はてなキーワード: ラインハルトとは
人口数について簡単に解説したけど、そのついでというかこんな話も。
ホロコーストは誤解が多いというか、そんなに簡単でも無い話なのは間違いない。日本人にありがちな多くの誤解の一つが「アウシュヴィッツがドイツにある」というものだろう。日本人に取って縁遠い話だし、義務教育の世界史でも大して詳しく教科書に書いてあるわけでも無いから仕方ないが、ドイツ本国ではそんなに沢山のユダヤ人は殺されていないだとか、強制収容所と絶滅収容所は違うだとか、ソ連でも現地虐殺部隊(映画では例えば『炎628』は有名だが、あんな風なことが実際にあったかもしれないけど、その多くはピットを使った銃殺である。現実の現地虐殺は映画にしたら正視に耐えないだろう)でたくさん殺されたとか、細かい話をし出すと訳がわからなくなるかもしれない。
そんな多くの無理解や誤解の中でも、「ヒットラー・ナチスドイツは計画的にユダヤ人を大量虐殺した」なる言葉に対する誤解があると思う。「計画的」とあるから、何やらナチスドイツはユダヤ人絶滅のために綿密なプランを策定してから絶滅計画を推し進めたかのように捉えられがちだが、実は全然違う。むしろ、最初から計画されたものではなかったと、今ではほとんどの歴史家が同意している。昔は意図派と機能派と呼ばれる歴史家グループが盛んに論争したそうだが、最初から計画的=意図的にユダヤ人絶滅を進めたという説はこの論争に敗れ去ったようである。私個人は、ナチス内部の権力争い・主導権争いがユダヤ人絶滅を引き起こした原因だと考えているが、ユダヤ人絶滅がヒトラーの夢でもある事は間違いなかったと考える。そうでなければ、親衛隊だけでなく、ナチス全体、国防軍までユダヤ人絶滅に協力するなんてあり得なかったろうからだ。
しかし、ユダヤ人絶滅は、当初は確かに単なる支配地域からのユダヤ人の排除だった。そして当初のユダヤ人排除のマスタープランであったマダガスカル作戦がバトル・オブ・ブリテンでのドイツの実質的敗北によって実行できなくなった為、ドイツ人地域を東方へ拡大するというヒトラーの目論みと共に始まったバルバロッサ作戦、すなわち独ソ不可侵条約を勝手に破ってソ連領へ進撃すると、今度はヨーロッパのユダヤ人をソ連地域へ追放するという東方移送計画が生まれる。ところが、この独ソ戦の見通しの甘さから、最初こそ快進撃だったものの、1941年末には戦線が拡大しすぎて膠着状態に陥ってしまう。
しかし、ユダヤ人のポーランド地域などにあるゲットーへの移送(要するに狭い地域に押し込めることによる排除政策)がずっと続いため、とうとうゲットーは悲鳴を上げ始めた。で、ゲットーに集めておいて、さらに移送させるなどという面倒な事はやめて、ユダヤ人を殺すべきだ!との声が実際に上がり始めたのである。現実には、共産主義と結託していたとみられたソ連地域のユダヤ人は危険と見做され、ドイツ軍の進撃とともに、現地で絶滅させられる動きが既に始まっていたからであろう。
このような流れの中、1939年頃から既に始まっていた障害者絶滅作戦であるT4作戦を、ユダヤ人絶滅に流用する形で、ガス殺による大量殺戮が実施されていくのである。だから、毒ガスの代表格であるとされる青酸ガス=チクロンBは最初は用いられず(実験的に使用されたという説もある)、T4作戦を引き継いだ形での一酸化炭素ボンベから始まったのだ。もっとも、最初はポーランド・ポズナンでの精神障害者虐殺からスタートしたものをその辺の地域のユダヤ人殺害に転用しただけのことである。そのうちに、ガスボンベ積載車で地域を移動してガス殺を行うようになり、それがガソリンエンジンの排ガスを使えば手っ取り早いということで、本格的なガス車へと移行していく。
このガス車によるユダヤ人殺害が、その近くにあったリッツマンシュタット・ゲットーでの「ユダヤ人なんか殺すべきだ!」との声に呼応する形でヘウムノ収容所で利用されるようになっていく。こうしてまず最初の絶滅収容所であるヘウムノ絶滅収容所がガス車を持ちた形で稼働し始めたのである。リッツマンシュタット・ゲットーのユダヤ人を絶滅させるために。ヘウムノは一旦1943年中に活動を終えたのちに、1944年に短期間だけ再稼働され、トータルで15万人以上のユダヤ人が虐殺されたと言われる。
これがいまいちよくわからない。ベウジェツ・ソビボル・トレブリンカはラインハルト作戦収容所として、ユダヤ人絶滅目的だけのために建設された収容所であり、かなり計画的なものであった事は間違いない。しかし、アウシュヴィッツはラインハルト作戦の収容所ではなく、そもそも一般の強制収容所・捕虜収容所であり、絶滅の機能はあとで追加されたものであった。ではどのような経緯で絶滅収容所に設定されたのか? これが司令官だったルドルフ・ヘスの証言の中にしか出てこない話で、ヘスは記憶を誤って証言したりしており、はっきりしない。最初のガス室はアウシュヴィッツの基幹収容所で始まったのであるが、最初にガスで殺されたのは、1941年当時大勢いたロシア人捕虜だった。だが、この時確かに毒ガスを、アウシュヴィッツでは他の絶滅収容所とは違ってチクロンBで行くと決めたのである(チクロンB自体はマイダネク収容所も使っていたが、マイダネクでは一酸化炭素ガスやガス車もあるようで、これについては実態が不明瞭ではっきりしない)。
そして、アウシュヴィッツ・ビルケナウで本格的なガス室によるユダヤ人大量虐殺が始まったのは、実はアウシュヴィッツ基幹収容所のガス室(観光用に公開されているガス室)でもなければ、有名なビルケナウのクレマトリウムでもなかった。ビルケナウの敷地外にある農家を改造した、日本語ではブンカーと呼称されるガス室からだったのである。このガス室は二箇所あったが、一箇所は既に影も形もなく、もう一箇所はほんの少しだけ土台を残す程度であり、おそらく一般にはあまり知られていないだろう。ここで、おそらく1942年3月頃から1943年3月頃の一年の間に15〜20万人程度のユダヤ人が虐殺されたと考えられる。なお、同時に基幹収容所の第一火葬場のガス室も使われていたようであるが、ここでは併設の火葬炉を死体処分に使っていたのだが、この火葬炉の数が少ししかなかったため、一度のガス室での殺害人数の少なさや焼却処理能力に問題があり、毎日使うなどは全く無理であり、トータルで一万人もガス殺はされていないと言われている。このガス室は1942年末で使われなくなった。
では有名な、ビルケナウのクレマトリウムはどうだったのか? 実は当初はこのビルケナウのクレマトリウムにはガス室は設定されていなかったのである。元々は純粋にビルケナウの囚人用のために設定された火葬場であり、のちにガス室となる場所はただの死体安置所であった。これが、どうしてガス室に変わったのかは、事情は複雑である。この謎については、実際にはとっくの昔にルドルフ・ヘスが自伝にその理由を書いていたのだけど、細かく解き明かしたのは、1989年に発表されたJ-C-プレサックという薬剤師(プレサックは当初はホロコーストを題材にしたSF小説を書こうとしていたのである)による『アウシュヴィッツ ガス室の操作と技術』である。
ヘスは自伝で、ブンカーのガス室殺害遺体は、最初は単に近くにピットを掘って、埋めていただけだと書く。ところが、この大量遺体の埋葬が衛生的な問題を引き起こしたので親衛隊トップのヒムラーの命令で、アウシュヴィッツを含めた各地の大量埋葬地の遺体をもう一度掘り起こして、焼却処分することになった。だがアウシュビッツでは焼却の始まる夏の終わりまでに10万体もの遺体を埋めていたため、これを焼却し切るには昼夜を問わず延々と焼却をし続ける必要があった。これが問題化する。夜でも煌々と光る焼却の炎は何キロも離れたところから見えるほど目立ち、ものすごい煙で悪臭が周辺数キロにまで漂い、地域住民は全員がアウシュヴィッツで大量殺戮を知ってしまう事態へと発展してしまう。すでにある程度はガスによる大量虐殺の情報は外部へ漏れてワルシャワの地下組織などに伝わっていたが、この焼却はなんとニューヨークタイムズで報じられるまでになってしまう。
実は、ビルケナウのクレマトリウムにガス室を併設する案は、これが原因だったのである。野外焼却をこのまま続けるのは秘匿性の観点で問題がありすぎるので、ビルケナウの焼却場で遺体焼却を行い、それなら基幹収容所のガス室同様、焼却等に併設してしまえということになったのだと考えられる。そして、ソ連やアウシュビッツ博物館の資料から大量の図面を入手していたプレサックは、クレマトリウムに重大な設計変更がなされていることを見抜く。1942年の夏頃の図面にはあったはずの地下死体安置所に死体を下ろすための死体シュートが1942年12月19日の図面から消え去っていたのだった。これはどう考えても、死体が地下へ自分の足で降りていくことを意味するとしか考えられない、とプレサックは自著に記述したのである。他にも、死体安置所の扉は内開きだったのが外開きに変更されていたり、その後の図面では外開きの一枚扉に変更されていたりと、結論としてプレサックは、やはり多くの証言どおり、図面には死体安置所としか記述されていないそこは、ガス室である事は間違いないと決定付けたのだった。なお、証拠はそれだけではないのだがややこしくなるのでここでは省く。
修正主義者達はどんなことがあっても、ガス室だけは絶対に認めない。知恵の限りを絞り尽くしてでも、ガス室を否定する論拠を導き出し、それがどんな出鱈目でも採用しようとする。有名なアルフレッド・ロイヒターなる死刑技術コンサルタント(当時彼1人しか全米にいなかった)がカナダの修正主義者、エルンスト・ツンデルの扇動罪に関する裁判で、有名なロイヒター報告を裁判に提出した(しかし裁判所から証拠採用されなかった)。曰く、アウシュヴィッツのガス室とされる場所の採取サンプルを分析すると、極めて微量のシアン化成分しか検出されず、ガス室などなかったと結論付けられると。「極めて微量」というのは、チクロンBの合法的な使用方法である害虫(疫病を媒介するシラミ)駆除をしていた害虫駆除室のサンプルと比較して、という意味である。しかし、これは分析のルール違反であった。なぜなら、害虫駆除室と殺人ガス室におけるチクロンBの使い方は同じガスを使うというだけで全く異なる使用方法であり、さらに、害虫駆除室はガス処理は二十四時間が基本(ガス殺は1日あたり一回で30分程度)、その使用状況の違いから害虫駆除室ではプルシアンブルーという極めて安定したシアン化合物を生成しており(殺人ガス室にはなく、通常の壁表面などに浸透したシアン成分は安定度が低く、水などで大半は洗い流されてしまう)、これをロイヒターはサンプルにしているのだからほとんどインチキなのである。なお、余談的ではあるが、このロイヒターのアウシュヴィッツにおけるサンプル採取は完全に違法であり、無許可である。その上、ロイヒターらは入ってはいけない施錠された部屋の施錠を勝手にぶち壊したりして入ったりもしており、無茶苦茶であった(それをあろうことかロイヒターのチームはビデオに収めて堂々と公表しているのだから呆れてしまう)。
その数年後に、ポーランドのクラクフ法医学研究所がアウシュヴィッツ博物館側の正式依頼でロイヒター報告に対する対抗調査を行なって、プルシアンブルーを除外した上で分析した結果、殺人ガス室であると断定できる濃度のシアン成分を殺人ガス室から検出している。しかし、修正主義者は、クラクフの調査方法の方がインチキであるとして全く譲る気配はなかった。ともかく、修正主義者は、ほんとに知恵の限りを絞り尽くしてでも、そこはガス室絵ではなかったという結論を無理からにでも捻り出して、断じて認める気配はない。プレサックの死体シュートの話だって、実際には設計変更が工事の進捗状況に間に合わず、死体シュートが作られてしまっていたことを理由に「死体シュートはあったのだから死体シュートは実際に使われたのである」などと、設計変更のことを無視したりしている。だが、その死体シュートが使われた証拠は何もない。
そう簡単な話でもないという事は少しは理解してほしい。もしホロコーストを勉強したいのなら、修正主義なんかから入らず、まずは普通のホロコースト関連書籍を読むべきである。どうしてユダヤ人迫害がホロコーストに発展してしまったのか、あの時代はどんなことがあったのかなど、先に歴史を学ばないと、修正主義にコロッと騙されると思う。ガス室ひとつとっても、述べたようなさまざまな経緯の中で成立したものなのであって、予断を可能な限り廃して、普通の真面目な歴史学者・研究者達の記述内容に従うべきだろう。
そうね、俺は銀英伝のお話は好きなんで、名作に数えてもいいとは思うけど、色褪せない普遍性とまで言われるとどうかな、って思う。
ヤンが天才ってかより、全体のレベルが低すぎる。技術は進んでも、人類は相当に劣化したらしい、って感じなんだよね。
ラインハルトにしても後から思うに、銀河を握れる器か、っていうとかなり疑問。
姉関係では途端に沸点が低くなるメンタルの未熟さや、ヴェスターラントの件で告発を浴び動揺する程度の為政者としての覚悟の薄さ。
清濁併せ呑む度量に乏しく(有能か無能かの2択しかないのか)、周りのレベルが低い世界だから、ただただ若造の才能だけでも何とかなったんじゃね?という風に見えてしまう。
こんなところで質問してもほぼ意味はないような気がするんだけど、他でも誰も答えてくれず困っている。協力があればなと。
これはパズルなのです。
ホロコースト否認者たちは、ガス室だけは絶対に認めません。ガス室を認めると大量虐殺を肯定してしまうからです。ですから、一番目立つアウシュヴィッツを狙ってきます。問題は、アウシュビッツには正確にいうと、ソ連が近づいてきたのでナチス親衛隊は撤退するのですが、証拠隠滅のために、ガス室だったところをダイナマイトで破壊してしまいます。
ナチス親衛隊は、全国指導者のハインリヒ・ヒムラーや1942年に暗殺されてしまったヒムラーの側近中の側近ラインハルト・ハイドリヒSD長官の指導により、徹底的にユダヤ人殺害を隠蔽したので、文書資料にすらほとんど「ガス室」や「処刑」などの用語もなく、ユダヤ人虐殺を「再定住」、処刑を「特別処理」などと言い換えたりしていましたので、これが戦後ずっと続くホロコースト否認者の格好の餌のようなものになってしまい、奴らは平然と「証拠はない!」とほざくわけです。確かに、ガス殺死体はアウシュビッツには一体もありませんでした。なぜなら焼却して骨は砕いて川に捨ててしまったからです。
実は結構あるのです。文書資料として残ってしまう図面にこそ「ガス室」とは書きませんでしたが、報告文書にうっかり書いてしまった記録などはあるのです。それ以外にも沢山あります。当然ですけど、証言記録は滅茶苦茶あります。アウシュビッツ司令官ですら戦後裁判で証言し、死刑になって処刑されるまでに詳しい殺害方法を書いた自伝まで残しています。
ところが、当然といえば当然ですが、否認者たちは証拠資料は解釈で捻じ曲げて歪曲しまくり、証拠ではないと言い張り、流石に否定できない文書資料などがあると捏造だと一切認めず、当たり前のごとくに膨大な証言は適当に難癖的にあそこがおかしいここがおかしいと文句をつけて全否定するのです。証言者が言ってることが多少誇張が入っていたり変だったりすることはよくある話なのに、一切認めません。ガス室の周りの地面に当時のユダヤ人作業員はメモを証拠として埋めたのが戦後発見されていますが、戦後の捏造だと言って絶対に認めようとしません。頭おかしいと思うレベルですが、これマジなのです。
しかし、いくら否認論者でも、当時の文書記録として、加害者側の親衛隊の人物が業務内容として残した資料の中に、ユダヤ人のガス殺の様子を記録した文書があれば、流石に否定しようがないはずです。実はあったのです。
1970年代後半に、グリクシュ報告というのが見つかります。グリクシュ少佐というのは親衛隊人事本庁の職員で、1943年5月にアウシュビッツの視察に訪れ、司令官ヘス同行の上、ガス室を見回って報告書を書いたのです。言葉は選びながらも、どう読んでもユダヤ人をガス殺する手順としか読めない内容がきっちり書いてあるのです。流石にこれは否定できないだろうということになったのでしょうか、10年以上、否認論者はこれを「まぁ偽造だろう」とほったらかしました。何故ならば、その報告書は原本ではなく、戦後に裁判資料を整理していた米軍将校がタイプライターで打ち直したものだったからです。おそらく原本保管のためでしょう。だから、原本じゃないので証拠にならず、米軍により偽造されたものだと言い張ったのです。
で、1991年に、アメリカ人のリビジョニストのある人が、このタイプコピー版を徹底的に内容批判して、偽造だと断定します(実際には根拠は薄弱であり、捏造それ自体の事実は一切証明しておらず、断定は無理です)。それがこちらです→フランケ・グリクシュ「再定住報告」:偽造の分析(レンク)
で、一旦これで否認論者もほくそ笑んだでしょう。原本などないんだから嘘に決まってる、と。ところが・・・
2019年、つまり去年です。ある反否認論者がふと、「もしかしたら?」と思ってドイツ連邦公文書館を検索したのです。すると、その原本(報告書製作時に同時にタイプされたカーボンコピーだった一枚)があったのです。ニュルンベルク裁判等戦後裁判関係資料は膨大な量があり、昔は探すのが大変だったのですが、インターネットと文書のデジタル化が進んで、いつの間にか外部から検索をかければ見つかる状態になっていたのです。まさか探せるとは誰も気づいていなかったわけです。
発見者は、様々な検証を行い(と言ってもデジタル化された写真なので物理的には調べられない)、当時の他の文書とのタイプフォントの照合まで行い、フォントの一部に欠けがあった文字を数文字発見し、他の文書とそれが一致することから、おそらくは原本で間違いないだろうと。他にも色々特徴を調べていますが、疑問点は今の所ありません。
それがこちらです→Holocaust Controversies: Nazi Document on Mass Extermination of Jews in Auschwitz-Birkenau: The Franke-Gricksch Report
詳しく詳細な解説もされていますが、ともかく間違いないだろうと。内容も、否認論者は批判していましたが、それらおかしいと思われる箇所も十分問題なく解釈できる範囲です。何れにせよ、原本です。
否認論者としては、絶対に認められない資料証拠ですからこれを「捏造」と言わなければならないはずです。しかし、「捏造」と仮定した途端に辻褄があわなくなるのです。捏造でなければすんなり理解できます。普通に原本はあった、そしてドイツ連邦公文書館で整理保管・デジタル化されていた、それだけです。
しかし、「捏造」だとおかしなことになります。先ず時期が問題です。
戦後のその米軍将校がタイピングした時点で原本も捏造されていたと仮定すると、ではどうして裁判に提出されなかったのでしょう? タイプ版も結局は裁判に出ていません。それは別に良いのです、証言証拠は沢山あり、グリクシュ報告は特に必要ありません。しかし、捏造だとすると、他の文書とタイプフォントが合っているということから、それらの他のタイプのフォント形式を間違いなく再現するためには、例えば同じタイプライターを探し出してこなければなりません。そんなめんどくさいことするでしょうか? しかもです、そうやって非常に面倒な精巧な偽造をするのであれば、何故タイプコピー版が存在するのでしょうか? カーボンコピー用紙を使えば、カーボンコピー三枚分用意できます。その一枚を裁判で使えるように回せばいいだけです。「捏造」と仮定すると極めて不自然なのです。かなり精巧なのに(調べてもわからないくらい)、裁判に使われていない事自体が不自然です。なおかつ、そんな手間隙かけた捏造が証明された文書資料などただの一つとして存在しません(そもそも戦後裁判資料で捏造が疑われたヴァンゼー会議議事録ですらも、リビジョニストが捏造だと言い張っていただけです)。
あと、この原本は1980年代にイギリスの著名な歴史家デヴィッド・アーヴィングが連邦公文書館で見たことがあると言っており(アーヴィングは異常なほどの資料収集家です)、2005年くらいのこの資料を議論する会でそのインデックスを述べていて、そのインデックスナンバーが原本発見時にほぼ合っていたのです。とすると、1980年代に原本は存在したことになります。では、タイプコピー版が1976年に発見されて以降、アーヴィングが連邦公文書館で見るまでの間に、何者かがグリクシュ報告の原本を捏造し、連邦公文書館に潜ませた、なんてことはあり得るのでしょうか?
今の時代ならばPhotoshopもありデジタル化された資料など簡単に捏造できるのかもしれませんが、1980年頃にそれが出来たとは到底考えられません。ネットすらないので、ハッキングでファイルを混入させることも出来ません(1980年代頃にデジタル化があったとも思えない)。いろいろ考えても、1980年代頃の捏造というのはあまりにも荒唐無稽です。タイプ文字の形を合わせるために、その他の文書すらも探し出してくる必要すらあります。すると、どうやったって当時ならば、連邦公文書館に物理的に侵入しなければなりません。あまりにもハイレベル過ぎます。
はっきり言って、グリクシュ報告の価値は「否認論者が困る」だけのものであり、偽造された「ヒトラーの日記」のように1円の価値があるわけでもなく、書かれた内容についてはなんら未発見内容はないので、通常の歴史家も特に反応を示すわけではない資料です。普通の歴史家はホロコーストやガス室があったことなど一ミリだって疑いやしません。
というわけで、グリクシュ報告原本を「捏造」と仮定することは、どう考えても辻褄が合いません。というわけで、非常にグリクシュ報告原本発見は否認論者にとって困ったものであるはずなのですが・・・
ネット上の一般否認論者は、どうも意味が全くわかっていないようなのです。「そんなもん捏造だろ」と頭から決めつけてかかっているだけで、捏造と仮定するとおかしなことになるとまで考えが及ばないようなのです。ていうか、そもそも「証拠は絶対にない」とすら思い込んでいるようです。信じ切っていると言っていい。ですから、こちらがいくら言っても、否認論者は「捏造とすると辻褄が合わなくなる」ことまで考えは全く及びません。
聞きたいのは、私が変なのでしょうか? 私自身は「ホロコースト否認信者はアホばっかり」と思うようにはしてはいるのですが、だーれも理解しません。一体どうなっているのでしょうか?
id:anmin7相手の人がどうなったら増田は満足なの? 賢さを讃えてほしいの? ただ考えを改めたらいいの? 土下座して許しを乞うならいいの? 愚かさを恥じて以後増田の奴隷になるべきなの?
違う違うそうじゃないのです。私一人で考えているだけなので、単に自信がないだけなのです。日本人でホロコースト否認論に反論しようなんて物好きな人はなかなかいません。これで合ってるかどうか、感想でもいいから聞きたいのです。日本人否認論の集まるところへ行くとほとんど孤軍奮闘になってしまうのです。私以外の反否認論側の人がいてもただ、「ホロコーストを否認するなんておかしい」みたいにいう人がいる程度です。ほとんどの人は知識がないのです。
id:rmntc55211精巧に捏造したけど使わなかった、その後、捏造したそれが何かの手違いで文書保管されてしまったなんてありそうだけどね。何もかもが自然にはできていない
そんなこと言い始めたら、あらゆる文書資料は全て捏造になりますよ。本当にそう言ったホロ否認者はいましたが、あまりに非現実的です。グリクシュ報告の一致性は、タイプライターのフォントの欠損が4文字も当時の同時期の文書と一致する、という時点で、捏造なら度を超えて精巧すぎます。むしろ、この欠損フォントで捏造が発覚すべきです。それを捏造でやろうとすると、当時ならば虫眼鏡必須です。今の時代なら、パソコンで画像拡大すれば簡単かもですが(というか、単に画像から同じフォントを使えばいい)、当時はそういうわけにはいきません。また仮に同一のタイプライターを探し当ててきたとしても、戦後ですから、同時期の文書とは2年も差があります。すると、その2年間にタイプライターの他のフォントまで劣化している可能性があります。あるいはその比較された他の文書資料も含めて偽造した、……などと言い出したら結局、ナチスから押収された文書は全て偽造とまで言いええしまい、暴論としか言えなくなるでしょう。何れにせよ、捏造が証明された文書など一枚たりとて存在しませんので、妄想という他はないでしょう。
顔立ちは気に入らないけど面白かった。3期が楽しみ。
ただ気になるところがある。
ラインハルト軍が反乱貴族を追って確か要塞攻略する場面だったと思う。
反乱貴族とテレビ電話してるとき、「姉弟揃って皇帝に媚びるんだな(大意)」と煽られたラインハルトが激怒して作戦を変更した。
それを見た部下同士が「ラインハルト様も『感情に支配される人間』なのですね」と話していた。(感情に、のところにアクセントがついているのでこういう意味になる)これが納得いかない。
これが「ラインハルト様も感情に支配される『人間』なのですね」(人間にのところにアクセントがつく)なら理解できた。
ラインハルトを深く慕っていた部下が思わぬ一面を見て等身大の人間であることを実感するのは納得がいく。
また、「ラインハルト様“は”『感情に支配される人間』なのですね」も冷たすぎて話が違ってくるがわかる。無様な姿を見て急に醒めたんだろう。
だが「ラインハルト様も『感情に支配される人間』なのですね」だと「世の中には感情に支配されるタイプの人間と支配されないタイプの人間がいて、前者の方がずっと数が多いor部下の知る別の誰かも前者だったが後者も存在する」「ラインハルト様は後者ではないかと思っていたが実は前者だった」という意味になる。
だが部下は感情に支配されるタイプとされないタイプの話などしておらず、ラインハルトを感情に支配されない人間だと思っていた描写もない(確か)
あの名前忘れたけど黒髪の参謀が感情に支配されないタイプであると見せたかったのかもしれないがそれならもっとわかりやすくしてほしい。
屋外で蝉がせわしなく鳴いている。
懐かしい、夏の記憶だ。
PCでゲームをするきっかけはマインクラフトだった。(この時、すでに製品版になってた気がする)
家族共用PC(メモリ2GBでやばい)で満足できなくて、初めてした大きな買い物だった。
そんで、それを手にした俺は、夏休みの大部分をマインクラフトのマルチプレイで過ごした。
マルチプレイといっても、共同で建築したり、経済圏を作ったりいろいろあるが、俺がとびきりハマっていたのはPVPであった。PVPとはいっても単純に武器を作って戦うのではなくて、相手の陣地にある特殊なブロックを壊したり、あるいは持ち帰ったりする攻防戦である。最前線でひたすら殴り合ってもよし、武器をひたすら作ってもよし、防壁作りに勤しんでもよし、自陣のパトロールをしてもよしととにかく自由で、みんながみんな好きな方法でその戦いに挑んでいた。
そして、当時の俺はそうやって数十人が一丸となって攻防するこのPVPの虜になっていた。この手のPVPを扱うサーバは当時たくさんあったけど、俺が通っていたのは最大手のような所で、常に100人近くが接続していた。常連の人と仲良くなったりはなかったけど、いつもワチャワチャで、殺伐としてる雰囲気が好きで、よく入り浸っていた。
こうやってキーボードを素早く叩けるのも、当時戦況をチャットで使えたり、レスバトルしたのが大きかった気がする。
(何事もそうだが、練習するよりそれが必要な場面に遭遇することを多くする方が、なんだかんだ上達につながるものかもしれない)
俺が通っていたサーバは他にもあって、専用コマンドやテクスチャを適用してガンシューティングが出来るサーバとか、ひたすらアスレチックするだけのサーバとか色々なお気に入りがあった。
こっちは小規模なとこも多くて、何回か通うとIDを覚えてもらえてたりした。そのサーバの人たちとどうでもいい世間話をしたり、飯落ちを見送ったり、送られたりした。
夏休みになると湧いてくる、いわゆる夏厨だったわけだが、その住民やサーバ主はきさくな人たちで、殺伐したインターネットの中では温かい空間だった。
年月が経ち、俺はマインクラフトを遊ばなくなって、その熱はOverwatchやR6S、Splatoon(Wii Uの方)に移っていった。一般に語られるゲームの流行り廃りに沿うように、俺も色々と遊び、そして現在に至っている。
それで、この前Overwatchを惰性でプレイしていたわけだが、重なるタンク弱体化などの謎調整+運営の異常なマクリー推し+必ず遭遇するスマーフィングなどでさすがにつまらなくなって辞めた。
ちなみにタンク専で、ラインハルト専(盾張る役目しかしてない)である。(どうしようもない)
それでふと、マインクラフトのことを思い出した。
ひさびさにランチャーを開くとアカウントは古くなってて(別サービスへの引継ぎ必須)、くそデカいダウンロードを終えたのちに立ち上がると見覚えがあるも違うマインクラフトになっていた。いつの間にかダンジョンモードとかも追加されていて、ちょっとびっくり。起動するバージョンも選べて、高校当時の古いMOD入りのバージョンも表示されていた。懐かしい。懐かしいが、だいたい古いやつを起動すると不具合が起こる気がしたのですべて削除した。最新バージョンは当時より番号が大幅に進んでいた。
そして、マルチプレイヤーを選択して、サーバ選択画面に移って、絶句した。全てのサーバが接続不可の赤マークになっていた。
あーアドレスが変わった系かな?と思ってアドレスを専用サイトで調べなおすと、大手は引っかかったが、小規模のサーバは見つからなかった。なんとなく察してしまった。サーバ選択画面に戻って、各サーバの対応バージョンを確認した。どれも、最新バージョンよりはるか手前で、力尽きたかのように止まっていた。
そしてアドレスが見つかった大手サーバは、バージョンが近かったが、閉鎖されていた。公式サイトも確認しにいったが、更新は止まっていて、掲示板は時間が止まったかのように、静かだった。最新の書き込みは数か月前で、「新規は来ず、チーターしかいない。どうにかしてくれ」のような内容だった。
書き込みも数人で、おそらく攻防戦はもう出来なかったんだろう。
唖然とした。
100人規模、数十人規模で毎日盛り上がった、そんな記憶が色濃く残る場所は、いつのまにか廃墟となっていた。
廃墟ならまだいい。もはやその場所を見ることすら出来ない。崩れ去って海に消えてしまったかのようだった。
呆然とした。あんなに盛況だったのに、こうもあっさりと消えるのか。
バージョンに対応するのが大変だったから?管理人が忙しくなったから?人が来なくなったから?
分からない。分からないけど、どれであっても仕方がなかったのかもしれない。
運営するのはタダじゃないし、労力が掛かるだろう。だから、仕方ない。
でも、ここまで全て無に帰しているとは、思ってもいなかった。思いがけない展開で、俺の夏の思い出は終結していた。
もしかしたら、ワイワイしたその思い出のままの記憶に留めておいたほうがよかったのかもしれない。
なんとなく感じる寂しさと、当時の運営者への感謝をなんとなく片隅に書きたくなったので、こうして書き残しておく。(いつかここも消えるかもしれないけどね)
あらゆる方策を提言されても、それをやれる人間がいないのである。
銀英伝のイゼルローンに例えると、アレックス・キャゼルヌがいないのである。
はっきり言えば、どんな優れた対策を立てたところで、それを吟味してよいものだけをすくい上げる官僚のマンパワーが圧倒的に不足している。
通常業務ですら、国会中は深夜タクシー、数時間ほど寝て、また始発で職場に直行便というのがデフォルトの国家公務員である。
コロナウィルス対策で、勤務時間も足りず、予算も人も足りないものだから、使命感だけで何とかギリギリまわせるモノだけまわそうと必死にあがいているのがいまの状況だ。
過労死ラインの倍を超える残業時間で働いて、わけがわからないことになっている部署はわんさかある。
コロナウィルス対策で最初の死者は、過労状態にあった官僚だったことをもう忘れている。
誰も助けてくれない。
人を助けようと思ってもその政策を吟味し、実行可能な状態に持っていくだけのリソースがない。
一度動いた政策も、コロナウィルス対策下では、すぐに取りやめなければ危険ということが良く起こる。
これではもう、どうにもならない。
政策を実行する人が単純に足りないのだ。
民間が、最も大変だということはわかる。しかし、それを非常時に助けて対応できる人が根本的に不足している。
政府が悪いというのはいいが、じゃあ、その脆弱な政府の状態を作ったのは誰だ?
政府のせいか? いや、小さな政府を目指し続けてきた国民の責任は極めて大である。
行政サービスが極限まで求められる非常事態に、小さな政府では、そもそも対応しきれないのだ。
しかし、行政職は、専門職だ。極めて面倒な法律的事務を、他の部署から来た人間が代わりにやることはほぼ難しい。
勉強しながら対応だが、ある程度習熟しないと役に立たない。皆華やかなラインハルトや、ヤンウェンリーはもてはやすが、キャゼルヌ先輩がいかに偉大だったのか、理解しておらぬのだ。
いまの日本は、アレックス・キャゼルヌがいない。というか、いたんだけれど、給料が高いと追い出してしまった。
どうするんだろうねこれ。
昔ハマっていたTM NETWORKの話。
まあPerfumeとかを引き合いに出すまでもなく、ああいうユニットだとメンバーの誰が一番好きみたいな話になるのはあるあるなわけだ。
で、俺が一番好きだったのは宇都宮隆なのだが、ファンだった学生の時分、友人にそれを言ったら残念そうな目で見られた。
男で宇都宮隆が好きというのは少数派というか、ぶっちゃけ変人枠なんだと。
なんつーか、今だと上述のPerfumeにおけるあーちゃん好きとか、男のくせに銀英伝のヤン・ウェンリーよりラインハルトが好きとか、それと同列なレベルの珍獣枠になっている感じで、当時は結構ショックだった。
俺は別にあーちゃん好きもラインハルトが好きな男も全然OKだと思ってるけどな。
そんな俺も気がつけばおっさんになって久しいけど、未だに納得できない話。
こういうのを書くのは蛇足なのであまりよろしくないかもしれないけれど、「なんでこれが入ってないんだ!」という異論が出てきそうなので、ベスト10選出にあたって考慮した作品とベスト10から除外した理由を挙げて供養しておく。
足の作画にこだわった実にフェチい映像化であり、映像化不可能と言われていた歯磨きプレイを完璧に原作再現してみせたのはただただスタンディングオベーションするしかない感じだったのだが、自分の中で『化物語』(2009年)のファーストインパクトを超えるものではなかったので除外。シャフト時空と「君の知らない物語」の衝撃は10年経った今でも色褪せていないんだ……
2012年に1期が放映され、2019年に完結編となる5期が放映された、まさにテン年代を駆け抜けたアニメシリーズの第1作。「急に歌うよ~♪」に代表される外連味あふれる演出はほんと好きだし悠木碧も水樹奈々も良い仕事してるなって思うしひびみくは尊いし「Synchrogazer」ほんと名曲で大好きなのだけれど、他の作品が良すぎてベスト10入りは厳しかったみたいな感じ。
アニメとしてのクオリティは確かに良いし、熱血シーンも多かったし(「改変完了…!」が好きすぎて何度も聞いてしまう)、穏乃が最高に可愛かったのでそこだけ切り取ればベスト10でもよかったのかもしれないけれど、原作改変してレジェンドを無能キャラにしてるのは許されざる感じ。原作だとレジェンドは色々裏で手を打ってたわけだけどアニメ版では控室で解説聞いて「知らなかった」みたいに驚いてるシーン付け足されちゃったところが何箇所かあって、まあアニメだけ見てるとレジェンドが無能に見えてしまうよな……なんもかんも原作改変が悪い。あと千里山の関西弁もうちょいどうにかならんかったんか……
え? 実写化? やだなあ『咲-Saki-』は実写化なんてしてないですよ何言ってるんですか冗談が下手だなあHAHAHAHAHA。
なんとも評価に困る作品である(氷菓だけに)。確かにアニメとしてのクオリティは高かったし、原作を尊重もしていたと思う。でもやっぱりあちらこちらで「ええ~……」という感じになる改変箇所があった。キャラデザの段階で原作ファンをざわざわさせていたのだが、それはまあ解釈の問題なので別にいいとして、「わたし、気になります」の謎エフェクトはいったい何なの? 『クドリャフカの順番』回で奉太郎が真相を解き明かす場に里志がいたのは個人的には微妙。その場にすら居合わせられなかった辺りが福部里志なんじゃない? ただまあその辺は宥恕できる範囲だとして、ファーストシーズンのEDは本当に許せない。なんなのあれ? 〈古典部〉シリーズにああいうEDとか人を馬鹿にしてるのかと思う。セカンドシーズンのEDはまあ良かったけど反省したのかね。OPは完成度高かったのになあ……。そして数年後に『氷菓』が実写化したときに「京アニのイメージが台無し」とか「またアニメの実写化かよ」とか言い出す連中(末代まで祟ってやる)が出てきたのでやっぱりアニメ化しなかった方がよかったんじゃない? と思ってしまった。いや、アニメ化きっかけによねぽ作品全部揃えたとかいう友達もいるから安易に否定するのはよくないのだが、高校の図書室の片隅で読んでいた僕たちの〈古典部〉シリーズを横取りされた感はなんか強い。この辺のモヤモヤがあって手放しには褒められないので除外(ところで実写どんな感じでした? よねぽ作品初の映画化なのにまだ見てないというのは忸怩たる思いがあるのだけど、ちょっと見るのが怖い)。
最後に。細かい話になっちゃうけど、時代背景は原作発行当時にしてほしかった。作中でみんながスマホ使ってるのにチャットとかサイトとかあのへんの描写がすごいスマホ以前の時代の匂いを漂わせていて、なんというか違和感があったんだよね。だったら時代を2001年とかそのへんにしてキャラには一昔前のガラケー持たせればよかったんじゃない? と思う。スマホ以前の時代に中高生活を送った者として、同時代に読んでいた小説の空気感はそのままに一部の小道具だけ現代になってるのはやっぱりなんか変な感じがするんだよな。時代考証がちぐはぐというか。この点、出来はともかくちゃんと舞台を1990年代のままにしていた『この世の果てで恋を歌う少女YU-NO』(2019年)は賢明な判断だった。
文明崩壊後世界を原作通りに丁寧に、しかも我々の予想を超える形でアニメ化してくれてチョベリグだったのだが、競争相手が多すぎてベスト10に入れなかった格好。いやーほんとね、原作で描写された未来の異形の生物たちをあそこまで丁寧にアニメ化してくださったのは素晴らしいですよ。そして浪川大輔さんの演技が最高だった。『新世界より』で一番輝いてた声優は誰って言われたら浪川さんを挙げる。ほんとすき。
ただアニメオリジナルの大歓喜帝の即位シーンはどうかと思った。「大歓喜帝となられる!」っていう台詞があったけどあれは諡号なんだから生前そう呼ばれることはありえないと思う。もちろんそれは伝統的な王号の話であって未来に適用できないのでは、という議論もありうるけれど、慈光帝にしても大歓喜帝にしても生前のおこないを皮肉る形でつけられてるんだからやっぱり諡号なんじゃないかなぁ。まぁこれは些細な点で、これ以外はケチのつけようもなかった。良アニメ化の見本みたいな感じ。
単体で見れば良い出来なのかもしれないけど割と大胆に原作の時系列を改変していて微妙な気分になるので除外。龍之介とリタの関係とかさぁ……。
アニメを使ったCMの最高峰だと個人的に思うので最後までベスト10に入れるかどうか迷った。
映像としてのクオリティ、百合作品としての密度、キャラのかわいさ、どれを取っても高品質で良い作品なのだが、原作と描写違いすぎませんかね……? という理由で除外。だって原作で完璧超人なキャラがアニメ版で脳筋おバカキャラになってるのはちょっと擁護不能じゃないです? ゆうかのかえでへの思いが全然違うものになっちゃうじゃん……
良い作品なんだけどちょくちょく原作の描写変えてるんだよね。最大の問題はなぜ標準語にしたのかという点。原作では方言で喋っててかわいいし漫画版もそれを再現してるのに! あと『2』であすか先輩の実家がなんで豪邸になってたのかがわからん。あんな豪邸じゃああすか先輩が育ててくれた母親に恩を感じる理由が微塵もなくない? どう考えてもアニメ版であすか先輩がこれまで生きてこられた理由は実家パワーであって暴力をふるう親に感謝しなければいけない理由が見えてこないよあれじゃ。あすか先輩もひとりの高校生であり、特別な人間なんかじゃない、という意味が原作のつつましやかなお宅には込められていたと思うんだけど、そこ変えちゃうかー、という残念さはあるよね。夏紀先輩が大天使だっただけにこれをベスト10に入れないのは割と断腸の思いではあるが(でも夏紀先輩の描写も原作と違う……ぐぬぬ)。
ガルパンはいいぞ。……とだけ言って終わらせるのはあまりにアレだけど、実際にそうとしか言いようのない感じはあり。とにかく戦車アクションのキレが良く、それを映画の尺で濃密にやってくれたもんで大満足の出来だった。ベスト10に入れるつもりでいたけど気づいたら11作品くらい挙がってたので泣く泣く削った感じ。
俺たちの新海が一気に一般人にも知られるアニメ監督にのし上がるなんて予想もできなかったが、流行るだけのことはある作品だった。新海誠が『天気の子』(2019年)とかぶるからバランスを気にして外した、以上の意味はなく、もちろんテン年代アニメ映画ベスト10に余裕で入る傑作である。これぞ新海誠という感じの映像美にこれぞ新海誠という感じのガバガバSF要素が加わりやっぱり新海誠じゃねーかとなる感じの恋愛模様を前面に出しつつも東宝とかいう拘束具を得た結果オタクだけでなく一般人からも支持される作品に仕上がったのは本当にアニメ史に残るサクセスストーリーではあるまいか。いやだって『言の葉の庭』の興収とは文字通り桁が違うというか……あのセカイ系がどうたらこうたらみたいな論を立てるめんどくさいオタクに大人気だった新海誠が国民的アニメ監督になる日が来るだなんて2010年の自分に言ったら失笑されるだろうと思う。
映像表現としては素晴らしいの一語に尽きるのだが、重要なところで謎の原作改変を複数していて微妙な気分になってしまうので除外。リンさん関係の省略で妊娠を疑うシーンが意味不明になってたのもそうだし(これはこないだ公開されたバージョンではちゃんとリンさんの出番あったらしいのでそっちに期待)、なんですずさんの慟哭シーンの台詞を改変したか未だに納得がいかない。そもそも原作では、「米軍の空襲という暴力には屈しない→自分たちも暴力で他人を従えていたのか→だから暴力に屈するのか」という一連の流れになっていたのに、映画では「米軍の空襲という暴力には屈しない→植民地の食べ物を食べて生きてきた→だから暴力に屈しなければならないのか」と改変されていて流れが途切れている感。もちろん真ん中の部分も自分たちが植民地支配という暴力を振るってきたんだと気づかせる意図ゆえの改変でだというのは理解するけれど(そしてそういう気づき方の方が一主婦であるすずさんの立場からは自然だという論にも一理ある)、やっぱり「暴力に屈するものかね」という台詞を踏まえると原作の台詞を維持すべきだったと思っちゃうんだよね。というか、原作そのままの台詞にも改変後の台詞にも一定の合理性がある以上、原作を変えるべきじゃないでしょう常識的に考えて……アニメ化は原作の婢ですよ……
すごーい! 君は下馬評の低さ、1話切りの嵐からソーシャルネットワークの勢いで覇権に上り詰めた2010年代を象徴するような流行り方のアニメなんだね! 最初はなんだこれって思ったけど、普通に面白くてびっくりしちゃった! 最終話を待ってた1週間はとーっても長かったんだ! ……ということでベスト10に入れても良かったのだが、多くの人を満足させて終わった放送終了後にとんでもない騒動が(コンテンツホルダー側の責任で)巻き起こったのを思うとベスト10に入れるのを躊躇われ、最終的に外してしまった。アニメ外の要因で評価するのは邪道だろうけれど許してほしい。
で、こういう話をするなら『けものフレンズ2』(2019年)についても語る必要があるだろうけれど、途中で切っちゃったんだよな。解釈違いというかちょっとそれはどうなのって思うところが多々あったので。ただその私がどうなのって思ったところも他の人の考察とかを読む限りでは最終的に「なるほどそういう問題意識に基づいていたのか~(私と立場は違うけどそういう立場に立脚するのは理解できる)」みたいな感じに落ち着いて終わったっぽいので、完走すりゃよかったかなとちょっと後悔している(某所の感想を読んで「つまり『けものフレンズ2』は『ソラリス』だった……?」というある種の納得を得た)。でも是非以前にクオリティの問題で見ててあんまり面白くなかったんだよ『けものフレンズ2』……
あと私もたつき監督の作風は好きだけど、吉崎観音がコンセプトデザイン(≒原作)であってたつきはあくまでアニメ版の監督に過ぎないっていう前提を忘れてまるで1期が原作であるかのように振る舞う2期批判派の人は生理的に無理。実際のところはどうだか知らないが、仮に吉崎観音とたつきが対立して前者が後者を追い出したというゴシップの内容がすべて正しかったのだとしても、原作者とアニメ版の監督が対立しているのなら普通は原作者の肩を持っておくのが良識だろうと思っていたのだが……?
単体で見ればとても良い出来なのだが希美とみぞれの関係性あるいは夏紀とみぞれの関係性に関し解釈違いというか原作と違う箇所があって微妙な気分になるので除外。原作の久美子が夏紀や優子に置き換わった結果関係性が変わっちゃってるんだよなぁ……。原作で希美が久美子に弱さをさらけ出すシーンを夏紀&優子相手に変えたら原作の夏紀先輩が見せた気遣いはどこに行ってしまったの? ってなるし、クライマックスの台詞にしても原作とはニュアンスが違ってきちゃうわけで……。そもそも希美先輩はなかよし川相手にあんな弱音を吐くキャラではなかろうし(あれは相手が久美子であったことに意味があるのであり)。あと夏紀先輩が謎にみぞれ先輩に優しいのはなんでだ。原作では割と冷ややかに見てたよね……? というか原作と明らかにクライマックス後のnzmzの距離感が違うじゃないですかァーーーーーッ!!!(いや短編集まで含めての話です。希美の誘いをきっぱり断ったみぞれ先輩はどこいっちゃったの?)公開直後に「のぞみぞ添い遂げて」とか言ってる人たちを見て、はぁお前らどこに目ン玉つけてんだいったい原作のどこに添い遂げる可能性を感じられるんだ、と思ってたけど、映画見てみたらそう言いたくなる気持ちもわかってしまった……ともかく関係性が原作と違う……
キャラデザも意見が分かれるところだろうと思う。個人的に傘木希美のキャラデザはTVアニメ版の方が好き。地に足が着いてる感じがする。リズ版は軽薄さが強調された感じに見えて傘木希美のモンペとしてはこう微妙な気分になってしまうのです(二次創作その他での傘木の扱いがあんまりにもあんまりすぎてモンペ化した。リズ青の傘木が! 無神経に! 見えるのは! 原作の気遣い描写を削ってたり! 余計な改変をしてたりするからです!)。逆に鎧塚みぞれはリズ版の方が良い味出してたと思う。みぞれの儚さを引き立たせるためのキャラデザなんだなと思えば納得(いや、原作とはそもそも髪型違うんだけどさ)。みぞれ先輩の視界むっちゃ狭いな! っていうあの演出は本当に傑出した映像表現であって素晴らしいなと思うところ。これで原作に忠実ならベスト10に入れてた。
今作、耳が孕みそうになるイケボのシェーンコップや立体機動装置を使ってそうなオーベルシュタインやヤンチャしてそうなキャゼルヌといった新しいキャラデザが輝いていたし、ショタハルトさまの破壊力すごすぎてキルヒアイスが人生狂わされたのも納得してしまったし、フレデリカが一部オタクの性癖を鋭角でえぐる見た目になっていてたいへん素敵だったのだが、MVPはなんといってもアンドリュー・フォーク准将だと思う。顔立ちは整っているが陰気、という原作の描写を完璧に再現してくださっている……! しかもCV神谷浩史の流れるような詭弁も聞けて本当に耳が幸せ。3,000万将兵の命を無謀な作戦に費やす勇気。俺たちの求めていたフォークはこれだよ感が素晴らしい。
ただキルヒアイスがことごとく解釈違いで……いや、流石にカストロプ動乱はあんまりにもあんまりというかキルヒアイスがああいう策を弄せるならオーベルシュタイン要らないじゃん感がすごくないです? 戦闘は得意だけど策とか謀略とかそういうのは不得手、というのがキルヒアイスの美点であり弱点でもあったと思うのだけれど。というかなんであんな鋭い目つきなの? もっと温和な感じじゃない? ただでさえラインハルトの目つきが鋭いんだから相方であるキルヒアイスはもっと穏やかな感じにしてくれた方がバランス取れない? 道原かつみ絵で産湯を使った人間なのでキルヒアイス描写は不満が多かったけど、キャラデザの部分に関しては単に解釈が違うという話で原作と違うという話ではないのでまあ許容範囲内ではある。でもやっぱりカストロプ動乱はおかしいと思うんですよ(しつこい)。
空戦シーンは文句なしに最高の出来なのだが、やっぱりキャラもそれで動かすのは微妙というか……いや本当に空戦シーンは素晴らしいんだよ……でもキャラの顔とかが……空戦シーンは2010年代で最高なんだが……
自バリアを2連続で発動できるようになり、完全無敵になってしまった。
ソンブラの弱体化によりEMPも効かず、バリアの隙間にハッキングをねじこんでも一瞬でバリアを再発動できるのでどうしようもない。
両チームのザリアがペイロードの上で見つめ合って永遠に試合が終わらない地獄をよく見かける。
ザリアを倒すことは不可能なので、オーバータイム中にバリアの上から吹き飛ばして目標から引き剥がすのが唯一の対処法になる。
ドゥームフィストのパンチかラインハルトのチャージが一番確実。豚やルシオでは動かせない。
スリープダーツのようにザリアも調整が入るのを待つしかないのが現状。
暗黙の了解で両チームともザリアをピックしないのが一番平和に楽しめます。
・新キャラ
ディスラプターが地味に強い。狙われてもぴょんぴょん飛び回って逃げられるが、ゴリラに追いかけられると大体死ぬ。
ソルジャーよりはダメージ源になるが強キャラというほどでもないか?
一生シャウトし続けるおばさん。
ゴリラ・新オリーサと並んで3タンクにするととんでもなく硬いチームになる。
相手のアナやメイがよほど強いなら鈴用にピックしてもいいかも?
そのうち書く
最高に面白かった。
前半の、野心と人間味に溢れて起業したマーク・ランドルフと大企業中間管理職ドロップアウロ組がオンラインのDVDレンタルサービスとしてのネットフリックスをなんとか立ち上げるものの、最初はエンジェル投資家気取ってた共同創業者のアルゴリズム冷酷超人リード・ヘイスティングスに追い出されるのは、「オッ!シリコンバレーやってるNE!」って感じ。
そこは退屈だったけれど、中盤でライバルのブロックバスターが出てきてからが最高におもろい。
っていうか、ブロックバスター・オンラインの奮戦っぷりにどんどん感情移入してしまうのだ。
ブロックバスターは、当時全米最高の店舗型のレンタルビデオショップなんだけど、MBA上がりの若い連中が店舗派や官僚的な組織と戦いオンライン化へ向けて戦う様が本当に良い。
例えるのであれば、関が原の石田三成、『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリー、横山三国の諸葛孔明みたいな感じ。
最初はネットフリックスのパチもんサイトから始まるもの、打倒ネットフリックス目指して改良に改良を重ねていく。
この戦いが本当に読んでてすっげー面白いのだ。
そのクライマックスが、後半戦の山場で出てくるブロックバスターオンラインの「トータルアクセス」というサービスのローンチ。
これは、店舗展開をしているブロックバスターの強みを活かし、返却も受け取りも店舗を使える上にそのまま店舗で次のレンタルが一本無料という、
まさに最近流行りの「OMO」(オンライン・マージ・オフライン。まあO2Oの焼き直しですね)っててやつ。
もちろん、最近のデジタルうんたらマンはきっと「そんなん当たり前じゃんプギャー」みたいな知ったかをするかもしれんけど、
これは2006年の話であり、それまでブロックバスターの店舗はインターネット網に繋がれたシステムはなく、衛星通信網をベースにしていた。
任天堂のサテラビュー(衛星通信でスーパーファミコンにコンテンツをダウンロードする超豪華システム。衛星打ち上げるのにすげー金かかっているのに全然売れなかった)かよって感じ。
まあ、2006年ってそんなに昔じゃないけれども。米国で店舗展開していたら糞インフラ事情と回線スピードはお察しでしょ。
そんな背景の中で店舗と連動するサービス作るって、地獄であり、その地獄を走り抜けて、イノベーションなサービスを作り上げたことに、俺は感動したのだ。
市場の新規加入者はほぼ全取りの上に、ネットフリックスの会員からも離脱者が相次ぎ、崩壊寸前!
アルゴリズム冷酷超人リード・ヘイスティングスもついに降伏の言葉を口にし始め、これでついに勝つる!
オンラインDVDレンタルサービス、そして、その先にあるビデオオンデマンドの王者はブロックバスターのもとにくるのか!
と思わせて………。
大変悲しいことがおきて、ブロックバスター・オンラインは大失速。
このシーンは、読んでてまじで、
『銀河英雄伝説』でいうところのバーミリオン星域会戦(ヤンがラインハルトを倒す一歩手前で停戦になるやつ)、
横山三国志でいうところの葫蘆谷の戦い(司馬仲達を谷に閉じ込めて爆殺しようとしたら雨降っちゃうやつ)を彷彿とさせ、
なんつーか、まあ本邦でも最近流行りの○○payに見られるような、ITとかWebとかそういうの知らないんだろうなーって感じのプロ経営者様は、米国にもいるんすねって話。
んで、まあブロックバスター・オンラインの中心人物たちは失意のうちにブロックバスターを去っていくんだけども、これもまた涙無しには読めず。
横山三国志でいうところの剣閣で剣を折る姜維というか、負けて捕まり縄目をおびて晒し者になる石田三成みたいな感じ。
終盤は、見事生き残り王者になったネットフリックス様であるが、アルゴリズム冷酷超人しかいない彼らにも陰りが見られ……みたいな感じで終わり。
ぶっちゃけ、作者は、ネットフリックスいやアルゴリズム冷酷超人リード・ヘイスティングスのこと大嫌いだろうと感じさせれくれるところが節々にあり、最高に面白かった。
もともとロイターの経済系ジャーナリストの処女作なのだけれど、徹底的に「人」に着目しているのが大変良い、
見せかけの経歴ではなく、徹底的に出自と人間関係を洗っており、大変おもろい。
この手のシリコンバレーテック企業本にありがちな、当事者たちの大本営発表や成功者談を鵜呑みにせず、第三者や反対した人々の意見まで丁寧に拾っている。
それこそ、リード・ヘイスティングスに関しては家系図を書くレベルの調査をしているし、主要人物は一緒に働いた上司の評価から家庭環境までこと細かに出てくるのだ。
おかげで、どの人物も単なる固有名詞を超えて、性格や生き様までリアルに描写されており、それがまた読んでいて楽しい。
本当に、ブロックバスター・オンライン側視点でドラマ化とかしたら、日本では絶対にウケると思う。
中盤は本当に山崎豊子の小説ばりの面白さで、ほんとあと一歩で、ブロックバスター・オンラインは、オンラインとオフラインの王者として君臨していたのではないか。