はてなキーワード: 信頼度とは
まず挙げられるのが、核攻撃の際にも被害を最小限に食い止めるための防御装備。核爆弾が爆発した際に生じる放射線や強い電磁波を遮るための防護壁を追加し、乗員の安全や電子機器類の信頼性を高めるための措置が講じられています。また、実際に「911同時多発テロ」の際にも行われたように、有事の際に大統領がエアフォースワンから指令を行う「指揮発令所」としての役割を持たせるために、通常の民間機では考えられないほどの通信設備や装備品が搭載されています。必要な電気系統は複数のバックアップが搭載され、軍レベルのGPSシステムが搭載されています。
By iflyfsx
また、あらゆる環境においても高い信頼度を発揮するために、エアフォースワンでは多岐にわたる「冗長性」が備えられています。通常の民間機であれば、飛行中にトラブルがあってもまずは目的地に到着し、例えそれが外国であっても現地で部品を調達して部品を交換する措置が取られます。しかしエアフォースワンではあらゆる事態においても他者に依存することなく対応するために、一定の交換部品が機体に搭載されているとのこと。また、機体には常に6本の交換用タイヤが搭載されています。
場合によっては到着先の空港で登降機用のタラップが準備できなかったり、どういうわけかタラップが用意されないこともあります。そんな場合でも空港のインフラに頼ることなく乗り降りできるように、エアフォースワンの機体には通常は存在しない格納式の階段が機体ドアの内側に取り付けられています。
By J
さらに、エアフォースワンの機体には燃料の空中給油を受けるための装置が装備されています。これにより、例えば核攻撃などで国内の空港に安全に着陸できない場合でも、一週間以上にわたって飛び続けることが可能。仮にホワイトハウスが破壊されてしまっても、アメリカ大統領は「空飛ぶ執務室」とも呼ばれる大統領専用機の中で必要な指示を命令することができるようになっているとのこと。
そして忘れがちなのが、大統領専用機は同じ機体が2機用意されており、常にバックアップとして大統領機に随行している点。バックアップ機には副大統領が搭乗し、大統領機に機体にトラブルが発生した場合でもすぐに対処できる体制が構築されています。
牝馬に2400は長い上に全員初距離なので、過去の出走歴からはなかなか判断しづらいレースだけど、それなりに硬い決着になりやすいレースだよ
2番人気が絡んだのは7回
1番人気2番人気が共に外れた年はないので、人気には素直に従うべきだよ
買いの手がかりだけど
前走が桜花賞だった馬が強くて、過去10年で馬券に絡んだ30頭中17頭が桜花賞から
しかもこれは桜花賞の順位よりも桜花賞での人気の方がオークスとの相関が高いらしく、今回で言うと桜花賞の4番人気まで、ナミュール、サークルオブライフ、ウォーターナビレラ、プレサージュリフトは余程何か見えてる人以外は切れないと思うよ
今回で言えばエリカヴィーダ、パーソナルハイ、ルージュエヴァイユの3頭が該当
1、2着のエリカとパーソナルハイはいいとして、5着のルージュエヴァイユは少し怪しい
桜花賞組に比べると少し頼りない?
前走での相手はそれほど強くはなかったようだけど、道中楽に折り合って、直線でもったまま3馬身突き放すのはすごかった
桜花賞組に通用するかはわからないけど、アンカツさんがアートハウス本命にしているので、力が劣ることはないと見ていい
まとめると、
の2頭を信頼
抑えとしてはエリカヴィーダ、パーソナルハイ、あとは桜花賞勝ってるスターズオンアース
この8頭でいけるはずだよ
あとはお好みで、ルージュエヴァイユやベルクレスタあたりを検討するといいかもしれない
相手は上記の、スターズオンアースまでの8頭でまとめるつもりだよ
2番目に
サークル、アート、ナミュール、ウォーターナビレラ、プレサージュリフト
3番目が
上にエリカヴィーダ、パーソナルハイ、スターズオンアースまで含めた8頭
これで30点
トリガミないように上を複数枚買えば3500円くらいでおさまるはず
例年と傾向変わらないならこれでいけるんだけど、例外が起きたらわからんなー
さあどうなるか
また買ったら報告します
予定通り3500円購入
・情報を摂取するのはその当人において1視点からその機能に応じて同じく見えるので「接種する情報をどうにかしろ」というのは無理な話
・情報の重要度や優先度、価値といったものについて言うならば「情報を得た人間がそれを利用する場合」に付くものではないか
この前提をもってする1意見なのだけど、その匿名だったり複数の人格を装って発信できる情報なりの素があることは表現とかなんとかの自由で認められるべきものだろうと考える
発信された情報を受け取った人間がどう利用するかについては、問題が発生すると思うのだが「〇〇という発言があった、というのを見た、しらんけど」という使い方をすることについて価値を認めないようにすべきではないかと考える
「保育園おちた」発言で世の中かわったありがとうという記事もなんか今ホッテントリしてるけど、助かった自分がいたのと自分との直接的な関係性はその記事からうかがえるというのはわかるが、直接的に恩恵をうけたのは市政のはず
礼を言うのが身近な店員ではなく神にという主義ならわからなくもないけれども、それでも礼を言う相手が違うのではないか
動かない事柄を動かしてくれた何かに感謝、というならば死んだ人間にみんな「死んでくれてありがとう」という癖がある人なのかと思ってしまう
警察に助けられた警察機構をつくってくれた犯罪者の皆様には感謝しかない、とか日本の平和は敗戦国へと追いやってくれた戦争参加各国のおかげ感謝しかない、とかそういう感覚なのであれば自然ではありそう
どこのだれか知らないけれども発信された情報があったので、それは大事だとするのは感謝の気持ちをそこに添えるのは問題ないし良いことかと思うが、そこに責任があるとしたら自分に返ってくることを自覚すべきではなかろうか
死ねと言い含めたことを、自己の責任として再発言することになった事に責任が持てるならば何の問題のないだろうし、それを臨んでいるので仮に「死ね」発言について炎上したとしても、受けきれるのだろう
実際に問題が発生していたり救済を必要としていたりする情報源について実態を伴う行動が必要かどうかは情報が存在していて、かつそれを摂取して判断した結果になる
発信者が嘘偽りを発信していようが発信者として偽っていたとしても「それを良しとする」規約範囲内での活動を問題視するということは規定を自由に存在させていいという社会的領域を狭める
ツイッターの話ならばツイッターが規約を厳密にしたり審査を厳密にしたりすることはありだろうし、放置するのも緩くするのもありだろう
その自由な選択を認められることが社会的な領域の広さにあたると考えるのでそれは狭めるべきではなく、社会的地位としての上昇を臨むならば社会を狭めて情報源を確実なものに押し上げるのではなく、情報源自体が規約なりで縛り押しあがっていくことが望ましいのではないか
何もしなかったり緩くすることで社会的な情報源としての地位を下げることになるのはその自由の範疇においてやむを得ないだろう
しかし低く下がった信頼度を、ほかの時点の価値観とかさねあわせて「信頼できる情報源において」とするのは「ほかの時点の価値観」でその情報源を推し量っていることが問題だと感じる
文字データになってインターネットに流れていたらみんな平等に貴重な情報源って言うのはいいし信じるのはいいけど、それをもってして行動するのは自己責任にすべき
「〇〇っていう噂があって、まことしやかで、本当なら問題だし」から具体的な例に置き換えて「例えていうなら」からの自説を披露し相手に「だと思わない?」と結局関係ない行動喚起をさせて「しらんけど」と言うのは良くないのではないか
関係ない人間に恣意的な行動喚起をする材料としてそのへんに散らばってる情報を利用して「という情報があるのを発見した」からの「という風に見える」と冴えたような加味をして与えるのは「その情報ソースがそこに落ちていた」という事とほぼまったく関係がないといっていいように思える
それは「人の口元へ運ぶ行動と、口にしていいようにした」のはその情報発信者なのだから、元の情報をつくった人間はもうすでに関係がないといっていいだろう
偽の情報発信者が多く潜み偽の情報を沢山流したとしても、それをまとめて扇動したり誘導したりしようとする人間がでてくるはずで、注意すべきと責任を追及すべきはそこで十分ではないだろうか
改善すべきは、むかしはよかった、むかしはこうだった、かつてはこうだった、だから「今もつかえる」という判断基準で過去の人やものを盲目的に利用しつづけ更新しない人により新鮮な情報を提供するようになっていけばいずれそのなりすましでどうにかなる情報の発信や迷惑行為を正義と勘違いするような扇動者の区別はつくようになっていくのではないかと考える
前日よりも人の出が少ないようだった。広場にあったワンタッチテントの数も前日の半数以下だ。だが、駐車場の空きは少なかった。隣接のサッカー場で子供のサッカーチームが試合をしていたので、公園の駐車場がその関係者達に占拠されてしまい、他所から公園に遊びに来た人達は、駐車出来ずに諦めて帰ったのかもしれない。
前日は公園に着いたらまずは敷地内をぐるりと一周散歩したが、この日は真っ直ぐ管理事務所に入った。「鯉とカモの餌」を三つ買う。300円なり。上の子と下の子のぶん、そして私のぶんだ。
池の周りでカモに餌やりをする人々やザリガニ釣りをしている人々も、少なめ。連休最後の日はインドアに過ごしたい人が多いのだろうか?
前日にはいくらか居た鯉の姿があまり見えない。カモは前日と同数くらいいるが、同一カモかどうかは不明。
私と子供達がカモに餌をやっている間、夫が池の周りをぐるりと回って鯉の様子を見て来た。夫によれば、鯉は燕子花の間により集まっていたそう。鯉は、産卵に忙しくて餌どころじゃないらしい。
産卵があろうがなかろうが、この池の鯉は何故か人に餌をねだることを全くせず、人影に向かって寄ってくることもない。昔からそうなのだ。「鯉とカモの餌」は実質「カモの餌」である。
連休中、人々の投げ寄越す餌にカモは飽きてしまったのか、前日よりも食い付きが悪い。食い付きが悪いと、子供達はむきになって餌を次から次へ、なんなら鷲掴みで一度に投げつける。面倒臭そうな仕草で、カモは泳いで行ってしまう。
前日に学んだ通り、カモは真正面に落ちて来た餌にはあまり反応しないので、横か、なんなら背後めがけて投げるのがよい。一粒ずつ投げて、食べたらより手前の方に投げて、少しずつカモをこちらの方に誘き寄せる。……と、言い聞かせても、子供達の逸る気持ちを宥めるのは無理なので、子供達がやたらめったら投げて全部外しているうちに、背後から私が投げて、カモ達をこちらに誘導する。
公園のカモは人慣れしているが、それでも野鳥なので、決まったセーフティーゾーンを越えて近づいてくることはない。一番寄って来て、岸から1.5mくらいの所。だが、それだけ近づいてくれれば、子供の手で投げた餌でもカモはもれなく拾ってくれる。
カモを岸に寄せたら、私の役目は終わりだ。早くも手持ちの餌を投げきってしまった下の子に残りの餌を手渡し、子供達の隣にしゃがんでカモを眺めていた。
やがて二羽いたカモのうちの一羽が、人間の相手をするのに飽きたらしく、水面に浮いた水草の根で遊び始めた。猫がねこじゃらしにじゃれつく時のように、根っこの切れっぱしを仮想敵とみなしてつつき回している。するともう一羽は反対方向へとすいすい泳いで行ってしまった。
よく、水辺の白鳥の姿は夕方だが、水面下では白鳥の足はジタバタと不恰好に水を掻いているという。だが、カルガモ達が水面をすいすい行く時の足の動きは優雅で無駄がない。茶色と緑の入り雑じった泥水の中でも、カモの足のオレンジ色は鮮やかに映えている。
子供達は橋を渡って池の向こう岸へ行き、別のカモのコンビに餌をやり始めた。私と夫は日陰に入り、また別の二羽を眺めた。なんと、二羽のうちの一羽がうたた寝をし始めた。私と夫の他にも人間がいくらかいる、その前で、自らの羽の合間に嘴を突っ込んで、うつらうつらと目を閉じたり開いたりしている。警戒心がだいぶ薄れているようで、風に吹かれるままに岸辺に流されて来て縁に敷かれた石にぶつかりそうになったところで目を覚まし、いそいそと池の中央に戻っていく。だが、しばらくするとまたこちらに流れてくる。カモ達の、ここに来る人間達への信頼度は半端ない。
あまり昼寝の邪魔になるのもなんなので、こちらから遠慮して岸を離れた。池の中央にかかった橋を通ると、水面に亀がひょっこり顔を出していた。種類はわからないが、外来種ではなさそうだ。どう見ても、こっちを意識している。子供達を呼び寄せて、亀がいるよと教えてやると、子供達は亀に餌を投げた。すると亀はカモよりも機敏に餌を追いかけて食べた。だが、カモほど食欲が底なしではないらしく、いくつか食べただけでくるりと身体の向きを変え、泥水の中へと姿を消した。
対岸で、子供達がカモに餌を投げるのを見守る。子供達はやはり闇雲に餌を投げるばかりで、大人のようにテクニックを駆使してカモを手懐けることは出来ないようだ。それでも、力技で遠投した餌をカモに拾われて喜んでいる。
二人の少し後ろに、三歳くらいくらいの男の子がとことことやって来た。手には餌の袋を持っている。だが、まだ小さいので餌を遠くに投げることができない。男の子は、うちの子供達が餌を投げているのを、恨めしそうにじっと見ているだけだ。そのまた背後に、父親が心配そうな顔で着いている。うちの子供達が邪魔で男の子がカモに餌をあげられないという構図になってしまっていた。なので、私は子供達に声をかけて、あっちのカモに餌をやりに行こうと促した。
池の周囲でカモに餌をあげようとしている子供の多くは、五歳以下に見える。自分の足元も覚束無い幼児もいる。彼らはどうしたらカモの気を惹けるか考えて餌を投げるということが出来ないので、節分の豆まきのように餌を投げまくった末にカモ達に完全無視を決め込まれる。ガッカリしている子もいれば、とりあえず好きに餌を投げただけで満足という様子の子もいる。
うちの子供達がその年頃のころ、私は子供達にカモの餌やりはさせなかった。うっかり足を滑らせて池に落ちることを恐れてのことでもあり、こんな小さな子に失敗が運命付けられているような事をさせても可哀想なだけなのではないかと思った。それに、その当時は池の畔に集まる子供の多くが小学生で、幼児の方こそ場違いに見えた。
だが今は、頭の重みでいつ前のめりに転がり落ちるかわからない幼児が、器用に池の縁の石の上に立ち、池の中を覗いているのだ。
うちの上の子はもう五年生で、この歳までカモに餌をやって遊ぶことをしないで来たわけだが、もうじき自分から幼児に紛れてこんな風に遊びたいと言うような年頃ではなくなってしまうだろう。少々の危険を覚悟で、もっと小さいうちから好きに遊ばせておけば良かったのではないかという後悔を感じないでもない。だが、一人で池を覗き込んでいる年端のいかない幼児が池に転がり落ちないで済んでいるのは、単に運がいいだけにも思える。
餌を全部投げ終わると、子供達は手を繋いで、中央広場の遊具で遊んで来ると駆けていった。私が子供達の手助けをする必要はもうない。遊具で遊んでいるのも幼児とその保護者ばかりで、小学校高学年の子供達はマイナーだ。十年前は逆に大きな子供達ばかりが、少数の幼児を蹴散らすような勢いで遊具に飛び付いていて、危なっかしくひやひやしたものだ。
後で上の子に聞いたところ、遊具には小さい子が沢山いるから、小さい子に出会ったら危なくないように道や順番を譲ったとのことだった。
子供達が遊具で遊んでいる間、私と夫は木陰のベンチに腰掛けて待っていた。
蓮池のところでザリガニを捕っている親子連れがいた。事務所で売られている「ザリガニ釣りキット」ではなく虫捕り網を持っている。ザリガニは釣るより手掴みした方が早いのは確かだ。
母親が威勢よく小学校低学年くらいの息子に怒鳴っている。ここぞという時に息子が網を持ってふらふらとどこかに行こうとしたからのようだ。母親は、ザリガニ捕りどころか公園遊びにも向かないようなくるぶし丈のスカンツの裾を片手で引き上げ、もう片方の手を蓮池に突っ込んでザリガニを捕ろうとしている。根っからのお転婆ではなさそうだ。そんな妻の横に立つ夫は「男らしさ」とは縁の無さそうなおっとり系だ。私の観測範囲だと、自分の息子を「男の子でしょ!」と叱る人ほどお転婆そうではなく、配偶者も大人しそうな優男であることが多い。
振り返って広場の方を見ると、上から下までスポーティーな格好の母親と、やはり上から下までスポーティーな格好の小学校高学年か中学生くらいの娘がバドミントンに興じているのが見えた。楽しそうだ。子供が大きくなったら大きくなったなりの遊び方があるようだ。私の乏しい体力では、バドミントンは無理そうだが……。
国連女性機関が『月曜日のたわわ』全面広告に抗議。「外の世界からの目を意識して」と日本事務所長
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6257a5d0e4b0e97a351aa6f7
何事もなかったかのように風化させようとしてるのか知らないけど、国連の名まで出しておいて流石にその五流企業対応はないんじゃないだろうか。
記事で焦点として上げられた「3つのP」を基準としたチェックには散々ツッコミが入ったし、日本事務所石川所長の過去発言との矛盾も指摘された。
もはや件の広告に問題あるとした人でもわざわざこの件を担ぐほどの人はいなくなった。
それを何事もなかったかのようにほとぼり冷めるようスルーしてやり過ごすのは本当に国連の一機関として問題しかないと思う。
自分たちで提示した根拠に矛盾が指摘されたのだから、それは責任とって説明すべきで、内容はこう見ると矛盾がないとかでも良い。
言いっぱなしで自分たちの矛盾はスルーと言うのは無責任な実態のよくわからない反社企業がトンズラこくようなことで、それを国連の機関が行ったと言うのは国連女性機関、引いては国連そのものの信頼度、言及の信頼性にも関わる重大な損失だ。
最初から提示しなければ、国連女性機関と日経新聞社との契約間での話として終わらせていれば勿論そんなことはなかったろう。
だが日経新聞は国連女性機関との規約を冒したと言わんばかりに一方的な情報開示を行ったのだから、その責任は取るべきだと思う。
このまま逃げ去るのであれば少なくとも日本においての国連女性機関と言うのは今後ただの程度の低いクレーマーとして見做されるだろう。
最近の競馬は、予想が外れてるわけでもないけど、馬券が当たらないので、最後の最後で判断ミスをしている感があるよ
今日は当たるといいな
そのうえで競走馬としての総合的な能力も高くなければ勝てないので、重賞である程度力を示している馬がいいよ
2500mしっかり走れる馬は3200mで急激に悪くなることは普通はないです
さらに、3200走ろうとする馬はマイルや2000なんかと比べて層が薄いため、強い馬と弱い馬で力の差はそれなりにあって、すでに済んだ格付けが覆りにくい
前走成績はかなりあてになるよ
その観点から言えば、結局は前哨戦のG2でしっかり成績を残している子が結局強いよ
というわけで有力馬は、阪神大賞典からは勝馬ディープボンド、2着アイアンバローズ、3着シルヴァーソニック、4着マカオンドール
日経賞からは勝馬タイトルホルダー、3着馬ヒートオンビートが有力
それ以外の別路線からは、かつてしっかり前哨戦を戦ってきて十分勝てる実績を残しながら怪我で天皇賞春に出れなかったタガノディアマンテがついに出てくるのが気になる
あとは、いわゆる上がり馬と言えるような、急激に力をつけたテーオーロイヤル
テーオーロイヤルは阪神2400でマカオンドールに勝ってるし、ダイヤモンドステークスでも勝ってる重賞馬なので、これまでのレースレベルや力を疑う必要はないと思う
ここまで8頭あげたけど、よほどなことがない限り、この中で3着以内が決まると思っている
阪神大賞典で1人だけ57キロ背負って勝ったディープボンド、日経賞で1人だけ57キロ背負って勝ったタイトルホルダーは別格
マカオンドールは他が56キロ背負う中55キロで4着だったので、差をつけるなら少し見劣り
テーオーロイヤルはダイヤモンドステークス54キロの軽斤量だったので、やはり少しだけ疑問符がつくかな
でもまあ、問題ないとも思う
タガノディアマンテも期待してるけど、ほんまにやってくれるんかはわからない
ディープボンドとタイトルホルダーの優劣だけど、これはやはり有馬記念を見るとディープボンドが上と言わざるを得ない
過去の実績を見るとタイトルホルダーの菊花賞1着、日経賞1着なんてド本命やろ、みたいな気もするけど有馬記念後トラブルもあったみたいだし、調教の評価も調子に少しだけ疑問符がついている
そしてなんと言ってもボンドは昨年2着なので、リピーターの多い天皇賞春としては、やっぱり信頼度はボンドでしょう
気になるのはやはり枠
阪神大賞典や京都での成績しかないけど、過去データはほとんど14頭くらいまでしかいない中での8枠の成績と、今回みたいに18頭フルでの8枠は全然意味が違う
12頭か、せいぜい14頭までと、それより外ではやっぱり有利不利ははっきりあって、厳しいのは厳しい
最初のコーナーまでの距離がそこそこあるから、そこまで影響ない、という声もあるけど、それを言うなら阪神1600でも影響はないだろうけど、現実はそんなことない
本当に見るべきは阪神1600での枠の有利不利なのかな、みたいに思ったりもした
そういう意味ではやはりボンド、タイトルホルダー、シルヴァーソニックは少し割引が入るよね
本当に力がある馬は馬券内にまとめてくるという意味ではディープボンドを疑う必要はないと思っているし、実際馬券内に来ない要素がない
もはや展開にも左右されないだろうし、雨の影響も受けないし
しかし、1着信じられるかというと難しい
波乱はそこまでないと信じて、ボンド固定で、残りの7頭のうち内枠と力がある馬を重視
ボンド固定
アイアンバローズ、テーオーロイヤル、ヒートオンビート、タイトルホルダー重視
あとはガミらないように金額調整してください
健闘を祈る
現代日本のフェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピーの看板のような機能を持っていると言える。
弱者が慰め合える駆け込み寺、いわばフェミニス堂があること自体は良いことだ。
エンパワメントやシスターフッドという自己肯定を重視した精神的な言葉が最近人気なのもその一環かもしれないし、そこまで前向きな気持ちになれないからとにかく苦しみや怒りを吐き出させてくれという層だって駆け込み寺には居場所がある。
だが、「セラピーとしてのフェミニズム」と「学問や言論としてのフェミニズム」が分離されていないために、言論としてのフェミニズムの信頼度が著しく弱まっている。
セラピー面も学問言論面もひと固まりだから、フェミニストはメンヘラだとか、他人の幸せを許せないだとか、ミサンドリストでセックスヘイターのジェンダークレーマーだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。
私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていることを批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。
(追記:↑ここで私の精神疾患に言及したのは、私も議論の場で当事者性を武器として使おうという態度でよくなかった。反省する。)
本稿で主張するのは、「冷静な研究者としての立場」と「傷つき怒れる当事者としての立場」は、兼任すると問題が生まれるのでどちらか片方だけの立場に立つべきだ、ということだ。
たとえ学位や免許を持っていても、冷静になれない話題については傷が治っていない当事者だから、理論と議論を使いこなせる研究者ではなくあくまで苦しむ当事者個人として発言した方が良い。
本論前に、何がOKで何がNGかおおざっぱに切り分けておこう。
フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感しあい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。
当事者会自体は、様々な依存症や障害、事故被害者などについて行われており、有用なセラピーと言っていい。
だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。
要するに、当事者として治療を受けるべき傷を抱えたままの人間が、セラピスト役と教師役もやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。
だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム」当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。
普通の当事者会やセラピーは、福祉や医療や心理の専門家によって研究と理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。
傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復に必要な心の解放だ。
それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。
客観的な専門家が当事者たちの感情吐露を分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。
だから、普通の健全な当事者会セラピーは、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者がヤバいことを主張していても研究者の評価が下がることもない。研究者が監督しているから当事者同士の会話が先鋭化するエコーチェンバーも防げる。当事者の要求は研究者が整理したうえで一般社会に伝えるので、外部の一般人が当事者の過激すぎる主張を直に聞かされて悪感情を持つこともない。
全てが完全に徹底されているわけではないが、それでも、当事者会セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、ある程度は弊害の抑制ができている。
しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者、監督者、研究者の区切りが曖昧になりやすいので、普通の当事者会セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。
たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張したことに対し、「議論や説得において言い方ってのは大事だろ」と反論されているのをよく見るが、あれも、内輪の癒しセラピー的な感覚と対外交渉議論の感覚がごちゃまぜになっているせいだ。
「私はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシング(言い方警察)するな」、という話なら真っ当である。
「私は冷静を保ち、言い方や内容にしっかり気を使うから、議論として発言を真面目に聞いてくれ」、というのも真っ当である。
だがそれを同時にやろうとする、「自分はセラピー的に感情をぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれ」というのは無法な要求だ。
せめて、セラピーを監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者が理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。
なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである。
臨床心理士やカウンセラーや看護師助産師になりたがる人間はしばしば自分が精神不安定を抱えているというのは、統計はともかく実体験としてはよく聞く話である。
博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物を保護したがるだろう。
だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士や精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。
むしろ、愛護派の過激な主張の角を取って一般社会的に可能な動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者が自分のところで一度止めて丸めて社会に伝える、当事者会に対する医療や福祉関係者の立場と近い。
だから、臨床心理士や動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。
ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた当事者と同一人物だったり肩入れしすぎたりするせいで、冷静な監督者のいないまま野良セラピー的な語りあいを続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるがそのまま社会に要求するには妥当性に欠ける内容が研究者の学問的立場から主張されてしまっている。
フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとか言われてしまうのはこのせいだ。
それにもかかわらずフェミニズムの大義名分が世界中で力を持ち、フェミニストの要求の内容を精査して妥当性が十分な時だけ応じますという態度は悪だと指弾されるのが、本当に良くない。
ここで断言しておくが、メンヘラも、他人の幸せを許せない人も、ミサンドリストもミソジニストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。
過激な思想やトラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。
ただし、その好き勝手な発言暴言はあくまで傷つき冷静さを欠いた人の胡乱な言動として生暖かく聞き流されている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。
弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままでは妥当性が低いので、客観的な研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。
フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ当事者発言をそのまま重用したり、著名な研究者が「冷静さを保つために私の当事者としての感情を一時的に抑えよう」という努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である。
辛すぎて悲鳴を上げざるをえない当事者と、冷静で他者と対話可能な研究者の弁別は、完璧でなくとも努力する価値がある。できたぶんだけ弊害が減るはずだ。
一つ、わかりやすい事例を挙げる。
フェミニズムやジェンダー学周辺で、セラピー的機能と学問・言論的機能が混在することの弊害を私がはっきり感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である。
『かがみよかがみ』は読者投稿エッセイをメインコンテンツとするWebサイトだ。
「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けている。
18~29歳の女性からのエッセイを募集して、編集部がチェックして載せている。著名人や契約コラムニストの連載もある。
そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストはTwitterで検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)
二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割にはてはで話題になる回数は少ない気がする。はてなとは読者層が違うのだろう。
上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008
フェミニストでも、守られたい。フェミニストだから、守りたい | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941
これの上の記事に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、そこから辿れる記事類を読み、フェミニズムがセラピーと言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。
上野千鶴子氏座談会のセックスワーカー差別炎上とかがみよかがみコミュニティの雰囲気について(下)|滝薫
https://note.com/hannnahkuku0819/n/n6514127ed85a
私はこれを読んだ時、伊藤編集長があらゆる批判に応じないのもわかる、といっそ清々しささえ覚える形で納得してしまった。「セーファープレイス」を構築しようとして、内部を守っているのではないかと思った。
(略)
『かがみよかがみ』を必要としている利用者はいる。それはわかっている。私も、エッセイを投稿した後の”共感”と”褒め合い”によって自信がついた一人であることは変えようがない事実である。その価値を認めていても、『かがみよかがみ』の未来に不穏さを感じてしまう。
『かがみよかがみ』が目指すのは、あくまで女性の自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である。
それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。
若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のSlackか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である。
フェミニズムやジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくまで自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。
エッセイ投稿の年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイや愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者の本音を慮って、微妙な理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。
投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるからである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そのタイプの人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。
伊藤あかり編集長のモットーらしい「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」とも合致する態度だ。
傷ついた若い女性のために、正しさではなく自己肯定感爆上げを目的とした当事者会セラピーの場があること自体は、良いと思う。
だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネットで広告され、上野千鶴子や石川優実を企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者もジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面を安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。
なのに、そこが曖昧に混ざった立場で『かがみよかがみ』の文章は発表され続けている。
そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。
最後にもう一度まとめる。
傷ついた当事者同士が慰め合うセラピーの看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問や研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。
現在の日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。
心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者が、ある程度重なってしまっている。
この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。
「再エネの主電源化」: 太陽光、洋上及び陸上風力の変動性再エネ(以下VRE)を主力電源にすることで、電力分野においての低炭素化の達成。バックアップ電源としての化石エネルギーの利用は排除しない(調整力の問題から100%脱炭素は不可能のため、後で理由は説明する)
「小売自由化」:全ての消費者は、参入障壁の低い電力市場に参加した小売業者から自由に選択して電気を購入する。競争原理により消費者は低価格な電力を選択、もしくは証書つき電力を購入することにより非化石価値などの付加価値も購入できる。市場への入札は基本的に電力の限界費用で行われる(現行ルール)。これは達成済み。
「安定供給」:化石燃料市場の動向および天候や気温の条件に関わらず、発電サイドの問題(燃料制約、電源不足や天候不順など)での停電は起こさない(注意:配送電に起因する停電は災害などの理由から0にはできないので、ここの定義には含まない)
大手電力:自前の大規模電源を有する電力会社(JERA、関西電力などといった旧一般電気事業者、ENEOS、東京ガスなども含む)
新電力:大部分を市場で電力を購入して消費者に供給する小売事業者
「再エネの主電源化」「小売自由化」というものを両立する場合、少なくともこの先10年ー50年の短中期においては「安定供給」を日本においては完全に達成するのは不可能であるということ。
理由を説明していく。ただし「再エネの主電源化」を達成しない選択肢は国際的かつ政治的に今後取り得ないので、「安定供給」と「小売自由化」をどの程度のバランスで守るかということを考える材料を提供したいと考えている。まずは今の方向性を維持する場合を考える。
- VREはインバータ電源(直流→交流への変換を伴う)のため電力系統に大規模に導入すると電力系統が慣性力を失い、火力、水力、原子力などの同期発電機脱落時の大規模停電のリスクを高めるため、蓄電設備がない場合は出力抑制が必要
- 付言するが、蓄電池+VREも近年では価格競争力を持ち始めている(ただしあえて蓄電池のコストを負担しようとする者はいないだろう)。また2022年からFIP制度というのが始まり、再エネを市場価格+プレミアムで買い取る制度ができる(インバランスにはペナルティも課される)。この場合では再エネが発電できない、電力価格の高い時間帯に売電するインセンティブを生むため、アグリゲータやFIP対象の発電事業者が蓄電池コストを負担するモチベーションにつながる。一方で資源価格が上がっている現状で蓄電池の資本費を回収できるかは不透明
- この二つは国を超えたレベルの広域な電力系統が存在しない日本で特に顕在化する。
- ネガワット、DRは何れも短期間の電力の過不足への対応技術のためいずれも一日から1ヶ月の長期間のVREの変動には対応できない
- あくまで安定供給に向けた金銭的なインセンティブでしかなく、100%の保障を行えるメカニズムにはならない
- ただし、出力抑制が起こるような先週の土日の東北電力、四国電力管内の例には電力を活用する観点から重要
- VREが安い時間帯に水素を作ってkwが不足する場合の火力発電の燃料とするという発想
- 電気分解で90%、コンバインドサイクルを利用する場合でも高位発熱量基準で熱効率40%程度が限界なので全体として見た時に結果として3割ー4割程度のエネルギーしか利用できないため、ファイナンスの面から達成が難しい
- 発電に利用するならCCS付き水素を利用する方が現実的だが、将来的なタクソノミーを考えると採掘に関係する資産が座礁資産になる可能性が高いという筆者の予想
- 加えて重要なのが、火力発電の燃料、特にLNGは大手電力にとって長期契約するインセンティブが失われるため(長期による電力需要を見通せず、余った場合にはLNG転売損を招く)スポット調達がメインになるが、スポットは割高のため、VREが使えない時間帯のさらなる電力価格高騰の常態化を招く
- スポットは常に入手できるとは限らず、加えて無駄な国富流出の要因になり、経済安全保障の観点から政府も手を打つべき問題
- 結局VREの統合コストが2030年でも原子力に比べて割高なのはこれらの理由による
- 2024年度より容量市場が設置され、電源(kW)を取引できるようになった(すでに取引は開始されている)が、様々な理由から現在の市場価格では既存設備は維持するのは可能(難しいものも多いが)だが新設するには安い値段に落ち着いてしまっている。結果的に現在の市場設計では中長期的な将来の容量を担保できない。
- 既に2024年の九州電力管内の落札結果は供給信頼度が低く、管内の電源容量不足を示唆している。
- 発電設備の資本費を市場に負担させるシステムが必要ではあるが、新電力側からすればメリットが皆無なので難航するのは目に見えている
- 容量市場についても経過措置で取引価格が下がる仕組みになったことからほぼ期待できない
- 現状では再エネの主電源化は遠い目標なので脱炭素および電力価格の安定を目指すなら活用せざるを得ない
- 電力の完全脱炭素化を達成するには将来的にはSMRなどの調整力を備えた原子力発電所が必要不可欠だが...
- 利点
- 同期発電機であり大規模電源でもあるため電源として単純に優れている
- 限界費用は再エネと同様0、福島での事故を加味してもまだ既存原発の再稼働コストは安い
- 燃料費は発電コストの15%程度、かつそのうち加工コストが半分程度なのでウラン価格が費用に占める割合が低く、経済安全保障に資する
- 欠点
- 既存の原発に調整力を担わせるのは経済的理由から難しい(技術的には可能だが...)
- 事故が起こった時の恐怖感から賛否が分かれ、利用のための政治コストが高い上に政治家はそれを払おうとしないので期待できない
- 安全対策及び特重施設設置の問題から東日本大震災から止まっている原発については迅速な再稼働は期待できない
1. 価格面で起こること
現状の市場システムでは燃料調達のスポット市場への依存を促す仕組みになっており、資源価格の上昇がより厳しい形で市場に跳ね返る。そしてそれは最終的に一般の消費者が負担させられる構図が出来上がっている。特にエネルギー価格は逆進性があるため、低所得者への支援は必要不可欠。
2. 脱炭素面で起こること
VREの導入はこれからも進んでいくだろうが、主力電源化を進めるためにはVREの変動をカバーできるシステムが必要。蓄電池は有力な候補だが、主力電源化に必要なレベルの蓄電池導入のコストを誰が負担するのか決まっていないため、不透明と言わざるを得ない。このままでは長期的な変動はともかくとして、短期的な天候の変化にも対応できず、春や夏でも晴れた日には出力抑制が常態化するのに夜間や荒天の日には火力発電所がフル稼働する日常が迫っており、電力の脱炭素化は遥か遠い目標となる。
3. 安定供給面で起こること
中長期的なバックアップ電源を保障するシステムが今の日本には存在しない。現状が進行すると3/22のような需給逼迫警報が特に冬の時期に日常化しうる危険性がある。小売事業者に適切に発電設備の資本費を負担させる仕組みおよび長期的な発電事業者の収入を保証する仕組みが必要。安定供給は破綻に近づいている。
と、ここまで書いてきたが結局再エネの主電源化を妨げているのは制度設計のまずさとしか言いようがない。FITは再エネ導入に大きな役割を果たしたが、野放図な開発を招き、加えて電力系統の不安定さを招いた。パネル設置者が固定価格で買い取ってもらえる一方でそれによって増大した再エネ賦課金と安定供給維持のコストは広く国民が負担するハメになるのでまさに外部不経済としか言いようがない。理念が間違っているわけではないのだが、安定供給と再エネの柔軟性確保に誰が責任を持つのかはっきりすべきだった。つまりこれらは政治の責任であり、政治コストを払わなかった政治家の責任である。最も現実的選択肢としての(特重施設設置期限の延長による)原発再稼働も政治コストの高さから誰もやろうとしない。票にならないことを政治家がやりたがらないのはわかるが政治家の失策のコストを国民が払い続ける現状はおかしい。参院選の後からでも日本の電力の未来に責任あるビジョンを示す政治家が現れることを期待したい。
>NATO加盟はないなんて言ってロシアが引き下がったわけない
それな。もともとプーチンあるいはロシアは伝統的に外交上の約束事を信じる気持ちが低い。
まして、もともと不拡大の約束が反故にされたと思っているプーチンに、単なる口約束で「NATOに入れない」と言っても納得しないだろう。北大西洋条約そのものの改訂(無理ゲー)とかでないと納得しない可能性は高い。
そんな前提で2014年に結ばれたミンスク合意(ドンバス紛争停戦協定)を見ると、プーチンの観点からはかなり譲歩した内容。ごちゃごちゃ書いてるが、肝は、
『ウクライナを連邦制国家にして、ドネツクとルガンスクを自治共和国に格上げしてそこに組み込んで特別な地位を認めさせることで、ウクライナの外交(というかNATO加盟)に対する拒否権を握る、けれども、ウクライナの領土の一体性は認める』ってことだし、停戦監視はOSCEにさせる。当時のウクライナ軍はロシア側民兵とロシア軍に惨敗していたからもっと過酷な条件押しつけてもいいのに、ウクライナの和平案に大枠では乗ってやったぞ、的な気分だったはず。
同時に、ウクライナ側にしたら、クリミア分捕られた上でそんなトロイの木馬仕込まれたら、いつ国まるとご乗っ取られるか分かったもんじゃねえよ的に反発する気持ちが湧くのも当然。そりゃミンスク合意は履行されませんわ。
回避できる世界線があったかというと多分ない。クリミア分捕りが悪印象すぎる。
後知恵でよければ、クリミアもドンバスも地位・帰属を国際監視団入れた公正な住民投票で決めるという協定にして、真面目な選挙活動で勝負する(当時の諸々を考えると、それでも露側が勝つ目は十分あったはず)ぐらいの手は浮かぶが、なにせ当時は
「選挙で選ばれた大統領が、ユーロマイダンとかいうネオナチの扇動する(※個人の見解です)革命運動で追い出される」とかが起きた直後。選挙に信頼度や説得力がどの程度あると考えられるかと言われるとゴニョゴニョ。たぶん当時のプーチン的観点では、
「そっちが非合法大衆扇動で来るならこっちも同じ手でやり返してやんよ」的な気持ちでクリミア切り取りはやったんじゃねーな感。
※この話はフィクションです
橋下徹さんといえば、とりあえず「学者は現実を知らない」「私に文句を言うやつは現場を知らない」と言っておけばなんでも自分が正しいことになるとでも思っているのではないかというくらいとにかく学者叩きが大好きな人です。論理的に思考ができる人は彼のことを馬鹿だとしか思わないでしょうが、政治家を辞めた後TVとかネット中心で生きていく戦略としてはあながち間違いではないと思います。なぜなら、私の身近でも「学歴」コンプレックスをこじらせて学者嫌いになった人が大阪維新を支持するようになってしまったからです。
私の知り合いにものすごい学歴コンプレックスの強い人がいます。自称Fラン大の経済学部卒を名乗っており、今でも自分は本来なら慶応大学に合格してたはずなんだとずっと言ってます。本当は慶応大学に行って親に認めてもらいたかったんでしょうね。でも現実はそうなってないせいか、早慶大に対してものすごいルサンチマンを抱えています。何か不祥事があればとりあえず早慶を叩かないと気が済まないみたいで、彼が一生懸命早慶を叩いているのを見るたびに学歴社会が一人の人間をここまで傷つけてしまったのかという現実の残酷さを知らされます。学歴コンプレックスなんてだいたい社会人になってから数年経てば癒されるものなんですが不幸にも彼は就職活動に失敗しブラック企業で病んでしまい、10年近く就職どころかバイトで働くことすらしてないのでいまでも学歴コンプレックスが温存されてしまってるんですね。そんな彼は、インテリが大嫌い。なぜなら彼の学歴コンプレックスを最大限に刺激する存在だからです。彼は学者の言ってることを理解することができないのです。学者が、いろんな可能性を考慮しながら慎重に意見を述べるのですがそういう紆余曲折の部分を理解することができません。学歴コンプレックスが強い彼は、自分がわかるように説明してくれない学者を憎いと感じてしまうのですね。
わかりやすい説明をすると「結論を理解する労力」が「その結論を導き出した労力」と誤解されるときがある|柴田史郎|note
最初は中田大学あたりを見てて危ないなと思っていたんですが、案の定そこからさらに信頼度の低い政治系YouTuberに流れていきました。ご存じの通りYouTuberは一本道の理論でわかりやすく結論を断言してくれるので、彼のような人間でも言ってることが理解できます。ただYouTuberは「わかりやすさ」の代償として必要な情報までそぎ落としまくった非常に危険な情報提供をする人も多いんですけどね……。そして彼はまんまとそういう系統にハマってしまいました。彼がハマった政治系YouTuberは大阪維新の会の支持者でした。(なぜこの人が大阪維新支持だったのかはわかりません。憶測ですが「学者」の意見に反する言動をとることが多いからかもしれません。ニュースでは専門家の意見がベースになりますが、それだとYouTuberはおまんまおくいあげ。そこで政治系YouTuberは大阪維新の人たちの意見を隠れ蓑にしながら、学者の語ることを否定し、独自色を打ち出そうとするのかもしれません。知事自体がイソジンとか言ってるような政党ですからね。とにかく他の人とは違ったことをして目立ちたいのでしょう。)
とにかく、彼は大阪維新にのめりこむようになってしまいました。学者を叩き、他の人とは違ったことをしてる政党を応援してる自分が好きなのでしょう。YouTubeで政治を学ぼうとするような彼のような単細胞人間にはこちらの方がウケがよいのでしょう。YouTubeが主な情報源である彼のTwitterを見ていると、半可通な政治語りが多数を占めているのですがかれは大真面目に学者より自分の方が現実を正しくとらえていると思っているのですね。彼は「自分が理解できたものが真実」だと思ってしまうようで、彼にとってはYouTuberの語る内容こそが真実なのです。
今の彼は大阪維新の会を支持することで幸せそうにしています。学者を叩くような発言を喜んでRTしたりしています。多分、なぜ自分が大阪維新を支持しているのか彼自身もよくわかってないでしょう。情報源が政治系YouTubeだから、それ以外の情報がない以上、他の政党のことはわからんというのが事実じゃないでしょうか。それでも、彼は大阪維新を支持することで救われているのです。彼のように学歴コンプレックスを抱えた人間を癒してくれるのは大阪維新しかなかったのです。最近の彼は部分的に陰謀論を支持するようなことも口にするようになってきました。もうちょっとであっちの世界に旅立ってしまうのかもしれません。さよならだよ……
ZOZO前澤さんが金を配ったアレ。アレをシステム的に可能にしたのがkifutownというアプリ。
最初は慈善活動の団体やその支援者のために作られたアプリかと思った私はイノセントまっしぐらッ。
これはお金でフォロワーを合法的に買うシステムであり、詐欺師のために作られたとも思えるほどよくできたロンダリングシステム(後述)。
こんなしくみよ。
アプリ内では寄付の条件として、「条件は特になし」というやつと、「ツイッターで私をフォローすること」というメニューが組み込まれている。っていうか、そもそもそれ、変じゃね????そんなメニュー必要か?あ、慈善活動とかじゃないないのか。(お察し)
そう。これは、お金を払ってフォロワーを買う合法的なシステム。「自由恋愛だからセーフ」みたいなノリと同じ。
いや、100歩譲って自由恋愛だからセーフだと思ってもいい。札束フリフリしてフォロワーを増やしたい人と、フォローするからお金クレクレという勢力は利害が一致しているウィンゥイーンな関係だわ。
でもこれ、ちょっとまって。そんな単純な話じゃない。
お金を配るときに、受け取れる相手を「抽選で選ぶ」という方法と、「自分で選ぶ」という方法がある。ふふーん、これは抜け道ハケーン!
だって配る側がツイッターのサブアカウントを作って登録して、そのアカウントが当選してしまえばいいわけでしょ?
詐欺師:「仮想通貨に興味ある人に10万円を10人に配りマース!」
その他6000人「はははははははははーい!」
実際の当選者
その他の人の中から3人
手数料は10%かかる。お金ばらまく人が負担するっぽい。つまり、総額10万円なら1万円の手数料がかかる。でも7万円を自分に還元して、3万円を他人にあげるなら、トータル4マンの出費で6000人のフォロワーが増えるわけでしょ。しかも、そこそこの質のフォロワーが。
当選させる3人は自分で選べるわけだから、「○○さんのkifutownで当選したー!」とツイートしそうな人を選べるわけだ。そうすれば「あー、あの人は本当にお金を配っているんだ」というアリバイにもなる。本物を何割にするのかは詐欺師のさじ加減だが、一定量は確保するのだろう。全員が声を上げるわけではないので、7割が沈黙していても十分に本物っぽくなる。
ここまででも既に詐欺なわけだが、続きがある。二度美味しいとはこのことだ。続いてフォローしてくれた6000人に向けて仮想通貨の情報を投下し始める。もちろん詐欺的な内容の。続きが知りたい人はこちら。登録はこちら。無料のセミナーはこちら。そして……絶対に儲かる虎の巻を読むには○○マン!もうけを考えると安いよね?って…
別の仮想通貨とかじゃなくても、○○起業塾とか、英語講座とか、なんでも成り立つ。
少ない元手でリアルなフォロワーが大量に手に入る。一部は自分に還元するので出費はすくない。それだけでツイッターアカウントの信頼度や影響度を偽装できる。っていうか、そもそも金を配るのに何でフォローするわけ?自由恋愛だから?
そんでもって、kifutownとは無関係なルートから来た人が見れば、「このTwitterアカウントやべぇ!信用力たけー!」って誤認するわな。で、獲得したフォロワーに向けて「セミナーへどうぞー!」なんてやるわけだ。
他人から金を巻き上げる仕事をしている人にとって、このkifutownっつーのは夢のシステムよ。寄付とか言うワードを使うのおこがましいレベルだわ。誰か妥当なネーミングを考えてちょうだい。
なんか思いついたら追記するわ。ふんじゃーね!
あ、いきなり追記する。「自分で当選者を選ぶ」ためには寄付の総額が10万円以上必要だとのこと。え?なんで?って思うよね。制限なしでも自分で選べてよくない?このルールのせいで、このマネロンメソッドを使うためには10万円以上に設定する必要があるわけ。そうすると、kifutownがわの手数料も1万円になるわけ。
考えてもみれば、kifutownがやっているシステムというのも難しいことじゃない。Twitterと連携してフォロー関係をチェックしているだけ。それだけ。それだけのアプリで、詐欺師たちがどんどん万札を落としてくれるというのはホクホクおいしいシステム。100円のアプリでさえ苦労して開発して買ってもらうこのご時世に、1マーンエン!詐欺師のフォロワー稼ぎを「寄付」というクリーンなワードで偽装してやってのけるマインドにはマジリスペクトしかない(棒読み)。
戦国武将がゲーム化されたり、戦艦が美少女化されたり、動物が美少女化されたりすると、ググってもそんなのばっかり出てくる
それだけじゃなくて、いかがでしたか系サイトとか、広告稼ぐための釣り動画とかもかなり検索で引っかかる
そういうのを世間では検索汚染と呼ぶわけだけど、これって汚染というより当然の流れなわけですよ
インターネットが普及してしばらくは、個人が発信する情報は今ほど多くなかったけど、長い時間がたってどんどんインターネットが持つ情報は増えている
その間にいろんなキャラクターや情報が出て、商売のために検索がハックされるようになった
つまりね、検索がクリーンだったのって、インターネットが未開発な荒野だったからなだけ
そろそろ検索汚染なんてものは死語になって、膨大な無から欲しい情報を引っ張るのが当たり前、それは資格職や高度技術と呼ばれるようになるかもしれない