はてなキーワード: 願わくばとは
アフガニスタンに関わった連中は全員不幸になるとしか思えない。これはほとんど歴史上の結論だと思う。以下に報道を眺めていて思った各勢力の現況を並べるが、どの国もポジティブな要素があまりにも少ない。
まずはアメリカ。対テロ戦争の大義を掲げて侵攻し、現地で蛮行を重ねたのちに軍事スキームの変化とともに撤退した。しかしオバマ政権以降の特殊部隊群の偏重による住民感情の一方的な悪化や、トランプ政権での撤退計画の加速、何より拙速にも9月11日までの撤退を急いだ自己陶酔的なバイデン政権の政治判断により、世界的に自国の敗北を印象付ける最悪の形での幕切れを迎えてしまった。
パックス・アメリカーナの落日。いずれアフガンでの戦争行為について国際的な非難を浴びせられる日が来るのかもしれない。われわれも一応かつての世界大戦の当事者としてそれに同調する可能性が無きにしもあらずだが、その時の極東情勢がどうなっているのか。もはや考えたくもない。
続いてヨーロッパ各国。まずタリバンの復権自体が寝耳に水だったようにしか思えない。進軍が報道されてからの無様なこと。事態の取り返しが付かなくなってからも、米軍による秩序とアフガンの人道の危機を訴え(その両者が相反することをどれだけの人が分かっているだろう)、アメリカに再び軍隊を戻すよう呼び掛けたが、自分たちでは国際秩序を維持する能力も意思も無いことを改めて露呈しただけだった。しかしヨーロッパの首脳たちはここで退くわけにもいかない。何故なら中東のイスラム過激派の主たる標的は、他ならぬ欧州の先進諸国なのだから。
見過ごされがちなインド。アメリカの方針に同調してアフガンに支援を行ってきたが、その甲斐もあって今や当地で全てを失った。長年イランを経由してアフガニスタンから輸入を行う計画を進めていたが、現在両国の貿易は停止している。取引はいずれ再開されるにしても、アメリカと異なる戦略のもとイランに整備したチャーバハール港は、中国が支援するパキスタンのグワデル港に対して少なからず優位性を失うことだろう。
パキスタン。タリバンの主たる支援国家であり、今回の戦争でも勝者の側として報じられることが多い。
だがパキスタンは過激派のテロによって二十年間で数万人の自国民の命を失っている。その一部がタリバンの残党を匿ったことでもたらされたのは否定しようがなく、払った血の代償は重い。
また、パキスタンとアフガニスタンの国境線(デュアランド線)がタリバンを輩出したパシュトゥン人居住区を分断しているのも懸念材料だ。タリバン政権が将来的に安定すれば苛烈な国際紛争の火種にもなりかねない。パキスタンは一体どこに向かっているのだろう。だがインド憎しで走りはじめた彼らの野望は、最早誰にも止めることはできない。
みんな大好き中国。パキスタンと同じくゲームの勝者として報道されている。アフガニスタンと国境を接する中国は、同じスンニ派である新疆ウイグルとタリバン政権が手を組むことを警戒したため、先んじてタリバンに取り入ることで自国の反体制運動に先手を打った。
だがリスクは消え去ったのか? タリバンはイスラーム主義の交差点であり、ジハードそのものに真摯な構成員も多い。彼らが国境の先で弾圧に苦しむ同胞の存在を知った時、シンパシーを抱く可能性は大いにある。ただでさえムスリムの多くは真面目で敬虔な人々なのに。
また中国のタリバンに対する支援はどうだろう。よく言われるのは豊富な資源に見据えた資源開発援助や事業投資だが、アフガニスタンの情勢でどれほど成果を挙げられるかは未知数だ。中国はアフリカで輝かしい成功を収めてはいるが、歴史的なグレート・ゲームの舞台で長期的に何が起こるのか、慎重に見定める必要がある。
またあまり言われないことだが、米軍の南アジアからの撤退は、同時に極東への戦力転換が行われる可能性も示唆している。香港が落とされたことで半ば恐慌状態にある東アジア情勢は、今後さらに油断ならない戦場になるかもしれない。
そして忘れられたアフガニスタンの人々。一連の戦争の一方的な被害者である。アフガニスタンは地政学的に重要な土地であり、歴史上多くの戦争が起こったが、その多くで彼らのほとんどは戦争の主体でも何でもなかった。
アフガニスタンは彼らのものである。しかし悲惨な状況が長く続いた一方で、彼らについて考えたり支援する人は少なかったようだし、それを継続するのはもっと難しいのだろう。自分も今回コロナで暇になってニュース見るまであまり興味を持ってこなかったけど、願わくば今後は彼らのために些細な不幸を引き受けられるようにできたらと思う。
この一ヶ月は、今まで体験したこともないような幸福感と絶望感を経験した、ジェットコースターのような日々だった。
なんとなく予感がしたのは、ちょうど出張中だった。いつもだったら、アプリの通知とそこまで大きくハズレず生理がくるのだが、その時は来なかった。
出張中はずっと「生理来ないでくれ」と祈り続けていた。時折強い腹痛があったけれど、なんとか乗り越えた。帰りの電車では、ずっと妊娠の記事を読んでいた。
翌日、妊娠検査薬を使ったら、すぐに陽性反応。出社前だった夫にもすぐに報告。初めての妊娠だったので、すごく浮かれていた。
その後すぐに産婦人科で、正常妊娠なことを確認。半分夢見心地のような気分で、家に帰ったのを覚えている。
年齢も30半ばを過ぎて、やっと始めた妊活だった。恥ずかしながら、最初はタイミング法も基礎体温も知らなかった。
いろいろ調べて、ようやっと基礎体温を測りだした矢先、遅れた結婚記念日旅行のときが排卵日あたりになることがわかり、初めてタイミングをみて試した結果の妊娠だったので、もう運命としか思えなかった。
2回めの検査は2週間後だったが、もうその間は幸せだった。つわりで体調が悪いときも、「これが噂の!」と感動だったし、お腹の子が頑張っているんだ(実際は関係ない)と思っていた。
初めてたまひよを読んだし、妊娠アプリも入れて、毎日赤ちゃんの様子を検索していた。「この時期は神経ができる頃なんだって」とか「一日にこれだけ大きくなるんだって」とか、よく夫と話していた。
色々検索するにあたって、やはり流産の懸念はあった。年齢的にちょうどリスクが高まる頃だし、身近にも何人か流産を経験した人もいる。
浮かれまくって子供の名前や、出産にあたって何が必要か、とか調べているのと同時に、流産の記事もたくさん検索していた。次の検査日が近づくにつれ、心拍が確認できなかったらどうしよう、と毎日心配だった。
そして、2回めの検査。胎嚢は大きくなっていたし、初めて胎芽が確認できたのに、心拍が確認できなかった。
死刑宣言を聞いているようだった。手足が震えて、現実を受け止めたとき、涙が止まらなかった。
流産が起こる可能性は20%ぐらいだとも言われている。高くはないけど、低くもない確率。でもその20%になるなんて、思いたくなかった。
本当だったら、その足で母子手帳貰いに行って、両親に報告して、お祝いにケーキ買って…なんてのんきに考えていた自分が情けなかった。
その時点では、まだ流産確定じゃなかったが、もう自分の中では最悪の未来しか想像できなかった。
同じ週にもう一度、今度は別の病院で診てもらうように言われ、紹介状を渡された。
それからは、毎日流産のことを調べては泣き、後で心拍を確認できた人の記事を読んで少し心を持ち直したりしていた。お腹に手を当てて毎日「あなたは強い子だから、大丈夫だよ」と応援していた。
そして今日、大きな病院で稽留流産との診断がくだされた。心のどこかでは想像していたけれど、やはりキツかった。
本当は今日ダメだと言われても、別のところでセカンドオピニオンを聞くつもりだった。けれどモニターに映る胎嚢、胎芽が小さくなっていること、そしてそこに血が通っていない事がわかって、もう受け入れるしかないと思った。
話を聞きながら、号泣してしまった。そばに来て、肩をさすってくれた看護師さんの優しさが、本当にありがたかった。
今後の流れは、自然に出てくるのを待つか、手術するかの2択だと言われた。
「赤ちゃんが小さくなっていっているので、そこまでの大出血はないだろう」と言われた。
初期の流産は、遺伝子異常で起こることが多く、もう変えられない運命なのだと検索魔になったときに散々読んだ。
強く生きられないから、赤ちゃんが母体の負担にならないように成長を止めるのだと、最後の恩返しなのだと書いてある記事もあった。
それで言うなら、小さくなって、出血量を抑えてくれたこの子は、なんて優しいのだろうと、そう思えた。
不思議と、赤ちゃんに対して「ごめんね」という気持ちは起こらなかった。ただ、自分がもうちょっと若ければ、とか不純な気持ちでいたバチが当たったのか、とは思った。
幸せな未来を想像していただけに、目の前でそれが消えてしまうのが、切なかった。何もできない自分がやるせなかった。
流産してても、まだ妊娠中の症状はある。とても残酷なことだと思う。
5年前のリオオリンピックで忘れられないシーンがある。
金メダルを取った萩野公介選手がインタビューを受けている。後ろから銅メダルを取った瀬戸大也選手がヘラヘラ笑いながら近づいて来るシーンだ。
目があった二人はガシッと腕を組んでお互いの健闘を称える。その後しっかりと抱き合って喜び合うのだ。
俺はとても羨ましいと思った。
テレビの感動ポルノにさんざん使われてるので知ってる人も多いかもしれないが、二人はライバルなのだ。
はずだったのに、一人、瀬戸大也は食いついてきた。
瀬戸は強靭なメンタルの持ち主で、萩野に何度破れても心が折れることはなく、挑戦を繰り返すのだった。
萩野と瀬戸は何度も戦った。天才だが心の弱さが垣間見える萩野と実力で遅れをとるものの鋼メンタルな瀬戸は相性もよく、やがて実力差もいい感じに埋まり、オリンピックの表彰台の一番高いところを競い合うところまで成長した。そして冒頭のシーンに繋がる。
…みたいな解説がなくても「仲良しなんだな」ということが伝わる一瞬だった。
俺にはそんな関係の人はいなかったので、世界の頂点を極めた上で友達同士ではしゃぐ、その笑顔がかっこよくて羨ましくて仕方がなかったのだ。
金メダルと同じくらい輝いて見えた。4年後また同じことが起きるだろうと信じて疑わなかった。
瀬戸選手はスキャンダルをすっぱ抜かれ…まあ具体的な話はあまりしたくないのだが、とにかく残念なことになった(奥さんにはあと1万回謝れと思う)。
二人ともなんとか復帰して、二人揃って東京オリンピックの代表に選ばれた。
二人とも、まだ決勝の舞台に立てていない。
特に瀬戸の初戦、400m個人メドレーの予選敗退は、見ていた人には衝撃だったろう。
今日(日付超えたな。もう昨日のことだ)は二人にとって最後の一種目、200m個人メドレーの予選があった。
瀬戸は曇った表情で「大会を楽しめてない、と言われた」と答えた。
萩野は落ち着いた表情で「この舞台で、もう一本泳げることに感謝したい」と答えた。
5年前のこと、この5年で起きたことを思い出した。
そうだ、二人はもう二度とオリンピックには出ないんだろうと思った時期があったんだ。
いま二人が同じ種目に出ている、これ自体が俺が諦めかけていた夢の景色だ。
でも本当に見たいのは、楽しそうな二人だ。
まあいちファンの夢は勝手に託してるだけだから置いておいて、絶不調の瀬戸選手の復活には試合を楽しむ心が必要なのは確かだと思う。
だから明日(今日だな)の準決勝、願わくば決勝まで楽しく泳いで、最後は満面の笑みで終われるといい。
俺は正直いって気持ちがぐちゃぐちゃだ。やりたいことがやれてない、やりたいことってなんだっけ。
第一印象では「気持ちはわかる。が、私はここまで自分が事件(京アニ放火事件)に加担してないと割り切ることができない」と思った。
私は美術を専門として学んだこともあるし絵や漫画も描いていた。ファイアパンチは読んだけどチェンソーマンは読んだことない。藤本先生のことはあまり知らない。
ルックバックがどれくらい京アニ放火事件に向けて描かれているのかはわからない。でも内容、公開日からして意識せずにはいられない。
素晴らしい作品を生み出した人たち、これから生み出す人たちが失われたことへの驚きや悲しみややるせなさはわかる。怒りも。
世代的にオタクの市民権がなかった時代も生きてきたし、オタクである、クリエイターであるというだけで連帯感がある感覚もわかる。
ただ、事件があまりにも天災や事故のように表現されているなと思った。まるで事件が起きたことは自分たちとは全く関係ないと思っているのかと思った。
京アニ放火事件の犯人は事件後病院で治療してくれる人たちの優しさを感じている、といった報道がされていたと思う。その優しさを、人の温もりを、事件前に少しでも彼が感じていたら、あの悲しい事件は起きなかったのではないか。彼を孤立させ追い詰める社会を作ったのは我々に他ならない。
放火事件も殺人事件もテロ行為も、加害者は突然変異やバグなんかじゃない。私たちの一部だ。起きる前も起きた後も私たちは関わり続けているし、少しでも違う社会だったら食い止められたかもしれない事件だ。逆に私だっていつ「あっち側」になるか分からない。そのぐらい紙一重だと思っている。
だってそう思わないと救いがないじゃないか。天変地異のように、地震のように、いつ来るかわからない暴力に怯えるしかなくなってしまう。それよりは我々の努力次第で無くせた、無くせる事件だと思いたい。
そりゃ目の前で声かけられたか?お前に救いの手を差し伸べられたか?と問われたら言葉に詰まるよ。でも目を逸らしちゃいけないだろ。個人じゃできない社会の問題を解決するのが政治や福祉の役割だろ。その主権を握ってるのは私たちだろ。
犯人のことを擁護しているわけではない。罪は罪だし、怒りは感じるし、罰を受けてほしいと思う。犯罪としては情状酌量の余地なんてない。でもどうにかして反省して人生を立て直してほしいとも思う。被害者や遺族からしたら理解できないかもしれないけど、私はそういう社会であってほしい。
ルックバックのような受け取り方が、あの事件について考える時の救いになる人たちもいるんだと思う。そこは否定しない。
でも加害者の立場に立ったとき、あの漫画を読んだらきっと追い詰められるだろう。社会に行き場がないと感じるだろう。
ルックバックを不適切だと断罪するつもりはない。たくさんの複雑で大事な感情が描かれた素晴らしい作品だ。
ただ願わくば、少しでも加害者側の視点や寄り添う気持ちがある作品も生まれてほしい。自分を含めたいつかそっちに行ってしまうかもしれない人たちに、希望や、立ち止まるキッカケになるかもしれない作品も生まれてほしい。そういう思想の多様性が文化や社会を豊かにしてくれるんだと思う。
// ちなみに私はいじめられっ子でした。
// 本日記はひょっとしたら、ものすごく性格の悪いことを書いているかもしれません。
// 周囲の人に私の本心を語るのは気が引けたため、日記にしたためました。
// あと、本日記はあくまで私の感想ですので、すべてのいじめられっ子や、ましてや被害者の心情を代弁するものではありません。
// あしからず。
同級生に対して度を越した暴行を振るい、それをあたかも武勇伝かのように嬉々として話す。
異常な人ですよね。
でもまれによくある話です。
そんな人が、過去の過ちを蒸し返されて激しく断罪される様を見ていると、本当に清々しい気持ちになります。
ところで小山田氏はどうすれば赦されるかという議論がありますが、私はそれは不可能だと思うのです。
あれだけのことをしでかして、アフターケアゼロで、何十年も経って謝罪とか、無理ですよ。
金銭提供を謝罪に代えるという提案もあるようですが、私が被害者だったらイヤですね。
貰っても使いたくないし、一度使うとその後一生後悔しそうです。
抑え込んでガッチリ極めて銅メダル確実だったはずが、ふとした心の緩みで大逆転一本負け、そんな感じでしょうか。
敗北はイヤですね。
// まあこれは現在の私が金銭的に不自由していないから、という理由も大きいと思いますが。
なので、むしろこのままどこまでもどこまでも転落してほしいです。
何年かおきに、ふと思い出してググって、辛い人生を送っているらしい情報が得られれば、それだけで十分です。
でもそれは無理なんでしょうね。
小山田氏が今まで築き上げてきた音楽的な能力と評判、コネ、そして少なくないであろう資産。
// 音楽には全く詳しくないのですが、デザインあは好きでよく見てました。面白かったです。残念です。
さすがに名前を公にはできないと思いますが、そこをわきまえれば仕事には困らないのでしょう。
小山田氏はいわば、今がどん底で、今後は緩やかに上昇していく、そんな人生を歩むのだろうと思うと。
ちょっと悔しいですね。
でも私はもう大人なので、そういう、パズルがきっちり嵌らない的な感情に、うまく対処できます。
何にせよ、ここ数日は昔のことを思い出すことが増えたのですが、同時に気分が晴れるという、不思議な心地でいられました。
すげえ自分語り。
元々エレクトロニカが好きな人には非常に有名な話で、「この人音楽はめっちゃいいけど人間はそれ以上にカスだな…」というのはコーネリアスについて話せば一度はする話である。
ただ、これまではコーネリアスの曲を聴いてからこの話を知るパターンが多かったので話を知った人がモヤモヤイライラして終わってはいたが、
今回は曲を知らない状態でこの話を知る人が多いのと、何より悪目立ち続きのオリンピック関連ということでもう何重にも炎上のブーストがかかっている。
実はそうでもない。私は小山田圭吾という人間は心底好きではないが音楽は確実に良いと感じている。
そのため、単純に「いい作品を作るけどカスな人」という認知的不協和の塊みたいな概念について話したいだけだ。
この手の話のときに必ず上がるのが「作者と作品は別」という話だ。
これに関しては、私は「理想として別で考えておきたいが、現実として別けることが難しい」というスタンスである。
なぜなら、芸術作品というのは例えばコンセプチュアルアートでもない限り作品そのものを中心として捉えなければならないからだ。
その作品の世界観に内包されるものだけが語りうるもので作品の評価として正当なものであり、
ここで「でもその人過去に人殺してるんですよ」で作品単体の質が下がることはない。
人を殺している人の絵が下手に見えるというのはただのバイアスでしか無く、
これがまかり通り始めると人種や性別によって作品の評価を上げ下げする輩が出始めるからだ。
現実として「気にする」し、そういったエピソードを聞くと「良くなく見える」のだ。
これは我々が人間という生物である以上逃れられない現実である。
人間である限り、感情を無視した論理は全て現実を無視した夢うつつの戯言でしかない。
そこで私がどう考えたかというと、現実だから正とするのではなく、
これを人間の不具合として捉え現実だが正ではない出来事として捉えることで、
「作品が良いのに人間がカスなときに感じる気持ち悪さは人間の機能だが、社会が発展したことで不具合を引き起こす確率が高くなっている」
と考えることにした。
気持ち悪さを反射的に解消するのではなく、分析して理解することでじっくり気持ち悪さを分解して次のダメージを抑えることにしたという感じだ。
何故なら「悪い人が作るものは良くあってはならない」というのはそれはそれで現実逃避だからだ。
現実として、悪人にも正しいことはできるし、被害者やいい人でも間違ったことや悪いことはする。
その人の属性で行動の善悪が決定すると考えたり、気持ち悪いからという理由で無いことにしてしまうのははあまりにもルサンチマンをこじらせすぎている。
私は小山田圭吾の作品がメチャクチャ好きだが同時に彼という人間は全く好きではなく、
いつか本気の後悔と報いを受けてほしいな~とは思っていた。
なぜなら私はそもそもいじめ被害者であったためだ。そのため、高校のときにこのエピソードを知って大変狼狽したものである。
願わくば人生に覆しようのない瑕疵がつき、その傷跡を残りの人生で眺め続ける羽目になりますようにと…。
しかし、改心までは願うべくもないが、今回は最大級の規模でそれが叶って多少溜飲が下がり、いつもより気持ちよくコーネリアスを聴けている。
先に言っておくけど、以下の内容はただの愚痴でお気持ち表明ってだけなので、これを読んだ諸兄が今後の言動に何かしら気を使わなきゃいけないってことは一切ないからね。
ウマ娘黎明期に執筆された上記エントリでは、URAに優勝したもののレジェンドレースで勝てないサイレンススズカに対して
みてくれだけだ。
ハリボテエレジーで検索して動画を見てこい。おまえのそのサイレンススズカはそれだ。お前はハリボテエレジーを育てて「Aランクいきましたよ」と言ってると自覚しろ。
脆いんだ。
と言われてしまっている。この後に綴ってある育成論が、サービスイン当初に書かれたものとしては完成度が高かったのも相まって拡散され、それに伴ってハリボテエレジーも絶対的弱者として名が広まっていったと考えている。
当エントリのタイトルとは矛盾するが、弱い殿堂入りウマ娘を差しての「ハリボテエレジー」という表現を用いることにはある程度の合理性があると考えている。
ハリボテエレジーがどういった馬であるかは後で詳細に述べるが、知っている人の大半は「いきなり出遅れて、しかもカーブで転倒してバラバラになる馬の形をしたハリボテ」という印象を持っているだろう。
また、知らない人間からしても、その名前の響きの珍妙さから、何となく雑魚そうなイメージが湧くことが大半である。
つまり、「ハリボテエレジー=弱い」というイメージがユーザーの間で共有されやすい、と言うことだ。
もしもの話だが、弱い殿堂入りウマ娘に対するスラングが実馬を元にしたもの(例えば史実で現役時代に勝利経験のないハルウララや、大逃げからの逆噴射が印象に残りやすいツインターボ等)だったらどうなっていただろうか。
当たり前だがその馬の馬主や実馬のファン、あるいはそれが元のウマ娘のファンからいい顔をされないのは想像に難くない。二次創作の扱いが他と比べてセンシティブな「ウマ娘」というコンテンツなら尚更である。
ところが、ハリボテエレジーは史実に由来しない架空馬であり、その出自でも明確なやられ役、出オチ枠として扱われているため、弱者として扱ってもほぼ誰も気にしないのだ。デリケートなウマ娘と言うコンテンツを語るうえで、これは非常に大きい。
ハリボテエレジーにオタクの大好きな「文脈」を感じてしまったから。これに尽きる。
これを書いてるオタクは、ウマ娘をはじめとした今どきのオタクコンテンツのネームドキャラには大抵備わっている「他者の心を動かすストーリー」を、不幸にもハリボテエレジーに見出してしまったのだ。
だからこそ、ハリボテエレジーが負けることしか出来ないという認識に異を唱えるのであり、脚質すら異なるサイレンススズカの育成結果で引き合いに出されることを嫌うのである。
これを読んでいる諸兄は「ハリボテエレジーにそんな御大層なテーマがあるわけねえだろダボハゼ」とお思いのことだろうが、冷静に考察すると「ある」のである。
という訳で、以下ではハリボテエレジーについて詳細に語りながら、どこに物語性を感じているかを挙げていこうと思う。
ハリボテエレジーは、「スキージャンプ・ペア」を世に送り出した映像作家の間島理一郎氏とJRAのコラボによって生み出された「CINEMA KEIBA/JAPAN WORLD CUP」シリーズに登場する馬(?)である。
外見は、最初は段ボールで作られたハリボテだが、シリーズ2作目以降はボディにドラム缶を採用したものにアップデートされている。
曲者揃いのJWCの中でも一際異彩を放つ彼だが、彼が走り出せばどうなるかについては、当該作品に造詣のある諸兄であればその脳裏に焼き付いているだろう。
スタートで出遅れたかと思えば、コーナーに差し掛かった瞬間に盛大に転んで破壊される。これこそが彼の様式美なのだ。
当然こんな有様なので勝つことはほぼない。一応全馬に勝ちパターンが用意されているため、彼の勝ちパターンも存在するのだが、
というように、他の馬が起こしたアクシデントに便乗する形でしか勝つことが出来ない。
ちなみにバーニングビーフが草を食まずに駆け抜けたりピンクフェロモンが輪になって踊らなかったりするとハリボテエレジーの勝ちではなくなってしまう。
と言うより、バーニングビーフやピンクフェロモンが本来勝つはずのパターンを投げ捨てないと勝てない。ひどい有様だ。
しかし、これらの勝ちパターンを見ると分かるように、転んで分解し、出遅れが致命的なものになっていたとしても、彼(ら)は勝利を諦めずにゴールまで走り続けるのだ。これを踏まえて、3作目の勝ちパターンを見て欲しい。
3作目においても大半のパターンでは彼は(メカハリボテを巻き込みつつ)転倒してしまい、その後のレースに関与することはない。しかし、彼(とメカハリボテ)の勝ちパターンでは
これまでずっと転び続けてきたハリボテエレジーの姿を見ていると、曲がっただけで喜びもひとしおだろう。
2作目以降はハリボテエレジーがコーナーに差し掛かっただけで「曲がれえええええ!」と激励の言葉が聞こえたり、3作目で曲がった瞬間には歓喜のどよめきが上がるためなおさらだ。しかし我らがハリボテエレジーの快進撃はこれで終わらない。
無事コーナーを曲がり切り、ラスト400mに差し掛かったハリボテエレジー。彼の勝ちパターンでは、なんととんでもない末脚を発揮して他の馬を全てぶっちぎって勝ってしまうのだ。
「何故出場できるのか分からない」「今日も勝てそうにありません」なんて言われ続けた馬が、いや馬ですらない何かが、世界の強豪を相手に一歩も引けを取らないレースを展開するのだ。こんなに心躍る展開もないだろう。
また、この作品で実況を務める茂木淳一氏がハリボテエレジーの勝利の際に放った言葉が以下だ。
ハリボテエレジー、やっと目的地にたどり着きました!!
悲願の1着を獲ったことにこの言葉を当てはめるセンス、そして茂木氏の情感あふれる実況。初見時の私は思わず「天才すぎんだろ……」と天を仰いだものである。
長くなってしまったのでまとめると、ハリボテエレジーという馬は
「周りから見向きもされずとも、勝ち目のないレースに挑み続け、最後には自分だけの力で栄光を掴み取る」というサクセスストーリーを持つ馬なのだ。
しかも、ハリボテエレジーの中の人は人間であるため、キン肉マンにおけるジェロニモのように、「逆立ちしたって勝てないはずの上位存在に対して真っ向から立ち向かった」という文脈も生まれてくる。
これが、ハリボテエレジーは固有の文脈を持つ馬であり、ただの絶対的弱者ではないと私が思う根拠であり、同時に弱いだけの殿堂入りウマ娘を「ハリボテエレジー」と表現することを忌避する理由である。
これだけ力説したはいいが、、結局のところ伝わりやすくてすでに広まっている通称を改めろと言うのは土台無理な話であるし、私も無理にそうしろとは言わない。
ただ、自分の好きなキャラクターの名前が、本馬の活躍を顧みずに絶対的弱者の通称として広まってしまったというだけなのだ。哀しいオタクがここに一人いるだけなのだ。
今五輪開会式の作曲担当の方が過去にいじめを行い、その上武勇伝のように語ったとして炎上している。
これについて叩いている意見をよく見るが、いい加減許してはどうだろうか?
「いじめは良くない」という意見は完全な正論であるし私も同意見である。
が、その正論という武器で人を攻撃するのは「いじめ」と何も違わない。
もう許すべきである。
「ごめん」
された側がどう思うかは重要ではない。
少なくともいじめをした人間、そして第三者からは終わってしまうのだ。
そんなモノ絶対に許せない。
やっても精々が少し怒られるくらい。
罪の意識なんてものも全く無いし、被害者が自殺したとしても実刑までいくのは非常に稀だ。
そんな犯罪者を一生許すべきではない。
ニュースを見てからずっと、過去にいじめを受けた経験のある私はこの2つの感情が渦巻いている。
私は善良な人間でいたいと常日頃から考えているし、他の人間を叩くような事もしたくない。
ずっと悩んでいたが、被害者の方が何か表明するまではこれ以上何も言わないでおこうと思う。
結局のところ作曲担当を許す権利も、許さない権利も全て被害者の方にあるのだ。
私は同じいじめを受けた人間として、その権利までは奪いたくない。
願わくば。
許さないと言ってほしい。
電車の中、周囲の迷惑も考えずに談笑する小学生がそう語っていた。
私が「ゴラン・ノ・スポンサー」の意味を理解したのはいくつの頃だったろうか。
五輪が税金だとか入場チケットじゃなくてスポンサーが払う広告費で運営されていると理解したのはいつだったか。
感染症の蔓延に加担したからとコカコーラを批判するような発想に至れるような頭を、少なくとも小学校に通っていた頃の私は持ち合わせていなかっただろう。
開拓のツルハシの音(実際には勘違いなのだが)を聞きながら「美しい」と口にし彼は息を引き取る。
契約に従いメフィストフェレスはその魂を持ち去ろうとするが、最期にファウストの心が清らかになったのを見届けた天の者達によってそれは阻止されるのだった。
私が感じている気持ちはファウストが最後に感じたものと似通っているはずだ。
願わくばこれが幻でないことを。
人々の命を、誰かの魂を食い物にする悪魔たちに天罰のあらんことを。
そう思いながら小学生を見つめた私と、反対側から同じことをしていた中年男性とが小学生の肩越しに目を合わせる。
ふとピントのあった彼の瞳の奥に、そんな言葉が見えた。
私は頷いた
Twitterだとマシュは大人気でフォロワーもぐだマシュ最高!ぐだマシュしか勝たん!!みたいなノリだし
かといって愚痴アカを作って延々と呪詛吐くぐらい嫌いってわけでもないからここに書く
マシュというキャラクター単体が嫌いというより、主人公とセットになってる時のマシュのノリと雰囲気が苦手
昔はそんなに気にならなくて、別段好きではないけど公式が用意したメインヒロインってぐらいの印象だった
出番が多いこともメインキャラだし、で流せた
いっそ主人公とマシュ統合して単体主人公にした方が話まとまるんじゃない?ぐらいに思ってた
他の型月作品の好きなキャラクターがFGOに出るのでインストールし、個人的にはマシュよりも課金をして引いた推しやFGO発で好きになった新キャラの方が自分の相棒はこいつらだ!という思い入れもある
マシュの言動に引っ掛かるようになったのは一部のイベントや1.5部のアガルタぐらいからで、他のキャラとの会話を楽しんでるのに隙あらばメインヒロインはマシュ!正妻はマシュって主張したり他キャラが外堀埋めてきたりするのがなんかなぁ……と思うようになってきた
二部からはっきりと苦手意識が生まれて、というか性能が変化しバトルボイスも変わった
これまではマシュ+マーリンor玉藻orアンデルセンみたいなサポートキャラ+高火力アタッカーで大体なんとかなってた
けど、防御バフの性能が落ちて「マシュで火力盛ってマシュで殴れ」って性能に変更されてからはなんか微妙というか、上手く戦闘が噛み合わなくてコンテニューの回数が増えた
ノーコストで味方の脆いアタッカーに防御バフにNP補助にタゲ取りでサポートできるのがマシュの強みだったはずなのに
ボイスも勇ましさより悲壮感が増したものに変更され、声優さんの演技が上手いぶん聞いててとても辛くなる
絶対勝つぞ!って気合い入れて挑んだボス戦で、あの追い詰められたような震えた声のボイスが流れると少しゲンナリするしカードを積極的に選びたくなくなる、いっそ特定キャラのミュート機能が欲しい
マシュの使い方を真剣に考えればバトルはもっと楽になるのだろうけど流石に性能もボイスも好きでないキャラクターについて深く考える気にはあまりなれないので、勿体ないと思いつつ石を砕きながらノロノロとシナリオを進めてきた
極力マシュの存在を考えないようにしながら進めてきたが、流石に6章では彼女に焦点をあてた話になるだろうと覚悟していた
できれば強化されてスキル、モーション、ボイス等変更してほしいと願いながらストーリを進める
すると予想外にも、マシュ、実はめちゃくちゃ良いキャラなのでは?と思えてきだした
一緒に旅をしながら絆を深め、たどり着いた城の領主の花嫁になる
つらい展開が来ると予想させながらも徹頭徹尾暖かく優しい交流が描かれ、しかし最後の戦いでそのほとんどが滅ぼされてしまう
マシュは旅をしてきたゴブリン兄弟や結婚したライオン領主の思いを背負い未亡人騎士として立ち上がるーーという話だ
正直すごく胸に刺さったし、ゴブリン兄弟との別れはボロボロと涙を流しながら読んでいた
これまでのマシュならごめんなさい、で別れていただろう、しかしありがとうと言いながらの別れは彼女の成長とこういうのが見たかったが詰め込まれていて6章前半の中で一番心に残るストーリーだった
戦闘も使いやすい一部マシュで、相方のハベトロットの性能も噛み合いノーストレスで突破できた
これまでの限定イベントや剣豪勝負のシナリオで「実はマシュいない方がおもしろくない?」と思うことが多々あった
そしてマシュも、主人公といない方が面白いストーリーが出てくことがわかってしまった
そのこと自体は喜ばしいことなのだが、これまで何度も出てきた「強敵の攻撃を防ぐマシュとそれを令呪で支える主人公」の絵が出てきてまたか……とテンションが下がる
せっかくマシュが主人公いなくても輝けるキャラだというのを見せた後に「やっぱりこの二人がベストコンビだよネ!」と今まで何度もやって来た場面を見せられると、キャストリアの活躍を期待していたのもあって(後半に持ち越されただけかも知れないが)余計にがっくし来てしまった
追い討ちをかけるように「主人公はマシュの王子様」と外堀を埋められる
女主人公で遊んでるのに王子様と言われるのはとても微妙な気持ちになる、なんだか朝教室に入ったら特段好きでもないクラスメートとの相合傘が黒板に大きく書かれていたような、言葉にしづらい感覚がある
微妙な気分になりはしたが、6章自体はこれまでで一二を争うぐらい面白いし続きの気になる引きだった
マシュと主人公は再び別れたので、また別のストーリーが書かれるのだと思う
願わくば主人公とマシュが自立した、互いに依存しない関係に落ち着けること
もっと欲を言うとあの陰気な前髪を切るかまとめるかしてさっぱりした外見に変わってくれることをお祈りしながら続きを待っている
「原発の放射線量はコントロールされている」という言葉に疑問を投げかける人がいたりした.
東京オリンピックに期待して心躍らせている人もいたし,
今,オリンピックに反対する理由はもちろん「Covid-19の感染拡大を招くから」というのが語りやすい.
しかし,その影響がなかったとしても,中抜きで一部の人が儲けるだけの構造が許せないと思う人もある.
そういう人にとっては,オリンピックを中止にして,なんとか一矢報いたいという気持ちがあるのだろう.
今回のCovid-19の事件で様々なことが明らかになったが,
政治家の会食が多いことや,一部の企業が政府からの委託手数料により莫大な利益を得ていること,
40代半ばの女友達が新型コロナの煽りで無職になり転職活動している。なかなか上手く行かずLINEで愚痴が飛んでくるので励ましているが、正直再就職の望みは薄いと思っている。なぜなら性格が悪い癖に『嫌われる勇気』よろしく自分に素直に生きているからだ。
揚げ足取ったり、自分が言ったこと忘れたり、自分の失敗は棚に上げて人の失敗指摘したり、遅刻や忘れ物したり、同じような質問に対してこちらが同じような回答しても気分で喜んだり冷たくあしらったり。自分中心、アドラー先生は神。
私自身その本読んでないけど、そもそもの性格は良くしなさいとか書いてないのかな?彼女自身こだわりや集中力やいざって時の爆発力はあるので作家や職人には向いていると思うけど、恐らく会社での仕事は難しそう。その歳になって順調なステップアップ出来てないのは会社や社会や性別のせいだと思わず自分のせいだと思わないのかな?
たぶん縁を切るのが一番なんだろうけど、正直彼女がどん底まで落ちるのを特等席で見たいので、もう少し適当に付き合おうと思うが、願わくば自分で気付いて性格は治ってほしい。
これは自分が理系(の中でも数学とかの理論系)だからなのか、具体的に説明されるよりも抽象的に説明される方が絶対にわかりやすいんだよな。
冠詞の話もそうだけど、英語教育とか全体的にそう思う。例文をいくら並べられてもわかんないんだって。それよりまず一般論を教えて欲しい。もちろん自然言語だから例外があるのはわかるけど、例外を後から覚える方が自分にはわかりやすい。
でも学校(初等教育)だと「具体的に説明しなければわかりやすくない」というルールが蔓延しているのが辛かった。最初に具体的な説明から入って、後から「実は~~」という種明かしで抽象的な説明に移行するよりも、最初に「これが答え」とズバッと抽象的な説明をして、後から一つ一つの具体例を見るという授業をしてくれた方が、自分にとってはよかった。(多くの人にとってはそうではなかったのだろうけど。)
まあ、「個別の特性に合わせて指導する」という目標自体が最近になって議論され始めた概念だと思うので仕方ないんだけど、願わくばこういう経験談が今後に役立って欲しい。
要するに、一般的に「大学レベルで難しい話」とされていることが自分にとっては簡単な話で、逆に一般的に「中学レベルで簡単な話」とされていることが自分にとっては大学レベルで難しい話である、ということがよくある。
週5、平日勤務、残業もなければ休日出勤もなく、ホワイトな中小企業に勤めていた。
帰属意識も、向上心も無い俺は、惰性で通い続けて、物覚えの悪い頭で仕事を少しずつ覚えながら業務に従事していたが、ある朝、身体が動かなかった。起き上がらなくなってしまった。体を起こそうとする頭に対して、体と心が拒否してしまった。
俺は人と話すのが苦手で、口頭でのやり取りだとすぐに頭が真っ白になってパニックになってしまう。こういう状態だと相手が何を言ってるのか意図を組むことさえままならない。仕事から帰ると精神的に疲れきってしまいずっと寝ていた。
そういう自分の特性は自分ではわかっていて、慣れて行くし無いと自分に言い聞かせながら3年従事したが、とうとう身体が拒否反応を起こした。
職場が急に怖くなってしまい、退職届を郵送で出した。電話に出ることが出来なくなってしまった。良くしてもらった上司からメールが届いた。仕事を辞めずに休職して貰いたいけど、どうしても辞めたいなら引き止めることはできないので、その時は退職手続きに必要な書類を書いて返送してほしい。落ち着いたら電話が欲しい。そんな感じの内容だった。俺は電話をかけることがどうしても出来ず、申し訳ない気持ちで頭が裂けそうになりながら退職手続きの書類を書いた。
その後、ずっと寝ていた。退職の通知と離職票が届いた。それから3日ぐらい寝ていたら、段々と気力が戻ってきた。菓子パンやカップ麺をやめて。簡単な和食を作った。暖かい味噌汁に、焼いた鮭に、炊いた白米と納豆。ぬか漬けも、添えた。
引きっぱなしだった布団を畳んだ。布団を干して、カバーを洗濯した。
部屋の掃除もした。
段々と身体が軽くなってきたので、俺は家を引き払って、実家に帰った。
今は実家で無職をしながら家の手伝いをしている。貯金は少しあるので、そこから毎月5万、家に入れて、のんびりと生活をしている。
朝早く起きて、5kmランニングした後、親の朝食を作ったり、母の作る食事を食べたりしている。
昼間は積読してた本を消化したり、プログラミングの勉強を初めてみたり、部屋の掃除をしたり、雨樋の清掃や、ガタついたドアノブの修理、壊れたコンセントの交換、エアコンのフィン洗浄など、やりたい事をやってのびのびと過ごしている。
夜も、食事を作ったり、母が作る食事を食べたり、買い出しに付き合ったりしている。
親は言わないが、普通に働いて欲しいんだと思う。俺も三十路だし、転職に有利なキャリアなんて何一つないし、この先たぶんお先真っ暗なんだろうけど、のんびりこうして過ごして生きていけるだけで、とても幸せを感じられるせいか、不思議と不安はない。ただ、若さが全てを楽にしてくれているだけだろうか。
最初に炎上したときになんだかなぁとは思っていた話題なのですが。
社民党から出されたこちらの声明(https://note.com/sdp_japan/n/n5ae62868e4f2)が話題になっているのを本日見て、ふとそのときの気持ちを思い出して考えていたらなんとなくネットにのせてみたい話を思いついた気がしたので書いている次第です。
結論から言うと、僕は伊是名さんや社民党の意見には全く賛同できません。
理由は単純で、この件に関してはJRに非がないと考えるからです。
僕は健常者です。
なので、障碍のある方々の立場、生活というものはいくら想像してもやはり理解することは難しいのだろうとは思います。だとしても重ねて言いますが伊是名さんや社民党の意見には全く賛同できません。
こういった形の炎上の大半は起こった『不利益、不条理』の中に潜む相手方の悪意を前提に話が進み、どんどんと話がよく分からない方向へ展開していくように思います。
この件では伊是名さんが『目的の駅へ行くのに大変な苦労をせねばならなかった』という『不条理、不利益』に対し、伊是名さん側はJRの『怠惰』という悪意を前提として話しているように感じます。伊是名さんはかなりの重量がある電動車いすに乗らなければ生活ができないそうです。ことの発端となったのは旅行の際の目的駅が無人駅で階段しかなく、事前連絡がないと人員の配置は難しく電動車いすを運ぶ対応ができないため隣駅での降車をお願いされたことです。この出来事を伊是名さんは『JRで車いすは乗車拒否されました(http://blog.livedoor.jp/natirou/archives/52316146.html)』とブログに書き、車椅子ユーザーへの無理解が原因で問題が起こったとの立場でJRを批判しています。このブログに書いてあることから『JRは怠けていると伊是名さんが言っている』と引き出すことは暴論ではないでしょう。
このブログがものの見事に炎上します。批判側は、タクシーの予約は1か月かかること、目的駅に階段しかないことなどを把握している(※上記ブログ参照)のに事前連絡を怠ったことに同じく伊是名さんの『怠惰』という悪意を見出して批判します。
そして、ここから『マスコミへの連絡を用意してるとかそもそも炎上目的なのでは?』という伊是名さん側の純粋な悪意を想像したり、『結局運んでもらった(※上記ブログ参照)のにありがとうの一言もないというのはなにごとか』という何よりもまずお気持ちの問題論がたくさん出てきたりして、どんどんと伊是名さんの人格攻撃の方面へと進んでいってしまい色んな方向に矢だの鎗だのが飛び始めます。
そしてこれが他の障碍者の方に刺さって『出かける度にありがとうと言う、つまり毎度誰かの手を借りなければ生きられないうしろめたさはやっぱり理解されない』という悲痛な叫びになったり、逆に『幼いころ横柄な障碍者の方にさんざんな目にあわされたのに、障碍者相手ということで親や教師はなにもしてくれなかった』という健常者の方の怨嗟の声になったりしています
話を戻したいのですが、問題は単純に『車いすユーザーの方が、車いすであるがために目的駅に行くのに大変な苦労をした』ということです。
すべての人が、どんな人であろうと望む場所へバリアなく行けることが望ましいということに反対するような人はほとんどいないでしょう。逆張りして反対を表明する人がいたとしても寒すぎて誰にも相手にされない程度に圧倒的に。
ここまで攻撃的な話題になってしまったのは、最初に言った通りどちら側も相手に『悪意』を見出そうとしてしまっているからだと思います。
わかりやすく言えばどちらも『お前が悪い』と言ってしまっているからです。そして、もともとの問題そっちのけで自分の側から見て悪く見えるところをあげつらって攻撃が止まらなくなってしまうという話なのだと思います。
無人駅に人員を配置してなかったJRが悪いのか? 事前連絡をしなかった伊是名さんが悪いのか?
どちらも全く『悪く』ないと僕は思っています。
話が少しそれるようなのですが、歳を重ねてから僕は『しょうがない』という言葉が大好きになりました。
不貞腐れたり、できっこないと可能性を否定するために使われることもありますが、僕は現状をしっかりと見据えるための言葉として好んで使います。
今できないことは『しょうがない』。ではできるようにするためにはどうすればいいか?と、今を理解して次の一歩を考える言葉として考えています
先ほども書いた通り、社会のバリアフリーは推し進めていくべきです。ですが、現状そうなっていないのはしょうがないのです。JRはバリアフリー化に対し少なくとも悪意を持って遅らせてはいないでしょう。
そして、企業として余分な人員を余らせておけないのもまたしょうがないのです。
こういう話になると近頃では『健常者の無意識の差別だ』という論調が出てきますよね。だからこそ、冒頭のなんだかなぁという気持ちだったわけなんですが。
長くなったんですが実はここからがネットに書いてみたいと思った思考実験でして。
無人駅がバリアフリー化されていないのがJRの怠惰、拡大解釈すると健常者の無意識の差別だというのであれば、女性や子供でも簡単に持ち運べるような車椅子が開発されていないのは車いすメーカーの怠惰、同じく拡大解釈すると健常者の無意識の差別という話も成り立つのではないか?
ということです。
どういうことかというと『駅がバリアフリーだったら車いすでも行けたのに→差別』という図式が成り立つのであれば、『車いすが簡単に運べれば車いすでもいけたのに→差別』という図式も成り立つのではないだろうかという、バカみたいな話です。でも、正直バリアフリー化を進めるのに必要な時間とお金と、軽量な車いすを開発するのに必要なそれって同じくらいなんじゃないでしょうか。
自分で書いててもバカバカしくなってきてしまいましたが。でも、正直『今現在バリアフリー化されてない駅がある』という事実を『健常者の無意識の差別』に結び付けるのは、同じくらい馬鹿馬鹿しいと思ってます。
何度でも書きますが、社会のバリアフリーは推し進めていくべきです。ですが、現状そうなっていないのはしょうがないのです。誰かがズルをしたり、怠けたり、悪いことをしたりしているのではないのです。
違う属性の相手に『無意識の悪意』を見出して攻撃する活動は、もう限界にきていると思っています。
願わくば、対話と相互不理解を相互不理解のまま受け入れる寛容さによって融和が実現する社会にならんことを
酒がうまい
おやすみなさい
男性社員5人が生理用ナプキンを買いに行ったら…? 購入してきたものに驚き! – grape [グレイプ]
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/grapee.jp/949739
「ないと困るものなら多めに買っておけ」とか「少々違ってもせっかく買ってきてもらったんだからその場しのぎで使っておけ」とかいうブクマが散見されたので。
端的にいうと漏れる。
朝起きた瞬間、感覚で漏れたことを確信したとき、まず願うのは願わくばパンツでとまっておいてほしいということ。
ズボンも無理でシーツまで貫通していた場合は朝から絶望がやってくる。
ただでさえ、体が重いのに、朝からシーツを洗濯するという労働が発生する。
そして何よりテンションがかなり下がる。
例えば記事にもあった、「ショーツタイプが必要なほど経血が多いのに、350mmの夜用を買ってこられた」場合、高確率で漏れるのではないか。
生理のある多くの女性は生理用品は常日頃数種類を常備していると思う。
しかし種類が多いがゆえに「一番多い日なのに、400㎜の夜用だけ切らしている…」という事態が発生しうる。
家の備蓄が完璧だったとしても、外出の際に持ち出すポーチの補充をしていなかった!という事態もまま発生する。
昼休みにドラッグストアやコンビニに生理用品をこっそりかいにいくハメになる。
ルナルナあるし生理来る日ぐらい事前にわかるやろ!と思うかもしれない。
予定日はあくまで予定日でしかなく、1週間ぐらい平気でずれる。
その間、万一来た時に備えて、昼用・夜用ナプキンをかかさずつけないといけないし、今日は大丈夫やろと思った日に限って始まったりもする。
わたしは全ての男性が、女性と同じように生理用品を選べるようになってほしいとは思わない。
だけど、こうした記事が目に留まることで、「生理用品なんかに金をかけるな」とか「生理用品は性的な物だ」と考える人が少しでも減ってくれることを願う。