はてなキーワード: 踏み込みとは
男性が相手であるときにはしないような内面への踏み込みの試みを、女性相手にしたことが何度もある。それはたとえば、偶然を装ったメールを送って会話を続けてみることだったり、一緒に街を歩いたり美術館に行ってみませんかと誘ってみることだったり。
同性相手でも、仲良くしたいなあと思う人にメールしたり外出の誘いをすることはあると思うんだけどそれとどう違うのか知りたい。
同性相手だと美術館に絵を見に行きたいと思って誘うが、異性相手に美術館に誘うときには絵なんかただの口実でどうでもええわいと思っているのか?
個人的には友情と愛情に大きな隔たりはなく自分のパートナーは配偶者であると同時に人生で最大の親友だと思っているから、この増田みたいに「異性相手だと同性相手とは全く違うムーブをキメる」と言う感覚がよく分からない
自分は数年前に結婚できた(元?)非モテ男性なんだけど、結婚したことで恋愛ゲームから降りられて本当に良かった、というのが、noteの某記事を読んでの感想。
女性をダッチワイフであるかのように眼差すホモソーシャル的な男の子ノリには小学生の頃からまったくついていけず、そうかといって、いわゆる女心の機敏みたいなものにも疎くて当然モテるわけもなく、周囲からはちょっと爪弾きにされたような感じで人生の大半を過ごしてきた。
でも、そういう立ち位置にあったって、自身の内側からは多少の性欲や孤独感が湧き出してくるわけで、そうした衝動にかられて異性と良い仲になりたいと思ったりもしていた。イケイケの男女の交際や恋愛を理想的に祭り上げる世の中の雰囲気や価値観もそうした衝動に一役買っていて、自分がモテないという事実に必要以上に焦っていたと思う。
性別を考慮するより前に相手の人格を尊重したいと思うのだけれど、そうした内外の圧力によって形作られた衝動がときどき理性を裏切り、あわよくばもっと仲良くなれないだろうかという感じで、男性が相手であるときにはしないような内面への踏み込みの試みを、女性相手にしたことが何度もある。それはたとえば、偶然を装ったメールを送って会話を続けてみることだったり、一緒に街を歩いたり美術館に行ってみませんかと誘ってみることだったり。
当時の自分としては、嫌なら断ってもらえれば良いし、という気持ちでそうした誘いを投げかけていた。けれど女性からすると、下心の透けて見えたかもしれないそうした誘いを投げかけられること自体が不快だったかもしれないし、男性から女性に対して絶え間なく押し付けられる性的なハラスメントに連なるものとして、忌避感を抱かれていたかもしれない。冷静になると、そうした男性としての自分の業に嫌悪感を抱き、異性にそうした迷惑をかけるくらいなら自分は一生ひとりで生きていくのだとも思う。けれど、内側から湧き出してくる性欲や孤独感が理性をたぶらかし、いつしかまた女性に「あわよくば」という誘いかけをしている自分を認め、自己嫌悪に陥るのだった。
今考えて唯一救いに思えることは、社会的立場が自分より下にある女性に対しては、そうした誘いかけをしなかった(と思っていたけれどひとつだけあった。業が深い…)ことだ。
恋人や配偶者などのパートナーが自身にいない状態では、内側から湧き出す衝動に突き動かされ、しかし獰猛な男性性を理性は拒否し、ダブルバインドの状態で女性に接することになる。自身の下心と格闘し、相手の心を読もうとし、自分がどう思われているか、好意を持たれ得るのか、メタにメタな視点を重ねて自身や相手のことを考えに考えるが、答えはどこにもみつからない。
こうした葛藤と心の読み合いの恋愛ゲームは本当に自分を消耗させる。もし自分がこうした煩悶なく、目の前の相手と性別に関係なく対等な人間として向き合うことができればどんなに良いだろうかと、何度も何度も思うのだった。
そんな時代を経て、私は運良く結婚することができた。そして、この恋愛ゲームから降りられて本当に良かったと思う。当時、パートナーも異性との駆け引きみたいなものに憔悴しており、お互いに早くこのゲームから降りたいということで、付き合いはじめてからすぐに結婚しようということになった。
誰かの配偶者という立場になることで、もう相手を探さなくていいのだという安心を得ることができ、他者からは「この人は下心を持って私に接してきているのだろうか」と思わせてしまう負担を減らすことができる。独身時代は、性別に関係なく人間として惹かれた異性に対し、もっと相手のことを知りたいと何らかのアプローチを試みていく際、下心を持って接してきていると思われていないだろうか、という恐怖が常にあった。たとえ結婚していても不倫などはあるからゼロにはならないものの、夫というステータスを手に入れ薬指に結婚指輪がはまっている現状、異性との人間関係を構築していく際、過剰な自意識に悩まされる場面はだいぶ少なくなった。
女性からすると、気持ちの悪い下心を振りまいておいて、贖罪もなしに自分だけ「あがり」になってまたこんな気持ちの悪い文章を書いているのかよ、ということになってしまうかもしれない。そんな人間がこんなことを言うのはまったくおこがましいかもしれないけれど、誰しも目の前の相手と性別に関係なく対等な人間として向き合うことができればどんなに良いだろうか、ということを心の底から思う。
最初に言っておく。俺は「花束みたいな恋をした」が大好きだし、元カノのことも嫌いとは思ってない。大筋は実話だが、バレ対策で所々の事実は曲げてる。この文に厳密に該当する個人は多分いないが、20代の童貞のノンフィクションだと思ってくれて問題ない。
タイトル通り。「はな恋」を見て俺が思い出した元カノは、「はな恋」を見ても元カレ(=俺)とのことなんか全然思い出さなかったらしい、という話だ。
当たり前やろと思った人、盛大な独り相撲が好きなら読んでくれ。
どこかにショックを受けた人、その幻想をぶち殺しにきたから読んでくれ。
はな恋の中身の話もするから未見勢は早く観に行け。行って情緒に九頭龍閃されてこい。
まずは思い出話。
高3のとき、親密ってほどでもないけど話すと楽しいクラスメイトの女子がいた。傾向は違うにせよお互い二次元のオタクだったし、かといって自分の世界に閉じこもり続ける訳でもない、それなりに真面目でそれなりに社会性があってそれなりにリア充を僻んでいるタイプだった。派手に迫害される訳でもなく、かといって異性にチヤホヤされる容姿でもないし浮いた話もない、そういうバランスの男女。たまに話が弾むうちに、お互いにちょっとくらい好感情が出るのは、ヘテロの若者だったら自然だろう。
とはいえ高3だ。少なくとも都会ではない立地の(自称)進学校で、大学が近くなる奴はまあまあレアだ。少なくとも俺は「最後だし気になる人には告白しよう」って思えるほど自己肯定感が高い高校生じゃなかった、遠距離の面倒くささを押しつけるのは気が引けるんだよ。だから例の彼女とも、別の大学行ってそれっきりなんだろうと思ってた。
幸運なことに、あるいは不運なことに。俺も彼女も、違う専攻ながら志望校が一緒なのが分かってきた。一般試験を前提に難関(扱いの大学)に挑む勉強ガチ勢どうし、「一緒に受かろうね」という共闘意識はすぐに共有できた。
共闘意識に加えて。「珍しく気の合う馴染みの女子(男子)が」「同じ大学にいるなら」「お付き合いもできるのでは」という妄想だって始まってた。多分、彼女もそうだった。
娯楽も限られ、空気の閉塞してくる受験期。これだけ利害の一致する人間がいたら頼りたくなる。教室やら予備校やらで顔を合わせる中で、少しずつ距離は近くなっていった。並んで歩いた、肩が触れた、バーガー店に寄り道した、ハイタッチした。ギリギリ友達の範疇の、しかし交わす異性なんていなかった、そんなスキンシップがひたすらに幸福だった。リア充が高校のうちにベッドインまで済ませている傍ら、ちょっと手が触れ合ったくらいで舞い上がるような高校生だった(今さらだが男子校勢には謝っておく)
そうやって、言葉にはしないまま意識だけが積み重なって臨んだ試験で、めでたく二人とも合格した。地方の自称進学校で、ちょっとした快挙になるような大学だった。引っ越しの手続きが落ち着いて、二人で祝勝会カラオケをして(君じゃなきゃダメな健全ロボがレスキュー!したのはうさぎですか?)、そのときに彼女から交際を申し込まれた。告白が叶った女の子が泣くんだって知った。
親も応援してくれた難関大にカップルで進む、進研ゼミもかくやという出来すぎた滑り出しで。お互いの好きなことは邪魔しないようにという(主に彼女の)方針だったから、サークルやバイト優先で、一緒に過ごすことはそんなに多くなかった。それでも連絡は頻繁に取り合っていたし、相手が歩く新しい世界の話は純粋に好きだった。たまにファミレスで喋って、帰り道にキスするくらいで十分だった……俺がセッしたかったのは確かだったが、彼女からその手の話をされることがなかったぶん、踏み込みづらかった。まだ未成年だし、付き合いが長くなればそのうち、くらいの気分だった。自分を好きでいてくれる女の子が近くにいる、それで十分だった。
そんな距離のまま後期になって、学業もサークルも忙しくなってきた。お互いに真面目に取り組みたいのは分かっていたから、彼女からの連絡が少しずつ減るのも気にならなかった。
試験期間が終わって、久しぶりに遊びにいって。そこで「別れたい」と言われた。納得もできないまま地獄に落とされて、それでも受け容れるしかなかった。水泳のときはプールの中で海パンを脱がされるような日常だった小学校の頃以来、久しぶりに自死を考えかけたりもしたが、そんな気持ちまで彼女にぶつけるのはどう考えても間違いだったし(H誌のI田の件は絶許)、何とか立ち直った。カルチャーでつながった相手に振られてもカルチャーで立ち直ったオタクだ。気分転換の得意なフレンズなんだね。
あんまりな別れ方をした直後は絶縁状態だったが、数ヶ月もすれば傷も癒え、少しずつ彼女との交流も戻ってきた。そのときは明言していなかったが、サークルの先輩に心変わりしたのが大きな理由だったらしいし、今ではその彼と良好な関係が続いているという。俺自身、無害な友人としてはともかく、性愛の対象としては魅力に乏しいと自覚してるし、そのくせ意識的にビジュアルを磨こうとも思っていなかったから、他の男に負けるのも無理はないと考えられるくらいになった。以前ほど親密ではないし直に会うことはなくなったが、たまには最近の推しコンテンツを布教しあうような関係になったし、それが結構な打率だった(というか言われる前から気になってる率が高い)ものだから、シンプルにオタ友として付き合えるようになった。何より、秘密を共有する相手というのは大きい。
俺は俺で、学年が上がるにつれて人間関係にリソースを割けなくなってきたし(だから新しい相手もいないまま)、あそこで別れなくてもいずれ、という予感を抱くことも多かった。何より、その先が破局であったとしても、彼女との思い出には励まされてきたのだ。ひとときでも誰かに愛された記憶は尊い、続かなくても間違いじゃなかった、違う道に幸あれ。本気でそう思えていた。別れたときに言えなかった「楽しかったね」だって、もう皮肉なしに言えたのだ。
という風な経験を踏まえると。
「はな恋」がビシャビシャに刺さる人だな、というのは察してもらえると思う。
絹と麦が惹かれあっていく様子は高3の淡さを思い出した。初対面で作家の話ができるの最高だし、「電車に揺られる」と言っていたら気になる。
同棲中の過ごし方は進学当初に描いていた理想そのものだった。同じ本で泣いたのは知っていたから、今度は一緒に読みたかった。
環境が変わると内面が変わるのを誠実に描いてくれたのも良かった。別れてからだって心は通じ合う、そんな関係性に自分たちもなれたと思っていた。
「はな恋」のキャッチコピーにまんまと乗せられた、これは俺たちの映画だ――という直感を抱いた頃、彼女も観る予定だとリア垢TLで見かけた。ただでさえコロナで人と会えない今、久しぶりに喋りたくなって、通話での感想戦を取り付けた。
期待通り、映画の話は大いに盛り上がった、それはそれでちゃんと楽しかった。それは良いんだ。
ただ、何を感じたか――というより「自分の経験のどこに響いたか」は正反対だった。
あらゆるシーンが彼女との思い出に接続されたと、缶ビールを片手に俺が語るのを聞きながら、彼女は段々と歯切れが悪くなっていた。顔は見えなかったが、多分げんなりしていたんだろう。
やはり今が優先されるのが当然か、彼女が主に考えていたのは今カレとの馴れ初めや前途だったらしい。それは分かる。社会人なりたてとして当然。
そこからが致命打だった。「君のことも思い出したけど、それは趣味が合う人がいる楽しさであって」「君と付き合っていた頃のことなんて全然思い出さなかった」「4年も経つのに君に思い出されて、ちょっとビックリしてる」
つまりは、4年以上も前の恋人期を鮮明に思い出している俺に戸惑っていた。そんな言い方はしなかったが、完全に引いていた。
俺から復縁を申し出たことは一回もないし、知らないなりに彼女と今カレの関係は(少なくとも言葉上では)祝福している。よりを戻せるだなんて全く期待していない。君の運命の人は僕じゃない、否めないというか今さら否定する元気もない。
それでも。どうやら俺は、終わった恋に甘えすぎていた。彼女が「思い出」のフォルダに整理した体験を、ずっと大事に抱えたまま、昨日のように覚えたままでいる。
新しい恋人が出来たからだとか、そもそも男女で思い出し方が違いやすいとか、そういう話も分かる。それでも俺は、かつての恋人の中で自分がどれだけ小さくなっているかを示されたのが相当にショックだったのだ。それだけ小さくできる存在が俺だ、そのことに今さら傷ついているのだ。
また好きになれとか、振ったことを後悔しろとかじゃない。こんな映画を観たときに思い出してくれる、そんな存在ではいたかった。絹と麦に憧れたのは、あれだけ幸せな現在を過ごしていたから以上に、幸せな過去を大切にできているからだ。パンフレットの一枚目のフレーズに号泣したの、俺だけじゃないだろ。
薄桜鬼もヘタリアも黒バスも、見かけるたびに彼女が話していたことを思い出す。SAOもゆるゆりも麻枝准も、彼女は多分もう気にしていない。
ラジオの映画評で宇多丸さんが言っていた、「別れた後でも、その思い出がある人生は素晴らしい」ことを描く映画じゃないかと。俺自身がそうだった、それを確かめさせてくれる映画だった。柔肌の熱き血潮は夢のまた夢、それでも、そんなに寂しい訳じゃなかった。あの頃に積み重なった初めての温もりは、どれだけ経っても心を温めてくれていた。そんな粘着質な感情なんて誰にも言えない、言えないけれど。彼女だってそうだったと信じていたのだ。別れたとはいえあんなに分かり合えていた。別れた後も上手く折り合いがついた、それはあの頃への愛着があるからだと思い込んでいた。
あんな未来が待っていた、それは一方通行の夢だ。ずっと知っている。
あんな日々もまだ温かい、それも一方通行の夢だ。知りたくなかった。
それでも好きになってくれた自分が誇らしい、そんな幻想だって、確かに明日への糧になっていたのだ。いつかそう思ってくれる人が現れる、それまでちゃんと生きようと自分に言い聞かせていた、それだって幻想だといよいよ痛感した。
とはいえ。精神に多大なダメージを食らったとはいえ。モラトリアムから目を覚ますには良い機会でもあったのだ。「自然な」出会いなんか一生来ない、やるならちゃんと金をかけてシステム使ってやるしかないし、ひとりで生きてく覚悟を決めたっていい。いずれにせよ、あの頃みたいな出会いなんて一生ない。少なくとも「俺には」ない。
色褪せてきたことに気づかず、花瓶に飾ったままにしていた花束を。そろそろ片付ける頃合だろう。
「今回の件からお前が得るべき教訓は」別れた後の恋人に思い出話なんて、大抵の場合はするもんじゃない。胸の奥の花束は、陽に晒したときには枯れていく。
別れた後も思い出話に花が咲く人がいたら、それはそれで尊敬も応援もする。けど、俺は違った。
かつて恋仲だった俺たちへ別れを告げる、いい機会だった。嫌いにならないまま、後悔まではしないまま、背を向けて手を振ろう。数年の時差はあったが、麦と絹の再演だ。
……ということを書きながら、段々と思いはじめたんだが。
「秒速5センチメートル」を作ったときの新海さん、こんな気分だったんじゃないだろうか。ポスト宮崎駿というか終身名誉レぺセン童貞の誠くん、さっき「はな恋」も観たらしい誠くん、大丈夫? 話聞くよ?
知的障害を伴わない発達障害の存在が世間に広く認知されるようになって10年以上になるだろうか。
アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)やADHDなどの、コミュニケーション不全の障害は、現在の高度情報化社会に適合することが困難な人々を障害者として認定したもので、そのような意味で「新しい障害」「時代によって創られた障害」とも言われている。
歴史的経緯から俯瞰すれば、社会の構成員の多くが第一次産業に従事していた時代には、軽度な発達障害は障害としては認識されていなかった。社会にとっては身体的な機能障害の有無が、何より重要視された。
機械を使わない農作業では人間の身体が頑強であるか否かが生きていく上で重要である。逆にこのような時代において、体格さえ頑丈でよく働くことが出来ればよく、発達障害の有無が社会の構成員にふさわしいか否かの判断基準とされることはほとんどなく、それどころか知的レベルで多少劣っていても問題とはされなかった。
ところが産業革命が起こり、人々が工業生産すなわち第二次産業に従事する者が多くなってくると、知的レベルが低い者は労働生産性において不利となり、工場などで働くことがままならず、障害者としてみなされるようになる。どれだけ体格が頑丈であっても、軽度知的障害者は障害者として扱われる。
そして現在の高度情報化社会では、第三次産業に従事する者が多くなっている。情報通信業を含むサービス産業においては、他人との間の情報の伝達に問題を生じる者、すなわちコミュニケーション能力が低い者が障害者と認定されてしまう。認定を受けた者やその予備軍は、生きづらさを抱えて生きていかなければならなくなったのである。
こうして、今日の社会では他者とのコミュニケーションが困難な者は軽度であっても、総称して「発達障害者」と呼ばれ、障害者として取り扱われ、治療の対象となり、障害者枠で働くことが可能になってしまった。
生きづらさを抱える人々が社会から援助されるようになったのだから、それは社会の進歩である、ととらえる人もいるが、高度情報化社会が発達障害であることが生きづらくしてしまったのだから、発達障害者にとっては社会の悪化であろう。
ところが社会の進歩(あるいは対象者にとっての悪化)はとどまることを知らない。高度情報化社会から次の社会へとステップアップする中で、今後クローズアップされるであろう障害が、掲題の第四の障害である「嫌感障害(けんかんしょうがい)」(英訳するとharassmental disability)ではないか、というのが私の予想である。
「嫌感(けんかん)」とは私の造語で、嫌感障害者は、他人の嫌悪感を感じ取れずに、あるいは知りながらも敢えて、ハラスメントを行う人々のことを指している。
(同様に"harassmental disability"も、発達障害=disappointmental abilityに寄せて作った造語)
「それは一般の発達障害とどこが違うのか?」と問われるかもしれないが、知的障害が身体の脳の障害という意味で広義の身体障害者であり、発達障害が広義の知的障害であるのと同様に、嫌感障害もまた、広義の発達障害ととらえて差し支えない。
しかしこれまでの発達障害という概念の中には、共感性が低いために他人の感情が分からずに意図せず他人に嫌悪感を与えることをその中に含みつつも、「他人が嫌がることがわかっていながら他人の嫌がることをすること」、いわゆるセクハラやパワハラをすることまでを障害の一種だと認定することはなかった。
今回私が提唱する「嫌感障害」は、一歩踏み込み、発達障害者の中で他人に嫌悪感を与え続けてやまない行動発言をする人々と、攻撃的であったり、あるいは人が嫌がることをすることをやめられない人々を、まとめて新たな障害者として認定するものだ。
第1の障害が身体障害、第2の障害が知的障害、第3の障害が発達障害ととらえたことが、嫌感障害を第4の障害ととらえる所以である。
昨今の脳科学では、人間の自由意志の存在は否定され、すべてが所与の条件、すなわち、遺伝子と環境、構造などによって思考は自動的に決定されているという。
自分の意思によって他人の嫌がることを行う人もまた、ある意味自分ではどうしようもない衝動によって突き動かされ、社会に不適合な行動を取らざるを得ない障害者と言えるのではないか。
彼らが適合できない社会とはなんであるか。それは女性や障害者が多く進出した社会であり、多様な社会であり、弱者が認められ、生きやすく、守られる社会である。
この社会では、強者や多数派が、その力でもって弱者や少数派の人権を踏みにじることは、もはや許容されない。
強者が所有していた権力、多数派が所有していた圧力でもって、他人の自由を拘束し、口をふさぎ、多様性を蹂躪することは社会がもはや許さないのである。
他人への嫌がらせを許さない社会は、高度情報化社会が発達し、様々なサービスが生まれる中で、人々が夢中になるサービスに人々の興味が集約していく中で育まれていった。人々が夢中になるサービスとは、SNSである。
高度情報化社会が理性の支配する知識の共有を成し遂げたものであるならば、その中で育てられてきたSNS内では、感情の共有が重要なものとして形作られてきた。
それは「高度感情化社会」と言えるものである。私達は高度感情化社会という新しいセクターに生きており、産業革命、情報革命の次に生じた、感情革命の只中にいるのである。
GAFAが情報化社会の雄ならば、そこに入っていないTwitterは感情化社会の雄であり、今後は感情産業と言われるような感情の共有化をビジネスの柱とする産業(第四次産業?)に、多くの人々が従事するようになるだろう。
その産業の中で障害となるのが、他人の感情を傷つけて平然とする人々である。その問題が今、ジワジワと、次々にクローズアップされているのを私達は知っている。
「こんなことまでハラスメントなのか?」
という疑問を抱いた人は、多いのではないだろうか。なぜ新しいハラスメントが次々に問題視されているのか、わからない人も多いはずだ。戸惑っている人々も多いだろう。新しいハラスメントを提唱する人々に「お気持ちギャング」というレッテルを貼る人々も少なくない。
しかし、これが時代の趨勢である、ととらえると、納得できるのではないだろうか。他人に嫌悪感を抱かせるのは障害である、という新しい常識が広まりつつある過程なのだ。
嫌感障害という概念が確立されるメリットとしてまず考えつくのが、嫌感障害は障害であるのだから、治療の対象となり、医療が解決する分野となることだ。
発達障害がコンサータなどの投薬で治療されてきたように、いずれ嫌感障害を解決する薬が見つかることになるだろう。
次に挙げられるメリットとしては、パワハラ、セクハラをしてきた人々が、ひとくくりの集団として可視化され、社会活動における「障害」の持ち主と認識されることだ。
発達障害という概念が、コミュニケーションの重要性を浮き彫りにしたように、嫌感障害という概念は、他人への攻撃性を抑止できる能力の重要性を明らかにする。
パワハラ、セクハラ、モラハラを、無意識であれ意図的であれ、行ってはいけないし、それは教育によって徹底されていき、矯正できないものは「障害」がある者として取り扱われることになるだろう。
このような潮流が社会に表出しようとしていることを、私達はこれから目の当たりにすることになるだろう。
なお、以上のようなことがふと頭に浮かび、自分のオリジナルなアイデアかもしれないと思い、一気呵成に書き上げたが、研究者でも専門家でもない私の思いつくようなことは、すでにどこかで誰かが考えついているかもしれない。
「高度感情化社会」「嫌感障害」といった概念に似たことが書かれている本などがもしあれば、ぜひブックマークか増田返信で教えていただきたい。
逆にアイデアが私のオリジナルだった場合、用語やアイデアに関して、皆さんのご自由にお使いいただきたい。この記事からの引用である、などと断る必要もありません。
by tnkm
人並みに友達はできる。仕事上の付き合いも人並みにはするし、SNSで知り合い、今では学生時代以上の友達になったといえる人も増えた。特段コミュ障というわけでもなく、陰キャだけど陽キャの人たちとも付き合えていたので、これまでは何も感じずに過ごせていた。
だけど、一人二人…と深い付き合い、親友のような関係の相手が増えるにつれて、『これ以上踏み込みたくない、踏み込んでほしくない。』という心のガードが極端に働くようになってしまった。
あるタイミングまでは普通に会話もしているし冗談も言い合えるんだけど、ひとたび相手から好意(友達…というより親友や恋人に向けるそれ)を向けられたり、友達→別の友達に向けられている好意を見ると自分にもそれが向き、深い仲になった頃に裏切られてしまうのではないか、あるいは喧嘩別れをしてつらい思いをすることになるのではないかと怯んで、竦んで、相手のことが怖くなってしまう。信じられなくなってしまう。
だけど、決して好意を向けられたくないと心の底から思っているわけではない。むしろ好意を向けてもらえることは嬉しいことだと思っている自分もいる。全くもって矛盾した考えだ、頭がおかしいと自分でも思う。
そんな失礼千万で傲慢な自分が嫌いで嫌いで、何度も治そうと努力した。いままで約束は受け身だったが、自分から遊びに誘うようにした。SNSでも予防線を張らずに積極的に話すようになった。自分から相手に親友だと思っている、これからも仲良くしたいという想いを積極的に伝えるようにしてみた。
だけど、やっぱりある時ふと電池が切れたように駄目になってしまった。親友たちのことを再び怖いと思ってしまった。毎日のようにしていたチャットをすっぽかした。そんな傲慢な私を「どうしたの?」「何かあったの?」と心配してくれていて、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。心配してくれることに有り難くも感じる。だけれどどうしてもその気持ちを信じられない。
森山直太朗氏の『生きてることが辛いなら』の中にこんな歌詞がある。「生きてることが辛いなら いっそ小さく●ねばいい 恋人と親は悲しむが 三日と経てば元通り」。なるほど、どんなに親しい人でも三日あれば忘れ去られてしまうのならば、いっそこの想いを抱えたまま、忘れてもらえるように友人たちの前からいなくなった方が良いのだろう、そんな風に考えてしまう。どうせ薄い繋がりだ。【アカウント削除】をワンクリックするだけで消えてしまう、そんな儚い友情だ。こんなことを思っているのに、その自分を処刑するボタンを押せない弱い自分がいる。
こんなことは増田にしか書けない。家族にも、医者にも、友人にも、永遠に理解されることはないとすら思っている。そんな風に他人を信じられない、傲慢な自分が嫌いだ。同情が欲しいのではない。こんな想いをこの世界の誰かが抱いている、そんなことが少しでも誰かの記憶に残れば、あるいはこの世界に私と同じ気持ちを抱いている人がいるんだと思って安心してくれる人がいれば嬉しいと思う。
「何なのよ、いったい……」
辺りに重苦しい雰囲気が漂う。
タオナケはその居心地に耐えられず、蚊帳の外だった俺たちに助けを求めた。
やっと頭が冷えてくれたらしい。
俺たちも、途中で止めるべきだったという負い目があるので一緒に考えることにした。
「私、間違ったこと言ってないと思うけど、何か悪いことした?」
「間違ったかどうかと、悪いことしたかどうかは似て非なるものだよ」
「些かデリカットがなかったな!」
「シロクロは黙っててくれ。いまボケられると話がこんがらがる」
まあシロクロの言ってることも的外れってほどじゃない。
だけど具体的に何がどうダメだったのか、本当のところは俺たちにも分からない。
そして踏み込んだ側が開き直ると、その溝はずっと埋まらない。
それはタオナケも分かっていて、望むところではなかった。
だから俺たちの意見に納得いかない素振りはしつつも、いつもの調子で反論はしてこない。
「何にしろ、悪いと思ってるなら、それを伝えるべきじゃないか」
「そう、ね……とりあえず謝った方がよさそうね」
「じゃあ、ドッペルを探しに行こう」
こうして、ひとまず話がまとまったように思えた。
「そうだ! とりあえず謝れば、とりあえず許してくれる!」
だけどシロクロの何気ない言葉に俺たちはギクリとした。
確かに、謝ればドッペルは許してくれるだろう。
でも“とりあえず謝った”ところで、それは“とりあえず許された”だけ。
たぶん根っこの部分で、俺たちの関係はギクシャクしたままだ。
「あやま~るなら、たいどでしめそ~よ」
なんだか遠まわしに馬鹿にされている気分だけど、歌っている内容は尤もだ。
本当の意味で謝るなら何に対してなのか理解し、そこに誠意を込めないといけない。
あの時ドッペルが投げかけた言葉の意味を、俺たちは知らないままだった。
とても単純にも思えるし、捉えどころがないようにも思える問い。
もちろん今の状況で、ドッペル本人に聞いても答えてはくれないだろう。
そりゃあ、仲間だからって全てを分かち合う必要はないかもしれない。
でも「言ったところで、どうせ理解されない」と思われたたままなのは、仲間として致命的だ。
「見た目が全てじゃないけど、第一印象になりやすいのは確かなんだから。もっとオシャレに気を使うべきよ」
「い、いつも色んな服に着替えてるよ」
タオナケの明け透けな態度に、ドッペルはしどろもどろな応答しかできない。
そんな、ほぼ一方通行なやり取りが、しばらく続いた。
いわば水と油といえた。
この場合、どちらが水で、どちらが油かは知らないけど。
そして大方の予想通り、それが先にやってきたのはタオナケの方だった。
「あのねえ、こういうのって色々と理由をつけて複雑な問題にしたがるけど、実際のところ答えはシンプルよ。自分がどう思い、それに対し自分がどう行動するか」
「は……はあ」
「そこには数学で習う方程式なんていらないし、電卓が必要なほど膨大な数も要求されない。私たちガキでも解ける、算数レベルの単純な問題なの。ドッペルは分かりきった答えを先送りにしているだけよ」
それはアドバイスのようでいて、煮え切らないドッペルを半ば責めているようにも聞こえた。
「あんた人見知りだから、誰かを演じることで緊張しないよーにしてるんでしょ。“ありのままの自分”を見せることが怖いから!」
だけどドッペルがいくら消極的とはいえ、いくらなんでも踏み込みすぎたようだ。
タオナケの言葉の何が、どのように作用したかは分からないが、それは確実にドッペルの神経を逆なでしていた。
「あー!」
ドッペルはおもむろにマスクを外すと、か細い声を精一杯にはりあげた。
そして狂ったように両手で髪をかき乱し始める。
突然のことにタオナケ含めた俺たちは戸惑うしかなく、ただその様子を見ているだけだった。
「はあ……はあ」
肺の酸素がひとしきり出て、ドッペルは息を切らす。
すると、そこには俺そっくりの人相が現れ始めた。
それはドッペルお得意の変装であり、その中でも十八番のモノマネだった。
普段なら仲間でも見分けるのが大変なほどだけど、さすがにこの状況では変装の効果は発揮されない。
タオナケが“ありのままの自分を”と言って間もなく変装して、“自分以外の誰か”の姿をしてみせる。
それは明らかな拒否反応を示していた。
ドッペルは俺の喋り方を真似ながら言った。
タオナケは質問の意図を図りかねているようで、漫然と答えるしかない。
「言ってる意味が分からないんだけど、考えるまでもないわ。私は私、それ以上でも以下でもないわ」
清々しい回答だ。
しかし、ドッペルの表情は曇っていく。
多分そういうことじゃないんだろう。
「もういいよ、これ以上タオナケとは話したくない」
それを残して、ドッペルはその場を去っていった。
ヴィーガンなのでわかりあえる仲間が異常に少なく、
たまにヴィーガン女性をみつけると、いろいろ話題をしたり、交友を深めようとするのだが、
「すみません、親しい男性がいるので」といった返しをされることがある。
そのたびに、
(そんなこと)きいてないよ!(ダチョウ倶楽部)
というツッコミを心でしている。
はっきりいっておブ○な方だったり、あるいは40代だったり、
煮ても焼いても食えないのだが(それは本人もわかっているはずだが・・・)、
しかもヴィーガンという共通項だけに興味があるため、その話題しかしてないのである。
「なんで↓そーなる↑のっ(コント55号)」
という感じである。
友人として交友を深めたいと思っているだけに、残念である。
女性は、すべての人間関係を、恋愛という枠組みでとらえがちなのではないか?
という想定をしている。
恋愛に依拠するということは、思考が自己の身体性から解放されていないということである。
そしてそれが女性の科学者が少ないことにつながっているのではないだろうか。
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一気に踏み込みすぎて不気味がられてるんだよそれ…
たしかに。
言い訳になるけど、とにかくヴィーガンと接触する場面がすくないのよ。
たまにであったりすると「ええ!?ヴィーガンなの!」「いつごろからですか?(鼻息)」
「いえ、地球保護です」と言われたときは「ファッ!?」となって、こっちから話題ふるのをやめた。
ヴィーガンってこんな感じで距離おかれるんだろなーって。自分もヴィーガンなのにw
女性は、別に美人だったり若かったりしない人でも、普通に楽しく話してたり親切にしていたらなぜか異性として好意をもたれることがあるので、そのことに対して配慮がない男性は女性となかよくなりづらいように思う。
「煮ても焼いても食えないのだが」という表現と、「女性は恋愛脳~」みたいな話題に女性蔑視を感じてむかついて語気が強くなってしまった
これは申し訳ない。
肉は煮ても焼いても食えない、ヴィーガンだけに!っていう激うまギャグでした(ウソ)
女性が恋愛脳っていう論は取り下げるつもりはないかな。蔑視ではなく分析ととらえていただきたい。
それであってますよ。
スーパーに行ったら9割のモノが買えなくて、
外食は米とポテトフライとサラダ(ドレッシング無し)しか食べれない状況、
を想像してみてください。
さっきも大豆肉を仕込んできましたけど、とにかく料理・レシピ情報というのは
ヴィーガンにとって一大事なのです。だから横のつながりが貴重なんです。
肉や魚は、素材がよければそのまま食ってもうまいじゃん?
でも肉や魚を喰いたくないから、めんどくさい大豆ミートに下味つけて食ってるわけです。
下味をつけるコツなんかは、仲間がいるとどんどん情報が広がっていく、というわけです。
あ、こんな話だれもご興味ない?
先方から見たら「一緒にあのレストランに行きませんか?」が割と早い段階で予想されるから普通の話題と少し違うのでは、とも思う。
ものすごく納得!
「今度ヴィーガンカレー店にいきませんか!?豆とココナッツしか使ってないのに美味しいんですよ!(鼻息)」
こっちがその気ゼロでも、相手は知りようがないし、最初から予防線をはるというのは女性としてフツーですよね。
「ヴィーガンなんて、趣味というか嗜好がたまたまバイクじゃなくて食事の話題というだけだ」
と甘くみていましたが、
また、現体制へのプロパガンダとなる危険が大いにある。過去の総理のキャラ化を皮切りに、今の総理をキャラ化したくなるのは想像に固くない。私も年季の入ったオタクなので、その状況になったら絶対創作する。そして、創作したら愛着が湧く。創作する前よりも、現総理と現政権へ好意的な気持ちに変わってしまう。
税金で桜を見られようと、ヘイトスピーチを容認されようと、ひとたび萌えれば必ず現体制に好意的になってしまう。私は見境のないオタクなので分かる。あなたはならないかもしれないが、一定数のオタクは絶対なる。
別にそれは駄目なことではないでしょ。
誰を好きになるか、何を理由に支持をするかなんて当人の勝手なわけで、究極的には政治的正しさより萌えを優先して投票するのだって投票の権利の自由な行使でしかない。
それを駄目というのは”あなたの政治的価値観”の押し付けでしかないわけよ。
萌えで投票する人がいたとして、増田にはそれを「浅薄な考えだ」と嘲る自由も「安易なイメージに流されないで」と警句を発する権利もあるけど、駄目と断じるのは他人の選択権に対して踏み込み過ぎだと思う。
まあ、政治家や社会系のメディアがイメージ戦略のために意図して萌えを生み出そうとしているのならばそれは卑劣な印象操作だと思うけど、政治的な意図なく娯楽に徹して作成されたならものなら、この点に関しては罪はないと思うな。
タイトル通りです。
古参フォロワーで特に仲良くしてくれるAくん(仮)が大好きだ。
お互い廃人という訳ではないので
毎日リプを送りあっているわけではないけど・・・。
それでも定期的に連絡をとっている。
でも、なんだか交流が続いている。
ぬるぽって言えばガッって返ってくるし、
それがすごく心地良い。
暫く連絡がないと寂しくて
ついだる絡みしてみたり(ごめんね!)。
これがもし突然、連絡がとれなくなったりしたらと考えると怖い。
もし突然ぱったり呟かなくなったら・・・。
Twitterでしか繋がっていない自分たちはそれを知ることができない。
きっともしそう(音沙汰がなく)なったら
ずっと心に残り続けるはずだ。
読んでくれてる人には、なんでLINEとか交換しないの?って思われるかもしれない。
なので、これからも平穏無事にまったりと交流が続けられたら嬉しい。
最後に会ったのは数年前だけど、
また一緒に遊びたいなあ。
中学生の頃に、仲良くなったクラスメイトがいた。Aちゃんと呼ばせてもらう。
Aちゃんと私は趣味が近くて、お互い小説を読むのが好きだった。買った本の貸し借りなんかもしていて、借りた本の感想の手紙なんかもやりとりするくらいだった。
ある日、Aちゃんの家に誘われた。ある小説がゲーム化したのを買ったから、一緒にプレイしようって話だった。
Aちゃんの家は適度にさっぱりしていて、暮らしやすそうなお部屋だった。そこで私がキョロキョロしていると、Aちゃんが飲み物はコーヒーでいいかと尋ねてきた。私はコーヒーが好きだったので、ありがたく了承した。
じゃあちょっと待ってて、とAちゃんがキッチンに入っていくと、ガリガリという大きな音と、コーヒーのいい香りがしてきた。その音は何かを削っているかのような音で、何が起きたか分からなかった私は無作法にもキッチンに踏み込み、大丈夫?とAちゃんに声をかけていた。
一方のAちゃんはキョトンとした顔で、大丈夫って何が?と訊き返してきた。彼女の手元には、鉄で出来た砂時計みたいな道具があった。
彼女が豆を挽くところから煎れてくれたコーヒーは、とても美味しかった。
と同時に、私は彼女との間に壁を感じた。
私はコーヒーというと、マグカップに細かいチップ状の素を放り込んで、直接お湯で溶かして作るものしか知らなかった。
私がコーヒーを飲んでいる間に、「豆から出すコーヒーは初めて飲んだよ、美味しいね」と言うと、Aちゃんは「今まで缶コーヒーしか飲んだことなかったの?」と訊いてきたので、「いや、ウチのコーヒーは直接お湯を注ぐヤツだからさぁ」と答えたら、なんかよくわからない様な顔をされてしまったからだ。
だから、ああ、壁がある、って思った。
たぶん、この暮らしやすそうな家の調度品とか、彼女は塾に通わせてもらえるとか、そういうのを支える根底が何か違うんだな、って思ってしまった。
その日から私は、Aちゃんから少しずつフェードアウトしていった。彼女は何も悪くない。悪いのは、醜い嫉妬心を持つ私だ。
でも、あのコーヒーの味が感じさせた壁を目にして、それでも笑ってられる強さはなかった。
まずリーダーのマスダ
彼は特別これといって
秀でた一芸があるわけじゃないわ
ところどころ知性は感じるけど
基本的にはガキっていうか
良くも悪くも年齢相応
でも決断力があるのよね
うちのチーム個性は強いけど
主体性っていうのかしら
まとまりがないの
でもマスダはビシッと
次に何をしたいか
そのためにどうするべきか
方向性を定めて
真っ先に行動してくれる
次に紹介するのは参謀役
みんなミミセンって呼んでる
聴覚が敏感でね
普段は耳当てをしてるの
ひとたび外せば
あらゆる音を拾うソナーと化す
その聴覚もすごいけど
仲間の中で一番アカデミック
不可欠なブレインよ
お次は戦闘要員
いつも白黒の服を着てるから
みんなシロクロって呼んでる
こいつだけタメじゃないのよね
というか年齢不詳
仲間の中で一番ノッポで
たぶん大人だとは思うけど
控えめに言って破天荒
背は高いけど背伸びしてない
まーそれなりに楽しい奴よ
それしか能がないけど
それだけなら誰にも負けない
……あー実は
仲間もう一人いるんだけど
アンタ如きにゃ言えないわ
それにね
その子って繊細なの
複雑な子なのよ
そーいう子は置いてかれがち
単純な奴らは構わず進んじゃう
わたし達は違うけど
仲間としては気にかけるわよ
たまに立ち止まって周りを
皆のことを見ているから
あの子の歩調も知っている
でも仲間だからといって
踏み込みすぎはよくないわ
良い関係性を保つには
マスクを付けるべき場所と付けなくてもよい場所を選別するというのは悪くない態度だと思うんだが。映画館や個人営業の店ではマスクするっつうなら、立派なもんじゃないですか。
野外は基本不要。誰かと連れ立って出かけたり、人が密集してきたら必要。
店内なんかはマスクの有無より、会話の有無な方が大きい。会話するならマスクしろ、飯食ってる間は喋るな、複数客の場合、店の都合関係なく「お前ら同士でも伝染し合うな」。
本当は家の中はベタな三密なのだが、さすがにユニバーサルマスキングを徹底してる家庭は少ないだろうから、飛沫/空気感染などについては諦めざるを得ない(もちろん確率を下げる努力は意味のないことではない)。
増田は年齢を重ねれば普通に覚えていく年齢なりの距離感を綺麗さっぱりつかめないまま萌えに突き進んできたんだろうな
激うま絵師なんてけっこうな確率で年を取っている。上手くなるまでには月日が必要だからだ。
増田が激うま絵師、もしくはジャンルで伝説の字書きレベルの腕を持つのであれば、誘えば大喜びで若い子はのってくると思う。多少会話が痛くてもだ。
憧れのXXさんとお食事!となる。しかし避けられているところを見ると、特に憧れの対象にもならない描き手なのだろう。その場合は別に年齢が若くても対応は余り変わらないと思われる
「あ、じゃあ今度いっしょにいこうよ~」とか返す
誰しも見てるSNS上で、そんなこと言われたら、反応に困る。いいか。食事に誘うのはそれなりに親しくなってからではないと難しいのだ。SNS上で喋ってるレベルの人と二人で食事に行くかっていうと違う
これは年齢関係ない。もう一度言うが、年齢が高いから断られるのではない、飯の食事に、「おいしそー」と言われたら普通なら「おいしかったですよ!おすすめです!」と返すのがそつない返しだ
おいしそう、って行ったくらいで、いきなり食事に誘われるのはちょっとしんどい
その点で増田は珍しいタイプでもある。人は年を重ねると、あまりジャンルを移動しない。それはいつも新しい情報を手に入れるほどの余裕もなければ暇もなければ気力もないからだ
よって、十年くらい同じジャンルにいる人も多かったりする。そういう流れの仲で、五十過ぎてもぽんぽんジャンルを移っている増田は珍しい。年を取っているのが珍しいのではなく、年を取っても最先端少年漫画ジャンルを渡り歩く人が珍しい
最先端ジャンルには当然若い人が増える。なので増田が浮くのは当然である。逆に増田が今まで通り過ぎてきたジャンルを振り返ってみたら、そこには同年代の人たちがいるだろう
年を取ったおばさんは、ジャンルを何度も移動しているが、だいたい前前ジャンルあたりで出来た友人と今もまったり交流していたりする
萌え話をする人も現ジャンル内ではできるが、プライベートまで喋るような仲良し友人は同年代で、別ジャンルにいたりする。増田はそういう友はいないのか?そういう友がいないから若い子ととキャッキャしているように見えるが
増田にそういう友がいれば、「あんたちょっと気をつけなよ」と言ってくれたかもしれないし、同年代の友の立ち居振る舞いで察することもできたかもしれない
「年下ならいくら下でも話しやすいのになーなんてこと思ってた」
当たり前だ。
増田は、普通の50代オタクより遙かに感性が若く、情熱も若い。年齢がどうあれ、精神年齢が若いので、同年代と話していて楽しいわけがない。同年代のオタク達とは感性が違う。それは別に悪いことではない。だが高齢オタクがレアなのに、その上
増田がどのような生活をしているのか知らないが、54まで年齢差なりの距離感を学ばずに来たのはある意味凄い。普通は社会に出てどこかで学ぶ
増田はひょっとして、専業主婦の金持ちおばさんか、独身お局会社員なのかな?と思った
そんな自分も高齢オタクだが、誘われない限りは若い子とは遊ばない。チケットが余ってしまった、などの時にチケット無駄にするくらいなら、と若い子を誘うことはあるが、この場合断られることはない
同世代のオタク友達とはリアルで遊ぶ。若いジャンルの子とはTwitterとイベントで喋る程度だ
相手が気を遣っているのが分かるし、こちらもそれ以上踏み込みたくない。一緒に飯食ってたら、まるで親子じゃん。
年を取るとオタク仲間は減る
この5つくらいあるハードルを乗り越えた、もしくはハードルがなかった人間しか残らない
残ったとしても若い頃の情熱は既に失われており、描き手になるともっともっと減る
末永く続けて欲しい
で、ぶっちゃけていうと、若い子は陰でこそこそ言ってたりするよ。「年取ってまでオタクやってるの痛いし」とか「三十代まででしょ」とか「思ったよりあったらおばさんでびびったw」なんて言っているのは小耳に挟んだことがある
なので、できるだけ上っ面以外は関わらないのがお互いの幸せなんだろうなと思っている
それだけの記述だと、元増田は「マスクの問題でない」と主張しているので、「マスク拒否おじさんは正しい、悪いのは航空会社や乗客側だ!」と言いたいのだな、と深読みされる可能性が高いと言ってるのよ。
実際、そう解釈しておじさん批判を展開するコメント多いでしょ?
こういう善悪が絡む問題で、論理的な争点だけを扱いたい場合は、明白に「善悪の問題には関心がなく、ただ純粋に論理的な議論がしたい」と明言すべき。
逆に善悪の問題にまで踏み込みたいなら、自身の立場を書くべき。
元増田は、言葉が不十分でコミュニケーション上の齟齬を招いてる。まあ、コメント稼ぎが目的で、わざと批判を呼ぶような書き方をしたのかもしれないけどさ。
出待ちどころか、握手会やサイン会、お渡し会など特定の好きな出演者と一対一で触れ合うイベントがとても苦手です。なぜなら自分の顔が相手に見られたくないから。いくら化粧したって、服を整えたって、推しの前におめおめと無様な姿を晒したくない、推しの目に汚いものを入れさせたくない、という思いがどうしても上回ってしまいます。
でも私は多くの場合、イベントに参加するほど好きな相手に対するこの「好き」の感情はほぼ恋愛に近いです。私は同担拒否です。推しに直接リプしてるTwitterアカウントがあれば即ブロックする程度の同担拒否です。
絶対に推しに顔バレしたくない、でも推しのことは気が狂うくらい好き、なんなら抱かれたいくらい好き。こんな矛盾した感情が混じり合うと、オタクはただイベントに数回参加しただけでは満足いかなくなります。もっと推しのことを知りたい、推しの好きなものはなんだろう、何を食べてるんだろう、普段どの電車使ってるんだろう、どこに住んでるんだろう……
ここまで来て私は世にいるストーカーの気持ちに大いに納得しました。認知されたくない私の最も満足する行為は、推しの後を付けたい、ということなのです。散々、マナーを破って出待ちしケバケバな化粧で要らないプレゼントを渡す女達を斜に構えて見ていたけれど、彼女たちは推しに対する好意を伝える行動として最も彼女たちが満足する行為を行っているのであり、私のような拗らせたオタクの方が本当はいつでも法を犯す危険があるのである。
では実際ストーカーしたことはあるのかと言われたら今のところ無いのですが、そうなるとストーキングという行為が本当に私の最も満足する行動なのか疑問が湧きます。ストーカーした果てに、これでは満足行かずもっと推しの生活に踏み込みたいと思ってしまう恐れがあるのではないでしょうか。
こんなことを考えて文にしている時点で私はもう犯罪者に近づいている気がしてなりません。結局何をしても「オタクと推し」という距離感の関係性は消えなくて、認知されたくないオタクは報われない人生です。私が逮捕されたらこの記事をポリスに見せてあげてください。
https://anond.hatelabo.jp/20200801135722
https://anond.hatelabo.jp/20200802180856
酷すぎる。脱ヲタファッションが流行った時から1㍉も進歩していない。
それは魚屋で「その魚を買え」って指差してるだけだから。魚の釣り方、選び方になってない。
俺はいわゆるフェミは嫌いだが、「好きな服を着てるだけで、オマエの為じゃねえ」っつって、オッサンを引っ叩いたミスコンの出場者みたいな話は割と好きだ。
好きな服を好きなように着ることで、「男の欲情を刺激する格好なんだから触っても良い」とかバカなのはわかんだから「チー牛食ってるみたいな服っすね」とか発言するやつもやっぱバカなんだよ。
だから、「ヲタクっぽい格好を如何に短期間にやめられるか」という方向性の話は全てゴミ
その上で「たぶんそれが唯一の原因じゃないのはわかってるが、そもそもファッションがわからんから、人並みになって相手に好かれたい」みたいな動機は全肯定されるべき。
価値基準を他人に委ねるとジソンシンがーとか言われるが、ソイツは別にオマエが困ったときに部屋にこもってて心配してくれるような存在じゃないから無視して良い。
百歩譲っても、隠ヲタになるべき。周りから引かれない為に、プリキュア好きは会社では黙ってます、という話ならわかる。
今やるべきなのは、「深夜アニメを見てないような話ができるようになる」ことではなく「相手がテレビの話をしたときに深夜アニメ以外の話題が出せるようになること」なんだよ。
なにかの拍子に、「聖☆おにいさんなら読んでる!」と言われたときに「大同人物語はないとして、HELLSINGは知ってるだろ…いや、ドリフターズならOKか?」じゃねーだろ。ヒラコーから離れろ。
「あをによし、それもよしならアリか、きのう何食べた?は踏み込み過ぎか?」という発想になれるようにジャンルを開拓しておくべき。
ゴリッゴリのMarvel好きに「今期のドラマなら私の家政夫ナギサさんを見ておけばOK」とか言わんだろ。致死量超えるぞ。
TBSのドラマがクソだって言ってるわけじゃねえよ?物事には順序ってものがあるだろってことだよ。
来期のドラマは何基準で見るんだよ。全部1話みて切るみたいな高度なことができんのか?
「結局TBSとフジのドラマ見てんじゃねーか」みたいに落ち着いたとしても、アプローチの仕方でその後が変わる。
マネキン指差して丸買いとかバカジャネーノ。服買う習慣無いやつが店員にそれ頼む勇気があると思ってんのか。
その後「……えっと、インナーのサイズ、普段はチェストとウエストのサイズはいくつをお選びですか?」とか聞かれて詰むぞ。多分その店には二度と行けない。
試行錯誤や蓄積、如何にそのジャンルを自分なりに楽しめるようになるかって部分がゴッソリ抜けてんだよ。興味がない視聴は単なる苦行。
じゃあどうすんだって言われたら、試行錯誤するしかないし、入り口は概ねその分野に詳しそうなヤツのから拾うんだよ。
ファッションは、「相手に伝わる情報」という部分まで還元できる。
よく、※ただイケとかキアヌが着てればみたいに言うのはそこがわかってない。
ちょっと古い話で恐縮だが、仮面ライダービルドに出てた前川泰之(コーヒーショップのマスター)は、元モデルだけあって立ち居振る舞いがキマってるんだよ。
あれは顔の造形が、ではなくて、顔の造形も含めて表情や背筋の伸ばし方、歩き方振り向き方全部含めて相手に伝わる情報だからだよ。それに服装も当然入る。
だから、短期的には「相手に伝わる情報のうち、根本的なところ」を取り繕いつつ、ジャンルそのものを開拓するしかない。具体例は男に絞るが
身だしなみは何よりもコストとして手間と時間がかかる。逆に言えば、何も考えずにそれだけしてれば良い。
コンバースを買って履くんじゃないんだよ。コンバースを買って、それを常に新品同様に保ち続ける努力をするんだよ。
その心構えがあって初めて「コンバース お手入れ」ってワードでググれるようになるんだよ。ドラマ名じゃなくて、月9や火ドラって枠の話からしないと。
例えば https://converse.co.jp/maintenance/13307/ の通りにやったら「次の日なに履くんだよ……あ、2足以上いるのかマジか……」って自分で気がつくようになるだろ。
マジで疑問なんだが、ヲタファッションから脱ヲタファッションになっても、一張羅来てる状態なら変わんねえよ?
いままでジャケット買ったこともないやつがいきなり着るのは気恥ずかしいだろうし最初間違いなく失敗するのはわかるよ?
ただな、やるべきことは、ジャンルを自分なりに楽しめるようになることなんであって、死んだ目でユニクロ無地Tを買い続けてもキツイだけだよ?
だから例えば、ゾゾのランキングを眺めて、自分の顔や体型と似てるやつの服をユニクロで探して再現しようとする、とかなんだよ。
https://zozo.jp/coordinate/ranking/
オマエラにも多分経験あると思うんだが、解像度は経験の蓄積で上がるんだよ。分解能が上がると言っても良い。
今ゲームが全部ファミコンに見えてる状態なら何をする?やっぱファミ通買って読むところからだろうよ。
同じように、メンズノンノ(MEN'S NON-NO)を買うとこからやってみようよ。今同じに見えているものも違うんだよ。
メンズナックルは長らくネタにされてるけどさ、嫌じゃんアイマスのセリフがイジられる文脈でスポーツバーとかで笑われてたらさ。
偽装するならせめても相手の文化には敬意を払う気概はいると思うんだよ俺は。だからメンズナックルも買って読むべきだと俺は思う。その服を指名買いする必要は無いと思うが。
ファッションは「相手に伝わる情報」なので、清潔感(清潔&相手から清潔に見えること)とは何か調べながら新品を保ち続ける努力をすること。
その結果が、ユニクロの感動パンツと感動ジャケットを店員にサイズのおすすめを聞きながら買って、無地の白Tを着てコンバース履くことに落ち着いても良いんだよ。
わかるよ、メンズノンノを読み、寝る前にコンバースに消しゴムをかけ、出かける前にエージーデオ24を脇にかける時にふとよぎる、これであってんのか?ってのは。
それで良いんだよ。清潔でいて損することはない。その上で、楽しみ方を探すんだよ。
(まあ、今は出かける時間を最小限で済ませて良い絶好の機会だから、こういう時に試行錯誤すんだよ。近所のコンビニ行く前に、身につけるもの全てのメンテを済ませてから出かける訓練にするんだよ)