はてなキーワード: 枚挙とは
Twitterのタイムラインを見ていると、功成り名を遂げたはずの立派な研究者が、若い頃のルサンチマンをいつまでも持ち続けていることがわかる。
とりわけ多いのがアカデミズム内の年長の左翼系教授からかつて受けた屈辱、についての告発である。
暴力を振るわれた、罵倒された、土下座させられた、村八分に遭った、そんなものは研究ではないと嘲笑された、と枚挙にいとまがない。
また、若手の非正規研究者も、安全圏からリベラルな発言をする大学人を冷めた目で見ているようである。
彼らはそれが昂じてネット上で何か議論が沸き起こるたびに、「左翼」「リベラル」の主張を必要以上に強く批判しているように思われる。
学術会議問題の時、意外と研究者の間でも「自業自得だ」的な意見が見られたのも無関係ではないだろう。
もっとフラットな議論ができればよかったのだろうが、今となってはどうしようもないのかもしれない。
南無。
世界一流行っているMMORPGファイナルファンタジー14で悪意に発見されず燃やされないただ一つの方法がある。
世界一流行っているMMORPGファイナルファンタジー14は、治安のいいオンラインマルチゲームとしてプレイヤーから定評があるが
これは民度の良し悪しよりも警察の強さによるもので、どのオンラインゲームよりも繊細ヤクザの影響力が強い。
それゆえにプレイヤーの一定の層が淘汰されると言うことがあまりなく、結果多様で幅広い。
攻略における責任が分散される上に、他人(特に他ロール)への影響は強く及ぼしにくい。結果、決定力のある地雷もキャリーも存在しにくい。
したがって他のオンラインゲームだと共通話題として成立する「地雷野良への愚痴」がFF14の世界だと成立しにくい。
プレイヤー層が厚さは、「こういうことをしてはいけない」というプレイヤー共通認識のブレを示している。
地雷野良として語られる対象が自分に向くかもしれないと言う恐怖が「聞き手」に発生する、その判定が愚痴を言うたびに常に行われていると感じた方がいい。
愚痴に対する根本的な嫌悪感もあるが、「外部ツールやサイトでわかるリザルトを見て喋っている」「本人に指摘せず、裏で文句を言っている」
という様子が、「自分の知らないところでもしかしたら」という不安を他人に呼び寄せる。
人間は不安を感じるとそれを解消、または実証するための「根拠」を捜索してしまうため、粗探しの的になってしまう。
そしてその粗探しの的になった時に問題なのが、FF14のゲーム性だ。
単純な話だが、FF14において「自分は完璧なのに他の人のせいでクリアに至らなかった」という次元に辿り着くのはかなり困難だ。
ゆえにその証明もかなり難しくなってしまう。本人の肌感覚としてどんなに自分は頑張っていたと思っていても
後出しジャンケンでいくらでも「こいつにも悪いところがあったんじゃないか」というところが掘り起こされてしまうゲームだ。
もっと言えば、ロールやジョブによってキャリー力が異なるため、キャリー力が低いジョブを扱っておいて……といちゃもんをつけられる可能性も多分にあるし
スタートダッシュしないから悪い、固定を組まないから悪い、などなど
とにかく粗を探されたら枚挙に遑がない。
「オンラインゲームのマッチング相手が運悪くカスだった」ぐらいの気持ちで書くには
加えて人間という生き物は、自分が影響を及ぼしにくい対象をストレスに感じる傾向があると思う。
同じオンラインゲームをやっている友人が知らない人と遊んで不快な思いをした、という時
ほとんどの人間が自分が一緒に遊んであげようという考えに至ると思うのだが
FF14の高難易度でそれをやるには他に必要な人数が多すぎる。
結果的に聞かされている人間は「解消してあげられない」というストレスを抱えながら愚痴を聞く・見かけることになり
蓄積されたストレスは結果本人に向く。
以上のことから、知らない奴を悪くいうことを避けるだけでFF14はかなり安全に遊べると考えられる。
結果的に野良の愚痴を言わない、燃えにくい、燃えても強い延焼材料がでてこないという構図が成立している。
無論固定や身内内部でやらかす・やらかされることがいくらでも可能性としてあるが
結局人間同士のいざこざそのものよりも「その人間そのものが持っている欠点」に最終的に好奇心が向くため
それが露呈する、というか「暴こうと思うモチベーション」をインターネット上に残さないのが無難だ。
この頃はdiscordやLINEなどもバンバン晒しの対象になる。悪口は通話で言おう。
おわり。
いや違うな。こう生きれば楽になるとキリストや釈迦など開祖が考えた知恵の集合体。科学的じゃないのじゃなくて科学自体が17世紀にデカルトが明証分析総合枚挙からなり合理的批判に耐えられた知識であり科学のほうが遥かにあとの時代のものだ。
昔は宗教がすべて語れると思っていたが科学で語れるものは科学で語れるから宗教から出ていっただけのこと。それでも行き方については宗教が語れるものがある。最も有意義な宗教は迷って解を得たら宗教は不要になるものだけどな。
仏教や儒教は神の存在を前提としていない(仏教毒矢の例え、儒教怪力乱神を語らず)
その上で山上母が騙されて献金しなければ山上は高度な大学に行けただろうから人生は全く別のものだったな。
あまえんなと言う言葉は神に献身なんて求める統一協会を始めとしたクソッタレ霊感商法にこそふさわしい。ましてや少し助けを与えて、その後依存させて餌にする霊感商法が増えすぎたため、いまの時代宗教知識は本だけで学ぶべきだと思うが。
公式に二次創作の是非を問い合わせるのは非常識、というのは非常識だよな。
いやわかるよ。
グレーゾーンの中でうまく運用していくのが一番みんなの幸せにつながる、とかいう考え方は。
でもさ、そういうグレーゾーンは許さない!!といって正義の鉄槌を嬉々として振り回すのがネット民だろ?
交通違反にもならないようなちょっとしたマナー違反を車体に企業名が入っているからといって鬼の首をとったかのように責め立てるじゃん。
なんかさ、そういう潔癖を求める態度と同人界隈を許容しろという態度は矛盾している。
そして、これがいちばん大事なところなのだが、どちらも主張している本人はそれが「正しい」と思いこんでいるところだ。
といって、必ずしも同人界隈のグレーゾーンを許容するべきだ、と主張する人と
些細な違反やマナー違反を許せないと主張する人が同一人物ではないのだろうが
それでも同人界隈のそういった甘えた態度を取る輩が社会問題に対しては清廉潔白を求める態度の枚挙にいとまがないのも事実だ。
なんかさハッキリせいよ、と思う。
どっちかにせいよな。
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3428s
57:08~1:05:19
抑圧側と被抑圧側との逆転の構図
抑圧側と被抑圧側とのこのような逆転の構図というのは、2010年代にはオルト・ライトと呼ばれる新興右派、
あるいはそれとも重なるミソジニーに満ちたオンラインの男性主義の主張などにおいて、幅広く利用されるようになっていきます。
もちろんマイノリティを、かぎかっこ付きの「私たち」の外部にある敵というふうに認定する、
その敵の攻撃から身を守らなくてはいけないという形で、当該のマイノリティへの抑圧や暴力を正当化していくっていう、
その形というのはもちろんその以前から、
例えば排外主義において、あるいはモラル・パニックにおいて広く見られてきたものではあります。
9.11の同時多発テロの後、対テロ戦争期の欧米各国におけるイスラムフォビアの暴力っていうのはこういうものだったわけですし、
あるいは70年代80年代に、同性愛者とりわけゲイ・バイセクシャル男性というのを、
当時は性的捕食者、セクシャル・プレデターっていうんですけれども、性的捕食者あるいはHIVウイルスの拡散元として、
非常に激しくバッシングしたのが英米のモラル・パニックっていうのになるんですが、これなんかがすぐ念頭に浮かぶと。
じゃあそのオルト・ライト勢力やオンライン・ミソジニー・アカウント群を巻き込んだ、2010年代の特徴っていうのは何かっていうと、
これ単にマイノリティ側を、自分たちを脅かす敵なんだというふうに認定するだけではなくって、
マジョリティ側が力のある側が、自分たちを「差別されている」「抑圧されている」、あるいは「自由を侵害されている」という形で、
はっきりと、私たちこそが「被害者である」「被抑圧者である」という形で、語り始める点にあると言えるかもしれません。
そういう語りのこの後もいろいろ出てくると思うんですが、
今のところ最新の形がいわゆる「キャンセル・カルチャー批判」というものになります。
- CAMBRIDGE DICTIONARY
- MERRIAM-WEBSTER
キャンセル・カルチャーという語が急激に知られるようになってきたのは、
2010年代後半のことで、したがってだから、数年なんですよね、
キャンセル・カルチャーの意味とか語法も、現時点で完全に固まってるとは言い難いところがあります。
実際、例えば辞書の定義を見ても、Cambridge Dictionaryだと、
「社会あるいは集団、とりわけソーシャルメディアにおいて、自分を傷つけ侮辱すること」、offendという言葉ですが、
「自分を傷つけたり侮辱したりするようなことを言った人を完全に拒絶したりとか、
あるいはその人への支持をやめたりする振る舞い方」、いうふうに定義している。
それに対して、もう一つ別の有名な辞書でMerriam-Websterなんかを見ると、
「不同意を表明したり社会的に圧力をかけたりする手段として、集団でキャンセル行為」、
このキャンセル行為というのは「公に、とりわけソーシャルメディアにおいて、特定の人や組織への支持を撤回すること」なんですが、
「集団でキャンセル行為を行う実践」っていうふうにしていて、だから重点がちょっと異なってるんですね。
またピュー・リサーチ・センターによる2020年時点の調査では、
リベラル寄りの人々は、
キャンセル・カルチャーというのは、ある人に自分の言動に対する責任を取らせるためのアクションと捉える傾向が強い。
それに対して保守派に寄っていく人ほど、
同じキャンセル・カルチャーを検閲であるというふうに捉える傾向があるということが明らかになってます。
つまりある人々が、差別的だったり暴力的だったりするなど社会的・文化的に問題があると思われる言動を、
放置しないために取るアクションだ、ってふうに考えているものが、
より保守的な別の人々にとっては、これがつまり「キャンセル・カルチャー批判」の文脈になるわけですけど、
そちらの人々にとっては、それが集団での圧力とか検閲とかっていう形で理解されている。
言い換えれば、「キャンセル・カルチャー批判」という形でのキャンセル・カルチャーってのは、そもそもの最初から、
しばしば多数派である鉤括弧付きの「私たち」の言動を、差別的とか抑圧的などと非難することで、
「私たち」の言動を検閲する抑圧する、あるいは「私たち」を差別する圧力というふうに定義することができる。
だから先ほどからお話ししている逆転の構図を含み込んだ用語っていうのが、キャンセル・カルチャーだと言えると思います。
「正義と開かれた議論についての書簡」(通称「ハーパーズ・レター」2020)
153の署名: ノーム・チョムスキー、サルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなど
「人種的、社会的正義を求める強力な抗議運動」や「とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等と包摂を求める声」というような「必要な過去の清算(reckoning)が、同時に、開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」
保守派による「キャンセル・カルチャー批判」の事例というのは、とりわけ2020年代になってからはほとんど枚挙にいとまがない。
毎月のように何か出てくるんですが、ただ時間がないので、
ここでは学問の自由に関わる、そして最も知られた例の一つを挙げておきたいと思います。
何かというと、2020年に公開された「正義と開かれた議論についての書簡」というものです。
一般的にはハーパーズ・レターと呼ばれるんですが、その公開書簡なんですけども、
この公開書簡は、当時のトランプ大統領に代表される右派の動きというのは民主主義の脅威であるというふうに位置付ける一方で、
同時に右派はまずいと、だけど同時に左派の間にも異なる見解に対する不寛容がまん延しつつあるというふうにして、
ここの何か不寛容とかそういう表現が、先ほどちょっとお示ししたブッシュ・シニアのポリコレ評価と、
用語としてこう微妙に近似しているのは非常に興味深いところなんですが、
とにかくただこれだけ見ると何でもない主張に見えるんですけれども、
この公開書簡、例えばノーム・チョムスキーとか、サルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなど、
非常に有名な人たちを含む153名の研究者・作家・ジャーナリストが署名しているんですけども、
この公開書簡、何でもない、割とこう、どうでもいいというか普通のこと言ってるように見えるにもかかわらず、
公開されるとすぐに「キャンセル・カルチャー自体をキャンセルしようとする公開書簡である」っていう形で、
人種的・性的マイノリティを中心とする若い左派層から大きな批判を受けることになります。
キャンセル・カルチャーという用語は、それどころかキャンセルっていう用語も1回も使われてないんですね。
じゃ何で批判が来るのかっていうと、ここ(=スライド)にあるんですけども、
「とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等と包摂を求める声」というような
「必要な過去の清算」、この清算というのはReckoningという言葉を使うんですが、これが同時にそれは必要だと、
だけど同時にそれが「開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、
一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」というふうに言うと、
この表現が、とりわけBlack Lives Matterを通じて、
Racial Reckoningって人種的な過去の清算の盛り上がりを迎えていた英米両国においては、
人種主義への批判そのものを不寛容だと見なす「キャンセル・カルチャー批判」の文脈につながる書簡だというふうに受け止められた。
同時に、キャンパスにおけるポリティカル・コレクトネスの批判者として知られていた、
ハーヴェイ・ワインスタインの弁護を引き受けたことで、学生から抗議を受けてハーバード・ロースクールの学部長職を退くことになった、
この公開書簡の公開時にはトランス排除言説の支持者として知られていて、その言動に批判が集まっていた、
この公開書簡が「キャンセル・カルチャー批判」の一翼をなすものと受け取られた一因ではあったと思います。
この書簡は、先ほどもちょっと申し上げたように、例えば左派の代表的知識人と見られてきたチョムスキーが署名をしている。
同時に、ネオコンサバティブの論者である、例えばフランシス・フクヤマみたいな人も署名してるんですね。
つまり従来の分け方で言えば、まさに右も左もなく同意できる原則を語っているように見える。
にもかかわらず先ほどから申し上げているように、
実際には、より若手のマイノリティのライターとか研究者から強い批判が出る結果になった。何でか。
恐らくこれは、後者に当たるより若いマイノリティの人たちというのは、
近年では力のある地位にある人々が、自分たちの差別的・抑圧的な言説の責任を問われたときに、
その批判や糾弾を振り払うために使う枠組みになってしまっている、ということを感じ取っているのに対して、
フクヤマにしてもチョムスキーにしても、ある程度は地位が固まった偉い人たちっていうのは、
その事実をあまりきちんと把握できてなかった、いうことではないかと思います。
増田だから言える事だが、私はヲチスレを巡回してはニヤニヤとROMに耽る程度には性格と趣味が悪い。
読み進めると、どうも見覚えのある顔が貼られている。
思い当たる節はあった。
私自身は、彼女とそこまで親しくはなかったが、パンチの効いた人だった事はよく覚えている。
友人からの伝聞ではあるが、思い出せる中でいちばん印象的なエピソードは、教室で友達と他愛のない話をしているときに急に「ね、いま後ろの男子達……ウチらの事を噂してたよ」「男子ってホント、しょーがないよねぇ」などと小声で囁いてきたという話。
言いにくいけど、それたぶん何かの勘違いじゃないかな……とは誰も言えなかったので、華麗にスルーしたそうだ。
彼女はどうやら異性の一挙手一投足から「この人は自分に好意を持っている」という熱を見つける特殊能力があったようだ。
ただし、彼女が男子から人気があったとか、彼女に彼氏ができたとかいう話は、ついぞ耳にする事がなかった。
容姿についての言及は避けるが、まあ……お察しいただければと思う。
ゆえに傍から見れば、彼女の自己認識は、完全に見当違いか妄想の類か認知の歪みといったところだった。
だが彼女は自信に満ち溢れていた。
そして、そんな自己主張の強い人間がインターネットという文明の利器を手にしたのである。
結果は言わずもがな。
惜しげもなく公開される大量のキメ顔の自撮り。
「私が人から嫌われるのはあまりに魅力的すぎて相手の劣等感を知らぬ間に刺激してしまうせい」「その気がなくてもなぜか男性を虜にしてしまう」といった自画自賛は枚挙にいとまがなく、さらにそこには必ずと言っていいほど『他人をこき下ろす言葉(本人曰くサバサバ毒舌)』がセットとしてついてくる。
私は心優しい人間とは程遠い、人の醜いところを煮凝りにしたみたいな性格をしているので、彼女が笑い者になっていること自体には少しも心を痛めていない。
ヲチスレにたむろしているのは、自分を含め碌でもない人間ばかりだという自覚はいちおう持ち合わせている。
彼女に限らず全てのヲチ対象に言える事だが、いつか自分自身の心と正面から向き合い、己の攻撃性や認知の歪みの根源に気付き、心が真に求めているモノは何なのかを知り、それを手に入れて心身に安寧が訪れればいいね、とも思う。
何様目線かと思われるかもしれないが、別に綺麗事を言いたいのではなくて、物理的に彼女らの周囲にいる人間を気の毒に思うからだ。
彼女への批判や忠告の類が、全て「嫉妬乙」で片付けられては堪らないだろうと思うし、そんな人と毎日顔を合わせ続けなければいけないなんて、ただただ苦痛でしかないだろう。
想像の五倍長くて草
読めんわw
読み進めるとどうも見覚えのある顔が貼られている。
しかし誰でも利用できる簡便性の一方で
あっという間に食い物にされてしまうのだ。
くらいの位置付けだったので
香ばしさを丸出しにする人間がいなかったため
となかなかの衝撃を受けた。
私本人は彼女とそこまで親しくはなかったが
ただパンチの効いた人だった事はよく覚えている。
と一瞬気の毒な気分にもなったが、
という友人らの数はもはや片手では足りないため
起こるべくして起きた事だな……
と最終的には納得してしまった。
それくらい強烈な人物だったのだ。
友人からの伝聞ではあるが
思い出せる中で一番印象的だったエピソードは
「ね、いま後ろの男子達……ウチらの事を噂してたよ」
フゥヤレヤレクスクスと気怠げに小声で呟いてきた
という話。
その『噂』というのは要するに容姿や体型やそういう……
お年頃の男子のするフヮ〜オな話だったそうだが
もしその『後ろの男子達』の耳に入ったならば
おそらく同じ感想を抱いた事だろう。
しかも後ろといっても彼らが話していたのは
そんな下卑た話を大声でするだろうか?
とは誰も言えなかったので華麗にスルーしたそうだ。
彼女はどうやら異性の一挙手一投足に
という熱を見つける特殊能力があったようだ。
グループ内に
と自負しているらしき発言をしていた(要約)
と思ったものだ。
ついぞ耳にする事がなかったし、
まあ……お察しいただければと思う。
ゆえに傍から見ればその
といった所であろうが
そんな事はお構いなしに彼女は自信に満ち溢れていた。
グループ内の友人らにすらやや一線を引かれ
「私って高嶺の花」くらいに思っていたのだろう。
結果は言わずもがな。
と言わんばかりの大量のキメ顔の自撮り。
こんな風に常に自信満々で大胆不敵な彼女だが
詳細は伏せるが、私は確実にまともではないと感じたし
話を聞いた当時(卒業後)はそれなりに胸も痛んだ。
全く悲嘆してはいないようだったので
今はもう立派な大人なわけで。
だが思うところがないわけではない。
私は
事は起こり得るんじゃないかと考えている。
そこだけもう毛が生えてこなかったり
逆に普通より濃い毛が生えてきたりするのと同じように。
本人曰く
らしいが
無理矢理言い聞かせているようにも見えるのだ。
やら
やら
それはもう枚挙にいとまがない。
反対の手で膝を打って唸ってしまった。
容姿が万人受けでなくとも魅力的な人がいる事や
ただ、彼女はそれだけでは終わらなかった。
がセットとしてご一緒についてくる。
そりゃ反発も起こるだろう事が容易に推察された。
お前さぁ……嫉妬とかじゃなくてそういうとこやぞ。
こんな事は教えられずとも自分で気付くべきだ。
履き違えてしまっている事だけはなんとなくわかる。
何もかもに目を瞑って、自分で作り出した
夢の世界の中に閉じ籠っているだけに見えるのだ。
今のままじゃ何度ネット上で転生しようとも
私は心優しい人間とは程遠い
少しも心を痛めていない。
あそこにたむろしているのは自分含め
革靴で丸一日歩き回った後の汗まみれの靴下や
臭くて不愉快だと分かっているのに嗅ぎたくなる、
そして「クッセェェェwww」と仲間内で騒ぐのに似た、
臭ければ臭い程、喜ばれて遊ばれる。
それが嫌なのであれば、言論統制よりもまず
これはあくまでも
『ヲチられるのが嫌なのであれば』
そんな事を思っている人がいるとしたら少数派だろう。
多くは娯楽として消費しているだけだ。
中には言葉が過ぎる者もいたりするが
心が真に求めているモノは何なのかを知り
それを手に入れて心身に安寧が訪れればいいね
とも思う。
何様目線かと思われるかもしれないが、
嫉妬で片付けられては堪らないだろうと思うし、
そんな人と毎日顔を合わせ続けなければいけないなんて
発想や嗜好がなかったため
弗の原石に気付かなかった事を
一瞬もったいなく感じてしまったが、
余程タフでもない限り精神衛生に支障をきたしそうだ
という事に気付き早々に認識を改めた。
燃料を撒きに行く術もない。
超えちゃいけないラインを助走つけてどころか
また、スレッドの内容等々を
彼女の元友人らと共有する気もない。
こんなん内容が内容だけにリアル友人にも言えないし
別に悲しいとかは一切ない。
衝撃と面白さとほんの少しの哀れみと
アレとコレとソレが混ざって混乱してはいる。
https://archive.ph/2022.07.19-044423/https://anond.hatelabo.jp/20220719103756
理性哲学だけではどうにもならないよ。
聖書が正しい(プロテスタント)と聖職者が正しい(カトリック)の戦争に従軍した兵士デカルトが明証分析総合枚挙からなり、合理的批判に耐えられた知識は正しいとう新しい正しさを作った。
しかし振れが多いと明証がすぐにはできない。統計を使って振れを踏まえても明証をしようとするが、統計がなじまない個体差が多い問題には対処できない。
だから自分が正しいから正しいという余地は残しておかないとならない。問題はつかれると判断力が落ちるというのと、判断力が落ちたやつに誤った「自分が正しい」を教え込む連中はいる。それがカルト。
今の時代宗教団体に属する意味は無い。しかし宗教の知見や過去の人、歴史は多く学んでおいたほうが良い。その上で、判断力が落ちる状態にならないようにしないとならない。
御田寺圭(白饅頭@terrakei07)及び「ただしさに殺されないために」に対するデビット・ライス(ベンジャミン・クリッツァー)の批評について
https://note.com/katotoorera/n/n69b752f88f02
「何かを批評する時、何らかの根拠(理論や思考システム)や価値判断の基準(善悪)が必要である」
病んだ細胞は救済せず淘汰すべき、といった風な優生学や国家有機体論ごとくのものをしばしば見かけることだ
確かに
・理念的根拠が示されていない(迫害目的だなど叩かれるようなことは言わない)
・科学的根拠なし、あるいは偽造統計、捏造事件の使用(権威的な機関ほど有利だろうね)
・「枚挙に暇がない」などの被害度曖昧変造レトリック(「権威が言うんだから」のどこに信頼性があるのか?)
ぶっちゃけ欧米国家は人権保護の劣った国に武器を売りつければある種の同罪になりかねないこともあり、人権保護を求める
一方欧米武器業界は反欧米感は困るので、内国分断する言論をはらまき、反欧米武器輸入論者の分母を減らしたい可能性はある
ただ武器や技術の購入を求めたいから、劣った国の構造的不景気問題などは無視だ(円安のときにドル借款を返済させるのは、わざとではないと主張しながら)
巧みなことだな
なんでやらないんだ
いきなり告白するんじゃなくてまずはいい感じになってから告白すればいいという意見がめちゃくちゃ多いけれど、どうやってその「いい感じ」になれというのだろうか?
挨拶をする→通勤ですれ違うとか店員と客とかその程度の関係性なら、挨拶をした時点でキモがられる可能性が高い。
会話して親しくなる→職場や趣味のサークルは出会いの場じゃないと散々言われて、出会いを求める人間は非難されてるよね?職場では仕事、趣味の場では趣味以外の話をしたら駄目だという不文律があるじゃん。それを越えても許されるのは元から黙っていても異性が寄ってくるような高スペ人間だけ。
ランチや映画に誘う→親しくない相手から告白されるのも、ランチや映画に誘われるのも、ドン引きするって点では同じ事では?客が店員にいきなり連絡先を渡して警察沙汰になった事例なんて枚挙に事欠かないじゃん。そこまで行かなくとも断られたらそこで終了だ。
主張はタイトルの通りだよ。
『同性愛をカジュアルに消費されて現実のゲイは迷惑してる』という言説はもっともらしく振り回されてきたが、当事者がそれを細かく砕いて反論してやるよ。
長文読むのが嫌なら結論だけ先に書く。
現実の同性愛者を傷つけてるのは上の論を持って『同性愛表現は表に出てくるな』と堂々と主張しやがる差別者共の方だ。
今の日本にシスゲイとして生まれれば、今は大体思春期頃に『自分はマイノリティである』と自覚する人間が多いだろう。
昔よりオタク文化が一般的になり、その中には当然オタクも多い。
オナニー覚えたてのそんな俺達がマジョリティ向けだらけである漫画やアニメ・ゲームのキャラクターに何を感じるか。
『好きになったこのキャラが"自分と同じ側"だったらいいのに』だよ。
嘘だと思うか?冗談だろ。『ゲイが選ぶ本当に付き合いたいジブリキャラクター』みたいな動画はさんざん面白がっておいて。
そしてそれが形となっているBL二次創作にハマるゲイのオタクは全く珍しくない。自分と同じ属性の作品を好めば"腐っている"と表現されるこの屈辱。
ゲイが自尊心を削られるのは『フィクションのキャラクターが同性愛者にされているのを見た時』じゃない。
それに対して『同性愛表現は表に出てくるな』と平気で言う連中の大きさと、それを『仕方ないよね…』と安易に受け入れてしまう腐女子の態度だ。
自虐しながら息をひそめてないと2chで晒されたりコメントで叩かれる時代があったもんな。知ってるよ。
でも今のネットはもう個人サイトという隔絶された空間じゃない。
Twitter等開けたSNSでBL表現を『腐』と表現するのは当たり前にゲイを踏みつけている自覚を持て。
そもそも『腐女子向け』がどんどん省略・変化して同性愛を描く作品とキャラクター自体を『腐らせる』『腐っている』と表現するのがどれだけ差別的な表現か、一旦頭を使って考えてみろ。
pixivもひでぇもんだよ。
『同性愛表現は不快に思う人も居るのでサムネイルには映らないようワンクッション置きましょう!』とという記述が作品別腐向けタグの説明文にすらある。
男女・女女のカップリングや女キャラのエロは普通に作品名とキャラ名で出てくるのに男キャラは隠語タグを調べないと出てこない。
腐女子がこれをせざるを得ないほど『ホモ叩き』が当たり前だったのは知ってるけどな。
pixivなんて女オタクの方が先に食いついてたのに後から入ってきた男オタクが『ホモが検索結果に出てくるのが不愉快だから別サイトでやれ』みたいな呼びかけすら立ち上げてたことがある。
他にもイナズマイレブンの人気投票なんかが有名だよな。ネットの声がでかい層による腐女子への嫌がらせというのは枚挙にいとまがない。
知らん世代は調べろ。
じゃあ『BLを嫌うゲイが本当に居ないのか』という部分についても話しておく。
でもその大半は『BLに憤っている』わけじゃない。『BLを口実に女を叩きたいだけ』なんだよ。
元々身バレが怖くて匿名でのやりとりが望ましいゲイにとって、ネットの発展というのが非常にありがたいものだったのは想像に難くないと思う。
ネット以前は雑誌の投稿欄でやりとりしてたのが一気に世界が変わったわけ。
そして匿名文化の中心として発展した2chにあった『同性愛板』は間違いなくゲイ文化の中心でもあった。
2chやネット全体が女は男のフリしてないと生きづらいものだったという話、聞いたことある人は多いと思うけど
『ゲイ向け』じゃなくて当然レズビアンや今で言うその他のセクマイも含まれただろう『同性愛者向け』の板でこれなんだぞ?
これだけでそこにあった女への憎悪がどれだけ一般的で強いものだったかよくわかるだろ。
なんjとかが『ま~ん』というスラングで批判される10年以上前からジジイ共は女を平気で腐れマンコ扱いしてたよ。
セクシャリティ関係なく特に高齢の男は女や女文化をバカにしがちだけど、異性愛者の場合女の肉体には未練があるから関わりたがる。
ゲイの場合それがないから更に一歩踏み外したこんなひでぇ言葉が普通に使われてたわけだ。
その中には『自分が女だったら普通に男と恋愛できたのに』という嫉妬も多分に含まれてたね。
閑散とした現在の5chの中でも同性愛関連の板は特に加齢臭と死臭がやばい。
時代についていけない同性愛当事者がオネエ言葉でブスと腐れマンコを叩くだけの空間。
ゲイ同士のやりとりはTwitterより前からゲイ向けのmixi的なものやGPSアプリに移行してたから
その時点で取り残されてた筋金入りの老害しか残ってなくて凄いぜ。
でもそんな連中がかつてはネットの中心に居たんだよ。
『ゲイ当事者はBLや腐女子を嫌っている』というのはその中で生まれた都合のいい女叩き棒でしかない。
当事者から言わせればそんなものはお前らが丹念に作り上げてきた『BL重罪論』へのバックラッシュでしかない。
現実と嘘の区別がつかなくなってしまった人は仕事に向いてない。
はてなの人間が嘘しか信じてない事がこないだの仕事しない職場のモンスターの話で明らかになったので
はっきり言って仕事出来ない人間は日本であってもいよいよ居場所がない。そうした適当な工業産業をベースにした村社会自体が国際情勢の変化や技術革新によりもはやここ10年程で維持出来なくなる。
現代において仕事ができないという状態が意味する事の主要因は社会では無くシステムのアップデートについていけない事である。
ブコメも含めてシステムのアップデートに適応できなかった人間は自己正当化に走り、法律の条文を述べもせずに働かずに賃金をもらう事が当然の権利だと主張する傾向にある様だ。
こうした人間達はもはや無気力となりシステムアップデートを自分で行う意欲を喪失し、そうした人間の周囲に同様の人間が集まるので全体としては沈没に向かうだろう。
彼らは現代のシステム社会に置いて何ら価値を生み出していないので会社でもコミュニティでもなんらかの形で排斥されていく事になるだろう。人間はただの猿でありどんな社会でもよーく観察してみると相互に価値が提供できる関係でなければコミュニティ要因として認めず排斥どころかときおり殺害しようとする。事例は公立学校の虐めから、公務員の自殺、外資系の解雇、医師免許剥奪、弁護士資格の剥奪、裁判官の評価、ホームレスの女性の頭を殴って殺す男性など枚挙にいとまがない。
怠惰な人間が自業自得で解雇されようが自殺に追い込まれようが所詮他人の私には関係ない
だが私の仕事のテリトリーに入ってくるなら少なくとも私は全力で排斥するだろう。腐った果実は周囲の全てを腐らせていくという事例をあらゆる場所で目撃するからだ。私の体験ではそうした腐った怠惰な仕事しないおっさんは事実上のクビで追い出された。
「労働者の権利」などという虚構の権利を理解して主張するならともかく一から十まで虚構を信じ込んでいる人間は使い道がない。社会を真剣に観察しているならば労働者の権利などというものは一種の虚構であり物理法則の様に自然に維持されない事を理解するだろう。権利などと主張されるものは歴史上のみならず現代においても常に何らかの闘いや努力を経て勝ち取る物なのである。にも関わらず臆面なくそうした権利を主張する事は少なくとも私には真剣に現実の仕事や人生に向き合ってないナルシズムを匂わせる特徴となる。
私は今後少なくともそうした虚構100%の世界であやされてる人間を雇用する事は少なくとも無いだろう。
使い道がない
現実と嘘の区別がつかなくなってしまった人は仕事に向いてない。
はてなの人間が嘘しか信じてない事がこないだの仕事しない職場のモンスターの話で明らかになったので
はっきり言って仕事出来ない人間は日本であってもいよいよ居場所がない。そうした適当な工業産業をベースにした村社会自体が国際情勢の変化や技術革新によりもはやここ10年程で維持出来なくなる。
現代において仕事ができないという状態が意味する事の主要因は社会では無くシステムのアップデートについていけない事である。
ブコメも含めてシステムのアップデートに適応できなかった人間は自己正当化に走り、法律の条文を述べもせずに働かずに賃金をもらう事が当然の権利だと主張する傾向にある様だ。
こうした人間達はもはや無気力となりシステムアップデートを自分で行う意欲を喪失し、そうした人間の周囲に同様の人間が集まるので全体としては沈没に向かうだろう。
彼らは現代のシステム社会に置いて何ら価値を生み出していないので会社でもコミュニティでもなんらかの形で排斥されていく事になるだろう。人間はただの猿でありどんな社会でもよーく観察してみると相互に価値が提供できる関係でなければコミュニティ要因として認めず排斥どころかときおり殺害しようとする。事例は公立学校の虐めから、公務員の自殺、外資系の解雇、医師免許剥奪、弁護士資格の剥奪、裁判官の評価、ホームレスの女性の頭を殴って殺す男性など枚挙にいとまがない。
怠惰な人間が自業自得で解雇されようが自殺に追い込まれようが所詮他人の私には関係ない
だが私の仕事のテリトリーに入ってくるなら少なくとも私は全力で排斥するだろう。腐った果実は周囲の全てを腐らせていくという事例をあらゆる場所で目撃するからだ。私の体験ではそうした腐った怠惰な仕事しないおっさんは事実上のクビで追い出された。
「労働者の権利」などという虚構の権利を理解して主張するならともかく一から十まで虚構を信じ込んでいる人間は使い道がない。社会を真剣に観察しているならば労働者の権利などというものは一種の虚構であり物理法則の様に自然に維持されない事を理解するだろう。権利などと主張されるものは歴史上のみならず現代においても常に何らかの闘いや努力を経て勝ち取る物なのである。にも関わらず臆面なくそうした権利を主張する事は少なくとも私には真剣に現実の仕事や人生に向き合ってないナルシズムを匂わせる特徴となる。
私は今後少なくともそうした虚構100%の世界であやされてる人間を雇用する事は少なくとも無いだろう。
使い道がない
現実と嘘の区別がつかなくなってしまった人は仕事に向いてない。
はてなの人間が嘘しか信じてない事がこないだの仕事しない職場のモンスターの話で明らかになったので
はっきり言って仕事出来ない人間は日本であってもいよいよ居場所がない。そうした適当な工業産業をベースにした村社会自体が国際情勢の変化や技術革新によりもはやここ10年程で維持出来なくなる。
現代において仕事ができないという状態が意味する事の主要因は社会では無くシステムのアップデートについていけない事である。
ブコメも含めてシステムのアップデートに適応できなかった人間は自己正当化に走り、法律の条文を述べもせずに働かずに賃金をもらう事が当然の権利だと主張する傾向にある様だ。
こうした人間達はもはや無気力となりシステムアップデートを自分で行う意欲を喪失し、そうした人間の周囲に同様の人間が集まるので全体としては沈没に向かうだろう。
彼らは現代のシステム社会に置いて何ら価値を生み出していないので会社でもコミュニティでもなんらかの形で排斥されていく事になるだろう。人間はただの猿でありどんな社会でもよーく観察してみると相互に価値が提供できる関係でなければコミュニティ要因として認めず排斥どころかときおり殺害しようとする。事例は公立学校の虐めから、公務員の自殺、外資系の解雇、医師免許剥奪、弁護士資格の剥奪、裁判官の評価、ホームレスの女性の頭を殴って殺す男性など枚挙にいとまがない。
怠惰な人間が自業自得で解雇されようが自殺に追い込まれようが所詮他人の私には関係ない
だが私の仕事のテリトリーに入ってくるなら少なくとも私は全力で排斥するだろう。腐った果実は周囲の全てを腐らせていくという事例をあらゆる場所で目撃するからだ。私の体験ではそうした腐った怠惰な仕事しないおっさんは事実上のクビで追い出された。
「労働者の権利」などという虚構の権利を理解して主張するならともかく一から十まで虚構を信じ込んでいる人間は使い道がない。社会を真剣に観察しているならば労働者の権利などというものは一種の虚構であり物理法則の様に自然に維持されない事を理解するだろう。権利などと主張されるものは歴史上のみならず現代においても常に何らかの闘いや努力を経て勝ち取る物なのである。にも関わらず臆面なくそうした権利を主張する事は少なくとも私には真剣に現実の仕事や人生に向き合ってないナルシズムを匂わせる特徴となる。
私は今後少なくともそうした虚構100%の世界であやされてる人間を雇用する事は少なくとも無いだろう。
使い道がない
個人的に『とっとこハム太郎』は構成力と演出力に優れ、キャラクター心理描写に優れた傑作であると断言できる。
というわけで、批評させていただこう。
『とっとこハム太郎』はどこが素晴らしいのかを。
これがまず難しい。
テーマとキャラクターが合致していない作品というのは枚挙にいとまがない。
その中で、テーマとキャラクターが合致している。必要不可分の関係性である。
そして、テーマとキャラクターに不要な要素をすべて排除している。
これは、なかなかできることではない
創作すると、ついつい不要なキャラクターを出してしまうし、不要なキャラクターを出した後、キャラクターの視点が一貫せずにぼろぼろになってしまうケースはたくさんある。
ハム太郎とこうしくんに焦点を絞り、ハム太郎の視点でほぼすべてを描ききっている。これは難易度が相当高い。
「キャラクターをいっぱい出してしまう」とか「視点が定まらないでドリフトする」という新人の弱点が一切見られない。
描きたいものをきちんと絞り、きちんと描ききっている。これはもう、見事である。
最後のシーンでの印象を計算し、最後のシーンにすべての物語が集約している。
が、この作品、世界観に比重をそこまでおいていない。短編では世界観を描きすぎると、キャラクターが圧迫されてしまうことを知っているからだ。
必要最低限の設定以外は、ほぼ全てカットして掘り下げず、その分、キャラクターの心理描写とキャラクターを立てる演出に使用している。
ストーリーもストイックに「キャラクターの最後のハムハム」に不要なシーンは全てカットしている。
そのぶん、派手さを控えた巧みな演出により、キャラクターに対して存分に読者の意識を掴むことに成功している。
このハンドリング力は並大抵のことではない。
これが、この作品の最大の魅力であろうと思っている。
まず、キャラクターの行動と感情の動きに、整合性のない部分が一切ない。
すべて「疑問符がつかない」と言うことだ。これは相当上手い。
キャラクターが、困惑し、驚き、ドキドキし、照れて、決意し、恋をして、目的を持ち、走って、泣いて、絶望し、再度歩き出し、長い時間を掛けて、最後の抱擁のシーンまでたどり着く。
「なんでこのキャラこんなことしてんの?」という違和感を持たせず、その流れの感情の変化に無駄なものがなく、全て矛盾なく一直線である。
とんでもない離れ業をやってのけている。
本当に一切の矛盾がない。
ストレスなく、キャラクターの感情と変化が描かれていて、キャラクターが立った状態で読める。
無理やり顔を崩して大声で叫ばせたり、派手な集中線は使ってない控えめな演出であるが、この演出の巧みさは非凡である。
細かな感情の変化も、連続したコマ、同じ角度から僅かな驚きを挿入したりする演出、カメラワークの角度も無駄がなく、手の動き、目の大きさ、背景効果でミーリの感情を描ききっている。全てにおいて矛盾がない。
時間の経過による心の変化すらも、描ききっているのだ。
しかも嫌味ではなく、読む時間すら支配して、読者に負荷をかけず、違和感なくサラリと読める。
目立たずに高難易度なことをやっている。しかも、嫌味ではない。
見事としか言いようがない。
4 総評
上手い。
巧すぎて悔しい。
旨すぎて、腹が立つ。
これは間違いなくネーム大賞にふさわしいと思う。
最も難しいと言われるマンガの短編において、キャラクターの心理描写の変化を描ききっている。
というか、この続きが読みたいとも思うし。
この話はこれで完結しているから何もいらないとも思う。
技術的な面だけを書いたが、キャラクターの孤独に焦点を当てた「読者にどう思ってもらいたいか」を計算しただけの作品ではないことは、読めばわかると思う。
というわけで、批評させていただこう。
これがまず難しい。
テーマとキャラクターが合致していない作品というのは枚挙にいとまがない。
その中で、テーマとキャラクターが合致している。必要不可分の関係性である。
そして、テーマとキャラクターに不要な要素をすべて排除している。
これは、なかなかできることではない
創作すると、ついつい不要なキャラクターを出してしまうし、不要なキャラクターを出した後、キャラクターの視点が一貫せずにぼろぼろになってしまうケースはたくさんある。
勇者ミーリと魔王二人に焦点を絞り、勇者ミーリの視点でほぼすべてを描ききっている。これは難易度が相当高い。
「キャラクターをいっぱい出してしまう」とか「視点が定まらないでドリフトする」という新人の弱点が一切見られない。
描きたいものをきちんと絞り、きちんと描ききっている。これはもう、見事である。
最後のシーンでの印象を計算し、最後のシーンにすべての物語が集約している。
が、この作品、世界観に比重をそこまでおいていない。短編では世界観を描きすぎると、キャラクターが圧迫されてしまうことを知っているからだ。
必要最低限の設定以外は、ほぼ全てカットして掘り下げず、その分、キャラクターの心理描写とキャラクターを立てる演出に使用している。
ストーリーもストイックに「キャラクターの最後の抱擁」に不要なシーンは全てカットしている。
そのぶん、派手さを控えた巧みな演出により、キャラクターに対して存分に読者の意識を掴むことに成功している。
このハンドリング力は並大抵のことではない。
これが、この作品の最大の魅力であろうと思っている。
まず、キャラクターの行動と感情の動きに、整合性のない部分が一切ない。
すべて「疑問符がつかない」と言うことだ。これは相当上手い。
キャラクターが、困惑し、驚き、ドキドキし、照れて、決意し、恋をして、目的を持ち、走って、泣いて、絶望し、再度歩き出し、長い時間を掛けて、最後の抱擁のシーンまでたどり着く。
「なんでこのキャラこんなことしてんの?」という違和感を持たせず、その流れの感情の変化に無駄なものがなく、全て矛盾なく一直線である。
とんでもない離れ業をやってのけている。
本当に一切の矛盾がない。
ストレスなく、キャラクターの感情と変化が描かれていて、キャラクターが立った状態で読める。
無理やり顔を崩して大声で叫ばせたり、派手な集中線は使ってない控えめな演出であるが、この演出の巧みさは非凡である。
細かな感情の変化も、連続したコマ、同じ角度から僅かな驚きを挿入したりする演出、カメラワークの角度も無駄がなく、手の動き、目の大きさ、背景効果でミーリの感情を描ききっている。全てにおいて矛盾がない。
時間の経過による心の変化すらも、描ききっているのだ。
しかも嫌味ではなく、読む時間すら支配して、読者に負荷をかけず、違和感なくサラリと読める。
目立たずに高難易度なことをやっている。しかも、嫌味ではない。
見事としか言いようがない。
上手い。
巧すぎて悔しい。
旨すぎて、腹が立つ。
これは間違いなくネーム大賞にふさわしいと思う。
最も難しいと言われるマンガの短編において、キャラクターの心理描写の変化を描ききっている。
というか、この続きが読みたいとも思うし。
この話はこれで完結しているから何もいらないとも思う。
技術的な面だけを書いたが、キャラクターの孤独に焦点を当てた「読者にどう思ってもらいたいか」を計算しただけの作品ではないことは、読めばわかると思う。