はてなキーワード: 矯正とは
すきっ歯で。隙間が年々広がっていくのが気になってはじめた。噛みにくいし。
3ヶ月くらいで前歯の隙間は閉じたので、写真を撮るときに口をあけて笑えるようになった。
矯正器具ついてるけど。隙間より恥ずかしくない。
顎がしゅっとなったらしくて、体重減ってないのに「痩せた?」と聞かれる。
メガネかけると右と左で高さが違っていたのが、だんだん高さが同じになってきている。
肩が凝りにくくなった。
歯の隙間から息が漏れるためか「さしすせそ」が「しゃししゅしぇしょ」となって散々人にからかわれてきたけど、
あと、寝てるときに涎が垂れなくなった。
http://hamusoku.com/archives/8595841.htmlを読んで、自分も文章書くのが苦手で嫌な思いをすることがあったので、需要はあるのかなと思い,メモ。
この本が一番わかりやすい。
一パラグラフに一つの重要な情報をかくとか、割と基本的なことが書いてある.一文をどうわかりやすく、あるいはどう魅力的に書きかえればいいかって本は割とたくさんあるんだけど、文章全体の構成をどうすればいいかって本あんまりないんだよね。
文章書くの苦手な人は一文一文が長くなる傾向が多い.まずは、一文を短く書いて、その後、慣れてきたら接続詞とかをくっつけていくというプロセスを意識的に行うとよい.
文と文のつながりに関する本としては、
「性的志向と性的嗜好には貴賤があるんだろうか?(スカトロジストとしての自己)」http://www.open.sh/entry/20141031/1414716284 (id:netcraft)
と、そのコメントや反論記事を読んでいてどうしても言いたかったのでここで書きます。。
まず
>「スカトロはいわゆる「プレイ」だから性的指向とは全く別の問題だろ。幼少期から糞尿そのものが性対象なの?」
っていう意見について…、
私の場合は嗜好の内容はそれとは違いますが、9〜10歳ごろの性への理解とほぼ同時に、自分の性的な特性を自覚しました。
それも、そういう内容の広告を見て、「ああなるほど、私は『これ』だったんだ」という認識でした。
つまり傾向自体はそれ以前に漠然と認識しつつ、そのときに名前を与えられたという状態でした。
大人になってから「選択」したわけではなく、幼少期から自覚する性的嗜好によって、それに悩み、矯正を試みてもやはり駄目で、人には相談できず、自己の存在に疑問を持ち続けるということがあるという事を、できれば知って欲しいです。
(三島由紀夫のたしか「仮面の告白」はこれがテーマじゃないでしょうか。幼少期の糞尿汲取人への思いからの自己の正当性への葛藤。三島の場合は男色がメインの「告白」ですが、サディズムとスカトロジーも、言えない欲求として存在しています)
>「嗜好は秘めやかに楽しむ」…
もちろんLGBTの方々よりも日常生活における問題は少ないですし、それゆえ公にする必要はないと言えます。
また、嗜好によっては安全面、倫理面などに問題があって、実践そのものが不可能な場合もあります。(ロリコンの問題もそうよね?)
だから多くの少数性的嗜好者はそれを特定のパートナー(全然出会えない)や、想像や、小説やイラストだけで満足させて、他ではおくびにも出さず、きちんと現実社会と折り合いをつけています。
しかし、自分が「生得した」傾向は、どんなに悩もうと矯正できない…。
そんな中で、それをお笑いのネタにされたり、人々に無条件に嫌悪されたりするのは、仕方ないと分かってはいても辛いものです。
この点はLGBTの方々と共通するんじゃないかなと思っています。一緒にして欲しくはないかもしれませんが…。
折り合いをつけられなかった場合(神戸児童殺傷事件の少年Aがその例です:「少年A 矯正2500日全記録」 が大変参考になります)には「治療」が必要です。
しかし折り合いをつけて生活が出来ている限りは「それは単に病気じゃないの?ちゃんと治したら?」という意見も、なんというか、悲しいだけです。「そうかもしれません」としか言えません。
それを簡単に「治療」してくれる相手もほとんどなければ、それをしなくてはならない理由は(社会生活との折り合いをつけられている限りは)ありません。
元記事のさいとうさんがどんな人か知らないし、普段からおちゃらけているのか、どんな社会的立場の方なのかも知らないですが、記事にはとても共感しましたし、問題になったブコメも私と同じ気持ちでつけたんだろうなと思いました。
その性的嗜好を本当に親しい人にはカムアウトしてきた、その結果距離をおかれたこともあるとの記述がありました。
自分という存在の中で大きな割合を占めるもの、本当の自分を語るには避けて通れないものを、本当に親しい人にもずっと隠して生きていかなければいけないのは、やはり悲しくて、辛いことです。
私は女性なので、大きな誤解も招きかねないですから、現在はダンナ(どノーマルです)以外にはカムアウトはしていません。
ダンナとは普通のことしかしませんから、本当は実現できるパートナーの方が良かったのかとも思っていますが、そういったパートナーに幸か不幸か恵まれなかったこと、子どもが出来たのちにそれが何らかの形で悪影響になってはいけないと自分で思っていたこと(注・このことは「その嗜好がやはり悪徳じゃないか」という証明にはなりません。現在の社会規範から外れていることが問題だからです)から、現在わたしは自分の性的嗜好を現実に満たしてはいません。
今後も、忘れたことにして胸の内だけでたまに思い、その人生を選んだのは自分だと言い聞かせるだけです。
先般のSMバー問題の報道において、「政務活動費で補われるものであったかということは問題だが、SMという性的嗜好自体を問題とするのは、よくないのではないか」といった言説を複数目にして、「すごい、時代は変わっている、嬉しい」と感動していた矢先のことで(そしてそれはLGBTの方々が社会に受け入れてもらえるように活動し、それが認められてきたことに付随するものだと感じ、感謝しています)、立て続けに考えさせられたので、ここに書かせてもらいました。
昨晩 http://anond.hatelabo.jp/20141031023954 を書きました。
まさか反響があるとは思っていなかったのですが、トラックバック・コメント・ブックマーク頂き有り難うございました。
「私は障害者なんだ」と念じながら生きなくてもいいんじゃないかな…っていう私個人の意見です。
おそらく少数派だと思います。それでも伝えたくて。
大勢の方がご覧になった時、なにかしら批判のご意見が出てくるのは、もっともなことだと思います。
もしいやな気持ちになった人がいらしたら、ごめんなさいと言いたいです。
同じような悩みを持つ方にコメントしたい、でも私は専門家じゃない…個人的な経験や考え方を伝えることしか出来ない。
約10年分の葛藤や経験を、一晩でまとめるのは結構たいへんでした。
時間を割いてコメントを書いてくださったみなさんに、心からありがとうと言いたいです。
Ta-nishiさん
事実そう。「いまの社会」に向いてない特性持って産まれて困ってる人を「障害」ということにした概念が発達障害。「病気」じゃないけど困ってる/苦しいことに変わりないので援助が必要 http://goo.gl/lSxOzB http://goo.gl/wC8zui
同じような意見を持っている方がいらっしゃるとわかって、安心しました。
豫風@ty_retainさん
不快にさせてごめんなさい。
あなたがなぜここまで、私個人の日記へ憤りを感じられたのか、理由を教えてもらえたら嬉しいなと思います。
私はプロでも専門家でも無いので、至らぬ表現があったと思います。
豫風@ty_retainさんが感じられたことも、教えて欲しいです。
(ネット上ではクソって言葉をよく目にしますが、実際に自分へむけられると、かなり辛いものですね。)
black_grassさん
分裂病もそうだけど、古代から人類は、一定数出現する「特異な人間は集団から疎外する」が生存の最適解だったから、適者である現代人にはその振る舞いが染み付いている。だから個人事業やったほうがいいよ。
はい。
http://anond.hatelabo.jp/20141031023954
それ、君の中だけのイメージにすぎないから。それなりに膨大な蓄積があって定義がある程度定まってる用語なんで、「俺はこれを障害とは認めん」とか勝手に言われても困るっつうか。
ご指摘ありがとうございます。仰るとおりだと思います。
私はずっと「障害」って、一体なんなんだろうなぁ~って、ずっとモヤモヤ考えてたんです。
その結果感じた持論を「個人的なつぶやき」として表明したので、社会一般の定義とはずれていると思います。
無限の可能性を秘めているかもしれないのに、「障害」という枠に囚われてほしくなくて…
その気持をどうにか伝えられんか、と、脳内でもがきながら書きました。
以下話が脱線するかも知れませんが、発達障害という言葉に違和感を感じる理由を書きます。
私は20歳近くまで典型的なアスペルガー症候群当事者として生きてきました。
でも、あることがきっかけで「もう苦しみたくない!人生を変えてやる!!!」と誓ったんです。
得手不得手を分析したり、苦手な分野は改善の方法を模索をしたりして、「常識」に馴染んでいくことに精一杯努めました。
そして「もし、家族がきれい好きで家庭内の不和がなければ、私は子供の頃から常識を身につけてこられたのではないか?」
と思えるようなことも多々発見出来ました。
発達の特性や偏り・認知のゆがみに関しては、幼少期の経験や、今後の努力次第で改善できることもあると思うのです。
「障害だから」と決めつけて、早々と諦めてしまうのはもったいない気がします。
(でももし、私が自分の「ズレ」を直せることに気付けなかったら、今でも問題の原因を「障害」とし、改善努力もしていないことでしょう。)
http://anond.hatelabo.jp/20141031155449
ならないだろ。
なんでもかんでも病気にする精神科の医者どもの方が異常者だよ。
こんな異常者あいてにしてるから、頭おかしくなるのにきずけよ。
精神科の糞どもを相手にするな。楽しく生きてる奴を参考にしろ。それからそいつらの行動パターンを解析しろ。
俺なんておまえ以上に問題多かったけど何とかなってるよ。
私がうまく言えなかったことを、この方は全てまとめて叫んでくださいました。
泣きそうになりました。
投稿した時の自信はどこへやら、ツイッターでクソとか言われてしょんぼり、自信がなくなってたんです。
今後も賛否両論頂くかもしれませんが、思い切って書き込んで良かったと思います。
みなさんありがとうございました。
kukkyさん
そうですね。
今の私は正に「自分の変なトコロ」と「折り合いをつけて付き合って」いるという表現がぴったりきました。
しかしそれを自分ひとりで試行錯誤するのは時間がかかりすぎます。
困ったときに、ケアや支援を与えてくれるところが、今後増えてくれたらいいなと思います。
serioさん
この人が精神科と薬で良くならずに苦しんだという経験は分かるけれど、だからといって精神科や薬を全否定するのは疑問。薬のおかげで楽になれた、症状が改善したという人もいるので症状次第。決めつけない方が良い。
そうですね。薬が良い悪いと、一言では決めつけられないと思います。
化学物質は使い方ひとつで薬にも毒にもなりますから、医師が的確な指示を出してくれれば、全く問題無いと思います。
発達障害で苦しみ鬱となった人への対症療法として向精神薬を処方するのも間違いではないと思います。
また向精神薬のたぐいは麻薬と紙一重、諸刃の剣であるとも思っています。
根本を見直してなにかを改善できたら、危険な薬に頼らず済むこともありうるのではないかな、私はつぶやきたいです。
camellowさん
否定的なトラバ、ブコメもあるけれどなんでだろう。気の持ちようや日々の注意で生活は改善するよって話だろうに。もしや、コメントしてるみなさんも○○障害ですっていう壮大な仕掛けか?
予想はしてたけど、実際の批判を目にして、ちょっぴりしょんぼり(´・ω・`)していたところでした(笑)
camellowさんのコメントで気持ちが楽になりました。
aflat_1000dai4さん
あわわ…
なんか、ごめんなさい。
上に書きましたように、未熟者のひとりごととして受け流してやってください。
p_interさん
何も問題がない人もそうでない人も、生活習慣や思い込みを改めていくことが、より良く生きるためには大切なことだと日々痛感しています。
narukamiさん
タイトルにいらっと来たけど最初に思ったような内容ではなかった/心理士が行動指導をしてくれる場合がないわけではない。ほんと病院によるだろうが
なんかイラッとくるタイトルだなと、私もあとで読み返して思いました(苦笑)
通院していた頃は、行動指導に長けたスタッフさんが、日本各所にいらしたらいいのになぁ~と、思っていました。
カウンセリングで過去のトラウマを吐き出して心を楽にしたり、認知行動療法で自分を分析したりしていくことも大事なのですが、過ちを繰り返さずに人生をより良くしていくためには、それだけではすこし足りない気がしています。
SndOpさん
「この人のコメントかっこいい」と思いました
zeromoon0さん
悪気はないんだろうけど、「作者さん」の連発で「創作の釣り乙」と言いまくってるみたいだ。「筆者」か「著者」を使ってあげよう。
仰るとおり悪気ない連発で相済みません(^^;)
たしかに「筆者・著者」が適切ですね!今後機会があれば気をつけます。
nenesan0102さん
自宅で事務作業、レッスンは公民館や個人宅、という感じで細々と働き、どうにか暮らしています。
学生時代に目指した進路とは、まったく方向が違いますが、天職だと思います。
(ヨガの「八支則」という理念を知らなければ、私はまだ人生の路頭に迷ったままかもしれません)
「なんだ、結局はふつうに接客業やれてるじゃん」と思われるかもしれませんが、私の場合はちょっと特殊なんです。
まず、私は一人で教室を運営していますので、上司や同僚にあたる人がいません。
「自分のペースで働ける」ことはとてもありがたいことです。
レッスン中は、もちろん接客を頑張ります。
が、レッスンの時間は決まっているので「ここまで頑張ればいい」という安心感が有ります。
1日じゅうぶっつづけでレッスンするわけではないので、他のお仕事に比べたら、人と交流すべき時間はずっと少ないと思います。
また「日常会話が苦手」な私ですが、「ヨガに関する話題」ならすらすらと話せます。
私だけの特性かもしれませんが、それができれば「先生」として接客対応が可能になることがわかりました。
ヨガの話から、健康や悩みの話に発展したり、なんでもない冗談話になったり、「普通の」会話ができるんです。
大好きなヨガの知識と経験が、とても力強い支えになってくれています。
そして、レッスンが終われば家に帰れる。
経理や事務は、自分にとって過ごしやすい環境でやれるのも嬉しいです。
照明の色や強さを調整したり、音楽をながしたり、タイマーで時間を区切ったりして、苦手な作業でも楽しめるように工夫します。
ヨガを始めたきっかけは、「向精神薬に頼りたくない」「体力をつけたい」といった理由からです。
それが今では、生徒さんに喜んでいただきながら、私も社会とつながるための存在になってくれた。
本当に有難いと感じています。
まあ本論じゃないところは承知で言うけど、
ちなみに、「障害」っていう言葉は、脚を切断したとか失明したとか、不可逆的なものっていうイメージがあるんですよね。個人的に。
それ、君の中だけのイメージにすぎないから。それなりに膨大な蓄積があって定義がある程度定まってる用語なんで、「俺はこれを障害とは認めん」とか勝手に言われても困るっつうか。
大きく分けるとdisabilityとhandicapがあって、どっちも日本語だと「障害」になるからまぎらわしいんだけど、disabilityは何らかの身体や精神の状態や生活状況で、それをそのままにすると通常の社会での活動に支障が生じるもの。例えばごく軽度、0.6くらいの近視だって、disabilityの意味では障害だよ。そのままだと運転できないでしょ。で、disabilityの結果として実際に生じる「できないこと」がhandicap。あなたも書いているように、近視なら矯正すれば社会参加に不自由はない=handicapはなくなる。一時的に健康を壊して働けなくなるのだってdisabilityだ。不可逆的かどうかは関係ない。
で、足切断とか失明とか、個人レベルの対応でhandicapを無くすのが難しいものについては、社会の方が対応できるといいよね。バリアフリーとか。一般に「障害」が取り沙汰されるのはこっちのケースが多いからどうしてもそういうイメージになるんだろうけど。結局は個人と社会の間で生じてるミスマッチで、それをどっちの側から解決するかって問題になるわけ。あとまあ、障害者手帳を交付されるかどうかって意味での「障害」もあるけど、それも広義の障害へ社会の側から対応するための一手段にすぎない。
何かに「障害」と名づけるっていうのは、共通するdisabilityやhandicapがある時に、それなりに共通する対応がわかってると話が早いよね、ってだけのこと。だから、「俺の問題は他の誰とも違うし、社会参加で不便を感じるのも俺の勝手なんだからほっといてくれ」っていうなら「障害なんかじゃないよ」って主張もわからんでもないけどね。
その時に一生懸命言い返そう嘘をつこう見栄を張ろうとする気持ちがある
これで、私の価値観は
よく言われる 友達は数より質 という言葉の前者の価値観であると言える
友達がいないことはカッコ悪くて、なんかはしらんけど漠然と友達がたくさんいるのはカッコいいという価値観なんだ
あとから、あ、でも友達は数より質であった それに出来ないけど楽しければいいじゃない
と必死に思ったところでそれはまた虚栄だ
瞬時に思ったことが、本当の自分だ
だから人は見た目より中身とか、なんとも曖昧で不確定なものを引き合いに出している言葉があるが
不細工なことがコンプレックスになってしまう時点で顔に価値観があるんだ
美しいものが全てなんだ。と思う
ぼろ負けではないか。いっそこういうのにも感じることができるドエムになろうか。
他人が外見に価値観がなければ不細工を罵倒せず人間として平等に認識してくれるわけだし
不細工なことに悩まなくてよくなるのかもしれない
しかしそんなことは絶対にありえないのだ
興奮しない。
最近テレビ出てるおのの◯かみたいな子がおっぱいをプルプル揺らしながら長い髪からいい香りをさせて
ベットの上毛布から白い太ももを悩ましげにのぞかせてる みたいなのがすごく興奮するじゃないか
それが不細工な女だったらどうだ
一気に地獄絵図だ
私みたいなのが生まれるんだろうけどさ
あんまりだよ(シュン)
懸命に、不細工は別の地位を築いてやると意地になってるのはいいが、
かりに私がかわいく生まれてたら、同年代の若い子と同じように自分の男の話をして
facebookで他人のゴシップを調べまくって、服買ってスタバ行ってプリクラ撮って、そのうち馬鹿な若い男の相手するより
金持ちのおじたんのが都合良くなってきて向こうも私かわいいからその気だし、このままゴールインしちゃおっつってニュータウンに住んで
悪いニュースはオナ禁が終わってしまった、いや、終わらせてしまったことだ。
あずにゃんに耐えられなかった。相変わらず罪なやつだ。
いいニュースは筋金入りの床オナ派の俺が、オナホールを使ってとは言え、床以外で初めてイケたことだ。
だるさがまったくない。
これは床オナだとうつぶせのまま余韻に浸ることもできるけど、座った状態だとそうはいかないからだと思う。
あとはタンクが満タンだったから、カスカスのを無理に絞りとったわけではないための、余裕からくるだるさのなさというのがあると思う。
後片付けを楽にするためにゴムつけてやろうとしたら、薄すぎて何度も破れたから諦めて生でやった。
めんどいけど、今後も禁欲からの非床オナで少しずつ矯正していきたい。
(追記)
ブコメに回答。
初日から20日目まで毎日増田に記録していたから、興味があれば増田のヘッタの検索窓にオナ禁と入れて、「「オナ禁」を含むキーワード」から見てくれ。
メリット。
毎日していた頃に比べて翌日のだるさが減った気がした。
それ以外は特に感じなかった。
たった20日というのもあるのかもしれないけど。
肌ツヤがよくなることもなく、女に声をかけられることもなく、声をかけるくらいに貪欲になることもなく。
ただ、暇を持て余すだけの週末の性欲がもんもんしまくりで、禁を破ると決めてからのサル並みの本能に基づいたままの行動力がすごかったのを実感したから、マンネリ化してるカップルなり夫婦なりは試してみるといいと思う。
シナプスを光の早さで思考が駆け巡って、視界と思考の区別がつかなくなって、限りなく二次元と三次元の区別が近づくのを感じた。
正確に、素早いタッチタイプできるようになるということは
何はともあれ、自分が楽をしたいためにやることだ。
自分の頭の中にしかないものは、OCRはスキャンしてくれないしね。
いっぷんあたりの打鍵数(長文)300ようやくこえまちた事をこちらでご報告申し上げます。
スペースキーを左手親指で押すくせがありそれが全体の運指バランスに影響していたようで、右手親指で押すようにしたあとからスコアが上がった。
あと、単語を「意味として理解できるかどうか」も、入力スピードに関連しているようです。
就活中の皆さん、一緒にがんばろう!
追記の追記
(英文の場合に有効でした。私個人のデータしかなくてすみません…)
英文タイプが速くなると、コーディングも効率がよくなるって事だよね。ふむふむ。
追記の追記の追記
PCを、モノを作る道具(=習得が必須)ではなく、単なるビューワとしか理解できてないんじゃないのかな。
だから、クソめんどうくさい(ように見える)、キーがたくさんあるモノの規則なんか理解したくない。
左手の親指でスペースキーを押してしまう癖がどうしてついたか、なんとなくわかった。
もしかすると、右手でペンを持っているからじゃないだらうか。じつとてをみる。(←includeの”おまじない”てきなアレ)(いみがわかりません)
えいぶんタイピング(長文)の いっぷんあたりのだけんすう が、259になった。ローマ字長文で、273から351(本日の実績)。えいぶんタイピングは毎回同じのしかやっていないから、指(のう?)が文章を覚えてきたのかもしれない。20年前ぐらいに覚えたむちゃくちゃな運指が、ようやく修正できてきただろうか?もすこしがんばってみる。
あと、爪が伸びてると正解率が下がる。どうしてだろう?
僕は完璧主義者です。
完璧主義者には「何かに挑戦するときは高い目標を掲げ、結果と目標の差を埋めようとするタイプ」と
「何かに挑戦するときは堅実な目標を掲げ、それを100%クリアすることを望むタイプ」がいます。
両者は似て非なるもので、前者が高い目標をとことん目指すのに対し、
後者は低い目標を完璧にクリアはしますが、それだけで満足してしまうのです。
ちなみに、僕は後者です。
それだけでも十分ダメだしクズだなと思うのですが、さらに僕はマイナス思考の持ち主でもあります。
これは最悪の組み合わせです。
失敗のイメージしか思い浮かばず、できない理由はあふれるように出てくるのに
結果として目標を限りなく低く設定するか、最悪の場合何もしないで終わるのです。
だいぶいい年になりましたが、自分の人生を振り返って、何かに挑戦してきたか?と考えると、何もありません。
苦手なことからはすべて逃げてきたのです。
できることしかやってきませんでした。
きっとこれからもそうなのでしょう。
また、これらと関連して、僕は嘘をつくのが苦手です。
できると思っていないことをできると言い切れません。
僕「成功するかは保証しかねますが、上司さんが責任を取るとおっしゃるならがんばります」
僕「君を幸せにできるかはわからないけど、そうなるように努力するから結婚してほしい」
(当時の)彼女「はぁ?」
というようなことは何度もありました。
ダメな「完璧主義者」の僕は、目標を限りなく低く設定することでストレスを軽くしようとしているのだと思います。
結果は100点ではなかったけど、当初の目標はクリアしたからOKだよね、的な。
できると言い切れよと言われるでしょうし、実際何度も注意されてきましたが、どうしても断言できないのです。
僕ごときが何かを成し遂げることなんてあるだろうかと思いますし、
できないと思っていることを「できる」などといった日には、
内なる自分が「お前になどできるはずがない」と毎日毎時間毎秒言われ続けるんですから。
誰しもが何らかのストレスを抱えているのかもしれません。
でも僕には、その負荷は耐えきれないのです。
思考矯正しようと、何度もポジティブシンキングに努めました。
ふと気が付くと、いつものようにマイナスの考えしか浮かんでこない自分がいるのです。
「完璧主義者」の僕は、そのたびに目標を達成できなかった敗北感や劣等感、虚無感など
今では、挑戦しようとすらしなくなりました。
それでも、今からでは遅いのかもしれませんが、できることなら変わってみたいです。
僕に何ができるのでしょう。
僕は何をしたらいいのでしょう。
苦手なことはたくさんありますが、生きることが一番苦手なんだと思っています。
余談。
「自分が自分を好きにならなきゃ、誰も君のことを好きになってくれない」
「自分で自分を好きになれないやつは、誰からも好かれない」と言っているわけで、
マイナス思考の人を崖から突き落とすような、プラス思考の人から見た一方的な意見だなと思います。
「マイナス思考なところはあるけど、私は君のここが好きだ」と言ってほしいわけで。
反応あれば適宜追記。
療育手帳を持たない中度・軽度の知的障害者は、健常者に比べて犯罪加害者となりやすい。
・にも関わらず、新受刑者のうち、IQ70未満の知的障害者が占める割合は22.8%
・新受刑者のうち、IQ70未満の知的障害者が占める割合を22.8%とした場合、11.5倍受刑者になりやすい
・30%として16.7倍
・その大半が療育手帳を持たない、軽度・中度の知的障害者である
→療育手帳を持たない知的障害者の犯罪率は、健常者よりもかなり高いのではないか??
知的障害者は説明が苦手
→ 情状酌量を得られない
ことが原因
知的障害者は「健常者が執行猶予を得られるような微罪での実刑が多い」ならば、
「健常者でも執行猶予の付かないような殺人等の重犯罪の割合」は、「健常者よりも低くなる」はずである。
・しかし、知的障害者の犯したその内訳をみると重犯罪の占める割合は健常者よりも高い。
・強制わいせつ・強姦(含む致死傷)の割合は、健常者の1.8倍。
仮に
と考えたとしても、
・依然、新規受刑者の19.5%をIQ70未満の知的障害者が占める
・知的障害者は再犯率が高く、資料によっては、前受刑者の5割近くが知的障害という記述も有り
・男性でいうと、小・中卒の入所率(219.0)は,大卒(6.9)の31.8倍
療育手帳を持たない中度・軽度の知的障害者は、健常者に比べて犯罪加害者となりやすい。
・大半が療育手帳を所有しておらず、本来受けるべき福祉の支援の手からこぼれ落ちている
・療育手帳を所有しており、福祉に捕捉されている知的障害者の犯罪率は低い
平成24年の刑法犯の検挙件数は、約28万人(除く、自動車過失運転致死等)
平成24年の推定「知的障害者」数は、約320万人(1億2751万*2.5)
新受刑者に占める「知的障害者」の割合と、検挙者に占める知的障害者の割合が同一水準と考えるならば、
毎年約50人に1人程度の割合で、「知的障害者」が刑法犯として検挙されていることになる。(28*0.228/320)
・療育手帳を所有し、福祉の庇護下にある知的障害者の犯罪率は、健常者と比べて高いわけではない
→刑務所内において、受刑者の療育手帳の取得と施設への入居や、支援者との接続を後押しすべきではないか
・支援者の手が足りない、予算が足りない、周辺住民の無理解等が今後の課題
・累犯障害者が必ずしも従順ではなく、むしろ「可愛げがなく、面倒くさく、社会的な能力に欠け、反社会的」であることがままあるため、継続的な支援を行うことが難しい
・毎月数千円程度、自動引き落とし
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AF%E7%8A%AF%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85
法務省:研究部報告52「知的障害を有する犯罪者の実態と処遇」
http://www.moj.go.jp/content/000121755.pdf
障害福祉情報システム「 平成20年度厚生労働科学研究 障害保健福祉総合研究成果発表会報告書」
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/kousei/crime/index.html
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/59/nfm/mokuji.html
http://www.moj.go.jp/housei/toukei/toukei_ichiran_kousei.html
http://tmaita77.blogspot.jp/2012/02/blog-post_29.html
・健常者と知的障害者の間における犯罪の認知-検挙件数における差異
『必ずしも従順ではなく~』については、山本譲司「累犯障害者」、鈴木大介「最貧困女子」「家のない少年たち」の記述より。
当該記述については、おそらく定量的なデータに基づいたものではなく著者の主観と思われるが、実態と乖離はしていないと思われる。
横に横ですまぬが、
親指シフト!なるほろ!という感じですー
(WPM(いっぷんあたりの打鍵数)が300を越えない理由が、左右のシフトキーの使い方にあるのではないかと踏んで矯正中)
(左のシフトキーは右手キーのために、右のシフトキーは左手キーのために、という風に。)
個人的には、さすらいのフリーターだったりもするので、JIS配列以外で脳内の空間認識を最適化してしまうといろんな意味で辛そうだなーと。
親指シフトキーボードには興味を持ちつつも見て見ないふりをしている。
あと、MTとATの例えがすばらしいとおもいました。(どっかのライターさんがぱくって使いそう)
小中学校時代ずっと顔のことでいじめられていた。だれからも「変な顔w」と笑われていた。ぼくがどんなに努力しても「でも顔は変だよねw」といわれて終わってしまう。小学生時代は走るのが速かった。運動会のリレーの選手だった。でも結局ぼくは「変な顔のやつ」でしかなかった。「ヘンガオ」や「怪物くん」があだ名だった。中学時代も高校時代も学年トップレベルの成績だった。でも「変な顔のやつ」でしかなかった。いったいどうしたらいいのかわからなかった。だれもぼくを認めてくれない。
これはもう東大に行くしかないと思った。でも落ちて、結局地方の旧帝大に行った。そこには絶望しかなく、もうすべてがいやで、むなしくて、かなしかった。
ぼくはなぜか大学時代「イケメン」「ハンサム」「かっこいい」といわれるようになった。まったく意味がわからず、これが社交辞令というやつか、まったく世の中歪んでいるなくらいの認識だったが、それは完全な確信をもってそう思うのだし、ぼくはどう見てもおかしな顔で、いまだに毎朝エレベーターの鏡を見て落ち込むわけなのだ(あとで説明するがぼくはいま障害者向けの作業所に通っている)。
なんども鏡で確認する。どう見ても奇形だ。骨格がおかしく、人間に見えない、なんだろうこれは、ペンギン? それともピスタチオ? 鏡を見るたびに落ち込む。鏡を見てこれはひどいと思ったらもう外には出れない。ひたすら寝込む。引きこもる。そうやって大学5年が終わった(大学にいけなくて1年留年したのだ)。
いつのまにかぼくはメンヘラになっていた。大学1年からその傾向はひどくなったかもしれない。大学5年目は卒論を書くだけだったのでなんとか卒業はしたが、もちろん就職活動などはしていない。じつは大学4年目に就職活動をしたのだが、もうまったく完全に頭が真っ白になってしまって、どうしようもなかった。ぼくはわけのわからないことをくちばしっていただろう。それ以来トラウマで、大学卒業後実家に帰ってきて、就職活動を親に迫られるとぼくはパニックになってしまって(過呼吸になって呼吸困難になる)、身動きできなくなっていった。どうしたら他人に認めてもらえるのかぼくにはまったくわからないのだ。ぼくは「変な顔のやつ」だ。それはもうどうしようもない。どうしようもない状態からいったいどうやってだれかにぼくの価値を認めてもらったらいいんだ。それはまったく完全に究極の難題だった。死について考えてぼくはよく小さなころからパニック状態になっていたが、まさにそれと同じ現象が起きた。考えが及ばない、まったくの未知、理解の範囲外、それは神、神だ! だが神なんかいない! 神の姿なんてぼくらはだれもわからない、というより神に姿があったらそれはおかしいのであって、ぼくにとって、《就職活動=他人に自分の価値を認めさせる》という儀式というものは、まったくの神秘であって、考えの及ばない、彼方の彼方にあるほとんど魔術的な妄想とでもいうべきもので、一般企業で働くということは完全に奇跡のわざでしかなく、それも実現不可能の絵空事、定義の及ばない、ことばの射程の外にある、まったく完全な神秘だった。しかし世間の人間はみんなそれをあたりまえのようにこなしているという事実がぼくに重くのしかかってきて、それは絶望ということばだけでは言い表すことのできない、とてつもない、ある重層的な空虚、陳腐な言葉で言えば、そうだ、まさにそれは「世界の終り」だった。そう、世界は終わってしまったのだ。ぼくには理解できない、おそらく認知すらできないなにごとかがこの世界では行われていて、ぼくはそこに存在するだけの強度をそなえていない、おそらく世界の脆弱性とでもいうべき……、異端! おお! すばらしい! 圧倒的少数にして弱者! 愚者であり賢者! ぼくにはもうこの物質世界は見えていない。文字通り超然としている。だがなんだ、超然としているというのに、ぼくはこの物質=顔にこだわっているではないか。ぼくの精神は完全にこのけがれた体から離脱しているというのに、しかしぼくのトラウマはまだ完全に顔にとらわれていて、むしろ顔こそすべてであって、かわいいは正義であって、ぼくは美少女が好きであって、いまだに勃起するではないか! なんなのだこれは。とらわれている! この世界に! ぼくはこの世界で認められたかったのか、それともこの世界を否定したかったのか、いやちがう、ぼくは自分自身が否定されたことによって、まさに自分自身が否定される世界というものを肯定することによって、ここに自分の存在を確立したかったのであり、だがそれは自虐でしかなく、自滅でしかなく、まさにこの自縄自縛のなかで、どうしようもない破滅的な未来へ向かってぼくは生きてきたのであった。だが、それも考えてみると、結局、死にたいという欲望に突き動かされたものでしかなく、しかしいざ死のうと思うと死ねず、しかし死のうという意志そのものが生きることを肯定するなにかとなっていたのであり、もはやなにがなんだかわからない状態で、結局ぼくは精神科を受診することになった。
精神科というものはまったくわけがわからない。まともに話したのは最初の診察のときだけだ。投薬治療をつづけてきたが、まったく改善は見られない。投薬治療だけでは無理ともちろん医者はわかっていて、カウンセリングも並行してやっているのだが、いや、しかしだね、臨床心理士といっても、しょせんぼくより頭の悪いひとなわけだ。ぼくがひたすらこの世の不正や不正義や不条理について語っていったところで、ぼくの真向かいに坐っている、この美女はなにか理解しているのだろうか。ホメロスやオウィディウスやプラトンについて話していたとき、ホメロスも知らなかったのだが、これは大丈夫なのだろうか。いやしかし美女とお話できたのだからよしとするか、というかそのひとはぼくを捨ててさっさと結婚してしまって、いまはもうカウンセラーやってないっぽいのね。まったくね、なんなのかね、結局口だけというか、そりゃカウンセラーにはカウンセラーの人生があるわけだが、こっちだって人生かけてしゃべりまくっているわけでね。ぼくはいってやったよ。あなたのことが大好きです、幸せになってくださいってね。うん。そうだ。彼女は幸せになったのだからぼくは泣いて喜ぶべきなのだろう。でもなんなのだろうねこのむなしさは! ぼくは結局利己的にすぎないが、自分がしあわせになりたいのだよ。しあわせになりたいよ。しあわせってどういうことなのだろうね。いや、もしかしたらいまの状態もしあわせなのかもしれない。障害基礎年金をもらっていて、医療費には困っていないし、両親はまだ生きているし、むしろあんなに厳しかった父親も……、ぼくは彼に虐待とまではいかないのだろうが、幼少期かなり暴力を振るわれて、ちょっとトラウマになっている。まあだからといってアダルトチルドレンというわけではないのだが。むしろいま父は仕事を退職してかなりやさしい性格になっている。父があんなにぎらぎらしていたのはまったくくだらないあの世界の滓とでもいうべき労働のせいなのだ。まったくこの世は腐っているね。でもとにかく両親はやさしい。ぼくはまったく役立たずで、そりゃ洗いものや掃除くらいはするが、だからといって、妹みたいに金を稼いでこないわけでね。
就労に向けて頑張りましょうという。ぼくは作業所に入った。B型ではなくて就労移行だ。一般企業での就労? それってどんなものなのだろう。ぼくは最低賃金で事務系のアルバイトを体験してみたことがあるが、そこは一日でやめた。そこのババアの指示がまったく理解できなかったため、ここで働くのは無理だと感じたからだ。あれはぼくがおかしかったのだろうか。支援者にはそういわれた。ぼくがおかしかったのだと。おまえに歩み寄りの気持ちが足りないのだと。でもぼくは真剣に真面目に全力で全身全霊を込めてやっていたのだ。しかし、その初日というか、唯一働きに出た日だが、そこをしきっているババアは朝いってもそこにいず、アルバイトの女性スタッフがぼくにいった。こんな感じでこんな感じのを作ってください、とね。いや、ぼくは大学卒業後まったく社会に出てなかったわけで、こんな感じの資料をつくれといわれても、いや、そりゃあね、見本があればぼくだってエクセルくらい使えるから、作れるんだが、その見本がないので、その指示、つまり「見やすいように作ってくれ」の「見やすいように」というのがどういうものなのかがまったくわからないわけだ。それはこちらの頭の中に知識として入っていないわけだから。そしてぼくに職歴がないというのはわかっているはずなのに、そういうことを要求してくる。それなので、ぼくは自分にとって見やすいように作ったのだが、それはちがうという。だったら見本を見せろと返す。見本はないという。なんだそれは。ここの職場はいままで同じような資料を作ったことがあるだろうに、そういったノウハウの蓄積といったものはないのか。ないという。なんだそれは。もう意味がわからない。そしてぼくは悪者にされた。ぼくは積極的に説明を求めた。人と話すのは苦手だし、さらに人に話しかけるなんてことはほとんどもう中学以来したことがなかったというのに、そのぼくが、そうだ、障害枠ということでやっているのに、そのぼくがやっと話しかけたのに、不完全な情報を断片的にしか与えてくれない。なんなのだこれは。この資料をもとに作ってください、といわれる、だが、作っている途中にその資料が不完全だということがわかる、なので、ぼくはこの資料だけではつくれないので、もっと正確な情報をくれという、そうすると、なぜだかわからないが、いやいや出してくる。意味がわからない。というか、最初からちゃんと資料を用意しておいてくれないと、いちいちこっちが催促しないといけないのか。なんなのだ、この非効率な仕事は。指示するなら、完全な指示をしてほしい。こっちは最低賃金でやとわれている、それも障害者枠でやとわれているクズなのだ。そのクズに創造的な仕事をもとめないでもらいたい。わけがわからない。これが社会。これが社会。おそろしい。そもそもなんで入って初日のぼくがそこの常識みたいなものを知ってると思っているんだ? あまりにも想像力がなさすぎないか? なんでぼくがそこの常識、たとえばA班とはどこでなにをやっているどういった人間たちの集まりだということ、そういうものをどうして入って初日のぼくが知っているという前提で話が進んでいるんだ。おかしくないか。どう考えたっておかしい。しかし支援者はぼくにコミュニケーション能力がなかったせいだなどという。それはちがうだろう。ババアのコミュニケーション能力というかもっと大雑把な意味での能力の問題だ。管理し指示を出す側の人間がしっかりしているべきじゃないのか、しかも障害者枠で、職歴なしで、やっとここで社会復帰のためのちょっとした労働をさせてもらいますみたいな人間に対してなぜ的確な指示を出さないのか、ぼくにはまったく意味がわからない。その職場の空気読んでやってねってそんなのわかるわけがないだろう。3ヶ月や半年そこにいればその場の空気やルールというものもわかるだろうが、入って初日に、どうしてそういった超人的な想像力が要求されるのだろう。それは理不尽じゃないのか。そしてそれを理不尽と感じるということがぼくの甘えだと論破される。これはおそろしい。思ったよりも、社会は遠いところにある。いったいどうすればいいのか。社会というものは理不尽だとみんな嬉しそうに言う。腐ってやがる。
作業所に行くと、○○さんは高学歴だし、なんでもできるよね、だからどんどん面接受けようぜみたいなことになっている。たしかにハローワークでGATBというテストをやったところ、一番高い数値は160近くあったし、ほかもおおむね130を超えていた。向いてる仕事というのがそのテストでわかるらしいのだが、困ったことに、ぼくに向いてない仕事はない! なんだそれは。この役立たずが! なんでもできるということはなにもできないということだ。ひとは制限があるから頑張れる。無限にひらかれていては神秘主義者になって終りだ。
なにもぼくは自分が天才だといいたいのではない。東大には受からなかったし、ネットで例のIQテストをやると138しかでない。こんなものは天才でもなんでもない。ちょっと平均より頭の回転が速いだけだ。中途半端、それがぼくに与えられた称号。といいたいのだが、だが、ぼくの顔は中途半端どころではなくどろどろに崩壊していて、もはや人間ではなく、だが、作業所にはダウン症のひとたちもいて、そういうなかにいると、たしかにぼくはそういうひとたちの一部ではいられるのだけど。でも世間はぼくらを人間とはみなしていない。障害者は殺せ! 隔離せよ! という。生きる価値がないという。
ああ、たしかにそうだ。ぼくらには生きる価値なんてない。でもなぜか生きている。みんな死にたいはずだが、でも生きちゃっているものはしょうがないのだから、結局生きている。
さて、どうやってこの顔と向き合っていけばいいのだろう。結局ぼくは自己肯定感をもてずにいるわけだ。結局それなのだ。自分に生きる価値があるとだれかが、家族以外のだれかが認めてくれれば、それだけできっと見える世界は変わってくるのに。見える世界を変えるためには努力しなければいけない。しかし努力の方向性がわからない。ぼくは存在そのものを否定されている。能力についてなら努力でかえられるだろう。性格についてならある程度の矯正は可能だ。しかしぼくの顔は! どうしたらいいのか。そういうわけで、ぼくはしばらく口をすぼめて生活していたことがあった。口をすぼめることによって、見える顔が多少変わるからだ。ぼくはそれによってマシな顔になったと信じていたのだが、まわりのひとたちはおかしいからやめろという。マスクをしていたら、マスクをはずせといわれる。なぜなのか。
露骨な容姿差別は存在する。容姿差別はなぜか問題にならないが、かなり重大な問題なのではないだろうか。ブサイクだとなぜいけないのだろう。奇形だとなぜいけないのだろう。
破壊衝動に身を任せてはだめ、テロなんてやっちゃだめだからね、と医者にいわれている。たしかにそうだ。もちろんぼくはそんなことできないだろう。せいぜい机をぶったたいて自分が骨折するくらいだ。むなしい。でもすべてをぶっこわしてやりたい気持ちはたしかに存在する。
初心者やセンスのない人間のコードを多少矯正して品質を保つことはできる。
Java の一行80文字も、統一されていると非常に読みやすい。
しかし、その80文字は今日び人に強制させてやるもんじゃない。
フォーマッターに完全に任せると逆に読みづらい部分もある。
SIer とかでよく揶揄されるスタンプリレーに似た匂いがする。
そんなくだらない見た目にこだわるぐらいならテスト強制した方がまだマシ。
デメリットの方が大きい気がしてならない。
1.『精神保健及び精神障害者福祉に関する法律』に基づく強制治療ができるようになる
一般的な病気の場合、まずは患者自身が病気であることに気付いて通院・入院などにより治療が始まる。
だが、精神病の場合、本人に病気の自覚が無いことも多い。また、本人の自由意志は最大限に尊重されるべきではあるが、そもそも精神病の場合その自由意志に混乱をきたしていて、本人や他人を害する方向に向かっていることもある。
そのため、精神病の場合は本人の意志を無視して強制入院などが出来ると法律で定められている。
第二十二条 精神障害者又はその疑いのある者を知つた者は、誰でも、その者について指定医の診察及び必要な保護を都道府県知事に申請することができる。
2 前項の申請をするには、次の事項を記載した申請書を最寄りの保健所長を経て都道府県知事に提出しなければならない。
一 申請者の住所、氏名及び生年月日
三 症状の概要
四 現に本人の保護の任に当たつている者があるときはその者の住所及び氏名
第二十三条~第二十六条:本文省略(警察官、検察官、保護観察所の長、矯正施設の長、精神科病院の管理者、の各人による通報に関する規定。
(申請等に基づき行われる指定医の診察等)
第二十七条 都道府県知事は、第二十二条から前条までの規定による申請、通報又は届出のあつた者について調査の上必要があると認めるときは、その指定する指定医をして診察をさせなければならない。
2 都道府県知事は、入院させなければ精神障害のために自身を傷つけ又は他人に害を及ぼすおそれがあることが明らかである者については、第二十二条から前条までの規定による申請、通報又は届出がない場合においても、その指定する指定医をして診察をさせることができる。
3 都道府県知事は、前二項の規定により診察をさせる場合には、当該職員を立ち会わせなければならない。
4 指定医及び前項の当該職員は、前三項の職務を行うに当たつて必要な限度においてその者の居住する場所へ立ち入ることができる。
5 第十九条の六の十六第二項及び第三項の規定は、前項の規定による立入りについて準用する。この場合において、同条第二項中「前項」とあるのは「第二十七条第四項」と、「当該職員」とあるのは「指定医及び当該職員」と、同条第三項中「第一項」とあるのは「第二十七条第四項」と読み替えるものとする。
第二十八条は診察の通知についての条文なので省略
第二十九条 都道府県知事は、第二十七条の規定による診察の結果、その診察を受けた者が精神障害者であり、かつ、医療及び保護のために入院させなければその精神障害のために自身を傷つけ又は他人に害を及ぼすおそれがあると認めたときは、その者を国等の設置した精神科病院又は指定病院に入院させることができる。
2 前項の場合において都道府県知事がその者を入院させるには、その指定する二人以上の指定医の診察を経て、その者が精神障害者であり、かつ、医療及び保護のために入院させなければその精神障害のために自身を傷つけ又は他人に害を及ぼすおそれがあると認めることについて、各指定医の診察の結果が一致した場合でなければならない。
(第3項以降は省略)
この規定に基づき、オタクである可能性がある人を通報し、強制的に診察を受けさせ、オタクであると認められた者は場合によっては措置入院させることができるようになる。
流石にインフルエンザなのに無理に出勤した人物などに適用された事例は無いが、相手への復讐のため意図的に性病を感染させた事例や、相手に無言電話をかけ続けて不眠症にした事例では傷害罪が適用されるという判例がある。
人をオタクにするための作品を作る人物も傷害罪で取り締まれるようになる。
表現規制なんてしなくても、こうすればオタクなどという非生産的で性犯罪者予備軍である人々が根絶できます。だから精神科の人は『オタクは精神病である』という事実が認められるよう、精神科医の学会で頑張って欲しいです。
だったら「成長できる職場です」というのは一体全体どういう職場なのか。
言葉に付随するイメージを援用するためにあえて比喩的に用いる行為も、うまくやってのけられたなら賞賛に値する。
文句があるとすればその程度の詐術に社会丸ごと引っかかる馬鹿さ加減のほうだ。
成長という言葉は発育という言葉とほとんど同義で、組織の不可逆的な大きさの変化、複雑化のことを表している。
人間の身長は20歳を迎えるころには既に変化しないものだし、したとしてもそれは遺伝的な要因だろう。思春期にバスケやったら身長伸びるとかじゃあるまいし、仕事場でどうこうなるものなわけがない。
こういうことを言うと、精神的に成長してるだのなんだのという反論が当然出てくるだろう。
しかしながら脳組織は体よりも成長が早く年齢一桁代で八割方完成しているものだし、経験はあくまでも経験である。処理プロセスの最適化を成長と言い張られても困る。私のパソコンが毎週金曜の夜に成長していることになる。前よりだいぶ遅くなってるのに。
まあ、新しいことを覚える、というのが成長というなら一部は認める。泳ぎ方とか自転車の乗り方とか、一度習得したら二度と忘れないのに関してはそうかもしれないが、エクセルの使い方なんぞ私自身前に覚えたが、使う機会がなかったのでもう忘れてしまった。
つまるところ要するに、巷で言われている成長というのは、周囲の環境に合わせての可逆的な変化、つまり適応のことを言い換えてるだけなのだろう。
そりゃあまあ郷に入っては~とは言うし、社会生活を送る以上はあるていどの適応はやむをえない。しかし適応するのは大抵その環境が好ましいから、という理由であって、適応するために環境を選ぶなど、よほど実験的な目論見でもない限りやることじゃないのではなかろうか。
適応を前提とするというのは、あなたの人間性がこの職場に合っていようが合っていまいが一律に部品として矯正しますね、と宣言しているに等しい。
はっきり言ってそういう不合理で不愉快な環境に適応する気はさらさらない。
さて、野垂れ死ぬまで後何年?
重複もあるかもしれないけど例の事件のブログの画像。この増田はそのうち消滅します。その前にブログが消えそうな気もする
無理やりなひねりをしているのではなく、
http://ameblo.jp/tuimen/entry-11760172664.html
まな板の上のぼく
http://blog-imgs-43.fc2.com/m/a/m/mamarara/fc2blog_201308142134486ff.jpg
絶叫のぼく
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http://blog-imgs-43.fc2.com/m/a/m/mamarara/fc2blog_2013081422175104f.jpg
つむじと尾てい骨が一直線になったらおとなしくなるわよとの言葉とおり、ピタッと泣き止む。
http://blog-imgs-43.fc2.com/m/a/m/mamarara/fc2blog_20130814221713686.jpg
http://mamarara.blog117.fc2.com/blog-entry-1020.html
つむじが動く
写真1と2の違いは、つむじの位置が移動しただけではなく
http://ameblo.jp/tuimen/entry-11792271884.html
首の皮一枚下が、このように深くねじれているので、
その状態をそっくり再現する時には、
赤ちゃんは、自分のあるがままの様子なので、苦しがることもありません。
写真2・3のような首のねじれがあるのをそのまま放置しておくと、どこまでも我慢ができて行く場合と
少しのことで直ぐ切れてしまう場合と両極端な症状があらわれやすくなります。
http://plaza.rakuten.co.jp/kidsstudion2/diary/201308210000/
背筋がもっとも伸びた首の位置が
全身リラックスできる心地よさをあじわって、おおきなため息のような 深い吐き呼吸がでてきます
http://plaza.rakuten.co.jp/kidsstudion2/diary/201401090000/
顔よせはどんな効果があるんですか!なるちゃんまま! なるちゃん
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/12/0000289412/85/img1820795ai0gp7w.jpeg
1才1ヶ月のけいちゃんです。うんていの上を渡って行きます。
近づいても近づいてもママが遠くなっていくよぉ~ۤ
足が落ちちゃった!えーんえーん!
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ハシゴ降り練習
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今日はうんていの上段、中段、下段のすべてを一斉に使いました。
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「あれれ、上に登っている人がいるぞぉ」
うんてい初挑戦の、りおくん。(6ヶ月)でもまわりを良く見ていました
同じくゆうたくん、うんてい初挑戦。びっくりして泣いちゃった。
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http://plaza.rakuten.co.jp/kidsstudion2/diary/201211070000/
首筋矯正中
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それまで泣いていた赤ちゃんが急に静かに力がぬけてリラックスしていきます
リラックスしたのと、気を失ったのとの違いは、
顔の穏やかな表情と顔面に生気があることで直感できることです。
http://plaza.rakuten.co.jp/kidsstudion2/diary/201211220000/
写真のボクの首は「ひぇーひどい」と思う人がほとんどだと思いますが、
http://jump.2ch.net/?plaza.rakuten.co.jp/kidsstudion2/diary/201308200000/
いま、この社会でメガネやコンタクトを使っている人たちは極端に言えば狩りの時代は今で言う「障害者」なわけだったんだよね。視界が鮮明じゃないから、獲物を捕まえることもままならない。
だけど今はそんな人たちにはきちんと矯正するものが与えられていて、社会もそれで困らないようにできている。
だから、障害者の定義なんて社会の有り様ひとつで簡単に変わるし、もっというと社会のあり方でしか決まらない。
歩く必要のない社会なら、車いすユーザーは障害者ではない。音声によるコミュニケーションを必要としない社会ならば、現在の定義での聴覚障害者は存在しなくなるの、わかるかな
一般人の障害(この人はつまり邪魔といいたいのかな)になっているから障害者なのではなくて、社会の側にその人を困難な状況に至らしめる
なにか(これが障害)があるので障害者になっているわけですよ。
「障害者」をなんと呼ぶか、害の字をひらがなにするのかどうか、チャレンジドというのか障害を背負わされたというのか、なんて議論は本質ではない。そもそも障害自体が個人の問題に帰着するものではなくて、社会の問題であると認識すべきだし、言い回しはその次だと思う。
ALSの氷水も、それを云々いってた芸能人も、24時間TVなんかも、みんなが感じる違和感の出処ってきっとここだろう。
こうやって個人の機能の問題にしている限り、これらのストーリーは「頑張る障害者」や「あなたの周りにもいます」とか「自分もいつなるかわからないから」なんていう当事者意識に訴えかけるものにしかならない。
しかし、未だにこんな考えの人がいると知って驚いた。
こんないいものを知らないのかという無知を矯正してやるために「薦める」。
そのくせ、ご希望どおりそれを消費して、めちゃくちゃおもしろかった!的な感想を言っても、かなり冷めた様子でお前うざったい的な態度をとられる。
あるいは、な? 面白かっただろ?(ドヤって感じの反応。
いや面白かったけど別にお前はすごくもなんともねえから。先にそれをたまたま知ってたってだけで、作者どころか関係者でもないのになんでそんなにてめーが偉そうなの?っていう。
基本的に布教と一緒で、蒙を啓く(笑)という名目の元で他人に対する優位性を確認しているだけのオナニーなんだよ。
面白いものを共有して楽しみたいとか広めたいとか知ってほしいとかが第一義的にあるんじゃないんだ。
自分はこんなにたくさん面白いもの・いいものを知ってるんだぜ的な自己顕示欲の醜い発露でしかない。
ほんと矛盾してるわ。
だからやたら勧められると自分がそれだけバカにされていると感じて不快になるし、ああこいつは俺を見下してんだなっていう相手に対する値踏みにもなる。
そういう意味では、初対面の相手と趣味の話をするときに相手がどう出てくるかってのはリトマス紙的なテストになるっちゃなるかもしれん。
オレのFacebookのタイムラインも、このチェーンメールみたいなのが回って
鬱陶しいし、さらに的外れなモヤモヤの原因究明記事が目について
アイスバケツチャレンジの一番の問題点は、同調圧力によって
やりたくない事を矯正させられる事。
本当は、氷水をかぶる事も興味の無い病気への寄付もやりたくない、
でも少しずつ忍び寄り、次は自分の番かも、、、
やりたくない人からしたら、回りで流行ってるだけでも気分が良くない。
で、我々はこう言う流れを、学校という狭い社会で散々見てきたはずなんよ。
人の気持ちが考えられないリア充と、それに合わせるキョロ充達によって
何度迷惑を被ったことか。
今回は、いい大人がやってる事だから、イジメに至ることは少ないと思うけど
実際に↓こんな事になったりしてる。
http://repsoku.net/articles/44934.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140822-35052704-cnn-int
■"やらない善より、やる偽善"だ!批判するな!と思っている人たちへ
学校でもリア充側、もしくはキョロ充だった幸せ(?)な人たちなんだろう。
でも、少しでも嫌がる人が出ていることに心を配れない人は、
批判だけして行動しないより良いだろと思う前に、自分の行動によって
傷つく人が出てこないか良く考えるんだ。
独善は、悪より質が悪いことがある。
"地獄への道は善意で舗装されている"んだよ。
いまだに優先席の近くで携帯を使えないのも、ペットボトルを捨てる時に
キャップを別に捨てるのも、君たちの"善"によって"改悪された"結果だ!
■アイスバケツチャレンジの流行へモヤモヤ、イライラしている人たちへ
世の中を回して行くことになる。
その結果、どんどん生きづらい世の中になるぞ。
今回のアイスバケツチャレンジは小さな話だけど、
放っておくともっと酷くなる。