はてなキーワード: 一言とは
実際そういう人がいたとして、「仕事ができる女」とは思われてても意外と周りの生産性は向上しないんじゃないかなと思った。
新社会人のときに、同期にいわゆる「仕事ができる女」がいて、私は研修のグループワークで彼女に叱られた。みんながいる前で。
「どうして言われたことがちゃんとできないの?わからないならわからないって言えないの?」と詰められた。
確かに言い分は最もで、わからないことを聞くタイミングをつかめずにグループワークが進んでいってしまっていた。
ただ、彼女の一言で私のモチベーションが上がったかというとその逆で、むしろ傷ついたしグループワークでいい結果を残したい!という気持ちはなくなった。
それからしばらくして転職し、同い年の女性の先輩ができたのだが、彼女と接して「仕事ができる女」のイメージが変わった。
個人の成果よりも、とにかくチーム全体の生産性を上げることに尽力している。でも「私頑張ってます!」という過剰なアピールはしない。だからみんなから嫌われない。
レスポンスが早くて丁寧。
これは4月1日の明るさに耐えられなくなったため書き散らす戯言であり社会への当たり散らしのようなものだ。
だから今からここに書かれることは社会に出られ日夜経済活動に貢献している方々にとっては非常に目に余る文ばかりだと思う。
推敲、校正いっさいなし、増田にベタ打ちの文章を読みたい変人の方は以下に目を滑らしてほしい。
さて、さきほど無職と自己紹介させていただいた自分だがもちろんこんな将来を2.3年前は想像をしていなかった。
様々な映像・文学作品のなかの描写や大学に入ってから先輩たちに聞かされた話から常々恐ろしさを感じていたため、正直まわりの友人達よりも早めに活動を始めていたと思う。
大学2年生の終わりごろには企業研究や適職診断などを行い、3年生の夏にはインターンへ参加した。高い講習費用まで払って就活塾にまで通った。
ここまで読むと意識高いと思われるかもしれないが、その逆意識が低いから予防線をたくさんはっておこうと必死だったのだ。
正直インターンと授業だったら後者を取るほど大学の授業が好きだった、学生インターンましてや自分が参加したような短期のものは業界や企業理解のための講習がほとんどで実務に触れる機会はなかなかない。(そもそも学生インターンに実務内情を明かせる企業などないと父親から聞いた)
そのため中小企業やベンチャーに絞ってインターンへ行って面接慣れをしようと目論んだ。おそらくここで面接慣れは出来たと思う、多少トリッキーな質問でなければ笑顔で回答できるほどには慣れた。
怪しげな個人就職エージェントではないが100社は落ちた。どれも2次面接、もしくは最終面接まで行ってから不採用通知を受け取った。
こういうことを言ってしまっては非常に品が無いかもしれないが周囲の友人と比べて喋れるほうだと思っており、面接では逆に喋りすぎないことを意識したほどだ。
「2次、最終まで行けるのに落ちる、何故」
ググるとたいていキャリアプランが出来ていない云々、企業への理解が出来ていない云々、そもそも相性が悪かった、などなど様々なifが出てくる。
キャリアプランとか働いたこともないのにわかるかよクソが、と思いつつインターネットやインターンで会った社会人を参考にして作ったんだけどな、日経新聞読んでいろいろ勉強したけどな、と絶望する。
就活後半戦の7月ごろ、そんなのばかり見てたら「くだらねぇ」の一言しか出てこなくなり人材派遣会社ばかりを受けた。しかし面接の志望動機もなにも出てこないので面接辞退を繰り返す無意味な時間を過ごした。
そして卒論のための調査などに追われ就活どころではなくなり、あっという間に新年を迎えた。
日に日に就活への焦り、身内からのプレッシャーで精神的にまいっていった。
夜中は泣きながらぬいぐるみを抱えて眠れない夜を過ごし、正直料理の匂いで吐き気を催すこともあった。(そもそも食事が好きではなかったため過去にもちょくちょくこういう症状は出ていた)
昼間に起き、リモートワークで仕事をしている家族に引け目を感じながら寝間着で求人を漁り応募する日々。たまにスーツに着替え、就活メイクなるものを施した自分の顔面に辟易しながらリモート面接。
地獄要素は書ききれないほどあるが大まかに分けると3つだ。配慮の無い人事との面接、家族への引け目、友人との比較。
配慮とは何か、一言で言うと就活生を尊重しながら会話をしようとする姿勢だ。
就活生と人事は対等であるだなんて詭弁、1ミリも信じてない。しかし、あまりにも就活生をおもちゃにしすぎている人事がいることは今回の就活で痛いほど知った。
「一発芸をやって笑わせてください」、「珍しい名字だから早く結婚して分かりやすい名字になるといいね」、「あなたが上司に従えることをここでアピールしてください」
Adoさん呼ぶぞ。
上記は一例だが人事からの質問はパワハラまがいなものからセクハラ、人権侵害なんでもござれの見本市。
もちろんコンプライアンスがしっかりしている企業もあったし、コロナに翻弄された就活生をいたわってくれる人事もいた。
しかし100社以上受けてみると割合としては少ない。あと企業規模が大きいほど質問はしっかりしている。なるほど皆大企業を目指すわけだ。
一発芸云々言ってきたところは大手芸能事務所だから業界的な色もあるのだろうが、パワハラすぎて固まってしまった。
腹立ったから逆質問で「先ほどの一発芸についてですが、実際に人事さんはどのような芸を披露されるのか見せて頂いてもよろしいですか」って聞いたら無礼すぎるってキレられて落とされました、草。
次に家族への引け目。家族が家で仕事をしている中、同じく家で就職活動するのは非常にしんどいものだった。
リモート面接、これがとにかく鬼門。いままでは対面の中で行うので多少キャラづくり、外部の人に見せる自分をいつも通りやっていればよかった。
しかしコロナの野郎のせいで対面面接が難しくなり、世はリモート面接時代に突入。
自室は防音機能0、部屋での音は共用部に筒抜けになる仕様のため、いままで友人との電話すら習慣になかった。
ましてや面接となるとさらにハードルが高い。自己PRを家族に聞かれながら面接するの非常に苦痛、一瞬でいいから露出狂の魂を取り込んでこの苦痛を快感にしたいと何度も願った。
また、就活後半になると家族が目の前で働いている中自分には職がないってことがすごい精神的に苦痛だった。
父親に就活が上手くいかなさすぎて慰められたとき、「惨めだよな、みんなは働いているのに」って共感(?)してくれたとき本当に死のうかと思った。
今まで自分は自分、己の道を行くタイプで生きていたので授業を一人で受けるとか、マラソンが周回遅れだとか本気で気にしたことがなかった。
そもそも気にしたところで精神的に負担になり、追い詰められていくと思っていたのであえて見ないようにしたりしていた。
しかし就活はそうもいかなかった。6月ごろに来た誰だかも思い出せない輩から「就職先どこ?俺は○○!」みたいなマウントLINE、やっと落ち着いたからみんな遊んで!みたいな匂わせインスタストーリー。さらにはメディアから随時発表される内定率。
周囲を気にしなくてはいけない、他人ではなく自分を選んでもらわなければいけない。そうだった、この世は競争社会だった。
幼稚園の頃大好きだったしまじろうの「自分だけを優先するのではなく誰かに譲ってあげようね」というストーリーで出てきていた「おさきにどうじょ」(ドジョウのキャラクターがとても可愛かった記憶がある)。彼はいま元気だろうか。
競争社会に絶望し、粘液が干からびていないだろうか。自分は体液が干からびるほど泣いて今まで他人を優先してきた自分を誇っていた気持ちが全部溶け出てしまったよ。
とまあ脱線したが他者と比較して自身を魅力的に見せ採用してもらうという就職活動に、マイペースな自分はどうにも適合出来なかった。
最終で落ちた企業にも、落ちた理由をフィードバックしてくださいって連絡したら他の就活生との兼ね合いでって返されたのでやはり競争に向いていないんだな。最終まで行けたのはたまたまなのかもしれない。
だらだたと書いていたら1時間を溶かしてしまった。これがクソヒキニートの第1日目であった。旧約聖書もびっくりな不毛さ。
これから自分は既卒就活生としてまだ就活を続けるつもりではある。しかしこんな就活クソだという気持ちを捨てられずに活動継続するため、きっと毎晩泣くだろうし苦痛を覚える日々を過ごすだろう。
ここまで読んでくれた人に自分は何を伝えたかったのかまとめることも出来ないが、とにかく就活は辛くて厳しい。働きたくないけど金は必要で働かなくてはいけない。とりあえず年金の徴収に怯えている。
働いている人がみんなこんな苦行に耐えて職を得ているという事態に非常に頭が下がる思いである。
皆さんこれからの新学期、ご自身の体に気を付けて過ごしてください。就活に耐え抜いた新社会人、また社会人の先輩方は本当に立派です。
自分はとりあえず職と金を手に入れるべく頑張りますので、お互いに頑張りましょう。
働きたくねえーーーーーーーー!!!!!!!!!!社会はクソ!!!!!!!!!!
以上、書き散らし終わり!
追記:まじ皆優しくて泣いてる、地元の友達かって並みに優しい言葉をありがとう。アドバイスとかもまじで心救われました、感謝。
何言ってるんだ?
ひょっとして「自粛という名の検索避けをすれば著作権違反じゃなくなる」と思い込んでる?
誰に対しても常に仕事を「匂わせて」「気を回させて」「自主的に」やらせている。
身バレのため詳しくは言えないが、資格持ちのこの上司を通さないとできない業務がありみんな辟易している。
トコロテン方式でこの地位にまで上り詰めたそうだが、内外で大迷惑と噂になっている。
社長もさすがにもう気付いていて、最近は遂に上司から資格以外の仕事を取り上げた。
というか、至る所で察して察してをやりまくっているのでレスポンスが絶望的に遅い。
「ホワイトボードには今度から黒じゃなくて青ペンで書いて」の一言言えば済む話を
当人が離席する度に机にわざわざ青ペンを置いて気付かせようと必死だ。
おそらく察したであろう本人がわざと気付かないふりして「上司さんさっきから青ペン置いてあるんですけど何ですか?」というと「え?何それ?知らない」とすっとぼける。
最初の頃は周りが「たぶん青ペンで書いた方がいいんじゃないかな…」とか言っていたがもう呆れてスルーされている。
我々はずっと青ペン置きを見せられるんだろうか。
https://twitter.com/takigare3/status/1376299481751150593?s=21
謝罪しながら全く反省の意思がないのが笑う。相手に対するリスペクトってなんだよw足りないのはお前の常識とモラルだろw
この滝沢ガレソの強みはフォロワー数が少なかったり有名じゃない奴が対象でもネタにできてしまうところ
週間文春じゃ有名人しか金にならないけどこいつの場合フォロワー数が少なくても変わったツイートしてるだけでそれを晒しあげてサンドバッグにして金を稼げる(現にこいつのタイムラインには怪しい花粉症対策のお茶のAmazonアソシエイトリンクが載っている)
フォロワー500にも満たない罪もない普通の女性を晒しても炎上しないからわざわざ薬物使用者と一言をつけて燃やして悪質。相手の女性にはすでに何人かが攻撃したり笑い物にしたり変なアカウントから凸が来ている。中には薬物を使用している疑いは晴れてないとガレソを擁護する者も。
観た人と感想を共有したくて書くだけ。
ま、断っとかないとうるさい奴がうるさそうなので。
さて、書くか。
実際に観てみるまでは、
「またまた〜そんなこと言ってまたモヤっとしたエンドなんでしょ〜?」
と思っていたが、観終わってみると、確かにこれは「完結」であった。
すなわち、エヴァが「完結」するとは、観客が「もう続きは観なくていいかな・・・」と思うことなのだった。
序を観た時は
って感想が巷に溢れていた。
そりゃもう本当、逆に斬新だったよな。
破を観た時は
「こういうエヴァがあってもよかった!!!続きが早く観てえ!!!」
と思ったもんだったよ。
心がぽかぽかしたよな。
その期待を一身に背負って出てきたのがQだった時の絶望たるや。
「完結」とは程遠い、「早く続きを観せろ!」という状態だった。
なんとも言い難いのだけれども、全体的にダサい。
綾波が田植えをするのは斬新でよかったが、全体的になんとも言えないダサさが漂っている。
画面がごちゃごちゃしていて、何と戦っているのか分からない戦闘シーンが多い。
だいたいエヴァのセンスっていうのは、エヴァという制御できない力、現象への恐怖、畏怖、制御しきれない無力感、
そしてエヴァという強大な力を恐れながら利用する人の賢さ、全能感、生へのしぶとさが絶妙なバランスで混ざって生まれる、独特のものだった。
それがまるでない。
早く電池切れてさっきまでの超常の力を発揮できなくなって無力感に苛まれろよ。
そして思春期特有のアイデンティティ・クライシスと相まって独自のセンスを醸し出せよ。
劇中でさんざんシンジに「メンタル弱すぎ」って怒鳴ってるアスカだけど、
トウジやケンスケが大人の余裕でうじうじしたシンジを受け入れ、心の傷が癒えるのを辛抱強く待っているのに
「先に大人になった」って自称してるアスカが子供のまますぎてイラつく。
14歳の女の子がそういうキャラだと愛らしいのに、28歳でそれって、単純にキャラとして魅力がない・・・
シンジ立ち直るの急過ぎるだろ。
心的外傷を負って何もできなくなっても腹は減る。
泣きながらレーション食べなきゃならないのは情けないよな。
どうなるんだろって思ってたら、様子を見に来た綾波に、
「みんなどうして僕に優しいんだよ!」
それが「大人」になるきっかけになったらしいが、まともにからんでたの一週間くらいだろ。
だいたい、シンジ君はメンタルが弱いというほど弱いわけではない。
「できるわけないよ!」
って言いたくなるだろう。
例えば、近所に熊が出たから、
「猟銃持って駆除してきて」
って言われて
「やってみる」
って言える人はどれくらいいるんだ?
10代でも30代でも60代でも、目の前に傷だらけの少女が出てきて、お前がやならきゃこの子が熊撃ちに行くぞって空気で圧力かけられても、やるなんて言い出せないだろ普通。
やったことないだけの釣りを「できない」なんて断る奴じゃないだろ。
後半では何かと「やってみる」と言うようになるが、そんな安請け合いできるような簡単な話だったら誰も苦労しないんだよ。
つまんねぇな!!!!
そして、自分はこれが一番の問題だと思うが、ゲンドウとユイのなれそめが映画の中で描写されてない。
観客の大部分はTV版も旧劇場版も観ているから、ゲンドウが人類補完計画を進めている理由は知っているはずだが、新劇の中ではほとんど触れられていない。
「ああ見えて実はカワイイ所がある」
なんて言う女性がかつて居たという、衝撃の事実を知ることはない。
ここを書き忘れたなんてことはありえない。
後半でゲンドウが半生を振り返りながら内心を吐露するシーンがあるのだから、
その前に生前のユイとゲンドウの心温まる交流の回想でもなければ、このシーンの価値が無くなってしまう。
人類を皆殺しにしてても取り戻したかった物がなんなのか観客に示すことなく、
だから制作陣は、TV版にはあったこれらのシーンをわざと省いたのだ。
なぜか?
おそらく、制作陣はシン・エヴァを、序から始まる新映画版を完結させる気で作ってないのだ。
もうこれ以上「続きを作れ」と言われない形でまとめることだけを優先したのだろう。
よっぽどもうエヴァを作りたくないんだな。
いろんな所から「もうエヴァ作りたくない」ってインタビューが聞こえてきてたけど、これほどとは。
もしゲンドウの行動を正当化できてしまうようなシーンを描いてしまったら、
前半で描かれたトウジやヒカリやケンスケの、慎ましくも幸せな生活を全てぶち壊してでも取り戻したいと思えてしまえるような、
そんな幸福をゲンドウが得ていたと描いてしまったら、必ずファンは
「続きが観たい」
と言うからだ。
今回のゲンドウの内心の吐露で、ゲンドウは子供の頃から陰キャで人嫌いだったのが大学のゼミで彼女できて全部どうでもよくなった、っていうしょうもない奴だと分かってしまったわけだ。
でもそれはシン・エヴァでは描かれることはなかった。
だってそんな所を見せられたら、「続き」が観たくなるもんな。
「エヴァの『続き』を作れ」
って言われてしまうよな。
不器用だが一生懸命なゲンドウがユイと一緒に赤ちゃんだったころのシンジを育てる話とか。
絶対に当たるわ。
「なにやってんの!」
とあきれるユイ。
そこで一言
「問題ない」
絶対に当たるわ。
実際にこういうスピンオフをやるかどうかはともかくとして。
そういう話を考えたくなるほど、物語にのめりこめるってことが重要だった。
だが、それじゃ永遠に「エヴァの続きを作れ」と言われてしまう。
だから、のめりこめない話を作って「完結」にした。
つまんなかったな。
だから俺達が言うべきことは一つなんだろうと思う。
「エヴァはもう忘れた!
最近とあるvtuberを生配信でちゃんと見始めるようになったが、界隈では上記タイトルのような行動って特に珍しいことでもないのだろうか。
(配信で見る限り全員絡みはなく、一方的に名前を出していた。一言ネタとしてではなく、一つの話題としてその配信者について語る等)
名目上キャラクターのRPをしているはずのvtuberが、身一つで配信する人間と同じ土俵で喋っていることに少しだけ違和感を覚えた。
生身の配信者>vtuberという意味ではなく、この両者が同じ枠組みにあるかのような名前の出し方だったので変に感じたのだと思う。
滲み出る中の人を楽しみつつそれをキャラクターに置換して見ているリスナーが多いように見えるが、
上記タイトルを、「キャラをワンクッションする形態の配信者」というvtuberの建前が取り払われてしまうことのように感じる人はいないのか気になってしまった。
韓国発のドキュメンタリー映画『狼をさがして』が間もなく日本で公開される。金美禮(キム・ミレ)監督の2020年の作品で、原題は『東アジア反日武装戦線』という。映画が描くのは、1974年から75年にかけての出来事――「東アジア反日武装戦線」(以後、「反日」と略す)を名乗る人びとが「連続企業爆破」を行ったこと――とその背景である。
描かれる時代は、アジア太平洋戦争で日本帝国が敗戦してから30年近く経った時期に当たる。活動を担ったのは、敗戦から3~5年経った頃に生を享けた、当時は20代半ばの若者たちだった。いわゆる「団塊の世代」に属する。その彼ら/かの女らは、敗戦以前に日本がなした植民地支配および侵略戦争の責任を問うた。同時に、戦後過程はすでに30年近い長さに及んでいるにもかかわらず、日本がその過去を清算することもないままに、改めて他民族に対する加害国と化している現実に警告を発した。手段として使ったのは爆弾だった。
その標的はまず、戦前は絶対無謬の存在として日本帝国を率い、戦後は「平和」の象徴となった昭和天皇に向けられた。だが、「お召列車」の爆破計画が実現できなくなった後は、戦前・戦後を貫いて繁栄する大企業に的を絞った。
戦後日本を象徴する言葉は、長いこと、「平和と民主主義」だった。それは新憲法を貫く精神でもあると多くの人びとが考えていた。
天皇の戦争責任が問われることも裁かれることもなく始まった戦後は、「一億総無責任体制」となった。この体制の下では、日清戦争以降、断続的にではあっても半世紀もの間(1894年→1945年)アジア太平洋地域で戦争を続けた近代日本の実像を覆い隠し、この戦争の全体像を、最後のわずか3年半の「日米戦争」に凝縮して象徴させることが可能だった。広島・長崎の「悲劇」を前面に押し出し、米軍占領下の沖縄は辺境ゆえに無視して、日本全体があたかも戦争の「被害国」であるかのようにふるまった。「反戦・平和勢力」の大勢も、そのことに疑いを持たなかった。
1960年の安保闘争の時にも、1965年の日韓条約反対闘争の時にも、戦前の日本帝国がなした対外政策と関連づけて現在を分析する言動はほとんど見当たらなかった。すなわち、日本社会は総体として、近代日本が持つ「植民地帝国」としての過去をすっぽり忘れ果てていたと言える。
1960年代後半、この社会・思想状況はゆっくりとではあっても変化し始める。日本は、高度経済成長の過程で目に見える形での貧困は消え失せ、急速に豊かになった。この経済成長の最初の基盤となったのは、1950~53年の朝鮮戦争による「特需景気」だとする捉え方が常識となりつつあった。
時代はあたかも米国のベトナム侵略戦争の渦中で、沖縄を軸に多数の米軍基地があり、インドシナ半島に輸送される米軍物資の調達地でもある日本は、再度の「特需景気」に沸いていた。近くに住むアジアの民衆が苦しんでいる戦争によって自分たちの国が総体として豊かになっていく――この際立った対照性が、とりわけ若い人びとの胸に突き刺さるようになった。
加えて、米国でのベトナム反戦運動は、黒人や先住民族(インディアン)の権利回復の動きと連動していた。植民地主義支配が人類史に残した禍根――それが世界じゅうで噴出する民族問題の原因だとする意識が、高まっていった。
「東アジア反日武装戦線」に所属した若い人びとは、それまでの歴史像と世界像が一新されゆくこのような時代のただ中にいた。彼ら/かの女らは、日本の近代史と現在が孕む問題群に、「民族・植民地問題」の観点から気づいたという意味では先駆的な人びとだった。
「重大な過ち」の根拠を探り続けた歩み
「反日」はこうして獲得した新たな認識を、すぐ実践に移そうとした。当時刊行された「反日」の冊子『腹腹時計』から鮮明に読み取れるのは、次の立場だ。「そこにある悪を撃て! 悪に加担している自らの加害性を撃て! やるかやらないか、それだけが問題だ」。政治性も展望も欠いた、自他に対する倫理的な突き付けが、行動の指針だった。「反日」が行った、1974年8月30日、東京・丸の内の三菱重工ビル爆破は、8名の死者と385名の重軽傷者を生み出す惨事となった。
「反日」にはひとを殺傷する意図はなかった。事前に電話をかけて、直ちに現場を離れるよう警告した。だがそれは間に合わなかった。しかも、なぜか「反日」は三菱爆破の結果を正当化し、死者は「無関係な一般市民」ではなく「植民地人民の血で肥え太る植民者だ」と断言した声明文を公表した。映画の前半部で、この声明文がナレーションで流れる。
多くの人びとはそこで「引く」だろう。半世紀前の当時もそうだった。それゆえに、彼ら/かの女らは、日本では「テロリスト」や「血も涙もない爆弾魔」の一言で片づけられてきた。
その責任の一端が、「反日」そのものの言動にあったことは否定し得ないだろう。だが、実はそこにどのような内面の思いが秘められていたのかということは、路傍の小石のように無視されてきた。そんな渦中にあって、獄中の彼ら/彼女らは初心を語ると同時に、自らが犯してしまった重大な過ちの根拠を探り続けた。獄外には、その試行錯誤を〈批判的に〉支え続ける多様な人びとの存在があった。映画『狼をさがして』は、これらの獄中・獄外の人びとの歩みを74分間の時間幅の中に刻みつけている。
画面には登場しない「主人公」のひとりは、「反日」狼部隊の大道寺将司である。彼は2017年5月、長らく患っていた多発性骨髄腫で獄死したが、死刑が確定してのち、彼はふとした契機で俳句に親しむようになった。生前4冊の句集にまとめられたその作品は、人間関係も自然とのふれあいも極端に狭められた3畳間ほどの独房にあっても、人間はどれほどの想像力をもって、ひとが生きる広大な世界を、時間的にも空間的にも謳うことができるものかを証していて、胸を打つ。それは、ひとを殺めたという「加害の記憶と悔悟」を謳う句において、とりわけ際立つ。
映画でも紹介される「危めたる吾が背に掛かる痛みかな」もそうだが、他にも「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ」「春雷に死者たちの声重なれり」「死は罪の償ひなるや金亀子」「ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな」「いなびかりせんなき悔いのまた溢る」「加害せる吾花冷えのなかにあり」「秋風の立ち悔恨の溢れけり」などの秀句がある。
「反日」のメンバーの初心と、結果としての重大な過ちを冷静に振り返るこの映画を制作したのは、韓国の映画監督キム・ミレとその協力者たちである。ふとした機会に「反日」の思想と行動を知ったキム・ミレ監督がこの映画を制作したのは、「人間に対する愛情、その人間を信じること」からだったという(「『狼をさがして』――金美禮監督に訊く」、東アジア反日武装戦線に対する死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議=編『支援連ニュース』420号、2021年3月6日)。社会的正義のために、加害国=日本に搾取され殺された東アジア民衆の恨みと怒りを胸に行動した結果、数多くの人びとを死傷させてしまった、つまり自らが加害者になったという事実に向き合ってきた「反日」メンバーに対する思いを、かの女はそう語る。
だが、その裏面には、次の思いもある。彼らは「長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向き合って生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも『加害事実』に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品の制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました。しかし、彼らと出会うことができて本当に良かったと思います。この作品は、私に多くのことを質問するようにしてくれたからです。どう生きれば良いのか、今も考えています。」(キム・ミレ「プロダクション・ノ-ト」、『狼をさがして』劇場用パンフレット所収)。
74~75年当時の「東アジア反日武装戦線」のメンバーからすれば、韓国の人びととの共同作業は「見果てぬ夢」だった。日本の自分たちが戦後の「平和と民主主義」を謳歌している彼方で、韓国および北の共和国の人びとは、日本の植民地支配を一因とする南北分断と内戦、その後の独裁政権の下で呻吟していたからだ。
そんな時代が40年近く続いた後で、少なくとも韓国では大きな体制変革が起こった。表現と言論の自由を獲得した韓国の新世代のなかから、こんな映画をつくる人びとが現われた。キム・ミレ監督は、この映画が日韓関係の構図の中で見られたり語られたりすることを望まないと語る。過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない。日本も韓国も、どの国でも同じことだ、と(前出『支援連ニュース』および2021年3月18日付「東京新聞」)。
最後に、もうひとつ、肝心なことに触れたい。この映画を際立たせているのは、女性の存在だと思われる。
刑期を終えたふたりの女性が、生き生きとしたその素顔を見せながら、獄の外から窓辺に寄ってきた猫との交友を楽し気に回想したり、かつて自分たちの闘争に大きく欠けていたものを率直に語ったりする。前者の年老いて元気な母親は、娘が獄に囚われてから、娘と自分たちを気遣う若い友だちがたくさんできたと笑顔で語る。二人は自宅の庭を眺めながら、「アリラン」を歌ったりもする。
キム・ミレ監督らが撮影する現場に付き添う姿が随所に見える女性も、長年「反日」の救援活動を担ってきた。撮影すべき風景、会うべきひとについて、的確な助言がなされただろう。
死刑囚の獄中書簡集を読んで、あんな事件を引き起こしたひとが自分と変わらぬ、どこにでもいるふつうの青年だと知って、縁組をして義妹となったひとの語り口もごく自然だ。女たちの運動を経てきたと語るかの女の言葉を聞いていると、獄中の死刑囚である義兄とは、媚びへつらいのない、上下の関係でもない、水平的なものだったろうと想像できる。
そして、もちろん、韓国人のキム・ミレ監督も女性だ。弱い立場にある労働者の現実を描いてきたかの女は、男性の姿ばかりが目立ち、男性優位の価値観が貫いている韓国労働運動の在り方に疑問を持ち、スーパーで働く非正規の女性労働者が大量解雇に抗議してストライキでたたかう姿を『外泊』(2009年)で描いた。日本でも自主上映されたこの作品に脈打っていたフェミニズムの視線が、『狼をさがして』でも息づいていることを、観る私たちは感じ取るだろう。
初めて親として参列した。
子ども側でいる時も好きじゃなかったのは、親になっても変わらなかった。
服装は暗黙の了解で統一されていた。それなら最初から黒のフォーマル着用と書いてほしい。
みんなで一斉に述べる感謝の言葉は、親に虐待されている子がいないか、「楽しかった◯◯(行事名)!」は当時の写真で楽しくなさそうな表情の子もいたので、せめてどこかで楽しめただろうかと願うばかりだった。
一家庭ごとに子どもが親へ一言メッセージは、テンプレ台詞だったようだ。うちの子は「お母さん」と呼ばないよ…と余計なことが気になって中身が頭に入らない。
無事育ててもらえただけで充分なので、卒園証書授与と簡単なコメントで終わらせてほしい。
なんてことを考える親は少数派なんだろうな、とハンカチ片手に泣いてる親達を見て思った。
いつ頃からそうするようになったのか自覚は無いが、気づいた時には既に習性と云うかクセが身に付いていた。どうせ、パイナップルARMYとかMASTERキートンとか、漫画の影響であろう。
とにかく、履物を身に付けていても脱いでいても、そうなってしまう。
そのせいで自宅では、妻の背後に気づかれないように立つ形になってしまい、結果的に彼女をビックリさせてしまうことが度々ある。妻よ、すまぬ。
職場でも似たようなことは度々あるが、これは別にすまぬとは思わない。一度も思わない。
別に殺し屋稼業を目指していた訳でも、ましてや開業している訳でも無いので、このクセが役に立つことは特に無い。
その逆に、損をすることは、まま有る。
私は一度、街中を歩いていた時に、見知らぬ女性から裏拳を顔に当てられた経験が有る。その女性が一緒に連れ立って歩いていた子供―――おそらくは彼女の子供であろう―――に「こっち」と歩く方向を示そうとして、腕を伸ばしながら振り向いたところ、たまたま通りかかった私の顔に彼女の裏拳が当たった形だろうと思う。何にしても、彼女に悪意が無かったことだけは明らかであった。
私の顔に見事な裏拳を当てた女性は、ポカンとした顔をしたままで何も言葉を発しなかった。私としては、彼女の方から「あ、すいません」とでも軽く言ってくれれば、別に肉体的なダメージも無かったので「あ、大丈夫ですよ」と軽く返す準備はできていた。
しかし、彼女は一言も発することなく、ただ私の顔を見るだけであった。
五秒、十秒―――と頭の中で数を数えながら待った。しかし、何も起きなかった。彼女が何も言わないぐらいだから、連れていた子供も何も言わなかった。無理もあるまい。
これは待つだけ無駄だな。そう理解した私は、何も言わずにその場を後にした。足音を殺す癖は有るのに、不意打ちの裏拳を躱す癖を身に付けていなかった。私が迂闊だったのだ。そう思えば済む話だ。
こういうことは度々あった―――と言うか、今もある―――ので、特に腹が立つ話でも無いが、流石に何も言わずリアクションも無しと云う例は此れだけなので印象に残っている。大の大人が何も言えずに固まる姿というのは、少し滑稽で笑いを誘うところがある。その場にもう少し留まっていれば、私は笑い出していたのではないだろうか。
一つだけ心が痛むのは、彼女が連れていた子供のことである。身近な大人が、何かしらミスを犯したのにも関わらず「すみません」の一言も言わないと云う場面を見せるのは、子供にとっては「私たちに道徳を説くのに、大人は自分で実行できないの?」と、大人に幻滅する切っ掛けになりかねないからである。
できていれば良いな。
共産党の池内さおり議員が電車に乗る際に男性に意図的にぶつかられたとツイートした件が話題になっている。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/ikeuchi_saori/status/1375318333776535553
この件については補助知識としてここ数年ネット上で話題になっている「ぶつかりおじさん」というものを知っておく必要があるだろう。女性が歩いていると意図的にぶつかりに来るおじさんがいる、という男である自分なんかからするとにわかには信じがたいものだが、証言が複数あるだけでなくその姿が動画に収められたこともある。
1人からの証言を聞いただけではにわかに信じがたい話なので、より詳しいことについては雑にググって出てきたページを雑にいくつか見てほしい。
https://www.huffingtonpost.jp/2018/05/31/butsukariotoko_a_23447463/
ぶつかりおじさんの被害の規模や実態については今のところまだよくわかっていない。煽り運転が社会問題として大きくクローズアップされたのは記憶に新しいが、あれはドライブレコーダーに映像が残されていたというのが大きい。人間にドラレコは付いていないためぶつかりおじさんの犯行の様子を動画に収めるのは難しい。上に貼った記事の動画ではぶつかりおじさんは20代くらいに見える風貌だが、スーツ姿の40代くらいの人が多いという声もある。
動機についても女性への悪意が根底にあるケースが多いのか、それとも反撃されなさそうな弱そうな人を狙うがために被害が女性に集中するのかもよくわからない。なので、池内議員が「女性差別」と訴えていたり社会や政治の責任に言及している点についてはかなり迂闊な物言いをしているなという感想を抱いている。
とりあえず現状間違いがないと言えそうなのは、ぶつかりおじさんは都市伝説でなく実在するということと、ぶつかりおじさんは1人だけの異常者ではなく何人もいるということだ。おそらく痴漢の一形態と捉えるべきものなのだろうと個人的には考えている(つまり治療対象ということ)。
このような実態を踏まえた上で池内議員のツイートに戻ると、池内議員の被害の訴えには不自然な点は特にないということが言える。ぶつかりおじさん被害の報告として典型的な範囲に綺麗に収まっている。彼女が共産党の政治家であることや、その後連なる意見については他の被害報告との違いとなるが、事実としてこういうことがあったのだという点に関してはなんら不自然なところはない。
問題はこのツイートに対して「お前が降りる人を待たずに乗ったせいでぶつかったんだろ」という反応が多く寄せられていることだ。しかし、この自分からぶつかったという解釈は不自然だ。
まず第一に池内議員のツイートを読むと「降りようとする人も2人」という記述があり、降車する人の様子を余所見せずに見ていたことが伺える。仮に彼女が降りる人を待たずに電車に乗り込んでしまったのだとしても、この状態でぶつかってしまうというのは非常に不自然だ。降車客が2人なのであれば同時に乗ろうとしてしまったとしても余所見していなければまずぶつかることはない。スペースが不足してひっかかるような形になってしまうということは十分に考えられるが、強い衝撃を受けるようなぶつかり方をするというのは考えられない。もしも降りる側が余所見していたとしても池内議員側が余所見していなければぶつかることはないだろう。ぶつかるためにはどちらかの足元が相当にふらついているような状況を想定する必要がある。
そして第二に男は無言で立ち去っている。無言で立ち去ったという直接的な描写はないが、なにか一言あったとするなら書かないわけがないので無言で立ち去ったものと推察される。しかし、何の悪意もなくぶつかってしまった場合、普通人は「すみません」とか「大丈夫ですか」とか言うものである。相手から一方的にぶつかられてムカついていたからそういうことを言わなかったという解釈もありえるが、それはそれで舌打ちも悪態も何もないのはやや不自然さが残る。
まとめると、「池内議員はぶつかりおじさんの被害にあった」と考えるのは自然なのに対し、「池内議員は自らの乗車マナーの悪さゆえに他人とぶつかった」と考えるのは不自然だ。後者も絶対に100%ありえないというわけではないが、他に自然な解釈があるのに不自然な解釈を選び取るのは不合理だろう。
ではなぜ多くの人が不自然な方の解釈に飛びついてしまっているのか。
これは「フェミニストというのは針小棒大に、あるいは被害妄想で女性差別だなんだと喚き散らす馬鹿の集まりだ」という偏見まみれの脳内ストーリーに不自然な方の解釈が合致しているからだろう。
この現象の恐ろしいところは何があってもどんどん偏見が強化されていくという点にある。
この手の人はフェミニストが何か言っているぞと話題になるたびに不自然であろうがおかまいなしにフェミが馬鹿なことを喚いているという解釈を選び取る。そのため、頭の中ではあのときもこのときもいつもフェミは馬鹿なことばかり言っているという認識になるのだ。
フェミは馬鹿だという偏見があるがゆえにフェミの言うことを悪意をもって解釈する。それによってフェミは馬鹿だという偏見がさらに強化される。この無敵のスパイラル構造の中で、この手の人は自らの頭をどんどん悪くしていくのである。
軽率に絵を誉めるんじゃなかった。
仲良しの絵師がいた。私はフォロワーが少なく、大体絡むのはその人とだった(以下、Aとする)
絵師は私と同い年で、親近感もあった。私も絵を描き、Aも描き、お互いに誉めあって満足していた。「ここが好き!」という一言だけでも嬉しいのだ。
彼女は美術系の大学を目指していた。そして落ちた。受験中はログアウトしていたが、久しぶりに浮上したDMにAからメッセージがあった。
「あなたに言われた一言で、私は浪人を決めた。私の絵を「あたたかいタッチの絵だ」と言ってくれて嬉しかったからだ」
驚きである。そして、Aに対する申し訳なさと自分の無責任な発言を反省した。
絵師、という言葉は不思議だと思う。プロを指す言葉でもあるが、ちょっと落書きをしただけでもネット上では多分絵師なのだ。インターネットは広い。ペンを持って何か描いた瞬間から絵師と呼ばれる条件はあるのだと思う。
友達同士で絵を描きながら「ここいいじゃん!」なんて和気あいあいとしているテンションだったのだが、Aにとってはすごく意味のコメントになってしまったようだ。正直、単純に素敵だなあと思うのと同時に、自分も誉めてほしいという気持ちもあった。「互いに誉めあう」のが気持ちいい。だから、一方的に感想を送って返信がなかったり、「嬉しいです」というコメントだけだと肩透かしを食らう。私の界隈はみんな良い意味でお花畑なので、誉められたら誉め返す人が多い。ウィンウィンだ。
浪人って、かなり人生を左右する選択だと思う。たかが一年、されど一年。私の無責任な誉め言葉で、Aの一年を奪ってしまったような気がする。
気づけば、Aは絵を描かなくなっていた。もう絵は諦めた、と言っていた。一応浪人して上京し、美術系に進学したようだが就職は一般企業を考えているらしい。絵描きを目指し上京し、周りとの差に悩み、一般企業に入るのは珍しくはないんだと思う。思うが、Aの人生の選択の要素に、自分のこれとなしに言った言葉が入っていると考えると申し訳なく思う。
「猫さんが死んじゃって、その次の日に私がコロナで入院しちゃってね…」
「私は大丈夫なの。でも、私のウイルスが猫さんに感染して、死んじゃったんじゃないの?って姉さんに言われて、もしかしたら、って思うと…」
とメソメソと泣き出し、おばちゃんも勝手なことを言うもんだとため息をつきながら
と強く、ゆっくりと話すと
「良かった。喉の小骨が取れた気分。ありがとう」
と、鼻をグズグズ言わせながら明るい声に変わった。
猫は、俺が中学生の時に拾って、今年の夏で20才、人間になおすと100才だ。
「猫さん、私が仕事から帰ってきたら玄関の真ん中で座っててね。小さい声で、かすれた声で、にゃー、にゃぁ、にゃ、って鳴いた後、そのままになっちゃった」
お互い看取り看取られの大往生じゃねえかよ、と、今度は俺が泣きながら言う番になった。
祖父母は怒っているから母はビクビクして、父は近くにいないから。
祖父母は私は可愛がるが親にあたりが強かった。
その帰り道は必ず両親は喧嘩をする。
父は母を守らないし、母はわからないことばかりのなかでなんとかきちんとしようとするがうまく行かない。それを怒鳴る祖母、威圧感のある祖父。
落ち込み父をなじる母、怒る父。
誕生日も何も楽しくなかった。なんとか親や祖父母や場の空気を明るくしたくて振る舞っていた。
つらい気持ちを飲み込んで自分が馬鹿なことをしたり賢い発言をすると喜んでもらえる。
とにかくそれに注力しようと思った。
また親戚の伯父伯母も性格や性根が曲がりまくってて、しかも財産争いでみんな出し抜かないようにお互いに監視し合ってた。
お宮参り、お食い初め、ハーフバースデー、ひな祭り、一歳の誕生日、父の日母の日、敬老の日、正月。
夫の実家は隣の県にあるためすぐ会うことができる。
産後、里帰りから帰ってから、義母が週一回手伝いに来てくれてとてもありがたい。
しかし、義母が、義父が、子どもに接する度、自分の子どものころのトラウマが蘇る。
お利口さんにしていないと。
母よりしっかりしないと、でも何をしたら正解なのかまったくわからない。
しかし、義実家の些細な一言で、私の役目もまた終わってしまったんだと言うことをひしひしと感じる。産んだら私の役目も終わりなんだ。
実家に里帰りしたときも、父と母は昔に比べて優しいけど、なぜあのとき私は優しくしてもらえなかったんだろうとどうしようもない悔しさがある。
学者の悪口学級会が隆盛を極めており、よせばいいのにその動向を見てはイライラする時間が増えた。
渦中となっている白饅頭noteについて、御田寺圭氏本人を含め、実態を捉えていないんじゃないか、と思う評価ばかりが流れてくるので、過去に購読して、のちに解約した者が、何を感じたのか記録しておく。
あくまで個人的な見解だし、全ての記事をくまなく目を通したわけではない(読んだ記事に共通点があった気がするという話)ので、こういうユーザーもいるんだな、くらいに思ってもらえればと思う。
前提として私は「矛盾社会序説」を購入して読んだし、「黒い犬の問題」に共感を覚える側の人間で、彼が邪悪な差別主義者だとか守銭奴だとかまでは思っていない。
彼のnoteは、「ネットのギスギスやイライラから離れて自分の有意義な時間のために使おう」というコンセプトで書かれており、ジェンダーとか社会学とかその辺のギスギスする話がtwitterで話題になると、彼なりの解釈が発信されるものが多い。のだが、問題点としては、解釈の裏付けが全然ない。
こんな出来事がありました←うん
これに対して「ただしい人」はこんな反応でした←うん
「ただしい人」がこんな反応になるのは、これが原因です←なるほど、何か裏付ける事実がくるのかな
「ただしい人」のこんな反応こそが、事実を裏付けています←あれ?
だいたいがこんな感じで、小泉進次郎みたいな文章の作り方をするなあ、と思った。「twitterで彼の発言拾う以上の情報は出てこねえな」と感じたので、その金でfantiaのすけべ絵師に課金した。
基本的にtwitterで彼が言ってる以上の邪悪な内容とか、表に出せない差別的な発言とかは見出せなかったし、普段の彼の言動を「差別」という人なら差別だととるだろうし、普段の彼の言動を「性格悪いけど一理あるな」と思う人なら「一理あるな」と思うだけの内容だったので、今邪悪な存在として崇め奉られている理由はよくわからない。
カズオイシグロの記事も拝読したが、上記の文章の作り方は変わっていなくて、「カズオイシグロがこんなこと言ってました」以後は「確かに言いたいことはわかるけど、なんか根拠ないのかな・・・やっぱりなかったわ」という文章という印象を受けた。ほぼ日刊で文章書いて全部にちゃんとした根拠調べてきてつけなさい、という要求も酷だと思うので、今後も金を使うとしたら時間かけて書いてる書籍だけだと思う。
一つだけ物申すとするなら、御田寺先生には「謝るべき時に謝れないと予後が悪いですよ」という主張をされていたように思うが、現在状況が真逆になってることについて一言あってもいいんじゃないだろうか。謝るべき時に謝ったYZ先生がどうなったかは見ての通りだ。
「過去のこの発言は誤りだった」と言ってくれたほうがむしろ信頼できる論客に見えると思うのだが、それについてもごめんなさいしないほうがいいのだろうか。
そういうのを一言、「嘘松」と切り捨てて否定することの気持ちよさよ!
そして中には本当であることをムキになって証明するやつもいるが、君がどれだけ本当である証拠を並べても俺が嘘松と言えば嘘松だから
嘘つき女は怖いなぁ!因果と時間捻じ曲げて嘘を本当にしてしまう!時空犯罪者だ!
一緒に証言してくれる人たちはいくらで買収したの?その証拠作るのに何時間かけた?
あと、本当である証拠示そうとして自分の個人情報の一部とか言っちゃうおバカさんがいてね
そういうのはすぐ特定できるの
あとはこれをヲチとかに貼ったり、爆サイに多少誇張して書いちゃうのよね!
あーーー、気持ちいいいいい!!
【追記】
君らの悲しんだり怒る顔が俺はだーーーいすきなの♡
やめて欲しけりゃ低能先生みたく殺しに来てね!
なんか貴方の話どんどん主題からずれていってるので貴方の返信に一つ一つ突っ込んだ上でここで返信はやめますね
そもそも生理を楽にするとかそんな話は一言もした覚えはない。まず人の文章を読みましょう
とりあえず飯も食えず家賃もはらえずなのに生理にだけは有り金はたいとけとりあえず言葉がでてくるまでは
って対応が人の神経を逆なでしてるって話
飯や家賃より生理を優先しろなんて誰も言ってない行間を読む前に文章を読もう
生活保護とか相談窓口とかの対応がわるいとか申請しても通らないとか頼りにならないから離れるとか
そうやって言葉遊びで時間稼ぎして結局具体的になにをどうしたらいいか結論にいたらないとこ」
?
Wikipediaだったら要出典とか誰とか付きまくりそうですね
さっきも言ったけど生理がしんどいことはわかったのですがそれは主題からズレてます