第一印象では「気持ちはわかる。が、私はここまで自分が事件(京アニ放火事件)に加担してないと割り切ることができない」と思った。
私は美術を専門として学んだこともあるし絵や漫画も描いていた。ファイアパンチは読んだけどチェンソーマンは読んだことない。藤本先生のことはあまり知らない。
ルックバックがどれくらい京アニ放火事件に向けて描かれているのかはわからない。でも内容、公開日からして意識せずにはいられない。
素晴らしい作品を生み出した人たち、これから生み出す人たちが失われたことへの驚きや悲しみややるせなさはわかる。怒りも。
世代的にオタクの市民権がなかった時代も生きてきたし、オタクである、クリエイターであるというだけで連帯感がある感覚もわかる。
ただ、事件があまりにも天災や事故のように表現されているなと思った。まるで事件が起きたことは自分たちとは全く関係ないと思っているのかと思った。
京アニ放火事件の犯人は事件後病院で治療してくれる人たちの優しさを感じている、といった報道がされていたと思う。その優しさを、人の温もりを、事件前に少しでも彼が感じていたら、あの悲しい事件は起きなかったのではないか。彼を孤立させ追い詰める社会を作ったのは我々に他ならない。
放火事件も殺人事件もテロ行為も、加害者は突然変異やバグなんかじゃない。私たちの一部だ。起きる前も起きた後も私たちは関わり続けているし、少しでも違う社会だったら食い止められたかもしれない事件だ。逆に私だっていつ「あっち側」になるか分からない。そのぐらい紙一重だと思っている。
だってそう思わないと救いがないじゃないか。天変地異のように、地震のように、いつ来るかわからない暴力に怯えるしかなくなってしまう。それよりは我々の努力次第で無くせた、無くせる事件だと思いたい。
そりゃ目の前で声かけられたか?お前に救いの手を差し伸べられたか?と問われたら言葉に詰まるよ。でも目を逸らしちゃいけないだろ。個人じゃできない社会の問題を解決するのが政治や福祉の役割だろ。その主権を握ってるのは私たちだろ。
犯人のことを擁護しているわけではない。罪は罪だし、怒りは感じるし、罰を受けてほしいと思う。犯罪としては情状酌量の余地なんてない。でもどうにかして反省して人生を立て直してほしいとも思う。被害者や遺族からしたら理解できないかもしれないけど、私はそういう社会であってほしい。
ルックバックのような受け取り方が、あの事件について考える時の救いになる人たちもいるんだと思う。そこは否定しない。
でも加害者の立場に立ったとき、あの漫画を読んだらきっと追い詰められるだろう。社会に行き場がないと感じるだろう。
ルックバックを不適切だと断罪するつもりはない。たくさんの複雑で大事な感情が描かれた素晴らしい作品だ。
ただ願わくば、少しでも加害者側の視点や寄り添う気持ちがある作品も生まれてほしい。自分を含めたいつかそっちに行ってしまうかもしれない人たちに、希望や、立ち止まるキッカケになるかもしれない作品も生まれてほしい。そういう思想の多様性が文化や社会を豊かにしてくれるんだと思う。
「あっち」と「こっち」に分けてる時点で無理だろ
最近不安になってるんだけど、あの事件は「自分の書いた読み物をパクられたと考えた人が犯行に及んだのだ」というとこは共有されてるんでしょうか それともその後何か新情報でもあ...