はてなキーワード: 教授とは
日本でも中国の報道は多いが、気になるのは技術に関する情報だ。
おそらく報道が少なすぎて、どれくらいのレベルかも判断出来る状況にない。
中国は最近凄いよね、という感覚を持っている人はいると思うが、具体的な中国企業名をどれだけ挙げられるだろうか。
米国に輸出禁止された企業となると米国メディア経由で日本でも翻訳されたのが報道されるが、それ以外の企業はどうだろうか。
中国初のWebフレームワークといった、比較的、日本のネット住民にもアクセスしやすい情報も入ってこない。
中国の大学に日本人研究者が雇用されている、といった報道はされるが、中国の大学でどれくらいのレベルの教育がされているかといった情報は出てこない。
英語の技術書は、まだウォッチされているが、中国の技術書はノーマークだろう。
(中国での技術書の新刊をチェックした人は殆どいないのではないだろうか)
論文を書いている人は、中国初の論文が多くなっているので、増えているなという感覚はあるだろうが、どの教授のグループ出身の人達がレベル高いといったところまで追えてないはずだ。
なぜ気にしているのかというと、今後、米中どちらにも振り回されることになるわけだが、中国の技術状況をキャッチアップできずに黒船来航にならないだろうか。
中国を捉える時にややこしくしているのは、レベルが低いものから高いものまでゴチャまぜになっていることだ。
Aliexpress経由で輸入する人は、安くて低い物に注目し、日本にも入ってくるのでおそらく適切にキャッチアップ出来る。
問題は中国から他国への輸出禁止と判断されるようなレベルの高いものだ。
こちらは書籍などからどれくらいのレベルに到達しているのかを判断するしかないのだが、おそらく出来ていない。
その噛み合わなさに強い違和感を感じていたけど、メロンダウトの記事を読んで、その違和感が決定的なものになった。
https://plagmaticjam.hatenablog.com/entry/2021/04/05/093629
フェミニストが求める女性の政治家や管理職比率の是正と、弱者男性が訴える結婚や仕事での救われなさの救済とは、雑に恋愛が~と言って同じテーブルに乗せていい物じゃない。
だが、いずれも第三者が他人の選択を強制することは許されないという一点でのみは同じだと考える事も出来るだろう。
現状の女性の管理職比率を是正しようと思えば、アファーマティブアクションのようなことをしなくてはならないだろう。
アファーマティブアクションというのは、アメリカの大学で黒人の学生が白人よりもアジア人よりも入学しやすくなっている、という有名な不公平の権化だが、社会的には
「黒人は差別の歴史によって文化的な背景から家庭において十分な教育を受ける機会に恵まれないケースが多くみられる。黒人が白人と同じ得点をテストで獲得するには、より多くの努力を必要とする。」
なんて言って正当化されるわけだ。
現在においては、貧しい白人学生は、豊かな黒人学生よりも幼少期の学習環境にハンデを背負っているはずで、もう黒人優遇にたいして意味はないと思うが、
アファーマティブアクション自体、アメリカにおける黒人奴隷の歴史等を考えれば強く異議を言えるはずがない、という強制力のある不公平で今や誰も抗えない。
だが、そんなことを言ってる一方で、同じ基準で選べば楽々とテストをクリアするアジア人学生には通常より高い壁が与えられている。
こんな試験に公平も糞もないんだが、大学は自分たちの意志で自分たちが必要とする学生を選ぶし、その基準は選考者である大学が定めるものだと考えれば
ちょっと前に医学部の試験で女性は合格しにくくなっていた事が問題となったが、それも同じことだ。
「現場は、より体力があり出産などで離職しない男性医師を求めている」
という理由で、選考者である大学が恣意的な選択をしたに過ぎない。
医師の数に対して異様に多い病床数によって医師の過重労働が続いている事と、医師の数が充足してない地域があるという医療行政上の問題を、現場が選考の基準でいなそうとしてるというだけにしか俺にはみえない。
これに対して女性に対する差別だ、などと吹き上がる向きには、黒人も白人も全く同じ基準で選ばれるべきだと思うのか?と問いたい。
医療現場が男性医師を求めているという理由と、歴史的な理由で黒人は環境にハンデが残っているという理由
どちらも選考する権利を持っている大学が、試験結果に加えて加味する理由としては、十分に理解できるものだし、誰かにとっては不公平だと感じても、納得しておくしかない。
同じ様に、弱者男性が女性に選ばれない。女性は下方婚をしない、なんていう非難も、女性には自分が好きになる相手を選ぶ自由がある、という一点で考えて意味がない。
全ての人間に、自分が好きでもない人間とは結婚しないですむ権利はある。
人事考課が同程度の男女がいれば、ちょっと劣っても女性を積極的に管理職にしろ。
成績が許容範囲内であれば、ちょっと劣っても黒人を積極的に合格させろ。
年収学歴などが近しければ、より恋愛弱者の経験に乏しい男を伴侶に選べ。
俺から言わせれば、どれもこれも同じで、どんな理屈で正当化したとしても、ただの迷惑極まりない押し付けに過ぎない。
女性が、同じ年収のイケメンとKKOが選択肢にある中で、KKOを選び取らされれば人権侵害だと荒れ狂うと思うし、それは応援したくなる怒りだが
大学教授が、優秀なアジア人と成績の劣る黒人とがいて、成績が劣る黒人学生を研究室に当てがわれて怒ってはならんのだろうか?
俺はどっちも、本来は選べたベストな選択肢を不当に奪われたという理由で、怒っていいと思う。
弱者男性が言う不平等ってのは、要はこういうことなんではないのか。
女性は女性であると言うだけで、アファーマティブアクションによって有利にすべきだと、能力もないのに社会における競争相手である男に強制しようとする。
ならば、女は恋愛や結婚において、魅力もない弱者男性を積極的に選ばされるとしたら、どう思うんだ?と、こういうことなんじゃないのか。
女性は歴史的に不当な扱いを受けてきたら、そもそも競争の減資となる力がまだまだ男に劣るし、そういった偏見が社会にある。
多少は強制しなくては社会は変わらないと、フェミニストは叫ぶ訳だが、医療の現場に男性を必要としてる病院にとっては迷惑でしかないだろうし
女子高が多すぎるがゆえにやむなく公立高校では男子学生を増やすしかなかった学区の担当者にとっては、怒りすら湧いてくる存在だろう。
弱者男性側の理屈を見ていると、自分の境遇に対してはとっくに諦観を持っていて社会に対して救えと言いいたい気持ちもないが、
お前は男だ自助努力が足りないだけだと、弱者男性を踏みつけながら、能力がなくても管理職になったり救われるべき存在だと主張してるフェミが目に余るだけなのだろうと思うよ。
そんなことを言うなら、まずは弱者男性に女をあてがってみろ、と皮肉もいいたくなるってもんではないか。
女性の管理職比率だなんて言っても、他社にそれをやれとさかんに報道したがるメディアからして、女性の管理職比率は低い。自分たちですら使えないと分かってるものを押し付けるのは不条理すぎるだろ。
フェミニストの皆さんは、不公平で他者に不利益を押し付ける社会的正義を、一緒になって社会に押し付けて抑圧しようと、弱者男性を誘ってみてはどうだ。
前提として、以下を読みました。
1. 元記事 https://nuc.hatenadiary.org/entry/2021/03/31
2. chokudaiさんの返信 https://chokudai.hatenablog.com/entry/2021/04/01/115755
3. nucさんの謝罪(?) https://nuc.hatenadiary.org/entry/2021/04/02
ふだんはインターネットのあれこれについてROM専ですが教育と教育倫理に携わる者の端くれとして3の記事に対し、このような方が教育を大声でかたることの危険を感じたため筆をとった次第です。
私は教員→ソフトウェアエンジニアとして数社→公教育ではないとある教育機関で勤務、といった経歴にあり、大学で学ぶ程度の教育学と小中高領域の教育に関しては多少通じています。ちなみに務めた会社にGoogleは含まれず、競技プログラミングについてはソフトウェアエンジニア時代にちょっとかじった程度で歴史やコミュニティに詳しいわけではありません。
1の記事についても賛同・異論含めていろいろあるのですが、そちらは各個論点についての意見が異なる程度の話ですので割愛します。なお、両者の知り合いでもないので通りすがりによるネットの怪文書程度の位置づけで結構です。
いきなり教育の話から逸れて恐縮ですが、謝罪慣れしていない方がやりがちな失敗がいくつもあり、謝罪文として看過できない点をいくつか指摘します。
教育哲学・児童心理などを学んだり活用する立場にある私にとって、トラブル対応や謝罪について考え実践する機会は山程あるのでその経験から思ったことでもあります。
他人のためを思ってやったことが相手に対して失礼だったとき、傷つけたとわかったとき、「そんなつもりはなかった」と言い放つことがどれほどひどいことか、私は見てきました。
ハラスメントやそれらにまつわる謝罪で最も悪手の1つです。間違えた側にできるのは一切の言い訳なく謝ることです。
https://note.com/tm88817/n/ne5025239f31a から私が肝要と思っている節を引用しました。
この文章がタイトルに示されるような謝罪文であるならば、この一点においてすでに重大な間違いを犯しています。
余談ながら、謝罪の本質を中学生ぐらいの子どもにそのように教える機会があります。経験上、成績がよく普段は問題を起こさないが内実プライドが高く誤り慣れていない子どもは「そんなつもりはなかった」「相手が勘違いした」といった言い訳をする傾向にあります。私の個人的な体感ですので一般化はできませんが。
これについては、意図せず失礼なことを書いたとお詫びしたいと思うと同時に少し背景の説明と本来の意図をご説明させてください。
先述と同様です。失礼なことを書いたと自覚しているなら本来の意図の説明は不要です。
背景と意図を説明するのは「自分に過失がないと確信しており、誤解を解くために誠意を尽くす」場合です。過失が誰にもなくても誤解やすれ違いというのは生まれるものですから、そのときは真摯に伝え直すのみです。
私は、このけんちょんさんのために仕方ないと思って記事を書いたのですよ。本当に面倒で書きたくなくて、他に書くものもあり、ツイッターで書こうかなと宣言して自分を鼓舞までしたのに、2ヶ月以上かかりました。
nucさんがchokudaiさんを不快にさせる文章を書いたことについて謝るために、矛先を向けさせるような形で第三者を巻き込む必要もなければ、あなたの事情を説明する必要もありません。
また、自分を鼓舞までして2ヶ月以上かけて書いた事実があったとして、謝罪を受けた側に何の意味があるでしょうか。過失を避けるように努力したのであれば法的にも情状酌量の余地はありますが、「努力をしてやったことだから引き起こしたことの罪が軽くなる」、なんてことはないのではないでしょうか。
言いたいことはたくさんあるのですが、「教育者として避けてもらいたいこと」に焦点を絞ります。
結論だけ言うと、これだけの悪手を悪意なく行う人に、教育者として後進の育成に関わってほしくないと感じました。成功者だけでなく被害者が生み出されることを危惧しています。直接指導でなくとも、技術力を活かして別の形で関わって頂くこともできるのではないでしょうか。
そりゃそうじゃないですか、「競技プログラミングをする」という表現は当時はなくて、「プログラミングコンテストに出る」と言っていたわけです。だから、競技プログラミングといえば、自分たちが大学生の頃の集まりを指すわけです。
発端となった1の記事では田舎初段といった言葉を用い、まさにそのことをご自身で説いておられたかと思うのです。
特に後者の「競技プログラミングといえば、自分たちが大学生の頃の集まりを指す」は少なくとも私にはまったく自明ではありません。ある程度客観性を持った事実なのかどうかを確認するためGoogleで「競技プログラミング」について検索をかけてもnucさんと同じ解釈を見つけることはできませんでした。
5歳くらい歳が離れると一部の言葉が通じなくなることがあるのは、少し前に「アンチ」という言葉で強く実感したことがあります。これもそうなのでしょう。
唐突に、。穿った見方をすれば、今回のコミュニケーションの失敗の原因を年齢差に帰しており、自身には過失がないといった主張に読み取れます。
歳が離れると一部の言葉が通じなくなることは、年の離れた相手の教育に携わっていればどうやってもわかることです。
ですがこれを理由にしてこちらから対話を閉じたり、「言ってもわからないだろう」といった態度をとるような方に教育を声高に語っていただきなくないです。
私がかつてドラゴン桜に対して抱いた印象を思い起こさせます。東大に入るのは「かんたん」、かんたんには但し書きのカッコが付きます。
ただし適切な素地があり適切な対策を十分かつ継続的に行えた場合、です。場合によっては家庭からの適切なサポート、障害やハンディキャップを持っていないこと、も条件に含まれます。
1の記事で以下のように述べられており、大学院に行くことが人生の選択肢にない人の存在にショックを受けたとありますが、そのときに培われた想像力を今一度働かせて頂ければと思うのです。
まさか戦後生まれで大学院に行くことが人生の選択肢にないことがあるとは思わなかったので、私は本当にショックでした。30を過ぎるまでこれにまったく気が付かなかった自分自身への怒りで、視界がおかしくなっていました。
とある医学部教授から「読んだよー。文章はいいけど、お前が卒業生をひょいひょい適当にエンジニアにすると教授会で問題になることがあるから、するんだったら出来の悪いのにしてよね。いいね。ほんと頼むよ。特にそこにいる生徒会長みたいなのはだめだから。」ということなので、今後は、あらかじめ「出来が悪いかを問い合わせる」約束をしてきました。
ちょっとした怒りが湧きました。
今後nucさんに面接対策を依頼し、OKをもらえた学生は医学部教授が出来が悪いと認定した医学部生になる、ということとなります。
このような文書を公開し、残し続ける限り、nucさんの生徒・元生徒が目にする可能性があります。
教え始める前にせよ後にせよ、もし私がnucさんの生徒としてこの一文を見たらと思うと激しい動悸がします。
この一文をどんな思惑があって追加したのかわかりませんが「諸事情により今後は医学部生の生徒を取ることを控える可能性がある」程度で良かったのでは。
「かわいそうなことに、りりあんさんは、いかれた3人の模擬面接官が今まで何をやっていたんだと慌てふためいたことにより、2週間のリアルタイムアタックを宣告され、無理やりクリヤーさせられました。コスパがよかったですね。でも、こっちの胃までおかしくなるから真似しないでね。」で終わるのですが、これだけ書いてもぜんぜん広まらなさそうですよね。そこに、フィロソフィーと教育関係の問題意識の話を突っ込むとこうなります。
1の記事における教育関係の問題意識の話については首肯できる箇所もあり、志の高い方という印象を受け共感もありました。しかしながら1の記事で持ち込まれた教育関連の話が、自身の記事を広めるための方便・道具であったことをここで暴露しておられます。
自身の教育論を手段として使われることは主張自体の価値や正当性を毀損するものではないですが、3の謝罪文の端々にあらわれる不味さから、教育を声高に語らせてはいけない方だという印象に修正されました。
特に教育と一言に言っても指す領域は広いことを認識されておられない点。アカデミックな領域についてはnucさんは私などより遥かに広く深い見識をお持ちなのだと思いますが、それが全てであるかのようには誤解されたまま教育問題をバズるための方便として喧伝することは事実認識を歪めることにつながります。
以上が教育関連で私が主張したいことです。
ツイッターを見る。タイムラインを見る。誰かが強い口調で怒っているのが見える。
何に怒っているんだろう。どうして怒っているんだろう。心なしかツイッタートレンドも常に怒っている。
長い間ツイッターをやっているが、このように誰かの怒りが毎日流れてくるようにになったのはいつごろだろうか。
どうしてなんだろう、なんでなんだろう。
怒っている人間を見る。実名でやっている国会議員、地方議員、大学教授、作家、新聞記者、そしてどこにいるかも何をしているかもわからない匿名の人たち。
特に実名で社会的地位がある人、実際に怒って、すっきりしましたか?
すっきりしたらよかったですね、あなたはもしかしたらうまくツイッターを使えてるかもしれません。
まあ、どっちにしろ公開アカウントで怒っている時点であなたの印象は最悪でしょうし私からすれば気持ち悪いでしょうが。
すっきりしない人、あなたはどうしてすっきりしないの?
どうして怒ってるの、理由は何?何をすればすっきりするの?
私は、あなたがずっと怒っている姿を見てとても気持ち悪いです。ブロックボタンを押しても見た記憶が残っているせいで気持ち悪いです。
別にあなたは私が気持ち悪いと思っているのは勝手で見えるところにいる私のせいだと思っていても、公開の場で怒っている人間を快く思う人間はいるだろうか。
まあもしかしたら同じ怒りを持つ人間だったら快く思うのかもしれませんが、大体の人間は快く思ってないし、たぶん気分悪くしますよ。
そして、怒ってわざわざ他人に突撃する人間、あなたは最悪です。人間の屑です。
何がしたいんでしょうか、その人は犯罪者か何かでしょうか。
その人に何を求めているんでしょう。
集団で怒られるのが怖くて、みんなアカウント消しちゃうし非公開になっちゃうし、悲しい田舎ですねツイッターという場所は。
そういや、非公開ツイートも誰かが晒し上げて燃えちゃいましたね。たぶん、日常を共有できる居場所はツイッターにはもうないでしょう。
どうして怒って人を追い詰めていることが自覚できないんだろうか。
→ Twitter で医師を拾ってきて Google のソフトウェアエンジニアにするだけの簡単なお仕事 - 白のカピバラの逆極限 S.144-3
「超優秀な人間が、地方の劣った人間を見下すな」という趣旨だ。
元の文章に「田舎初段」という言葉が出てくる。素人よりは段違いに上手だが、その道のプロから見ると桁違いに下手、という真ん中を指して揶揄した言葉だ。頂上感が自尊心のコアになっている時に尊大な田舎初段を見ると、本物はどういう事か教えてあげるために、ちょっと捻ってみたくなる気持ちはよく分かる。
 ̄ ̄
聞く方は羽生名人が田舎初段を捻り潰すのを見るような後味の悪い感じがしてしまうものだ。
羽生名人はそんな事をしなくていい。あなたの優秀さはそんな事をしなくたって周りの人に伝わっているから大丈夫ですよ、と言いたくなる。
まったく低レベルの曲解なので、呆れてしまう。元記事のブコメも、同趣旨の理解が多いようだ。しかしそれらはすべて誤読である。では、正しくはどう理解するべきかを示そう。
「田舎初段」という言葉の意味は、「井の中の蛙、大海を知らず」というのとほぼ同義である。ただしそれに「自惚れ」「過信」という意味が加わる。
そして、その言葉で示されるのに典型的な事例は、「素人よりは段違いに上手だが、その道のプロから見ると桁違いに下手、という真ん中」ではない。つまり、「二流」や「一流半」ではない。
では何かというと、たとえば菅首相だ。
・ 自分はすごく頭がいいと自惚れる。
最後の一点に限っていえば、はてなーの好きな「トンデモ」という用語に当てはまる一種だ。しかも、自惚れの度が強い。
こういう人間が、周囲の反対を押し切って、「緊急事態宣言の解除」とか、「GoTo イート」とか、「ふるさと納税」みたいな自己流の方針を貫徹する。そして、そばにいるエリートが反対すると、そのエリートを左遷する。他人の言うことを聞かないのが絶対的に正しいと信じている。
ここまで言えば、わかるだろう。元のブログ記事は、「二流の人材を侮辱している」のではない。「一流の人間たるもの、田舎初段になってはいけない」というふうに、一流の人間に向かって「戒めの言葉」を示しているのだ。
なにかの分野では一廉でも別分野では田舎初段に容易になるということです。
学者とかでも、他分野に友人が十分にいれば、そう踏み間違えないが、孤独ならばどんどんおかしなことを言い始めます。
これを止められるのは、かなり簡単に狂うことを意識していることと分野を超えた人間関係があることが揃っている場合くらいでしょう。
普段から様々な分野の学者と話し合っていると、およそまともではない専門家の意見がネットで飛び交っているのがよく分かります。
ここでは田舎の二流人間が批判されているのではない。一流の専門家が批判されているのだ。どう批判されているかというと、一分野に偏ってタコツボ化した専門家だ。そういうタコツボ化した専門家が、
「なにかの分野では一廉でも別分野では田舎初段に容易になるということです。」
の事例となるのだ。
たとえば、Wikipedia の英語版にも掲載されるような、非常に優秀なプログラマーがいる。
→ https://en.wikipedia.org/wiki/Kohsuke_Kawaguchi
こういう超優秀なプログラマーでさえ、日本語をまともに理解することができず、見当違いな批判を書いてしまう。自分の分野から、ちょっとはみ出ると、まともに理解することもできなくなってしまうわけだ。これこそ、元記事で「あってはならない事例」として示された例だ。
――
元記事を「超エリートの自慢」「頂点に上り詰めた人が他人を見下す」「狭い領域で頂点に立って自惚れている」というふうに受け止めるのは、勘違いだ。
では、どう受け取るのが正しいか?
元記事では、普通の人々は、まともに視野に入っていない。それらは言及外であって、良いとも悪いとも言っていないし、見下してもいない。もともと視野に入っていないのである。
視野に入っているのは、エリートクラスの人々だけだ。そして、そのなかで、どういうふうにあるべきかを考えている。
そのとき、彼自身は、自分を「エリート」とは考えていない。むしろ「エリートの中の落伍者」と考えている。元記事のそのまた元記事になった人もそうだが、「東大理3から、プログラマーに転じた」という経歴らしい。これは、医学の道でも、プログラマーの道でも、どちらでも大成しなかったということだ。筑駒や理3の卒業生の中では、(やや)落ちこぼれ組に入る。
はてなー中では、「グーグルに勤務して年収 3000万円」というのは、「凡人社会の頂点にいる」というふうに見えるのだろう。だが、筑駒や理3の卒業生の中では、医者としてもプログラマーとしても大成しなかったというのは、(やや)落ちこぼれ組に入るのだ。
ちなみに、私の知人(同級生)の多くは、国立大学教授や理研の研究員として大成している。世間的には超一流の肩書きを持つ。そういう仲間と比べると、今回の人々は、頂点どころか、(やや)落ちこぼれ組というしかない。威張れるのは、年収だけだろう。(公務員研究者は、年収が高くないので。)
元記事を書いた人や、そのまた元記事を書いた人は、非常に優れた才能の持ち主だ。(後者は高校時代に数学オリンピックに出たらしい。)しかし、その生まれ持った才能を生かすことには失敗しているのである。才能は素晴らしいが、才能を生かすことには失敗したのだ。
そして、そのことを、私は批判しているわけではないし、侮辱しているのでもない。「人生の選択肢で道を間違えたね」と感じて、「可哀想に」と憐れみを感じるだけだ。「私も道を一歩踏み間違えたら、こういう無駄な人生を送っていたかもしれない」と感じて、自分の幸運を感じることもある。
(蛇足)
たぶん、道の選択を間違えた人と、成功した人との違いは、周囲の人々の影響の差だろう。周囲に素晴らしい人がいれば、道をあやまたずに、正しい道を進むことができる。そして、そういう機会のなかったエリートには、同情を禁じえない。
私はグーグルのプログラマーなんかにならないで済んだが、それは本当に幸運だった。(そしてそれは、人生の最初に、素晴らしい女性との出会いがあったからなんだ。そしてまた、高校時代に、素晴らしい教師を知りえたからでもある。それは優しい親切な教師ではなく、星一徹のような鬼教師だったが。)
もう、ほんとこれ。
全国規模の研究用DB構築するのに、管理職が懇意にしてる教授の応用情報の博士課程後期まで出たお偉いさんをコネで入れたのだが、SQLの結合は理解できないわ、WHEREとGROUP BYの違いが分からないわ、他部署から問合せが来ても誰かに聞かないと何もできないわ……。
正直、こんなんばっかり。
公的機関なので「公募」で競争試験を実施して採用する規則だが、応募条件を特定の人物だけに合うように作成して、他の応募者が入れないようにする。
来るのは大抵、管理職の学会の繋がり、大学院の後輩、懇意にしている教授の弟子、とか。
まともな人もいるけど、そうじゃないのもいる。半々くらい。
外部からの流入を完全に拒んでるから、そりゃあ、改革も糞もない。
技術なんてしらないものだから、仕事の割り振りも効率も悪いこと。
主任クラスのデータ抽出・加工に強いエンジニアがいるが、Accessが多少使える程度である。
上の人間が手を動かした経験のない奴ばかりだから、部下の業務の実態が全然把握できない。
念のため言うが、これは、実話だ。
IT未経験だけど興味あるっていう人が、管理職ポストで入ってくる。
当然、縁故で。
「招へい職員」という任期付ポストもあるはずだけど、無期雇用のポジションになぜか入れてる。
いや、経験者呼べよ。。。
だって、専門職のくせしてITの経験ない奴を呼び込むものだから、
院卒のプライドがあるのか、公務員というプライドがあるのか、エンジニア未経験だけど勉強だけはしっかりしてるからプライドが高く、外注業者にやたらとマウントを取りたがる。
自分のほうがよく知っていると誇示したがる。
頑張らなくていいと思ってる奴、多いね。
同上。
個人に対する評価制度が形式的にしか行われていないことも関係している。
現場にいるくせに。
ヤバい奴ばっかだわ。。。
DXとか口で言うだけでは絵に描いた餅になるぞ(もうなっているが)。
地方私文(1敗)
浪人(2敗)
コミュ障(3敗)
クソ雑魚国家資格は持ってるけどその資格を使う職には就きたくない(4敗)
競争が苦手(5敗)
そもそもやりたいことがない(6敗)
バイトリーダーじゃない(7敗)
3月はゼミの教授の言うことに従って資格関連の業界のES出してSPI受けて面接行ったけどさぁ、資格持ってても普通に意味ねえんだわ。やっぱ"人間力"よなぁ。5社受けて全部1次面接で落ちたわ。特に大企業ってわけでもないのにな。向いてないのはわかってんだから適性検査で弾いてくれや。
ゼミの教授にもキャリセンの職員にも〇〇さんはやればできる的な扱いされるけどさぁ、二十数年生きてきたら自分では分かる通り、やってこれやねんな。
そりゃこの地域では頭良い高校卒だし資格とかTOEICスコアとかまあそこそこ持ってるしGPAも高えのは確かだけど、そんなのマジでクソほども自慢にならんし、結局F欄やし、まずやればできる子は浪人なんかしねぇし3年の3月から就活始めたりもしねぇんよな。
分かってることは自己肯定感の低さとかやる気のなさとか自分の立場を踏まえてない冷笑的なスタンスとか自分自身の人生なのになぜか客観視してしまっていることとかで、それただの怠け癖のある社会不適合者なんよなーって。これが自己分析か?
自己肯定感の低さとかやる気のなさはまあ昔からなんで変えられないわな。
小中高と同じ部活やってたけどほぼほぼベンチだったんよな。まあ実際普通に下手だったんだろうけど、監督やらコーチやら同輩から決まって言われる「お前はやればできるのにな〜」というお言葉。
やってこれやねんな。
元々の能力値が低いんだよ。
まあ部活で言えば周りの自分と同じ状況の奴は必死になって監督にゴマすって試合に出ようとしてたけど。
それが「やる」ってことなんだろうかね〜とか、まず俗に言うエンジョイ勢だから試合出なくたって良いよなぁとか考えちゃってなんもせんかったな。
練習に監督が来たときだけ動きが1.5倍になる他の部員見てキモって思ってな。
そういうお前が一番キモいって話。それも分かってる(と言いながら多分分かっていないんだろう)。
「お前はもう少し媚びを売るようにしたら人生楽になると思うよ」っていつか友人に言われたな。
まあその通りだと思う。それすらも面倒くさいからやらんのやけど。
自己肯定感のなさは成功体験のなさ由縁とか言うけど、今のところ何したって成功って感じないしよく言われるたとえみたいに、朝起きれた偉い!とはならんのよな。
部活10年続けました!バイト3年間続けてます!←続けてるだけじゃん。惰性でしょ?
年間GPA4.0でした!←でもお前勉強してないしF欄じゃん?
資格一発合格しました!←特に本気になって取り組んだわけじゃないやん。クソ楽テスト受かって何になるの?
テストとかなら結果出て5秒間くらいは嬉しいけど、その後は自分にツッこまれて「ま、こんなもんだろうな」って気持ちになってしまうんよな。みんなそうかもしれないけれど。
こういうの見ると自虐風自慢というか、自己肯定感ないって言う割に自分のことを高評価しすぎてる奴に見えるかもしれないけど、そこんところはよくわからんのよな。
とまあ、話は逸れるわ就活には関係ないわ、クソみたいな駄文書いてる暇なんてねえんだし、とにかく考えたってどうにもならんのだから早く必死になれって話なんよな。
必死になれないのはクズだから。まず必死になるってなんなん?根性論じゃなくてやり方を教えてほしいんだよな。
まあでも、そんなすぐに人に頼ろうとするクズに就職先はありませーん。
どうしたらいいんだろう?わからん。誰か教えてくれ。
「男性にお願いだけど頑張って女の子誘って遊ぼ?」と発言した甲府市の幹部が「不適切発言」として叩かれた。ニュースはすぐリンク切れするだろうから下にコピーを載せておく(魚拓は取得禁止にだった。不適切なら削除する)。
個人の領域に関することを公の立場にある人が言及したというのがマズい、という趣旨は確かにそうだが、下記のようなデータを見て、そもそもこれは決して「個人」に帰着すべき問題ではないという認識もできれば増田諸氏と共有したいと思う。下記にあげるのは、国立社会保障・人口問題研究所(http://www.ipss.go.jp/)掲載の資料から作成した、「生涯未婚率」の推移の表である。
年 | 男性 | 女性 |
1960 | 1.26 | 1.88 |
1970 | 1.70 | 3.34 |
1980 | 2.60 | 4.45 |
1990 | 5.57 | 4.33 |
2000 | 12.57 | 5.82 |
2010 | 20.14 | 10.61 |
今日、ちょうどKKO議論の行く末も地獄、という論考もブクマに上がっていた(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gendai.ismedia.jp/articles/-/81804)けれど、それらの問題は全て上の表に集約されているのではないか。つまり*失われた20年で最も失われたのは男性の結婚機会であったという単純な事実だ。生涯結婚できない男性の数は50年で実に20倍に増えた。これは、2010年の若年男性が、50年前の若年男性に比べて20倍も努力していないことを意味するのだろうか? そんなわけがない。
やれ「草食化」だの「非婚化」だの、いい加減、若者自身に責任があるような議論を止めて、国はまともにこの数字と向き合うべきだ。「(さまざまな事情で未婚に追い込まれている)若年者に手厚い政治」をしてこなかったことが、ヒステリックにも見える今日の社会問題の根源となっている。仮に1990年を参考に、経済的な問題がなければ未婚を選ぶ率は人口の5%程度、と仮定するなら、2010年時点で実に男性人口の15%、女性人口の5%、つまり均して人口の10%が「金がないから非婚(KNH)」民だということになる。はっきり言って立憲民主党の支持者より多い。現在、陰謀論、狂ったミソジニーやミサンドリー、過激な排外主義的主張、根拠のない伝統主義、ネットイナゴ…………などに食い荒らされているこのKNH民を、正しく政治的に救いとる方法が求められているのではないか。
山梨県甲府市で行われた中小企業の合同入社式の中で、甲府市の産業部長が「なるべく異性と遊んでほしい。そうすれば少子化は少しでも解消する」などと発言しました。
合同入社式に来賓として出席した甲府市産業部の志村一彦部長は、仕事だけでなくプライベートも充実させてほしいという趣旨のあいさつの中で「なるべく遊んでいただきたい。遊ぶのも男性同士、女性同士じゃなくて、楽なんですけどね、気持ちとしてはなるべく異性と遊んでいただければと思います。そうすることで少子化が少しでも解消されると思いますので」と発言しました。さらに「男性のほうにはお願いなんですけど、ジェンダーフリーとか、男女共同参画とか言われていますけど、遊びに行くときには男性のほうから誘っていただければと思いますので」と続けました。
個人の自由である交友関係や出産、それにジェンダーへの理解を欠いた発言ともとれます。
志村部長は式の後、UTYの取材に対し「結婚を意識してほしいという趣旨だったが、不適切だった。
不快に思われた方にはお詫びし、発言については撤回したい」としています。
この発言について山梨英和大学の近藤弘教授は「交友関係や出産などは、個人の領域に関するもので、公の場で言及することは適切とは言えない。
固定的な男女観にとらわれず、多様性に配慮して発言することが重要」と話していて、男女共同参画やジェンダーについて正しく理解してほしいとしています。
[UTYテレビ山梨]https://news.yahoo.co.jp/articles/9138c85984db13fe89923800938e6e4417b61c3f より引用
*……女性の生涯未婚率が6倍以上上昇していることも、決してなおざりにはできない問題ではある。だが、50年前の数字は女性の社会進出がそれほど進んでおらず、今ほど選択の自由がなかった時代のものである(つまり結婚「したくない」のに「させられて」いた女性も多い)ということも踏まえれば、男性とは事情が異なるだろう。思うに、男女ともそこのバランスがとれていたのが「生涯未婚率5%前後」の1990年頃であって、まさにバブル崩壊によってそれがガタガタになって回復できない状況に突入していったのではないだろうか。
私は人の話を聞いてられないし、誰かと話してても急に興味を失ったりするし、決まった時間に人と待ち合わることは不可能に近いし、朝は起きられないし、夜も眠れないし、忘れものばかりするし、スケジュール管理なんて一度も成功したことがないし、ちょっと長い時間働くとすぐ倒れるけれど、それでもなんとかやっていけているのは頭が生まれつき良かったからでしかなくて、頭が良く生まれて本当に良かったと思います。
世にいうようなきちんとした努力とかも別にしていないまま、よく分からないまま、なんか大学に行くことになって、院に行って、院に行ったら教授に誘われて博士号を取れて、なんか頭良いことが気に入られて就職できて、頭良いことが気に入られて転職したりできて、本当に頭が良く生まれてよかったと思う。
エリートの人達ってすぐ努力がどうとか言うけど、私自身は実際には学術面での努力をほとんどしていないのでちょっと罪悪感がある。本当にただただ頭が良いだけ。偏差値は少なくとも努力が出来ることを証明するとか言うけど、私は兄弟や親戚に比べても全然努力していないまま彼等よりずっと高い偏差値の大学に行った。
ちょっと付き合えば分かるくらい私は頭が良いらしいです。若い頃は自分が頭が良いなんて気が付いていなかったので「なんでこんなこともやらないんだろう?ふざけているのかな?」とか思ってました。できないとかは想定の範囲外でした。
わんちゃん海外もあるし、テニュアトラックのいかんによっては、さらにはキャリアステップによってはもちろん転職せざるを得ない。
5年とか10年スパンの話になるから、その辺の転勤職とは訳が違うかもしれないが。
今でさえ遠距離なのに、結婚しても遠距離は耐えられないとのこと。
こっちだって嫌なんじゃ!でも最近のzoomやらの発達で、毎日ビデオ通話してて楽しい。
思ってたよりも会えてるし。
相手に転職してもらったとしても、こっちが転勤したら元の木阿弥。
同じ会社に入るのがいいのか?
むっちゃ好きだし、この人以外の結婚は考えられないんだけど。
はてなでは意外と話題になっていないようだが、アーツ前橋という公立美術館で作品6点が行方不明になる、という事件があった。
館長も辞任して一件落着かと思いきや、その後出た報告書で館長による隠蔽の疑惑が指摘されたり、その報告書に館長自らが反論したりして、泥沼の様相を呈している。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/23795
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/23803
一般の人にはあまり知られていないかもしれないが、アーツ前橋というのは近年アート業界ではかなり高い評価をうけている美術館である。
たとえばこういう企画展。
https://www.artsmaebashi.jp/?p=13991
堂々と掲げられた「本展のキーワード」の、「周縁性、ローカル、ジェンダー、福祉、ケア、老い、共同体、移民」というあたりが、この館の方向性を端的に示していると思う。
ざっくりと言ってしまえば、社会問題を扱う現代アートを精力的に紹介しつつ、ワークショップによって地域との結びつきを強めていく、というスタンスである。
個人的には、なんか優等生的だなという印象で、反感を抱かないでもない。
しかし、年々予算が削られ、文化政策への風当たりも強くなっている斜陽の美術館業界からすれば、「SDGs」的なアピールによって先端的な雰囲気を放っているアーツ前橋は、地方美術館のあり方として、ひとつモデルともいうべき存在であった。
その方向をカリスマ的にリードしてきたのが、2013年の開館当初から館長をつとめてきた、住友文彦その人である。
前橋市と館長、どちらの言い分が正しいのかは現時点でよくわからないが、すでに美術業界からは擁護の声も出ている。
アーツ前橋作品紛失の最大の原因は、予算、スペース等から、美術館が借用作品の保管場所として外部施設を使わざるを得なかったことにある。その状態を放置し問題に適切に対処してこなかった所管部署の文化スポーツ観光部及び同文化国際課に責任がある。これは専門職の館長ではなく行政職の職掌である。
スペース・予算の確保は行政職の仕事なのに、彼らはそれを怠っており、そのせいで悪環境に作品を置かざるをえなくなったために今回の事件が起こった、という論理である。
これは大局的に見れば正しいかもしれない。
ただ、美術の保管場所というのは確保するのに非常にコストがかかるので、無尽蔵に確保できるというものではない。
それに、少なくとも現状で保管場所がまともでないにもかかわらず、作品を預かることにしたのは、やはり学芸員なのではないか。
まともな環境に作品を置くことすらできないのであれば、そもそも作品を預かるべきではなかったはずである。
他館の学芸員からお話を伺いました。館の作品管理に問題があったと私も思います。それはすでに各所で指摘されており館長も認めているので、私はそれを前提としたうえで報告書の問題を指摘しました。それを館の問題を認めない発言と受け止めた人もいたようですが、それは私の発言の趣旨ではありません。
とはいえ、前橋市の報告書が住友文彦の責任を追及したように、加治屋健司が行政職の責任を追及するという構図には、結局のところ学芸員と行政職の党派性の問題なのではないかという感も否めない。
一般にはさほど知られていないかもしれないが、美術館の学芸員と行政職の人間は、仲が悪いのがふつうである。
なぜそうなるのかと言われると難しいが、技術職と営業職が不仲なのと構造的には同じであると思う。
つまり、理想を求める学芸員とコスト重視の行政職という図式で、利害が一致していないのだから、対立するのは当然なのかもしれない。
両者のいずれが力を持つかというのは、もちろんさまざまな権力関係によって決まるのだけれど、その勢力図を象徴的に表すのが、「館長が行政職か学芸員か」という問題である。
現状で言えば、おそらく行政職出身の館長のほうが多数派なはずで、その傾向は年々強まっているのではないかと思う。
現代アート畑の住友文彦を館長にしているアーツ前橋は、その意味でも稀有な存在なのである。
行政職出身の館長というのもバックグラウンドはさまざまだが、教育委員会などから引退間際のおじいちゃんがやってくることが多く、そういう人の99パーセントは現代アートなど興味も関心もない(のに反感だけは持っていたりする)ため、館長のくせに予算削減を推進する側に立ったりする。
今回の住友文彦退任にあたっても、後任に専門家を置けという動きが出ているのには、そういう背景がある。
後任に現代美術専門家を 「アーツ前橋」館長退任へ 芸術家が署名活動
https://mainichi.jp/articles/20210330/k00/00m/040/038000c
ところで、先ほど「まともな環境がないなら作品を預かるな」と書いたけれど、現実的にはなかなかそうはいかない事情がある。
まず、あたりまえの大前提として、美術館が持っている作品を捨てるということは通常ない。
現実にはゼロではないのだが、やるとなると相当の覚悟が必要である。
だから、美術館の作品は減るということはなく、ひたすら増えていくことになる。
加えて、美術品のほとんどは温度・湿度を厳正に維持した収蔵庫で管理しなければならない。
38度の真夏であっても、氷点下の真冬であっても、24時間365日安定した温湿度でなければならない。
当然これには莫大なコストがかかり、倉庫が広くなればその分お金もかさむ。
つまり、美術作品は増えていくのに、倉庫を増やすのは容易ではないのだ。
地方の美術館に美術作品を寄付する人々というのは、たとえば地域の小金持ちであるが、彼らはしばしばこういう考え方であったりする。
1. 蔵を掃除していたら、なにか絵が出てきた。
「収蔵するか」「捨てられるか」という二択しか、ここにはない。
売るとか、他の美術館を紹介したらどうか、と言うかもれない。
名の知れた人気作家だったら、そういう手もありうるだろう。
でも、蔵から出てくる作品の作者というのは、典型的にはこういう経歴の人物だったりする。
〇〇県出身。上京し美術学校で西洋絵画を学ぶ。卒業後に帰郷し、〇〇県立第一高校で美術教員として教鞭をとる。戦後は〇〇県展の立ち上げに尽力し、後進を育てるなど、〇〇県画壇の重鎮として活躍した。
こういうプロフィールの作家が面白い絵を描くのだろうか、と疑問に思うかもしれないが、まさにご指摘のとおりで、美術史の大きな流れからすれば、なんの意義もない作品であることがほとんどだ。
しかし、地元での功績というのは地域にとって何よりも大切なものであるし、なによりそういう「つまらない」風景画には、地元民の心をこのうえなく鮮烈にうつし出したような、ローカルであるがゆえの価値がしばしばある。
日本の都道府県のほとんどには県立美術館があって、そのそれぞれに多くの「凡庸な地元作家」の作品が収蔵されていることの意義は、そこにあるというほかない。
そのような作品は、まさに、「収蔵するか」「捨てられるか」の二択だったところを拾われてきたのである。
というわけで、いろいろ書いてしまったが、今回の事件は単なるカリスマ館長の不祥事という以上に、美術館業界の抱えるさまざまな問題が関係しているように思われる。
気が重い話である。
その他参照
https://www.city.maebashi.gunma.jp/material/files/group/10/hodo20210324_7.pdf
https://drive.google.com/file/d/1qQmOLCs2XI1VK9XzPgQpWyKlJZH809Yx/view
私は理系の男が性的な意味で好きだ。物理数学を愛する理系の男が物理への愛を込めて色気も素っ気もないような無味乾燥な教科書を書き上げたんだと思うとドキドキする。アメリカの生物の教科書とかに比べて圧倒的に分かりづらい不親切な記述。そのくせ書いた本人はとっても分かりやすいと思っている馬鹿さ。物理の教科書はとってもえっち。
【論文】
もう一回言うが私は理系の男が性的な意味で好きだ。若干社会不適合者な一面や、独特の言い回し、そして飛び切り有能な頭脳にきゅんきゅんする。だがしかし彼らの国語力は微妙である。ああ、ここもっと親切な言い回しがあるでしょうに。と読むたびに思う。しかし大切なのは親切であることよりも一意的であり誤読の余地がないことだ。よってそういう言い回しにならざるを得ない。という窮屈な枠組みの中で書かれたちょっと読みづらい文章、堅苦しい言葉選び、あ、この人普段はあんななのに論文だとこんな文章も書けちゃうのね、ってギャップ萌え。全てが愛しい。
理系の男が作るパワーポイントはダサい。学会用スライドから講義資料、メーカーのおじさんが出してくる資料までとってもダサい。色使いもおかしい。情報量を詰めすぎである。そういうところが私は好きだ。そもそも内容上コンサルみたいなスマートな資料を作るのは不可能である。目盛りと単位までばっちり書いたグラフを載せれば資料はダサくなる。ダサいが必要なものは全て揃っている。しかしダサい。だがまあそうとしか言いようがない気もする。実用上十分であるが見た目がヤバい、というのはなんともまあ彼らの存在を象徴しているようで、はあ、好きだなあ。と思いながらいつも見ている。
【授業】
頭のぶっとんだ理系の男が好きだ。教授なんてその最たるである。本人は一生懸命分かりやすい説明をしてるつもりなんだろうけど、全然分かんないよ。なんだお前。本人は分かりやすいと思ってるとこが本当に好き。学生に分かってもらおうと頑張ってるところが好き。その頑張りが全く報われてないとこが好き。応力場が見えるとか言ってくるの意味わからんが。エロい。
【Web授業】
Web授業の何がいいって顔が見えないことだよ。いい声のエリートが耳元で永遠に知的なセリフを囁いてくるとかポルノか?????心がぎゅんぎゅんする。Web授業はアニメと一緒。すなわち二次元。好き。
理系の男が書いた文字はエロい。精緻に並んだ筆記体の数式とかオシャレ過ぎて泣く。いやお前そんな字書くの???逆にめちゃくちゃ優秀な人がクソみたいな字を書くのも本当に好き。めちゃくちゃ頭いいのに小学生より字が下手な男。しかしノートのまとめ方って言うのかな、書き方は頭いい人のそれだったりして、ただ字だけがひたすらに小学生。なんだお前は。好き。
あと頭に手が追い付いてない人。こいつのノートは読めない。そういうのもえっちだ。好き。ノートだけで永遠に萌えられる。試験期間中にノート貸してくれた男に何回恋したか。字がエロすぎて。
まあ基本的に学生の書いたプログラムなんてクソクソ読みづらいんだわ。うわー、意味わかんねーって思いながら不親切なコメントアウトを見てプログラムを読み下したりして、分かったときの「ああでもこうとしか書きようがなかったよね」って共感。あなたのことを分かってしまったときのキュンキュン。でもまあよく考えるともっと他に分かりやすい書き方ない?って思ったりして、でもやっぱりなくて、みたいなね。ずっと引き継がれてるプログラムってそういう歴史が詰まってるじゃん。それを辿りながら読むの、え、えっちー。エロすぎる。凄いものを作れてしまう頭の良さ、しかし自分が賢いがゆえにそれを分かりやすく伝えられないところ、親切心と少しの遊び心を含んだコメントアウトを読むの、とっても好き。