疑問もある。ラスト付近で瀧が彗星の被害について振り返ったとき、彼は「突然の避難訓練によって、奇跡的に『ほとんど』の町民が生き残った」といった。この言葉からわかるのはあの彗星墜落によって少なからず死者が出ていたということである。その死者の中にテッシーの親父や三葉パパや四葉が入っていた可能性も後日談が描かれなかったから十分ありうる。神社や土建屋といった「田舎の因習」の象徴である彼らを監督は観客にはわからない形で彗星で消し去ってしまっていたのかもしれない。)
①「君の名は。」の世界には「東京」と「ど田舎(=飛騨)」しか存在しないのが気持ち悪い。地方都市の存在を無視している。
②若者たちは必ず「東京」へ行かなければならず、彼らが抜けだしてしまった「ど田舎」は描く必要がないという思想が気持ち悪い。東京は必ずしも「地上の楽園」ではないし、若者たちが抜けだしても飛騨に残った人たちの生活は続いている。「田舎」は「東京」へ向かう若者たちの踏み台ではない。
この二つは監督の「東京至上主義」から出てきているのではないか。東京以外に日本に都会はなく、あとは全て「田舎」である。「都会(=東京)」は素晴らしく、「田舎(=東京以外)」はくそったれであり、若者は必ず上京しなければならない。自分は新海監督のファンではないので彼が今までどういう映画を撮ってきたかよくしらない。だけど、「君の名は。」を自分なりに解釈するとこういうメッセージがあるように思えて仕方ない。そしてこの発想は「東京以外」にすむ自分としては非常に気持ち悪い。セカイ系だなんたら言われてる人らしいがその手の批判もむべなるかな、と思ってしまうような映画だった。
・追記
一部ブコメに返信
「miruna 軽井沢の田舎のボンボンにはTOKYOがあんなキラキラに見えるんだよきっと。ファーストフードの豊かさを無視してブルジョア高校生がクソ高いカフェでお茶してトラットリアでバイトするんだから。」
これは全くその通りだと思います。自分がなんでこんな増田を書いたかというと恐らく新海監督は長野のご出身(それも関東圏にかなり近い)なので都会=東京なんですよ。彼の原体験にはど田舎(長野)と都会(東京)しかない。近くに札幌や福岡、名古屋のようなそこそこ都会な都市がない。だから地方都市をぶっ飛ばして若者がみな東京にすい寄せられていく話を書いたんだと思います。でもそれは福岡や名古屋、札幌のほうが東京より近いエリアでは微妙に事情が違ってくるはずなんですよね。だから本当はご自身の出身である長野東部を舞台にされたほうがしっくりくると思います。
「Phenomenon あんだけ飛騨を美しく描いてるのにその解釈②はないんじゃない」
この点については「星の降る夜に”『君の名は。』(ネタバレ) - 私設刑務所CHATEAU D'IF http://chateaudif.hatenadiary.com/entry/2016/09/09/232626」というエントリーが自分以上にわかりやすく解説しています。
“ 新海誠本人の田舎への郷愁は景色のみで、ヒロインの言う「都会に行きたい」、東京大好きが本音というところだろうか。彗星には世界が滅びる鬱映画『メランコリア』的な破壊衝動も感じる。人が死ぬ必要はさらさらないけれど、場としての田舎は滅び去れ! 災害描写は3.11メタファーなのだが、滅びるのが予言通り、みたいな乱暴さもあり、ババアの教えや伝統芸能が、街が救われることプラス自分の恋愛のために存在した、というのはすごいナルシシズムだ。 ”
“ ヒロインや友人ら主要登場人物はみんな東京へと去り、親以上の世代のその後は語られないあたり、まさに「親殺し」の物語であったとも言える。”
「メランコリア」は未見なのでよくわかりませんが、自分は「君の名は。」を観て「アクシズが墜落してしまった逆襲のシャア」みたいな映画だなあ、と感じました。人は死ななかったわけですが、彗星の落下自体を「奇跡」で回避できなかったということは、実はかなり絶望的な映画なのではないか、と。彗星の落下は自然現象ですが、その落下を設定したのは監督自身です。彼には田舎の人間(若者以外)を全て抹殺したいという願望があったのでは?少なくとも私は田舎に対する愛着は感じられませんでしたね。
とにかく自分は事実誤認(四葉や彗星の死者数)をたくさんしているということもわかったので、もう一度見返したいと思います。そしたらまた追記を書くかも
何日か前にもブログで書いていた人がいた。日本の慣習のなかのあるものにデメリットを感じて、「いらない」と思うものを挙げる内容だったと思う。
時代の移り変わりの中で、不必要とされたり、変更が必要な因習は確かにあると思う。
例のブログはそこまで至らず、自分が思う「いらない」ものをただ列挙するにとどまっている。だから中学生みたいな印象を受ける。
挙げた因習について、
①何故、今不要なのか? 不要たる社会的要因は何か(例えば年賀状は、インターネットで連絡が密になったために書簡による賀礼の重要性が低下したため、だとか)。
②あるいは、なぜ不要とも思える慣習が存続しているのか。慣習のメリットは。
③廃した場合どういう影響があるか。
④現実的に廃止するにはどういうアクションが必要か。期間やコストは。
というような要素を検討して、実現可能か論じないと意味がない。
そこまで妥当な思考を出来ないと、あの文章をブログにする意味がない。中学生でも、あるいはだいたいの大人でもふと思うことだからだ。
そこから突っ込んで、何が今の社会で必要で、何が不必要かまで考えなくてはならない。繰り返すがそこまで考えなくてはならない。あの文章を書くならば。
その思考をせずに、文章をネットに開陳して恥ずかしくないのだろうか。
色々ある、一見すると不要とも思える因習にも、何か意外なメリットがあったりする。
あるいは、廃することが妥当な因習でも、取り除くことが現今の社会では難しいものもある。
そういうところを吟味したブログを読みたいのに。一般人が書いているのだからそこまで求めなくても、と思う人もいるかもしれないけれど。
でも、ふだん働いたり学んだりするなかで、誰しもそういう知見って得られるのではないかと思うのだ。
ただ駄目なところを挙げるんじゃない、そこから思考することは誰もが出来ることだと思うんだ。というか今の社会では、思考力はかなり重要だと思う。
一般人だって自分の仕事や学業から考え、立論することが大切だ。
http://d.hatena.ne.jp/inumash/20160323/p1
ここに書いてあることはその通りで、シラク三原則と寺井校長スピーチは違う。
ところで、シラク三原則などフランス的価値観が日本にあうかというとそれはまた別問題だろう。
フランスの価値観は上記サイトにもある通り。女性の権利は最優先である。仕事をする権利は守られなければならない。子供も3歳から上は幼稚園というか学校(エコールマテルネル)に入るので、就業前と就業後に父親と母親が分担してお迎えすればなんとでもなる。あるいはシッター(ヌヌー)がやる(フランスでは小学生高学年くらいまで、子供一人で家にいることだけでなく外出することも法律違反なので、幼稚園~小学校の送迎が必要)。日本の幼稚園と違って、4時くらいまで面倒を見てくれるし、無料だ。面倒を見るというか授業してるけど。まあ、まずはこれが成立するために週35時間労働制だとか安くてたくさんのアフリカ移民を主体とするベビーシッター(フランス語を話せないこともまれではない)が必要になる。
しかし3歳まではそれもなく、保育園(コクシネル)は競争率が高いしお金もかかる。そのため、子供はほぼヌヌーさんに預けっぱなしである。パリの公園で平日の昼に観察しているところによると、彼女たちヌヌーさん(男女平等・差別禁止が徹底されているはずのフランスで、なぜかヌヌーさんのほとんどはアフリカ系女性だったように思う)は子供たちが遊具で遊ぶのを遠巻きに眺めつつ、みんなで集まってベンチに座ってタバコを吸ったりマックを食べてだべっている。
実際ヌヌーさんに預けるというのはどういうことなのかとフランス人に聞くと、それはやはり不安なことはある、とは言うのである。
しかしそれでも預ける。なぜか?女性が働かないなどというのは考えられないからのようだ。そちらのほうが優先だからのようである。
日本からの赴任家族では、当然ながら(?)奥さんは働いていないことが多い。それを知った時のフランス女性の不思議そうな顔つき、「ずっと家にいるの?へぇ~」という反応を見るに、これは女性の選択の自由を尊重しているように私は思えなかった。日本では子供がいる母親は働かず家で子育てをした方がよいという暗黙の圧力があるのと同じように、フランスでは子供がいても母親は外にいて働いているはずだという暗黙の圧力があるように感じたのである。私はこれは「自由」の名のもとに行われる別の因習的社会であるように感じた。
まあ、それはそれでいいのだ、不思議なことではない。世界のどこかに理想郷があるわけではないのだ。あるのはバランスであり、フランスでは子供が母親とずっと一緒にいられることよりも、母親が仕事をして自己実現を続けることを選んだところ、(因果関係は分からないが)出生率が向上したらしい。社会がどれを選ぶかの話であろう。正解と誤答があるような話ではないと思う。
ドイツ人に、ドイツはどうかと聞いたことがある。ドイツでもやはり女性の労働は権利であり、その程度は日本よりもずっと強い。しかしそれと同じくらい、子供が小さいころは母親は家にいて子供の面倒を見るべきだという社会的意識も色濃く残っているそうだ。それはまた母親の多くもそのようにしたいと思っていることでもある。また、出産後一年以内に仕事を再開しようとすると、あなたそんなことをして子供はかわいそうではないの??という周囲の目があるのだそうだ。ちなみにドイツの出生率は日本と同様に低い。
フランスは経験談だがドイツは伝聞である。出羽守ではあるが、真実を含んでいないとは思わない。日本はどの方向に向かうべきか。フランスの方向に向かうのは不可能であると思っている。
iettyいいよietty。糞みたいな因習にとらわれてる、ヤクザしかいないような日本の不動産業界で唯一まともな価値観で行動してる人たちだと思う。
実際iettyで成約して、その家に今住んでるわけだけど、半年経ってみてつくづくここで契約して良かったと思う。iettyがどのくらい正論言ってるのかということについては
iettyのオウンドメディアでヤクザと既得権益者をこき下ろしてる痛快な記事を読めば分かると思う。
成約の流れとしては
- 条件を入力。
- チャットでやりとり。
- 内見の日がそのうち決定する。
- 内見に行く。
- 後日チャットで契約したいか、したくないかとか、もっと見たいとか、気が変わったとか伝える。
それぞれいいところを書いていきたい。
なんでfacebook?て思うけど、自分はほとんど使っていない垢があったのでそれを使った。メールでも登録できるので個人情報とかに敏感な人も安心。
- 条件を入力。
口頭で伝えるよりも100倍性格に伝わるし、情報のロスが少ない。
- チャットでやりとり。
実際に提示された物件を見て、「そういえばこんな条件も必要だった」とか思ったらそれをその場で相手方に伝える。
口頭での会話だと、別の作業しながらやりとりするわけにはいかないが、新しい条件を不動産屋が入力して、それをこちらに見せてくれるまでにも時間がかかるわけで、
そのロスが無い分非常にスムーズにコミュニケーションが進行した。
- 内見の日がそのうち決定する。
別に強要してくるとかそんなことは一切なく、こっちの都合を言えばその日が内見の日になったはず。
- 内見に行く。
- 後日チャットで契約したいか、したくないかとか、もっと見たいとか、気が変わったとか伝える。
口頭で「やっぱり思ったのと違ったので御社では契約しません」って言いづらいよね。
iettyならメッセージ一本で解約できる。そんなことばっかりだと向こうは困るんだろうけど。
ここまでネットにしちゃうと流石にmitm攻撃とか怖いし、契約はちゃんとマンツーマンで交わしたほうがいいと思う。これは前時代的かなあ?
以下、悪かった点
Chromeだけにしか対応してないと、社員のキレイなお姉さんが言ってた。今は対応してるかも。でもFF対応しないって、中の人の技術力は大丈夫なのかと不安になった。
そのうち各社こういうサービスが出てくればここの手数料も随分下がるんだろうけど、ちょっと現状他にマネタイズ要素が無いので難しいんだろうな。
平均的な家賃よりも2万くらい安いところに住めてるし少なくとも今のところは快適。
ただ、不動産みたいな大きな契約はそういうライトなやり方だとちょっと・・・という人が多くって、このサービスはあんまり流行らないのかもしれないと少々悲観的になっている。
でも東京に住んでる情強の方々は引っ越すとき検討する価値があるだろうなと。
普段は人目につくところに文章を置いたりしないので読みにくいのだろうけど、過小評価されているのがもったいない気がするので宣伝を入れて書いてみた。
1.はじめに、べつに誰かが結婚式を理解できなくても同性婚に問題はない。もし異性婚を理解できない同性愛者が存在したら異性婚制度も反対するのか?
加えて、「結婚」と「結婚式」も別物で、結婚はしたけど結婚式はしていないという異性愛の夫婦はいる。
結婚式を『したいというのが理解できない』というのを考えてみると、異性愛者が結婚式をしたいというのもまた理解が難しいのでは。
調べたわけではないが、結婚式という因習は人類が誕生した時からすでにあったわけではないだろう。
しばらくしてからある時点で結婚式という制度、因習が生まれたはず。
では、同性愛者にとってのその「ある時点」が現代だと考えることはできないだろうか?
「今までなかった」ということがすなわち「これからもない」ということではない。
因習にこだわる同性愛者も因習にこだわらない異性愛者もいる。そういう世界。
「車輪の再発明」とかでググってもらってもいいが、
他には、結婚式が「愛する者同士が結ばれる儀式」という抽象化をするとまさにピッタリだし、
根本的には「本人たちがそれをしたいと言ってるんだからすればいいじゃん」というのもある。
むしろ「結婚式をしたい」という感情は、性愛の対象が男か女かということに依存するのか?とも言えるかもしれない。
まず、「SM,グロ」が好きな人たちは異性愛と同様の地位を占めている。お互いの合意で結婚できるし、したいなら結婚式もできる。
『世の中には様々な性愛の形があって、人に相当の迷惑をかけない限りそれぞれ認められるべき』まさにそうだ。というか正直この文章の結論がそうだ。
そこまでいって、なぜそこで『なぜ同性愛だけが異性愛と同様の地位を占めるべきって主張できるの?』という方向に落ち着くんだ?
言ってあげよう。
「なぜ同性愛だけが異性愛と同様の地位を占めるべき"ではない"って主張できるの?」
「SM好きか。いいね、異性愛者と同じ地位だ、ようこそ。君はグロ好き?OK、君も私たちの仲間だ。動物好き?そういう意味で?いいね!こっちにきなよ!おっと同性愛者か、君たちはあっちにいってな。そして二度とこっちにくるなよ?」
なんでだよ!?
(余談。動物に関しては「種が違う」というのと「お互いの合意」というのが問題だけど、いちおう法的でない結婚なら例がググれば出てきたりする。現代の法律というのは人という種に対する制度っぽいので、「異種婚」というのが実現するのはかなり遠い未来になりそう)
次に、「統計的に長い期間1対1の強い結びつきを維持すると証明される」ことが結婚を認められる条件ではない。
仮にそれが条件(の一つ)なら、もちろん異性婚が始まる時も証明されていなければいけないことになる。
まるで異性愛者はすでに証明されているか、証明を免除されているみたいな書き方だが、
もしそんなのがあったら今すぐソースを出して欲しい。人類史に残る偉大なデータになるだろう。
もちろんそんなのはないはずで、もしあったとしても現代に反例は余るほどある。
パートナーをとっかえひっかえしたりする異性愛者がいないはずがないし、
離婚を何回したら結婚の権利が剥脱されるという法律は私の記憶では存在しない。
もし仮に「同性愛者が統計的にパートナーをとっかえひっかえする」という証明があり、
かつ「とっかえひっかえする人は結婚する権利がない」というのが社会の合意を得られたとしても、
その統計的に「上位」の、とっかえひっかえしない同性愛者は結婚の権利を持つべきということになるし、
とっかえひっかえする異性愛者からは剥脱すべきという結論になる。
もし「とっかえひっかえする同性愛者には結婚する権利がないが、とっかえひっかえする異性愛者は結婚する権利がある」なら明確に差別だと分かりますよね?
つまり『長い期間1対1の強い結びつきを維持する』かどうか?は性愛対象が男か女かに依存する問題ではない。
3.アメリカの投票権の例えは「どちらか一方しか選べない制度」を選んでいるという点で
「SM好きの人が結婚するにはSMを諦めないといけない」並みに意味のない話。
例えば同じ日本人なのに一方の日本人は結婚できて、一方の日本人は結婚できなかったりするのが問題では。
『すぐにじゃあ同様の認定と庇護を与えましょうというわけには行かないんじゃないかな』
「すぐに」ということは「そのうち」同様の認定と庇護を与えてくれるということで、
なら「今すぐ同性婚を認めてくれ。そのうち与えてくれるのを待つから」になったりする。
いや、そもそも結婚という制度は「社会的認定や庇護が得られる」ところまでで含んで結婚なので、
別に「結婚している」という名ばかりの制度が欲しければ今でもやりようはあるはず。
名実ともに「結婚」という制度が欲しくて同性婚を求めているのでは?
逆に、二組の結婚しているカップルがいて、同じ制度のもとにいるはずなのに
片方だけその制度の庇護が得られないって、それ明確に差別じみてるとは思いませんか?
4.『同性愛結婚を認めることで利益を得る集団がまったく見えない』
ググってください。「レインボープライド」とかでググってください。
私としてはむしろ「同性愛結婚を認めることで不利益を被る集団がまったく見えない」です。
やたらと『結婚類似の制度』を推しているが、ほとんど同じ条文と同じ仕組みで、名前だけ違う制度があったらそれは隔離政策というのではないだろうか?
同性婚に「結婚」という名前をわざわざ使わせずに別に分ける積極的な理由がないと支持は得られない。
どうもそこらへんが「アパルトヘイト」を想起させて心情的にあまりよくない。
"white"と"colored"が、"hetero"と"LGBT"に変わるだけじゃないのか。
「結婚と違う制度である必要はない」という考えをなぜ放棄したのかを自分の中で考えないと、
「なんとなく嫌だからじゃないの?」と受け止められても、仕方がないかもしれない。
『世の中には様々な性愛の形があって、人に相当の迷惑をかけない限りそれぞれ認められるべき』
>1. 因習に則らない異性愛者がいるように、因習に則る同性愛者がいてもおかしくないと思うし、同性愛者を含め、人は因習に則ることを好む傾向があるように思う
1. 因習に則らない異性愛者がいるように、因習に則る同性愛者がいてもおかしくないと思うし、同性愛者を含め、人は因習に則ることを好む傾向があるように思う
3. 権利を欲し、その権利が得られないから、その権利を得ようとする活動があるのでは?何を疑問に思うことがあるのかわからない
その通りですよ。その上でなぜ活動をすると抵抗にあうということに理解が及ばないのか不思議なんです。これは権利拡充の戦いであって、「あって当然の権利を求める」という権利回復の戦いではないのですよ。それには抵抗が伴うのが当然で、その抵抗に対して「差別」と罵るのはおかしいのではと思うのです。
1,なぜ同性愛結婚をしたいのか理解できない。特に結婚式をあげたいというのが理解できない。
結婚式って異性間で行うように作り上げられてるじゃん。例えば衣装にしても、男性はこの服装で女性はこの服装でって。それを無理やり同性で二人ウェディングドレスとか着て異性婚者とおんなじ格好して結婚式をあげる意味がわからない。ウェディングドレスとか異性婚を前提としてそれに意味が付与されているわけだし、神父の言葉とかもそれを前提とされてるじゃん。
そういう以前からある異性婚を前提とした因習をもとにしたものなのに、同性愛者がそれをしたいというのが理解できない。同性愛ってそういう因習とかから自由なものじゃないの?
例えば、同性愛者の結婚類似の結びつきを祝う、独自の形態の祭りを発展させればいいじゃん。なんでわざわざ異性愛者と同様の結婚形式をとろうとするの?
「理解できない」っていうか、理解=受容する気がないだけでしょ。
異性婚者の結婚式は「異性婚者だからあの格好」なんじゃなくて、それを着る人が男性あるいは女性だからあの格好なんだよ。そこを意図的にごっちゃにすんなよ。
男性はこの衣装で女性はこの衣装って決まってるから、同性婚のときも男性同士は二人とも男性の衣装で、女性同士は女性の衣装でやってるってだけじゃん。
そもそも結婚式で異性婚前提にされてるのは祝詞くらいなんじゃないの?
少なくとも日本の結婚式においては宗教的意味はすごく薄れていて「結婚する二人のお披露目・お祝い会」ってのが存在意義なんだから、祝詞をそれに合わせて変えることが言うほど非合理的と思えない。
なんでわざわざ「結婚類似の結びつき」を別に作って独自の祭りを今から発明しなきゃいけないの?めんどくせえ。めんどくさすぎる。
それにその路線で行くとどうせその「お祭り」ではウェディングドレスや燕尾服や白無垢やその他異性婚者が今結婚式で使ってる衣装は使うなとか言われて着ると叩かれたりするんでしょ?
でも個人が個人のイベントで何着ようと本来は自由であるべきなんじゃないの?
2,なぜ同性愛者が異性愛者と同様の愛の形を持っていると当然のように語るのかがわからない。
いやさ、世の中には様々な性愛の形があって、人に相当の迷惑をかけない限りそれぞれ認められるべきだと思うわけですよ。SM,グロ,動物。。。いいんじゃん?
でもなぜ同性愛だけが異性愛と同様の地位を占めるべきって主張できるの?
例えば統計的に同性愛者も異性愛者と同様の長い期間1対1の強い結びつきを維持すると証明されてるの?パートナーをとっかえひっかえしたりしないの?ほら、一部のゲイたちは「ハッテン場」とか言って乱交に近いような行為をする傾向にあるとか、まことしやかに言われるじゃん。それって一般的な結婚をするような異性愛者の行動とはかけ離れてると思うんだよね。もちろんそういう人たちが同性愛者の一部でしか無いのかも、とも思うけど、一部なのかかなりの部分なのか全然外からはわからないよね。友人にも直接は聞けないけど、なんとなく飲みの席とかで聞くには性に奔放だよね。
もし、安定したカップルが形成できていてそれで異性間結婚と同様の社会的認定を受けたいなら、やっぱり結婚類似の制度を作ってそれで認定してもらえばいいよね。それで結婚と同様の扶養とかの制度を受けられると。結婚と全く同じ制度である必要はないよね。
制度に愛の形とか持ち出すことの意味がわかんない。なに「愛の形」って。愛って有形なの?
人に相当の迷惑をかけない限り認められるべきなら、同性愛者で結婚考えてる人はお互い好き合って結婚するわけで誰にも迷惑かけてないんだから認められるべきじゃん?
なんで同性愛が異性愛と同様の地位を占めるべきでないって主張できるの?
カップルの安定度? 安定度で測るの? つーか安定度って何??
パートナーをとっかえひっかえするのだって「人に迷惑をかけない」なら認められるべきでしょ。それは異性愛間でだってそうじゃん?
逆にそれで人に迷惑をかけるんだったらそれは異性愛同性愛関係なくやめるべきじゃん?
なんで「結婚類似の制度」が必要なのかが全然説明されてないんですけど。
3,そもそもなんで結婚して結婚と同様の社会的認定や庇護が得られると思っているのかわからない。
結婚して何かメリットが得られるとしたら(本当にそんなものが得られるのかは不明だが)、それを同性愛者がほしいと思うのは理解できる。でも、それが与えられるかは別の話だ。
例えば、日本人のだれかがアメリカ人にとっての当然の権利であるアメリカの投票権がほしいと思ったら、、、アメリカに帰化するしか無い。「日本人のままでもアメリカの投票権がほしい」というのは気持ちは分かる。僕ももらえるならほしいかもしれない。でも、そりゃむりだろう。
なので、これまで異性間のものとして扱われてきた結婚というものに同性愛者が入り込んできても、すぐにじゃあ同様の認定と庇護を与えましょうというわけには行かないんじゃないかな。
こういう結婚はこれまでの歴史、経緯で異性間のものとして扱われてきたという話をすると、「武田信玄も男の小姓に恋文を書いていて、同性愛は歴史的にも認められてきた」とか主張する人がいる。これは無理筋だと思う。僕も同性愛は長く歴史上存在してきたんだろうな、と理解はしている。だけど、同性結婚は直近の近代まで認めた社会があったとは聞いたことがない。同性愛は否定も差別もする気はないが、同性婚はそれとはまた話が別じゃないかな。
え、なにこれ。「ぼくは同性婚者に異性婚者と同等の庇護や認定や権利を与えたくありません!」って言ってるだけじゃん。論拠とか無いじゃん。
あなたが同性愛者イヤだから同性愛者に結婚制度認めたくないんですってゴネてるだけですよね。
「昨日まで黒人は奴隷だったんだから今日から法律変わって自由人になったからって白人と同様の認定と庇護を与えましょうというわけには行かないんじゃないかな」、って話に対して、「そりゃ法律変わったし本人ら何も悪いことしてないんだから認定と庇護与えない方がアカンのは明らかでしょうが。与えないこと正当化してんじゃねえよ」とか思わんのかいな。
いやどんな感想を抱くのも自由だけど、それを他人にもっともらしく主張して認定と庇護を付与する云々レベルにまで真顔で首を突っ込んでくるのはやめてくださいよジョークでも不快なのに。人の権利左右するような話題ですよ?
鬱陶しいし怖いわあ。これが通っちゃったら「ぼくは女に選挙権とか認めたくありません!」「わたしは男は全員去勢するべきだと思います!」とかも通っちゃう話になるじゃん。
イメージとしてはリベラルをきどりたい異性愛者の声が大きいようにみえる。たとえばエルトン・ジョンのように著名人が日本でカミングアウトをして権利拡充を歌っているのだろうか。マツコ・デラックスやミッツ・マングローブですら、「オカマ」という売り出しで同性愛的側面は強調していないように思える。また、そういう活動もしていないように見える。
誰が推進してるかってそんなに重要か?
つうか普通に同性愛者の団体とかが推進してんじゃないの。今だって権利制限されすぎだし。普通に同性婚が制度として確立されれば同性カップル利益あるじゃん。
ということで、「同性愛者に対する結婚類似の制度を作って認定していくべきだが、結婚と同じにしてしまうべきではない」というのが理解できない。
先のエントリに
https://twitter.com/YoYo_67th/status/614469247415095296
これが絶賛されてるという事情があると書いているだろ
そこの違和感だよ
社会制度が「結婚してなくても養子を取ることが容易にできる」「結婚してなくても優先相続権を設定できる」とか
な世の中だったらそれでいいだろうね。
つか、「結婚という因習」に拘りがないことがいいことなのなら、異性愛者こそ結婚制度に拘らなきゃいいのに。
「同性愛者が法的に結婚したいって? いいよいいよやっちゃえよ、あんなオワコン制度どうでもいいよ」
って態度取ればいいだけの話。
1. 因習に則らない異性愛者がいるように、因習に則る同性愛者がいてもおかしくないと思うし、同性愛者を含め、人は因習に則ることを好む傾向があるように思う
3. 権利を欲し、その権利が得られないから、その権利を得ようとする活動があるのでは?何を疑問に思うことがあるのかわからない
本人たちはなんでそんなことしたいと思うんだろう。
また、それを積極的に認めていこうと考えている異性愛者たちはちゃんとつきつめて考えているのだろうか。
ぼくには「同性愛者の友人もいる」し、全然同性愛者を差別する気はないんだが。
1,なぜ同性愛結婚をしたいのか理解できない。特に結婚式をあげたいというのが理解できない。
結婚式って異性間で行うように作り上げられてるじゃん。例えば衣装にしても、男性はこの服装で女性はこの服装でって。それを無理やり同性で二人ウェディングドレスとか着て異性婚者とおんなじ格好して結婚式をあげる意味がわからない。ウェディングドレスとか異性婚を前提としてそれに意味が付与されているわけだし、神父の言葉とかもそれを前提とされてるじゃん。
そういう以前からある異性婚を前提とした因習をもとにしたものなのに、同性愛者がそれをしたいというのが理解できない。同性愛ってそういう因習とかから自由なものじゃないの?
例えば、同性愛者の結婚類似の結びつきを祝う、独自の形態の祭りを発展させればいいじゃん。なんでわざわざ異性愛者と同様の結婚形式をとろうとするの?
2,なぜ同性愛者が異性愛者と同様の愛の形を持っていると当然のように語るのかがわからない。
いやさ、世の中には様々な性愛の形があって、人に相当の迷惑をかけない限りそれぞれ認められるべきだと思うわけですよ。SM,グロ,動物。。。いいんじゃん?
でもなぜ同性愛だけが異性愛と同様の地位を占めるべきって主張できるの?
例えば統計的に同性愛者も異性愛者と同様の長い期間1対1の強い結びつきを維持すると証明されてるの?パートナーをとっかえひっかえしたりしないの?ほら、一部のゲイたちは「ハッテン場」とか言って乱交に近いような行為をする傾向にあるとか、まことしやかに言われるじゃん。それって一般的な結婚をするような異性愛者の行動とはかけ離れてると思うんだよね。もちろんそういう人たちが同性愛者の一部でしか無いのかも、とも思うけど、一部なのかかなりの部分なのか全然外からはわからないよね。友人にも直接は聞けないけど、なんとなく飲みの席とかで聞くには性に奔放だよね。
もし、安定したカップルが形成できていてそれで異性間結婚と同様の社会的認定を受けたいなら、やっぱり結婚類似の制度を作ってそれで認定してもらえばいいよね。それで結婚と同様の扶養とかの制度を受けられると。結婚と全く同じ制度である必要はないよね。
3,そもそもなんで結婚して結婚と同様の社会的認定や庇護が得られると思っているのかわからない。
結婚して何かメリットが得られるとしたら(本当にそんなものが得られるのかは不明だが)、それを同性愛者がほしいと思うのは理解できる。でも、それが与えられるかは別の話だ。
例えば、日本人のだれかがアメリカ人にとっての当然の権利であるアメリカの投票権がほしいと思ったら、、、アメリカに帰化するしか無い。「日本人のままでもアメリカの投票権がほしい」というのは気持ちは分かる。僕ももらえるならほしいかもしれない。でも、そりゃむりだろう。
なので、これまで異性間のものとして扱われてきた結婚というものに同性愛者が入り込んできても、すぐにじゃあ同様の認定と庇護を与えましょうというわけには行かないんじゃないかな。
こういう結婚はこれまでの歴史、経緯で異性間のものとして扱われてきたという話をすると、「武田信玄も男の小姓に恋文を書いていて、同性愛は歴史的にも認められてきた」とか主張する人がいる。これは無理筋だと思う。僕も同性愛は長く歴史上存在してきたんだろうな、と理解はしている。だけど、同性結婚は直近の近代まで認めた社会があったとは聞いたことがない。同性愛は否定も差別もする気はないが、同性婚はそれとはまた話が別じゃないかな。
イメージとしてはリベラルをきどりたい異性愛者の声が大きいようにみえる。たとえばエルトン・ジョンのように著名人が日本でカミングアウトをして権利拡充を歌っているのだろうか。マツコ・デラックスやミッツ・マングローブですら、「オカマ」という売り出しで同性愛的側面は強調していないように思える。また、そういう活動もしていないように見える。
ということで、同性愛者が結婚をしたいというのが理解できない。
僕の意見では、将来的には同性愛者に対する結婚類似の制度を作って認定していくべきだが、結婚と同じにしてしまうべきではない。また、同性愛者たちは結婚類似の制度ができれば、異性愛者と同様に安定した家庭を築いて社会に貢献できる、ともっとアピールすべき。
異性愛者の結婚が以前より多様化、不安定化していて、異質な結婚形式を認める準備ができている、というのもそのとおりだとは思うしね。
同性愛結婚に反対する人が「僕にも同性愛者の友人がいるが」と話すことに対して、反論者が「テンプレうざい」的な反応するのはなんなんだろうね。わけわからん。