はてなキーワード: ティータイムとは
おお、その話ですか、キュウリのサンドイッチの話でしたら拙者にお任せくだされ(早口)。
そもそもキュウリというのはインド周辺を原産とする植物でしてな、大航海時代に香料と一緒に西洋に広まりました。
日本にはシルクロードを通って陸路で伝わっておりましてな、途中に「胡」の国がかつてありまして、そのルートを通って入ってきたものには「胡」の漢字を充てるのです。
胡瓜(きゅうり)、胡椒(こしょう)、胡豆(そらまめ)、胡桃(くるみ)、胡麻(ごま)、などですな。
当時の西洋の貴族では自宅に植物園・菜園を所有しているのが当たり前でして、ま、ま、当初は観賞用植物として広まったようですが。
キュウリのサンドイッチはそのような菜園を所有している貴族の最大限のおもてなしだったのです。
当然、そのレシピとしては午後のティータイムに合わせたシンプルなものです。
キュウリはできるだけ薄切り、パンのほうにマヨネーズを塗ってはさみ、手で持って食べられるサイズに切れば完成です。
現代でも、当時の雰囲気を味わいたければ、マリアージュ・フレールなどで注文できます。
言葉はまるで雪の結晶 君にプレゼントしたくても 夢中になればなるほどに 形は崩れ落ちて溶けていく 消えてしまうけど
でも僕が選ぶ言葉が そこに託された想いが 君の胸を震わすのを諦められない 愛してるよりも愛が届くまで もう少しだけ待ってて
ハッピーで埋め尽くして レストインピースまで行こうぜ いつかみた地獄もいいところ 愛をばらまいて
努力 未来 A BEAUTIFUL STAR 努力 未来 A BEAUTIFUL STAR 努力 未来 A BEAUTIFUL STAR なんか忘れちゃってんだ
戯れるSlowly Flowing Day 愛してるも通り越して 似た者同士こうして 年老いるまで笑っていたいね
君がいなきゃLonely lonely Day 夢の中Fall Asleep In Bed 起こすからMorning Callで I'll protect you from nightmares, baby
昨夜、僕たちは酒を飲んで話したよね。何を言ったか全部は覚えていないけれど、確かに全部を話したんだ。
君は、僕と出会わなければよかったと言った。
自分のために花を買うことができる。砂に自分の名前を書くことができる。何時間でも自分と話せる。あなたには理解できないことを言う。
21、ひとつ頼めるか? おまえの成功を見せびらかしてくれないか?
それと21、もうひとつ頼めるか? 俺の元カノに向けてラップしてくれよ。
そして21、もうひとつ頼めるか? 敵対する連中にひとことカマしてくれないか?
21、やりたいことをやれ。21、やりたいことをやれ。やりたいことをやれ、21、わかったな?
アメリカは病んどるなあ…
女性が描くエロ漫画は途中に妙なギャグ描写が挟まって萎える、という話はよく聞く
「いわゆる"実用性"を求めていない」からではという考察もセットで言われがちだが、私は「ちんちんが画面に映るだけでもう面白い」説を提唱したい
男女エロが好きだ
男がほぼ映らなかったりモブ同然のものも全然見るができればオス堕ちしてる男の顔も見たい
男性向けエロ漫画でも男側のパーソナリティ描写は増えているとは感じるが総数はやはり女性向けの方が多くなるのは当然だろう
私個人の観測範囲では女性向け男女エロ、TL(ティーンズラブ)ジャンルの男性キャラは綺麗めのイケメン〜がっしり体格の男性(顔面は耽美な美形が多め)な印象だ
それ自体は好みなのでいいとして女の子側にはもっと本気で嫌がってほしいし最後まで堕ちないでろしい エロい女体が見たいんだこっちは
本題に戻るがとにかく男の顔が基本綺麗だ
そして女の子を理不尽に責め立てる台詞を囁きながらちんちんを出す 面白すぎる
感性がコロコロコミックを読んでいた頃から何一つ変わっていない私が確実に悪いのだが面白いものはしょうがないのだ
本気で申し訳ないと思っているんですよ セックスという本来の役割に徹しているはずの男性器を笑いたくないよ ちんちんと真面目に向き合えない己が恥ずかしい
男性向けの竿役にコミカルチックな存在(罪袋とか)が採用されてる理由って下半身のエンターテイメント力と顔面のバランスを取るためなのか?
竿が女性向けイケメンだとちんちんとのギャップでウケてしまうのでもうAVか3Dカスタム系エロゲで己の好みを追求するしかないのだ(直近でティータイム解散ニュースを受けて絶望した)
男モデルの不透明度を下げ、空中浮遊するちんちんが女の子を犯す様を眺めながら
ジンコウガクエン2は男のキャラメイクがそこそこできる上射精時に性欲に抗えない情けねえ顔が見れるので好きだ
【手持ちエロゲ】
元々どういうルールで走ってるのかIGPXなみに意味不明な漫画だったのがいよいよ凄いことになってきてる。
そこに情緒不安定通り越したポキ泉、バカすぎてヤバイ鏑木、ティータイムしすぎの手嶋、様々なしょーもなが組み合わさりもう漫画の方向性が完全に迷子。
キン肉マンII世を彷彿とさせるほどのグダグダっぷりが酷すぎて本当に面白い。
ラッキーで勝ち取った王者を実力だと認めさせるための戦いの中、超絶グッダグダを見せながらもギリギリで食らいついていくという展開が、まさにこの漫画の2年生編そのもの。
そんな所シンクロしなくていいからwwwwwって思いながら読み出すと凄い楽しい。
普通に期待してよんだらクソすぎてキレてたと思う。
ほんまなんなんこの漫画。
colaboへの反省についてお父さんがインタビューを受け報道されるなどしていた
その結果、裏切り者として暇アノンに住所を晒され、不審者が出没して庭を踏み荒らされるなどの被害
暇空は自分の信者がめたまんへの住所晒しやリア凸しているのを把握した上で繰り返しめたまんを中傷して扇動
めたまんのお父さんの職場を晒した上で、「めたまんはダンゴムシ臭い」などと罵倒
暇空はイギリスの大学に通っている堀口くんに執着し恋い焦がれているが堀口くんには嫌われてスペース参加すら拒まれており
堀口くんが帰国時にめたまんとオフ会してティータイムしたため、めたまんに嫉妬しまくっている
暇空はめたまんを訴え返すために、めたまんがなにか暇空に対してリーガルアウトな発言をしていないか信者たちに捜索命令を出す
この話は、私が一方的に期待しすぎた結果の一つであり、
自分の中での相手に期待していた行動と、現実に相手がとった行動が、
私の想像を遙かに飛び越えて、しかも斜め上に乖離していた、それだけの話である。
相手は悪くない、もうこれだけは真。
相手の行動に私が衝撃を受けて、動揺して混乱して、
そして悲しくなって一人泣いているだけなのである。
これだけ仰々しい書き出しをしておいてなんだが、話の中身は全くもって大したことではない。
どういう事が起こったのか、これから簡潔に書く。
「何か面白いアニメはないか、おすすめのアニメを紹介して欲しい、
と、訪ねられた。
(2)そんな中で私はシュタインズゲート(まどか☆マギカだったかもしれない)を勧めた。
非情に良くできているから、じっくりと楽しんで欲しいとも話した。
レンタルとか、サブスクならこの辺使ってれば観られるよ、なんて話もした。
友人「ネットにまとめ動画(30分)があったからそれ観たんだけど、まさか途中であんな風に
話がひっくり返るとはねー! そして最後のたたみかけすごいね。これは確かに面白いよ」
(4)私、茫然自失。気づいたら友人との会話を切り上げて部屋でぼーっとしていた。
最初、なぜ泣いているのか、何にショックを受けているのかすらまともに理解できなかった。
そして、なぜ私の心臓は未だにバクバクと脈打っているのか、手が小刻みに震えているのは何故なのかを考えた。
『まとめ動画(30分)があったからそれ[だけ]観た』、これだ。
何度も繰り返しになるが、友人が悪いわけではないのだ。
友人はおそらく悪意を持ってこういう行動を取ったわけではない・・・はず。
なにやら忙しかったようで、でも私と話を合わせるために、急遽まとめ動画を観てくれたのかもしれない。
でも、それは私の想定していた形ではないんだよ(´・ω・`)
『最初から全くそういうアニメやゲームに興味がなくて、でもよく話題に出てくるからまとめ動画観てネタバレまで知っている』
それならそれで、それはありだと思う。私もそういう風にまとめ動画で観ることあるから。
でもね、人にお勧め聞いておいて、これはないと思うのです。(ここは私の感想です。)
そして、私は友人に勧めた作品を楽しんで欲しくて、
正規の視聴を終えたあとで(または少しずつ観たところまでの内容で)、
私はとても楽しみにしていたんです。
ああ、これが悲しくて泣いていた理由なんだな。
文章を書いていたら頭の中が徐々に整理されて、ようやくわかりました。
今まで友人にアニメやゲームや映画をお勧めすることは何度もありましたが、
いい加減いつまでこの話を続けるんだ?と言われてしまいそうだが、
このツリーの感想を読んでいて思ったことを性懲りもなく付け加えてみることにする。
水星の魔女は若者向けを目指したと言われているが、あまり若者向けの作りになっていないのではないか?という話だ。
ツリー内に共感できる感想が多かったので、引用が多くなることを許してもらいたい。
この投稿の「スレッタが酷いことを言われても耐えるキャラのまま終わった」、
この投稿の「スレッタとグエルの毒親受容」「ウテナ要素の中途半端なサンプリング」に同感である。
特に、決闘による花嫁争奪戦という現代の価値観では人権侵害でしかない制度を否定せずに終わったのはいただけない。
スレッタとミオリネがお互いの意思で一緒にいようとする・グエルが自分の意思でミオリネをスレッタに譲るという展開では駄目だったのだろうか?
そもそも何故そんな制度がまかり通っているのかということにも、制度に反対していたのがミオリネ一人だけという異常な状況にも、詳しい背景の説明がない。
正直なところ、本編の描写だけではべネリットグループやレンブラン家が政略結婚を必要とするほど切羽詰まっているようには見えなかった。
ミオリネだけではなくスレッタやグエルも当事者なのだからデリングに制度のことを問いただすシーンがあっても良かったし、
最初はデリングに反抗的だったミオリネも制度は父なりに娘を思ってのことだったと納得してしまったように見え、非常に残念だった。
この投稿の「格差描写が無意味、作品としての倫理観が粗末だった」、
中でも子供ばかりが罪を負い、大人は罪を償ったはっきりした描写がなかったことが引っかかる。
(オリジナルエランは自分の影武者として作られたエラン4号や5号ら強化人士たちの扱いをどう思っていたのか?
ラウダが学生たちの乗った宇宙船を攻撃し、グエルを殺害しかけたことはどう処理されたのか?という点も確かに気になるのだが)
デリングはテロ事件で一時昏睡状態に陥り、プロスぺラも体が不自由になり、一応痛い目に遭っていると言えるかもしれない。
それに比べてペイル社の4人のCEOたちは、財産は失ったらしいもののなぜか私服でティータイムを過ごしているシーンで終わった。
この4人にネタ人気が出たせいなのか分からないが、非道な人体実験を行い(少なくとも)4号を殺害した罪を曖昧にしてはいけないだろう。
御曹司のグエルがやたら視聴者に持ち上げられる脚本になっていて
(それこそスレッタが落ち込んで行動不能になるのを繰り返していた2期中盤などは、グエルこそが真の主人公だ!貴種流離譚だ!なんて言われていた)、
シャディクの掘り下げがなかったことで、「イスラエル可哀想!パレスチナ人は死ね!」の目線だけで終わった感があるんだよな水星の世界観。
シャディクが学園の生徒を殺したのは犯罪だが、スペーシアンがアーシアンを一方的に搾取する構造がなければシャディクは何もしていなかったわけで。
その辺りの掘り下げがなさ過ぎて、ただ視聴者のヘイト集めて終わって、水星の魔女って何が言いたかった物語なんだ?になってしまってる。
フィクションには、特に子供が見るようなアニメには、「愛人の子なだけあって全部がグエルに劣ってる」といった差別には反論できるように作る義務があると思うんだわ。
しかし本編を見る限り、ラウダを擁護できない。ラウダを擁護している人々は憶測と願望といった本編に無いものが主な根拠になっている。
フィクションは意図によってコントロールできるものなのだから、現実で差別や不利益に晒されがちな非嫡出子の扱いはもっと考えて欲しかった。
愛人の子だからジェターク姓でなくニール姓を名乗らされ、23話で「ラウダ・ジェタークが!」と叫んだのに、
客観的には「状況が分かっていない人による迷惑な横やり戦闘」でしかなく、3年後でも当たり前みたいにニール姓のままだったのは酷い話だよ。
兄は正妻の子なのにスレッタに振られ、弟は愛人の子だけどペトラに好かれているようだという点以外、一切の救いがない。本当に酷い。
ある程度年齢の行った視聴者なら、「紛争地帯出身の孤児でスペーシアンとアーシアンのハーフであるシャディク」
「正妻の子・グエルと同い年の異母弟で愛人の子であるラウダ」という設定を聞いた時点で
シャディクやラウダがどんな目に遭ってきたのか、これまでの知識や経験から何となく想像できる人が多いのではないかと思う。
シャディクは「アカデミー」に入るまでは貧困生活に加えて危険と隣り合わせの毎日だったかもしれないし、
ラウダはジェターク家に引き取られてからも「愛人の子」という本人には責任のない中傷に苦しんだかもしれない。
こう考えればシャディクがテロを起こした理由や、ラウダが神経質で他責的な性格になった理由にもある程度納得が行く。
ただこれらは本編に描かれていない以上想像にすぎないので、「そんな描写はない」と言われてしまえば反論できない。
個人的に、兄のグエルと比べて弟のラウダは大した苦労をしていないかのように言われがちなことにも無情を感じる。
ラウダも兄のグエルが行方不明になり、そこへ父親のヴィムが死亡し、10代にして経営が傾いた大企業のCEOに担ぎ上げられるという
なかなか壮絶な経験をしているのだが、何せ絵的には地味であり直接的な命の危険はなかったため主に若者の共感を得にくかったのだろう。
(恐らくペトラはそんなラウダをそばで見ているうちに助けたくなり、それが恋に発展したのだと思うがこれも描写がないので想像でしかない)
寮を追い出されて野外でキャンプをする、家出をして偽名でアルバイト生活をする、事故で父親を死なせてしまう、地球でテロリストに監禁される、と
視覚的にわかりやすくバズりやすい描写があったグエルの方が同情を集めたのも無理もないのかもしれない。
制作側としては「シャディクやラウダの過去を詳しく描くと生々しいのでカットしてしまおう、
描かなくても視聴者が何となく想像で補ってくれるだろう」という考えだったのかもしれないが、
果たして若い世代が本当にそれを想像できるのかどうか、もっと熟慮してほしかったところだ。
大人であれば「御曹司で純血スペーシアンで正妻の子であるグエルが視聴者に持ち上げられ、
そうではないシャディクやラウダがグエルと比較されて叩かれる」という状況の倫理的なまずさに気が付いても、
若者であればそれが分からず無邪気にグエルを持ち上げシャディクやラウダを叩くこともあり得る。
(というか、実際ネット上でもこのツリーの中でもそれが起こってしまっている)
グエルのような(中略)キャラクターに自己投影して持ち上げて、それに比べて貧困アーシアンを鉄砲玉として使い捨てして学生大勢殺したテロリストシャディクや
例えば15話なんて、グエルはもう他に充分良いシーンをもらっているのだから
それこそシャディクやラウダ、スレッタのフォローに時間を使った方が良かったんではないか?
最終的に、こう言われても仕方がない脚本になってしまったと思う。
シャディクやラウダへのヘイトも酷かったが、グエルは人気キャラクターであるのと同時に
「主人公であるはずのスレッタを食っている」とアンチも多く、グエル役の声優がSNSで攻撃される事態にまでなっている。
人気キャラだからと言って持ち上げすぎても作品のバランスを損なってしまうのだ。
本題からはズレるが、特定のキャラクターを活躍させすぎるとプラモやキャラ商品の販売にも支障が出る。
できるだけ多くのキャラクターを魅力的に描いた方がそれだけ多くの種類のプラモやキャラ商品が売れることに繋がるはずだが、
シャディクやラウダは本編内の描写だけを見るとさながら「お星様(グエル)の引き立て役B」になってしまっており、
(グエルと比較されることこそあまりないが)やはり悲惨な境遇であるエラン4号や5号も目立った活躍や掘り下げが少なかった。
その割にスレッタ・ミオリネ・グエル以外のキャラもそれなりの人気を獲得しているのは、ファンが想像でキャラの過去や長所を補っているからだろう。
だからと言って制作側は視聴者の想像に頼りすぎず、必要な描写はアニメ本編内でしっかり描くべきだったと思う。
・子供が大人から受けた酷い仕打ちを許し、大人の分まで罪を被ってくれるという大人に都合のいい形で終わったアニメだった
・「信賞必罰」「勧善懲悪」があやふやであり、血統による差別を推進する、道徳的に子供や若者にふさわしくないアニメだった
と言わざるを得ない。
制作側に良心があるなら、今からでも作中の大人の罪やモラハラ行為をきっぱりと否定し、
作中で不遇だったキャラクター(特にシャディクとラウダ)について何かしら擁護できるような情報を出してほしい。
そして次回こそは上記のようなことに気を配った、一本筋の通ったアニメを制作してほしいものである。
『万物の黎明』の中心的なアイデアは挑戦的だ。人間とは政治的に冒険的で実験的なものであり、自由と平等の呪縛の後に、変化を起こすために抑圧を選ぶ傾向があると言われるほどである。歴史は、ある極端なものと次の極端なものの間を揺れ動く、リズミカルな形をとっている。しかし近年、私たちは皆、ひとつの体制から抜け出せなくなっており、その理由を理解しようと努めなければならない。
これらすべては新しく新鮮ではあるが、信用できるものではない。私は、私たちの人間性を規定する政治的本能や社会的感情は、平等主義という条件の下で形成されたという人類学的な標準的見解の方を好む。今日に至るまで、私たちは皆、対等な仲間の中で笑ったり、遊んだり、社交したりできるときに最もリラックスし、幸福を感じる。しかし、グレーバーとウェングロー(以下、G&W)は、このような私たちに馴染み深い経験を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先が平等主義者であったという考え方全体に反対している。彼らの見解では、彼らは抑圧されることを選択した可能性が高い。
彼らの言葉を借りれば、「われわれの人間性の本質が、われわれが自意識的な政治的行為者であり、したがって幅広い社会的取り決めを受け入れることができるという事実から成り立っているとすれば、人類は歴史の大部分にわたって、実際に幅広い社会的取り決めを探求してきたはずだということにならないだろうか」。これらの可能性の中には、著者たちが容易に認めているように(86-7頁)、チンパンジーのような虐待的な支配階層も含まれている。G&Wは、もし我々の祖先がそれほど冒険好きであったなら、きっと平等主義だけでなく、攻撃的でいじめっ子のオスによる嫌がらせや虐待、支配も実験しただろうと主張しているようだ。
G&Wは、私たちが革命の過程で社会的、道徳的に人間になったという考えに対する一貫した攻撃の中で、これらの点を指摘している。私はずっと、人間の言語、意識、親族関係、道徳は漸進的な進化の過程で進化し、それが巨大な社会的・政治的革命で頂点に達したという考えを探求してきた。私の動機は常に、人間は本来利己的で競争的だから社会主義は不可能であり、「革命でさえ人間の本性を変えることはできない」という一般的な偏見に挑戦することであった。
私はいつもこう答えていた。そう、私たちは類人猿の一種である。そう、私たちは霊長類のいとこたちのように、競争的で利己的、攻撃的でしばしば暴力的な本能を持っている。しかし、それが私たちの成功の原因ではない。優秀な母親や父親になる能力、自分の子供だけでなく互いの子供を思いやる能力、道徳的なルールを確立する能力、他人が自分を見ているように自分も見ている能力、音楽、ダンス、言語を使って夢を共有する能力など、私たちの本性にまつわる人間的な特徴すべてが、まさに歴史上最も偉大な革命の産物であり、成功した革命なのだ。
この「人間革命」の複雑さを詳述した私自身の著書(Knight 1991)が出版されてからほぼ10年後、人類学者のクリストファー・ボーム(Christopher Boehm)は、その洞察にもかかわらず、最も重要な要素であるセックスとジェンダーの力学についての言及を一切省くことで、政治的な観点から安全策を講じた理論のバージョンを発表した(1999)。G&Wが人間革命理論の信用を失墜させるために明示的に言及するのに十分安全だと考えているのは、この抽象的でユニセックスなバージョンなのである。
ボームは、私たちの最も古い祖先は、一方的な協力者でも一方的な競争者でもなかったと指摘する。それどころか、他者を支配する一方で、支配されることに抵抗するために同盟を結ぶという心理的傾向があった。このような下からの集団的抵抗は、最終的には、リーダーになろうとする者が集団を支配するのを阻止するために、全員が一丸となることで頂点に達した。私たちの祖先のチンパンジー的な支配は、今や逆転し、「逆支配」、つまり平等主義的な倫理観にコミットした道徳意識の高い共同体による支配へと結実したのである。
G&Wは、人類は「......何をすべきか指示されることを自意識的に嫌うようになった」(p.133)という考えに賛同している。この文脈では、現存する狩猟採集民が「嘲笑、羞恥、遠ざけ......他の霊長類に類似するものはない」(p.86)、「自惚れ屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために集団で採用される戦術の数々」を示していることに同意している。彼らがまったく関心を示さないのは、そうした戦術が進化の過程で人間の本性を形成する上で重要な役割を果たしたという考えである。
ボームの説明に対する反論をまとめると、狩猟採集民が一貫して平等主義を好んでいたという示唆は、「何万年もの間、何も起こらなかった」という「奇妙な主張」であるという。狩猟採集民の祖先が一貫して平等主義的であったとすれば、彼らの政治的生活は何らかの形で凍結され、時間が止まってしまったに違いない。G&Wは次の言葉で締めくくっている:約12,000年前以前、人類は基本的に平等主義者であったとボームは主張する。ボームによれば、約20万年間、[これらの]政治的動物はみな、ただ一つの生き方を選んだのである」。(p. 87)
唯一の問題は、これはボームが書いたことではないということだ。彼の実際の言葉は引用に値する:
ひとたびどこかのバンドが平等主義的な秩序を発明すれば、この社会的なやり方の根本的な変化は近隣のバンドにも目につくようになる。特に、非常に攻撃的ないじめっ子を擁するバンドでは、部下が支配されることに対して両義的であれば、どこでもその利点は明らかだっただろう......。魅力的な平等主義の伝統が、地元では専制的な伝統に取って代わり、徐々に文化的な拡散が起こると予想される。やがて、より長い距離を移動する移動パターンによって、この政治的発明がかなり急速に大陸から大陸へと広まっていったと考えられる。(Boehm 1999: 195)
これが成功した革命のやり方だ。ボームの主張は単純に、1万2千年前まで『人類は基本的に平等主義者だった』というものではない。そうではなく、初期の人類はさまざまな政治システムを発展させながら、平等主義というひとつの特に成功したモデルに徐々に収斂していったというのである。
かなり不当なことに、『万物の黎明』は現代の進化論を社会進化論と混同している。社会進化論とは、「未開」から「野蛮」を経て「文明」へと進歩する段階のはしごを描いた19世紀の物語である。ダーウィニズムは科学的であると私たちは語り聞かされるが、実際は純粋な神話である。G&Wはそのように空想的に、進化論を全く認めない人類の起源に関する視点を、読者が真剣に検討することを期待している。
この著者たちが認める唯一の科学は「考古学的科学」であり、その考古学がさほど遡らない場合のみである。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と、時折出てくる火打石のかけら」(p.81)からは何も読み取れないという理由で、「万物の黎明」をわずか3万年前とすることを正当化している。
このような言い訳は、私たちの種の最もユニークな特徴である芸術と象徴文化が、以前考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという最近の証拠に照らすと、もはや通用しない。この証拠は、骨や石に限らず、ビーズ、幾何学的な彫刻、墓用品を伴う埋葬、砥石や絵の具壺などの工芸品で構成されている。G&Wは、これらの発見のうちの1つか2つに気づいてはいるが(83-4頁)、ほとんど関心を示していない。最先端のダーウィン理論を黄土の記録に適用すれば、社会力学、儀式の実行パターン、性別による同盟関係についての予測を生み出す可能性が非常に現実的になるにもかかわらず、である。(Power 2019; Power et al.
残念ながら、これらの著者たちは、どのような形であれ、ダーウィニズムには近づこうとしない。彼らは、彼らが「フェミニスト」と呼ぶ人物(実際には霊長類とヒトの社会生物学の創始者として高く評価されているサラ・ハーディ)が、人間の本能と心理の形成における集団的育児の重要な役割について「物語」を考え出したことを認めている。「神話は悪いものではない」とコメントしながら、彼らはこの特別な神話を「重要なもの」と表現している。そして、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、このような洞察は部分的なものにしかなりえない」(p.82)と口にして、すぐさまこの神話に疑念を投げかける。この種のトリック--この場合は、ハーディの画期的な研究が、私たちの共通のミトコンドリアDNAの祖先の年代測定より200万年ほど前のホモ属の出現に焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに、人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
中石器時代や新石器時代の考古学に興味のある読者なら、本書には興味をそそられる推測がたくさん書かれているだろう。しかし、私たちがどのようにして人間になったのか、つまり、異常に明瞭な目、並外れて大きな脳、独特の社会的感情、笑い、音楽や言語に対する生得的能力などがどのようにして発達したのかに興味がある人には、まったく何も見つからないだろう!
タイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『万物のティータイム』の方が正確だろう。物語は、氷河期のフランスとスペインに描かれた壮大な洞窟壁画で知られるヨーロッパの後期旧石器時代から始まる。著者によれば、その段階でようやく考古学が面白くなってくる。初めて、社会の複雑さ、階層、豪華な埋葬などの証拠が見え始めるのだ。
G&Wにとって、狩猟採集民の祖先がアフリカでもっと早くから平等主義的なライフスタイルを確立していたという事実は、さしたる関心事ではない。彼らは、タンザニアのハザ族のような現存する狩猟採集民が資源を共有していることは認めるが、それを賞賛する代わりに、蓄積への抵抗が「社会的複雑性」の出現を妨げていると不満を述べている。著者たちは社会階級という概念を嫌っているようだ。
つまり、狩猟採集民は富の蓄積に抵抗することで、複雑性を妨害する、つまり階級社会の発生を阻止するのである。G&Wはここで狩猟採集民の専門家であるジェームズ・ウッドバーンの権威を持ち出している。彼らは彼の研究から、「真に平等主義的な社会を維持する唯一の方法は、あらゆる種類の余剰を蓄積する可能性をまったく排除することである」(p.128)と結論づけている。このことは、社会の複雑さを排除し、人間の文化的・知的生活の豊かさを排除することになると彼らは主張する。
ウッドバーン(1982、2005)は確かに、蓄積に対する意図的な抵抗が狩猟採集民の平等主義を支えており、意識的になされた政治的選択を表していると主張している。彼は、このような平等主義は非蓄積型狩猟採集民だけの特徴であると観察し、「即時回帰」こそが人類経済の原型であると結論づけた。しかしウッドバーンは、そのような平等主義に複雑性が欠けているとは主張しなかった。実際、彼は「単純な」社会形態と「複雑な」社会形態との二項対立を有害で誤解を招くものとみなしていた。ウッドバーンにとって、平等主義を維持することはこの上なく洗練された達成であり、単に不平等が生じるのを許容するよりもはるかに高いレベルの政治的知性と複雑性が要求されたのである。ハザ族には、必要以上の富を蓄積させることがいかに危険かを理解する知性があると彼は説明した。
しかしG&Wによれば、富の不平等は問題ではない。彼らの立場を支持するために、彼らは17世紀にヨーロッパの「文明」を批判したファースト・アメリカンのカンディアロンクを引き合いに出している。やや説得力に欠けるが、彼らは、カンディアロンクと彼の最初のアメリカ人共同思想家たちは、「富の差が権力の体系的不平等に変換されうることを想像することさえ困難であった」(p.130)と断言している。
G&Wは、即時回帰型の狩猟採集民が富の不平等が生じるのを拒んだことを認めている。しかし驚くべきことに、彼らはこの状況全体を期待外れとみなしている:
こう言うと、何か希望に満ちた楽観的な話に聞こえるかもしれない。実はそうではない。この言葉が示唆するのは、やはり、最も単純な採集者以外には、その名に値する平等は本質的に不可能だということだ。それでは、私たちにはどんな未来が待っているのだろうか?
どんな未来?アフリカの狩猟採集民からインスピレーションを得ている活動家たちは、現代の都市生活者を、不運なハッザ族のように、小さな遊牧民集団の中で繰り返される単純な生活に「はまり込む」よう招いている、と彼らは示唆する。
はっきり言っておくが、私は原始主義者ではない。私は技術的、社会的、政治的発展に賛成である。ハザ族は、必要に応じて富を共有し、笑い、歌い、遊びの中で「時間を浪費」し、誰かに支配されることに抵抗し、他のすべての心配事よりも互いの子供の世話を優先することが、充実した楽しいことであることを示している。開発に関して言えば、この政治的に洗練された弓矢ハンターたちは、私たちに多くのことを教えてくれるだろう。
(続く……)
1秒しか読んでなくて間違ってたらごめん
三国志の
自分で悪口を言うより、他人にそれを言わせる方が効用は高い気がする
それは、悪口を誰かに言わせる方が以下の理由で何倍も楽しめるからだ。
そもそも、みんな本心では悪口を言いたがっているのだから、誰かに他人の悪口を言わせるのはさほど難しいことではない。
共感されるだろうエピソードで水を向ければ、相手は簡単にその口を開くだろう。まるで貝のように。
特に、悪口の鉱脈みたいなものに突き当たって、水道をひねったかのように、相手の悪口が止まらないときの喜びと言ったら!
効用が高いと述べたが、そうやって相手の悪口を導けたときには、
①相手をそんな異質な状態に持っていくことができた自分の会話能力の高さに惚れ惚れし、
②相手が秘めていたニーズを明らかにし、それを満足させた自分の有用感に安住できて、
③悪口をこっそり打ち明けるくらい、相手の信頼を勝ち得ていることにコミュニケーション上の疎外感が解消され、
④逆に、悪口を言ったことを本人にばらす可能性をちらつかせることで、相手の弱みが握れて今後の人間関係が優位に運べるわけだし、
⑤第一、悪口を言うことで生じる罪悪感というか発言責任みたいなものを相手に押し付けることができ、
⑥それでいて、自分で悪口を言うのとストレス解消感は変わらない。
むしろ、相手の悪口の方が自分のそれより表現が巧みで「なるほど!」と膝を叩きたくなることまである。
そんなわけで、そのシチュエーションを思い出しただけでニヤニヤが止まらないほど、他人の悪口のシャワーを浴びていると高揚感で楽しくなってくる。
そうそう純粋に、⑦他人が本気になって怒ってる姿って楽しいなー、みたいな感情もあるよね。
ただ、それに合わせて自分も悪口を言ってしまっては元の木阿弥(同じように発言責任を負ってしまう)なので、
あからさまに誉め殺しの口調で「そんなことないですよ~○○さんだって俗人にはわからない深い御意図をお持ちなんですよ」
なんて言って他人の批判根性を刺激しつつも、自分は悪口を言っていないと予防線を張り、
この素晴らしい時間がなるべく長く続くよう会話に策を凝らして、自分の感じる快楽のために頑張り続ける。
それでも決して相手に同意はしない。あくまでも善意の振る舞いで相手を煽ることで、言い逃れもできるようにする。
そして、その罪はお前だけが被れ!ってほくそ笑みながら、同僚の感情豊かな「おこ」を見て、楽しいティータイムを今日も過ごした。
…というのはまあ、全て机上の空論で実際に試したことはないんだけども。
楽しいのは頭でわかってるし、その手はずもバッチリなのに、なんか実行に踏み切れない。
それは、悪口を誰かに言わせる方が以下の理由で何倍も楽しめるからだ。
そもそも、みんな本心では悪口を言いたがっているのだから、誰かに他人の悪口を言わせるのはさほど難しいことではない。
共感されるだろうエピソードで水を向ければ、相手は簡単にその口を開くだろう。まるで貝のように。
特に、悪口の鉱脈みたいなものに突き当たって、水道をひねったかのように、相手の悪口が止まらないときの喜びと言ったら!
効用が高いと述べたが、そうやって相手の悪口を導けたときには、
①相手をそんな異質な状態に持っていくことができた自分の会話能力の高さに惚れ惚れし、
②相手が秘めていたニーズを明らかにし、それを満足させた自分の有用感に安住できて、
③悪口をこっそり打ち明けるくらい、相手の信頼を勝ち得ていることにコミュニケーション上の疎外感が解消され、
④逆に、悪口を言ったことを本人にばらす可能性をちらつかせることで、相手の弱みが握れて今後の人間関係が優位に運べるわけだし、
⑤第一、悪口を言うことで生じる罪悪感というか発言責任みたいなものを相手に押し付けることができ、
⑥それでいて、自分で悪口を言うのとストレス解消感は変わらない。
むしろ、相手の悪口の方が自分のそれより表現が巧みで「なるほど!」と膝を叩きたくなることまである。
そんなわけで、そのシチュエーションを思い出しただけでニヤニヤが止まらないほど、他人の悪口のシャワーを浴びていると高揚感で楽しくなってくる。
そうそう純粋に、⑦他人が本気になって怒ってる姿って楽しいなー、みたいな感情もあるよね。
ただ、それに合わせて自分も悪口を言ってしまっては元の木阿弥(同じように発言責任を負ってしまう)なので、
あからさまに誉め殺しの口調で「そんなことないですよ~○○さんだって俗人にはわからない深い御意図をお持ちなんですよ」
なんて言って他人の批判根性を刺激しつつも、自分は悪口を言っていないと予防線を張り、
この素晴らしい時間がなるべく長く続くよう会話に策を凝らして、自分の感じる快楽のために頑張り続ける。
それでも決して相手に同意はしない。あくまでも善意の振る舞いで相手を煽ることで、言い逃れもできるようにする。
そして、その罪はお前だけが被れ!ってほくそ笑みながら、同僚の感情豊かな「おこ」を見て、楽しいティータイムを今日も過ごした。
…というのはまあ、全て机上の空論で実際に試したことはないんだけども。
楽しいのは頭でわかってるし、その手はずもバッチリなのに、なんか実行に踏み切れない。
37歳 男、都内在住。
年収は700万円位。この前のボーナスは額面で約90万円出た。
所属している会社は、部署ごとに激しく赤字と黒字を出しているので
会社全体はトントンorチョット黒で今年度は着地しそうと部長。
「会社はまだ大丈夫。うち(の部署)はド赤で(今年度の売上)締めたいから、できれば来期に納品できるように調整して」
と、部長からありがたいお言葉を頂いたので、テレワークをしながらのんびり来期に向けた仕事をしている。
皆少し寂しいのか「ゲンキ~?」と学生時代かのような挨拶をし、会議が始まる5分前に入ってきて雑談する。
そこで近況や最近お取り寄せで美味しかっただの、子供に対する愚痴などを話しながら、全員揃ったタイミングで会議スタート。
終わりは「じゃあ他に何かある人いる?いないみたいだから終わりにします。お疲れさまでした。」 「「「お疲れ様です」」」
スッパリ終わる。
会議終了即資料送付&議事録作成・報告&チームmtgができて無駄がない。
残業が激減した。
同じくテレワークをしている妻と18時頃に「今日は何たべよっか~」と話し、スーパーに買い物に行く。
近くにスーパーが3件、酒屋さんもあるので、ワイン選びで困ることがない。
夫婦でお酒が好きなので、今まで買わなかった3000円オーバーのワインを選ぶことも多くなった。
お刺身に合うかと白ワインを買って、「この前買ったやつの方がお刺身には合ったね」
「これだったら牛のタタキの方があうかもね」と感想を言い合う。
生活が変わった。
仕事終わりでまっすぐ家に帰ってきたことはほぼ無かった。24時は超えていた。
僕と同じくらい稼いでいるので、平日外食が週2回はあった。
外食すると二人で1万円。
二人そろって休日が取れればお出かけ。
それぞれ2千、2千、1万。。。
エンゲル係数が高かった。
だが家でゆったり食べるのも悪くない。
仕事がなくなったり、大変な方を拝見するに、その心慮りたい。
ただただ環境が変わった。
自分にできることは、外食せず、サウナに行かず、休日も家にいよう。
両親・義両親にも合わず、連絡を取り合う。
それくらいだ。
最初は退屈していたが、そのうち慣れた。
わかってはいたが、外食・夏休み旅行がいかに大きな支出だったか。
東京のど真ん中で力一杯働いて、力一杯に楽しむことが最上だった。
消費をステイタスと思っていた部分もあるだろう。
だが意外と日常をゆったりと過ごせるということが分かった。
行為中に首を絞められた。正直無理。
「どうして首元を押さえたの」
「だってMでしょ」
私は元々呼吸器系がそんなに丈夫じゃない。
首締めというにはかなりソフトなものだったと思うけど、苦しかったし、快楽など微塵も感じなかった。
お互いを信頼してるからそういう行為に至っていたのに、また同意のない行動に及ぶのではと思うと無理だった。
説明したら「やり直そう。上書きしたい」って言われたけど、やり直すための信用がもう無い。
イギリスかどこかの教育動画で、性的同意を紅茶に例えるものがあった。
それに準えるならば、「紅茶はいかが」「ありがとう」というやり取りでサーブされた紅茶に唐辛子が入っていて、
「どうして唐辛子を入れたの」
「辛い食べ物が好きでしょう」
「もう飲みたくない」
「ごめんね。入れ直すからもう一回飲んで」
相手が唐辛子を入れていない確証はないし、唐辛子でなくとも他の何かを混ぜてくるのではと身構えてしまう。何年も一緒にお茶を楽しんでいて、私が普段飲んでいるのはストレートティーだって知っているはずなのに。
ティータイムの準備をするのが好きなのだ。どの紅茶を飲もうか、どんな茶菓子を食べようか、と考えて準備するのが好きなのだ。そしていつの間にか紅茶を飲むための手筈が揃ってしまって、相手が紅茶を飲もうというから、それもいいかもしれないねと紅茶を飲んでいたにすぎない。
と、言われたところで、元から私の目的は紅茶を飲むことではないので、奇怪な紅茶を飲まされた後では飲みたいとは思えない。
私はティータイムの準備が好きだった。
紅茶が飲みたいわけではなかった。