はてなキーワード: 論陣とは
幼いころの記憶は、2歳ぐらいから残っている。初めて乗った三輪車、初めていった遊園地でのヒーローショー、流行に乗って買ってもらったローラースケート、ファミリーコンピュータ。皆覚えている。
幼稚園の頃には、既に自分が他者とは異なる存在であることを認識していた。
幼稚園でやることは何もかもが退屈だった。何度同じことを教えてもらっても文字を読めない、たとえひらがなであっても自分の名前を書けない。そんな同い年の園児達に辟易していたし、先生の言うことも最終的に言いたい・結論の読める、そんな通り一辺倒の話しばかりで、毎朝幼稚園に通うバスに乗る時には苦痛を感じていた。
ある日、そんな苦痛の発生源から「近所の公園で落ち葉拾いをして、その落ち葉でちぎり絵を作りましょう!」と言われた。他の園児たちは落ち葉をかなり細かくちぎって、造形でギリギリ判別できるかどうかの「おさかなさん!」「おはな!」「おかあさん!」といったの作品を作って先生に持って行っていたが、俺は「いやいや、落ち葉で作るんだから落ち葉である事を活かせよ」と思い、少し捻くれた形をしたカエデの落ち葉を1枚と、他にも大量の落ち葉を拾って、「人喰いおおかみをやっつけた人が、その証としておおかみの右手をバイクに積んで村に戻っているところ」という作品を作った。
作ったちぎり絵を先生に見せた時、「これは・・・バイク?・・・と・・・手?」という反応をされたので、それは人の手では無く、怖くて悪い人喰い狼だと説明した。その際に俺は「これは他の人間にも説明が必要だな」と何故かひとり勝手に確信し、画用紙に黒のクレヨンで物語を描き始めた。最初は延々と文字だけで説明していたが、文字だけだと寂しいので、余白に挿絵もつけた。
「悪くて怖い人喰い狼が現れて困っている村人たちのところに、腕利きの猟師がやって来て・・・」という、何とも陳腐な筋書きではあるが、画用紙を10枚以上使ったと記憶している。
俺のちぎり絵と物語は幼稚園で話題になり、その年のお遊戯発表会の題材にもなった。先生は「やっぱり主役の猟師役は増田君がやるべき」と言ってくれたが、主役はガキ大将のS君に決まった。かけっこなどの身体を使う類いのことはからっきしだったので、俺はそれで良いと思った。
発表会は結構うまくいったようで、いつの間にか俺の「作品」達は、「画用紙に書いた物語と一緒に区役所に飾ろう」という話まで出て来ていた。
その事で幼稚園側と区役所側の担当者が何度か話し合いを持ったようだが、結局絵だけ飾る事になった。
区役所に絵を飾る事になるまでの一連の話を幼稚園から説明された両親は、たいそう喜んでくれた。
両親は平凡だった。見合いで結婚し、中庸であることを良しとし、毎日を善良に暮らし、一人息子である俺にもしっかりと愛情を注いでくれる。そんな両親だった。
ただ、そんな両親が、幼稚園側が区役所の絵画の話を交えつつ、「増田君は本当に優秀です。才能があります。小学校は是非とも私立を考えられては・・・?」と強く推した途端、「いえ、結構です。ウチは公立の小学校に行かせます」と、頑として譲らなかった。理由はわからない。金銭的な問題だったのかもしれないし、中庸を良しとする生き方に反していると考えたからかも知れない。
俺は単に「人間関係をリセットして、見知らぬ土地でまたイチからやり直すのは苦痛である」などとぼんやり考えており、小学校は地元の公立のほうが良いように思えた。
幼稚園の中に友達と呼べるような存在はいなかったと思うし、毎朝の通園バスも苦痛ではあったが、それでも何とか周囲の人間の為人を把握して対応方法をほぼほぼ確立していた矢先の話だった。小学校とやらに行く事になれば、公立でも私立でも「周囲の人間の数」は増えるのだろうが、私立でゼロから再構築するよりは公立のほうが幾分マシだろうと思っていた俺は、そのように両親に伝えた。
両親と俺の希望が一致していたので、当然小学校は地元の公立小学校に入学することになった。
小学校に入っても、特に俺自身の変化はなかった。小学校に入ると本格的に「勉強」というカリキュラムがはじまったが、先生が言っている事を聞いて、板書をして、家に帰ってから宿題を済ませた後に復習・予習をしていれば、テストの点数は取れた。
この頃になると、自分の状態を客観的に捉えた上で、自身についての考察ができるようになっていた。
俺は結論として、「俺は天才である」と考えた。井の中の蛙どころの騒ぎではない。加えて、空の青さも知らないとなればもはや滑稽を通り越して害悪であるが、俺の周囲には俺より優れた学力を持つ者も、俺を諫めようとする者もいなかった。
言い訳がましいが、物差しが少ない小学生の時分である。「学力」という物差ししか持っていなかった俺は増長し、慢心し、周囲を哄笑した。将来は俺のような人間が、東京大学のような「賢い一流の大学」に入って、「でっかい一流の会社」に入社して、いずれは社長になって世の中を動かしていくと、本気で思っていた。
何より、公立の小学校は毎日がヒマだった。普段から見下している同級生とは、恐ろしいぐらいに会話がかみ合わなかった。俺にコミュニケーションスキルがあれば、「会話をあわせに行く」「自分の会話ができる場を作る」といった芸当も可能だったかも知れないが、ご多分に漏れず俺はコミュ障だったし、そもそも会話を合わせるという発想もなかった。
「名のある企業に入れる」「いずれは社長になる」などと思いこんでいるような人間がコミュ障というのは、その時点でもう既に色々と破綻しているような気がしないでもない。
ともあれ、この頃の俺は毎日退屈な授業とかみ合わない会話をする為だけに、日帰りの監獄に通っていた。全国の小学生がこの地獄を味わっているとするなら、文部省は滅ぼさなければならないと本気で思っていた。その為に文部省に入って俺がこの国を変えてやるんだと、鼻息だけが荒い小学生だったと思う。
─────「良い会社」に入るには「良い大学」に行かないといけないらしい。
─────日本一の大学は東京大学というところらしいが、真の天才であるならば京都大学に行くらしい。
そんな情報を入手したのは、忘れもしない、小学4年生の秋頃である。いかにも小学生が摂取しそうな、狭い世界のテキトーな話である。だが俺は何故か純真無垢にその与太話を信じた。つまり、「将来は絶対に京都大学に入ろう」と思った。
そこから俺は色々と京都大学の情報を収集しはじめた。「学部」など、小学生の俺の辞書には登録されていない概念に触れる度に興奮しつつ、どうやったら京都大学に入れるのか?という情報を求めて方々に聞いて回った。まず一番初めに、俺にとってもっとも身近な「大人」である両親に「どうやったら京大に入れるのか?」と尋ねたところ、「知らん」と言われて会話を打ち切られてしまった。仕方なく学校の先生などに尋ねたりしていたが、小学生の調査能力などたかが知れており、当時はまだインターネットなども普及していなかったので、俺の京都大学情報収集はかなり早い段階で終止符を打たれることになってしまった。
しかし、京都大学に入れたとしても、大学入学までは今からでも約8年かかる。京都大学に入る方法とは別に、一刻も早くこの日帰り監獄から抜け出す方法はないものか・・・と模索していたところ、どうやら「私立中学」というところに通えば俺の退屈な生活におさらばできるようだという情報を得た。
日帰り監獄の看守たる先生も、たいそう熱心に「増田君は灘中学か東大寺学園に行かせるべきです。」と言ってくれた。特に小学6年生時の担当看守だったK先生は熱心で、何度も両親と懇談して、俺を私立に行かせようとしてくれた。
だが、ここでも両親は「ウチはあまり裕福ではなくて・・・。本人は成績も良いので、公立中学から北野高校にでも行ってくれたらいいと思っておりまして・・・。」と、俺を私立中学に進学させることは明確に拒否した。
看守は
「経済的に難しいと思っておられるなら、公立中学以下、なんなら増田君の学力ならおそらく無料で通える」
などと食い下がったが、両親は「もう公立に決めてますので・・・」と固辞した。
この頃になると、小学生の俺でもさすがに両親の言動に疑問を覚えるようになった。両親は「経済的に困窮しているから私立は行けない」の一点張りだったが、看守は「困窮していても通えます」という。イヤさすがにそれはちょっとヘンだろ、矛盾してるだろと思っていたが、当時の俺はそこまで頑なな両親を説き伏せてまで日帰り監獄から抜け出したいとまでの強い意志は持ちえなかったし、天才・秀才・英傑達と机を並べて学びたいという願望も希薄だったし、それらの一連の俺の態度が招くであろう結果も、特に深くは考えてはいなかった。
当時の両親の真意が奈辺にあったのか、今となっては分からない。草葉の陰から、声は聞こえない。
そうして地元の公立中学校に入学した俺は、特に変わり映えのしない日帰り監獄生活を送っていた。そんな俺だったが、中学生活の半ばに差し掛かろうという頃・・・具体的に言うと全国模試を受けたあたりで、「んん?あれ?・・・どうも俺って天才じゃないな、これは・・・」と薄々感づき始めた。全国模試の偏差値が出るからである。
そりゃもちろん、俺の偏差値は全国平均より遥か上には位置しているのだが、自分なりに努力をしてみても、偏差値的に灘高校にも東大寺学園高等部にも届かないという事実を突きつけられた。これは結構俺にとってはショックで、小学校の頃は「余裕で入れる」と言われた灘にも東大寺にも入れないという事実は俺に重くのしかかった。「このレベルの高校が無理なら、こりゃ京大や東大なんて夢のまた夢だろ、どうしよう・・・俺の人生、どうなるんだろう」と、本気で思い悩んだ。
悩みぬいた俺は中学2年の夏、両親に「塾に行きたい」と言ってみた。しかし結果はやはりというか順当というか、頑強に拒まれた。曰く
「成績がいいのに何故」
「塾はお金がかかる」
「家でも勉強はできる」
小学生の頃の俺なら諦めていただろうが、中学生になっていた俺は己の目標を達成する為に食い下がった。模試の結果を伝え、行きたい大学がある事、だが自分の今の成績ではそこに至ることができない事、自宅での自己学習には限界がある事などを説明した。
また、塾が無理なら定性的定量的に評価が可能な代替案の提示をせまった。塾の代金は高校に行ったら必ずバイトして返す、なんなら今から新聞配達をして払うと、土下座までして塾に行かせてくれとせがんだ。
半年ほど前に未亡人となった母はなんだかやつれて見えたが、当時の俺は塾に行けることが嬉しくて嬉しくてしょうがなくって、あまり母親のことを注意深く見ることはできなかった。今思えば、当時の母は様々な事に疲れ切って倦んでいたのだと思う。塾に行く許可も、根負けというよりかは思考放棄といったように俺には映った。
そんな母を尻目に意気揚々と進学塾に入った俺は、成績順のクラス分けで上から2番目のクラスに入れられた。正直、体が震えた。自分よりはるかに勉強ができる人間が、天才が、焦がれる存在が、今まさにすぐひとつ上のクラスにいるとリアルに感じられるのである。そして、その人間たちと同じ程度の授業を、自分も受けることができるのである。これがアニメだったら俄然燃えるBGMが聞こえてくるようだった。実際、あの時の俺には、何かが聴こえていたのだろう。俺は一心不乱に机に噛り付いた。机に歯形があるんじゃないのってぐらいには噛り付いていたと思う。
その甲斐あってか、入塾後すぐのクラス替えで、あっさりと一番上のクラスになれた。ここで俺は生まれて初めて、圧倒的な勉学の才能をもった人間、すなわち「天才」と直に出会った。それも一人や二人ではない。そんな輝ける才能がひとつの教室に雨後のタケノコのようにポコポコと存在している、そんな環境で学べるという喜びにも出会った。
毎日がただ楽しかった。自分は天才ではないのかも知れないけど、努力すればちゃんと数字が、成績がついてきてくれた。
幼少の頃、毎朝幼稚園に行くバスの中で感じていた苦痛や、小学生の頃に感じていた疎外感は、もう無かった。
高校は公立の北野高校というところに入った。維新の橋下弁護士とか、日本マクドナルドの創業者の藤田田(ふじたた、ではなく、ふじた・でん)とか、漫画家の岡田あーみんとかが通っていた高校である。
本当は東大寺学園に行きたかった。学力や模試の偏差値は足りていたと思う。赤本の自己採点でも余裕で合格圏内だった。だが、中学3年時に入塾した際に母親と交わした「高校は絶対に公立高校にする事」という約束を守った。その約束をした時点では「受験までにどうやって説得するか・・・」などと考えたりもしていたが、塾での公立中学では考えられない授業スピードについていけたことや、並み居る才能たちと交わした会話の中で、「公立高校からでも京都大学は狙える」という感触を、俺は確かに掴んでいた。
中学の頃はあまりよく理解していなかった奨学金制度は、高校に入ると同時に申請した。家計を理由に俺の私立進学を拒んだ母親は、中学時代に俺の奨学金を申請していないこともその時に知った。俺はそんな母親を信用せず、奨学金の申請手続きを自分自身で済ませた。
北野高校の授業の質は高いと思った。だが俺は油断せず、予備校にも通うことにした。私立中学入学組の連中は、少なくても俺より3年は早く走り出している。そいつらに追い付くには、そいつらと同等、いやそれ以上の勉強が必要であると思ったからだ。
俺は詐欺師丸出しの口調で「高校の学費が浮いたんだから、もともと払うつもりだった学費は予備校に回してほしい。予備校とバイトを完全両立させるのは時間的に難しい。学力的に、俺は中学までの借金がある状態。プラスに転じるには積み上げるしかない」などと母親に申し入れたところ、すんなりと受け入れられた。
この頃になると、奨学金の申請だけでなく、家の中の一通りの事は全て俺がやっていた。
「自分でできるようになったから」というのももちろん理由としてはあるが、母親が炊事・選択の家事全般を筆頭に、日常生活の様々な事をほぼ全て放棄してしまっている事のほうが、より比重の大きい理由だった。母親が予備校行きを認めたのも、「認めた」というよりは「俺が『予備校に行きますよ』と報告した」といった表現のほうが正しいように思う。
俺が小学生や中学生の頃には確かに存在していた、「理由なぞはよくわからないがとにかく自己の主張を持って論陣を張る頑強な”母”たる人間」は、もういなかった。朝起きて、TVをつけて、ご飯を食べて、夜眠るだけの人間がそこにはいた。
家計はほぼほぼ俺が全部見ていた。入ってくるカネと出ていくカネを計算して大幅なマイナスにならないと言う事だけを気にしていたので、一般的な家計管理よりはラクだった。現に、今つけている家計簿よりは簡単だったように思う。父親の遺した資産が多少あったので、その管理も俺がしていた。
高校生活は楽しかった。学力差のある人間を十把一絡げにして地域ごとに押し込める日帰り監獄では味わえない切磋琢磨がそこにはあった。同程度の学力を持つ者同士が集まった結果としてのシナジーがあった。今までは暗い色で塗りつぶされていた「学校での生活」に色が付き始めた。毎日学校に行く事が楽しかった。対照的に、毎日家に帰るのが億劫になり、やがてそれは苦痛に変わり、それに伴い、家の中が暗い色で塗り潰されていった。
昔、母を名乗っていた人間は炊事もしないので、学校帰りは毎日スーパーに寄り、食材を買い、俺が晩ご飯を作った。予備校のない日は二人で食事をするようにしていたが、食事中に会話のようなものはなく、TVから流れるバラエティー番組の下らないやりとりだけがBGMだった。ご飯の味はしなかった。たぶん、母だった人も、ご飯の味はしていなかったと思う。
もしかすると、家から目を逸らそうとして、無理に高校での生活が輝いていたんだ、良かったんだと自分自身に言い聞かせているだけなのかも知れない。我が事ながら、この頃の記憶は妙に混濁している。
大学入試は当然のように京都大学一本にした。学力も模試結果も問題無いと判断したし、何より俺には京都大学以外の大学に通う価値を見出せなかった。入学できるまでは何浪でもするつもりだったが、幸いにも現役で合格することができた。
ひとり身になったから身軽だったし、しばらく大阪から京都大学に通ってみたものの、さすがに京都の外れまで毎日通うのはちょっと辛いなと思った。何より、暗い色で塗り潰された、大阪のあの家に帰るのは嫌だった。もうTVの音は聞こえなくなったけど、あの家で目をつぶって眠るのが、怖かった。
大阪での様々な残務を片付けると、それらの結果や、これからの事、感謝の気持ちなどを両親の墓前に報告して、俺は京都に移り住んだ。
後編に続く
安倍が辞任し、正式に菅内閣(民主党時代の菅直人と区別が付けづらいが、彼の話題を出すことはないので単に菅といったら菅義偉だと思ってほしい)が発足した。
安倍は嫌いだが、菅も同じくらい嫌いだ。
そもそも、政権批判というものは基本的に「いいこと」のはずである。権力というものは暴走するものである。これは自民党政権でも、もちろん民主党政権でも変わらないし、日本だけの話でもない。
だからこそ、国民・メディアは厳しく政権を批判・糾弾し、少しでも不正をしないように導いていかねばならない。
これは野党支持者は当然として、与党に投票した与党支持者たちこそ、自分の支持した政治家・政党が不正に走らないように監督する、つまり彼らを支持した責任を負っているはずだ。
こういった発言をすると、「はいはい、左翼乙w」みたいな雰囲気になってしまうのが、非常に悲しいところである。
原因は明らかだ。声のデカい左翼がクソバカうんこ共だからである。
権力の暴走というものはつまりは野蛮である。野蛮を糾弾するのだから、そこには(具体的には法学的・社会科学的な)理論が存在しなくてはならない。
だがバカクズうんこ共は安倍やめろ!というだけで、何のビジョンも持っていないどころか、やけにバカみたいな発言をしまくる。
もちろん、バカみたいな発言をするのは右翼(ネトウヨ)も一緒だ。まともな神経をしている人は公の場で差別用語を口にしないし、陰謀論めいた言説を信じることもない。
右翼政治家(もちろん各政党も一枚岩ではないのだが、今回は単純化のためにそう呼ばせてほしい)は、ネトウヨのようなアホみたいな発言を、大っぴらにはしないのである。
いや、もちろん、杉田水脈の生産性事件とかいろいろ事件はあるが、それらは“失言”事件として扱われるため、右翼政治家の公式見解には、とりあえあずはならないのである。
一方、野党の左翼政治家は、ネット左翼のアホクズうんこ共のような発言を、平気でするのである。そしてそれらが失言として扱われることもほぼない。
アベガーを平気で地で行くような姿勢を、メディアやSNSでありありと見せつけてくれるのである。
つまり、ここに、
という、マジで地獄みたいな構図ができてしまっているのである。まさに獅子身中の虫だ。
もちろん、野党の若い政治家などはこういったことに高い問題意識を持った方も多く、改革を望んでいらっしゃることは重々承知であるし、共産党なども高い法学パワーで不正に対してクリティカルな論陣を張ることが多々ある。
しかし、メディア露出の多い野党トップ層などがあっぱらぱーで、しかもネット左翼の皆様はやけに“運動”が大好きでアホみたいな理論をSNSなどで御解陳なさるので、上の構図は揺らがない。
反安倍・反菅は絶対に必要だ。奴らに不正がないわけがなく、そして不正は絶対に糾弾されて然るべきだ。
一時期、ご飯論法や小泉進次郎構文が話題になったが、奴らが不誠実な答弁をしていることは火を見るよりも明らかであり、不誠実な答弁をして隠さねばならぬ諸不正があるはずである。
菅(当時官房長官)の記者会見の映像を見たことがあるか?彼の答弁は非常に不誠実極まりなく、質問に答える、ということができない病気を疑いたくもなる。
一方で、野党のクソバカが国会でアホみたいな質問をしまくる(というのも印象論であり、実際には野党の若手議員などは鋭い質問をよくしている)という事実があり、これらの不誠実な回答も
「あ~あ、また野党がアホみたいな粘着してるよ。首相も毎回ご苦労さん」
みたいな雰囲気になっているきらいがある。野党のアホクズ質問に対する不誠実な回答と、正統な追及に対する不誠実な回答は区別すべきである。
ついでに言えば、野党に政権運営能力はない。仮にあったとしても、政権交代の混乱はまっぴら御免である。
菅でも誰でもいいが、とにかく自民党政権が続いていくべきである。
打倒安倍(今だと打倒菅)を掲げる奴は正気とは思えない。政権は打倒するものではなく、不正を糾弾して健全化させるべきである。
とにかく、政権批判の必要性を訴えると、すぐに「馬鹿者」のレッテルを貼られ、有益な話し合いができないこの状況を生んだバカ左翼どもに、怒りと、そして悲しみを覚える。
後だしのようになるが、私は自民党支持者であり、政策の方針も(好きではないが)左右でいえば右寄りである。
政権批判は左右翼関係なく、正しいことは正しい。間違ったことは間違っている。と指摘する、市民の義務である。そう願っている。
右派・保守系だって表現規制エロ規制しまくりだろ、むしろ元々の保守主義はエロに厳しいだろなんてツッコミがあるかもしれんが、こういう場合にネット世論をリードしてるのは左派論陣なのはちょっと見てりゃわかる。
世論調査を見ると、ネットもリアルも中道右派~右派で自民系消極支持がめちゃ多くて、左派色の濃いはてなーは肩身狭いっぽいじゃん。
でも、左派やはてなーが「エロはけしからん」って言い出すような問題では、一般世論も左派的な立場に共感する人が多くなるのってなんだろうね。
右派・保守系だって表現規制エロ規制しまくりだろ、むしろ元々の保守主義はエロに厳しいだろなんてツッコミがあるかもしれんが、こういう場合にネット世論をリードしてるのが左派論陣なのはちょっと見てりゃわかる。
そりゃさ、右とか左とかで分類せずにトピックによって是々非々だと考えれば悪いことじゃねえんだろうけど、他の分野では多くの人間は是々非々態度なんか取れないじゃん。メインの立ち位置から自由になれない。
でもエロ分野は違う。普段の立ち位置関係なく、エロはあかんってことをみんな言い出す。
俺は、政党では左派消極支持だけど、エロや禁忌表現は配慮せずどんどんオープンにやれってスタンスで、全てが世間様と逆だからつれえわ。
世の中の不安や苦痛を減らすことよりも快楽を増やすことに重点を置いた方が世界の幸せに繋がる、少なくとも俺の幸せに繋がるし、そこが衝突する時はガクガク不安に震えながらでも快楽増大を選んだ方がいいと思ってるんだけどなあ。場合にもよるが大体の事案ではね。
@inumash 16時間
ananの表紙を批判する男性側の言説の多くは、自身が「問題だ」とか「これは嫌だ」と考えるのであれば
まず「○○は止めてほしい」という主張になるはずのところ、
これについて見ていきたいと思います。
これはおそらく違うでしょう。
フェミニスト・表現規制派がanan表紙を批判しないこと」を指摘しているのだと思います。
まず「○○は止めてほしい」という主張になるはずのところ、
そのような主張になるはずはありません。
別の表現たる○○を「止めてほしい」という主張になるのは考えづらいことです。
すでに明らかなように
批判されているのは「○○という表現(今回で言えばananの表紙)」ではなく、
「フェミニスト・表現規制派の表現を焼く行為及び、その際に掲げてきた大義名分の欺瞞」の方です。
であるにも関わらず後者に反論しないのは後者に正対すれば不利になると読めているためで、
かわりに反論しやすい別の相手論陣(「ananの表紙が許せない」「我々も表現を焼きたい」)を捏造しているのです。
「私がなんか嫌だから焼くだけ」と正直な名分を掲げていれば、董卓氏の今回の擁護は成り立ちました。
しかし実際の名分がそうではなかったことは、董卓氏含めた我々全員が知っています。
というものでした。
セクハラはもちろん議論をまたない重罪·人権侵害であるため、セクハラであろうといわれてしまえば責任者や団体に重い圧力がかかります。
しかし
セクシャルに表現された肢体が「好き嫌いの次元でキモい」ではなく「セクハラ問題・人権侵害問題」なのであれば、
そしてフェミニスト・表現規制派が「自分の嫌なものを焼く集団」ではなく「セクハラに立ち向かう人権闘士」なのであれば、
その抗議対象が女性の肢体であるか男性の肢体であるかで抗議の鋭さが激変する(果ては、後者には抗議しない)ことは名分と多いに矛盾し、都合の悪いことです。
anan表紙の表現、イケメンの半裸やその横に添えられたSEXなどの文言には同じ人達からの抗議の声が弱いのであれば、
「あれ、『公共の場のセクシャル表現はセクハラだ』という主張は本心ではなかったのかな」
「単に男性が喜ぶと思われる表現が憎かっただけで、同じような表現でも女性向けであれば看過したり楽しんだりするのかな」
といった疑いの視線が周囲に起こるのは当然ではないでしょうか。
フェミニスト・表現規制派はつまり、そのダブルスタンダードが疑われるような反応の違い·ステートメントの違いを指摘されており、
ひいては「あなた達が表現を焼くときに使った大義名分正義の旗は嘘だったのか」
ということが問われているのではないでしょうか。
「anan表紙が気に入らないの?」
beataraxia ゲイというだけでコンテンツとして腐女子に消費されるっていうのがゲイからするとなんかイラッとする。我々の恋愛はあなた達の妄想のためにあるんではないんです。
こういう言説毎度毎度みるけどなんかおかしくない?
別にお前を名指しにしたりお前のプライバシーを暴いてオカズにしたりしたわけではない訳じゃん。
それっぽっちで咎められるの?
じゃあゲイの皆さんはその程度の身勝手な妄想もせずに心の中まで清く正しく生きてるわけか?
俺の知ってるゲイはそんな修行僧みたいに生きてはいなかったが。
しょっちゅう好みの芸能人とかスポーツ選手とか妄想のネタにしまくってワイワイ楽しそうに語り合ってたよ。
それとも妄想で抜くたびに謝ってるわけ?
「警察官の職務は僕のオカズのためにあるんじゃないのに。えーんえーんごめんなさい」って。
謝ってねえだろ?(謝ってたら病気だが。)
ゲイだって普通の人間なんだから絶対身勝手な妄想しまくってるしネットにもバンバンそういうこと書いてんだよ。
「我々の恋愛はあなた達の妄想のためにあるんではないんです。(キリッ)」
とか言えるわけ?
このタイプのゲイさんがいったいどういう思考してるのか気になるんだよ。
(ゲイみんながこんな面白い感じじゃないことはもちろん知ってる。)
「お前ら」呼ばわりっていうのはどこから来たの。
だからそういう風に個人のプライベートに踏み込まれたり名指しされたりはしてないわけじゃんあのゲイは。
つかあのさあ、それまさに最初に潰してある反論ポイントなんだよね。
「別にお前を名指しにしたりお前のプライバシーを暴いてオカズにしたりしたわけではない訳じゃん。」と先頭に書いてあるの。
あーたていどが思い付きそうな詭弁はきちんと真っ先に潰してあるわけ。
kitassandro
コロナ患者の人が恋愛している話、身体障害者が結婚する話、とかさ、そういうのだったらどう感じますか?風俗嬢が、原発作業員が、とかだったらどうですか?
どう思いますかも糞もそういうのは既に大量にあるしな。
白血病で死んじゃう美少女とか、信長のとこにタイムスリップするやつぐらいにいっぱいおったぞ。ヒロインが耳聞こえんとか車イスとかいうトレンディドラマもあったし。「実は同性愛者」なキャラが葛藤したり自殺したりするのを感情揺さぶる要素として使ってる創作なんてのすらとっくに色々あるわいな。
質問の意図がわからんけど「どう思いますか」と言われたら「ありふれすぎてて今さら特段の感想はない」だな。
俺のすい臓でも食ってろ。
欧州に行くと、ジャップはうっすら差別されるね。レストランでいい席には通されないわな。自分が少数派になる環境を体験してみるのも面白いよ。
はあ?
あのさあ、俺の話を理解してるのか?
俺は「社会に差別なんてない!」とか「ゲイは差別被害を訴えるな!」とかそういう話してた?
ゲイにも腐女子にも恨みも恩も言いたいこともないし、まさにこういうバカについて言っているわけ。
こいつのブコメはなんか「社会の中の差別を指摘している」と言う点でポリコレポイントは高い。
でも相手の話と全く噛み合わない、問題文一文字も読まないで書いた答案のような頓珍漢コメントなので国語力とか論理性とかでは深刻なレベルの0点じゃん。
こいつやこいつに星つけたような奴らはもの考える能力が全くないわけよ。
一見お利口そうな真摯そうな姿勢を作ることだけは押さえてて、少しも真面目に考えてないよね。
ゲイに対して失礼なのはおめえらの方だよ。というかゲイに限らず誰に対しても失礼。
こういう頓珍漢なことしか言ってないけどポリコレ点だけ高いアホをきちんと見抜いて軽蔑できるようになりましょうということを、俺は言いたい。
ロリコンが女性や子どもの権利を守るのではなくむしろ都合良く利用する側であるように、腐女子もゲイの権利を守るものではなく一方的に利用する側。それを肝に銘じて初めて「同性愛(者)」に向き合えるのだと思うよ。
じゃあゲイもノンケを「一方的に利用する」側なので、更衣室やトイレを使うときなどは身の程をわきまえることが肝要だな。ノンケに対する一方的な性愛に引け目を感じ続けることを肝に銘じて初めてノンケに向き合えるのだと思うよ。
誰でも他人や他集団にどんな妄想を抱いても自由だし、同時に誰でも自分や所属集団について妄想を露わにされたらイラッと来てよい。考えるべきはその妄想の表象・流通の仕方には非対称性や権力性が伴うってことです
ゲイは腐女子をオカズにしないけど腐女子はゲイをオカズにするから?
ならゲイはノンケに対して権力性を持つんだなあ。申し訳ない顔で生きるべきなんだ。ほえー。
そこに座っててくれ。
自陣営の論理が壊れてても「権力構造ガー」「非対称性ガー」などと喚けばダブスタセーフだと思ってる考えるの苦手な身分制思考のバカ達にはいい鬼瓦として機能するだろう。
要するにあいつらは自分達のスペックの悪い頭を甘やかすためにそういう言葉を便利使いしてるんだよな。
困ってる弱者の誰かに優しいんじゃなくて自分の頭悪さに優しいの。
社会的に否定されがちだったりマイノリティであることの悲哀を、大衆の娯楽のために利用されるのは腹立たしい、という気持ちはあるのかもな。そういう気持ち自体は誰が何を言おうと否定することはできないと思う。
バカ達よりはまともな回答なので罵る気はないけどさ。
その「気持ち」はきちんと観察すれば成分を分解できるよね。
問題なのは「社会で否定されがち」ということでしょう?そこはゲイとしていくらでも言い続けていいこと。
けど妄想することはお互い様であって、それ自体に問題ないんだから、結びつけて抗議するのおかしくない?
その「社会的に否定されがち」と好きなときだけ自在にくっつけて抗議する論法を認めると、どんな恣意的な抗議も八つ当たりもやりたい放題になるんだよね。
それは違わない?ゲイがかわいそうな目に遭うシーンというのは社会のなかにまだまだあるし、そこで辛い気持ちをしたことは否定できない。
けどその気持ちを別の場面にくっつけることで非論理的な怒りを表明できるし周りはこうべを垂れるべき、というのは違うよね。
だってそれでなんかゲイの問題が解決されるの?されねーよ。そういう非論理的フィールドを発生させると、考えるの苦手なバカが寄ってきてさも倫理的風に頓珍漢な非論理論陣でいいこちゃん顔したり誰かをつるし上げたりして楽しむだけ。
バカどもが卑しい愉悦を楽しむための養分が生まれるだけなんだよ。
そこを考えてほしいね。
当たり前のことをどや顔で言うべきではないし
そうね。ストレートの人間だってヘテロ恋愛の漫画やらドラマやらAVやら楽しんでるわけだし一緒だよ。とはいえセクシャルマイノリティはまだまだ酷い扱いをされていると思うので増田みたいに雑に扱う気も起きないが。
あのさあ、よく読んでくれよ。
俺がいつセクシャルマイノリティを雑にあつかったの?具体的なこの部分だ、といえるなら言ってみ?
fukazawakyoko 腐女子フェミニスト「女性性への搾取だァァァァ!」腐女子フェミニスト「ゲイ搾取?おまえのことじゃないしキリッ」
そういう種類のフェミニストがおかしいと思うなら同じ論理で腐女子が叩かれてるときも擁護すべきだと思う。
これは女性が普段性的消費だの何だの言ってることの意趣返しなんだと思ったけどな。なんで自分達が消費するのは良くてされるのはダメなんて言えるんだ?
はてなーが脊髄反射で非難しがちなテーマ(例えば、うなぎ漁とか、高校野球とか、高齢ドライバーの事故問題とか、組体操とか、そういうのを想像してくれればいい)について、とある扇動者が、データの数字を都合よく使って(自分にとって都合の悪いことは隠して)、さらに煽るような記事を書いて賛同を得まくっていたことがあった。
自分もそのテーマは嫌いだったのだけど、あまりに感情的な非難が多かったので、「非難するにしても、もっと冷静に非難しないと、バカと思われるぞ」という思いから、元データを精査し、別データも検証しながら、可能な限り誠実に試算して、「その非難はおかしい」という論陣を張ったことがある。
そうしたらそこそこのブックマークがつき、半分ぐらいが批判のコメントで、★も集まっていたのだけど、そのときは、「半分も賛同してくれたなら上出来だ」と切り替えた。
あと、試算にはそれなりに自信があったので、「自分の正しさは後日証明される」と確信を持てたことも、精神安定に役立った。
結果、現状ではだいたい試算の通りになっているので、まあなんつうか、当時感情的に批判していたはてなーたちには、「ばーか」という言葉をおくりたいかな。
どうせ反省なんてしないだろうけれど、忘れているのだから仕方がないし、全く恨んでもいない。こっちも、にやにやしながら「ばーか」って思うだけなので。
そもそも「性的消費」という概念で殴りつけられるのは、どこまでか? を少し考察してみよう。
たとえば、昔あった「ビール広告に水着女性」が×となったのは、単に女性の飲酒率が上がったためでもあるが、表向きの理由としてある程度の正当性があると言えるのは「海水浴場やプール以外の場では通常水着を着ない」というコンセンサスがあるからだ。街中のビール広告で水着を着た女性がこれを宣伝しているというのは、「性的な服装でヘテロ男性の注目を集めるため」以外の理由を見出しづらい。一応明らかに「性的消費」だと言える。――(1)
では、「性的なものを強調した服装」はどうだろうか。古くはアンナミラーズ、あるいはHOOTERSといった店は店内ならともかく、街中の服装として適切とは言えない。これらが、その制服を前面に出した広告をデカデカと駅に張り出したら一定数の人々からクレームが来るだろうことは想像に難くない。その意味では、これらもまた「性的消費」であることにはそれほど異論が無いと考えられる。――(2)
では、「セクシーなアイドル」はどうだろうか。いや、そもそも大なり小なり「セクシー」でないアイドルなど存在しないという意味では、あらゆる「アイドル」を利用したポスターの是非は?(たとえばhttps://www.watch2chan.com/archives/20190615092712.html) またそのアイドルは男女問わないとしたらどうか? あるいはアイドルではあるがアニメ絵のアイドルならどうなのか? このあたりについてクレームを付ける人は実際そう多くない(からこんなのがあるのだろうhttps://www.walkerplus.com/article/166328/)かなり減ると推測できるが、これもまた「性的な興味で広く注目を集める」以外の理由を見出しづらいという意味で、まさしく「性的に消費」の実例なのだが、なぜかそれほどクレームが来ない。実際、先の乃木坂のポスターは「実は彼女らが一人も献血したことなかった」という理由で炎上したわけで、彼女らに求められていたのは必然性ではなく「性的な魅力」であったに過ぎない。――(3)
では、「一般的には普通の表現だが、記号的に一部の特定層に性的に受けとめられることを期待した」ポスターならどうか。たとえば制服の女子、メイドさんの服装、などがそれに相当するだろう。
「制服の女性は若々しさ、凜々しさ、清々しさを表現するためのものであり…」とか「萌えは性的なものではなく…」とかそういう御託は全部嘘だ。むしろ「マズいな」と思っているからそんな言い訳が出てくるので、これも一般的には批判されない/されにくいが、一部では燃えることがあることは実証されている。(もはや人間ですらなく、メイドらしい恰好をしたロボットの表象が叩かれた例https://www.huffingtonpost.jp/2014/03/04/jinko-chino_n_4900699.html)ただし、これを「性的消費」という文脈で叩くのは難しいので、一般には「学生にこんなことを」とか「ジェンダー固定化の懸念がある」とかそういう文脈を用いて叩く。これを混ぜこむのが混乱の原因というのが元増田の主張でその指摘は理解できるが、批判者はむしろそこを混ぜるところに意図があるのである。――(4)
それから、「表現者や対象には明らかにその意図がないかあっても薄いが、そう見られる可能性を排除できないもの」はどうだろうか。(例:ある公的なポスターコンクールの作例 https://twitter.com/abo_saitama/status/1023415216208470018 )この作者に性的なデザインをしたという意図は全く無いだろうが、明らかに構図は胸を強調しているし、いわゆる「乳袋」表現すらある。世にある(セクシーな)漫画的記号表現やデザイン、構図を踏襲したこと、そして、無意識下の「こういうのが受けるだろうな」というイメージが影響したと想像される。…そんなことを述べると一般人的には「?」となるが、学者が意見を述べるのがこういう対象である。時代の中で生きている我々は、同時代の様々なイメージの中で、日々ソレを呼吸しながら自分を形作り、つまり〈時代を内面化〉している。そのように個々人やその表現に内面化された表象を分析するのは学問分野の領域であるし、「一般人には分からないが学問的に危険性が明らかなモノ」に対して警鐘を鳴らすのは、文系理系問わず学問に期待される役割だ。ただ、学者の意見が正しいとしても、それを規制することに社会的合意が得られるまでには段階が必要で、いきなり規制するのは乱暴である。――(5)
最後に、思考実験として二つの例を挙げたい。ひとつは「まいてつ×くま川鉄道」事件。鉄道をネタにしたエロゲを作っていたエロゲメーカーが地元鉄道会社に善意で「そのキャラの差分」みたいな画像をキャンペーン用に提供した(普通に着衣の絵)ことが大問題となり取り下げさせられたケース。(https://togetter.com/li/1031033)。もう一つは、「セーラー服の少女が、ボロボロになり、へその間際や太ももが丸見えのセクシーな姿になった画像を献血ポスターに使ったが全く問題視されていないケース」(https://eiga.com/news/20120528/10/) これらの線引きに対して「主観」以外の適切な理由が見いだせるだろうか? そして、主観以外の理由が見いだせないようなルールを作り運用するような状況で、表現は本当に萎縮しないか? 多少厳しくても合意が得られたルールが明確な基準で運用されていれば、表現はそれほど萎縮しないどころか工夫を凝らして隆盛しさえするだろう。だが、曖昧なルールが曖昧に運用される状況というのは、過剰な自粛が進み、結果的に表現の衰退を招く。
いま本当に必要なのは、上で挙げた(1)~(5)のような例のどれを許しどれを許さないのか、その明白な根拠は何か、をしっかりと論じることだと思う。戦後に猥褻と表現の自由を論じて争われた「チャタレイ夫人の恋人」事件では、弁護側が「文学性」とは何か、「わいせつ」とは一体何か、ということを定義するため客観的なデータを示して懸命に論陣を張ったにもかかわらず、規制を主張した側が極めて感情的、主観的に「明らかに猥褻」、「超弩級の猥褻」といった無茶苦茶な陳述で切って捨てたため、結局、何の議論の深まりも得られなかった。(そしてもっと猥褻なものは普通に社会で流通していた。)昨今のいくつかの表現に対する「明らかにエロい」といった極めて感情的な告発は、残念ながら、魔女狩りにも似たこのような表現規制の過去を彷彿とさせる。
例えば、ものすごく良い人で会えば皆良く言うのに発言がアレな人なんてのは多い。
そして、とても明晰で仕事も確実で信頼性の高い取引先が、飲みに行くとアレな話をすることも多い。
そして、人はみなスティーブン・キング程には表現が上手ではないので、
「うわヤだな」と思ったことに後から理屈をつけて話す事が多い。少なくとも自分はそうだ。
最初に「宇崎ちゃんは遊びたい!献血ポスター」論点を明確にしよう。
DCコミックスのワンダーウーマンは、その物語がある程度北米で共有されているため、特に男性から消費される性の対象として描かれているとはみなされない。
しかし、イスラム圏のポスターにワンダーウーマンを描けば非難の対象になるだろう。
だから、「あのイラストがエロいかどうか」は、時と場合による。
つぎにB、宇崎ちゃんを好ましく見る人に届けば良い、そうでない対象外の人は見なければ良い、とする意見である。
公共のポスターであり、ゾーニングされているわけではないからだ。Bは対象外の人も見えてしまうとする方が自然だろう。
つぎにCだ。知り合いの医療従事者もこの立場だったが「血が足りないのだから手段を問うている場合ではない」。
外科医はその職責において傷害罪に問われないという点から考えても、一考の余地がある。
待ったなしの局面において、明確に違法でなければ何をしても良いと考える医療従事者は、割といる。
半裸の男性のカレンダーが、売上が慈善に繋がる場合かなり好意的に受け止められている。
つまり、公共性の高さ、公共の福祉というのは、他よりも優先度を上げるという考え方は、社会によっては有り得る。
つぎはDだ。表現の自由は、公共のポスターにも適用されうるか。
表現の不自由展は、「芸術作品の表現が、制限される」という点で問題視されていた。
宇崎ちゃんは遊びたい!が、例え半裸のポスターであっても、適切に販売されるなら検閲すべきではない。
クリムトがウィーン大学向けに描いた作品が論争を引き起こして納品されることが無かったのは有名な話だ。
ポイントは、「作品」ではなく「掲示する場所」だ。争いの余地がある。
職場にヌードポスターを貼るのは、環境型セクハラに該当する、とされる。
Aの論点において「性的なポスター」であり、Bの論点において「嫌なら見るな」は否、ならば環境型セクハラに該当するだろう。
つまり、性的か否か、対象外の人に見えるか否かが、Eの結論に影響する。
性的なポスターであっても、該当の人にだけ見えれば良いという論陣なら、やはり該当しない。
最後にFだ。環境が女性に好ましくない状況である中で、それを維持強化して良いか、である。
これは、「その環境にある、ない」か「強化するか否か明確でない」か「強化はする、強化しない」の論点がある。
強化しない、強化する、いずれも明確に証拠を提示するのは、とても困難な作業になる。
女性が男性よりも性的に消費されやすいとする証拠もまた、提示が難しい。
よってこれは、「その可能性がある」とする立場で考えるのが一番自然だ。
その場合であるときに、他の論点がどう変化するかが、論点となる。
さて、こうすると、例えば自分の立ち位置は、以下となり今回の件はOKという立場だ。
B「ゾーニングはできていない」
C「医療は許容度が高い」
これは端的に言えば「環境型セクハラで女性の不当な扱いを強化する可能性があるが、表現の自由に加えて公共の福祉(医療)の方が優先度が高い」とする立場だ。
自分は、全く同じ図案のポスターが「読書感想文全国コンクールのポスター」であればNGとする立場だ。
環境型セクハラに該当する図案の場合、表現の自由よりも子供の教育環境は優先されるべきと考える。
つまり、同じポスターも時と場合によって許容度が違うと考えている。
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さて、長い前フリを読んでくれてありがとう。
JOKERは、アーサーという中年男性が、コメディアンになる夢を追いかけ、他人から利用されるだけであることをやめ、自分の悲劇が喜劇的であることに自覚的になる、悲しい物語だ。
JOKERはそのスタッフクレジットも、全体として「喜劇」のフォーマットで作られている。軽やかな曲とともに始まり、明るく楽しげな音楽で終わる。
そしてその悲劇が、喜劇的なエンターテインメントであることを理解している。
アーサーは人を笑わせるコメディアンになりたいのであって、人から笑われるピエロであることは望んでいない。
アーサーは人からはわかりにくい障害を持っている。緊張性の発作のように、自分の意志と無関係に笑ってしまうのだ。
劇中には小人症の人物も出てくる。その特性(障害)はわかりやすい。それでもソレは笑いのネタにされる。
現代では、小人症の人物を揶揄するのは不謹慎だとされるだろう。
同様に、アーサーの症例が精神病として一般に認知されていれば、当然それについて差別したり揶揄するのは、社会的に許容されない。
社会的に許容されないというのは、そんな現実がない、ということとは明確に異なる。
たぶん、アーサーは、現代でも差別され生きにくさを感じると思う。
もちろん表立ってではないし、合法的になんの問題もない理屈の上で、差別されると思う。
アーサーがJOKERになったゴッサムシティと、宇崎ちゃんは遊びたい!献血ポスターが掲示される現代は、とても遠くて、実はすごく近い。
医療のための緊急避難だと考えている人が多ければ、たぶん遠く、
増田で論陣張ってるフェミさんはanond:20191018105520に答えてくれないの…?
自由主義増田です。とりあえず、元の増田だけじゃわかりづらい文脈だけ補足しておきます。
これはもともと、anond:20191016112942とか、anond:20191016115936とかから派生した議論なんだよね。
つまり、「見たい自由が尊重されるべきというなら、見たくない自由も尊重されるべきなんじゃない?」と元増田(なぜか消しちゃったけど。消す必要なかったのに)が主張していたので、いやいやその2つの自由は対等じゃないんですよ、前者の方が重んじられるべきなんです、ということを説明したのが、100ブクマくらいは行ってほしいけどまあ無理かなと思っていたらまさかの800ブクマ超になってしまった例の増田(anond:20191016163058)です。
だから、実はこの件の批判者全体に対してこの理屈で押し通そうとしてるわけじゃないんだよね。あくまで「見たくない自由はありまぁす!」増田に対して「そんな自由は(見たい自由と比べて)尊重に値しません」って言ってるだけ。
追記で色んな論点にも言及してるけれど、基本はこの文脈の中でなされていた議論なわけですよ。
だって太田弁護士は、子供に見せたくないとか見ない自由とかそういう理路で闘ってたんじゃないよね? 私の議論の射程にはもちろん太田弁護士のふるまいも入っているけど、「見たくない自由は見たい自由よりも軽い」なんて太田弁護士への直接の反論になってないじゃん。私の反論はあくまで元増田の設定した「見たくない自由」というフレームに乗っかったもの。自由主義の前提について基本のキから解説したのも元の増田がよくわかってないと思って解説する必要があると思ったから(まさかブコメでもわかってないやつが大量発生するとは思わなかったけど)。もし太田弁護士に直接的に反論したければ自由主義の解説なんぞ本筋じゃないからすっ飛ばして「別にセクハラではない」とかそういう性差別とは何ぞやみたいな論陣を張っていたはずだけど、実際はそうしていないわけで(もちろん私は太田弁護士に対しては「セクハラじゃない」と大いに反論したいところだけれど、少なくとも今回私が相手していたのは彼女ではない)。
当然、私はなるべく一般妥当性を持つように議論を組み立てているし、単なる元増田への回答という枠を超えてより広い問題に当てはめ可能な議論をしている(つもり)。だから自分の議論に大した意味はないと言うつもりは毛頭ない。でも、議論の枠組みとかそういうものはどうしても議論の発端に縛られている。
これは一部のブコメもそうなんだけど、みんなあいちトリエンナーレの作品への批判には文脈読めとか言うのに明らかにツリーの一部である増田の文脈は読んでくれないのはいったい何でなんだぜ……? まあ今回は前の増田が消しちゃったせいでツリーが追いにくくなってるから仕方ないのだけれど……
見たくないと思っている人の事を否定しないでほしい。
別に見たくないというのはそのひとの勝手だし否定してないけど、公共空間に掲示することが見たくない人のことを否定したことになるのなら(はい条件法ですよ)、公共空間から撤去することは見たい人のことを否定したことになるじゃん。
なんで見たい人の権利と見たくない人の権利を比べてデフォルトで後者の方が優先されないといけないということになるの?
色んなものがあるのが公共空間でしょ。雑然としていて多様性があって、それぞれの人がそれぞれの不快感を抱えながら過ごすのが公共空間でしょ。
あの場合は「意見を出し合うのを目的とした芸術作品をお金を払って見に行く」
という事かなと…うーんこの件とは別件だと思う。
手ひどい裏切りだよね。
私はあいトリの会場にある芸術作品について別に不愉快だと思ったことはないけど、不愉快だと思う「表現の自由戦士」も大勢いたと思うんだよね。
でも彼らは「あいトリの表現の自由は守られるべきだ。たとえ不愉快な表現であっても」という論陣を張った。
それなのに「それはそれ、これはこれ」でこちらの自由を制約しようと試みるんだ?
本当に手ひどい裏切りだと思う。そりゃないよ。
でも優しくて快適な世界が良い。
ああいう画像が公共空間に堂々と掲示される世界が俺にとって優しくて快適な世界です。
何を優しいと感じるか、何を快適と感じるか、それは人それぞれで、だから表現の自由っていうものがあるわけなんだけど、無条件に「見たくない人の権利」を上位に置くあなたはいったい何様なの? というね。