はてなキーワード: 描写とは
人が見たい絵って本能的なもんだよ
性癖に合致する絵を延々と描ける人と偶然性で作風が安定しないAIとだったら前者がまだ勝てる段階
・作中で百合と認定されたわけでもないのに、勝手に百合認定する(千束、たきな)
・作中の男キャラを、勝手に挟まる男認定して、叩きまくる(間島)
・ちょっとでも百合っぽくみえる描写が来ると、発情して下ネタ垂れ流しにする(パンツ回)
・百合に否定的な考えを持ってるだけで、同性愛差別主義者認定して、制作陣でも叩き始める(脚本家が叩かれる)
・ちょっとでも男と絡む展開があると、発○して暴れる(間接キス)
こんなんだから嫌われるのに
第三十九条〔標章の使用〕 標章は、権限のある軍当局の指示に基き、衛生機関が使用する旗、腕章及びすべての材料に表示しなければならない。
第四十条〔要員の識別〕 第二十四条、第二十六条及び第二十七条に掲げる要員は特殊標章を付した防水性の腕章で軍当局が発給し、且つ、その印章を押したものを左腕につけなければならない。
第四十二条〔衛生部隊及び衛生施設の表示〕 この条約で定める特殊の旗は、この条約に基いて尊重される権利を有する衛生部隊及び衛生施設で軍当局の同意を得たものに限り、掲揚するものとする。
第四十四条〔標章の使用制限〕 本条の次項以下の項に掲げる場合を除く外、白地に赤十字の標章及び「赤十字」又は「ジュネーヴ十字」という語は、平時であると戦時であるとを問わず、この条約及びこの条約と同様な事項について定める他の条約によって保護される衛生部隊、衛生施設、要員及び材料を表示し、又は保護するためでなければ、使用してはならない。第三十八条第二項に掲げる標章に関しても、それらを使用する国に対しては同様である。各国赤十字社及び第二十六条に掲げるその他の団体は、この条約の保護を与える特殊標章を本項の範囲内でのみ使用する権利を有する。
第一条 白地に赤十字、赤新月若しくは赤のライオン及び太陽の標章若しくは赤十字、ジュネーブ十字、赤新月若しくは赤のライオン及び太陽の名称又はこれらに類似する記章若しくは名称は、みだりにこれを用いてはならない。
>>漫画やイラストやコスプレAVで赤十字マークを描くことが禁止されていると理解されている<< してねーよバーカ。林檎のやつはそのもの「記章」だからモロアウトなの。漫画にはバリクソ描かれてるよ
この文章のどこに椎名林檎の文字がある? どこに椎名林檎の案件を想起させるような表現がある? この文章のどこをどう読めば「『椎名林檎のグッズは問題ない』と増田は主張している」という結論が導かれる? 日本語読解力/Zeroか? 「書いてあることをそのまま読む」というだけのことがなぜできないんだ?
ちなみに、AVのナースキャップにモザイクがかかってたり(https://togetter.com/li/1505415)、赤十字マークを使ったVTuberの配信が消えたりしてるからな(http://doujinsokuhou45.com/archives/6962156.html)。作品中で赤十字マークを使った同人作家に注意して修正させたやつの話も聞いたことあるぞ。そういう勘違いバカは実際に存在するってことだよ。そういう状況を問題視してるの。おわかり?
"職業・身分・所属などを示すために帽子や衣服などにつけるしるし。 バッジ。" 法律の中での「記章」の定義がわからないけどAVの帽子は普通にアウトじゃない?コスプレだから制服じゃないと言い張るのに近いと思う
刑事ドラマかなんかで弁護士資格持ってない役者が弁護士バッジの模造品つけて「弁護士の○○ですが」って名乗ったら職業詐称になるって思っちゃう世界観の人?
ドラマの中で政治家ではない役者に議員バッジの模造品つけさせて「俺は代議士だぞ」って言わせたら議員を詐称したってことで捕まると思ってる頭が残念な人かな?
現代劇やそれに類する話において赤十字に関する話なら、むしろ描くべきだろうが、そうでないなら禁止されたものを描くのはリアリティがない。SF やファンタジーなら好きにすればよろしい。
そういう理屈はわかる。ただ、「それリアリティがない描写ですよ」と指摘するならともかく「それ違法だから消した方がいいですよ」と指摘して消させたり修正させたりするやつがいるのが問題なので(前者の指摘は「銃の持ち方がなっとらん」とかと同レベルなので好きにすればいいと思うけど、後者は脅迫に近いので悪質)。そういうやつらが死に絶えるまで「いや赤十字の標章は漫画に描いていいです。表現の自由です」と言い続けていかないとな。
弁護士とかの記章は、ドラマの中で使うときに「これはフィクションであり…」といれたり俳優名出したりして誤解を避ける努力してるんじゃないかな。警察とか自衛隊の制服は少し違わせるとか。
だったらなおさら同人誌だのコスプレAVだのは許されるべきじゃない??? どう考えても法廷もののTVドラマより現実感薄いでしょ……
もちろん、海の妖怪が人間の王子に恋をするという悲劇的な恋愛物語であるが、実はフリードリヒ・フーケの『ウンディーネ』という、水の精霊と人間の騎士との恋愛物語を描いた先行作品が存在する。そういう意味ではアンデルセン作品は、あまりオリジナリティが無いとも言えるかもしれない。
フーケの作品『ウンディーネ』には無くて、アンデルセンの『人魚姫』には有る要素として、我々がよく知っているのが、主人公の人魚姫が人間になることの代償として「声」を失うという筋書きである。
この「人間になることで声を失う/奪われる」という描写の元ネタと考えられているものの一つに、アイルランドの海浜に近い場所に存在する某村に関する民間伝承がある。
周辺の他村の住民たちは、某村の住民たちのことを「人魚の子孫」と見なし、彼らと会話することを忌避していたというのである。
この話から直ぐに連想するのが、ホメロスの『オデュッセイア』にも登場する、妖怪セイレーンのことである。これは、航行する船を操る船乗りたちを、美しい歌声で惑わして誘き寄せ、船を難破させて殺害し、その人肉を喰らったとされる、半人半魚の妖怪である。ここでも「声」が禁忌とされている。しかし、どうしてもセイレーンの歌声を聞きたいと願った知恵者オデュッセウスは、部下の船乗りたちの耳を蜜蝋で塞がせて、歌声を聞こえないようにさせてから、セイレーンたちの居る岩礁の傍を通過するように船を航行させた。オデュッセウス自身は、己の身体を帆柱に縄で縛り付けさせ、決して海に落ちることの無いように万全の防止策を施してから、その耳で彼女たちの歌声を聞いたという。
日本においては、人魚との「会話」が禁じられていたというわけでは無いものの、やはり不吉な影が付き纏う。『吾妻鏡』や『北条五代記』等には、人魚らしき妖怪の発見事例が記されており、これを何かの前触れとした陰陽博士などの占術職能者によって、兵革の兆し、奥州藤原氏の滅亡の前兆などと見なされたといった例が見出される。
ただし、これらの国文学的な文献に記された人魚は、アンデルセンの『人魚姫』のような美しく可愛らしい姿とは、かなり異なる。例えば、頭部だけが人間の人面魚タイプであったり、四脚らしきものが生えていたりと、なかなか奇怪な姿をしていたようである。中には、頸部に鶏冠の如きヒラヒラしたものが付属していたという事例もある。また、発見される場所も水辺だけではなく、時には、山肌で起きた土砂崩れの現場で発見されたことも有るようである。
してみると、人魚にとって魚身であることは、我々現代人が思う程、重要ではないのであろうか。実は、先に挙げた『オデュッセイア』に登場するセイレーンにしても、元々は半人半魚ではなく半人半鳥であったとする説が有る。その鳥の怪が、もしも水鳥の怪であったとすれば、後に、半魚の怪との交雑を起こしても、それほど不思議では無いと考えてもよいのかもしれない。重要なのは、半人半怪という混合性である。
さて、アイルランドの某村に関する民間伝承と比較するために振り返ると、日本においても「妖怪の子孫」と見なされた人々が存在しなかった訳では無い。例えば、江戸時代の南町奉行、根岸鎮衛(ねぎしやすもり)の著した雑話集『耳嚢(みみぶくろ)』に収められた「河童の難を遁るゝ歌之事」という文章を参照してみよう。そこでは、菅丞相(かんしょうじょう)すなわち菅原道真(すがわらのみちざね)の作として伝えられる、次のようなまじない歌を紹介している。
「ひよふすべよ 約束せしを 忘るゝな 川だち男 うぢはすがはら」
根岸鎮衛は、菅丞相の作は疑わしいとしつつも「ひよふすべ(ヒョウスベ)と云ふは川童(カッパ)の事の由」と記しているが、これは、長崎県諫早市周辺でのカッパに該当する水怪に対する方言的な呼称である。しかし、カッパ避けの歌が伝えられていたのは、現在で言うところの千葉県(アメリカで言えばノースダコタ州)である。随分と遠くの地までヒョウスベの名が伝えられていたことになる。
岩波文庫版では「川だち」には「水泳の上手い者」との注釈が付けられている。これは遊戯としての水泳のことを言うのではなく、職業的な必要性から河川で泳ぐことをしていた者たち、職能者たちと考えるのが妥当である。その川だち男が「我々は菅原氏の関係者なのだ、約束を忘れるな」と、歌を通じてヒョウスベ≒カッパに向かって呼び掛けているのである。一体、何を約束したというのか?
菅原道真の家系である菅原氏は、遡れば土師氏(はじし)に連なるとされる。土師氏の祖は、野見宿禰(のみのすくね)とされ、当麻蹴速(たいまのけはや)との角力すなわち相撲(すまひ)による決闘を行ったことでも知られる。現代では十把一絡げに河童(カッパ)と総称されるようになった水の妖怪が、相撲を好むことは昔話などを通じて広く知られているが、その起源には、土師氏=菅原氏との関わりが存在するということである。
この土師氏は、埴輪を作ることを能くしたが、埴輪といえば赤土であるが、この赤い色は、酸化鉄を多く含むためである。このような粘土の採掘は、鉄分を含む土の採掘であり、これは時代が下れば、鉄を初めとした金属鉱脈の採掘にも関連・発展したことであろう。
鉄に限らず金属は、採掘されるだけでなく精錬されるので、山の掘削、森林の樹木伐採という環境変化を伴う。これは、山に水源を発する河川にも影響を及ぼしたと考えられ、そうなると、粘土の採掘や金属の採掘・精錬を行う山の民と、漁業・水運などによって河川で生業を立てる川の民との間で、何らかの紛争を招いたのは想像に難くない。本来の「カッパによる水難」とは、元々は「山にいるカッパ」による山林環境の変化によって引き起こされた、河川災害や環境破壊のことを指したのではないのか。なお、カッパといえば河川などの水辺だけにいると現代人は思いがちだが、カッパが河川から山、山林から河川へと、季節の変化ごとに移動するという伝承が見られるのである。
山林の環境破壊が火種となって紛争が発生し、これを停止するための平和条約のようなものが「約束」であり、それが川の民と土師氏=菅原氏との間に結ばれたことにより河川災害の発生件数が減少したこと、それが「カッパ避け」の実態だったのではないか。川の民に害を及ぼさないと、かつてカッパの親分であったであろう土師氏=菅原氏が約束したことが変化して、川だち男が「我々は菅原氏=土師氏の裔であるぞ、だからカッパよ、我々には害を及ぼすな」と呼び掛けるようになったのではないか。
ヒョウスベには「兵主部」の漢字が当てられる。このうち「部」は物部や斎部などと同じであるが、では「兵主」は何なのかと言えば、これは大陸から渡来した蚩尤(しゆう)のことではないかと言われている。というのも『史記』では、蚩尤は金属製の戦用武具を生み出した「兵主神」とされており、しかも角力(相撲のようなもの)を能くするのである。その上、石や鉄を喰らうとされるので、これは金属の精錬を象徴するのではないかと考えられる。ここから、兵主部とは元々は「兵主神を祀り、それに関連する金属の職能に携わる部民」であろうと考えられる。
脇道に逸れた話の部分が予想外に長くなってしまったが、土師氏=菅原氏という職能集団的な氏族がカッパの裔であると考えられていたということ、そして、カッパに対する民の恐れの根源には、職能活動による影響が存在した可能性のことを言いたかったのである。
本筋に戻ると、アイルランドの海浜そばの某村に住むという「人魚の子孫たち」が、周辺他村の人々から会話をすることを忌避されたのは何故か。それは、彼らが「予言する能力」を持っていたからではないのかと私は推測する。ただし、予言と言っても、超常の能力ではない。彼らが漁業や水運業など海の船仕事に携わっていた職能集団だったとしたら、どうだろうか。そのような仕事に携わることで、海路における岩礁や難所の存在場所についての知識も蓄積されたであろう。また、船仕事に影響するような天候の変化を読む(予測する)観望天気の知識も蓄積されたであろう。そのような、いわば専門知識や能力を身につけた彼らが、もしも「海路のあそこには岩礁が有るぞ」「嵐が来るぞ」と予測して教えてくれたとしたら、何の知識も持たなかった他村の人々は「某村の住民が不吉な予言をする。彼らが予言を行うせいで不吉な出来事が起こる」と逆転した考え方をして、誤解したのではないだろうか。それが「会話を忌避する」ことに繋がったのではないだろうか。
上で粘土採掘や金属の採掘・精錬を行う職能集団とカッパの関連を述べたが、こういった専門的な仕事は、その仕組みを外部からは理解しにくい。自分たちには出来ない仕事をする能力を持ち、影響力が大きい者のことを、人間は尊敬するだけでなく同時に差別もするという例は、古今東西を問わず広く見られる現象である。例えば、西アフリカの伝統的な音楽・歌唱の職能者グリオ(griot、フランス語。現地のウォロフ語でgewelギュウェル、トゥクロール語でgauloガウロ、マンディング語でdjeliジャリなどと呼ばれるのが語源)たちは、歌の言霊を駆使することで、人を幸せな気持ちにしたり、戦の前に闘争心を鼓舞したり、逆に人々の間の争い事の調停役を担ったりといった役目を果たすことから、非常に尊敬を受ける反面、亡くなると普通の墓に埋葬されずにバオバブの木の虚穴に遺体を遺棄されるという。そこでは、尊敬と差別の心理がアンビバレントに同居している。
日本の人魚が不吉の前兆と見なされた話は既に述べたが、その中には、人魚自身が言葉を口にしたという例も見られる。それも、もしかしたら海の民などの姿を人魚に反映していて、やはり海の民による予言とそれに対する恐れの感情の名残なのかもしれない。
西洋人が日本に渡来するようになると、剥製・ミイラ製造の技術も伝えられ、魚や動物のパーツを組み合わせることにより、カッパや人魚のミイラが製造されたことは、現在も日本の各地に残るミイラの実物とともに知られている。したがって日本における人魚の形態傾向が、人面魚タイプや四脚タイプから、現代人にも親しみのある上半身人間・下半身魚タイプへと変化した原因として、西洋人の影響が有るという可能性は、もっと大きく見積もっても許されるであろう。しかし、日本よりも先に西洋人との接触を果たしていた中国を通じて、もっと早い時代にミイラ製造の技術が日本に伝えられていたという可能性は無いのだろうか。その時に、西洋人が抱く人魚のイメージも一緒に、早期から日本に流入したという可能性は無いのだろうか。大陸や西洋からの人魚伝承の流入によって、前触れや予言というイメージが形成された可能性は、今後より丁寧に調べる必要が有るだろう。
まだまだ考察すべきことは多く残る。
人頭獣身の妖怪、しかも不吉の前兆や予言を伴うといえば、人頭牛身の妖怪「件(くだん)」が思い浮かぶ。上で半人半怪の混合性が重要と述べたが、この混合性の故に、人間の住まう現実の世界と、非日常・非現実の世界との結節点となる役目が、人魚や件のような半人半獣の妖怪には与えられたのであろう。そして、その役目を具現化したものが、前触れや予言なのであろう。
また古来、予言や神託の役目を担う者の多くが、巫女という女性であった。これは、女性には生理があり妊娠・出産が可能であることから、男性に比べて、より自然というカミの領域に近い存在であり、現実・日常の世界との仲立ち・結節点の役目を果たすことが出来ると信じられていたからである。セイレーンや人魚に限らず妖怪や怪物たち(例えば、エデンの園でアダムとイブを誘惑した蛇など)に女性性が付与されているのは、ユダヤ教・キリスト教・仏教などが地位を確立する以前の世界において、カミの領域との仲立ちを務める職能を担っていた女性たちに対する、尊敬と差別というアンビバレントな感情が反映された名残であろう。
最初に『人魚姫』は何の物語か?と掲げ、長々と文を書き連ねたが、正直に言えば、それを確定することは実は難しいと思っている。ただし、少なくとも、異なる世界の住人が出会った物語、それに伴って起こったコンフリクトの悲劇の物語とは言えるのかもしれない。
乱文も長くなり過ぎたので、ここまでとしよう。
ケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』を観た。名作なので是非ファスト映画しないで観てほしいが、要するにダニエル・ブレイクという失業者の男性の物語を通じて、イギリスの中間層の人々の没落と緊縮財政の中で利用者の尊厳を奪っていくような福祉制度を批判している、ある種左翼的な映画である。取材に裏打ちされた、貧困に追いやられた人々のリアルな描写に胸が痛む。
この作品に、ダニエル・ブレイクと心を通わせるシングルマザーの親子が登場する。
シングルマザーで貯蓄も仕事もない母親は子どもに満足に衣服も買い揃えてやれない。小学生くらいの娘の靴も、ボロボロだけど接着剤でつないで凌いでいる。このボロボロ靴の のことで娘は学校でイジメの対象になってしまう。そして娘のイジメをきっかけに、靴を買い替えるお金を稼ぐために売春に手を染める。貧困が呼び起こす不幸のループに、やるせ無い気持ちになるシーンである。
以下は自分のこと。
この映画を観て自分はこれまでの人生で起きた後ろ暗いことにスポットライトが当てられた気持ちになった。
ボロボロ靴について。
小学生の頃、自分はスクールカースト下位のイケていない方で、いじめっ子体質の同級生に毎日ビクビクしながら過ごしていた。そんなスクールカーストにも下には下がいて、自分よりも遥かにいじめられていたKという同級生がいた。Kがいじめられていた理由は、Kの家庭に原因があった。Kの家庭にはお金がなく、Kに服を満足に買い与えてやれていなかった。Kはまさに、靴底に穴が空いたボロボロ靴を履いて学校に通っていた。
Kのことを思い出し、純粋に哀れに思える立場であるのであればどんなに良かったか。何を隠そう、自分もKのいじめに加担していたのである。いじめられて泣いているKに対して心無い言葉をかけて、さらに追い討ちをかけていた。よくある話で、いじめの対象が自分に向かないように、より自分の下のものをいじめていたわけである。学校のクラスという閉鎖空間で起こる暴力的な手続きの中で、自分もせっせと加担していたということだ。
人生で何度か、いわゆる風俗店に行ったことがある。当時付き合っていた彼女と別れ、1年以上セックスをしていなかったとき、吉原のソープランドへ行った。ソープランドでしっかり射精して、満足していたのだが、時間が余り、世間話をした。彼女はもともと美容師をしていたというが、さまざまな薬液を扱ったことで手荒れが酷く、泣く泣く仕事を辞めていまの仕事に就いているとのことだった。それ以上の話は聞いていないので、この仕事に至るまでにどんなことがあったのかはわからないけれど、以前某芸人がコロナ禍でお金に困った女の子が風俗に来るのが楽しみ、などと言っていたが、そのような類の事情があったのだろう。なんだか彼女をしっかり搾取してるようでやるせない気持ちになり、以降、風俗店には行かなくなった。
今年、娘が産まれた。かわいくて仕方がない。娘の幸せを願ってやまないが、『ダニエル・ブレイク』そんなは自分に対してきっちり刃を向けてくる。弱きを挫き、搾り取る側に自分が立っているということを、否が応でも思い出させる。
この映画は、もし自分の娘が将来いじめられたら?自分が失業し、娘に満足に服を与えてやれなかったら?妻や娘が生活のために売春せざるを得なくなったら?そのような問いを投げかけてくるが、自分がその問いを現実に突きつけられている人々を哀れむことを許さない。自分はただの加害者のクソ野郎だから。
こんなものを匿名で流しても、Kもソープ嬢も救われない。むしろ彼・彼女にとって自分はクソ野郎でしかない。その事実は絶対に変えられない。
一方、こんなのありきたりなよくある話でいちいち反省しなくてもいいという向きもあるかもしれない。だが、自分の中にある有害性について、ここで吐き出しておきたかった。
水星の魔女発表←「主人公が女で黒人で美少女じゃなくて貧乳で体の線を見せない服だからポリコレ!これはないわー」
オタク「これをポリコレだと言ってはしゃいでる奴はバカ!昔から女主人公や褐色主人公はいたぞ!
オタク「『決勝で勝ったやつがコイツを花嫁にできる』みたいな世界なのにwポリコレとかw」
オタク「多様性やポリコレなんてなくていいんだよ!黒人エルフ許さん!日本の漫画アニメゲームはポリコレがないから海外で大人気!」
オタク「日本の漫画アニメゲームは昔から多様性に満ちてポリコレなんだよ!オタクはなんでも受け入れる!ポリコレにうるさい海外の方が遅れてるwwwディズニーの無理矢理なポリコレとは違うんだ!」
どっちなのか
スーパーマンの息子がバイセクシャル→オタク「ポリコレガー!」
バズ・ライトイヤーで同性愛描写→オタク「ポリコレガー!14カ国で上映禁止に?ポリコレざまぁwww」
水星の魔女で同性愛描写→オタク「百合尊い!オタクは多様性を受け入れる!勝利宣言してるポリコレ派はバカ!」
何故なのか
黒人エルフや黒人アリエルに騒ぐオタク「オリジナル作品なら何も言わない!世界観壊すから叩かれるんだ!」
ディズニー新作のミラベルやレッサーパンダに対して「ポリコレだから有色人種だし美少女じゃない!ポリコレガー」
何なんだ
はてなーの小山田批判ってルックバックの障がい者描写を必死に擁護して
修正決定でタツキファンによる障がい者への中傷を見て見ぬふりをしてた時点でただの党派性だって発覚したやん
見ることはできる
だがなんか嫌悪感というか怖さというか表現できない嫌な感じがある
だから見たくない
先端恐怖症ではないと思う
昔、ゾンビ映画で人が動けない状況で、目に尖ったものがどんどん近づいていって、ついに刺さってしまうってシーンがあったんだけど
ああ言う描写が本当に嫌いだった
で、関係あるかわからないが、ミシンを見るときにイメージするのは、あの機械が動いていて人の指に針がぶっ刺さって縫い合われてしまうところ
書いていて思ったが、自分はそう言う痛そうな映画が本当に苦手で、ホラーは好きなのに、痛そうな拷問とかはマジ無理
首がスパッと飛ぶとかは余裕だけど
グリーンインフェルノの人が生きながら解体されるのはホント無理だった、ホステルの拷問シーンとか、ムカデ人間も無理だった
なんだかよくわからんわ
おわり😁
https://kakuyomu.jp/works/1177354054888537422
正直迷走している
なろうでもよくあるんだけど、初期プロットが早々に意味を失ってタイトルと中身が乖離したが、なんとなく続けてる系に見える
倉庫要員のサブキャラとして転生「ストレージのアイテムが鍵だ」ってなタイトルにしておいて
そのキャラが強くて無双してしまい、アイテム何処?と言う作品とか
「すぐ死ぬ村人転生」ってなタイトルで初めて、3話くらいでチートが覚醒して無双しちゃうとか
いやまぁ、裏切られたという「結果」は描いていて、旅はしているのだが
主人公サイドにさしたる執着がなく普通に主人公サイドで閉じて冒険しているので
話としてはとっとと30話くらいで、【主人公サイドの知らぬ間に】勇者サイドがざまぁされて消えてれば、読み続けた人も居たんじゃなかろかと言う感じ
主人公をお友達として傍に置いておこうとする自己中イカレと描写されてるのに
これを「メインヒロインだ」と無駄推しする作者の冷笑的なスタンスも加味され
裏切った剣聖に、後付けでどんどんと、勇者周辺のクズに騙され続けてる被害者的要素を加味していくんだけど
救われると良いなぁなんて思えずに、ただただ胸糞悪いだけの描写になってる
感想読んでもそう思うよなってのがあったりするし
作者が妙に勇者を気に入っているので
勇者が退場する時も「楽しめたよ」とか言いながら、想定通りと言う顔して退場しそうな感じだ
勇者周辺はみんな不幸になって、悪意をもって好き勝手してる勇者は最後に(勇者の自意識としては)救われそう
ざまぁとかタグ付いてるし、第三章からはファンタジーになりますとか言ってるけど
勇者の話が挿入されるのも相まって、全般的に鬱々とした作品に仕上がってる
剣聖ざまぁという見方をすることもできなくはないが、自身で言っている「メインヒロイン」だという定義と矛盾する
個人的にこういう「タグ詐欺」「タイトル詐欺」についてはマイナス評価を付けられるべきじゃないかと思ってる
こういうのは「not for me」として擁護されるべきじゃなく
今のところ最新話まで読んでも裏切られる必然性もなければ、胸糞勇者物語を同じ話として同梱する必要も感じられず
ただの「不遇冒険者」の話で良かった
※25話くらいまでのネタバレ有
Togetterで紹介されてた『タテの国』。
まとめられてた最初の数話分は面白かったので、残りを本サイトに見に行った。
全120話あるが、25話くらいでもういいやとNot for meになってしまった。
スケールに対して描写が薄いのと種明かしのSF考証に期待できないのが大きな理由。
上下に無限に続いているとされ中央が吹き抜けとなっている塔の中にいる主人公。
塔の底を見てみたいと思っていたらある日女の子が塔の上から降って底へ落ちていった。
碌な準備もせずに後を追う主人公。10日間落ち続けた後、博士的なポジションのロボット(元人間)に拾われて、
便利装置で助けてもらったりしながら塔の秘密を解き明かしていくというストーリー。
上下500年分の調査をした博士ロボから「お主の知らない世界は無数にある」と言われ
「おお、これから塔の中のどんな世界を見せてくれるのか」とワクワクしてたら、
5~6話辺りであっさりと塔の外に出てしまい、少なくとも読むのを諦めた25話辺りまでは塔には戻ってこない。
→ワームホールで広い空間につなげている。そのエネルギー源はオメガニウム。
→ワームホールの力!
とまあ「次元連結システムのちょっとした応用」味を感じてしまって真面目に考察することを諦めざるを得なかった。
そもそも250km/hの風(風速約70m)に10日間吹き曝しになってたら普通に干からびるだろう。
Not for meだった。
なんかミヒャエル・エンデってめちゃめちゃ説教臭いな…と。児童文学にさり気なく教訓を入れるというよりかは、児童文学の舞台でめちゃめちゃ説教してくる感じ。
普段大きいサイズのモニターに慣れてて、その画面と文字のサイズ感が染みついちゃってるのかもね
サイズもそうだけど、あのフォント、そもそも戦闘中にパッと見て文字が読めるデザインではないし、大文字オンリーでの表記というのも割とあり得ない
……というと、「結局はそういうジャンルにいるから多く見えるだけで絶対値としてはそうでもない」という答えが返って来そうだが、そのあたりは一旦置いておいて。長文のため先に要約を置いておく。
【要約】
交流企画に腐女子が大集合すると、男同士の恋愛ネタが蔓延りすぎてそれ以外の話題を扱うと除け者気味になる傾向があるので、楽しみ方が限定されてしまい、本来の自由度が損なわれているような気がして居心地が悪い。嗜好による選択の結果であると認識しているため、仕方がないと思いつつモヤモヤしているという話。
はじめに自己紹介だが、一次創作を趣味にしている筆者は、自身も小説を書いたり、絵を描いたりする。主な活動拠点はTwitterである。BL・GLともに嫌いというほどではないが、進んで手に取ることはない。
Twitter上には様々な「交流企画」なるものが存在しているが、どこを覗いても思うことがある。
腐女子が多すぎるのだ。
ここでいう交流企画というのは、ある設定が共有されたシェアードワールドの枠組み内でキャラクターを創作し、時には企画制作者が提供するイベントに沿って世界観に没入しながら、キャラクター同士の交流や作品群を楽しむ、というものを指す。学園モノであれば我々は教師や生徒を作り、異世界モノであれば魔法使いや剣士を作り……といった具合にそのシステムは様々であり、言うなれば一種のTRPGのようなものである。Tabletalkではないので、TはTwitterのTだ。
「交流」と名を冠するからには参加者が互いの趣味嗜好を尊重する必要があり、相性のよい相手と関係を深める(キャラクターも作者も)という在り方が推奨されるが、そのために自己紹介シートのようなものが設けられていることがある。その中にしばしば「GL・NL・BL」と書かれた項目があり、地雷にバツ印を付ける、あるいは平気なものにマルを付けることで、自身の嗜好を示せるようになっている。(こうしたシートが無い企画も当然ある)
企画の世界観に興味を持った筆者は、前述の通りBL・GL・NLともに平気であること、全部にマル(なんなら花丸)つけてる人が大多数を占めていることなどを理由として、そういった「腐女子」達と交流を持つことになるわけである。
ここで問題になるのが、「マル」というのが何を指しているか、という点。企画主が明示していない限り、「平気ですよ」のマルもあれば、恐らく「それはもうメチャメチャ大好きです寝る間も惜しんでPi〇ivを渉猟し三度の飯よりバクバクムシャムシャペロリズム」みたいなマルもあるだろう。筆者は前者の消極的なマルなので、当然後者の積極的な参加者たちとは熱量に差が出てくる。
そして後者の場合、往々にして彼ら彼女らが求めるものを提供できない人間に人権はない。
極端な言い方をしたが、見ても忌避感を覚えず恋愛モノの一様態として楽しめるというだけでそうしたコンテンツを提供しない筆者は、どうも「つまらないヤツ」と判断されてしまうようなのだ。セロリ嫌いじゃないけど好きでもないから進んで食卓に並べはしない人間が、セロリ大好き主食集団の中に紛れ込んだとき異端になるのは自明であるが、つまり、セロリ食え!セロリ出せ!セロリを愛さぬ者に用はない!というわけだ。それならばセロリを愛する者同士、色がどうの食感がどうの味がどうのと推しポイントを共有できる相手と関わった方が精神的にコスパが良い。その道理はよくわかる。
ところがこちらとしては男同士(GLのパターンもあるだろうがBL遭遇率が体感異様に高いのでBLということにする)がイチャコラしているのが見たいわけでも、そこに割って入りたいわけでもなく、あくまで企画の世界観に惹かれているのである。交流を成り立たせるための関係は必ずしも恋人に限らず、先輩後輩、同級生、親友、そこまで親しくはないけども同じ部署にいる顔見知り、敵対……etc.、様々な在り方があってしかるべきだ。が、その実態といえば、先輩後輩(ホモカプ)、同級生(ホモカプ)、親友(だがホモカプ)、ただの顔見知り(だが寝たことがある)、敵対(しているがやはりちょっと気になる///)といった具合で、ファミレスでメニューを見たら全部にセロリ入ってたような状況なのだ。ライスにも刻みセロリが入っている。
与えられたシステムの中で仲良くワイワイしたいだけなのだが、「平気ですよ」のマルを付けたばかりに、友達だと思っていた相手から突然「酔っぱらってそういう雰囲気になるかもねw」「受け攻めどっちぽい?」というコメントが飛んでくる。拍子抜けする。勢力図がどうとか、この世界ではどんな生き物がいるのかとか、能力の応用とか、そういうものは基本的に話題に上がらず、TLを流れていくのは専らうちよそのデート描写、お互いをどう思っているか、お互いの好きなところは、という風に恋愛色が強い。その企画でなくてもできたのではないかという、企画の世界観や設定が全くといっていいほど絡まない恋愛ネタ。そして見渡す限りの同性カップル。戦闘や駆け引き、探索をしながら絆を深めるとか、そういうものを想定していたら合コン会場に迷い込んでしまった。
ここまで書いて、同性カップルに理解の無い差別主義者と疑われていそうなので、弁明しておく。筆者にとって、恋愛は性別がどうだろうと恋愛なので、閲覧に際してはNLもGLもBLも特別区別はしていない。この文で「同性」を強調しているのは、それ以外の恋愛形態が尊重されないほど腐女子たちによるBL推しが激しいためである。そしてBLネタを求める彼女らは自動的に男性キャラクターを作成するため、片割れを探す作者同士が意気投合すればカップル、もしくはちょっとつつけば即座にカップル成立しそうな距離感の過沸騰ペアが増えていく。女性キャラクターとして受け入れられていた独身キャラクターが、実は男でしたとネタ晴らしされた瞬間伴侶を得るこの世界で、女性キャラクターの婚活は氷河期にある。
腐女子であることが豊かな交流の前提になっている空間は、本来許されていたはずの自由な創作・自由な交流に制限をかける。男女、女女、男男、3種類あるはずの恋人関係が1種類しか快く受け入れられないとあってはそこで楽しむのも難しくなってくる。それが分かれば最初から参加していないのだが、企画ができたてであればあるほど、なまじゾーニングを重視する彼女らの生態を初対面で汲み取るのは難しい。数段前に自己紹介シートの話をしたが、シートがあれどもすれ違うのに、無ければなおさら困難極まってくる。筆者が極まりたいのは困難ではなく感なのに、だ。
平気ならお前もBLカップル作ればいいじゃん。その通り。だが環境に強制されて作る関係を心地よいものとは思えず、結局幾度も身を引くことにした。したくてするのと、そうしないと弊害があるからと妥協してするのでは大違いだろう。
「腐女子が多すぎる」というのはこういうことだ。ある空間に占める腐女子が多ければ多いほど、彼女らの常識がその場の常識にすり替わっていく。これは筆者の体験から腐女子を取り上げているだけで、同じことはそれ以外にも言える。自然愛好グループの中に野生動物に餌を与えることを生きがいとする集団が増えて、動物たちが事故に遭うリスクを懸念する人々が押し負けてしまうであるとか、例を挙げればキリがない。感情・思想を共有する集団は強固ゆえに存在自体がある程度の強制力を持ち得るというわけである。
腐女子は日陰者であるべきとは言わない。しかし意識的にせよ無意識にせよ、ホモカプが描写できないならお役御免とばかりの傲慢さを感じざるをえず、それゆえ不信の念を抱かずにはいられない。なぜこうも交流企画には内輪を形成する腐女子が集うのだろう。
適当にググっただけでもこういうコピペが出てくるくらいには叩かれてたぞ
・嫁のお気に入り
・ファンがキショい
・16にして既に後退が始まっている広いデコ
・髪型が不潔
・動きが八頭身
・禿
脚本家。「りょうさわちあき」ではなく「もろさわちあき」と読む。
「GEAR戦士電童」「機動戦士ガンダムSEED」のシリーズ構成。
これらの作品で監督を務めている福田己津央の妻であり、そこから「嫁」という蔑称で呼ばれる。
構成力や描写力などというものを完全に放棄し、自分の好きなキャラを露骨に贔屓し、
801描写でこねくりまわし、しかもそのキャラすら次から次へと破綻させていく、
801大好きな元同人女であり、電童ではヒロインとして用意されたキャラを、
ちなみにこの時、自分の脚本をあまりに改悪されたことに怒った小林靖子は電童スタッフから抜け、
普通なら絶対に業界にはいられないスキルのはずだが、そこは福田の嫁ということで、
というか、福田作品以外で両澤の名前が確認できるのは、これまで1作品しかない。
サイバーフォーミュラで突如その姿を現す前の経歴が一切不明、年齢も容姿も全て不明。
謎に包まれた存在だが、どう考えても脚本家を志して修行した人間でないことは確かである。
もっと早くハマりたかった!!今年に入って初めて偶然にTHE ORIGIN見たらめっちゃ面白くてシャアってこんなサイコパスみたいな面白イカレ野郎なのかよと興奮して
ファーストの劇場版やZのTVアニメ版と劇場版、ZZと立て続けに見た。逆シャアやハサウェイも見てアナザーガンダムも追い始めた。
面白い。
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ガンダムは初見ではなく、俺がリアタイでも見始めたのはSEED以降だけ
Zガンダムを見たことでもしかして酷評されてるSEED DESTINYってZを少しオマージュしてた?っていうのにも気づけて感動した。
シンは最初こそカミーユっぽいけど結局ジェリドだったなと感じている。これは当時も言われてたんだろうか?
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個人的にはZガンダムが一番好きで、ZZは対象年齢を少し下げたのか子供っぽいというか、コメディタッチな要素が多いなと思った。
カミーユやアムロが割と鬱屈しているのに対してジュドーがあっけらかんとしているというか。
ただ、アムロやカミーユは家庭こそ機能不全でネグレクトに近い状態ではあるが教育は施されているし食べるものには困っていない。フラウ・ボゥやファが面倒見てくれてるし。
対してジュドーって貧困層の子どもで親は出稼ぎ行ってて明日を生きるのにも精一杯、閃光のハサウェイで現地の運転手がマフティーが1000年先の話してたってこっちは今日や明日で精一杯、みたいなこと言ってたけど、
ジュドーはまさしくその運転手側の立場の子どもで、それが戦闘に巻き込まれていく中で最終的にちゃんと自分や周囲の未来を考えられるように成長していて嬉しくなった。
アムロに関しても親と決別した後に自分の居場所を見つけて生きがいや目的を逆シャアまでにきちんと確立していくところが描かれていて良いなあと思うので、カミーユのそういう姿も見たかった。
Z劇場版はある意味そういう成長したカミーユを見せてもらえたのかもしれないということで思うところは色々あるが受け入れている。
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この作品を見て、改めて富野由悠季監督の描くガンダムでの女性の描き方について考えるところもあったんだけど、
ファやフラウ・ボゥが男の子をケアする側として描かれているものの(30年以上前の作品にそんなことでケチ付けるつもりはない)、Zでは女性パイロットもたくさんいる。
最初見た時にほんとレコアさんの考えが理解できなかったんだが、
戦争で家族を亡くして行き当たりばったりな生き方をしてきて、ジャブロー降下作戦でもひどい目(おそらく性的被害)にあって、女性性というものにとらわれざるを得なかったのか、
男性社会で求められる女性のあり方を内面化して生き抜こうとしたものの、やっぱり女をモノとしてしか扱わないシロッコや他の男達に傷ついてしまったんだろうなと考えるに至った。
エマ中尉は男性社会での現行ルールに則ったまま自力でガラスの天井を爆破する的なあの時代に求められる”強い女性"を描いてる部分があるのかなあとも思った。
富野監督のインタビューもいくつか読んだけど作品をつくる上でその社会がどんな歴史、文化を形成してきたかというのがちゃんと練られていて、その上でこの社会の中のこの時代に生まれた人がこういう経験をしたらどう人格が形成されるかも考えているんだなぁと感じたから俺ももっと早くガンダムを好きになって富野由悠季の世界展に行きたかった。
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女性の描き方だと、カミーユの母親とかF91のシーブックの母親とかも仕事をバリバリこなす女性だけどどちらも家庭を顧みてない状態で、
仕事で成果をあげるには男性と同様に家庭を放り出して仕事をこなさないといけないまだまだ自力でのガラスの天井爆破型女性が求められる、という作品外での社会問題を感じたし、
逆シャアではチェーンが技術者としてバリバリ仕事していたけど彼女は独身だからやれてるだけで仮にアムロと結婚とかなってたらどうなっていたのか、とも思うし、
そう思うとアストナージとケーラの関係はあの時代にあってすごく先進的というか、男性であるアストナージから「サラダを作って食べよう」みたいな提案してるのはかなり新鮮で結構驚いた。
ジェンダー的な部分だと∀でもさらに踏み込もうとしている感はあったし、Gレコではノレドが乱暴な喋り方なのが新鮮だった。
けっこう「~だわ」みたいな「女言葉」っていわれるような言葉遣いがZとか昔は多かったのがノレドは「~だろ!」みたいな荒っぽい言葉遣いしていて、思えば中高生のときの同級生の女子も結構そんな感じだったなと思うし、
そうした描写の変化を追っていくのも楽しい(まだ∀もGレコも途中までしか見れてない)
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こうした点も踏まえて富野監督作品じゃないけど「水星の魔女」ってすごく踏み込んだ作品だと感じた。
まず女性キャラクターを主人公にした上でさらに家父長制的なあり方を初っ端から批判的に描いている。
鉄血のオルフェンズで同性愛キャラクターがいたり、最終話でアトラとクーデリアがおそらくパートナー関係?(恋愛ではなさそう)になっていたりとアナザーガンダムでもじわじわ踏み込んできていたのが
いつだったか韓国のエンタメか映画「パラサイト」のポン・ジュノ監督の特集だったか忘れたけど、
韓国では人口が少ないし少子化でもあるから映画や音楽は最初から海外で利益を上げることを視野に入れていて、そのために世界に通用するやり方が必須と言ってて、
働き方はもちろん、作品の制作でもいろんな人(国籍、人種などなど)が見ることを前提にしているとかで、BTSも曲の歌詞は自分たちの表現が差別的でないか専門家のチェックを仰ぐとやっていた。
ガンダムはすでに世界で人気だけどより本気で世界で儲けるために社会問題とかフェミニズムを積極的に取り入れ始めたのかなぁとちょっと思ったし、
さらにはもとからいるファン(ガノタと呼ばれる人たち?と美少女好きそうなオタクとか?)も突き放さないために美少女キャラを入れてウテナっぽくして百合アニメと受け取れるような演出してて”うまい”なぁと思った。
まだプロローグと1話だけだしどうなるかなんて分かんないけどさ、とりあえずまだ見れていないガンダム作品があって水星の魔女もあって楽しみがたくさんで幸せだ。
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