はてなキーワード: けもフレとは
人間が動物に迷惑をかける点ですが、フウチョウたちが「確かにヒトのおかげで助かったケモノもいるが、ヒトが不用意に近づいたばかりに、迷惑するケモノもいたかもしれんぞ」と明確に問いかけてるんですよね。これに対するアンサーは必要であり「テーマとして昇華していない程度の示唆」で終わらせるのは無理があります。
たしかに。フレンズの選定や居心地の悪さ、フウチョウの問いかけも含めると、制作の意図があったのは反論しようがないです。ならば、それをテーマに絡めることを諦めたというのはどうでしょう。ここ最近の界隈の雰囲気を見ると、けもフレ1でさえ信者とまで言われるほどの熱心なファンに「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」「のけものはいない」のような世界観を教える事はできなかったわけじゃないですか。結果論ですが、船長のワカバが休んでれば赤い木の騒動なんて起こらなかったのに、それを作ってるたつき監督自身が過労気味なわけじゃないですか。物語を使って視聴者に特定の行動を促すというのは実は無理なのではないでしょうか。おっしゃったアイデアにあったようにキュルルちゃんが人類の罪を贖罪してしまえば、見ている方はスッキリした気分になってしまって何か教訓を得ることはないということです。制作サイドに人間が歪めた動物について考えてほしいという善意があって、それをエンタメの物語に乗せて実現させるための方法として、示唆で止めておく手段を選んだ。いかがでしょう。
俺は、ビーストは死んでないと思います。そこにけもフレ2の作劇の方針がみてとれる気がするのです。個人的にはビースト周りのドラマはなかなかに心揺すられました。パークの重鎮のかばんさんさえ”アイツ”よわばりする厄介者、イエイヌを追い詰めサーバルに撃退されたけど、スケッチブックの集合絵に入れてあげた。「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」、ボートに現れたビーストから逃げることを促されてもこのまま行くと言い切る。キュルルちゃんの思いが言葉だけじゃなく行動になるまでに固まる。それでビーストが大暴れするので気持ちいいわけです。このドラマを普通に決着させようとすると、うーんたとえば、瓦礫の中にビーストを探したが見つからず、足跡がパークに続いてくのを見て「いつかまた会おう」とひとりごちる、とかになるでしょうか。でもそうせずに瓦礫に埋もれて消える描写にした。ホテルメンバーの救済のために尺が足らなかったのかもしれませんが、俺は刮目してみていたので気づいていました。ホテル屋上のあの位置は頭上に障害物はなく、瓦礫に埋もれたのはカメラのほうだと。つまり誤解させる演出になっているわけです。多くの視聴者は初見で、ああビースト死んだのか可愛そうやな、とおもってSNSに悲鳴を流します。それで解析班が動いて「ビースト死んでなかった!」という記事がホットになる。木村監督は交代時に、けもフレ1の魅力は散りばめられた伏線、のようなことをおっしゃってたと思います。ネットの考察版が動くことを期待して放映後に爆発する仕掛けを組んだというわけです。エンタメ作劇的には王道ではないでしょうが、このような狙いがあったのでは。
俺はけもフレ1・2・ケムリクサすべてで、伏線や回収、世界観の開示などを目を皿のようにしてさがし、それに理屈をつけるような見方をしています。それで楽しめています。けもフレ2では話の途中に掛け合い漫才みたいなのが頻繁に入ってくるので、その部分もニコニコしながら見ていました。確かに、ドラマとして登場人物の紆余曲折が一つのテーマに収束していく様はあまりけもフレ2にはないですが、その部分に多くを期待しない鑑賞スタイルには合っているような気がします。
何話か見返したのですが「キュルルの手がかりの絵が尽きた」ことが描かれたシーン
一話の最後でスケッチブックをめくり千切られたページを目にするシーンがあります。状況的にあそこでは手がかりを見つけるために捲っていたのであのページが最後になることはキュルルちゃんは判っていたと思います。ホテルでリョコウバトに集合絵を渡すときに、観覧車の次のページに集合絵を描いていて、その次が白紙であることが一瞬見えます。
キュルルちゃんの立場から見て、イエイヌの価値観を尊重してああ言ってあげる、というのは悲劇のトリガーには観念的にはなっていますが、無責任・悪意のある行動には思えないです。カラカルが介抱していて危機的状況から開放されて安心しているという状況です。みため年齢的に見ても致し方ないかと。キュルルちゃんは魅力的なキャラクターとして描かれていてそれは成功していると思っています。この扱いで好感度が下がる合理的な理由はないでしょう。
強敵との戦いをどう盛り上げるか、逆転を、どう印象づけるかの工夫があります。フレンズ型セルリアンとの戦いは、あまりそうした工夫がなく、盛り上がらなかったです。それなら誰かが「野生解放!」と叫んだほうがわかりやすいでしょう。
けもフレ1では仲間に呼びかけるために、野生解放を宣言しています。けもフレ2の該当の戦闘ではそのタイミングで一対一だったので言う必要がなかったのもあると思います。突然漫画風演出になるのはリアリティが下がって興ざめするので、盛り上がるためだけに叫ぶのは良い方針ではないと存じます。しかし確かにセルリアンとの戦闘はけもフレ2全体で退屈な仕上がりになっている印象は否めないです。制作なりに「優しい世界」を目指した結果ではと考えています。戦闘はけもフレ1に比してもピンチ感は少なくなりました。見返したときに緊張感が高くならないようにあえて戦闘はテンションを抑えたということです。最終戦での野生解放が叫ばれなかったのを考えていたんですが、する必要がなかったというのが答えだと思います。ホテルメンバーが囲まれたのがおそらく最大の危機的状況ですが、そのときにおいてもホテルに現れるペパプを妄想していました。いよいよとなれば解放する気だったのでしょうが、ペパプ本物が登場して救われる流れになります。
最終話の評価は、それまでの1~11話の評価と切り離せないものですので。視聴者に信用されるために、制作者側は信用を積み重ねる必要がありますが、そこがうまくいってないわけです。
セルリアン集合シーンはけもフレ1の名シーンほどの決めカットではないです。先に申し上げたとおり、あの状況ではああいう絵にしざるを得ない、共通性を見出すのは無理矢理のこじつけですよ。信用がないと言うより、悪意があると信用されていた、というほうが実態に近いと思います。監督交代騒動のツケを支払わせるために問題表現を探したというこです。たしかに結果的には新体制が信頼を積み上げることに失敗した、というのは同意します。しかしその責任が制作側にあったとまでは言い切れないです。ところで、けもフレ1でたつき監督が序盤で信頼を積み上げるような何かをしていたか、というのはずっと考えていました。一話で退屈と断じて切り捨てたという視聴者はよくいるし、伏線-回収のループを重ねていけば意味のあるシーンを作れる作家だとわからせることができるけど、そういうのってしてましたっけ?
キュルルのおうちが、見付からなかったことに、消化不良があります。次に、キュルルが「おうち」を諦めるに至る過程が曖昧なので、ドラマが盛り上がりません。
けもフレ2では現実的な厳しさを書いたのではないでしょうか。けもフレ1へのアンチテーゼというか、ご都合主義的ではない、よりリアルな世界観でフレンズ同士の親切心を浮き立たせたかった。一話を見てパーク内にキュルルちゃんのおうちがあるような気はしないわけです。家族の元に帰ってENDは想定しにくい。案の定見つからない。イエイヌは救われない。ビーストはどうしようもない。でもそれぞれに現実的な進展が与えられるわけです。エンタメ文法でみるとドラマとしては盛り上がりに欠けるでしょうが、スッキリとしない視聴感がビターな感じはあると思います。ケムリクサでの最終話EDの、りりが救われた風の描写は俺に、感動したけどこれ結局お話に過ぎなかったんだな、という思いを与え、肩透かしでした。
ところで、けもフレ1のテーマは何だったのでしょう。かばんちゃんの成長物語と捉えると、1話では彼女は頼りないですが、11・12話で存在感を見せつけたという感じであまり変化がない。ミライさんのフレンズが生存の理由になったり細かい伏線の繋がりは合ったのはわかります。それぞれの話でドラマが見事だったのも異論ないです。でも全体としてのドラマはどうでしょう。ケムリクサは逆に全体としての物語性が強いです。けもフレ2は両方のフレーバーを持っている。その話での起承転結と「おうちテーマ」のための全体の流れが合わせて練られている。イエイヌが”おうちにお帰り”といって拒絶されるのは全体のために必要だけど、イエイヌ回単体ではキュルルちゃんとサーバル・カラカルの在り方を見せられて自分との違いを見て挫折して去る、くらいでよいわけです。ただ各話においてフワッと見ているだけではドラマとして盛り上がりに欠ける、というのは改善の余地は合ったかもしれませんね。
いえ、今はまだ固まっていない段階です。その正体をつかめない段階で用語の意味を固定してしまうと先へ進むことができなくなるでしょう。必要なときにその都度「この作品のこの部分は優しい世界か?」「優しい世界とはなんだ?」を繰り返して意味を掘り進めていくべきです。
ギスギスを狙ったのなら、作品の出来とは別に、マーケティングのミスです。そういうのは事前に告知して心の準備をさせるのが良いかと。
絵柄が大きく変わっていることは初見でわかります。SNSで憤慨しているファンも監督交代騒動は耳にしていたはずです。ファンが必要以上にセンシティブになり、前と寸分違わず同じものを要求した、そのように見ています。けもフレ2も最初からギスギスしていたわけでなく、センちゃんアルマーさんの実態やジャングルメンバーなど、段階を追っての開示になっているとは思います(話がずれるかもしれませんが、「危険きわまりない溝ができています!」は、好き嫌い分かれるネタを初っ端から突っ込んできたな、と思いました)。
(付録)
ギスギスした作品はギスギスした作品で楽しめる人も、癒やし系作品の続編として出されると「思ったのと違う」ってなりますよね。ラーメン屋いったらサンドイッチが出てきたみたいなもんで。
面白いので http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52307013.html 及びその次の記事より引用します。
別の場所のコメントでは「カレーを頼んだのにXXXが出てきた」といっている人もいました。俺は「カレー・ハヤシライス・ビーフシチュー」くらいの印象です。
人が動物の上に立つモチーフ、イルカ・アシカやイエイヌが、けもフレ1以後の「人間がいなくなってる世界」でそれを強調されることが視聴者にとって不快で、それを書くなら悲劇性や罪悪感も書くべきだ、との主張でしたね。誤解していました。失礼しました。そうするとリョコウバトは構わないのでは。けもフレ1でもトキは絶滅していますが、人が上に立っているわけではないので問題ない。リョコウバトも同じ扱いでいいのではと思います。
けもフレ2における、人間が動物に迷惑をかける点ですが、フウチョウたちが「確かにヒトのおかげで助かったケモノもいるが、ヒトが不用意に近づいたばかりに、迷惑するケモノもいたかもしれんぞ」と明確に問いかけてるんですよね。これに対するアンサーは必要であり「テーマとして昇華していない程度の示唆」で終わらせるのは無理があります。
リョコウバトとトキの比較ですが、けもフレ1のトキの場合、絶滅危惧動物であること、人間によって傷つけられたことに関する言及はないわけです。一方、リョコウバトの場合、絶滅を暗示する演出がいくつもあり、先のフウチョウの問いかけもあったわけです。
イルカ・アシカについてですが、ネットを眺めた体感では、そこまで気にされてないように思うので、これが気になるのは俺自身の問題であって、そこまで気にしなくても良いかもしれません。
ただし、フウチョウの問いかけにある通り、全体的に人間と動物の関係性の負の面に掘り下げるならば、イルカ、アシカも一緒に掘り下げたほうが脚本の完成度が上がるでしょう。
イエイヌについては、あれは監督交代のいざこざ抜きでも、居心地悪いかと。
詳しくないのですがハリウッドのヒーロー物では技名宣言は少ないのではないでしょうか。国内で閉じるローカルルールに縛られずによりリアルな表現を模索したのでしょう。
マーベルやDC映画の場合、叫び声でパワーアップはしないわけですが、強敵との戦いをどう盛り上げるか、逆転を、どう印象づけるかの工夫があります。フレンズ型セルリアンとの戦いは、あまりそうした工夫がなく、盛り上がらなかったです。それなら誰かが「野生解放!」と叫んだほうがわかりやすいでしょう。
まあファンタジーが蔑称ということもないのでしょうが、多くをノリで処理すべき寓話的世界観というほどには、けもフレ2は堕していないと思います。
まず私の立場は「多分、脚本の穴だろうが、寓話的世界観と取れないこともない」というものです。ラストバトル前の葛藤(フウチョウ)と、ラストバトル勝利のギミック(ビースト)という重要な部分の両方が、ファンタジーな流れで解決されるので、その印象が非常に強いんですよ。
しかし、たつき監督がけもフレ2をやっていたらそのカットは問題にならないわけでしょう。監督が代わるごとに構図被りに難癖つけられるなら、正解は作らない一択ですよ。俺は野生解放こそ失念していましたが、かの名シーンの存在は覚えていて、でもその被りには気づきませんでした。観客が悪意を持ってアラ捜ししていることまで計算に入れて作っていかなきゃならないなら、アニメ制作者が家に帰らない期間は年単位で増えていくでしょう。観ると決めたら、ある程度製作者を信用することは視聴者側の責任だと考えています。
点が三つあると人の顔に見える、と言う話がありますが、人間は、基本的に意味のないところにも意味を捜す生き物です。現実には意味のないことは幾らでもあるのですが、作劇でそういう部分を作ると、視聴者は無理矢理意味を見いだそうとし、結果、制作者にとって不本意な受け取り方をされることがある。それを避けるためには、意味・印象が散漫なシーンを作らないことです。
結局、セルリアン型フレンズにあまり意味がなく、戦闘も盛り上がっていないのが、あら探しされやすい大きな原因だと思います。フレンズ型になった意味もさほどなく、あまり怖い印象もなく、なんとなく倒されていくという(このへんは脚本だけでなくアクションシーンの問題でもあります)。
けもフレ1の集合シーンは、ここからフレンズが、それぞれの個性を生かした連係攻撃を開始するわけです。例えば、それを踏まえて、セルリアンが巧みな連携を仕掛けてきて、「これまでのセルリアンと違う! なんて強いんだ!」とすれば、そこには一つ意味が生まれます。
そういった点をクリアしても、ケチつけられる可能性は否定しません。結局、最終話の評価は、それまでの1~11話の評価と切り離せないものですので。視聴者に信用されるために、制作者側は信用を積み重ねる必要がありますが、そこがうまくいってないわけです。
この先奇跡的にけもフレ2の人気が反転して評価が逆転したら繰り上がって「優しい世界」になるのでしょうか。だとすると「優しい世界」は「感じが良くて人気だった」くらいの概念になってしまうでしょう。
「優しい世界」に込める意味は、人それぞれで、深く考えてない人も多いでしょう。なので、最大公約数を取れば、まさしく「感じが良くて人気だった」くらいの意味になると思います。批評として使うなら、定義が必要になるでしょう。
私自身が「優しい世界」という言葉を使ったのは、「素直なキャラで面白いドラマを作ること」くらいの意味です。
けもフレ2でギスギスが解禁されたことで、G・ロードランナーやフウチョウ、イエイヌなど、けもフレ1に収まりきらなかっただろうフレンズへの間口が開かれました。
ギスギスした作品はギスギスした作品で楽しめる人も、癒やし系作品の続編として出されると「思ったのと違う」ってなりますよね。ラーメン屋いったらサンドイッチが出てきたみたいなもんで。ギスギスを狙ったのなら、作品の出来とは別に、マーケティングのミスです。そういうのは事前に告知して心の準備をさせるのが良いかと。
逆に言うと、ここまでギスギスな作品だと受け取られる、とは制作側は思ってなかったんでしょうね。
そこはおっしゃるとおりですね。書いたことに矛盾があったので書き直します。
まず、1話からのヒキである、キュルルのおうちが、見付からなかったことに、消化不良があります。次に、キュルルが「おうち」を諦めるに至る過程が曖昧なので、ドラマが盛り上がりません。
キュルルが「おうち」を捜す動機として、フウチョウに対して、「そこには、僕にとって大事な、なんかすごく大切なものがあった……気がする……」と言ってるんですよね。この「大事な大切なもの」が不明なまま、おうちより仲間と言われても、とってつけた感が出ます。
何話か見返したのですが「キュルルの手がかりの絵が尽きた」ことが描かれたシーンが見当たりませんでした。教えていただけると幸いです。
でもそうするとセンちゃんやアルマーさんを入れる尺がなくなりませんか。誤解させるための設定も用意しなくちゃならない。というかイエイヌちゃん完全に救われちゃってますよね。
思いつきプロットですので、詳細まで詰めてないのはご容赦ください。作劇において、尺やバランスの問題は常につきまとうので、やりたいことの優先順位を決めて整理すれば良いかと。
優先すべきものがイエイヌとキュルルの関係なら、他のキャラの出番を減らして調整しますよね。逆にカラカルとキュルルが仲直りして関係性を深めるほうがメインなら、プロットが重くなりやすいイエイヌでなくて、別の困ったフレンズにしたほうが、すっきりするかもしれません。
キュルルちゃんをホテルで海に落下させるためにイエイヌ回で下げたのではないでしょうか。落ちたときニコニコ動画では「ざまああwwww」が連発されましたが、あれは制作の狙いだったと考えています。そして必然的落下からのフウチョウ説教・海底火山紹介に自然につながります。
通常、主人公とは「こいつがどうなるか見届けたい」と視聴者に思わせて、物語をドライブする存在です。そのためには視聴者を引きつける魅力が必要になります。魅力がないと、作品を見続けるモチベーションが湧かない=つまらないとなるわけです。魅力としては「いいやつ」から「かっこいい悪」「人間的欠点があるが、どこか憎めないボンクラ」まで様々です。
さてキュルルは、別に「かっこいい悪」や「憎めないボンクラ」キャラではなく、概ね、フレンズを助ける心優しいキャラとして描かれてたわけで、それをこういう下げ方したら、キュルル自体の魅力が損なわれ、作品自体への評価が下がります。さすがに制作者が意図してそういう風には描かないと思います。
キュルルが落っこちた回でニコ動のアンケートがちょっと上がったのは知ってますが、主人公がそこまで嫌われてる時点で、作品としては末期症状でしょう。
むしろ話の流れのメインだったのは”スケッチブックの最後のページの行方”だったと思います。すべてのドラマがスケッチブックに沿って展開され、最後の絵は破られていたことは最初の話で既に明らかにされていて、ホテルの海上で悩むキュルルちゃんは千切られたページの跡を見つめていました。
長い時を生きてミライさん時代からパークを見守ってきたイエイヌに対してキュルルちゃんが「おうちにお帰り」を言い、逆にイエイヌは彼女から送られた絵をみて(観念的に)おかえりを言うわけです(実際に口にはしてないけど、まあ立場的に)。キュルルちゃんはそのシーンを持って本当におうちに帰った、受け入れられた。それを最後のワンカットで示すのが強い、と思うのですがいかがでしょう。
この解釈は私が気づかなかったもので、なるほど、と、思いました。
ただ、「スケッチブックの最後のページの行方」がメインだったとすると、エピローグ的な部分で登場しても、もうその時点では、セルリアンは倒され、キュルルのおうち探しも終わっており、ドラマとして盛り上がらないかと。
イエイヌの「おうちへおかえり」と、キュルルの「おかえり」を重ねて、メインテーマに結末をつけたいのであれば、もうちょっとそこに重点を置いた作劇にしないと視聴者に伝わらないと思います。
一般的エンタメの作劇上のセオリーで評価できないというのはわかりましたが、しかしそのセオリーに従わなければいけない強い理由があるのですか。
作品の出来、不出来は、究極的には個人の好みになります。その上で、「多くの人が好む/嫌う最大公約数」というものもあります。それをまとめたのが、エンタメのセオリーと呼ばれるものです。
けもフレ2の一般的な評価が低い論拠として、そうしたセオリーを守れてないから、という点を指摘しているわけです。
もちろん、セオリーをぶっちぎって、面白い作品はあります。私から見る範囲で、けもフレ2に、セオリーを無視したが故に面白くなってる点は見当たりませんでした。ただこれは私の意見なので、「そうではない。ここが面白い」という意見は拝聴します。
人が動物の上に立つモチーフ、イルカ・アシカやイエイヌが、けもフレ1以後の「人間がいなくなってる世界」でそれを強調されることが視聴者にとって不快で、それを書くなら悲劇性や罪悪感も書くべきだ、との主張でしたね。誤解していました。失礼しました。そうするとリョコウバトは構わないのでは。けもフレ1でもトキは絶滅していますが、人が上に立っているわけではないので問題ない。リョコウバトも同じ扱いでいいのではと思います。しかしけもフレ1でカフェを訪れるフレンズは別の鳥でも良かったわけで、トキが選択されたのは何らかの意図があるでしょう。以前に書いたような「テーマとして昇華していない程度の示唆」でとどめても善いのではと思います。不快になるまで強調されるならドラマに絡めて決着を付けるべきだということですね。ならばイルカ・アシカやイエイヌでそこまで不快になるということ自体が製作者の想定外なのではないでしょうか。俺もグロテスクさは感じましたが話が入ってこないほどは気にならなかったです。「そこに居心地の悪さを感じるのは当たり前」とおっしゃいましたが、監督交代のいざこざ抜きでもそう言えると断言できますか。
「ヒーローがなんか技名叫んでパワーアップ」は、戦隊ものでもプリキュアでもアンパンマンでもあるので、そうそう引っかからない
これまでそういう表現が主流だったというだけです。戦闘のときに技名を叫ぶのはフィクション的です。攻撃のタイミングがバレてしまうし、叫びに使うエネルギーを拳の乗せろよ、です。詳しくないのですがハリウッドのヒーロー物では技名宣言は少ないのではないでしょうか。国内で閉じるローカルルールに縛られずによりリアルな表現を模索したのでしょう。「サーバルの目が光ると、ビーストも同じように目が光るカットがあるので、『同じ系統のパワー』に見えるんですよね。」とのことですが、同じ系統でよいと思います。常時強制的に野生部分が開放されているのがビーストだと俺は捉えてます。
私の意見は「内面世界の外への進出」自体は、多くの作品に共通する、いわゆる「盛り上がる」部分です。ただ、その進出の仕方に、世界内現実の仕組みに矛盾しない理屈がある場合と、理屈なしでイメージが直結する場合がある。ケムリクサは前者で、けもフレ2は、後者のように見えるという話です。
俺はケムリクサの最終話での細かいつじつま合わせに納得していません。「盛り上がり」とはリンが赤い木に対峙するシーンからですよね。ケムリクサでは草周りが特に緻密に組んであるので引っかかっているのかもしれませんが、矛盾していてノリで処理するの範疇に入っています。けもフレ2でのキュルルちゃんの葛藤は「盛り上がる」部分ということでいいですね。とすると問題はフウチョウよりむしろ吹っ切れた後にタイミングよく飛んでくるビーストのような気がしますが… ただそこに至るまでに作品の評価は決してしまっていたし、葛藤をフウチョウという便利な舞台装置で処理したところで全体がファンタジーということにはならないのでは。むしろケムリクサは柔軟性のあるギミックやしがらみのないプレーンな舞台を用意していることで矛盾をでなくしているように思います。まあファンタジーが蔑称ということもないのでしょうが、多くをノリで処理すべき寓話的世界観というほどには、けもフレ2は堕していないと思います。
1と2の共通するクライマックス部分で、似た構図の印象的なカットを出して、共通性を感じないわけがないです。そこは制作者は気づくべきです。
しかし、たつき監督がけもフレ2をやっていたらそのカットは問題にならないわけでしょう。監督が代わるごとに構図被りに難癖つけられるなら、正解は作らない一択ですよ。俺は野生解放こそ失念していましたが、かの名シーンの存在は覚えていて、でもその被りには気づきませんでした。観客が悪意を持ってアラ捜ししていることまで計算に入れて作っていかなきゃならないなら、アニメ制作者が家に帰らない期間は年単位で増えていくでしょう。観ると決めたら、ある程度製作者を信用することは視聴者側の責任だと考えています。
「視聴者の視点では行動が横暴に見える」のであれば、それは「優しい世界」「癒やしとしての芸術表現」として失敗してるのではないかと思います。...(中略)...「優しい世界」というのは、面白かった作品への誉め言葉として使われているように思えます。
この先奇跡的にけもフレ2の人気が反転して評価が逆転したら繰り上がって「優しい世界」になるのでしょうか。だとすると「優しい世界」は「感じが良くて人気だった」くらいの概念になってしまうでしょう。批評の文脈でそのようなものを論じるのは意味がないのでは。作品制作において(俺は関係ないですが)、優しい世界を目指すというのは単に売れるよう頑張る以上のものであって、今のところは曖昧ですが、これから更に研究していく必要があるほど奥の深い領域だと考えています。けもフレ2でギスギスが解禁されたことで、G・ロードランナーやフウチョウ、イエイヌなど、けもフレ1に収まりきらなかっただろうフレンズへの間口が開かれました。そこはメリットだったのですが他方優しい世界性は減じてしまったということです。スピリットは二作品に継承されましたが、休日にリピートして癒やされるのはやっぱり一期ですよね。
なるほどこれまで俺は不備を、設定の矛盾のようなものに絞っていましたが、重く捉えてらっしゃるのはプロット上の未消化や演出上の目論見の失敗、などですね。この方面は完全に素人なのですが、胸をお借りするつもりで議論に足を踏み込ませていただきます。
「おうち探し」がテーマで、「仲間と一緒のここがおうちだった」に落とすためには、通常、「おうちは見つかったが、その上で、仲間と一緒にいることを選ぶ」というプロットにします。そうしたほうが「自分の意志で選んだ」感が出るからです。「おうち」が見付かったけど、廃墟だったとか、「おうち」側から同胞と認められなかったとかでショックを受けて、その後、決心するとかが基本パターンですね。そこが全くないので響かないんですよね。
論理に同意できません。自由意思はどちらの選択をとっても自由のときにのみ現れるものです。事実上その選択肢しかないのにそれを選ぶのを決心するのは意思ではなくて屈服ですよ。敗北したのではなく自分で選んだと言い聞かせるために自分に発破をかけているわけでしょう。けもフレ2のキュルルちゃんは諦める必要がないときに諦めの決断をしているので、そこに確かに彼女の自由意志があると判るはずです。響くか響かないかは決意の重さを事前に示しているかでしょう。リリの「会えないのはもっと嫌だ!」は赤い木を生み出した(観念的な)責任は彼女にあるし、あそこで「好きに生きて」などいわれて逃されて、わかりました楽しく生きますは納得感が全く無いので、戦線復帰が可能だとわかった時点で行動は一択なわけです。でもワカバとの日々でお化けになることを怖がったり、ワカバが倒れるのを心配したりしていたので、彼女自身が消えることの怖ろしさは十分に示されてる。それでも積極的に行くところに決意の強さが見て取れるわけですよね。キュルルちゃんはそれまで三人でおうちを探して旅をしてきて最後に、それがパークのどこにもなく手がかりの絵も尽きて絶望したことが示されているので、諦めるということがそれなりに重い決定であることは判っているわけです。それで充分だとは思いますが、まあ死ぬほどの重みではない。先々週にリリの決断をみているのでそこからすると見劣るのは否定できないです。
増田さんのプロット案は面白いですね… そっちのバリエーションも観たかったかも(実はプロの人なの?)。
最初、イエイヌが、キュルルを、去って行った飼い主と完全に誤解している。キュルルや他のフレンズの助けで、イエイヌが元の飼い主のことをきちんと思い出す。その時、元の飼い主がイエイヌと別れた時に、安易に捨てたわけではなかったことがわかる。キュルルはイエイヌの寂しさを受け止めつつも、今の自分に出来ることはないので、別れる。一人のイエイヌの家に、他のフレンズが遊びに来る、などとします。
でもそうするとセンちゃんやアルマーさんを入れる尺がなくなりませんか。誤解させるための設定も用意しなくちゃならない。というかイエイヌちゃん完全に救われちゃってますよね。このときのキュルルちゃんが横暴に見える、とまでは俺は思っていませんが、視聴者の多くはそう捉えたようです。おかしいと思わない人はサイコパスとまで言われていました。素人考えなんですけど、あそこでキュルルちゃんが(観点的な)非道を働いてしまうことには狙いがあったのではと思います。お話の上でキャラクターが何らかのミスや悪事を働いて被害を作ってしまった場合、それに悪意がなくても、天災的な事故で観念的な罰を受ける。視聴者の溜飲を下ろすためなのか、そういう処遇はよくあると思います。でないと消えざるを得なかったリリ・ワカバがただひたすら不遇ということになってしまう。キュルルちゃんをホテルで海に落下させるためにイエイヌ回で下げたのではないでしょうか。落ちたときニコニコ動画では「ざまああwwww」が連発されましたが、あれは制作の狙いだったと考えています。そして必然的落下からのフウチョウ説教・海底火山紹介に自然につながります。
肩すかしなのは、キュルルちゃんの出自と、最終話に至るドラマ、キャラの動機等が、特に関連しなかったからです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズで、疑似不老不死だったことを眼目とするなら、それが何かと絡む必要があります。
キュルルちゃん疑似不老不死説は俺の自説で、そこまでの確証はないことは一応留意してください。むしろ話の流れのメインだったのは”スケッチブックの最後のページの行方”だったと思います。すべてのドラマがスケッチブックに沿って展開され、最後の絵は破られていたことは最初の話で既に明らかにされていて、ホテルの海上で悩むキュルルちゃんは千切られたページの跡を見つめていました。長い時を生きてミライさん時代からパークを見守ってきたイエイヌに対してキュルルちゃんが「おうちにお帰り」を言い、逆にイエイヌは彼女から送られた絵をみて(観念的に)おかえりを言うわけです(実際に口にはしてないけど、まあ立場的に)。キュルルちゃんはそのシーンを持って本当におうちに帰った、受け入れられた。それを最後のワンカットで示すのが強い、と思うのですがいかがでしょう。
一般的エンタメの作劇上のセオリーで評価できないというのはわかりましたが、しかしそのセオリーに従わなければいけない強い理由があるのですか。不勉強ながら俺はそれを知らなかったし、多くのファンも同じではないでしょうか。視聴者には考察班的に楽しむ人もいるし、癒やし目的でカジュアルに流し見る人もいるでしょう。教科書的な表現から逸脱することで芸術は進歩してきたのではないですか。
おうち探しの結論が「大好きなフレンズと一緒のここがおうち」であるなら、「人間がフレンズにひどいことした」は、避けて通れないかと。
イルカ・アシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える
元々の話は、人間が動物をねじ曲げてしまったことの悲劇、罪悪感、グロテスクサが表現されてるか、でしたよね。それらは一つの責任の取り方かもしれませんが、そうしたニュアンスは、存在しないかと。リョコウバトの場合、「君の家族は全員死んだけど他にも仲間はいるよ。殺したの俺の仲間だけど」というのが「責任」かと言われると、ちょっと。もちろん、絶滅動物に対して人間が償うべきなのか、どう償うのかは、大きなテーマであり、けもフレ2内の1エピソードとして処理するのは限りなく無理です。しかし、だったら最初からリョコウバトを出さなければ良いかと思うわけです。そのあたりが深く考えてないという話です。
余談ですが「おうち探し」がテーマで、「仲間と一緒のここがおうちだった」に落とすためには、通常、「おうちは見つかったが、その上で、仲間と一緒にいることを選ぶ」というプロットにします。そうしたほうが「自分の意志で選んだ」感が出るからです。「おうち」が見付かったけど、廃墟だったとか、「おうち」側から同胞と認められなかったとかでショックを受けて、その後、決心するとかが基本パターンですね。そこが全くないので響かないんですよね。
イエイヌは不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います。
キュルルが、イエイヌの孤独、寂しさを理解しつつも、「飼い主の責任」のために去って行く、と、取れる描写があればよかったですね。また飼い主の責任の話を強調するなら、イエイヌが「ヒトなら誰でもよい」と言ってしまってるのがダメでしょう。イヌは「ヒトなら誰でもよい」生き物ではないわけで、そっちのほうが誤解が大きいし、「イヌは人なら誰でもいいんだから、他の人に、あげればいいじゃん」という無責任に繋がりかねません。
私なら、最初、イエイヌが、キュルルを、去って行った飼い主と完全に誤解している。キュルルや他のフレンズの助けで、イエイヌが元の飼い主のことをきちんと思い出す。その時、元の飼い主がイエイヌと別れた時に、安易に捨てたわけではなかったことがわかる。キュルルはイエイヌの寂しさを受け止めつつも、今の自分に出来ることはないので、別れる。一人のイエイヌの家に、他のフレンズが遊びに来る、などとします。
何歳くらいを対象に考えてるのかわかりませんが、「ヒーローがなんか技名叫んでパワーアップ」は、戦隊ものでもプリキュアでもアンパンマンでもあるので、そうそう引っかからないと思います。
サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者は最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。
あの時、サーバルの目が光ると、ビーストも同じように目が光るカットがあるので、「同じ系統のパワー」に見えるんですよね。一期の野生解放と同じものか、ちょっと混乱する。
念のために確認しますが、私の意見は「内面世界の外への進出」自体は、多くの作品に共通する、いわゆる「盛り上がる」部分です。ただ、その進出の仕方に、世界内現実の仕組みに矛盾しない理屈がある場合と、理屈なしでイメージが直結する場合がある。ケムリクサは前者で、けもフレ2は、後者のように見えるという話です。
けもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。
通常、作品における伏線・回収は、プロット上重要なメインの部分についてやるものだと思います。一つの作品で、画面に映ったこと全部に完璧な説明をつけようとすると、かえって面白くなくなるので。それを理解した上で「すべてに筋を通すべく没頭」するのは一つの楽しみ方ですが、作品単体にそれを要求する必要はない。わからないことがあることを含めて楽しめば良いかと。もちろん、楽しめないほど大きな矛盾があれば別ですが、私はそれは感じませんでした。
他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合を意識しなくてはならなくて、キャラクターもかぶらないようにしなければならない。ヘラジカとプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています。舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテルの位置。時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。
続編作品のほうが様々な制約があり、オリジナル新作ほど融通が利かないのはその通りだと思います。現場の方々は整合性を取ろうとしたのだと思います。けもフレ2で、派手でない部分で、筋、整合性を通してる部分があるのも、もちろんだと思います。
その上で、重要な部分で、フウチョウが出てきたりするあたりはファンタジーであるなと。「記憶のケムリクサが不自然に発動したこと」にご都合性がないとは言いませんが、「幻想だか現実だかもよくわからないフウチョウコンビが、どこにでも現れて説教する」は、後者のほうがファンタジー度が高いでしょう。
キュルルちゃんの出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。
肩すかしなのは、キュルルちゃんの出自と、最終話に至るドラマ、キャラの動機等が、特に関連しなかったからです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズで、疑似不老不死だったことを眼目とするなら、それが何かと絡む必要があります。ベタなのは、それによってセルリアンを倒す助けになるとかですね。そうでなくても構いませんが、そういうのが必要です。けもフレ1で、かばんちゃんがミライのフレンズ化だったというのは、「セルリアンに食べられたかばんちゃんが復活した理由」というドラマと結びついてるから意味があるわけです。
ワカバの場合、ワカバとリンの関係性、ケムリクサの赤い霧の世界がなぜ生まれたか、姉妹達とはなんだったのか、という、キャラの動機と起源、世界の成り立ちが解かれて、それが最終決戦の盛り上がりに繋がるところに意味があるわけです。ワカバが、宇宙人なのか、天使なのかの細部は、想像に任せるで良いのです。
牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空からの俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。
合理性があろうがあるまいが、1と2の共通するクライマックス部分で、似た構図の印象的なカットを出して、共通性を感じないわけがないです。そこは制作者は気づくべきです。
それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃんを誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者の視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラの基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界」概念のスピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思います。けもフレ1でも博士はサーバルの図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウの能力の表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズを酷使して、かばんちゃんを、りょうり要員として使役しています。視聴者を全面的にエンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない。
「視聴者の視点では行動が横暴に見える」のであれば、それは「優しい世界」「癒やしとしての芸術表現」として失敗してるのではないかと思います。
そして「”キャラの基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしま」うこと自体は簡単かもしれませんが、その結果、出来上がった作品が面白くなるか、評価されるかというと、それはまた別問題ですよね。「優しい世界」というのは、面白かった作品への誉め言葉として使われているように思えます。
一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます。問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品が問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記・とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。
不備について、いくつかは、これまでにも書いたと思います。この記事だと、イエイヌ周りとか、キュルルちゃんの「おうち」「正体」周りですね。
細かな不備はさておき、大きく重要なのは、おっしゃっていた「視聴者の視点では行動が横暴に見える。」という点が、印象に残る点だと思います。作り手の意図として「視聴者に対して、キュルルを横暴に見せたい」と思っていたわけではないでしょう。だとするのなら、意図に対して演出・脚本が失敗しているわけです。
「初見ではわからないかもしれないが、よく考えるとわかる」部分があるのは作品に深みを増しますが、それは細部にやる話で、ドラマとして盛り上がる重要なポイントで誤解を与えてはいけない、というのが普通の作劇かと。
広い意味で調和し、繋がる必要はあります。さもないと単に、とっちらかった話になってしまいます。
けもフレ2の場合、キュルルが「みんなのことが~大好きなんだー!」と叫び、これが多分メインテーマなわけで、だとすると、「リョコウバトを絶滅させ、イルカやアシカにショーをさせ、イエイヌを人間なしには生きられなくした人間の業」はメインテーマと真っ向からぶつかるアンチテーゼなわけで、その業とどう向かい合うかは、避けて通れない話でしょう。軽く触れるだけで終わらせるのは構成的に不備があります。
けもフレ2のメインテーマは「おうち探し」だと思ってました。そうだとするとヒトの業はアンチテーゼとしては機能しないです。ただ、テーマについて、議論を受けて改めて考えなおしてみたのですが、それぞれ責任の取り方を示唆する決着にはなってたと思います。イルカ・アシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える。イエイヌは不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います。木村監督は仕事受けたあとインタビューで「娯楽なので、ぶっちゃけ監督なんて誰でもいいんですよ」とお話したそうです。この言葉は謙遜、およびプロとしての矜持だった、道具に徹するという意志の現れだったのでしょうが、騒動で傷ついていたファンには「たつき監督への侮辱か」と受け取られてしまったようで、残念なことです。作劇のプロとしての基準がどのようなものか存じませんが、一般的なエンタメの方法論の尺度では、(見得を切った割には)十分な水準に達していなかったということでしょうか。俺としてはとっちらかっているとまでは思えなかったです。
野生解放を明言しないの目的が引っかからないようにするため。性格の自己申告の目的がわかりやすくするため、と申しました。サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者は最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。むしろ俺は貴方のレベルでそれを見落としたことに驚いています。すくなくとも演出の目論見は失敗したと言っていいでしょうね。
ミドリがケムリクサ自体を回復できるのに、なぜ、赤を回復してしまわないか、は、複数の葉を重ねて作られた赤を「治す」ことで、元に戻してるのかもしれません。
いただいた他の論はあまり説得力を感じませんでしたが、この解釈は的を射ていると思います。考察によって筋を通すことができる、それに耐えられる作品になっている。そういう信頼がたつき監督にはあり、木村監督には無かったのでしょう。見返しておられるとのことで詳しくは控えますが、あらゆるポイントに伏線と回収があります。りんが記憶の草を触られて居心地悪くしているシーンは流し見るとなんかエッチな雰囲気に見えてしまいますが、きちんと意味のある描写です。内面世界の外への進出、この観点で二作品の差を論評するのはいささか無理があるのではないでしょうか。俺はけもフレ2もSFアドベンチャーとして設定を考察しています。しかし先に触れてらっしゃいますが、全体的な伏線-回収のスタイルには2つの作品は確かに大きく異なっています。
「さぁとっとと野生解放するのです」… かの名言を忘れているとは。おっしゃる通りで返す言葉もないです。やれやれ、咀嚼が足りてないですね。噛めば噛むほど味が出る、これがたつき監督のけもフレ1以後の作品の凄さでした。個人的には、けもフレ2もそのスピリットを色濃く受け継いでいるように思えます。
ただケムリクサという作品は、全体を通して様々な伏線があり、矛盾や意味不明に思えた描写が「なるほど、こういうことだったのか!」と思う瞬間が何度もありました。だからこそ、矛盾と思える部分についても「もしかして、これはこうなのでは」と考えたくなります。けもフレ2は、そういう作品ではないので、
これには異を唱えておきます。けもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合を意識しなくてはならなくて、キャラクターもかぶらないようにしなければならない。ヘラジカとプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています。舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテルの位置。時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。ボスウォッチでキュルルちゃんを探すことができてしまうと、けもフレ1で海に落ちたボスをラッキービーストは探せなかったのと矛盾が出る。伏線だけでなく視聴者の印象にも配慮しなくてはならない。最終話で唐突にボートが出てくると、あれ? けもフレ1のかばんちゃん出立でバスを使ったのはなぜだよ、というショックを与える可能性があるので、うみのフレンズ回で予め出しておく。”うみのごきげん”はそのタイミングで合わせて出す。パーク内でのボスウォッチの在り方は、けもフレ1では”脳みそソコについてんのか!?”というビックリ要素でしか無かったですが、バスのハンドルディスプレイにウォッチをかざせというようなGUIがあるところからみて、ウォッチはボスの形態の一つだったと考えられます。そして引き出しに大量の異型筐体のボスウォッチ。「コレを持っていって」っと手渡す。様々な疑問に筋を通す解釈を俺は見つけることができました。見逃してしまうような設定開示を考察で結ぶことができる、これはたつき監督のお家芸だったはずですが、継いだ最初の仕事で再現できる手腕には舌を巻きます。
このようにけもフレ2では設定が矛盾しないように、しかもそれを前面に押し出さず(制作が苦労している感が出ないように)背後で処理している。考察を進めると考える上でヒントになる(あるいは制限になる)情報があちこちにあるわけです。視聴時の情報の引っかからなさが、けもフレ2の優れたポイントです。キュルルちゃんの出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズなら、コレは擬似的に不老不死を実現していることになる。そうすると、けもフレ1の山頂の戦闘機にも理屈がつけられるような気がしませんか。よくある批判に、キュルルちゃんの正体が最終的には謎じゃないか、というものがありますがそれを言うと、わかばの正体も最終的には謎でした。俺から見ると、どちらも読み解くのが… とても楽しい。貴方ほどのレベルの視聴者にこの作品がメルヘン扱いされているのは、勿体無いことこのうえないです。”義憤”や”同調圧力”などがそうさせてるとしたら… ううむ、最初の諍いのときに制作はプライドを曲げてでも頭を下げて、互いに許し合うべきだった。残念です。
あのシーン(引用者注・けもフレ1の全員集合シーン)を、フレンズ化セルリアンで再現した、けもフレ2は本当に何をしたかったのだろう……。
牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空からの俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。
「優しい世界」と呼ぶかは意見が分かれるかもしれません。ただ、ここで書いたようにキャラの基本的な優しさ、裏表のなさなど、けもフレ1とも共通してる作家性があり、だからこそ、全体として、けもフレ1ファンの人にも人気が出た、くらいは言えると思います。
それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃんを誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者の視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラの基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界」概念のスピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思います。けもフレ1でも博士はサーバルの図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウの能力の表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズを酷使して、かばんちゃんを、りょうり要員として使役しています。視聴者を全面的にエンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない。
一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます。問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品が問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記・とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。
けもフレ1期の時に、フレンズの会とか結構フォローしてわかったけど
彼は結構「作り直し」をやる
ケムリクサはわからないが、あのクオリティの高さはそういうアジャイル型・バージョンアップ型の作り方に支えられている
こういうのは一般的な作り方では無理だ、と当の監督も言っていたと思ったが
似たような事をしているところはあると思う、例えば宮崎駿
「面白いものに対して全力が出せる環境」と「死ぬまで全力を出してしまう人」によってヒット作というのは生まれがちである
それを否定するのはアイデンティティを奪うようなものだから個人的にはどうかと思う
とは言え、例えばピクサーのようにまともな労働環境でクオリティを出している現場もあるので
これはむしろたつき監督だけではなく業界全体の課題ではあると思う
ただ「死ぬまで全力を出してしまう人」にそこら編の改革ができるのかと考えたら疑問だ
できれば周りの人間がそこを頑張るべきなのかもしれない
宮崎駿に関しては、そこら編の業務改善は最後まで上手くいかなかったように思える
1人の凄腕の親方が居て、それを支持する者が食らいついていく構図
でもそちらの方が多い
クオリティを維持しながら、ワークライフバランスを確保するのは至難の業だ
___
ちなみに、このアジャイル型・バージョンアップ型の流行は、IT業界やゲーム業界にはワークライフバランスの確保をむしろ容易にした
難しい話だ
あまり関心を持ったことのないポイントなので、勉強になります。僭越ながら、グロテスクさが感じられうる示唆的なシーンが、人物の行動の結果などに繋がって作品としてのテーマになるまで昇華されていなかったとしても、芸術的な意味はありうるのでは、と考えています。例示していただいたアイデアのように正面からこれをテーマに据えてしまうと、作品自体の目的が”説教”になってしまうので避けたが、示唆したいことは確かにあった、という可能性です。別の方の増田を引用します。
芸術というものは非常に幅広い概念であり、故に、善し悪しを語るのは、非常に難しくなります。話が拡散しすぎてもしょうがないので、ここでは、いわゆる一般的なエンタメ(これ自体もかなり広い概念ですが)の方法論に沿った評価とします。
あるモチーフをメインテーマに直接繋げると説教臭くなる場合は確かにあります。メインテーマの一本調子にならないように「Aの正しさ」を中心に描きつつ、「A以外の正しさ」にも軽く触れるといった構成はよくありますね。ただ、その場合でも広い意味で調和し、繋がる必要はあります。さもないと単に、とっちらかった話になってしまいます。
けもフレ2の場合、キュルルが「みんなのことが~大好きなんだー!」と叫び、これが多分メインテーマなわけで、だとすると、「リョコウバトを絶滅させ、イルカやアシカにショーをさせ、イエイヌを人間なしには生きられなくした人間の業」はメインテーマと真っ向からぶつかるアンチテーゼなわけで、その業とどう向かい合うかは、避けて通れない話でしょう。軽く触れるだけで終わらせるのは構成的に不備があります。
私は、それを「深く考えないで出した」と考えますが、「示唆したいものがあったが描ききれなかった」と考えることもできるでしょう。意図はわかりませんね。
「さぁとっとと野生解放するのです」「我々の群れとしての強さを見せるのです」からの、闇に光る数々の目、は名シーンであったと思います。あれを見ると、「ここが正念場なのだから、野生解放できるフレンズは全員した」という流れが伝わるかと。
それはそうと、あのシーンを、フレンズ化セルリアンで再現した、けもフレ2は本当に何をしたかったのだろう……。
ところで「野生解放を言わない」ということには、けもフレ2制作陣の明確な狙いがあると思います。けもフレ2では他にも「ちほー」や「フレンズ」といったタームがほとんど言われません。推測ですが、これは一般受けを狙うために途中から入ったりぼーっと観てる視聴者やキッズが引っかからないように配慮したものだと思われます。逆に明確に説明するようになったものもあります。キャラクターの性格です。「私、体が丈夫なだけじゃなくて記憶力もいいので」「私は用心深いから」… などなど、けもフレ2ではキャラクターが自分の性格を自己申告します。作劇技術的な難度という点ではこのような表現はおそらくレベルが低く、エレガントでもないのでしょう。しかしそれが直ちに作品として悪い、ということにはならないでしょう。解りやすいというメリットは確実にあります。あざといくらいハッキリ言うので、おそらくここを起点に自分でも動物の性質を調べてほしい、という願いも込められているのかもしれません。
全体としてキッズ向けのノリで、わかりやすくする意図はあったかもしれません。それはそれで一つの方向性ですよね。ただ「野生解放と言わずに野生解放で急に強くなる」は、わかりやすさ優先ではなく、むしろ、わかりにくくなっています。子供なのだから、そのへんの脈絡を気にしない……と仮に制作者が思っているとしたら、それはそれで、子供を馬鹿にした話です。子供向けにわかりやすくするというのは、そういうことではないでしょう。
ケムリクサ周りは、まだまだ見返して伏線を捜しているので、勘違いしてる点もあるかもしれないことを先に述べて起きます。
おっしゃる点、それぞれについて、説明はできると思います。例えば、ミドリがケムリクサ自体を回復できるのに、なぜ、赤を回復してしまわないか、は、複数の葉を重ねて作られた赤を「治す」ことで、元に戻してるのかもしれません。あるいは、ワカバが苗床になった時に、ミドリに赤に対する抵抗力を与えたのかもしれません。リンの中に、リリの記憶が漏れていることは、わかばがロックを解除して、そのまま開けっぱなしの状態だったのかもしれません。光については、木を倒して、残った全部の力を、わかば治療に使った描写に思えました。
このへん、贔屓の引き倒しというか、脚本ミスの部分を無理矢理、好意的に見てるものは混じっているかもしれません。好意的に見れば、けもフレ2の矛盾点とおぼしき部分も説明をつけることができるとは思います。
ただケムリクサという作品は、全体を通して様々な伏線があり、矛盾や意味不明に思えた描写が「なるほど、こういうことだったのか!」と思う瞬間が何度もありました。だからこそ、矛盾と思える部分についても「もしかして、これはこうなのでは」と考えたくなります。けもフレ2は、そういう作品ではないので、その点は一緒にできないなと。
ケムリクサは、けものフレンズ1に比べて全体的にダークなわけで、それを「優しい世界」と呼ぶかは意見が分かれるかもしれません。ただ、ここで書いたようにキャラの基本的な優しさ、裏表のなさなど、けもフレ1とも共通してる作家性があり、だからこそ、全体として、けもフレ1ファンの人にも人気が出た、くらいは言えると思います。
設定や伏線において、けもフレ2に不備があるように思えるのは錯覚で、実態は作品の狙いと得意な表現の範囲の違い「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」、で済むレベルなのではと考えているのです。
作品の狙い、得意な表現分野の違いにすぎない点が、1との比較で、不当に欠点とされてる部分は多いと思います。その一端は、一連の記事で書いています。
その上で、けもフレ2の設定や伏線に不備がない、とまでは私は言えません。もちろん、どんな作品にも瑕疵はあるわけで、減点法だけで評価するのも、考え物です。どこを重視するかの違いかもしれません。
一般的な作劇として、不愉快なイベントは、単体だと「単に不愉快なだけ」で終わるので、作品のテーマ性として発展させ、そこに意味を持たせるわけです。...
あまり関心を持ったことのないポイントなので、勉強になります。僭越ながら、グロテスクさが感じられうる示唆的なシーンが、人物の行動の結果などに繋がって作品としてのテーマになるまで昇華されていなかったとしても、芸術的な意味はありうるのでは、と考えています。例示していただいたアイデアのように正面からこれをテーマに据えてしまうと、作品自体の目的が”説教”になってしまうので避けたが、示唆したいことは確かにあった、という可能性です。別の方の増田を引用します。
動物園から人と動物の関係についてあくまで人は管理者であって友達ではないという指摘があった。人の都合で檻に閉じ込めている現実から目を背けるべきではないとのこと。学習や研究、人の活動によって個体数が減らされてしまった種の保存など、人が人のために他の種を管理しているのだから、あまり、動物と人が対等に取り扱うことは教育上望ましくない。2期では是非そういった視点も踏まえ、動物同士がフレンズでありヒトは違うという体でお願いしたい。
動物園から制作陣への要求… もちろん、そのような体で書かれた冗談でしょうが、こういう視点は制作側にあったのかもしれません。
それを仰るなら、けもフレ1の黒いセルリアンとの戦闘でも多くのフレンズは野生解放していないです。ところで「野生解放を言わない」ということには、けもフレ2制作陣の明確な狙いがあると思います。けもフレ2では他にも「ちほー」や「フレンズ」といったタームがほとんど言われません。推測ですが、これは一般受けを狙うために途中から入ったりぼーっと観てる視聴者やキッズが引っかからないように配慮したものだと思われます。逆に明確に説明するようになったものもあります。キャラクターの性格です。「私、体が丈夫なだけじゃなくて記憶力もいいので」「私は用心深いから」… などなど、けもフレ2ではキャラクターが自分の性格を自己申告します。作劇技術的な難度という点ではこのような表現はおそらくレベルが低く、エレガントでもないのでしょう。しかしそれが直ちに作品として悪い、ということにはならないでしょう。解りやすいというメリットは確実にあります。あざといくらいハッキリ言うので、おそらくここを起点に自分でも動物の性質を調べてほしい、という願いも込められているのかもしれません。
ケムリクサに置いて、内面と世界がシンクロする際は、ケムリクサというギミックを使っており、SFとしての筋は通っていると考えています。ここでいうリアリティラインは高めです。
そうでしょうか。最終話の赤い木との戦いで、りんの本体の葉から水がなくなって戻ろうというときに、ミドリの核の枝と桃ちゃんを継承しました。枝を肘につけてパワーアップして復帰しますが、しかしミドリの枝にケムリクサを修復する機能があったのでしょうか。ミドリの葉は状態を治す・保つ事ができます。わかばの腹に空いた穴や、りんの欠けた手足を補ったことはありますが、ケムリクサそのものを治したことはないです。もしケムリクサをも治せるなら、赤い木に指して倒せるのと矛盾してしまうと思います。かといって桃ちゃんで自分を分裂させたという可能性もありません。桃ちゃんは、(姉妹では)りなだけが使える葉だからです。また同じく最終戦で、りんは、りりの最後の記憶を取り戻しますが、あのとき記憶のケムリクサが突然発動したのはなぜでしょう。直前に二回わかばが開いていますが、二度ともロック解除が必要でそれは、りくにさえできない、わかばだけが可能な手続きだったはずです。りんは最終戦終了後キャッチした、わかばとともに船のそこに落ちますが、そこで突然ミドリの光の柱が伸びて二人の怪我を修復します。でもミドリは葉も枝も戦闘で使い切ったのでは。リアリティラインが低い… 内面の高まりがなし崩しに外面に出てしまう。お話を頂いて頭に浮かんだのはむしろこのシーンでした。ケムリクサを万能の舞台装置、あらゆる話の粗を吸収するスポンジと捉えるなら、けもフレ2のセルリウム&サンドスターをスポンジにすれば全て解決では。
悪意のあるキャラがいない、という点では「優しい世界」を継承しているでしょう。りんがわかばを警戒するのは自然なことですし、それ以外は全員が素直で、また世界破壊の原因も優しさに起因し、わかりやすい「悪役」はいない
「優しい世界」の解釈が俺らふたりの間で異なっているように思います。けもフレ1で、カバは新参のかばんちゃんに「パークの掟」を諭しつつも、去りゆく二人に何度も声をかけて心配しているさまを示す。ツチノコは地下迷路で口の悪い闖入者を疎んじつつも、(諦めた体で)二人に協力して出口を探すわけです。最後には絶滅していなかったヒトへの安心の気持ちを口にする。サーバルはかばんちゃんを、「かばんちゃんは…したかったんだよね?」のように道中何度もフォローを入れる。このような誰かを深いレベルで思いやる描写があちこちにあり、一方で人物間の衝突はあっても形骸化した、表面的なものでしかなかった。全面的に留保の余地なく安心できる世界観がけもフレ1の「優しい世界」としてみんなに愛された、そう考えています。しかしケムリクサではもう最初から、わかばは異物扱い、いつでも落とせる、落としてやろうのような脅迫的な発言が毎回あるわけです。もちろんおっしゃる通りそこには合理性があるんですが、しかし、りくさん、あなたは最後散り際にまで「こんなやつのどこがいいんだ」的なdisりをくれる必要はあったのか、あれ実はあなたも好きだったんで吹っ切るために強がったんですよね、などと視聴者の俺は解釈していますが、しかし「優しい世界」では全然ないでしょうということは主張しておきます(でもりつ姉はオアシス)。
設定や伏線において、けもフレ2に不備があるように思えるのは錯覚で、実態は作品の狙いと得意な表現の範囲の違い「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」、で済むレベルなのではと考えているのです。むしろ楽しむことを妨げる、エゴイズムという意味での悪意は、視聴者の俺らの側にあるのではないでしょうか。拝読した記事には総論としては同意で、いわゆる「ハンロンの剃刀」は強力なのですが、作品を論評するときに必要な環境、安心して自分の意見を言える状況、とは現状はかなり食い違っているように思います。この空気の中での分析は、かなり注意深く精査しなければ容易に流されて最悪のケースでは誰かの筆を折らせる結果になりかねない、そう思って眉に唾をつけ考察しています。
例えば一期のメインキャラが、十数人として、それが全員、根が素直で優しいとするなら、「根が素直で優しいキャラを十数体、キャラを立てて描き分ける」ことになるわけで、えらいことです。もちろん、素直なやつばっかりじゃないですが、それにしても想像すると怖くなりませんか。
ううむ、言われると、けもフレ1のサーバル・コツメカワウソ・プレーリードッグはみんな似てはいるものの、ごくごく微妙にキャラが違っており、おそらくセリフに落としても区別がついてしまうでしょうね。制作陣の構成についても明るくないですが、この功績は吉崎観音さんの成果?
当初イエイヌはヒトであれば誰でも良いということを言っていました。結果的には「別れた大切な人を待ち続ける」ことになるのですが、ヒトであればよいと思っているという設定は、不憫さを誘うためものだった思います。イルカ・アシカについても芸の報酬をねだるのは(三人も引いていたし)どこかグロテスクさを感じました。ホテルのぬいぐるみが売り切れる描写は、リョコウバトが孤独になっていくさまを強調したものでしょう。確かにドラマとして悲劇・罪悪感が押し出されているわけではないですが、全編に渡ってそういう表現がある点で、そこには何らかの狙いがあるように感じます。深く考えていないということはないと思います。
このへんは、主観的な話にならざるを得ませんが、個人的にはイルカ・アシカのエピソードに、自覚的なグロテスクさは感じませんでした。リョコウバトのエピソードは絶滅悲劇を意識してるのは確かですが、そこがどこにも繋がっていません。
一般的な作劇として、不愉快なイベントは、単体だと「単に不愉快なだけ」で終わるので、作品のテーマ性として発展させ、そこに意味を持たせるわけです。キュルルが人類の罪深さを知って、それを贖罪しようとするとか、あるいは、キュルルの態度のほうが正しく、かばんさん的な人とフレンズを区別しない態度が偽善であることが示される、とかですね。
けもフレ2では、そういうテーマ性は見当たりませんでした。やろうとしてまとめきれなかった可能性もありますが、個人的には、そこまで深く考えていなかったようにも思えます。「シリアスなエピソードを置くことで、作品に深みがでる」くらいのノリで置いて、それ以上は考えていないように思えたのです。
あれが野生解放なら、筋は通りますね。野生解放といえよ、とか、他のフレンズは野生解放しないのか、とかは、内面世界の問題ではなく、脚本の不備の問題ですから。
しかしそうすると、けもフレ2は全体としてはリアリティラインは低くはなかった、ということになりませんか。けもフレ1の紙飛行機や石橋の下に落としたりは納得感が高かったのはわかりますが、けもフレ2での内面世界の漏出は最終盤で起こったということでしょう。
リアリティラインの高低に関わらず、作劇のセオリーとして、クライマックスでは、内面と世界が強くシンクロします。
主人公の絶望と、強大なセルリアンの登場、友情パワーの高まりと、主人公の復活、セルリアンの撃退、などです。
この時、けもフレ1は、内面と世界を繋ぐ筋、理屈を、うまく作っていました。
けもフレ2は、そのへんがあまり機能しておらず、内面の高まりが、なし崩しに外面に出てしまったと考えます。
これは、脚本の不備と捉えることもできますが、けもフレ2単体で見た場合、そこまで気にならない。ただ、けもフレ1と比べると、目立ってしまう、というわけです。
最初に、「ただ、けもフレ2は、全体的に伏線の回収がうまくいってないので、意図的にリアリティラインを低めに保とうとしたというよりは、設定について深く考えてなかったり、伏線を消化しきれなかったりして、そうなってしまってると考えられる」と書いた感じです。
ところで、ケムリクサにおいてもリアリティラインは低くなっていったと考えています。ケムリクサは”優しい世界”でもないです。視聴者は同監督ということで同様のものを期待したはずですが、ギャップが大きく評価を下げたという感じはありません。もちろん悪意を見出している人もいません。
ケムリクサに置いて、内面と世界がシンクロする際は、ケムリクサというギミックを使っており、SFとしての筋は通っていると考えています。ここでいうリアリティラインは高めです。また生存が厳しいという意味では優しくないですが、悪意のあるキャラがいない、という点では「優しい世界」を継承しているでしょう。りんがわかばを警戒するのは自然なことですし、それ以外は全員が素直で、また世界破壊の原因も優しさに起因し、わかりやすい「悪役」はいないわけです。
人間、創作には色々な気持ちを込めるので、「あいつに負けたくない」「あいつの作品が、ここがダメなのを暴いてやる!」といった対抗心を作品に入れ込む場合はあると思います。そういうのは悪意と呼べなくはないでしょう。そうした悪意を高いレベルで昇華して、優れた作品になることはいくらでもあります。逆に言うと「悪意を持って作られた創作」と言われるものは、悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらいものなわけです。普通、そういうのは商業では、否定されます。なので、おっしゃるとおり、「商業的メリット以前に、悪意を想定する」のは常軌を逸した話であると思います。
ただ商業メリットの話をしていくと、けもフレ2に関して「それ商業的に悪手じゃないの?」と考えられる部分は、作劇に限らず色々あるわけなので、それを正当化する理由として悪意を置くのは、あながち否定できない。なので、そうした悪意なしでも、けもフレ2という作品が生まれることは説明できる、という記事を書いたつもりです。その上で、もちろん、みんなちょっと落ち着いたらとは私も思います。
そういえばtogetterで吉崎さんの出したプロットから、たつき監督が「トゲ」を抜いた、というエピソードが紹介されていました。俺は結果をみて、なるほど! と思ったのですが、ああいうことを狙ってやっていくのは唯の視聴者が思う以上に難しいのでしょう。
難しいと思います。単に優しくするだけでなく、優しくした上で、キャラを立てないといけないわけです。
例えば一期のメインキャラが、十数人として、それが全員、根が素直で優しいとするなら、「根が素直で優しいキャラを十数体、キャラを立てて描き分ける」ことになるわけで、えらいことです。もちろん、素直なやつばっかりじゃないですが、それにしても想像すると怖くなりませんか。
どうも。おじさんです。
最初はてなブログに書いてたんだけどツイッターとかないし読まれにくそうだったからここに書くよ。
おじさんはけもフレ自体はアプリはやってなくて1が好きだったおじさんだよ。
あえて言うなら「雑」の一言に尽きるよ。
そんな2期の話は一瞬で終わってしまうおじさんが今回なんでこんなブログ始めたかというとね。
今のけもフレの界隈に失望とさみしさの混じった気持ちを感じてるからなんだ。
そんなおじさんの話はどうでもいいよって人はもう帰ってもらっても大丈夫だよ。
おじさんの気持ち?まぁ試しに聞いてやってもいいぜって優しい人はそのままページを下にすすめてくれるとうれしいね。
それでね、おじさんがまず何を思ってるかというとね。
公式に対する暴言リプと、それを許容してしまってるほどのユーザー全体の悪意についてだよ。
「いや、あんな公式なんだからあれくらい叩かれてちょうどいいだろ」
「むしろ早く潰れてくれ」
たぶん暴言リプしてなくても、このくらいのこと思ってる人、いっぱいいるよね。
あんな1期に対する悪意じみたアニメ作ってるんだから、これくらいの仕打ちはされて当然だって。思う人もいると思うんだ。
でもさ、ああいう暴言を「当然」って思っちゃう界隈って、他所から見たら、どうかな。
怖いよね。
いくらそれに正当性を持ち出されたとしても、印象としては「うわなんかキレちらかしてて怖い……ちかよらんとこ」ってなるよね。
けもフレは終わったんだよ。って思う人もいるかもしれないけどさ。
僕たちが好きだったけもフレは、例え二次創作の中だとしても、あるじゃない。
たつき監督が示してくれたやさしさを、後から知る人のためにもその入り口はキレイにしておきたくないかい。
以前のけもフレの界隈の空気だったら、例え2期でひどいものを見せられたとしても、暴言に対する注意喚起っていうのはもっと広く行われていたと思うんだ。
じゃぱりさん、っていうけもフレの考察動画を投稿している人がいるね。
たぶんこの記事を読みに来てくれるような人は知ってると思うけど。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm34681332
この人のことだね。
この人も動画内では「公式へのリプ欄とかで騒ぐのはやめようね」って言ってるね。
こういうね、冷静に物事を見たり、判断したりする人は以前のけもフレではちらちらと、特にそういうものを漁ってないおじさんでも目に付くくらい活動が見えていたんだ。たつき降板で荒れたときとかね。冷静な電話凸とか署名活動とか、あったと思うんだ。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm31994753
9.25けもフレ事件のタグで動画を昔の方を漁れば、その手の注意喚起や呼びかけの動画も普通にあると思う。
今はどうかな。
あんな作品は潰れて当然だって言葉、空気、悪意。そしてそれを黙って見ているだけの人たち。
なんというかね。おじさんは、別に「それをするな」って言いたいというよりね。
ただ悲しくなったんだよね。
ああ。もう、優しく注意をしてくれる人ってのはけもフレ2が始まるころには離れていっちゃったのかなって。
これをね、読んでくれた人へ。
そしてね、もしもその気が少しでも湧いたら、身近に、公式への暴言してるような人がいたら。
暴言をやめろとまではいわないでもね、公式じゃなくて別のところに当たったほうがいいんじゃないかな、とか。
そんなことするくらいならKADOKAWAやテレ東自体に電話とかして抗議するとか。そういう署名を募るとか。僕らができることってもっといい方法があるんじゃないかなって。
(実際、けもフレ2のせいで1期すら見れなくなってる精神的に傷つけられた人も何人か見えてるしそういう人たちで訴えることできちゃうんじゃない?)
そういう説得をできたらそれが一番いいけど。
心に留めてもらえるだけでもうれしいから気にしないでね。
そもそもおじさんだってこういうのはいっちょ前に作ったくせにそういう運動してないからね。「お前やってねぇじゃねぇか!」「それくらい言うなら自分でやれ!」って言われちゃうと反論できないからさ。
おじさん、もうけもフレに疲れちゃったんだよね。
空気もそうだし。もうたつきのけもフレも見れないだろうって諦めちゃってるし。
だから、こういう思いをみんなに言葉として伝えるくらいしか、できないんだ。
おじさんのけもフレに対する思いはもう薄れてしまってるけれど。
「けもフレ」に対する優しさを忘れないでくれ。
どうか終わらせないでくれ。
君たちがおしまいだって投げちゃったら本当に終わっちゃうんだよ。
僕たちの怒りの声を、ただの罵詈雑言で終わらせないでくれ。
ここまで読んでくれて本当にありがとう。
けもフレ2のせいで心の歪んでしまったみんなの気持ちがどこかで癒されますように。
それではどうか、お元気で。
当初イエイヌはヒトであれば誰でも良いということを言っていました。結果的には「別れた大切な人を待ち続ける」ことになるのですが、ヒトであればよいと思っているという設定は、不憫さを誘うためものだった思います。イルカ・アシカについても芸の報酬をねだるのは(三人も引いていたし)どこかグロテスクさを感じました。ホテルのぬいぐるみが売り切れる描写は、リョコウバトが孤独になっていくさまを強調したものでしょう。確かにドラマとして悲劇・罪悪感が押し出されているわけではないですが、全編に渡ってそういう表現がある点で、そこには何らかの狙いがあるように感じます。深く考えていないということはないと思います。
これは誤読していました。単にご都合主義的ということではなく、内面世界の反映を問題としているのですね。しかしサーバルとカラカルが急にパワーアップしたように見えるシーンは、最終回での戦闘だけだと思います。カラカルが「本気だすわよ」といってサーバルが”野生解放”をする。”野生解放”はけもフレ1でセルリアンハンターらが行っていますが、「最初から野生解放で行くぞ」の言い方から察するに、疲れる・コントロールできないなど常時その状態ではいられない事情があると考えられます。戦闘も終盤で2対2になったので解放したというのは筋の通る展開ではないでしょうか。他方、フウチョウについてはおっしゃるとおりで、異論はありません。加えて最後でのかばんちゃんの告白も、いままでサーバルとの関係が積み重なっているようには見えないので、強い思いが伝わりあの反応を引き出した、という見方をするしかなく、貴方の論に叶うものでしょう。しかしそうすると、けもフレ2は全体としてはリアリティラインは低くはなかった、ということになりませんか。けもフレ1の紙飛行機や石橋の下に落としたりは納得感が高かったのはわかりますが、けもフレ2での内面世界の漏出は最終盤で起こったということでしょう。ところで、ケムリクサにおいてもリアリティラインは低くなっていったと考えています。ケムリクサは”優しい世界”でもないです。視聴者は同監督ということで同様のものを期待したはずですが、ギャップが大きく評価を下げたという感じはありません。もちろん悪意を見出している人もいません。
思うんですけど、そもそも「悪意をもって作られた創作」というものは過去あったのでしょうか。いえ差別的ヘイト創作はもちろんありますが、それは攻撃するターゲットが他にいるケースであって、今回は視聴者やキャラクターを攻撃する意図を疑われているわけでしょう。商業的メリット以前に、悪意を想定する時点でもう、どこか常軌を逸しているように思えます。俺は実は監督交代の顛末に明るくなくてツイッターのTLにもその関連は流れてこないのですが、一連の感想ブログなどを追っていくなかで、俺にはなにか見えていないエネルギーがあるのではと思うようになりました。一般の視聴者の間で凄まじい義憤が渦巻いていて、極めて高い同調圧力が生み出されていて、それが感想や批評の論理さえ捻じ曲げている。ナイーブな仮説ですが、そんな疑念を持っています。
たつき監督の作劇は、たつき監督の技術によって成り立ってるので、監督が抜けると再現が難しくなる、というのが考えられます。
よく言われる、たつき監督の「優しい世界」ですが、これは脚本技術的に高度なものです。ドラマを作る時に、普通の作劇では対立構造や誤解などを利用します。逆に言うと、たつき的な、悪意がなく素直なキャラだけで、面白いドラマを作るのは、高い作劇技術が必要になります。
この論点は目ウロコでした。そういえばtogetterで吉崎さんの出したプロットから、たつき監督が「トゲ」を抜いた、というエピソードが紹介されていました。俺は結果をみて、なるほど! と思ったのですが、ああいうことを狙ってやっていくのは唯の視聴者が思う以上に難しいのでしょう。けもフレ1ではサーバルがかばんちゃんの表情を覗き込むシーンが多かったように思います。けもフレ2になってキャラクターの造形は表情豊かになりましたが、キュルルちゃんを探偵二人が誘拐した騒動で、キャラクターを体ごと大きく動くのが難しかったのでしょう、ギクシャクした感じが出てしまっていました。たつき監督にしかできない演出は確かにあったと感じています。作劇においてもそれがあって、避けるために得意な方向性に変えた(結果、戻った)という説は納得できそうです。(追記・たつき監督の「素直なキャラだけで面白いドラマ」を作る作劇技術、というトピックはとてもおもしろそうです。優しい世界説はメジャーですが、けもフレ1の作劇技術を解説した記事は見たことがありません。いつか語ってくれないかな〜〜という図々しいオネダリ)
イエイヌの顛末は悲劇的で、罪悪感を…キュルルちゃんは抱かなかったけど、視聴者は感じることになったと思います。いかがですか。
イエイヌのエピソードは、悲劇として描かれてますが、あれは「別れた大切な人を待ち続ける」ことの悲劇であって、「人間に歪められたイエイヌという生き物」の悲劇については、制作者は描いてないと思うのですね。
そこに自覚的であるならば、同じく人間に歪められた生き物である、イルカ、アシカについても、悲劇性を描くはずですが、そういう描写は特にないので。
リアリティラインについて、個人的にはけもフレ1,2ともに同じ程度のレベルだと感じています。短納期のプレッシャーや3D制作に慣れてなかったなど、脚本・演出の連携不足、未熟としがらみで説明できる範囲ではないでしょうか。
確かに、けもフレ1にも、曖昧なところはありますね、そこは贔屓が入ってたかもしれません。
その上で、ここでのリアリティランは、内面と世界の繋がりに関する部分です。
たとえば、けもフレ1のラストは、大雑把に要約すれば「友情パワーでセルリアンに勝つ」なわけですが、具体的にどう勝つかは、サーバルが、かばんちゃんから学んだ紙飛行機の技を使う、等、現実としての筋、理屈があるわけです。
一方、けもフレ2のラストは、同じく「友情パワー」なんですが、サーバル・カラカルが友情に目覚めると、急に強くなって、苦戦してたセルリアンをあっさり倒したりしています。内面の世界が、そのまま現実に反映している。
フウチョウコンビは、キュルルの深層意識の声を代弁するキャラとして描かれていますが、彼らが、なぜキュルルの行く先々に現れるのか、キュルルに説教するのか、といった部分はなく、ここでも、内面と現実の距離が近くなっています。
内面と現実の距離が近い、という意味で、けもフレ2は、つまり、童話・ファンタジー的な世界観であると考えられます。それをここではリアリティラインが低いと表現しました(用語の使い方がまずかったかもです)。
追記・首肯したと書いておいてツッコミばかりですが💦 アプリ版のコンセプトに戻したのはどのような動機に基づくとお考えですか。現時点で悪意があったと考えてしまっている視聴者は「ワザワザ戻した意図」を邪推してしまうと思うんです。
現場の状況がわからない以上、動機については推測しかできません。悪意がなくても説明はつくというだけで、悪意がないという証明は難しいのです。
まず視点を変えて見ると、アプリ版のキャラを変更したのは、たつき監督達なわけで、たつき監督がいないなら元に戻す、というのは、普通に、そういう判断もあるでしょう。
次に、たつき監督の作劇は、たつき監督の技術によって成り立ってるので、監督が抜けると再現が難しくなる、というのが考えられます。
よく言われる、たつき監督の「優しい世界」ですが、これは脚本技術的に高度なものです。ドラマを作る時に、普通の作劇では対立構造や誤解などを利用します。逆に言うと、たつき的な、悪意がなく素直なキャラだけで、面白いドラマを作るのは、高い作劇技術が必要になります。他にもそういう点はあるでしょう。
1期のシナリオは、たつき監督と、吉崎観音さんが、話し合って作ったものであると考えられます。たつき監督が抜けたことで、たつき監督らしさが抜けたり、再現が難しくなったりして、結果、吉崎観音色が大きく出た=アプリ版に近付いた、という線が考えられます。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 67 | 7434 | 111.0 | 36 |
01 | 26 | 4882 | 187.8 | 54 |
02 | 35 | 4980 | 142.3 | 67 |
03 | 18 | 7680 | 426.7 | 68.5 |
04 | 9 | 267 | 29.7 | 17 |
05 | 13 | 5449 | 419.2 | 91 |
06 | 13 | 8203 | 631.0 | 860 |
07 | 37 | 21376 | 577.7 | 121 |
08 | 17 | 1954 | 114.9 | 38 |
09 | 39 | 6053 | 155.2 | 36 |
10 | 58 | 2918 | 50.3 | 29 |
11 | 57 | 5316 | 93.3 | 35 |
12 | 52 | 4370 | 84.0 | 33 |
13 | 63 | 10452 | 165.9 | 33 |
14 | 70 | 4776 | 68.2 | 24 |
15 | 37 | 8257 | 223.2 | 52 |
16 | 28 | 4769 | 170.3 | 29 |
17 | 62 | 14382 | 232.0 | 39 |
18 | 71 | 10125 | 142.6 | 40 |
19 | 76 | 6075 | 79.9 | 24 |
20 | 101 | 8045 | 79.7 | 36 |
21 | 116 | 12237 | 105.5 | 32.5 |
22 | 81 | 13736 | 169.6 | 37 |
23 | 92 | 15248 | 165.7 | 44 |
1日 | 1238 | 188984 | 152.7 | 37 |
三階(6), 屋根裏(3), 平屋(6), コアタイム(4), 二階建て(3), 鰻(4), 歳上(3), 選挙カー(4), もっと強く(3), ウォーターフォール(3), 一階(3), けものフレンズ(8), たつき(6), 豆(5), 令和(13), けもフレ(8), 老い(4), 誘い(6), 手伝っ(5), 庭(4), 基づく(4), 気がつい(8), 落ち込ん(5), 誘わ(8), 置き換え(5), なくし(5), 用事(4), 離れる(5), PM(13), AM(12), チャンス(8), テスト(9), 苦しい(8), 💩(12), デート(9), 監督(7), 悪意(7), 老人(12)
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論評を首を縦に振りながら読みました。特に動物園とのコラボとの関連は説得力を感じました。けもフレ1があの形になった理由としてありそうに思えます。
「人間がいないのに、人間を崇める動物」は、気持ち悪い。そこを敢えて描くなら、その悲劇性や罪悪感も描くべきだが、特にそれはない。
イエイヌの顛末は悲劇的で、罪悪感を…キュルルちゃんは抱かなかったけど、視聴者は感じることになったと思います。いかがですか。
リアリティラインについて、個人的にはけもフレ1,2ともに同じ程度のレベルだと感じています。短納期のプレッシャーや3D制作に慣れてなかったなど、脚本・演出の連携不足、未熟としがらみで説明できる範囲ではないでしょうか。
けもフレ1でも、飛ばされてサーバルに偶然に直撃するスナネコや、ビーバーはなんで丸太を立てて並べてたのかとか、ぺパプチケットはプリンタで刷ったのかとか、バスの充電ステーションが山の上のカフェにあるのはどうしてとか、いろいろお話のノリで流すべきシーンはあったと思います。 けもフレ2でより目立ったと判断できた問題や矛盾点は、どのようなものでしょう。
追記・首肯したと書いておいてツッコミばかりですが💦 アプリ版のコンセプトに戻したのはどのような動機に基づくとお考えですか。現時点で悪意があったと考えてしまっている視聴者は「ワザワザ戻した意図」を邪推してしまうと思うんです。
けものフレンズ2が大いに荒れているそうだ。まー見てないけど。
だから振り返って1のおはなし。あと、これけもフレに云々言うのではなくFO3/4への文句なのでご注意。
廃遊園地がモチーフになっているように、世界観方面で不安を煽っていく。
実際作中でも露骨にポストアポカリプス的な要素が散見されて、実際人類は滅んだとまで作中で言われているわけで。
でも、それでも前向きに話が終わっているから、逆にFalloutへの不満が思い出されてしまった。
ちょっと話は変わるが、「ポストアポカリプス」的なフェチめいたものはわりと歴史的にサブカルチャーの中にあり続けた。
たとえば「ヨコハマ買い出し紀行」。最近だと「少女終末旅行」とか。
海外でいえば「マッドマックス」。ただこれはだいぶカルチャーの部分なのでゲームを見てみると、その中には「Fallout」という傑作が燦然と輝いている。
冷戦真っただ中で明日いきなり核兵器が頭の上に落っこちてくるっていうのがまああり得ない話ではなかった時代に生まれた作品が、そうした懸念が晴れた後の世代に影響を与えてできた作品と言えるのかもしれない。
「Fallout」はどちらかといえば「1984」とか「すばらしい新世界」の方向かもしれないが、ジョーク的なレトロフューチャー世界に準じているし、そういうロマンが詰まっている。
ことにこれらの作品に顕著なのが、「破壊のあとに生きる人間」というテーマだ。
「Fallout」の1、2を製作した製作会社の作品には特にこれが現れている。「war never changes」という言葉は「第三次世界大戦は石で殺し合う」という意味もあるのだが、大事なのは「世界が終わっても人びとは生きるために殺し合う」という明確なテーマを指すものだった。
わたしが初めて「Fallout」に触れたのは3だった。もともと「Oblivion」が大好きだったのでこれにも結構ハマったわけだが、もっとハマったのは「New Vegas」だった。そしてあとになってやった「4」は救いようのない駄作だと感じた。
なにが不満かと言えば、結局は「古い世界への郷愁」をわざわざ誘うような展開ばかりだったからだ。そのうえローカライズは「人は過ちを繰り返す」と訳した。
3のマップデザインを見てほしい。廃墟ばっかじゃん。戦争から何百年とか経ってるのに、ビルや建物はあんまり風化してない。
何が言いたいかといえば、「人が住んでない」ようにしか見えないのだ。
レイダーにはまともな拠点とかないし、ウェイストランド人の居留地なんていうのも生活感がまったくと言っていいほどない。
4はもっとひどい。風景が「せいぜい戦後20年とかじゃない?」という程度なのだ。おかしいだろ!
オンラインのヤツはやっていないのだが、正直こんなゲームを出していくのならBETHESDAには二度とFalloutシリーズを作らないでほしい。
まあ、それは無理があるのでわたしはNVのスタッフが作ってる「The Outer Worlds」を楽しみにしておくということで、愚痴おしまい。
けものフレンズ2について1への「悪意」があると良く言われる。あるいは悪意ではなくとも、「1の優しさと相互認証に対して、孤独と自己肯定の物語を描こうとした(筆者要約)」(http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52306934.html)といった意見がある。
確かに、そう受け取れる描写はあるのだが、その多くは、1と2の思想基盤の違いから来てるのではないかと思うのだ。
けもフレ1のジャパリパークは、人間がいなくなって長らく経つ世界で、動物たちが気ままに暮らしている世界である。「ヒト」というのもフレンズの一種であり、対等の存在として描かれる。
一方の、けもフレ2では、人間と動物の違い、人間が動物の上に立つモチーフが強調される。拍手とご褒美を要求するイルカしかり、イエイヌしかり。ここに居心地の悪さを感じるのは当たり前の話であり、「悪意」を見いだす人も多い。
これはしかし、けもフレ2が、けもフレ1を否定しているというよりかは、アプリ版等の大本のコンセプトに近い。今からなら漫画版が一番手に入りやすいだろうか。そのコンセプトは、昔風の「動物園」であり「飼育員と動物」「飼い主とペット」の友情物語である。飼い主とペットに上下関係はあるが、お互いそれに満足しており、飼い主は責任持って、ペットの世話を世話をし、ペットは飼い主を喜ばせ、芸をする。それはそれで、一つの関係だろう。
なぜ、それが、けもフレ1で変わったか。理由はいくつか考えられる。
大きな理由は、舞台が「人間がいなくなってる世界」だからだろう。人間の世話に答えて動物が人間を好きなのは良いとして、人間がいなくなってる世界で、それでも一方的に人間を崇める動物というのは、まぁ、あまり気分のいいものではない。
もう一つ。現代的な動物園は、見世物的な展示、ショーは避け、動物になるべく野生に近い生活をさせ、ありのままの生態を見せる方向へ進んでいる。フィクション上の動物園がどういうものであっても良いと思うが、現実の動物園とコラボ、協力する作品において、旧時代的な動物園を肯定したくない、というのもあっただろう。
けもフレ1は、サファリパークだったり、行動展示だったりする現代風の動物園、アプリ版、けもフレ2は、旧来の見世物的な展示をする動物園と言った具合だろう(参考:http://kemono-friendsch.com/archives/77528)。
けもフレ2は、おそらくは、アプリ版の「飼育員と動物」関係に基づいて話を作ろうとしたのだと思う。が、けもフレ1の続編という形も取ったため、前述の矛盾点が噴き出してしまっている。アプリ版の路線を復活させるならさせるで、どうすれば良いかを練るべきであった(それが許されない環境は多々ある)。
「人間がいないのに、人間を崇める動物」は、気持ち悪い。そこを敢えて描くなら、その悲劇性や罪悪感も描くべきだが、特にそれはない。多分これは「悪意」ではなく、「深く考えていなかった」ことだろう。
同様に「人間と対等な知的生物」としてのフレンズを描いた続編で、「人間に芸を披露して喜ぶフレンズ」を出すのは、えぐい。これも「悪意」ではなく以下略。
気持ちよいお話のセオリーの一つとして、内面世界と外部のシンクロというものがある。
主人公が悩んで心が暗い時は、夜だったり、雨が降ったりして、世界も暗くなる。
主人公が悩みを克服すると、夜が明けたり、空が晴れたりして、バトルで勝利したりする。
リアリティラインが低い作品の場合、深い理由がなく、そのまま内面が世界に反映する。
魔王が復活する時は、黒雲が渦巻いて雷が鳴ったりする。悩みを克服した主人公は、勢いで超パワーアップしたりする。
現実レベルが高い作品の場合、そうはいかないので、偶然で説明できる範囲のささやかなことであったり、なんらかの理由、必然性があったりする。
主人公が悩んでる時に、雨が降ってるのは、「たまたま」「偶然」の範囲であり、悩みが吹っ切れて、主人公がバトルで勝つ時は、「悩みのせいで今まで気づかなかったけど、あいつにはこんな弱点が」という閃きがあったりする。
けもフレ2では、カタカケフウチョウ、カンザシフウチョウが、内面の声を代弁しまくる。キュルルの「思い入れ」が、絵を通したり、通さなかったりして、直接、セルリアンに反映するらしい。これらの深い理由、解説等はない。
ホテルでは絶滅動物のリョコウバトのぬいぐるみが売り切れてたりする。「たまたまリョコウバトだけ売り切れだった」なら「作中現実としては偶然」で済むが、「レッサーパンダとオオアルマジロとリョコウバトが少なく、ハブはいっぱいある」までやると偶然では説明できなくなる。が、これも理由は特に語られない。
ここからわかるのは、けもフレ2は、リアリティラインが低めの、「ふわっとしたファンタジー・童話的な世界」であるということだ。
一方、けもフレ1は、作品内論理の整合性は、SF的に取っている部分が大きかった。ラッキービーストが人の声にだけ反応する、ジャパリカフェに、太陽電池がある等、SF的なガジェットがあり、崩壊世界の日常がどう維持されてるかが目配りされている。もちろん、作中で全部の設定を説明するわけにはいかないにせよ、目につく範囲での、あからさまな矛盾は減らし、それによって、「かばんちゃんの正体」と言った謎に緊張感が残った。
けもフレ2単体で見た場合、リアリティライン低めの作品だと受け止められるのだが、リアリティラインが高めの1を見たあとに2を見ると、アラや問題が多く見えてくる。
ただ、けもフレ2は、全体的に伏線の回収がうまくいってないので、意図的にリアリティラインを低めに保とうとしたというよりは、設定について深く考えてなかったり、伏線を消化しきれなかったりして、そうなってしまってると考えられる。ここもまた「悪意」ではなく以下略。
イエイヌの報われなさっぷり、ビーストがホテルの下敷きになったことを誰も気にしてない等は、悪意として描くなら、もっと強調のさせ方、後への繋げ方があるはずなわけで、ストーリーとして処理しきれなかったと考えたほうがよさそうだ。
・かばんさんに何があったかはわからない、偉い人が作るだろうと
・かばんさんの経緯は知らないが、再会の喜びを描いた
サーバルがなぜ、記憶をなくしたっぽいのかも、かばんさんとの間に何があったのかも、監督自体知らされてないのなら、「それっぽい」シーンでお茶を濁すくらいしかできないだろう。
もちろん設定がないだけなら、他にやりようがあったかもだが、こういう状況だと設定がないまま、あーしろこーしろと言われた可能性が強い。ご愁傷様である。
自分が見た範囲では「けもフレ2」に見いだされる悪意は、1,2のコンセプトの差(およびそれに対する無策)、脚本・演出技術の未熟、現場のしがらみ、などで説明がつくものであった。
なんていうか、イエイヌ回から最終話まで出てしまったから、どんどんと擁護の立場を守るための擁護になっていってるんだよな
・作品に悪意はない
悪意があった場合、まだしも製作者にテーマに沿った作品を仕上げる能力はあったことになるが
悪意をなくしてしまうと、一貫性のなさや、矛盾点など、ただの無能ってことになる
確かに、最終回までの演出から、無理やりテーマのようなものを導こうと思ったら、そうなる
だが待ってほしい、制作陣はこう言っているのだ
・基本的に、前のシリーズで自分が面白いと思ったところは全部残すようにしています
・普段アニメを見ない人が見ても面白と思えるような作品にしたいと、常に意識して作っています。
・僕自身、前のシリーズにリスペクトを捧げて作っていますので、「けものフレンズ」が好きだった人は面白いと感じてくれると思っています。
・いいところは引き継いでやっていますので、安心して見ていただけたら嬉しいです。
・日常を見ることで現代人が忘れてしまった優しさや純粋さ、どこか懐かしくほっこりするような思いを共有できたらと思います。
・そして、子供たちにも「けものフレンズ」を通して、動物に興味を持っていただき、幅広い方々に動物園に足を運んでもらえたら幸いです。
なんていうかさ、いわゆる「真フレ」と呼ばれる層がなんとか作品としての粗を誤魔化しつつ、自身の論を守ろうと喋るたびに、どんどんと制作陣をけなしているという
ある意味、アンチより酷い様相を呈してきているのだが、これじゃ木村監督も擁護者をブロックするはずだよ
制作陣に何があったか知らんけど、作品がクソであることはキチンと認めた上で、クソにならざるを得なかった干渉があったのだという方向で擁護しないと
何を守ってるんだかわからない感じになってきてるぞ