はてなキーワード: 定性的とは
https://www.mazda.com/ja/innovation/technology/gihou/2021/
これについてちょっと色んな感情を抱いたわけで感想というか考察というかなんかそういうのを書きます。
電池制御屋さん(?)なのでメインはEV関連のところだけピックアップしてみます。本当は全部やろうと思ったけどエンジンとか分からなくて書くことなかったです。
普段こういうことやらないので読みにくかったら見なかったことにしておいてください。
あと、そもそも私は社員でもE&Tさんや販売店さんでもないですので間違ってたりしたらごめんなさい。
去年に比べてボリュームも多く、メインのトピックとしてMX-30のEVが挙げられていますね。マツダ初のEVですからそりゃあ力を入れますよね。(デミオEV?あれは量産されてないからノーカンで)
では順に見ていきます。
こういった経営戦略は専門外ですし特にないです。頑張って下さい、という感じです。でも、スモールプレイヤーであることを自覚しているならなぜスバルさんのようにEV開発にトヨタの力を借りなかったのかが不思議ですが極めて高度な経営戦略的判断なのでしょう。
私はEV反対でもEV賛成でもなく、ユーザが好きなものを買えばいいと思いますが以下の件、エンジニアとしてずっと疑問に思ってますよ。
https://www.mazda.com/ja/csr/environment/lca/
ところで、技報は直近だと技企が担当っぽいんですがどういう基準で毎年内容とか選んでるんですかね。分かりません。
両開きドア、必要だったんでしょうか。使いにくいと思うんですが…
車格的にこれ以上大きくできないけど四人乗りだし特徴出さないといけないという苦肉の策でしょうか。
私は美術の成績が2くらいしかないのでデザインはよくわかりません。
あ、でも、インテリアのコルクの件は誰が思いついたんでしょうか?どういうコルクでどういう工夫がされているかわかりませんが、熱衝撃でボロボロにならないんですかね。ぜひそういうのを技報で取り上げて欲しかったなぁ。
書かれていることは難しくて分かりません。商品企画って大変だと思います。
みなさん、一回乗ってみるといいと思います。思いの外普通の車です。
制御って難しいですよね。まず式が多くて難しい。
この手の制御は実車でのフィーリング評価が多いでしょうからそれだけ走らないといけないだろうし大変だと思います。
Fig.4ってどう見ればいいんですかね。そりゃ制御切ってる赤線が0なのは当然だと思うんですが。GVCのリクエストに対してモータのリクエストトルクが遅れているのはなにか意図があるんでしょうか。私には分かりません。てかこれ実トルクじゃないのね。
Fig.6ではGVCの有無による加減速が記載されてますね。GVCの有無で横Gは変わらないけど前後方向は、「ターンイン時に減速」「ターンアウト時に加速」と。いやこれ、運転してる人には誤差みたいなレベルのGだけど(たぶん、普通に運転してたら0.1~0.4Gくらいでこのデータだと最大0.4m/s^2≒0.04G)いるのこの制御?
この辺で読むのやめたけど、Fig.20はどうかと思う。基準値おかしいでしょそのグラフ。
この辺も専門外だから流し読み。ペダルの味付けの話かな(適当)
Leafとかi3とか回生がキツくて慣れるまでなんか気持ち悪かったけど、MX-30はその辺まだ運転しやすかった気がする。
これもよく分からない。感想としては、エレキシフトである必要ないよねって思う。
電子制御にすれば車側からの介入がかけられるってこと書いてあるけど、ソフトウェアのバグのリスクを抱えることになりそうだし、そもそもどういうヒューマンエラーを想定してんの?って素人的には思うんですよねぇ。
でもそれよりもあの変なシフトの形状の方が気になる。
LCA(ライフサイクルアセスメント)の件はいったん不問にするわ。
ふむふむ、LiBの温度管理をしっかりして容量と入出力を使い切ると。むしろそれ以外にはないわな。
「クーリング・ヒータシステム」うん、こういうのでいいんだよ、こういうので。
なるほど、冷媒冷却なのね。Fig.8を見ると温めるのにはヒートポンプ使わないのか。もっぱら冷却専門って感じね。そりゃあ電池が動かないくらい寒いときに温めるんだから効率の悪いヒートポンプ使わないのは当然か。Hondaさんはモータ系の冷却水を電池に回して加温にも使ってた気がするけど冷媒だと難しいんでしょう。
ところで、車室内が暖房で電池が冷却を求めている場合(真冬の高速連続走行)とかの時はどうなるんでしょうね。ヒートポンプ一個しかないけど。
冬場はヒータを使って電池を温めて充電時間短縮に貢献しているんですね。
あ、そういえば低温の充電についてはこんな記事ありましたよ。
https://insideevs.com/news/486109/mazda-mx-30-battery-pack-heating-issue/
マツダさん、色んなところでMBDのお話してるのでやっぱりありました。
元々シミュレーションで研究やってたんで、モデルベースとかシミュレーションとか僕は好きですよ。
これを見るとHILSがメインなんですかね。HILSって物できてから色々するものだと思ってるんですがこれはMBDなんでしょうか。まぁHILSにはモータとか電池とかのモデルが入っているのでその意味ではMBDか…
ゴリゴリの計算化学的なのはないんでしょうか。EVだから電池系でその辺もあるかと思ってたんですが。
気になるのは4.1の説明で「ユニット間通信もPCMとの Peer to Peer通信を基本とした」と書いてますね。だいたい今の車載系のネットワークはCAN通信なのでP2PっちゃP2Pなんですが、わざわざ書いてるということは何か特別なことがあるんですかね。
Fig.5らへんでは「充電みたいに特定の機能しか使わないときは他の機能を切って余計な電源使わないようにしたよー」って書いてますが、充電してるなら誤差みたいな電流では…?てかまぁ、関係ないユニットをそもそも動かさないのは当然だと思うんですが。
4.3はよくソフト系の品質検証である直交表ですかね。私も何度か作成したことあります。MBDでやるにしてもテスト数絞らないといけないからこういう感じで管理してるんですね。でも、機能毎の組み合わせをみるだけでも効果あるんでしょうか?不具合が見つかったとしても書けないでしょうから記載なくても仕方ないか…
市場での適合性とか考えると特に大変そう。でも気になるのは「1.はじめに」に書かれている「MX-30は約40分でSOC 80%まで充電できる」の文言。
え?40分?いつの車?35.5kWhしかないのに?もしかして急速充電器の出力30kWとかで想定してる?市場の急速充電器は大部分が(少なくとも日本は)50kWだと思うんですが。
外部充電関連やってる人はホント尊敬してます。だって仕様書難しいし仕様書曖昧なときあるし。COMBOとか仕様書自体なんか怪しいし。
本文中でも「HILSだけでは発見できない」って書いてあるけど本当にそうだと思います。
2.1見ると電池は電子部品扱いなの…?なんか共振点が被らないように工夫しました的なこと書いてある。
でも電池って重量あるし、特に考慮とかいらなそうなんだけど、マツダさんでは電池も細かくモデリングしてるのかしら。あとこれ疑問なんだけど、EVで使われるモータとかってエンジンよりも高周波成分持ってそうなんだけど言うほどないのかね、知らんけど。
2.2には不思議な式が載っている。ダメージ量というのはマツダさん独自の概念だと思う。少なくとも俺はいままで振動とか疲労とかの勉強していてであったことはない。疑問なのはFig.4の加速度に通常ひずみに対して使われるレインフロー法を適用していることになってるんだけどあってるこれ??加速度と応力は比例関係にあるけど周波数成分考慮しないと意味なくない??まぁ、そこはマツダさん独自の手法が隠れてるってことなんだろうか。
そして3.1には気になることが書いてある。
いや、とんでもない超過剰品質じゃん。強度半分でいいから車両価格下げてくれ。
3.2はモデルの話。しかし、写真を見るとマツダさんのアッパーケースは樹脂。これどうしているんだろうか。樹脂のシミュレーションなんてあまり精度よくできるとは聞かないし熱とか湿度とかの影響をもろに受けるはず。この辺もシミュレーション出来ているならすごいと思うんだけど特に書かれてない。一番壊れたらやばそうなのに。
ボデー屋さんじゃないからよくわかんない。でも、MX-30って両開きだから剛性保つの大変そう。
2.1には前突時の話が載ってて、電池を守らなきゃいけないから大変だとか。電池ってR100でメカニカルショックの試験あるからそれなりに大丈夫だと思うんだけどそうでもないのかな。あるいはR93/94で代替してるのか。ところで、実車見たことある人は分かると思うんだけど、MX-30ってモータルームスカスカでバカでかい支柱みたいなのがあるんだけどあれどうにかならなかったのか。てかバランス悪すぎるだろあの構造。内燃仕様も作る都合で仕方なかったのかもしれないけど他の車みたいに充電器入れとかにすればよかったのに。てか充電口とかフロントに持ってくればハーネスとか安くなりそう(モータ/インバータ系と同じところからバッテリパックに入れればいい)のになんであんな構造なんだろう。
3.1は側突の話。MX-30は両開きだから大変そう。ところで、これ全部解析の画像しかないけど、実車のやつはやっぱり画像写せないんだろうか。シミュレーションの研究やっていた身としてはシミュレーションが完璧でないことは分かっているので逆に不安なんだけど、こういうでか物はシミュレーションで十分ということなのかな。(認証試験は実車だろうけど)
よくわかんない。たぶん難しい。
日本語でおk。なんだそれは。とりあえず読んでない。
電池もEVも関係ないけど私が元々分子動力学シミュレーションやってたから。
でも、ほとんどMDの話が書いてない。シミュレーション条件も特に書いてないけど、写真を見る限り大した分子数で計算してなさそう。
これで精度が出るんだろうか。その辺を詳しく書いて欲しかった。
この手の計算は結果自体は出る。シミュレーションしてるんだから計算自体はできるものだから。ただ、現実の実験結果と定量的に合わせるのは非常に難しい。定性的傾向は出ても、定量的な比較はMDでは非常に難しい。
これは経験的なもので私が研究していたのは何年も前だけど傾向は変わっていないと思う。4.1でいちおう妥当性検証が書かれているけど、MDの結果については定量的に比較されているわけではない。紙面の都合もあるから仕方ないか。
ということでマツダ技報2021年度版の感想・勝手な考察でした。適当に読んだから読み間違えてたりしたら申し訳ないです。私はマツダ車乗ってるしこれからも頑張ってください。
少なくともワクチンに重症化予防効果があることは確からしいし、副反応も短中期的には通常のワクチン程度であり長期的にはこれからの話しだがそれもおそらく問題ないだろう。
お金と時間と人手と資源が無限にあるなら、若者へのコロナワクチンに反対しない。
だが、残念なことにそれらは有限である。有限である以上、何かにリソースを使うことは、別の何かにリソースを使わないことを意味する。
別の何かにリソースを使ったほうが良いのではないかという考えは常に必要であり、その観点からは若者へのコロナワクチンの費用対効果は非常に小さい。
少し計算してみよう。
ファイザー製のワクチンは事務費も含めて2070円/回であり、2回接種なら4140円、3回接種なら6210円である。
https://www.med.or.jp/nichiionline/article/009772.html
10代、20代の人口はおよそ2300万人であるから、全体の9割がワクチンを摂取するとして、総費用は2回摂取の場合で860億円程度であり、費用は全て税金で賄われる。
一方で、10代と20代の累計死者数は2021/9/22時点でそれぞれ2人、20人である。
https://covid19.mhlw.go.jp/extensions/public/index.html
仮にワクチンによってこれら全員が死亡しなかったとすると、単純計算で一人あたり約39億円になる。
例えば10代、20代の死亡要因の第1位は自殺であり、年間およそ10代で500人、20代で3000人が亡くなっている。
また第2位の不慮の事故でも年間で10代が500人、20代が1000人亡くなっている。
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii09/deth8.html
これらに860億円を使えば、22人程度は簡単に救える。
例えば単純な話、自殺をしようとする人をランダムに860人選んで、「1億円あげるから自殺をやめろ」と言えば少なくとも800人くらいは自殺を止めるだろう。
このように書くと、「ワクチンによる感染予防効果や医療崩壊による30代以上の死亡者数増加を考慮していない」との反論が来るに違いないので、そちらについても考えてみよう。
先に言っておくと、私はコロナワクチンに感染予防効果はある程度は期待できると考えている。しかし、若者へのワクチン接種についてに限定するとどれだけの効果があるかは疑問がある。
まず、コロナワクチンの重症化予防や発症予防の効果がかなり認められているのに対し、感染予防効果についてはよくわかっていないのが現状であり、厚生労働省も感染予防効果については明言を避けている。
https://www.cov19-vaccine.mhlw.go.jp/qa/0011.html
ウイルス感染の原理原則で言えば、身体の中で増えたウイルスが咳などによって外に飛び出し、新たな宿主の身体に入ることで感染が生じる。この咳などに含まれるウイルスは体の中のウイルス数が増えるとともに増えていく。また体の中のウイルスが増えるとは基本的には発症するということでもある。簡単に言えば熱が出てゴホゴホ咳をしている人からは伝染りやすく、特に症状もない人からは伝染りにくい。
したがって、発症・重症化しやすい50代以上についてワクチンで発症を抑える=体内のウイルス数を減らすことは感染予防にも効果的であると考えられる。しかし、そもそも発症しにくい20代以下についてもともと低かったウイルス数をワクチンで更に減らすことは、定性的にはともかく定量的にはどれほどの感染予防効果があるか疑わしい。
また、仮に感染予防効果が有ったとしても、それで問題になる医療崩壊については医療従事者や受け入れ体制を拡充することのほうが直接的な対策である。
860億円は、例えば年収500万円×5年間×3500人の医療従事者を増やすこと同額であり、22人+αを救うためにはこちらのほうが有効だろう。
お金と時間と人手と資源が無限にあるなら、若者へのコロナワクチンに反対しない。
だが、残念なことにそれらは有限である。有限である以上、何かにリソースを使うことは、別の何かにリソースを使わないことを意味する。
別の何かにリソースを使ったほうが良いのではないかという考えは常に必要であり、その観点からは若者へのコロナワクチンの費用対効果は非常に小さい。
蓋を開ける工程が増えているだけであり、全く不条理な改変である。
新しい蓋は明け口が2つあるが、これはUX上問題があると思う。
増田としては次の3点が複合的にその使いづらさを生み出すと考える。これらのほかにも要因はあるかもしれないが、十分に説明のつく範囲の項目であろう。
従来の開け口はガイドに対して垂直に開ければよくその動作に非合理性はない。開け口をつまんで真っすぐ引けばよいだけである。
ところが、新デザインにおいては斜め方向となっていて開け口のつまみ部分とガイド左右端の距離が異なるため、微調整が必要となる。
この蓋に不慣れな私のような若輩者の場合、念のためにパッケージに記載される説明に目を通して少しでも事前のミスをなくすように努めることが好ましい。
なるほど蓋には「お好きなタブ(開け口)からはがして、両方でとめる」と丁寧で簡潔な説明がある。
ところが、この指示に従うと1点目に挙げた問題と直交する現象が起きる。
ガイドは2つの開け口の中心から垂線を下した形の位置にのみ存在しているため、「お好きなタブ(開け口)」から開いてしまうと選択しなかった開け口にスムーズな開封を阻害されてしまうのである。
私が不器用なことは否めないが、このために旧パッケージでは起きえなかった蓋の裂傷が起きてしまった。
また、これは結局のところ次両方の開け口から開かねばならないことを意味する。
上記2点を総合したところ、どうやら両方の開け口から慎重にガイドまで開けることを想定したインターフェースであることが分かった。
この時点で明確に食べる準備の手順が増えているのだが、ここで述べたい問題としてはパッケージ変更の主目的の一つである「フタ止め感」である。
カップ麺の蓋不要論も存在するようだがそれは今回の話からは除外するとして、止めるためのトリガーが2点増えたとて特に「前よりも蓋をちゃんと止めているぞ!」とは微塵も思わなかった。
日清は苦心してこのデザインを設計したのであろうが、明確な失敗である。そうでないなら押し付けがましい定性的な改善というものではなく、定量的な効果を示してほしい。
以上、むかついたので書きなぐった
この手の論ってよく見るけどそもそも定性的な「わいせつ」という概念を、定量的かつ「客観的な基準」として示すのって無理では?
何が「わいせつ」に当たるのかを誰が見ても明らかに定義した「客観的な基準」なるものが存在するのなら、そもそも裁判所なんて不要になるだろうし
社会は複雑怪奇で変数が多すぎる。違法なのか、適法なのか、違法ではないけどグレーなのか。公共広告なのか、民間広告なのか、ターゲットは誰なのか、ゾーニングしているのか、状況によって判断基準も変わるだろうし
客観的な基準を設けることなんて実質的に不可能だからその調整機関として裁判所が存在するわけで。更には変動する世の中に応じて法律自体も刻々と変化するわけでしょ
増田もまさか警察が小中学生向けの広報で注目を集めるために局部を絆創膏で隠したAV女優を起用しよう!なんて主張していたら、たとえ合法であっても批判すると思うのよな
自身が「客観的な基準」を示さずに、相手方にだけ(実質的に不可能に近い)「客観的な基準」を示すことを要求する、さらには提示できない(していない)ことを以て罵倒するのは、卑怯だと思う
なのでできるものならまず増田が「客観的な基準」とやらを示してほしい
結局、Vtuber擁護側も「俺的には大してエロくないからセーフ。基準は俺」としか言ってなくない?(そしてそれは仕方がないことだと思う)
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以下追記
「裁判で違法になった表現のみ批判されるべきである」という態度は、一見客観的なようで実は非常に主観的(であることに言ってる本人も気がついていない)だし、多々問題や矛盾点がある考え方だと思うのよね
・推定無罪の原則から、有罪が確定するまでは無罪として扱う必要がある。また確定判決が出るまで年単位の時間がかかる場合もあるのが現代日本の裁判制度である。この前提に立った際、たとえば「〇〇殺す」といった、どう考えてもアウトだし批判されても非難されても仕方ないよという表現でも、確定有罪判決が出るまでは一切批判すらしてはならない、ということになる。あまりにもラディカルすぎないか
・刑事では無罪だが、民事では違法性が認められて賠償請求が通るような事案(あるいは逆も可)があった場合、アウトなのかセーフなのかの判定が矛盾する
・さらには、どのような表現が有罪になってどのような表現が無罪になるのか、網羅的な法律の専門知識があって言っているわけでもないだろう
このあたりを踏まえると「裁判で違法になった場合のみ批判されるべき」という態度は、言葉を補えば「俺が、もし裁判になったらおそらく違法になるだろうと思っている表現のみ批判されるべき」としかいっておらず、その判断基準の内実を定量的に示したわけでもなく、非常に主観的だ。
そもそも行政分野ではあらゆる表現は違法にならない限りOKですよーなんてされておらず、各種ガイドラインが頒布されている。フェミが勝手に言っている、とかではなく、普通に中央省庁や自治体が制定しているものだ。
以下は埼玉県の広告ガイドラインだが、まさにP.10に今回の事案に近い例が記載されている(女性をアイキャッチャーに使う、性的側面、過度に性的な萌キャラなど)
https://www.pref.saitama.lg.jp/documents/64903/p4-p12.pdf
なので、裁判で違法にならない限りオールオッケーとあなた個人が考える分にはよいけれど、現実社会の行政・公共表現ではそんなラディカルな態度は取れるわけがないので、正直いうと世間知らずだな、という印象を受けました。
逆にこれ、増田が超ラッキーな職場にいるんじゃないかって気がする。すくなくとも公的セクターでときどきある
一字一句字起こししないと「あの発言のココが落ちてる」とかいう指摘を受ける重箱の隅と戦わなくて済む。
実は会議は、①連絡共有会議②整合会議③決定会議④アイデア出し課題出し会議の4つ位に分けられるので、
①は「別添資料を連絡、了承いただいた。」で完了、②は〇〇を××するという件について、△部長に説明し、概ね了承された。条件として〇〇、③は、〇〇を審議し、XとYの得失を定性的に評価した結果B案で決定した、
みたいな感じで。この辺習熟すると早い安い美味いという評判がもらえるし、たぶん会議取り回しの役目が回ってくるようになる。
ステップアップだ。
それどころか、成功すれば観客のモラルの高さを誇示することで類を見ない象徴的な祭典になる可能性がある。
だってさ、東京のあんだけギュウギュウの電車でも大規模な感染爆発が起きてないんですよ?結局は大声で会話する会食が悪いということであれば会場内の飲食ブースは全て無くして観客には空マイボトル持参の上、給水設備と塩飴のみ解放すれば解放的な会食の場は無くせるし、持ち込み検査ではアルコールの類を没収すればいい。
マスク着用してない観客は見つけ次第退場させればいいし、そういう運用は今はスーパーでも飛行機でもどこでもやってるから不可能じゃなさそう。
もし政府がこんな感じで実現性を見込んでるなら悪くないんじゃないかな。はてなーのみなさんも、もうちょっと定性的にロジカルに物事を考えてみてはいかがですか。リスクのないところに積極的な変化はないのですよ。婚活と同じ。
https://anond.hatelabo.jp/20210601142224 に触発されて。
このような考えの経営者が巷に溢れかえっているならそのとおりになるだろうし、元増田の言う時給1500円以下の仕事しかできない人が職にあぶれて困るという世界もありうるかもしれないが、まあそんなことは起こらないなと思うのでなぜそう思っているか説明する。
自分は自社経営しつつベンチャー何社かの経営に携わっている。業種はざっくりITとだけ。
"時給1500円の仕事"より高い仕事ができる人間を週に1時間だけお願いしますだとか、土日の暇な時間だけでいいんでとか、フリーランスな高給取りに少し相談させてくださいだとかで本来時給1500円以上の人間を1500円以下で雇おうとするハックはすでに発明されまくっている。例えば技術顧問料月1万円、週1回1時間相談に乗ってくれます。という契約でもなんだかんだと日々雑談の体でいろいろ質問し使い倒すことで結局月20時間ぐらい拘束していて、時給換算で500円くらいで働かされているケースというのはある。
元増田は最低時給が1500円になると生産性の高い人間の給与は下がるというが、基本給を下げるというのは並大抵のことではない。まぁ従業員に訴えられる覚悟の上かパワハラ地味た説得を伴えばいけると思うが、そこまでやるならいっそ一回会社畳んでしまったほうが楽である。なので既存の従業員の給与を下げるという方針はあまりないだろうが、残業代を払いたくないので残業するなと口酸っぱくなるか、無料残業しろと圧力をかけるかの二択になるので、無料残業を強いられた従業員がいれば即労基に行って会社を潰せ。
ベンチャーに限らず大企業であっても「この後の仕事につながるから」とか「実績作りだから」とかで人間を不当に安く使う方法はすでに存在し、十分に悪用されているので増田が心配するようなハイスキルな人間のえる金が減ってかわいそうになる、という事態はおそらくこない。先に上げたようなご相談がハイスキルな連中にどんどん舞い込むようになり、一時的にむしろ収入は増加する可能性すらある。ただし、自分にカードが回ってきた時は無言で墓地に入れたほうがよい。
自分の関わっているベンチャーでも「という感じでお知り合いの方に少し手伝ってもらうなどできませんか?」と聞いてくる役員・コンサルタント・クライアント・従業員はいるが、すべてに曖昧な笑顔で「うーん、自分はそんなに知り合いが多くないものでして」と断っている。まともな値段が提示できている場合のみ知人に話を振ってみる程度である。
企業は当然に正社員登用に対して消極的になる。正社員を解雇するのは大変なので、解雇したい時に解雇できる契約形態をできる限り取ろうとするだろう。
その状況こそを自分はまさに望んでおり、つまりは会社というのは簡単に首を切るものであって、首を切られたからといって人間的・人格的問題があるとイコールにならない世の中になってほしいと思っている。最低時給を保証できない企業が増え、倒産や解雇が続発すればするほど、解雇された側の瑕疵はあまり気にされなくなり、社会でよくある出来事のひとつになっていく。
元増田は簡単に転職しましょうと言うが、はっきり言って日本社会における転職の難易度は異常に高い。スキルの有無以前に「会社を辞めるやつ」という人間への経営者の憎悪が凄まじすぎる。経営者は概ね会社と自己を同一視しがちだが、日本企業の経営者のそれははっきりいって異常としか言いようがない。風邪を引いて会議を休んだ人間に対して「お前は会社を裏切っている」とか平気で言う経営者が出るのはおかしいことに気づいたほうが良い。最悪でも裏切られたのは予定をすっぽかされた経営者自身であり、会社への裏切り行為ではない。
面接で「転職歴が多いですね」と鬼の首を取ったように言う人事担当者に「ええ、仕事が片付いたので契約終了で離れました」と朗らかにいえる社会になってしまって、ぽんぽん転職していいという社会になってくれないと、人生最初に入った会社がブラックかどうかの2択でその後の人生まで破壊される、というような不幸な若者は減らない。とにかく退職履歴がより軽視されるようになってほしいし、そのためには企業が人を切るに足る理由が必要で、その最たるものに最低時給が上がった結果雇い続けることの出来ない会社が増えました、というロジックが成立するなら自分は万々歳である。
現在でもSIなどでありがちだが、働いているかぎり赤字になる社員というのは常にどこの会社にも存在し、そういう奴に投資できるかできないかが大企業の境目になるので今と変わらず新卒を取る会社は取って教育をして転職していくし、その体力がない会社は新卒を取らず上記に書いたような邪悪な方法ですでにスキルのある人材をどうにか安く使おうと頭をひねるだけだろう。
経営者たちの「かっこいい」ポイントのひとつに「新卒取って教育に力入れてます!」がある限りそれはなくならないだろうし、ほとんど宗教的にどの経営者も「金ができれば新卒取って教育からやりたい」とのたまっているので、この点はそこまで心配するようなことではないように思う。自分の考えでは、潤沢な資金を用意して中途を取ったほうが良い。教育は経営者の趣味に近く、趣味ならば社の3%程度の予算で贖える程度の範囲に納めたほうが良い。
もちろん、最低時給が上がることで今新卒採用・教育が出来ている中小企業が出来なくなるという未来は大いにありうるが、その程度で新卒を取れなくなる企業で積める新卒教育経験などおそらく大したものではないので考慮に値しない。
というかいっそ新卒採用というものはものすごくレアかつハイレベルなキャリアパスであって、普通は新卒で正規雇用就職など出来ないのだから、短時間で働きながらより実務に近い学びをする、というのが世の中のスタンダードになったほうが新卒市場で無意味に疲弊していく若者を減らせるかもしれない。新卒諸君に罪はないが、社会構造に罪があるので新卒市場は早めに崩壊してほしいものの一つである。また当然、働きながら学ぶというのが成立するためには短時間の労働で生活費がまかなえる必要があるので、むしろ最低時給は向上しないとこれが成り立たない。
これには反対。誓ってもいいが最低時給を撤廃してそのような動きをする企業はあくまで理想家が起業した一部起業であり、その理想家は大抵社と自分を同一視しておりトンチンカンな説教をし人間を壊す。はっきり言って「最低時給が下がったし、うちも安く雇って教育からやろう!」と言い出す奴にまともな教育のプランはないので、結局安い金でこき使われ何をしているのかもわからない機械の部品みたいな労働がはびこるだけでしかない。
もっと人件費が安ければ教育もできるのになぁ、と言っている奴らは教育をしたいのではなく、安く使える(今無能な)人間に俺が物を教えてやろう、という気持ちよくなるためのプロセスを踏んでいるだけにしか思えない。本当にその教育に価値があるのならば、時給1500円払った上でその教育に1時間500円払わせればよい(会計上可能かちょっと怪しいが)。従業員がその教育に価値を感じるなら500円喜んで払ってくれるであろう。そうすれば時給1000円で使えて教育もできる。
想像してみてほしいのだが「新卒には時給2000円も払うんだからきちんと教育プラン考えないと無駄金になっちゃうぞ」と襟を正すのと「時給500円ぐらいなんだしまぁ教育が終わったら賃金上げるってことで」と構えている2社ならどちらの方がまともな教育を実施しそうであろうか。
それはない。先に述べたように正社員の給料を下げるというのは大変な苦労を伴うため、基本的に経営者は正社員の給与を上げたくない。クビにするのも難しいので、本人が辞めると言わない限り続くコストが増大していくなど経営者からすればたまったものではない。 なので雇った社員の給与は据え置きにしたいし、ボーナスで還元するからと嘯きながらだましだまし進めたい。そして経営者は従業員が転職をそうそうしない(できない)とも思っているので、給与が上がらなければ転職してやります〜という脅しもあまり効果がない。本当に転職された時にしまったな、と思う程度である。
基本的にサラリーマンが給与を上げるには、1. 上げるに足る実績を作る 2. その実績をレポートラインに対して強くアピールする 3. 無視できない定量的な成果と定性的な理由を作る 4. その上で会社に金がある、というステップが必要だが、どんなレポートがあがっても4の「今は金が無いからいつか還元するね」は倒産するまで言える。なので日本企業において昇給というのは勤続年数による「そろそろ上げないと真剣にやばそうだな」程度のタイミングでしか実行されず、その上昇幅は概ね入社時の給与によって決定するため、最低時給が下がればそれだけ全体の昇給幅も下がると見ている。
最低時給が上がった程度で社内IT化などが成功できるような先見性や判断力のある企業はすでにIT化なり機械化なり進めているだろうから、最低時給による影響はない。その雇用カットは起こるべくして起こる。あったとして中小が人件費向上に伴ってなんとかしようとIT化を進めようとして失敗して無駄金失う程度のことしか起こらない。結果、ファジーな入力でも何らかアウトプットしてくれる人間の方が便利なのでひーひー言いつつ人間を雇うことになる。
なので時給1000円だった仕事が時給1500円になる以上の変化は起こらないだろう、と思う。あるいは1500円になることで生活に余裕が出るとしたら、アルバイトの人手不足などが起こる可能性はあり、むしろ失業率の低下に寄与するのではないか。
思いつくまま文を打ったので読みにくければ申し訳ない。苦労して読んだのに大したことは書いてなかった、と言われても申し訳ない。
経営に携わってきた中で思うことは、経営者というのはサラリーマンをやったことがないか、サラリーマン時代の記憶が消えているとしか思えない出来事や言動が多く、こいつらは果たして自分と同じ人間なのだろうかと感じるシーンが非常に多い。そして、多くの経営者がそうなってしまう理由もなんとなく理解できてきている。
経営には決定・判断を必要とされるシーンが多く、逆に手を動かすとか実作業めいたものを行うことは経営者がやるべきでないと教えられることが多い。なので、営利活動において最も気持ちいい「決定を下す」、という瞬間と俺はこんなにもお前らや会社のために考えて悩んでいるのに、という判断のストレスが相まって、会社と自分を切り離して考えられなくなっていくように思う。だからこそ会社の金を不当に多く得ようとする労働者が泥棒のように感じられるし、自社の事情を顧みず最低時給をせーので上げるなどという施策に対してはつよい怒りを覚えるだろうと思う。
最低時給向上反対という意見にも価値があるし、元増田の危惧するところが一概にすべて問題ないと言い切れるものではないと思いつつ、こういう考えの経営者もいるのだという一例程度になれば嬉しい。
前から言われてるけど時短営業って意味ないですよね、そうじゃなくて「入場する人数制限」と「換気の徹底」ですよね。むしろ時短することで期間的に短時間のうちに人が密集してしまって本末転倒っていう。20時以降も営業してる飲み屋に人が密集してたり。
科学的妥当性のより高いものが、政治的意思決定にまで届いてない。そんな状況に見える。
でもそれがようやく届いたのか、飲食店全店舗に立ち入りチェックするそうな。
「まん延防止」飲食店見回り 5月11日までに約10万8000店 https://www.fnn.jp/articles/-/171975
そんな短期間にスケジュール組んでるってことはカタチだけだろうけど・・・。CO2や換気扇の流量といった定量的なチェックではなく、やってる感の定性的なものに過ぎないだろうが、それでも微妙に1歩進んでるのかもしれない。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
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あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
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あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
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なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともと赤木智弘氏がフリーターという就労状態をもとに立ち上げた切り口で、基本的には「属性弱者派」のうちの
「経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
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色々とコメントをいただけたのでいくつか返信してみよう。
まず、私をいわゆるネトウヨだと思い込んでコメントしている人がけっこういるみたいだが、私は自分をネトウヨとは思っていないし元の日記も徒らに日本アゲをするような趣旨は一言も書いていない。最初にも書いたが日本の男女格差が酷い(森元首相の例のコメントのように)のは痛感しているしもっと男女平等が実現されてほしいと思っているくらいには自分をフェミニストと思っている。日本の人種・外国人差別がマシだとも決して思っていないし、ネット上の中国・韓国人への誹謗中傷は断じて容認しない程度には自分をリベラルだと思っている。
人種の坩堝のような国から、単一民族の国まで、男女よりも形態にバラつきがあるから単純なランキングは難しいのかも?大和民族と、在日外国人や、その他の民族とのギャップがフィーチャーされるのは良いと思う。
ありがとう。確かにこの辺を見ても民族・文化的多様性は本当に国ごとにバラバラらしいから(日韓あたりは世界的にみて非常に同質な国家らしい)、定量的な指標を作るのは難しいかもしれない。
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_ranked_by_ethnic_and_cultural_diversity_level
それでも定性的には何らかの評価はできるだろうし、不完全でもまずは何らかの横並びの指標で世界を測ってみるのが大事だと思う。指標は後から批判を受けて改善していけばいいし。
なるほど、ではある。しかし男女というのは理屈上はどの国でもほぼ半々なわけだ。人種とかで区切ると国によって多様すぎる。アメリカは人種別のいろいろな統計は出ていて、ひどい結果になっている。
男女はほぼどの国にもいますが多人種はいる国とあまりいない国があるから難しいでしょう。 あと欧州やアメリカは人種差別の多い国というより人種の多い国だと思うんだけどどうよ
男女はどの国もあるというのは確かにそうだなとは思う。一方で、LGBTのような性の多様性まで考慮したら本当にどの国でも同じと言えるのか。また、人種・民族・文化の多様性は国ごとというが、これだけグローバル化が進んでいてどの国民国家も一国では成り立たない世の中で、安易にこうした試みを諦めるのも勿体ないとも思う。どんな国も(日本でさえ ※上のWikipedia参照)何らかの人種的多様性を抱えてて社会的問題を孕んでいる中で、こうした指標を作る意義はあると思う。男女格差の指標だって、20世紀来女性の地位が見直されて社会進出が進む中で出てきたものだし。
あと欧州・アメリカは、人種の多い国だけど同時に人種差別も多い国だと思う(でなければBLMみたいな運動が注目されるはずがない)。一度でも欧州のどこかに旅行に行ったことがある人は、あの独特の硬直した社会の雰囲気を知ってるんじゃないかな。アジア人としての居心地の悪さ。それはCOVID-19の前から変わっていない(今はさらに酷くなっている)。あと欧州人のアフリカ・アラブ系への見下し方とかは酷いよね。以前、欧州の同僚とイタリアのミラノを観光していたときに私は何気なくアフリカ系の人たちに近寄ってしまったのだが欧州人の距離のとり方は凄かった。カリフォルニアから来たインド系の同僚は、ベルリンでフードを目深に被って顔を隠しながら歩いていた。警戒していたんだと思う。
ちゃんとジェンダー不平等指数は22位、ジェンダー開発指数55位、人間開発指数19位とかそういう公平な報道をして、最上級国民ダボス会議で知られる「日本は遅れている」プロパガンダをやめることが先決だと思うが。
公平な報道を、というのは本当にその通り。一方で、ここのコメントでさんざん吹き上がっているように日本社会にまだまだ改善の余地があるのも事実なので、そこは粛々と改善していきたい。
実際に分類された結果「男女差別よりはずっとマシだがら男女差別を放置する言い訳には使えないが欧米を言い返すのは不可能レベルに充分酷い」って出たら、ウヨミソが発狂しそう。
「人種差別・民族差別指数」なるものがあったとして、永住権をもつ外国人の地方参政権すら認めないジャパンはやっぱり差別大好き国家になることは目に見えてるんだが。
冒頭でも書いたけど、自分はネトウヨではないし日本アゲしたかった訳でもないから、もし客観的な指標で日本が低い結果になったらそれはそれで粛々と受け止めるだけだと思う。あと仮にそんなランキングで日本が上位になったからといって、今のネット上での人種差別的な言動は断じて許容しないし、日本社会の大きな問題であることには変わりがない。上のコメントが私にではなくこれを読んで曲解した「ネトウヨ」読者へ向けての警句だとしたらいいが、元の記事には「日本ガー」みたいなことは書いてないはずなのでネトウヨだろうが誰だろうがもう少し丁寧に読んでほしいなとは思う。
外国人の地方参政権云々については、人種問題というよりは移民政策とかもっと政治的な各国の判断だと思うのだが、その分野は詳しくないのでこれ以上はなんとも言えない。
人種格差は、フランスのように「仏市民自体が一つの民族であり、人種を想定するのは差別の温床」という国や、ミャンマーのように「あれは国民ではなく移民」と言う国もあり難しいのよ。逆に統計とってる代表格は南ア
南アフリカは確かに過去に苛烈な人種差別のあった国だから自浄作用的にそうした統計を取ってるのは理解できる。国々で人種・民族の捉え方が違う、というなら男女の問題だって各国で伝統的に扱い方が違うだろうし、とくにムスリム国家では宗教と結びついたナィーブな問題でもあるだろうから、難しいと言っていたら何もできないのではないか。
人種差別ランキングというか評価付けならあるぞ、日本は最近それで評価下がった 理由は外国人労働者へのブラック労働。さらに下がると貿易に影響するからヤバい状況らしいよ
あるよ。なんでないとおもったのか。
既にあるんだとしたら私が単に不勉強なだけなので、ぜひ教えてほしい。タイトルだけでも教えてくれればあとはググれるので。
こういうのでなくて?ランキング形式ではないけど。https://www.google.com/amp/s/www.cnn.co.jp/amp/article/35122505.html まぁアジア系が最大で開いてるので、増田の願望はかなわない臭いけど。
調べてくれたのはありがたいが、これはランキング以前に米国内での話だよね? あとアジア系の格差が最大というのは米国内でアジア系人種への扱いが二極化していることを示すだけで、アジア系社会内で差別が最も激しい訳ではないでしょう? ここから逆に読み取れたのは、米国ではアフリカ系やヒスパニック系、ネイティブ系は逆に社会で固定的に差別対象とされていて、一方アジア系は貧しい階層に押しやられている人たちもいればヨーロッパ系同様の裕福な階層にも入り込める、ということかな。
国連の人種差別撤廃条約に基づく人種差別撤廃委員会による日本政府に対する条約の実施のための改善勧告を見てみよう。ジェンダー関連以外もてんこ盛り。本邦の人権絡みの惨状は男女差別だけじゃないよ、大丈夫だ!
これも元の日記を日本アゲだと勘違いしているコメントだけど、日本に改善勧告してくれるのは大変結構なんだけど、どちらかといえば同じように欧州や米国などにも人種差別の問題をもっと勧告しようね(してるならその報道を見たいね)、という話。それは日本のためじゃなくて世界のためにね。