はてなキーワード: 図書館とは
https://anond.hatelabo.jp/20231130130855
こういう記事読んでも
増田が書いてることが正しいとしても世の中の解釈がもう「何秒か我慢」だけなんだよな。ビジネスとして展開しようとした人らのミスだろう
↑
もし、このように明らかに6秒以上時間が経ってもまだ「怒り」を出力しているようでは、アンガーマネジメントには失敗してるのである。
何が失敗しているのか、ちょうどこの前読んだ本、佐藤恵子『職場でできるアンガーマネジメント:パワハラ、メンタル不調、離職を防ぐ!』を参照しながら見ていこう。なお、この方法がどの程度アンガーマネジメントとして一般的かは流派によるかもしれない。あくまで一例として捉えてくれ。
認知行動療法をベースにしたアンガーマネジメントにおいては、ある人の抱える問題を「外部環境(相手)」と、「個人の反応」としての「認知」「感情」「身体」「行動」との計5つに細分化し、その中から「認知」と「行動」を変えることによって怒りをコントロールするものである。
6秒ルールとは、あくまで「行動によるコントロール」のひとつで、わかりやすいから広まってるがコントロールの手法はたくさんある。10秒深呼吸する、怒りの表出に時間をおく、考えるのをやめる、力を抜く、怒りの気持ちを口に出したり書いたりする……など。方法の例はもっと沢山あるから各人いろいろ探してみることをおすすめする。
ここで「コントロール」と表現したのには意味がある。まず、「怒り」という感情は必ずしも否定されるものではない。怒りは人間として自然な感情であり、コミュニケーションの機能を果たし、うまく活用すればモチベーションに転化できる。怒りを原動力に行動する、など。怒りを完全否定することは得策ではない。
……と、ここまで読んで勘のいい方は既に気づいてると思うが、ここでの説明は既に「怒り」に対する「認知」を変えようとしているのである。元増田にある「怒りの裏側にある感情を見つけよう」というのも、「怒りの裏側には別の感情があるのでは?」という「怒りの認知を変えるための考え方」のひとつだ。
「○○ってこういうものだ」という自分の考えを一度留保し、「○○ってこういうものだと考えてるけど、別の捉え方もできるんじゃない?」と別の角度から物事を捉えることが重要なのだ。その際特に重要なのは、「自分の考え方の癖」を知ることだ。
同書の中では、怒りを抱く自分自身の思考に以下のような傾向がないかを振り返ることを提唱している(「認知を変える」ことは求めていない。あくまで「認知する」だけ)。
怒りを感じたときにその状況と、思考の癖を整理することで、自分自身の感情を認知する。これは「アンガーログ」という手法だ。アンカーログを取り、自分の考え方の癖を知ることがまず大事。
その上で、その思考の癖を一旦忘れ、「別の考え方もできないか?」と考える(あくまで「考える」だけで、まだ変えなくていい)。いきなり変えようとすると大変なので、あくまで「怒りの背景にある自分の考え」の「別の可能性」を認知することが大事だ。
さて、大事なのはコミュニケーションである。怒りをコントロールしながらも、相手とのコミュニケーションを止めるわけにはいかない。そんなときどうすればいいか。
同書では「アサーティブコミュニケーション」を提唱している。相手に何か要求するときに、「事実」「事実に対する自分の感情」「要求」「相手からの返答に対するレスポンス(の準備)」の4つを用意しよう……というものだ。
大事なのは「自分の感情」という点だ。別に、感情を抑える必要はない。感情的に伝えるからコミュニケーション不全が発生するのであり、感情を伝えることは悪いことではない。
結局、アンガーマネジメントで問題になるのは「伝え方」の問題なのだ。なかでも「怒り」は自他を害する可能性が高いのだから、「怒り」を避けて行動するに超したことがないのである。
冒頭の例に戻ろう。
増田が書いてることが正しいとしても世の中の解釈がもう「何秒か我慢」だけなんだよな。ビジネスとして展開しようとした人らのミスだろう
ここまで説明してきたことを実践し、コミュニケーションを前提にコメントを返すならこうなるだろう。
こんなところである。
読んでみてどう思っただろうか? 茶番に見えるだろうか? アホらしい? なんかむかつく? 長くて読めない? 反応はあなたに任せる。
個人的な話だが、この増田を書いてる中の人間は、同僚に対する態度がかなり悪いということでつるしあげをくらい謝罪に追い込まれた(被害的思考)。半年前の話だ。
正直無能な同僚(過小評価)が悪いと今も思ってる(「すべき」思考)が、それはそれとしてその場で増田が怒りを見せてしまったことは明確な落ち度なので、試しに本を一冊読んでみたわけだ。
そしたらぼんやりとした「コミュニケーションうまくいかねえな……」が、「自分は仕事とはかくあるべきというハードルが高すぎるんだな……」くらいにまでは、自分と周囲に対するギャップを認識できるようになった。
だからといって怒りが消えるわけでもなく、同僚のことも無能だと今も思ってるが、それはそれとして怒りを表出することはなくなった。
感情を率直に伝えることはやってもいい。ただ、「怒り」のかたちを認識して、それを別のかたちに変えることはできる。
怒りはしばしば自他を傷つけるのだから、わざわざ傷つけなくて済むことがあれば傷つけない方法とったほうが、生き方としては無難だろう。
怒りで生きづらくなってる人がいたら、あなたも良い人生のためにアンガーマネジメントを試してみてはいかがだろうか。
親子丼、竜田揚げにサラダや豆腐、みそ汁がついていてバランスがいい。
四季のメニューがあり、夏は汁なし担々麺、冬には麻婆豆腐が出る。→麻婆豆腐は去年のみ。
このご時世で1000円以下はすごい。定食が気分じゃないときはパスタとカレーもある。
ここも1000円。おいしいが、生で食べて大丈夫なのかなという気持ちはぬぐえない。
それ以外の肉料理を今度頼んでみよう。サラダとスープとデザートもついてたし。
他の寿司屋もおいしいのだが、ついついここに足を向けてしまう。
1300円。おいしくて雰囲気が良くて、コーヒーがおかわりできる。でもちょっと高い。
太い麺と濃いめんつゆが特徴。相変わらずちくわ天ぷらそばを頼んでいる。
値上げの影響で、トッピングに大根おろしと卵を乗せただけで1000円を超えてしまうが、これもご時世。
おいしいんだけども、そばと丼のセットは炭水化物ばかりで辛い。
なんだかんだで1年以上行っていない。
全然行ってない。最近ラーメンという気分じゃなくなりつつある。
同僚から「醤油じゃなくて塩がおいしい」と言われ、試したが確かにそうだった。
おいしいのに1年以上行っていない。
おいしい。定食が日替わりなので足を運ばないと何があるかわからないのが難点か。焼きそばとかもおいしいし、つゆそばもおいしい。ひょっとしたら中華料理屋のラーメンに好みが変わってきているのかも。
汁なし麺がおいしい。ただしキクラゲサラダとトウモロコシ入りのデザートはそこまで好きではない。トムヤムクンスープがおいしいが、エプロンがないので服を汚しやすい。
おばちゃんの愛想がいい。米がちょっと多すぎ、デザートが甘すぎるのがご愛敬。
ここの米麵もおいしいく、ラーメン屋さんから足が遠ざかっているのもこれが理由か。
残念なだが好物のマッサマンカレーがランチメニューからなくなっている。
臨時休業。残念無念。
牛肉のフォーがおいしいし、生春巻きもおいしい。ただしちょっとしょっぱい。
田舎蕎麦屋さんの隣でバインミーもおいしい。おかずを乗せる皿が小さいので味がちょっと混ざる。
おじさんが少しシャイ。少し遠い。
ここも1000円に抑えられている。
郷土料理のセット(ダルバート)が食べられるのはポイントが高い。ラムカレーもヤギカレーもおいしい。
セットだと豆のスープお替り自由。数少ない欠点が祝日休みだが(自分は土日休みだが祝日は休みではない)、そういう店は結構多い。
リニューアルした。
ランチから中東の揚げ餃子やシシカバブがなくなってしまっている。
古き良き欧風ビーフカレーがおいしい。だがいつも並んでいるので1年近く行っていない。
カレーの周囲にいつも南アジア風の漬物がついているので味に変化があって飽きさせない。
日替わりカレーがあるのも嬉しいが、なんだかんだで定番のラムカレーか魚の出汁のチキンカレーばかり頼む。
ここもおいしい。ただし上の店より数百円高い。
アーユルヴェーダか何かに従ってぬるめで出してくれるのだが、結構おいしい。
おいしい。ビビンバやスンドゥブにヤムニョムチキンやサラダをつける贅沢なランチができる。店の中ではずっとKポップが流れていてちょっとうるさいが、活気があるとも言える。韓国は音楽よりも小説に興味がある。
焼肉が食べたいときはここ。もう片方の店はつぶれたし、立ち食い焼肉もランチ営業を取りやめた。
おいしいが混んでいるので1年くらい行っていない。
おいしい。サラダのドレッシングが好きなのと、食後の紅茶・コーヒーがつくのが高評価。同じメニューでも時間差で出してくれると昼からコース料理を食べている贅沢な気分になって幸せ。ただし結構混んでいるので入れるかどうかは運しだいである。
図書館の下に監修している別の店があるが、そこまで行くのはちょっと遠い。
野菜たっぷりのサンドイッチが食べられるが、タンパク質が不足しがちなので牛乳も頼む。
長居できるが最近は学生が戻ってきて並んでいるだけで20分くらい平気で経過する。
高級でおいしいんだが、飲み物なしで1000円を超えてしまうのはつらい。
パン屋さんと近くのサラダ屋さんでお惣菜セットにすることもあるが、短い昼休みに二か所の店をめぐるのは面倒くさい。
どうしても食べたいときに。
トンカツのほうがおいしいし、高い。2年近く行っていない。
量が足りない。
パエリアはおいしいが量が少ないのと、妹が作っているやつのほうがおいしい。
どうやら実在しないようだぞと人々の考えが変わったのはいつ頃の出来事なのだろう
これらは大昔は実在していると信じられていたはずだと思うのだけど
これを調べようと思ってもなかなかいいGoogle検索キーワードが思いつかない
もちろん伝説の生き物それぞれでその時期は異なるだろうけれど
例えばユニコーン、イッカクやセイウチの牙がユニコーンの角として売られていた時代
獲る側売る側はともかくとして、買う側はユニコーンの実在を信じて買っていたはず
江戸時代にイッカクの牙がユニコーンの角として輸入されたとWikipediaにある
じゃあだいたい1600~1900くらい……ちょっと期間が広いが
世界がだいたい探索されたくらいで人々の考えが変わったのかな~と予想していろいろぐぐっている
世界が探索されたANDその結果を人々が広く知ることが出来る時代……
現代のツチノコくらいの温度感で「多分いないけどひょっとしたらいるかもね」なのか
「前人未到の地にはきっといる」「遠き異国にはきっといる」くらいの温度感なのか
「昔はいたけど今は数が減って見なくなったらしい」くらいの温度感なのか
こういう「当時の市井の人々がどう思っていたか」って調べるの難しいなあ
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昔の動物図鑑的な文献にユニコーンなど伝説の生き物の記述があるかもしれない
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以下の本を読む
『図説 世界の神獣・幻想動物:ファンタジーの誕生』amazonに在庫あり、近隣の図書館に蔵書あり/20231128時点貸出中
『ヴィジュアル版 一角獣の文化史百科』amazonに在庫なし、近隣の図書館に蔵書なし、近隣の紀伊国屋書店に在庫僅少
amazonのプレビューで見れる範囲を見る限り、昔の人々がどのように幻想生物を認識していたかが書かれているかもしれないと少し期待できる
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メモ:関連して「昔は虹が生き物だと認識されていた」についても調べる
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メモ:関連して「昔の人は月にウサギがいるとマジに信じていたのかどうか」についても調べる
おそらくそうではない 勘
言い換えると「昔の人は月を何だと思っていたのか」
昔の日記に同様の疑問を書いたまま調べるのを忘れてしまっていた
いい機会なのでまとめて調べよう
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素晴らしい本だ、少なくともユニコーンについて疑問が氷解した
発言小町、増田、知恵袋、YouTubeのコメ欄、Yahoo!ニュースコメ欄での活動をライフワークにし、生活のために地元の市役所で働く実家暮らしアラサー男だ。
充実したキャンパスライフを夢見て受験を頑張り田舎から上京したものの打ち解けられる友達はできず、大学生バイトが中心の居酒屋バイトでも浮いて辞めた。
夢のキャンパスライフの幻想は夏休みまでに打ち砕かれ、以降は単位を取得するためだけに講義に行き、暇つぶしで図書館に行き、年配の夫婦がやっている定食屋の唯一のアルバイトとしてバイト代を稼ぐ毎日を過ごした。
そんな中で俺の心を癒してくれたのがはてな匿名ダイアリーと知恵袋だった。
都会での暮らしは孤独感を増幅させるためだけなので市役所に採用され、大学卒業とともに実家に帰った。
以降は職場と家を往復し、空いた時間ではせっせとインターネットの職人として活動した。
この子は二つ下で小中高と後輩だった。たまに鉢合わせると挨拶してくれる優しい子。
男は殆どが地元に残る一方、地元の女は高校や大学を卒業すると県庁所在地の市や東京に行ったきり帰ってこない薄情なアバズレばかり。
しかしこの子は家から地元国立に通い、俺とは違う自治体であるものの地方公務員になって実家で暮らしていた。
別にどうにかなりたいわけではなく、ただたまに鉢合わせるだけで幸せだった。
彼氏の影もなかったし、基本的に知らないことなどない親同士の会話にも出ていなかったのに突然結婚して家を出て行った。
もう本当に最近は良いことがない。
齢五十をとっくに超えちまった増田のシナプスは時折おさないころに貪り読んで仕入れた今となってはどうにも使えない空想小説世界の知識を信号出力することがあるが、
今ならもしかして千葉市に行けばちょっと悪くなった油の匂いがする揚げたてのオキアミ・ボールが喰えるのだろうか?
それとも、
もっと幼少期に隣の県の図書館でたまたま出逢った児童向け空想文学でオッサンと飼い猫が辿り着いた植物だらけの惑星で歓待されて御馳走になったという話、
樹木のブ厚い葉っぱなのに焼くとそれぞれビーフステーキやフィッシュフライの味がする植物由来蛋白質フードがいつかついに登場するのを期待していたほうがいいのか?
田舎は飲食店がないからみんな弁当で、会社の休憩室で食うんだけど
キモいオッサンは会社に居場所がないから、昼休みは外に出て車で食う
夏は暑くて死にそうなんよね
で、近くの図書館が駐車場が屋根になってて、そこで食うんだけど
いつも同じような車が5台くらいいて、どれもキモいオッサンがメシ食ったりスマホ弄ってる
シンパシーがありつつも、いつも混んでるから場所取りうライバル的存在だったんだけど
やっぱ、子供連れとか学生がメインだから、キモいオッサンは浮きまくってるしジャマださそキモいじゃん?
苦情があったんだろうね。よく使ってた屋根ありの駐車場への近道が閉鎖されたり、監視カメラ設置みたいなプレート設置されたり、職員さんが見回りしてナンバープレートメモしたり
割りと圧を感じるようになって、キモいオッサンたちも消えていった
涼しくなって屋根がいらなくなるのもあるんだけどね
来年の夏は、屋根付き部分は閉鎖されるか、声かけが始まって追い出されるか…
街のほうだと、図書館とか市役所も有料駐車場になってるしそうなるのかもね?
その金もなさそうだけど
私には忘れられない本がある。
親友と共に図書館へ行き、気になる本を数冊抱えながら館内をうろついていた私のもとに、親友が「これ、好きだと思う」と一冊の本を抱えた本の上に置いた。
当時私はホラー、サスペンス、ミステリーといった本が好きでよく読んでいたし、球体関節人形を数体所持していたこともあり、表紙のビスクドールの写真に心を奪われた。
帰宅し真っ先に読み、序盤はなんとも思わず読んでいたものの、読み進めていくうちに止まらなくなり、最後の最後で体中の力が抜けるような、でも気持ちは高揚している。そんな感じだったのを今でも覚えている。
それ以来ずっと「人形(ギニョル)」が忘れられなくて、でも当時まだ中学生だった私はお小遣いなどももらっておらず、自由に自分で使えるお金を持っていなかったから、すでにもう手に入らないこの本を何度も図書館で借り、何度も読んだ。
高校生になりアルバイトを始め、ある程度自分のお金を手に出来た時、まだ普及していなかったネット通販で、本当に届くのかな…?詐欺じゃないよね…?なんて考えながらびくびくしながら購入したのを覚えている。もちろんちゃんと届いた。
あれから十数年経った今も忘れられず、時々思い出したかのようにネットで「人形(ギニョル)」のことや、著者の佐藤ラギについて検索する。
読んだ当初は閲覧できた2ちゃんねるのスレッドも今はもう見ることはできないし、mixiのコミュニティも更新も止まっていた。
その後は集英社の文芸誌「小説すばる」に『スワンの涙』を連載したという情報があるのみで、執筆活動は途絶えてしまったということや、ネコ・ヤマモト名義でも執筆をしていたこととか、もうほぼ知っているし、なんにも新情報なんてないのに、ふと思い出したときに検索し、「また何も成果はなかった」と安堵する。
今年の夏は生まれてから31年目を迎えた。前に「失業」してから4年経とうとしている。その失業した仕事は契約社員を2年、それ以前はアルバイトで4年近く働いてて一番長かった。どちらも複数の理由で辞めたけど、片方は天災も絡んで色々厳しかった。
失業元年は失業手当を受けとれた。東京の家賃が安い穴場に住んでいるが、感染症が蔓延したり、オリンピックが強行されたりして、公共交通手段を積極的に使うのは憚られる時期だったし、元々フットワークが重い方なのでその時期の生活には馴染んだ。
初めはいやな仕事場から解放された喜びが大きかったし、まずは通勤からの解放を噛み締めた。続いて自炊や家事、ライフラインの見直し、選挙に行く、体調に合った健康的な食生活=結果金がかからなくなったりとか、預金とか、やらないと損するポイ活に渋々着手とか。生活を色々変えてゆき、その余裕ができたことに恩恵を感じ(早く辿りつきたかった悔しさ混じりではあるが)喜びはあった。
その後、去年は貯金で旅行に行ったが、一度前日や旅先で眠れなくなって不調になり、戻ってからは11連勤の倉庫作業で金を稼いだ。それは電車で数駅、混雑と逆方面だったから、やればできてしまう早起きをやった。夏に冷房のない過酷な環境だったが、ウォーターサーバーや塩飴から配慮を感じられたこともあり、熱中症や指の痛みに耐え、残業も全部出た。最終日の帰りには酒を10杯くらい飲み路上に座る、という金銭面にも身体面にも代償を出してしまい、しばらくは自責の念が止まらなかったけど、今は喉元すぎて、場所の思い出になった。
久々に働いた勢いで、一度は試したかったチャリ通勤の範囲のアルバイトを半年やった。展覧会の監視業務。近所で落ち着いた環境で試しに働くことを重視して始めたが、何もせずに座ってる時間が多すぎたのと制服がないのにそれっぽい格好を求められるのが面倒で、ずっと続けることは考えられなかった。3ヶ月の休止期間に入ったこともあり辞めてしまった。
今年の春は催事に挑戦した。呼び込みが必要な食品販売は大学生の頃に事前講習で泣きを見て(大きい声を出すのが苦手)避けていたのだが、表情がマスクに隔てられていること、書類提出だけで済むことに背中を押された(そういう派遣は昔より増えたように感じる)。割りが良かったから二ヶ月半関わったけど、雇い主は高圧的で人生最悪の労働が発生したり、待機が長すぎたり。催事の性質上先が見えないこともあり途絶えてしまった。
いまは月に10万も稼いでいない。業務委託の時間固定報酬で、国民健康保険に加入してて、将来貰えるかわからない年金は止めっぱなし。
現在の仕事の合間を埋めれるもので、且つひとつでも長所のある求人があれば応募しているけど、中々面接に漕ぎ着けない。履歴書の形式破りが悪いのかとか(大幅に手を加えてしまっていたが、過去に受かるものはあったので気にかけてこなかった)、8年前の証明写真の口元の歪み(静止して撮られるのが大の苦手だ)を素人レタッチしたりとか、こんなことで査定されたくない気持ちと、かといってこんなことで弾かれたらひとたまりもない気持ちが、長すぎる毎週末(土〜月)の間にそそのかしてくるから、最近は応募のたびにアップデートしてみてもいるが通らず。大学卒業後のいわゆる就職活動が嫌でやらずにきているから経験が乏しいけど、求人応募は「お祈り」の経緯が示されないから、一方通行で学びもなくてしんどいなと思う。
自分は今、図書館をありがたく思っている。電車通勤時はいつもすれ違っていたのに、今年まで利用することはなく、その豊かさを知らなかった。本を知って読みたくなったときには、その時に脈々と流れていたムードが発端だったりするけど、買わなかったり忘れたりする。図書館では値段とかどこで手に入るかとか気にせず、どんなジャンルの本から手をつけてもいいなんて最高の状況。高い住民税を払ってきた理由の一部をここには見出せる。
Podcastもバイトの休憩の食事時間を埋めるのに聴いたことから、触れる時間が増えた。集中行動が気まぐれなので、興味があるのに未着手のコンテンツはありあまっている。ちなみに自分はストリートビューが高校生の頃から好きで、それを含めたら手をつけていないコンテンツがありあまっているといえる。自分がたのしませてもらってる創造物の作者に還元できたらしてみたいと思うけど、それを中心に据えれば何してでも働くとはなれないし、働いていたときにどれだけ還元してたかと思うと失業する先を見越して、今より懐が狭かったようにさえ思うからあきれる。
お金があると、やりたいことは色々発生してくるし、それに付随して近視眼的にお金を使う。そして旅の休暇は短い。お金がないと、情報とか近所のもので満足してしまうようやりくり上手になるのかも。近所を観光するようになる。時間は余りがちで、金を要する欲望はどんどんしぼんでいる。いつか遠くの街や、別の住処に引っ越したいとか、いつかチャリ以外の乗り物を運転できたらいいねとか。確固たる「自分ひとりの部屋」は体験したいがそれさえ忘れがち。憧れも順位も大変ボンヤリしている。夢だとか何かを絶対やりたいって意欲的な感情はなく、希死念慮が老後の不安なんかは覆い隠している。実際に金をつくってやってみるしかないんだろうな。
多分そう。この生活を続けるのも、これ以上何もしないわけにはいかないんだろうなと立ち返る。また眠れなくなると辛いしたまに人に会うとき眠いと困るから、今ある服が入らなくなると面倒だから、週4日はまじないみたいにきんにくんの筋トレ(3年目)して体力を消費する。隙あらば「死にたい」と口にせずには生きられないし、これ以上健康体になってどうするのか、とも考える。一方で、自分は寄りかかってる人々に対して無責任すぎるのか、とも考えてみる。一人と折半で生活している、インフラ(という名のケア)の十分な都市に住んでいるという事実以外で、個人との繋がりは希薄で、日々老いていくなか孤立無縁を分散したり予防できてないから。さあ働くのかどうか。
三内丸山遺跡・青森県立美術館・弘前美術館・十和田市現代美術館は行って、それぞれ文化が違っていて良かった。青森県立は奈良美智もあるけど、シャガールが良かった。それに初期ウルトラシリーズのデザインを創った成田亨は見るべき。
十和田市は図書館とかも美しく、お金がかけられている街全体も見どころ。なぜお金がかけられるかは、調べて考えてみてくれ。
検討して行けなかったのは国際芸術センター青森、棟方志功記念館。
この増田に自分の頭でなにも考えず、自分で調べることも一切せずに食らいついてる人間が大勢いるの完全に駄目なモードだな。
それをやめろって話なのに。
特に「図書館に行って引用してきました」で信用しちゃってるのが完全にダメ。
ディベートとかでよくある反則パターン使われてない確証が全くないもの。
一部抜粋って反語表現の前後切り取ったりしてることもあったりするからね。
たとえば
世の中で素晴らしいとされているものに雑にケチをつけるレス乞食がよくいる。
たとえば「サイゼリアが美味いなんて言ってるやつは高級ホテル街で本物のイタリアンを食べたことがないだけの可哀想な奴らなんだよ」みたいなことを。
だけを抜き取ったりしたら、作者の主張とはほぼ正反対と言える引用が生み出せるわけだ。
これが引用の罠だよ。
引用がやたらと短い時はそれを警戒しなければいけない。
別にこの増田が本当に信用できないって話じゃなくて、「あっ、こっちが本当なんだ。じゃあこっちに☆入れよ!」と安易に鞍替えを繰り返すような態度をやめろって話なんだ。
それじゃお前誰かが「実は地球が丸いなんて嘘なんだよ」ともっともらしく言ったら地動説を信じるのか?
本当にいるんだよ陰謀論界隈にはそういうのが。
言いたいことはタイトルで全て書いたので、以下補足にゃーん
まずは、国と宗教団体の関係について日本国憲法第20条第1項後段には次のように規定されている。
これを誤解 (または曲解) して宗教団体が政治活動することにイチャモンを付けてる人が多いが、「政治上の権力」は政治活動ではなく国や地方公共団体の機能としての統治的権力を指すのが通説である。これは勝手に言ってるわけではなく、憲法学者が書いたまともな本であれば同じように解説してある。念のため、図書館に寄って調べてきたので以下に引用する。
「政治上の権力」とは本来国が行うべき統治権力をいい、たとえば課税権の行使や、江戸時代の宗門改帳 (現在の戸籍にあたるもの) の作成のような職務を分担することが禁止される。
また、これは憲法制定時にも触れられており、金森徳次郎 (国務大臣) は以下の答弁をして特に異論は出ていない。つまり、この解釈は制定当時から何ら変わっていない。
○松澤(兼)委員 其の次に「いかなる宗教團體も…政治上の權力を行使してはならない。」と書いてあるのであります、是は外國によくありますやうに、國教と云ふやうな制度を我が國に於ては認めない、斯う云ふ趣旨の規定でありまして、寺院や或は神社關係者が、特定の政黨に加はり、政治上の權利を行使すると云ふことは差支へがないと了解するのでありますが如何でございますか
○金森國務大臣 宗教團體其のものが政黨に加はると云ふことがあり得るかどうかは遽かに斷言出來ませぬけれども、政黨として其の關係者が政治上の行動をすると云ふことを禁止する趣旨ではございませぬ
○松澤(兼)委員 我が國に於きましてはさう云ふ例はございませぬが、例へば「カトリック」黨と云ふやうな黨が出來まして、是が政治上の權力を行使すると云ふやうな場合は此の規定に該當しないと了解して宜しうございますか
○金森國務大臣 此の權力を行使すると云ふのは、政治上の運動をすることを直接に止めた意味ではないと思ひます、國から授けられて正式な意味に於て政治上の權力を行使してはならぬ、斯う云ふ風に思つて居ります
トロッコ問題きゃっきゃじゃなくてこれ読みなさいよ、キミら本好きって設定でしょうよ。ベストセラーになったぞ
★AIちゃんによる要約★
実力も運のうち 能力主義は正義か?(The Tyranny of Merit)は、マイケル・サンデル教授が著したノンフィクションの本です。この本では、アメリカをはじめとする先進国で広まっている能力主義(meritocracy)という考え方が、どのようにして社会の分断や不平等を招き、共通善(common good)を損なっているかを分析しています。
能力主義とは、個人の才能や努力に応じて報酬や地位を与えるべきだという考え方です。能力主義は、公平で正義に基づいた社会を実現するための理想として、多くの人々に支持されています。しかし、サンデル教授は、能力主義が実際には、以下のような問題を引き起こしていると指摘しています。
- 能力主義は、成功者が自分の成功を自分の実力だけのおかげだと思い込み、失敗者が自分の失敗を自分の無能さだけのせいだと自己責任するようになる。これによって、成功者は傲慢になり、失敗者は屈辱に耐えることになる。
- 能力主義は、教育を公平な競争の場として捉え、高等教育を受けることを社会的な昇進の手段として見る。これによって、教育の本来の目的である知的な探求や道徳的な育成が失われ、教育の質が低下する。
- 能力主義は、高等教育を受けたエリート層が政治や経済の主導権を握り、自分たちの利益や価値観を押し付ける。これによって、高等教育を受けられなかった多くの人々が政治的に無視されたり、経済的に犠牲にされたりする。
サンデル教授は、能力主義の問題を具体的に示すために、2019年に発覚したアメリカの不正入試事件(college admission scandal)を取り上げています。この事件では、ハリウッドの有名女優や富裕層の親たちが、大学入試の試験を不正に受けたり、スポーツの推薦枠を買収したりして、子供たちを名門大学に入学させていました。この事件は、能力主義がもたらすエリートの傲慢さや不正行為、教育の不公平さや劣化、社会の不信感や不満を象徴するものだと、サンデル教授は述べています。
サンデル教授は、能力主義に代わる新しい社会のあり方を提案しています。それは、共通善の観点から、人々の才能や努力だけでなく、運や環境にも目を向けることです。サンデル教授は、人々が自分の成功や失敗に対して謙虚で寛容になり、教育が知的な喜びや道徳的な目的を取り戻し、政治が多様な声や利害を反映するようになることを期待しています。
長文読むのがなんらかの理由で困難な人なら、Amazonのオーディオブックのサブスクに『実力も運のうち 能力主義は正義か?(原題:The Tyranny of Merit)』があって
確か無料だったような気がするのでそれを聴こう
共通善というものを扱う性質上、キリスト教というか神学から入るが、興味がなければそこは斜め読みしても問題ない
でも、共通善は、『おかげさまで』、『いただきます』、『生かされている』、『八百万の神/付喪神』の宗教価値観を持つ日本人にとって馴染みやすいものだと思うぞ
「図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーシヨン等に資することを目的とする施設」
と、図書の管理だけでなく、一般公衆の教養からレクリエーション等幅広く活用されることが目的となっており、そこには勉強を行うことも、ワークショップを行うことも、読み聞かせ会を行うことも含まれる。
であるからして図書だけに狭めるべきだとの意見には妥当性が低いと考える。
利用目的によって利用者間の不満があるのであれば、スペースや時間の拡張や区分等仕組みや運営で対応することが必要となるが、そこには別に人員や限られたスペース等の問題が存在すると考える。
図書館という資産を地域でどのように有効活用して行くのか。地域の目指す方向性に沿って議論していくべきである。
また、ここで言う図書館は大学図書館等を含まない「地方公共団体、日本赤十字社又は一般社団法人若しくは一般財団法人が設置するもの」を言う
図書館で調べものをしていたら、男子高校生二人組が近くの席に座ってきた
本を探して、席に戻ると、高校生二人は教科書を広げて勉強しているのが見えた
この図書館では自習室以外での持ち込み勉強は禁止されているんだけど、まあ自習室がいっぱいなのかなと思った
別にルールを破ってようが僕には関係ないし、注意するほどでもない
そんで、しばらくしたら二人の話し声が聞こえ始めた
あと一時間くらいで閉館だったので、うるせえからはよ帰ってよと思ってた
「もしさ、顔がめっちゃ美人だけど、性格が最悪の子と、顔は不細工だけど、めっちゃ性格よくて趣味あう子がいたらどっちと付き合う?」
しばらく我慢してたけど、「じゃあクラスの子だったらさ」みたいなクラスメイト判断が開始されたくらいで我慢できなくなって帰ることにした
そんなベッタベタなダッサイ話をすんなよというような共感性周知を感じ、恥ずかしい話題を他人様に聞かせる思春期無敵感に負け、この話題聞きながら調べものはそもそもしたくないという判断のもと帰った
注意したくもないし、関わりたくもなかった
そんな目にあったと女性の同僚の何人かに話したら、意外と「男子高校生かわいい」という反応が多かった
息子を持つ母の視点からすると、高校生にもなってそんなレベルの話をまだしていることが世間ずれしていない感じがしてよいとのことだった
「母の仮面がしんどい」とか、「母になる前の自分に戻りたい」とか、母親として押し付けられるアイデンティティに対する辛い心情の吐露が、度々話題になる。
私もそのような言説を見聞きして、自分も子供を持つとそのような息苦しさを感じるようになるのかとぼんやり思っていたが、実際に子供を持ってみても全然そんなことはなかった。
育児休業を取得し、1日のほとんどを育児時間に費やしても、私はずっと私のままだった。日常的に二人称として「お母さん」と呼ばれるようになったが、それは想像以上に私の自己感覚に影響を及ぼさなかった。
なぜだろう、と考えてみると、複数の要素に思い当たる。思考の整理の意味で、要素を書き出してみる。
ちなみに「母の仮面」がないことと子育ての大変さは無関係である。夫婦双方の実家が頼れない状況で、それなりにハードな毎日を送っている(抱っこのし過ぎで膝が曲がらなくなってきた)。
自分の母親(絶縁状態)の育児が思い返せば思い返すほどひどいものだった。なので「自分の親は偉大だった」と気づいて自分の育児のハードルが上がるようなイベントが起きない。この点に限っては、自分の親は偉大なのかもしれない。復縁するつもりはないが。
母親になって以前のようにファッションが楽しめなくなったと嘆く人は少なくないかもしれないが、普段からノーメイク&カジュアルファッションだった私は子供を持つ前と装いがほとんど変わらなかった。せいぜい立ったまま脱ぎ履きできる機構がついたスニーカーや、立ち回りに便利なボディバッグを導入した程度(これらのアイテムも元々物ぐさな性分によく合っていた)。
むしろ子育てしながらメイクやネイルもキマっている人ってどうやっているんだろうと恐ろしくなる。
自分の家庭環境が劣悪だったので、子供を持つ前に子育てについてしっかり一度勉強しておこうと思い、社会人になってから保育士の資格を取った。
そのおかげか、子育てに対する姿勢に「保育者」としての目線が入り、一歩引けているのかもしれない。
「この子には私しかいない」ではなく、「この子に対して、この社会では第一義的に責任がある」という感覚。
保育士の資格勉強を通じて、歴史上たくさんの大人たちが子どもの権利を守るために力を注いできた、ということを知られたのは本当に良かった。自分もまたそのような大人でありたい。
家庭環境が最も悪化していたときに禅の思想に出会い、そのときの感覚を今でも大事にしている。
言葉にすると浅学さが滲むが、「本当の自分」という考えに執着しない姿勢でいる。「子どもを持つ前の自分が本当の自分」という考え方そのものが、私にとっては自然でない感じがする。
もちろん、「子どもを持った自分が本当の自分」という考え方も同様である。
これが一番大きい気がする。
自由時間が大きく減る中で、SNSを見る時間が圧倒的に減った。代わりに子どものために外に出かけて、自然に触れることが増えた。もともと植物が好きな自分にとって、大きくプラスとなる変化だった。
絵本を借りるために図書館に行く日も増え、子どもと楽しむという名目で様々なジャンルの図鑑を借りたが、予想以上に知識欲が刺激されて面白い。
SNSから離れたことで、趣味の絵もマイペースに自分が描きたいように、ができるようになってきた。増田に長文投稿するようになったのも子どもが生まれてからだ。
趣味嗜好に関しては、むしろ子どもが今まで被ってきた仮面を捨ててくれた、という感覚がある。これは子育て固有の変化というより、広い意味での「自分に気づきを与えてくれる人物との出会い」だと思う。
これを書いている隣で子どもが寝ている。保育園に入って「〇〇ちゃんママ」と呼ばれるようになったら、また心持ちも変わるんだろうか?