はてなキーワード: 自発的とは
弟の夏はもう終わった。
例年より早い終わりだった。
弟は普通だった。
背は低いし積極性はないし人望がある訳でもないし、
かといって問題がある訳でもなく、毎日を滞りなくこなす、ごく普通の少年だった。
弟のこと、どうせ個人競技だろうと思っていたのだが、
彼が選んだのは団体競技、しかもこの学校が強豪と名高いスポーツだった。
家族総出で驚いたのを、よく覚えている。
そのスポーツは、競技人口は少ないのに、この地域ではなぜか盛んだった。
しかもその学校は、公立なのに全国常連という、歴史ある名門だった。
実際、先代は地方大会を難なく勝ち進み、全国大会でも活躍したし、
けれど、弟の学年は、とても弱かった。
少なくて、小さくて、下手くそで。
それが弟のチームだった。
強豪なのに、今年は弱い。
貼られたレッテルも、違わない現実も、相当に重たかっただろう。
父は弟を「谷間の世代」だと言った。
経験者ばかりの後輩たちは、自分たちのほうが強いのに、と思っていたに違いない。
代替わりしてから、弟のチームは公式戦で一度も勝つことがなかった。
夏の選手権を全敗で終えて、弟は初めて泣いた。
多分、たとえ頑張らなくても、試合に負ければ悔しいし、泣きたくなるんだろうと思う。
結局、頑張ったかどうかなんて、結果以上のことは、本人にしか分からないのだ。
でも。
炎天下で真っ黒になって。息苦しい室内で全身汗だくにして。
靴下を体操服を泥だらけにして。練習着もシューズも擦り切れて。
彼の頑張りは、目に見える形で、そこにあったはずだ。
誰よりも頭を回し、誰よりも相手から圧力を受け、誰よりも点の取りにくいポジション。
そこで彼は、速攻を決め、リバウンドを取り、先制点を3も奪ってみせた。
大差がついても最後まで諦めずに、走って走って、一点でも多く取ろうとしていた。
けれど、先生の熱心な指導に、当たり前のように着いて行こうとする子だったのだろう。
「疲れた」としょっちゅう愚痴をこぼしても、「嫌だ」とは一度も言わなかった。
彼なりに、このスポーツが好きだったのだろう。
団体戦というのは、当たり前だろうけれど、一人だけの力ではどうにもならない。
偶然に集った仲間にもよるし、巡り合わせた相手にもよる。運だって人にはどうしようもない。
他のチームが強くて、弟のチームが弱かった。
この結果は、ただそれだけなのだろうけれど。
あの、淡白でこだわらない弟が、「悔しい」と涙をこぼしたから。
一度、たった一度でいいから、誰もが分かる形で報われてほしかったと。
今でも願ってやまない。
進学しても、このスポーツを続けるかどうか分からないと、弟は言う。
ただ、きみはたしかに頑張っていたよと。
戦績からは見えない、記録にも残らない、きみの懸命な二年間がそこにあったよと。
生来、大声が苦手で、幼少のころ、親に「そんな勢いで言われても頭に入らない、もっと優しく言って」「文章に書いて伝えて」などとお願いし、理解されなかったエピソードに始まり、今でも怒鳴り声に直面すると、文字通り固まって黙り込むという、コミュニケーションにおける最悪手を取る結果になってしまう。
これは男性の罵声であっても、女性のキンキン声であっても全く同じ。それどころか、「あ?何言ってんの?」程度の凄んだ声でも必要以上に緊張する始末である。
なんというか、何か返さないといけないと思っても、そういう風に言われた直後からしばらくの間、考えがまとまらないのである。
日常会話では、某大御所お笑い芸人の定番芸よろしく「あんだって?」みたいな聞き取り事故が結構起きる。
というか、コミュニケーションは「相手ごとに個別最適化された、些細なことの積み重ね」なのは、読者諸兄もよくご存じだと思う。
どういうわけか相手の言動を観察できず、どうしても一方通行気味の会話となってしまう。
それでも友達らしい付き合いはどうにか可能だが、彼女を作るとか、仕事でステークホルダーと際どい内容を話せるレベルの関係を作ることは、非常に困難ないし不可能である。
実際、自分の恋愛経験はアラフォーの今でも毛が生えた程度だし、仕事でもコミュニケーション面は完全に落第点である。
歩くときも座っているときもついつい考え事をし、それで誰かとすれ違う時は「お互いが同じ方向に動く」コントみたいなことがたまに起きる。
これって騒音のせい?
雑音をシャットアウトする手段で、古くからある定番の一つは耳栓だ。
最近はこの耳栓も大変便利になり、ノイズキャンセリングで不要な音だけ排除し、必要な音はクリアーに聞こえるという「デジタル耳栓」なるものまである。
昔ながらの耳栓は個人的にあのフィット感が嫌いで、かなり若いときに数回試してやめてしまったが、このデジタル耳栓はイヤホンもどきだし、そんな気にならなさそう。
その結果は、自身のQOLに、想像以上の途轍もない効果をもたらすこととなった。
最初は電車で使い始めて「あれ、こんなもんか」という感想だった。まあ車内放送は聞こえるし、別にいいけど。
などと思っているうち、よりによっていつも降りる駅近くになって眠り込んでしまった。
それでも、いつもは不思議と車内放送を聞き逃さず、すかさず起きて降車できるのだが…今回はそうならなかった。
実に20年ぶりくらいに車内放送を聞き逃し、乗り越しをやらかした。
大慌てでいつもの駅に駆け戻り、デジタル耳栓を外す間ももどかしく改札をくぐった。
そこから速足気味で歩き始めて数秒後、いつものペデが、なんだか違うのである。
えらい静かなせいなのか、自発的に周りを注意しないと…という意識が自動的に働いてしまった感じだろうか、とにかく人の動きがよく目に飛び込んでくるのだ。
それも、周りを注意せず歩いている人なんて一瞬で分かってしまうレベルで識別できる。
これなら例のすれ違いコントなど起きようがない。
そうなる前に、なんとなく人の動きが読めるのだ。
上述のように周囲に注意しつつも、それでも考え事がやむことはなかったのに、独り言だけがパッタリやんでしまった。
独り言をしなくても、考えたことがスッと頭に入っていく感じだろうか。
数年来の友人と電車内で会話したとき、とにかく相手の話に苦も無く追従できたせいだろうか、彼が今まで話した中で、最も楽しそうに喋っていた…ような気がする。
こちらも、その話しっぷりから「コイツの飾らない人柄、すげーイイ奴だ!」などと妙に感動してしまったり。
これってもしかして「ちょっとしたこと」ができていたということだろうか。
だとすれば、確かにこの「ちょっとしたこと」は他人に教えられない。
自分もコミュニケーションが苦手なので教えてほしいクチだったが、これは文字通りフラットな経験から体得するしかないんだなーと痛感した。
数年前に話題になった、某引っ越し業者の幹部がユニオンのスタッフを怒鳴る動画、最近取りざたされた某女性議員の「このハゲー!!!」で始まる動画、この2つをデジタル耳栓をつけた状態で試聴してみた。
確かに「あーコイツやべえ、すっげーなオイ」とは思ったが、さほどビビらなかった。
これなら「あっすみません●●は××にしておきます、あの、ご指摘ありがとうございます」くらいのアクションを咄嗟に返す余裕はありそう。
少なくとも、怒鳴り声で感じる威圧感は最小限だった。
別に変なクスリをキメたつもりはないのに、デジタル耳栓をしている時間が、極上に安らかなひと時になっている。
とにかく不安感が全然ない。不安になる事を考えていても、である。
「満更でもないな」という気持ちが非常に支配的で、安心感が凄まじい。
ともかく、「人間の感情も思考も、全て感覚によって形作られる」ことを認めざるを得なかった。
そして、「この世界は俺にとってうるさ過ぎる」とも。
というわけで、なるべく早く、というか可能な限り最優先で、聴覚過敏の専門医を受診しようと思う。
確かにデジタル耳栓は快適なのだが、これを今後ずっと使い続けていいのか、そもそもの自分の感覚異常の正体は…など、色々気になる。
やってほしいとはいいたくないが、周りは私の意向を忖度して進んで私の望むように行動するべきである
みたいなことを所詮ただの同じ立場の同級生のくせに要求してくるヒトってのは何様のつもりなの?
なんかお気に召す配慮を取れなかったらしく突然あいつはキチガイだとか言われても
そんなに怒るほどやってほしいことがあったのなら直接きちんと言えばいいだろとしか思えん。
言葉で要求するどころか、むしろそんな協力は俺には必要ないね、みたいな態度を取ってたら、あえてわざわざ協力を押し付けようだなんて思わない人間もいるんだが。
それはキチガイってことになるのか??
社会に出た後の上司のご意向とかだったら、ある程度はまあ忖度して、先回りして配慮しておくってのは必要かもしれんが
所詮学生の時期の同級生の要求なんぞにまわりがそこまで自動的に尽くしてくれるのが当然みたいな態度は極めて気に入らない。
今時先輩だってめちゃくちゃな要求をしてくるような場面は減ったというのが実情だぞ、しかも。
まあ忖度してくれた人のほうが、してくれなかったひとより高く評価する、みたいなのならいいけど
たまたま思うとおりに動いてくれなかった人が出たぐらいで、大犯罪でもやらかしたのか如く騒ぐのは辞めろといいたい。
勿論、「やってほしい」って恥を忍んで頼むみたいな行為が嫌いな人がいるってことは理解する。
なるべくなら周りから自発的にやってほしいっていう考えも理解する。
でもそれはあくまで周りの好意であって、やらないひとが頭がおかしいとかそういう方向に行くのは
何か違うんじゃないかと思うんだけども。
http://outception.hateblo.jp/entry/yuragi
こんなのフェミへの対抗にすらなってない
根本の「少年向け雑誌のくせにエロで購買を喚起している」って批判に向き合ってない
そもそも最初からして「ゆらぎ荘の幽奈さん」批判じゃなく「週刊少年ジャンプ」への批判だったはず
子供向けだからと気にしてなかったのに、見てみたら中身が性的コンテンツ満載だった。と声をあげられても仕方ない
なんかもう凄い
「性的シーンは当然あります。だけどそれは偶発的に起こったものだからセーフ」
本気でこれが反論になってると思ってる
補足情報として、週刊少年ジャンプの読者層は16歳以上が70.8%。12歳以下は12.8%、そのうち9歳以下は3.2%と発表されている
楽しいって感覚を感じたことは数回あったんだけど(お祭り的なイベント)、
終わった後の刹那的な感じがすごかった。
楽しいは何かについて自発的な意志をもとに行動し体験した場合に発生する可能性がある気がする。
そういう時は周りに人がいる。関わるかどうかは問わない。
ただ基本的に人と一緒にいるのが得意ではないし、
自発的な体験をしようと外に出ていく動機や機会はとても少ないし、
一緒にいてストレスを感じない人たちと同じ体験を共有する時に発生する可能性のある感情なのかと。
追記
各章が独立していた内容なので、どこから読んでくれてもかまいません。
要するに、今回の件の批判者の主張は「少年誌にふさわしくない」と「このような構造の表現は好ましくない」の2点に大別できます。そしてこれへの真っ当な反応としては表現媒体や販売場所の適不適に関する議論か、どこまでの表現なら現状の媒体で可能かといった議論しかありえません。
性被害を肯定的に描いているのは、たしかに問題表現です。しかし、それを少年漫画に載せるのが不適格なのかと言うと、簡単な話ではありません。
例えば正義のために暴力をふるうアンパンマンも、私刑を肯定的に描いたという意味では問題表現だと言えます。また、サザエさんでは家事育児が女性の仕事とされていますから、これも女性差別を肯定していると解釈することができます。こうなると、あらゆる漫画に問題表現を見出すことが可能であって、どこで線引きをすればいいかは難しいです。
そもそも少年ジャンプに載せたらダメなのか、巻頭カラーで載せたからダメなのか、それとももっと読者層の年齢が高めの漫画雑誌に載せることもダメなのか。ジャンプ編集部に判断を迫るのではなく、批判者たちも責任を持ってその提案をすることが望ましいです。
それに、出版社に対して自主規制を求める活動というのは、仮に権力者ではなく私人がやっていることだとしても、一歩まちがえると危険を伴います。
例えば「LGBTは不快だから表に出てくるな」「反戦漫画を子供に読ませるな」という"批判"をしている人たちだっているでしょう。かつて性描写や暴力表現を潰そうとしていたPTAも今回の騒動とおなじ手法で、やたら大声で騒ぎ立てて世論をかきたてたり、出版社に要望を出してその世論を忖度させるという手口だったんじゃないですか。昔のことはよく知りませんけどね。そして、これが公権力と結託すると恐ろしいことになります。
自主規制の是非については、あくまでもケース・バイ・ケースですが、「世論に押されて自主規制に追いこまれるのも表現規制の一形態だ」という理解は持っておくべきだと思います。
つぎに二点目の「このような構造の表現は好ましくない」という批判ですが、これは非常に厄介です。かりに『ゆらぎ荘の幽奈さん』を年齢層が高めの雑誌に移籍させたとしても、この批判を免れることはできません。
このブログ主さんは触れていませんが、「このような構造の表現は好ましくない」というのは単に論評をしただけではなく、「好ましくないからゾーニングしろ」「好ましくないから内容を変えろ」という含意があることも多いです。
オタクは規制されそうになったり、ゾーニングを求められたりして、いつもピリピリしているんです。だから、作品名を名指しされてそんな批判を浴びせられると、オタク側が過敏に反応してしまうのは仕方ない気がします。
また、批判者は作品内容を論評するにとどまりません。「こんな好ましくない表現のある漫画を作ったり消費している奴らはクズだ」という侮辱をされることもあります。
オタクはこの侮辱に対して、どのように応答すればいいのでしょうか? 頭を下げて、「この漫画は性被害を肯定的に描いた作品です。こんなものを楽しんでいる私たちは罪悪な人間です」という懺悔をおこなえばよいのでしょうか? さすがにこの対応を求められるのは屈辱的だし、ハラスメントではないかと言いたくなります。
もちろん批判に応答する義務はないですから、黙殺しておくのが一番だと思いますけど、それはそれで「オタクは社会的責任を果たしていない」という攻撃材料を作ってしまいそうです。
(ところで、『ゆらぎ荘の幽奈さん』の件とは異なりますが、成人指定がかかっているエロマンガに対しても、「このような構造の表現は好ましくない」という批判をすることが可能です。しかし、その批判を名指しでやることは、嫌がらせ以上の意味があるのでしょうか。製作者側も好ましくないと思ったから成人指定にしているわけですし、仮にその批判を向けられたせいで炎上案件になってしまったら困ります。)
また規制を進めようとしているのはフェミニストではありません。第一日本国内のフェミニストはそこまでの政治権力を持ち得ていません。日本において議会の多数派はほとんどの場合右派(というか極右)が占めており、規制も彼らの手によるものです。
もしフェミニストが規制を進める権力がないのだとすれば、オタク側はフェミニストからの批判に耳を傾ける必要がなくなります。権力のない者からいくら批判を受けたとしても、こちらは黙殺か冷笑をしておけばいいんです。
ただし実際には、自民党が表現規制をおこなおうとするとき、リベラルやフェミニスト等の左派勢力がそれに加担・黙認する恐れがあります。こうなってしまうと、民進党、社民党、共産党がいくら反対をしたくとも、その足場が揺らいでしまいます。
オタクは普段、左派勢力からの批判をちょっとはまじめに聞き入れておかないと、いざというとき彼らに助けてもらえなくなるのです。
リベラルやフェミニストは、オタクが自分たちの批判を聞き入れようとしなかったり、自民党や山田太郎を支持している姿を見ると、激怒するでしょう。そうなると次は報復感情が芽生え、批判を押し通すために権力を頼ろうとするのが当然のなりゆきです。
その意味でリベラルやフェミニストは、自民党や右派勢力ほどではないですが、オタクにとって油断ならない存在です。
もっとも、オタクが彼らの批判を聞いたところで、批判は次から次へと出てくるし、あげくのはてに土壇場で裏切られる可能性があります。
自民党が表現規制をやるとすれば、その大義名分は、「性暴力を肯定している漫画はけしからん!」「こういう漫画が流通しているのは女性差別だ」というものになるでしょう。左派政党はともかくとして、その支持者たちがこの問題で自民党に加担するのは、けっこう容易に想定できる事態だと思います。
例えば自民党が、「少年誌から不健全な性表現(=女性蔑視を促すもの)を追放する」という法案を出したとすると、それは今回の騒動でジャンプ編集部に自主規制を求める人たちの目的と合致するものです。このとき、リベラルやフェミニストが「自主規制には賛成だが法規制には反対だ」という峻別をする人ばかりだとは限りません。
あーね、あとは、「リベラルがオタクの支持を集めそこねたのは、リベラルがクソすぎる責任もあるのに、その反省はないのか」とか、「"表現の自由戦士"みたいなオタク像ばかりを見ていて、このブログ主の現状認識もおかしいんじゃね?」とか、いろいろ言いたいことはあるけれど、そこは私もろくに把握できていないので語るのはやめておきます。
このブログ主は、『ゆらぎ荘の幽奈さん』が批判されているのはエロだからではないと言っていますが、それは違います。
絵としてエロいものだからこそ、我々の感情をゆさぶり、批判のやり玉に上がっているのです。その証拠に、私刑の暴力を肯定している『ジョジョの奇妙な冒険』等は、エロくないから批判のやり玉にあがりません。
今回のような批判が起こっているのは、この漫画の絵がエロく見えるからに他なりません。
もし視覚的には欲情を誘わない絵柄とか、エロくは見えない描写方法を採用していれば、女性蔑視・性被害うんぬんという指摘があったとしても、それが大勢の人たちを巻きこむ炎上案件にならなかった可能性が高いです。
今回の件で、はてなやTwitterのリベラルは「エロは問題ない」と繰り返していました。
しかし、私はそう思いません。
リベラルが褒め称えるような"エロ"ならば、それをどんどん子供に見せてよいですか? それを公衆に向けて掲示することは、ポリコレに沿っていると言えますか?
そんなはずがありません。どれだけ適切に描こうとも、やはりエロはゾーニングの対象にするべきです。
ところで、欧米の基準に従えば、二次元と三次元を区別せず、「児童の水着姿をエロティックに描くことは児童ポルノだ」という論を立てられると思います。
今日の日本のリベラルやフェミニストはまだこの基準を採用していないようですが、萌えキャラは童顔ばかりだし、それが水着姿になっている漫画はアウトだという意見が主流になる日が来るかもしれないですね。
女性が性被害を受けることをを肯定的にかいたというのは、じつは問題の本質ではありません。
例えば『ゆらぎ荘の幽奈さん』で、胸を強くさわられた女子が痛がっていたり、そのことで心が傷ついたシーンが描かれていれば、何も問題はなかったということでしょうか。
そういえば、この前に炎上していたクジラックスの漫画について、リベラルやフェミニストがどう思っているのかを知りたいです。
あの漫画はポルノとしては珍しく、レイプを正当化できない悪として描ききっていました。つまり、「レイプは被害者を傷つける暴力だ」「レイプをやる奴は卑劣な犯罪者だ」という認識を貫徹していたのです。
作中での性暴力の取り扱いが肯定的か否定的かということだけに注目していると、レイプ=悪という認識を徹底させたこの漫画が一周まわって健全だということになってしまいます。
これは私見になりますが、萌えという欲情を誘う絵柄で描いた漫画である以上、性被害は抜きどころです。
ストーリー上でいくら否定的なものとして描いていたとしても、それは性的消費の対象となります。
女キャラが性被害を受けているとき、その肉体が露出していると、男性読者はそれを見ながら欲情してオナニーするのです。
胸や性器の露出がなくても、その瞬間の女キャラの顔の表情を見るだけで、男性読者はきっとオナニーすることができるはずです。女キャラが恥じらいの表情ではなく、嫌がっている表情を浮かべているとしても、それはそれで抜けます。
これではどうやっても、「女キャラが性被害を受けている場面を男性読者が娯楽的に消費する」という構図を脱することができません。
この構図をなくしたい場合、萌え系の絵柄の漫画では、性暴力・性被害を作中で取り扱うことをやめるのが一番です。
また、該当箇所の絵を省略して、そういうことは文字で伝えるという方法もあるかもしれません。(しかし男性読者は、作中では省略された性被害の場面を勝手に妄想するし、あるいは性被害をうけた女性という属性に興奮し、それをオカズにしてオナニーすることができるでしょう。)
フェミニストが彼らの言うところのエロを批判するのは、主に女性の軽視、蔑視、搾取、モノ化といったことを肯定し助長すると認識しているからです。フェミニストがエロを憎んでいるように彼らに見えるのは、彼らの認識するエロが女性を独立した人物としてみなさないものであるからです。その前提をクリアするのであれば、むしろ女性の独立の証として肯定するフェミニストも大勢います。
この指摘は、いちいちもっともな話だと思うんですが、「そんな批判をされても知らんがな」という反発をしたくなります。
フェミニストが女性の独立の証として肯定するエロとは、どれだけ素晴らしいものでしょうか? "女性の軽視、蔑視、搾取、モノ化"を解消したとしても、今度は女性が男性に向かってそれをやり返すだけです。
例えば女性が自分の好みで男性を自由に選ぶということ、それは女性の権利です。しかし、その権利を行使するときの女性は、きわめて動物的な性欲を発揮しています。金、地位、容姿、安定感、人格、優しさ、そこには微塵もポリコレなどというものは存在しません。
パートナーに人格や優しさを求めるのは人間的な営みだと言われそうですが、じつは全然そうではありません。女性が恋愛において男性に求める人格や優しさとは、それはそれですごく動物的なものです。まるで獣のメスのようにオスを選別しているのです。女性が恋愛やセックスで感じる幸福も、すべてはこの獣性に支えられています。
いずれにせよ女の性欲も、男と変わらず獣のそれと同然なのであって、どこまでいっても身勝手で汚らわしいものなんです。性欲は、社会正義を求める意志とは根本的に矛盾しています。
こうなると結局、エロの正しいあり方というのは分からなくなります。表現物において女性キャラクターの主体性を重視すればポリコレに適するかといえば、すでに述べたとおり、決してそうではありません。
一つ言えることは、お行儀のよいエロ表現なんか絶対に楽しくないってことです。
人権や平等という正しい理念を詰めこんだエロ表現があるとすれば、おそらく私はそれを(ポルノ的な意味では)評価できないし、その偽善には吐き気を催すほどの不快感に見舞われるでしょう。私にとってのエロとは、どこまでいっても女性蔑視や暴力性と切り離せないものです。
お行儀のよいエロは、ジャンプを読んでいる子供にもウケが悪そうです。子供は不謹慎なもの、下劣なものが好きなのだし、性描写もそっちの方向でなければ楽しく受容されないでしょう。エロが野蛮さと結合してこそ楽しめるという子供の感性は、なまじそれを否認してみせる大人より正鵠を射ています。この感性のあり方は否認せず、内心の自由として尊重し、一方でこの野蛮さを制御する文明的な理念について子供に啓発することができるならば、多分それが最適解だと思います。
少年誌といえども、子供はその本を自発的に選んで買っているわけです。これを「少年誌にふさわしくない」と批判して自主規制に追いこむのは、子供の権利を奪っているのではないかという疑念があります。
これはゾーニングにおける根本的な問題ですが、「子供の目に入らないように大人が配慮する」と、「子供が自発的に見ようとしているものを大人が妨害する」を混同してはダメじゃないかと私は考えています。この配慮と妨害は重なる部分がありますが、前者が積極的におこなうべきものであるのに対して、後者は抑制的におこなうべきものでしょう。
今回は巻頭カラーだから目立っていて、その点は大人が配慮をせずに子供に見せつけたと言えるかもしれません。しかし、子供はこの雑誌が以前からこういう作風の漫画を連載したものだと知ったうえで購入しているのですよね? それがあくまでも子供の主体性の発揮だということは、議論の際にもっと考慮に入れるべきだと思うのです。
(なお、確か少年ジャンプの読者層は高校生~成人が大半、残りは中学生だったりするので、小学生の10歳以下となると、ほとんど読んでいないはずです。それを一律に"子供"扱いすることには違和感があります。)
この物語は伝承などに従ったフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
また、伝承は諸説有り、違った見解や物語を持っているものがありますが、これはそれらを否定するものではないことをあらかじめ申し上げておきます。
昔々ある所に、地域に貢献しながら元気に頑張っている2人家族がいました。一人は雅、もう一人は晴と言います。
体力に自信がある雅は、山(※この家族は入会地の権利を持っています。許可無く私有地・共有地に立ち入ることは法により罰せられる場合があります)に芝刈りに、晴は川へ洗濯へ(※この家族は水利権を持っています。安全上問題の無い処置の他、特別な訓練を受けています。もし真似をしたことによる損害が発生しても責任は追いません。また環境に配慮した石けんを使用しており、環境に影響を与えることはありません)出かけました。もちろん、二人の役割は固定されているわけではなく、ジェンダーに捕らわれない公正な考え方、ジェンダーではなく個々人に目を向けた正統な役割分担によって相談し当番制を敷いていて、今日はたまたまこの役割だった事は、言うまでもありません。
すると、川の上流から大きな桃ののようなものがどんぶらこどんぶらこと流れてきました。晴は桃を拾い上げると、警察に届けました。警察は、桃はそのままで保管する事は困難であると判断して、遺失物法に基づき手続きを実施、売却をしてその代金を保管することにしました。
雅と晴は二人で相談して、合議の上でお互いの財産から半分ずつお金を出し合い入札をして、桃を手に入れました。入札額は桃の価値に対して十分な金額でした。
持ち帰った桃をわってみると、なかから元気な子どもが! 二人は大変驚きましたが、子どもが生まれたことは事実であり、桃から生まれたと言う一点だけで差別したりはしません。二人は適切に子どもの世話をすると共に、役場の担当者に連絡、村長が棄児発見調書を作成して戸籍がつくられ、児童相談所に預けられました。この時、従来からの慣例に従い、子どもの命名は発見した保護者が行う事にもなっているため、二人は悩んだ末、ジェンダーニュートラルな名前「桃」と名付けました。(※なお、桃は二人でおいしくいただきました)
その後、これも何かの縁(※特定の宗教を意図したものではありません)と考えた二人は、正式な手続きを経て、桃を特別養子縁組の仕組みをつかって引き取るり、大事に育てました。もちろん、二人は養子として迎えられなかった子ども達が一律に不幸だと考えてこの行動をとったわけではないのは、言うまでも無いでしょう。
時は流れて、大きくなった桃(※事実を述べたに過ぎず、病気あるいは遺伝的特徴から大きくなれない事を揶揄する意図はありません)は、鬼ヶ島へ鬼退治(※法的処置に基づく、強制行動のことをさします)に行くことになりました。
もちろん、鬼たちは、鬼というだけで差別されているわけではなく、特定の島を不法占拠した上で、強盗・誘拐など、日本国法、並びに国際法、国際通念などと比較して、多くの人が反社会的行為だと言うような行為を集団的に実施している上に、暴力的な行為によって不当に取り締まりを逃れているため、対処の必要があると判断されているものです。
法的な召還にも応じず、命令にも従わないため、強制捜査や代執行などが決定されたものの、治安機関による取り締まりや、軍隊の出動などを実施した物のいずれも失敗したため、法的な手続きを踏んだ上で実施されています。一方的に鬼の人権を排除するような点については違憲の可能性も考えられるため、国会では議論に議論が重ねられ、特別立法によって、一連の鬼退治を桃に委託することに決定されました。報道各社の世論調査でも、読売新聞の調査で支持する、どちらかというと支持するを併せて8割以上が賛成、朝日新聞の調査でも7割以上が賛成するなど、世論の支持も得ています。
(なお、この文章は、現在国会で行われている、組織犯罪処罰法(通称、共謀罪)や、改憲論議に対して、何らかの意見、影響を与えることを意図した物ではありません。)
当日の料理当番だった雅が作った(※雅はジェンダー的役割の押しつけによって料理当番を実施しているわけではなく、個人に着目した能力に応じ、二人で決めたルールによって自発的に実施しているものです)きびだんごを腰にぶら下げて鬼ヶ島へと出発しましたが、道中、犬、猿、キジが現れました。桃は、彼らに、脱酸素剤などをつかい、添加物などを使わずに適切に保存したきびだんご(※動物に有害なものは入っていない特別な物です。一般的なきびだんごを動物に与えると動物の健康に悪影響を与える場合があります。また、野生動物に食べ物を与える事は、条例によって罰せられる場合があります)を、アレルギーなどがないかを確認した上であたえ、動物愛護法などに定められた、また、社会的にも正しい動物福祉の元で彼らの協力を得て、鬼ヶ島へと渡ります。
鬼ヶ島では、鬼たちが【青少年の健全育成に不適切な表現。ゾーニングされていないバージョンは正式な手続きにより読む事ができますので、検閲ではなく、これは自主規制です】の最中でしたが、人道的に問題があるとされる奇襲などは行わず、あらかじめ用意された裁判所からの令状を、十分に聞こえる様に読み上げ、鬼たちがそれに従わないことを確認すると、法令に則り代執行を宣言、【青少年の健全育成に不適切な表現。ゾーニングされていないバージョンは正式な手続きにより読む事ができますので、検閲ではなく、これは自主規制です】の末に、鬼らを後からやってきた治安機関の職員に次々と引き渡していきました。この時の罪状は公務執行妨害の現行犯逮捕です。鬼たちは今後、弁護士がついて公正な司法のもと、裁かれることになりますが、罪が確定して有罪になる迄は、あくまでも罪人ではない事に配慮し、実名は記しません。
また、この行為について、鬼側に死亡者が発生しているのではないかという指摘がありますが、事実無根であり、ここで行使された武力は正統かつ、やむを得ない範囲で十分に配慮されたものでした。
鬼たちが悪行で集めた金銀財宝などは、特別立法に基づき、国が指定した弁護士、管財人によって管理されます。有罪が確定したあと、確認が行われた後に被害者に分配されることがきまっています。故に、桃らが横領したという指摘にはあたりません。桃はここから報酬を受け取るのではなく、国から各種規定に基づきあらかじめ定められた報酬を受け取りました。これは桃が果たした社会的な役割を鑑みると正統な報酬であると考えられる範囲の金額であり、会計検査院の監査を受けた上で、妥当だと証明を受けているものです。
個人のプライバシーがあるため詳細は省きますが、報酬の用途は、実家のすぐ隣に新たな家を構え、その後は自立した大人として暮らすために使われ、桃はこれが国民の血税であることを十分に認識しながら、感謝の気持ちを忘れることなく、決して不当な事に当てられたことはなかったということだけは記載しておきます。
被害に遭われた方々の事を思うととてもめでたしめでたしなどと言うことはできない凄惨な出来事ですが、それでも、桃が自らの役割を果たしたことで、社会秩序・治安といったものが守られ、公共の福祉が成されました。今回は暴力という手段によってしか解決ができなかったことは大変に不幸であり、桃、または登場する人物もその点に遺憾を表明しており、やむをえずおこなったものです。
これは、桃は特別な訓練と、公正な立法措置によって行われた事であり、通常行うと重大な事故に繋がったり、罪に問われる場合がありますので、真似をしないでください。
https://www.ad-c.or.jp/campaign/self_all/self_all_01.html
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1707/04/news117.html
http://www.huffingtonpost.jp/2017/07/05/ac-japan-ad-campaign_n_17389562.html
https://srad.jp/story/17/07/06/047224/
先日、とある機会があって、ネットウォッチャーの人の話を聞く機会があった。私はそういった話に疎いので、ほとんどの人の名前が分からなかったが、聞いた名前を検索してみると「ああこの人のアイコンとかIDは見たことある」といった感じだった。
話している内容は、この人の発言(ツイート)は矛盾している・・・・・・。とか、この人の気に入らない点は、○○に対しての理解が間違っていて〜とか、ツイートに対して駄目だしをして、その発言がいかに不快か、ないし、不適切であるかという話に盛り上がっていた。(補足しておくと、これは政治家のアカウントとかではなく、個人がやっているTwitterアカウント、いわゆるアルファTwitterの人に対して向けられていた)
私は思うのだが、見ていて不快に思うのならば、そのアカウントをブロック、ないしミュートしてしまえば良いのでは無いのだろうかということだ。Twitterは情報を取捨選択できるツールなわけだから、個人個人には合う合わないがあるのは当然で、自分に合わないと感じたら、その人のツイートを目にしないようにすることができるようなっている。
にもかかわらず、そのような人のツイートを見て、不快だとか、この人は間違っているとか、商売っ気があって嫌いとか、浅学だから勉強し直せとか、そういう議論をすることは全く有意義に思えなかった。この場合、ネットウォッチャーという表現はある意味では間違っていて、特定個人をウォッチしているわけだから、いわゆる粘着という言い方の方が合っているのかもしれない。
しかし、私には本当に分からない。なぜ、不快な気分になるツイートを自発的に見に行くのだろうか。嫌なら見なければ良い話では無いのだろうか。
あれから数日。
月曜日の昼にはもう将棋盤が届いたので、以来毎日娘に将棋を教えている。
子供に何かを教えるのはとても大変だというのを痛感する日々だった。日常の習慣や家事などを教えたりしつけをするのも結構難しいが、なんとかかんとか教えて来れたけれど、こういうゲーム的なものを教えるのはどうしてこんなに……こんなに……。
トランプのババ抜きを教えた時もかなり四苦八苦したが将棋はこれの比じゃない。
親が子供に教えようとする事がそもそも間違いなんじゃないかという気もして来た。
ママ友達が言うには、何であれ親が頑張って教えようとすると熱くなりすぎて子供を潰してしまうだけだから、自力で教えるのは諦めて高い授業料払ってプロの講師にお任せするに限る、と。
私の周りでは簡単な読み書きや四則演算も自分で子供には教えない人が大多数。皆、やってて良かった公文式。
なんだか無理ゲーに果敢に挑戦してやっぱり大失敗しようとしているような気がして来た。
なお、うちの娘は既に読み書きが出来るが、これは私が教えたというよりワークブックを買い与えたら娘が自分でやっていつの間にかおぼえてしまった感じ(同じワークを何度か買ってあげた)。幼稚園女子の間でお手紙ブームが起こっていたので、その時流れに上手いこと乗っかっていた。
将棋も、子供向け入門書が自力で読める位の年齢、小学校中~高学年になるまで待てば良かったかもしれない。興味があれば自発的に覚えたんじゃないだろうか。
ともあれ、もう娘はやる気満々で、そう簡単にこちらから手を引く事は出来ない感じになってきた。幼稚園にお迎えに行けば第一声が
で、
と私は項垂れつつ応える。
(つづく、かもしれない)
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.bengo4.com/internet/n_6277/
インターネット強者であるはずのはてなの人々が未だにこの件に関して無知すぎるため、定期的にこの手の記事を書き続ける必要を感じました。
なんJで3年近くに渡って自分語りや無差別煽りを繰り返しヘイトを溜めきっていたクソコテ(以下チンフェ)が自分語りの内容から個人情報を特定される
→特定された個人情報の消去と炎上の沈下のためにチンフェが雇った弁護士が唐澤貴洋
とだけ書けばクソコテの炎上のとばっちりのようにも見えますがそんなことはありません。
むしろこの炎上を5年以上続くものとしたのは唐澤貴洋によるものなのです。
ネットに強い弁護士を自称しチンフェから30万円で仕事を請け負っておきながら炎上を沈下させるために行った行為が書き込み者のIPを開示するという作業のみで、
それ以上の法的措置を一切取らず開示を繰り返すだけという「空のピストル」を繰り返したのです。
また、それにより無能扱いされはじめ自身への誹謗中傷が始まると今度は自身への誹謗中傷の書き込みへのIP開示を始めます。当然効果はありません。
彼の反応を面白がった人々(ハセカラ民と呼ばれます)が彼の新しい反応を見るために現在まで嫌がらせが続いています。
一時的に沈静化しても唐澤貴洋が自分からメディアに出演するなどして燃料を提供してしまうのです。
最近では(おセックスおばさん開示以外の)大きな出来事もなく沈下しつつあったところに
またテレビ番組に出演してしまうような愚行を行っています。
自身の炎上案件を解決できていないのにネット上の炎上について語る資格があるのでしょうか?
逮捕者はすでに複数出ていますが、唐澤貴洋に嫌がらせをした者が界隈で一種の尊敬を受けるような世界なのでもはや法的な力で解決できる段階ではありません。
また、逮捕者の多くが逮捕される社会的リスクが小さいいわゆる「無敵の人」です。
私のようなネットにしか居場所がない人間が承認欲求を充足させる方法の一つが唐澤貴洋への嫌がらせなのです。
彼らを何とかする手っ取り早い方法は軽犯罪の三振アウト(死刑)制度などを加えていく必要がありますが、それはまっとうな法治国家に行えることではありません。
素直に無敵の人を無敵でなくす(地域のコミュニティに接続し承認欲求を充足させ、この件から自発的に手を引かせる)など福祉の方向での対策が必要ではないでしょうか。
また、なんJを閉鎖しても全く意味がありません。すでに唐澤貴洋への嫌がらせの情報交換は海外のサーバに建てられた掲示板で行われています。
海外サーバはすでに複数回移転していますし、海外サーバでの運営が完全に頓挫したとしてもTorに移行するだけではないでしょうか。
もちろん唐澤貴洋がテレビ出演など公に露出する事態となれば古巣であるなんJでも大きな話題となります。
先日の出演の実況では2chの1000レス制限を越え1つのスレッドに2000以上のレスがついてしまう異常事態が発生し、当然のようにサーバも一時ダウンしました。
最初の炎上から5年も経過して沈下しないので、これからも今回のような件は発生し続けることでしょう。
多田野選手の出演騒動から10年以上経過しても下火にならない淫夢と同じフェーズに入っています。
twitterやニュースサイトやはてななどで唐澤貴洋の話題が出ても無視することです。
彼はどうしようもない無能なので今後何事もなくても自分から定期的に話題を提供し続けることでしょう。
お願いなのでどうか無視してください。弁護を依頼することなどもってのほかです。
無視したところで彼は金持ちのボンボン(父が会計士業界の有力者)なので仕事は父のコネからいくらでも手に入れることができます。
私も教徒であった時期がありますがここ数年行われているこの手の釣りにとても辟易していますし、心を痛めてもいます。
なのでせめてはてな民にはなぜこの事実を噛み締め、唐澤貴洋に関する事柄を今後一切無視していただけたらありがたいです。
http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/ikusei/1386963.htm
引っかかる事は多くある。
特に「一度流れると回収が不可能」などと世の大人達をうまく丸め込んでお上は賛同させようとする。
「一度流れると回収が不可能」だと言うなら、性的な文脈においては成人女性がAVに出演するのもそうではないか?
誤解しないでほしいのだが、私は反ポルノグラフィーを掲げている訳でもなければ、AV強要問題とか、そういう筋について語っているのではない。
寧ろ私は、表現規制にも反対だし、ポルノグラフィも完全に認めるべきだと思っている。
漫画でしか見た事がないが、「AVに出演した過去が彼にバレた……」「AV出演の事実が友達の間で噂された」などとよく聞く。名前のない女たちかな。
最近ではそういった事は昔に比べては減っているとは思うが。
AV強要問題は、タチの悪いAVメーカーならそういった事はしているのかもしれない。
ただね、私は合意の上であれば例え未成年と大人、未成年同士でも性行為はOKだと思っているし、売買春も構わない。
性教育がダメだったり一部の保守派が反対するなら、家で教えるのもありだし、今はWikipediaもある。
Wikipediaは難しい?性教育の本を図書館で読み漁ったりすればいい。
手段は無制限にある。他人の基本的な権利を侵害しない限りなら。
マジレスすれば、他人の基本的な権利を侵害する手段も選べるのは選べるが、それは高い代償を払わねばならなくなる。
私も小学生の時は性教育の本を読み漁ったり、Wikipediaで調べまくったりしてたよ。今もだけど。
というか、未成年が自発的にやる売買春に国家が介入すべきでないと思うよ。
というか、合意の上での児童売買春を禁じる根拠が薄いと思うんだよ。
先の話で言うと、「裸の写真を送れ!」と無理矢理送らせるのは強要罪であり、自己決定権の侵害です。
それを、お偉方が「裸の写真を送らない!」と啓発するのは、裏に(裸の写真なんか送るから被害に遭うんだ)と言う言外の意図が含まれていると私は考えます。
これでは、ISISにジャーナリスト・後藤健二さんが殺害された事件で、「シリアに行ったからお前は殺された。行かなきゃいいのに」と言うのとどこが違うのでしょうか?
もっと言えば、「レイプに遭うのは露出度の高い服を着ていたりふしだらな行いをしているからだ」となり、こうなるとふしだら侮蔑と変わらないと思うのですが。
最も、後藤さんの件でも、フィフィやデヴィ夫人など、自己責任論を振り翳して一定の支持を得る所を見ると、こういうものには寄せ付ける何かがあるのかもしれない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sexual_orientation
性的嗜好という用語は、性的指向と主に重複しているが、一般的に心理学的研究では区別される。 例えば、バイセクシュアルであると識別した人は、性的に他のセックスよりも性交渉を好むかもしれない。性的嗜好は、ある程度の自発的選択を示唆するかもしれないが、 科学的コンセンサスは性的指向が選択ではないということである。
性的嗜好という用語は性的指向と同様の意味を持ち、2つの用語はしばしば同じ意味で使われますが、 性的嗜好はある程度の自発的選択を示唆しています。
https://anond.hatelabo.jp/20170618222039
【映画】「俺は、君のためにこそ死ににいく」 : bogusnenews
石原慎太郎製作総指揮のもと、太平洋戦争末期「体当たり特攻」の真実を描く、感動のノンフィクションドラマ。公開前から多方面で話題を呼んでいる注目作で、あまりの人気から都内の金券ショップも前売券を一枚100円で売るなど対応に追われているほどだ。
「君のためにこそ死ににいく」の「君」とは、もちろん
「天皇」
のこと。劇中では天皇のため、まったく自発的に命を捧げようと名乗り出た若者たちが、鬼畜米兵を倒すべく美しく散華してゆく姿が描かれる。景気づけに葉っぱをキメて特攻機に搭乗する主人公学徒兵役に窪塚洋介。役作りは完璧で、今にもマンションから飛び降りるのではないかという迫力をひしひしと感じた。
また、特攻隊創設者の富永恭二陸軍中将役で石原慎太郎氏が特別出演。
と訓示を垂れたあと温泉地に向かい、暴飲暴食で自決しようとするシーンは、都知事のふだんの執務姿勢と重なって見え、血税を払う都民にには涙なくして観ることのできない名場面だ。
「犬死」という意味の言葉を理解するには、これ以上の教材はあるまい。都教委は現在、公立小中学校での上映開催を検討中とのことだ。
http://bogusne.ws/article/41732444.html
2007.5.13