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はてなキーワード: 新潟県とは

2020-06-10

anond:20200610230015

日本共産党の方ですか? 言い訳が同じパターン。見回ってるんですね。おじいちゃんお疲れ様

 

「当時、〝帰国団体〟として、朝鮮総連帰国協力会、日朝協会があり、新潟県帰国協力会・日朝協会事務局員は4人全員が共産党員でした。また朝鮮総連の人たちも、戦後すぐは日本共産党員として活動していた時期がありました

 

https://blogos.com/article/230308/

2020-05-21

今回の「黒川賭けマージャン騒動」で思い出した事件

新潟少女監禁事件

約9年間、母親と同居していた男が少女監禁していた事件

母親少女存在に気付かなかったことで大きな話題となった。

また、以下に述べる警察対応問題視された。

以下ウィキペディア新潟少女監禁事件」より引用脚注は省略)

少女発見当日、新潟県警には当時各地の警察を視察に回っていた警察特別監察チームのトップである関東管区警察局長(以下、局長)が訪れており、

視察後、局長と県警本部長(以下、本部長)を含む県警幹部たちは新潟三川村ホテルに1泊する予定であった。

ホテルに向かう車中で刑事部長より本部長に対して「三条市で9年2カ月前に行方不明になった少女発見された」という一報が入り、以後はホテルの宴席上にFAXで続々と報告が寄せられた。

この様子を見た局長本部長に「(県警本部に)帰ったらどうだ」と促したが、本部長は「大丈夫です」と取り合わなかった。

食後は局長本部長、生活安全部長、総務課長生活安全企画課長が参加し、図書券を景品とした麻雀が行われた。この間も本部長は報告を受け続け、少女発見保護状況に関して虚偽発表を行うことの了承もこの場で行った。翌朝、朝食を終えた本部長らは捜査本部設置を指示するなどしてから帰途についたが、すぐに警察本部には戻らず、その帰路に本部長は局長ハクチョウ飛来の名所である水原町の瓢湖へ案内した。

それから新潟市内に戻り昼食をとった後、局長東京へ戻り、本部長は県警本部ではなく県警公舎に13時50分頃到着した。

ちなみに「図書券ネタは当時の「こち亀」にも使われ、中川が断っているのに、負けたからと言って無理やり現金を渡そうとした両津

部長とがめたところ、「現金を渡そうとしたんじゃなくて図書券を渡そうとしたんです。ニュース合法と言ってたし。」と言い訳した

というギャグがあった。賭け事に対しては異常なほどの真摯さを見せる両津ならではのシーンである

2020-05-12

吉原繁栄の裏で「身売り」された貧困家庭の娘たち

https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/8905/

旗本と思われる匿名の著者の筆になる『世事見聞録』(文化13年)は、農村の身売り事情にについて――

 国々の内にも越中越後出羽辺より多く出るなり。わづか三両か五両の金子に詰まりて売るといふ。

 と述べ、越中富山県)、越後新潟県)、出羽山形秋田県)の貧農が幼い娘を三~五両で女衒に売っている、と。

 不作などで困窮した農村女衒がまわり、女の子仕入れていたのである

 

コロナが終息したら絶対面白いことがある。美人さんがお嬢風俗嬢)をやります。短時間お金を稼がないと苦しいですから。今はお金を貯めて踏ん張りましょう」

2020-05-07

anond:20200507171805

新潟県阿賀野市五頭連山で起きた親子遭難事故では、山で迷った人間下山するときはしばしば道を誤りやすく、悲惨な結末を迎えるという事実を突きつけられた。

人生に迷って、男性役割から降りるときも、最新の注意を払わないと最悪の結末を迎えるだろう。

これを避けるには、誰かが正しい降り方を示さなくてはならないと思うのだが、

境遇が人それぞれすぎてなかなかうまくいかないようだ。

2020-04-21

新潟県だけど川口ナンバーの車がラーメン屋入っていったわ。

勘弁してくれや。

2020-04-19

正しい為政者のいる自治体ふるさと納税したい

「今使わずしていつ使うのか!」と言って全町民に制限なく一律給付をする福岡県上毛町

規制自粛している緊急事態宣言対象地域にいる市出身学生に、コシヒカリ、みそ。漬物マスク仕送り」をした新潟県燕市

どうせ年末までには、ふるさと納税するんだし、馬鹿菅のおかげで自治体ごとの還元率の差は無くなったから、こういう取り組みの評価ふるさと納税先を決めていこうと思う。

他にどこがあるか教えて。

2020-03-23

anond:20200323101450

https://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20200305528992.html

新型コロナウイルス禍でタイガーマスク参上? 新潟県柏崎市役所で3日、「市長様 伊達正人より」と書かれた現金10万円入りの茶封筒が見つかった。人気プロレス漫画主人公伊達直人を意識したとみられる。市は寄付金として処理し「コロナウイルス対応への激励かは分からないが、ありがたい」と感謝している。

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2020-02-11

anond:20200211081532

電気ガスが止まっていない

通学に支障がなかった

この時点で貧乏を名乗るのはまだ早い

順位 市区町村 都道府県 平均所得

1位 港区 東京都 1126万4535円

2位 千代田区 東京都 999万1758円

1653位 西会津町 福島県 234万2286円

1654位 伊平屋村 沖縄県 234万635円

1655位 鹿角市 秋田県 233万9660円

1656位 大蔵村 山形県 233万9044円

1657位 川崎町 福岡県 233万8802円

1658位 九重町 大分県 233万5802円

1659位 羽後町 秋田県 233万5355円

1660位 鶴田町 青森県 233万4497円

1661位 添田町 福岡県 233万2250円

1662位 海陽町 徳島県 233万643円

1663位 大月町 高知県 232万5385円

1664位 金山町 山形県 232万4416円

1665位 錦町 熊本県 232万4090円

1666位 大和村 鹿児島県 232万2788円

1667位 鰺ヶ沢町 青森県 232万2160円

1668位 伊是名村 沖縄県 232万1528円

1669位 あさぎり町 熊本県 231万9179円

1670位 八峰町 秋田県 231万6673円

1671位 北塩原村 福島県 231万4989円

1672位 産山村 熊本県 231万4753円

1673位 三戸町 青森県 231万3863円

1674位 南伊豆町 静岡県 231万3505円

1675位 東峰村 福岡県 231万1260円

1676位 室戸市 高知県 230万9666円

1677位 南島原市 長崎県 230万6889円

1678位 軽米町 岩手県 230万5787円

1679位 甲佐町 熊本県 230万5231円

1680位 国富町 宮崎県 230万3639円

1681位 つがる市 青森県 230万389円

1682位 伊根町 京都府 229万9383円

1683位 今別町 青森県 229万8453円

1684位 北川村 高知県 229万7039円

1685位 御杖村 奈良県 229万6785円

1686位 阿賀町 新潟県 229万6437円

1687位 三朝町 鳥取県 229万1144円

1688位 葛巻町 岩手県 229万9円

1689位 美里町 熊本県 228万9922円

1690位 風間浦村 青森県 228万8468円

1691位 五木村 熊本県 228万5800円

1692位 阿武町 山口県 228万4392円

1693位 土佐町 高知県 228万1679円

1694位 平川市 青森県 227万9516円

1695位 蓬田村 青森県 227万8949円

1696位 神山町 徳島県 227万5931円

1697位 芦北町 熊本県 227万2051円

1698位 売木村 長野県 227万378円

1699位 竹富町 沖縄県 226万8425円

1700位 美郷町 宮崎県 226万6970円

1701位 木城町 宮崎県 226万2017円

1702位 南大隅町 鹿児島県 226万585円

1703位 姫島村 大分県 225万8910円

1704位 戸沢村 山形県 225万8266円

1705位 田舎館村 青森県 225万8148円

1706位 水上村 熊本県 225万6149円

1707位 黒石市 青森県 225万3134円

1708位 南牧村 群馬県 224万9558円

1709位 綾町 宮崎県 224万8322円

1710位 日高村 高知県 224万6717円

1711位 宜野座村 沖縄県 224万5636円

1712位 板柳町 青森県 224万4585円

1713位 伊仙町 鹿児島県 224万3803円

1714位 安田町 高知県 224万3235円

1715位 波佐見町 長崎県 223万8519円

1716位 三原村 高知県 223万4753円

1717位 相良村 熊本県 223万3356円

1718位 松野町 愛媛県 222万4337円

1719位 根羽村 長野県 222万2805円

1720位 若桜町 鳥取県 222万1295円

1721位 今帰仁村 沖縄県 221万7447円

1722位 夕張市 北海道 221万4783円

1723位 神流町 群馬県 221万3174円

1724位 湯前町 熊本県 221万414円

1725位 上野村 群馬県 219万1039円

1726位 九戸村 岩手県 219万814円

1727位 歌志内市 北海道 218万6140円

1728位 深浦町 青森県 217万6434円

1729位 津奈木町 熊本県 217万6349円

1730位 本部町 沖縄県 215万8076円

1731位 国頭村 沖縄県 215万4507円

1732位 大豊町 高知県 215万2545円

1733位 藤里町 秋田県 214万964円

1734位 西目屋村 青森県 212万9073円

1735位 山江村 熊本県 212万3908円

1736位 大鰐町 青森県 211万8447円

1737位 東成瀬村 秋田県 210万8069円

1738位 上砂川町 北海道 209万7479円

1739位 上小阿仁村 秋田県 208万7154円

1740位 大宜味村 沖縄県 204万9563円

1741位 球磨村 熊本県 201万3656円

2020-01-19

anond:20200119162513

うそう。

朝鮮総連の人たちが党員だった時代があるんだが、それじゃ、いろいろ辻褄が合わなくなってさ、日本国籍のみにしたんだ。

https://www.d3b.jp/politics/6988

「当時、〝帰国団体〟として、朝鮮総連帰国協力会、日朝協会があり、新潟県帰国協力会・日朝協会事務局員は4人全員が共産党員でした。また朝鮮総連の人たちも、戦後すぐは日本共産党員として活動していた時期がありました。」

帰国事業自民党社会党などの超党派帰国協力会を推進母体として組織し、多くのマスコミ応援して実施されたものですが、その手足となって支えたのは日本共産党党員です。」

「振り返ってみると、北朝鮮社会主義国でなかったら、帰国事業存在しなかったと思います朝鮮総連主体となり、日本共産党が中心となってそれを支える形で、この事業は行われました。」

2019-12-28

anond:20191228005113

日本共産党ネット部隊のおじいちゃん。もうおネムじゃないの?

ちゃんと、文章読もうね。目薬さして。

https://www.d3b.jp/politics/6988

「当時、〝帰国団体〟として、朝鮮総連帰国協力会、日朝協会があり、新潟県帰国協力会・日朝協会事務局員は4人全員が共産党員でした。また朝鮮総連の人たちも、戦後すぐは日本共産党員として活動していた時期がありました。」

帰国事業自民党社会党などの超党派帰国協力会を推進母体として組織し、多くのマスコミ応援して実施されたものですが、その手足となって支えたのは日本共産党党員です。」

「振り返ってみると、北朝鮮社会主義国でなかったら、帰国事業存在しなかったと思います朝鮮総連主体となり、日本共産党が中心となってそれを支える形で、この事業は行われました。」

anond:20191228004927

よく日本共産党員がやる、すり替え論法たかーー。

なので話を戻すが、北朝鮮帰国事業の「その手足となって支えたのは日本共産党党員」(元日共産党員 小島晴則)という事実

自民党が、何だって

はい、復習。

「当時、〝帰国団体〟として、朝鮮総連帰国協力会、日朝協会があり、新潟県帰国協力会・日朝協会事務局員は4人全員が共産党員でした。また朝鮮総連の人たちも、戦後すぐは日本共産党員として活動していた時期がありました。」

帰国事業自民党社会党などの超党派帰国協力会を推進母体として組織し、多くのマスコミ応援して実施されたものですが、その手足となって支えたのは日本共産党党員です。」

anond:20191227223402

おまえ、日本共産党の手先?

根拠もないのに、ごまかそうと必死すぎるわ。

帰国協力会に8年在籍し、155回にわたって北朝鮮に渡る船を見送った元日共産党小島晴則さんが、ついにゲロったやん。

これみろよ。日本共産党も訴えられない記事らしいな。

創価系だけどな。まあ、関係いか

https://www.d3b.jp/politics/6988

★当時、〝帰国団体〟として、朝鮮総連帰国協力会、日朝協会があり、新潟県帰国協力会・日朝協会事務局員は4人全員が共産党員でした。また朝鮮総連の人たちも、戦後すぐは日本共産党員として活動していた時期がありました。

帰国事業は自民党社会党などの超党派帰国協力会を推進母体として組織し、多くのマスコミ応援して実施されたものですが、その手足となって支えたのは日本共産党党員です。

★当時、日本共産党北朝鮮朝鮮労働党名実ともに「兄弟党」の関係にありました。帰国者のほとんどが実際は韓国地域出身者でしたが、その人たちが自分故郷とは異なる北朝鮮に渡るということは、平等社会建設という〝新興宗教〟のようなイデオロギーを信じていたからにほかなりません。

日本共産党員であった寺尾五郎氏が『38度線の北』という北朝鮮を讃える本を出版し、多くの人がそれを信じて帰国したのです。

★私も最初の船を送り出した昭和34年12月のことは忘れられません。波止場での絶叫シーン――。時代を動かす大事業に参加しているという高揚感と、社会主義朝鮮と直接関わることの気分的な優越感を抱き、月給は当時のサラリーマン3分の1程度でしたが、張り切って働きました。

2019-12-06

新潟県はなぜ外向けのPRが下手なのかを考察する

こんにちは、生まれも育ちも新潟県民です。上越市出身で、ここ数年は新潟市に住んでいます

新潟県観光に来てくださった方々や、移住してきた方々は、口を揃えて「こんなに良いものがたくさんあるなんて知らなかった。もっと上手に全国へPRした方がいい」と言ってくださいます。ありがたいことであるとともに、住んでいる人間としても課題意識は持っていたいところです。

という綺麗事は口では言えるのですが、実際に住んでいると、自分たちはその「良いもの」を美味しく楽しく最大限に享受しておりまして、ぶっちゃけほとんど課題意識というものが湧き上がってきません。外から来た人たちと中にいる人たちにギャップがあるのです。

これは一体どういうことだろう、と考えてみたところ、現状を成立させうる力学についての仮説が自分の中に生まれたので、ちょっとメモしてみます

解決策の提案ではなく、なんとなく見えている世の中の姿(もしかしたら妄想も含む)を元に現状の追認をするだけの記事なので、あんまり生産的ではなさそうです。

文化が内側に閉じる傾向がある

県外の方々が仰るとおり、新潟には良いものがたくさんあります

パッと思いつくだけでもこれだけありました(新潟市に寄ってるので、他の地域を見れば)。私はラーメン枝豆ビールも大好きなので、天国です。ありがとう新潟。愛してる新潟

というわけで、県内にいる分には結構楽しいのです。

県民県内で美味しさや楽しさを地産地消できていますおそらく、ここに問題の切り口があります

文化産業が、良くも悪くも県内の人々の間で完結してしまっているように感じられるのです。どうしてこうなったのでしょうか。

私は、「人の動き」と「地理的条件」の2点に原因があるのではないかという仮説を立てました。

近代新潟県人口日本

今でこそ首都圏への人材流出問題になっていますが、明治期の新潟県国内でも有数の人口が多い都道府県でした。次の記事が詳しいです。

なぜ新潟石川が「人口日本一」だったのか? 都道府県人口推移から見る、日本近代化の歴史(1/4) | ねとらぼ調査

https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/1167/

「稲作を中心とした第一次産業」という分野において、越後平野柏崎平野高田平野の3つの広大な平野を擁する新潟県は、地理的な強みを持っています上記記事にもあるとおり、この強みと海運の拠点になったこから新潟県は賑わいました。

人がたくさんいるということは、多様な文化が生まれます。この頃の賑わいによって、新潟県には豊かな文化を育む土壌が生まれたのではないかと思われます

全方位に隔絶された陸路

さて、単に豊かな文化を持つだけであれば、それを元に隣県と交流していくうちに評判が広がっていったのでしょう。

しかし、残念なことに、新潟県は全方位を海と山に囲まれており、あまりカジュアルに隣県と交流することができません。

海運が盛んだったうちは問題なかったのかもしれませんが、時代の移り変わりで陸運が中心になっていく中で、新潟県が外部と交流する機会は少なくなっていったのでしょう。そりゃあ田中角栄先生も山をぶち抜いて県外への道を切り開こうとするわけです。

外との交流はないけど人と文化はある

そんなわけで、

という、現在まで繋がる新潟県の姿が形成されていったのではないかと思われます

その結果、文化地産地消する力学が、とても強く働いたのではないでしょうか。

旨い食べ物が作れたら、他所に持っていくのも大変なので自分たちで食べればいいのです。幸い、喜びを分かち合う隣人はたくさんいます

良い道具が作れたら、他所に売るのは商人に任せて、自分たちは隣人たちと切磋琢磨すればよいのです。わざわざ山を越えてくる職人も少ないので、狭い街の中でひたすらお互いを高め合うことになったのでしょう。

隣県や都会まで行ってイベントに参加するのは遠すぎて大変なので、自分たちでやろうとしたのでしょう。

こうして、県民県内で美味しさや楽しさを地産地消する新潟県が、生まれたのではないでしょうか。

じゃあ、これからはどうしたらいいんだ

わからん……もう俺たちの魂には文化地産地消が刻み込まれしまって、PRするというのがどういうことなのかわからなくなってしまった……

地理条件的にふらっと通り道に寄ってもらうことも難しいので、「新潟に行きたい」というモチベを持ってくれた人しか来ないんだろうなと思うと、やっぱり先にPRするしかないんだろうなというのはわかるんじゃが……

なんかもう、俺たち新潟県民が新潟を楽しんでいる姿をガンガン発信していったほうが、いっそ上手く回るんじゃないか

ちょっとまらないけど、これだけは言える。新潟県を一番楽しんでいるのは、新潟県民だ。からみんなも、気が向いたら、楽しみに来てくれ。旅行でも移住でもいい。楽しみに来てくれ。頼むぞ!

2019-11-18

乳幼児スナイパーによる標的拘束術

この数日間に渡り乳幼児スナイパーのプロでなおかつ大人で常在戦場な俺の闘いの記録を記してきたが、とりあえず本稿にてて一区切りとさせて頂く。読んでくれてありがとう。またいつか何事も無かったかのように始めるかもしれないがそのときよろしく

この業界、標的への攻撃に関するさまざまなノウハウを持っている同業者は多いが、標的を確保拘束する際のノウハウを持たない者も多くいる。もちろん自身子供がいる、近親者に子供がいる場合はこの限りではないが、そのいずれにも該当しない独り者の同業者はいざその事態に直面したときにたじろいでしまうことが多いと聞く。

なので常在戦場大人のスナイパーとして、そんな同業者たちに対して標的の確保拘束に関する技術を記しておくので、その事態に備えていただきたい。なお俺もそんな事態に直面したことはないのだが。

まず左腕。ここは肘打ちの形に曲げる。ブロック塀くらいなら粉砕できる必殺のエルボーだ。肩の高さで構えてゆっくりと降ろして脇をしめる。瞬間的な破壊力は勿論だが長時間に渡る荷重、負荷に耐えうる筋力を身に付けておくことが望ましい。日頃から瓦割りなどで鍛錬を積んでおいて欲しい。

次に右腕。これは手のひらを上にして空手の貫手を作る。ベニヤ板くらいなら貫ける必殺の貫手だ。実戦の貫手と違う所は親指を曲げずにまっすぐにする所である。日頃から指立て伏せボルダリングなどで鍛錬を積んでおいて欲しい。

型についてだが、まず左腕をエルボーの体勢にしてゆっくりと脇をしめたら、右腕の貫手をそっとその下にしのばせる。イメージとしては敵と対峙したさい、肘打ちでフェイントをかけ、肘の下にしのばせた必殺の貫手で仕留めるつもりで構える。この場合、左腕だけで拘束することはお勧めできない。不測の事態で腕をすり抜けて標的が落ち、そこをジャッカルされてしま可能性があるからだ。必ず右の貫手をエルボーの下にしのばせること。

そうして標的の赤ん坊の後頭部をまず左のエルボーの内側に乗せる。正確には首が座ってない場合が多いので、首と後頭部の間だ。そして右の貫手の上に標的のお尻を乗せる。このとき指は添える程度にしておく必要がある。標的が拘束中にぐずり始めたら、日頃から指立てで鍛え上げた四本の指で標的の背中ポンポンリズミカルに刺激することで「お前は逃げられないのだ」と静かに威嚇することができる。日頃から指の鍛錬を要するのはこれが理由である

以上のプロセスと心構えでもって標的の捕獲拘束に成功したあかつきには、至近距離での視線、あるいはこの世の最期のような表情でもって、哀れな標的を心ゆくまで恐怖のどん底に突き落とすことが可能となるだろう。

たこメソッドだが、基礎的な鍛錬はともかく実際に負荷をかけるより実戦的なトレーニングの場が少ない。そんな場合スーパーの米売り場がお勧めである。「さてこの米の産地はどこかな?ほう新潟県魚沼産だと?しか無洗米か」という顔をしながら5キロ程度の米袋を今言った型で持つことで、周囲の目を欺きながら実戦的なトレーニング可能である。ただしポンポンまではしない方が良い。

以上が俺から同業者に対して共有した標的の確保拘束術である。これを読んだ同業者諸、君も明日からレッツエルボーだ。

2019-11-17

事実誤認ブコメ

https://b.hatena.ne.jp/entry/4677289746617677442/comment/doroyamada

沿線府県といいながら沿線扱いするなと。」

このブコメは、記事事実関係を色々と読み違えています

事実誤認が広まるといけないので、増田でこのブコメ根本的に間違いである論拠を三つ提示して、誤解を解いていきたいと思います

①「湖西線並行在来線にしないで」と主張しているのは『関西広域連合

沿線府県でつくる北陸新幹線建設促進同盟会が主張したわけではないのに、誤解しています

現在北陸新幹線建設予定ルートは、滋賀県を通らない

滋賀県沿線府県ではないのに、誤解しています

湖西線のある滋賀県は『建設促進同盟会』に加盟していない

https://www.pref.nagano.lg.jp/kotsu/happyou/191108press.html

上のURLプレスリリースに書かれている通り

建設促進同盟会は「東京都埼玉県群馬県長野県新潟県富山県石川県福井県京都府大阪府」で構成されています

滋賀県沿線府県の立場から政治的要求を通そうとしているわけではないのに、誤解しています

北陸新幹線滋賀県を通らない」

建設促進同盟会にも滋賀県は加盟していない」

物理的にも湖西線北陸新幹線並行在来線とは言い難い」

これらの事情から湖西線三セク切り離しに、滋賀県関西広域連合が反対するのは、当然のことと言えます

それをまるで(滋賀県はおいしいおもいだけして、ごねている)かのように言われるのは心外であり

不当な批判と言わざるを得ません

どうかその点、ご理解ください

2019-11-16

anond:20191115012558

米百俵の話は大変有名な話ですよね。

私は、新潟市に4年前から住んでいる県外出身の者ですが、新潟県県民性温度差が大きいです。

上越新幹線冷遇問題」を書かれた方のブログを読めばわかることです。

十中八九新潟市であると推測しています

長岡・魚沼地域上越糸魚川地域市民性…謙虚現実的・堅実的、歴史を非常に大切にできる、浪費ではなくコスパを大切にする。

新潟市…強欲で傲慢歴史を大切にできない。すべてが中途半端、「BRT」など新しいものや物珍しいものにすぐに飛びつき、次々とつくっては、失敗することの繰り返しで、反省するということを知らない。金銭感覚無頓着で、あるだけ浪費する。

政令指定都市移行後、この身の丈以上のモノを求める風潮はさらに強いものとなりました。

熊本市岡山市も後発政令市ですが、身の丈以上のことをやろうという強欲はありません。

政令指定都市」という称号を与えてはいけなかった街、それが「新潟市」です。

私は、長岡上越には何度でも行きたいし、応援したいし、ふるさと納税もしたいですが、新潟市だけは二度と住みたくないし応援観光にも行きたくありません。

精神衛生上悪くなるだけですから

2019-11-15

anond:20191114163008

>昼間の時間帯の越後湯沢行きのたにがわは大幅に削減されたりした

そりゃたにがわ使う新潟県民は魚沼の人間くらいで、ほぼ群馬県民用だろあれは

なので北陸新幹線の分高崎止まる列車が増えれば、その分のたにがわは減らしても問題ないわけだ

2019-11-14

anond:20191114163008

個人的見解ではあるけど冷遇しざるを得ない気がする。

1→上越新幹線より東北新幹線のほうが輸送エリアが広い、上越新幹線高崎出るとトンネル工事事情カーブ多い上、新潟県に入るとあまり駅間長くないから速度出しづらい。地形的な制約であるから新車両開発で解決出来ない。

2→そうなの?

3→北陸越後湯沢東京ルートがなくなって北陸新幹線に流れたかダイヤが減るのは仕方ない。

4→峠越え、周波数長野以北は12両固定ホームドアなのでE7W7でしか営業運転できない。長野E2スクラップにされちゃった。

でも上越用E7はデザイン大幅に変えてほしかったナア。ピンク線だけじゃねえ…

2019-10-14

治水について

追記

とても勉強になるまとめをみつけたのでお知らせしたい。

岐阜大の先生が今回の災害を振り返っている。

どういうわけかうまくリンクを貼れないが、ここ→ www.green.gifu-u.ac.jp/~bhdlab/?p=1391

以下、増田駄文。大変不勉強で、特定の方々をディスったりして申し訳なかった。こんなものをみる無駄時間節約してほしい。

ーーーーー

台風19号治水の大切さについていろいろと考えさせられた。

実は、恥ずかしながら、治水ことなど今まではっきり考えたことはなかった。

休日で暇だったのが幸いして文献を読みまくることができた。

一部、ツイッターなどでは事実上運転を開始した八ッ場ダムが2日間で満水にしたこと

利根川洪水を防いだのではないか話題になっている。

何が税金の無駄だ…台風19号 「八ッ場ダム」賞賛の声が相次いでいる – ジャストニュース

ガンダムになぞらえるなど、まるでヒーローのような扱いだ。へー、ダムってすごいんだな、と思った。

それに対して、冷静な反論も多く見られた。いわれてみれば、

利根川水系の治水対策は、八ッ場ダムけが頼みの綱だったわけではないし、むしろ未完成現在では既存利根川流域の治水計画範囲外のはずだ。

台風接近中、いろいろ文献を読んでみた。日本治水というのは、思ったより興味深いものだった。

数々のツイッターが注意しているように、今回の台風19号八ッ場ダム治水効果技術的な検証を待ってから、というのはその通りだと思う。満水したからといって大騒ぎするのは早計。

一見すると冷静っぽいけど、乱暴反論もあった。

Spica on Twitter: "そもそも論として、八ッ場ダムは利根川水系全体のダム貯水量の何%を占めるのか、八ッ場ダムの貯水量を利根川の流域面積で割るといくつになのか(=防いだ水面上昇量)、という定量的な視点なしに「八ッ場ダムが利根川を救った!」という単純な物語に収束していくのが危険で滑稽 https://t.co/IGUM0RUJCc"

とかね。

百歩譲って、流域全体に均一に雨が降るという前提なら成り立つんかね??定量的って、、、、全く。

そのなかでも、ちょっと気になったのは、以前より長い間、八ッ場ダム反対運動をしてきていると思しき人たちのツイッターブログの書きぶり。

あしたの会とかそんなやつ。以下、「彼ら」。

ひとことでいうと、彼ら、存在しない夢の総合治水像ですべての物事を語っている印象だ。しか上記ツイッターと同レベル科学を装っているから始末にわるい。

具体的にもっと違和感を覚えたのは、堤防管理では越水耐性を強化すべきとしている点。

堤防で水際の越水対策をきちんとやっていればダムなど必要ないというわけだ。

一方、国交省は、堤防の耐越水技術確立されていないとして、導入にすら消極的だ。

それに対して、彼らは、いやそれはダム偏重治水だケシカラン!安価で確実なものができるはずだ!ダム派の陰謀だ!と主張。

おおむね、こんな感じ。

応答する論理がぶっ飛んでしまって、彼らは自分だけ左翼っぽい政治闘争のレールに勝手に乗っかってしゃべっていて、

話がかみ合わなくなっている印象だ。

ダム反対派ってこういう感じなのか、、と実感した。今後はそっ閉じかな、と。

少し時間をさかのぼって、昨日の未明のことを話す。読売新聞が、「利根川決壊の恐れ」とのニュース報道した。

国土交通省関東地方整備局によると、埼玉県久喜市栗橋利根川で氾濫危険水位を超え、13日午前3時以降、同県加須市利根川渡良瀬川の合流点で越水し、堤防決壊する恐れもあるという。このため、両市は防災行政無線などで近隣住民避難を呼びかけている。

https://www.yomiuri.co.jp/national/20191013-OYT1T50008/?fbclid=IwAR3Qx2agzmJXMNhcbSqHfv0ikhreIMAzdALb9YHpsKiUg-hJL24qPzcWqgM

すでに、昨日の時点で、いろいろ文献をあさってて、関東平野治水ちょっとは詳しくなった気になっていたころだった。

決壊すれば、近隣住民避難どころの話ではなく、下流域の春日部市から江戸川区に至るまで広範囲に水没し、カスリーン台風の二の舞になる恐れがある、ということがとっさに分かった。

水位情報確認すると、確かに栗橋観測地点において、氾濫危険水位を超えてじわじわ水位上昇中だった。堤頂から2mくらい下まで水位が来ており、台風強風によるうねり考慮すると、越水が気が気でない状況。

そこで同地点の洪水対策をググってみたら、彼らのウェブサイトがヒットした。

NHKが報道した利根川の決壊を想定した浸水のシミュレーション | 八ッ場(やんば)あしたの会

彼らは、2017年当時、NHK報道した利根川決壊を想定した浸水シミュレーション批判し、次のように主張する。

今回のシミュレーションは、利根川栗橋付近埼玉県久喜市)の決壊で溢れた洪水が、中川農業用水の排水河川)を通して東京都内まで短時間で到達するとしたものです。利根川の氾濫洪水が流下するバイパス中川がなることはあり得ることだとは思いますが、そもそも利根川栗橋付近堤防決壊する危険性がどの程度あるかが問題です。

 栗橋付近から上流の利根川中流右岸および江戸川上流部右岸では、土地を買収して堤防の裾を大きく拡げる首都圏氾濫区域堤防強化対策事業国交省関東地方整備局によって進められています

へー、そうなんだ!やるじゃん、国交省!と安心したのが、彼らの主張を見た最初だった。

ところが、このページの締めくくりに書いてあった文章違和感を覚えた。次のように彼らは締めている。

この事業は浸透に対する堤防安全性を確保することを目的とし、国交省は超過洪水対策ではないとしていますが、これだけの堤防強化が行われれば、決壊する危険性がほとんどなくなることは明らかです。その点で、今回のシミュレーションは前提が現実と遊離した仮想計算といえます

 NHK報道は、利根川栗橋付近で行われてきた首都圏氾濫区域堤防強化対策事業堤防の現況などには触れませんでした。洪水への備えは必要ですが、利根川決壊の恐怖を必要以上に強調する報道は、果たして防災の役に立つのでしょうか。

まず第一に引っ掛かったのは、国交省が同地点で実施した堤防強化事業を"超過洪水対策”ではない、としている点。

超過洪水対策?なんのことを指しているのかわからなかったので、検索してみたら、例の耐越水堤防をめぐるダム反対派と国交省のやり取りがヒットしたというわけだ。

次に疑問を持ったのは、

「これだけの堤防強化が行われれば、決壊する危険性がほとんどなくなることは明らか」

結論づけていることだ。国交省が超過洪水対策じゃないっていってるじゃん??根拠がわからない。

しかも、この記事を読んだのは、国交省がまさに台風19号により栗橋付近での決壊の恐れを警告したニュースをみているときだ。

まり、彼らは国交省堤防強化事業について、越水対策下駄勝手に履かせて、その効果を信じているが、国交省は昨日時点で、すでに堤防強化された箇所において、なおも越水危険を警告した、という構図。

現実と遊離しているのは一体どちらなのか??

さらに、たった今気が付いたのだけど、

http://www.ktr.mlit.go.jp/tonejo/tonejo00552.html

によれば、栗橋付近工事、まだ終わってないか、ほぼ終わったばかりじゃねーか!

2017年に終わってるとか嘘じゃねーか、騙されたぜ。

もうひとつ違和感が残った彼らの主張に、カスリーン台風評価がある。

カスリーン台風襲来時、たまたま運よく吾妻川流域の降雨が少なかったというのが俺の理解だ。

それに対して彼らは、国交省カスリーン台風同程度の台風が来たら被害が大きくなるというが、それは妄想だ、カスリーン台風時でも吾妻川流域は持ちこたえたんだよ、と主張。おおまかにいうと。

これもさっきのツイッターと似て、彼らのお花畑では、流域全体に常に均一に雨が降ってんだろう。

https://yamba-net.org/37932/

これ、朝日新聞朝日新聞で悪い。かみ合うはずがない。

それにしても、彼らは、なぜ、それほどまでに堤防事業を全力で信頼しているのか。その答えは、彼らの思い描く理想総合治水像にあった。詳細は彼らのサイト

大まかにいうと、ダムに過度に依存せず河川改修やソフト対策を中心とした総合治水モデル。へー、脱ダムの主張ってこんな感じなんだと感心。

かに、流域によっては、河川改修の方が費用は少ないという試算を出せる場合もあるだろう。雨水対策や遊水地効果を狙って水を河道から逃がす発想も大切だ。

従来の治水思想は、「貯めて、流す」という言葉表現されるように、「水を河道に封じ込めて人間流量コントロールする」というもの

近年は、彼らになびいたわけではないだろうけれど、ダムを大きな治水の柱としつつも、特に首都圏では雨水対策はかなり充実してきているように思える。

しかし、問題は、近年の気象現象の変化によって増大する大規模水害。この発想でどこまでいけるのか?

一体、どこまでのハザードを国や広域自治体(県)が想定すべきかどうかにも関わってくる。

財政的な現実性を踏まえれば、100年確率検討するよりも、50年、30年確率検討したほうが安価だ。

人命を守ることを優先し、床上浸水は阻むが、場合によっては、床下浸水我慢してもらうといった発想だ。

例えば、2010年に当時の橋下大阪府知事が決定した槙尾川ダム建設中止はそうした費用効果分析に基づいている。

流域を個別にみていけば、最適解はそれぞれ異なるだろう。

比較的規模の小さな流域では、高いコストダムを作って「貯める」中心の治水を行うよりも、むしろ頻度の高い少々の洪水には我慢してもらう、という発想はありうるかもしれない。

なんでもかんでも山河コンクリートで固める時代は確かに終わったと思う。

からこそ土砂災害防止法2001年制定され、避難などのソフト対策へのシフトも謳われた(土砂災害ちょっとジャンルだが)。

しかし、政治的意思決定は、自治体財政的なインセンティブに左右されてしま可能性もあるかもしれない、というのが当時の橋下府政に関する文献をみた印象だった。

そうすると、広域自治体によっては、経済的安価なよりコンパクト治水事業が知らず知らずに選択されかねない。

住民の目からすれば「ちょっと床下浸水くらい我慢してね、あとは自助だよ、自助、逃げろ走れ、だよ」と広域自治体から言われ、

基礎自治体からは、市町村合併して公務員縮小してるところなんで、避難体制整備まで人回せません。。みたいな、ね。

正直、日本中山間地域含む地方は、そんな風に途上国化してもやむを得ない状況だと思っている。

しかし、首都圏洪水から守るという発想は正直、次元が違うというのが、ここ二日間、暇に任せて学んだ印象だ。

総合治水の在り方は、守るべき価値の大きさとのバランスだと思う。栗橋付近決壊で、東京ダウンタウン住民数百万人に、一斉に逃げろ、みたいな構図は、正直ありえない、あってはならない。

国のシナリオでは100兆円34兆円(*訂正)をこえる被害想定も算出されている。

百歩譲って、首都圏を守るための治水事業においても、脱ダムして、河川改修を中心とした対策シフトすべきだ、としても

彼らのように、現実にありもしない堤防越水対策などを謳って独自の想定シナリオ提案し、脱ダム必要性を訴えるのは、行政サイドからは話がズレているとしか思われず、空回りするだけだろうと思われた。

河川改修の重要性、これに異論があるわけではない。例えば新潟三条流れる五十嵐川とか、拡幅工事がなかったら終わってたわけだし。だけどダム否定する論理にはならない。

しかし、議論するなら説得力は相当に必要だ。相手にされなかったときに、やっぱりダム利権が絡んでいるからだ!と政治闘争路線に走るのも彼らのお決まりコースなのが残念なところ。

ドラえもんの道具を謳いたいなら、それは科学論文証明してもらわないと。

科学技術的な論文勝負してもらいたい話を政治の話にすり替えるのは卑怯だし、見苦しい。

そんなことを思いながら、貴重な休日が終盤に差し掛かりつつある。。

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追記その1訂正

首都圏大規模水害の被害想定は34兆円が正解。土木学会が取りまとめた高潮被害混同してました。。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%83%BD%E5%9C%8F%E6%B0%BE%E6%BF%AB%E5%8C%BA%E5%9F%9F%E5%A0%A4%E9%98%B2%E5%BC%B7%E5%8C%96%E5%AF%BE%E7%AD%96

http://committees.jsce.or.jp/chair/system/files/%E4%BB%98%E9%8C%B23_%E6%B2%B3%E5%B7%9D%E5%88%86%E7%A7%91%E4%BC%9A%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf

追記その2

長くなりすぎるので割愛したけど、調べている途中で見つけた新潟県及び三条市の過去15年年にわたる五十嵐川治水の取り組み、見附市刈谷田川田んぼダムソフトハード絶妙な組み合わせ。素晴らしいものがあると思った。

市町村合併云々のくだりは倉敷市真備町の事例を参考にした。雨水対策は、中堅都市では岡崎市住民参加型の取り組みも興味深く拝見した。

本来このような話を本文で書くべきだったのかもしれないがあしからず

追記その3

「彼ら」含めた原告団最高裁まで争って敗訴決定したのは2015年こと。住民の疑問点は一顧だにされなかったと憤慨されている記事もある。しかし、そのあとにも引き続き、いろいろと従前の主張を繰り返しご発言なさってるという状況は留意しておいてもいいことだと思ってる。治水の話かと思いきや、左翼レッテル張りの記事に見える(個人の感想です - fn7のコメント / はてなブックマークに対するコメントとして。→ええ、そうだよ、思いっきりディスってるよ。

負けたなら黙れっていってるわけじゃないが、高裁判決に対してろくに反論もしてない時点で、キャッチボールになってないんだよ。そういうもの無視して同じ主張を繰り返すくらいなら、主戦場を変えたら?って思う。

新潟市死ね

死ね」本当はこんな言葉使いたくない。

でも使わなければ、この国の政治家地方国会も)には届かないんだろうな…

何なんだ。この世の中…

今回の台風19、僕の故郷長野千曲川決壊した。

千曲川は、故郷の誇り。

心が痛い。悲しい。

昨夜のフジ系のMrサンデーを見ていた。

コメンテーターとして出演していた橋下徹さんによれば、「下流都市部を氾濫させないために、上流で川幅をあえて狭めて決壊させている…」

これが、いまの我が国の「治水行政」だという。

そして、この事実をきちんと公表していないという。

下流地域の人たちは犠牲になった地域の人たちへの感謝を忘れるなと。

海なし県で生まれ育った人間として辛い現実であるが、橋下さん、勇気を持ってこの国の闇にメスを入れてくださったことに感謝申し上げます

かに都市部で大災害が起これば、経済損失は大きいし、そうならないように対策をする。これは橋下さんの仰る通りその通りだと思う。

はい長野から新潟に住んで4年が経つ。

過去3回の知事選新潟市長選、参院選などを見てきた。

米山隆一、花角英世、篠田昭、中原八一塚田一郎、石﨑徹。

その中でも特に、花角英世、中原八一篠田昭、塚田一郎、石﨑徹。

この輩ども3人は、選挙の度にこう言う。

新潟拠点性を向上させる」「新潟冬季五輪を」「上越新幹線新潟空港延伸を」と…

これらの公約について否定するつもりはない。

しかし、彼等の口から一言治水行政特に上流地域への配慮言葉を聞いたことなど一度もない。

信濃川水系下流に当たる新潟市が水害の被害にならないように、我々長野県の県民行政は、上流にいる人間責任として治水対策について激論し、浅川ダム建設自分達の出来る範囲のことで努力してきた。

このようにして、新潟県、特に新潟市を始めとする下越地方の人たちの生命財産は守られている。

その裏では、我々長野の人たちは今回の決壊で、いろいろな意味犠牲を背負ったのだ。

これだけの災害なのだから、大切な人を亡くし、家族の大切な思い出を川に流された…

そのような人がいてもおかしくないと考える。

下流にいる人たちは、上流の人たちの犠牲の上に、安全生活環境や経済活動が保証されている…

今後、地価の低下や風評被害が何らかの形で表面化し、立ち向かわなければならない運命にあるのに…

話が反れるけれど…

新潟市は、これまで多くの地域犠牲の上に発展し、80万の政令市まで上り詰めた。

国鉄の大赤字オイルショック最中であったのに、上越新幹線は造られた。

大した苦労をする事なく、易々と手に入れたのだ。

浦佐駅や、上毛高原駅など明らかに利用者数が少ないのに、どの駅にも待避線を備えた2面4線の豪華に造られた。

ホームドアだってこの時代には熱海新神戸に既に導入されていたのに、わざわざ浪費をしたのだ。

そのツケが、国鉄解体民営化に繋がり、その後建設された整備新幹線沿線地域には並行在来線運営を押しつけられたのだ。

長野場合、あるパターンでは運賃JRだったら240円で済むのに、しなの鉄道になったことで同じ区間を350円払う必要がある。

学割適用されない。家計にとってはかなりの負担になる。

長野だけではない、北陸新幹線沿線の、上越糸魚川金沢など整備新幹線沿線地域では同じように値上げで悲鳴を上げている。

しかも、長野県ではフル規格にするのかミニ規格にするのか、時の情勢に引っ掻き回され、振り回され続けてきたのだ。

それによって、いくつも疲弊した地域地域間に確執が生まれたところも現実問題としてあるのだ。

そして、あえて言わせてもらえば、20年経ったいま、その影響が顕著に現れている。

今月、消費税10%に上がった。

この増税で、キャッシュレスサービスが始まっている。

JR東日本管内では、モバイルSuica鉄道を利用すれば、最大で5%、ポイント還元キャッシュバックされるようだ。

しかし、長野ではSuicaは導入されておらず、住む地域によって格差が生まれている。

随分話は反れてしまったけれど。

そう考えたとき選挙於いて上流地域治水問題に一切触れることなく、新潟拠点性の向上などとふざけた戯言をよく言えるよね。

中原八一も花角英世も塚田一郎もいつもいつも上から目線ですよね。偉そうに。

被災地出身の者からすれば、はっきり言って、新潟市、死ね!、ふざけんなよ!、なめんなよ!

あんたたちが、安全生活が送れているのは、上流の人たちの並々ならぬ努力結晶なんだからね!

感謝しなさいよ!

上流の人たちの犠牲や苦しみ、悲しみ、涙や汗が流れていると言うこの事実の上に、新潟市が水害に強く経済活動できているということを忘れるな!

感謝気持ちを忘れるな!

長野県の行政関係者にも一言言わせていただきたい。

今回決壊した箇所には少なくともスーパー堤防及び貯水池を、氾濫が確認された地点には貯水池を、国と新潟県及び新潟市に全額負担させる事を前提に早急に整備計画策定することを求めます

今回の決壊で、我々は犠牲を強いられたのだから、これは当然のことですよね…

長野県民も、下流地域首長がふざけた言動をしないように厳しく目を光らせ監視する必要があります

市民ファースト県民ファーストという意味でもこれは当然のことです。

新潟県や新潟市が、財政難からと言ってしらを切るようなことを新潟市の犠牲の下にある被災地出身の者として絶対に許すわけにはいかない。

勿論、新潟市の住民に痛みが伴うかもしれないし、財政破綻するかもしれない。

しかし、新潟県や新潟市は華々しい政令市妄想して無計画に市内の至る所に大型ホールなどの公共施設を造りまくり無駄であると指摘されている県立病院もきちんと見通しを立てることな建設され…都市高速並の8車線国道バイパス網が整備されていて…

長野には雀の涙程度の予算しか配分されないのに…

ホント、そんなにお金があっていいよね!新潟県と新潟市は。

のしっぺ返しとして、いまの財政難に陥ったのだから財政難理由補償支出は出せませんというのは、言い訳に過ぎないのである。当然だよね。

かに、花角知事中原市長は、財政再建に向けて給料ボーナス20%削減した。

しかしながら、所詮20%。知事市長にとっては、痛くもかゆくもないんだろうな!

加えて、ボーナス支出され、退職金支出される。

我々庶民目線被災地出身目線からすれば、よくもこんな、なめた真似が出来るよね!

これで、この人たちは身を切る改革をしていると言うが、皆さんはこの現状で本当に改革らしい改革努力をしていると思いますか。

財政難であるというのならば、ボーナス退職金のぐらい丸ごと返上してみろよ!

名古屋河村たかし市長みたいに、ボーナス退職金返上で50万とか60万とかにしてみろよ!

大阪府松井知事吉村市長みたいに努力しろよ!

新潟県の人口名古屋市の人口と同等である

当然出来ない事ではないですよね!

軽々しく身を切る改革などと言ってんじゃねーよ!

どうせ最後は保身に走るんだろ。

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