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2024-01-25

俺がダウンタウンが嫌いで浜田雅功が最も嫌いな理由

元々コント嫌いな所から来て、浜田雅功チンピラ芸が嫌いってのがあると気付いた。

その点で、松本人志と言う人物のもの浜田ほど嫌いではなかったと言うのも発見したりした。まぁ無関心とも言うが。

過去形なのは、今回の件で最近の振る舞いとか活動とかを知って、漫画に出てくる悪役みたいな事ばかりやってるんだなあと思ったから。その点で浜田雅功淡々自分仕事をこなしているんだなと気付く。嫌いだけどな。

何故コントいか

コントというのは

と言うのが本質からだ。これは萩本欽一らによるコント55号が根本にあると思っている。

これは最近の「誰も傷つかない笑い」の話からすると真逆で、新喜劇コント55号以前のお笑い、例えばクレイジーキャッツドリフターズなどの言わば喜劇ベースとしたものと異なると思っている。

極端なことを言えば、これは白人連中が黒人を誇張して真似て嗤うのと同じことだと感じてしま

なので、ダウンタウンがやろうと、内村光良がやろうと、東京03がやろうと嫌いである。最近はそう言う本質が見破られてきたのか、だんだん需要がなくなって消えているのがうれしい。このまま消滅してほしい。

なぜチンピラ芸が嫌いか

上記コント芸の「普通からちょっと外れた人々、つまり異質な人間を嗤う芸の嗤う部分だけを取り出し直接的に弄るようなものからだ。

そしてそれに加えて浜田雅功場合は、そうやって凄んで見せて相手ビビって萎縮するところを浜田と一緒に嗤うことによって成立している所がより笑えない。要するに弱い者いじめ当事者とその周りでいじめられているのを笑ってる聴衆という図そのものであり、何が楽しいのかさっぱり分からない。

見ていて不快である。まぁだから見てないんだけどね。

それに対して松本人志

それに対して松本人志はふざけた事をいって笑わすタイプだったように思う。チンピラ芸と違い、純粋自分を笑いものにしたり滑稽芸で笑わせにいくタイプ芸人普通に笑っていて、芸として威圧したりしていなかったと感じている。

浜田雅功よりはマシだと思っていた。

ただまぁダウンタウンの笑いそのものが合わないので、最近全然見なくなっていたわけだが。

で、アマプラCMうぜーぐらいに思っていたら、今回のこれである

ついでに語ると

ウッチャンナンチャンについて。内村光良コントが好きでそもそもコントが嫌いなのだが、同時にお題を与えてそれで芸人が答える形でおもしろい事を引き出す芸も持っているためダウンタウンよりは良いと思っている。

とんねるずは、若いころはヤンキーのもので嫌いだったが、歳をとってから彼らの気持ち理解できるようになった。ひたすら身内身内に引きこもる感じだが、とんねるずは身内にネタ振りはするが威圧したりいじめたりはしないと言う事に気付いたからだ。一緒に出演する奴をみんな先輩か後輩かタメという地方高校部活動みたいな感じでシンプルに分類してネタ振りするみたいな奴。そのグループの中に積極的に入りこみたいとは思わないんだけど、こう言う連中は自分グループの外にいる奴を攻撃したりはしないし、オタクにやさしいギャルならぬ、オタクにやさしいヤンキーみたいなところで異物にたいしてやさしいのである

1人で飯を食うのが寂しくて後輩に電話銃弾爆撃して呼び出して馴染みの中華料理屋で奢る代わりに絡み酒するとか、半強制的フットサルチームに誘うとかそういうことはやらかすだろうが、自分の代わりに女をナンパさせるなんてことはやらないと思う。

オチ特にない。

anond:20240122221240

2021-08-05

小山田圭吾いじめ問題月刊カドカワ9月号(1991年9月1日発行)の記事の一部書き起こし

クイック・ジャパン』『ロッキンオンジャパン』以外で、小山田いじめ自慢していたとされる『月刊カドカワ9月号』の掲載記事について、

メディアが偏向的な切り取りで掲載して拡散され続けているのがずっと気になっていたんだけど、

案の定これを利用して、拡散元凶となった件のブログが『 小山田圭吾がいじめを語る理由 - 孤立無援のブログ 』という記事外山恒一氏のnote記事反論している。

また変な扇動しかねないので、記事の冒頭から関連する箇所(幼少期から高校時代)までをまるっと書き起こした。

なお、カドカワ記事フリッパーズ・ギター3rdアルバム「ヘッド博士世界塔」の発売直後に刊行されたもので、

アルバム発売を受けて、音楽への姿勢を掘り下げるために幼少期から振り返させた全19頁のインタビュー記事のようだ。

月刊カドカワ9月号(1991年9月1日発行)P348〜P352

きっと、ぼくの生い立ちなんて面白くないですよ。やっぱりこういう話が載るんだったら、波乱万丈の人生を歩みたかったですよ。

幼稚園ときに、巨人土井選手の娘がいてね。土井ヨウコちゃんていう子だったんだけど、餅つき大会があって、土井選手が餅ついててかっこいいって思ったのが最初記憶ですかね(笑)土井ヨウコちゃんの顔は覚えてないんだけど、土井選手の顔は覚えてる。今でもテレビ土井選手の顔を見るたびに、餅ついてたなということを思い出しますね。

すみれ三組だった。それは年長組で、その前は忘れちゃった。ぼくはお絵かきを習ってた。シンちゃんていうちょっと知恵遅れの子がいて、クレヨンを投げまくって先生にひっぱたかれていたのを思い出すな。

普通の子だった、おとなしくもないけど。すみれ三組の隣のクラスに「ひらけポンキッキ!」に出たヤツがいて、そういうヤツの悪口を陰で言ってた。出たからって威張るんです、そいつら。ぼくらはイジケたグループで、五人ぐらいいた。女の子もいたな。まだ人間できてませんからね。学芸会普通にこなしてたな。インディアンの歌を歌うその他大勢の役をやった。

小学校は遠かったんです。同じ世田谷区だったんだけど、私立だったから。それからぼくは高校まで同じ学校に通うわけなんだけど、もうシンちゃんはいなかったんだけど、二年のときにKという知恵遅れの子が転校してくるんです。ぼくらの学校身体障害者の人が多いんだけど、特別クラスは作らないで普通に入ってくる。Kは高三まで同じクラスだった。ぼくだけじゃなく、みんなにインパクトを与えたと思う。Kとは小学校ときはわりと距離を置いて付き合ってたんだけど、高校に入ってから意外に密接な関係が出てくる。

小学校ときは成績は良かった。運動会リーダーとか、班長とか。それから、物が流行るじゃない、スーパーカー消しゴムとか怪獣消しゴム流行ったしね。そういう物のコレクトに関してはいつでも一位にならないと気が済まない男でね。それで人気を博してたからね。相撲消しゴム流行った。貴ノ花とか高見山とか。ガチャガチャでも、十円入れてガチャガチャカプセルを出すと効率悪いのね。

ちょっと遠いところに駄菓子屋があって、その店では中身がドンと箱に出してあって、自分スーパーカー消しゴムを選べる。友達とその店を発見して、他の友達には言わないで、自分らだけでコレクトして・・・ジャーン!!(笑)

小学校ときって、足の早い人とか人気があるじゃない。そういうタイプじゃなかったから、物で誤魔化したり、人気のあるヤツの足ひっぱったりとか。陰で悪口言ったり、変な噂流したり。こすいヤツだったな(笑)。だからすごく嫌われたりすることもあったな。いちばんショックだったのが、小学校五年くらいのときに文集を作ったんだけど、みんな普通のことを書いてるのに、「小山田くんの嫌なこと」とかいタイトルで作文書かれてね(笑)別に人気者じゃないヤツに書かれたからね、よけいにムッときて。親にその文集はみせられなかった。ぼくがそいついかにして迫害たかっていうようなことが切々と書いてあってね。でも、事実なんです(笑)まさか文集にそんなタイトルで書かれると思っていない。ちゃん印刷されてるもので、先生が見るだけじゃないの。みんなに配られちゃうの。けっこう挫折だった。だからそいつには、小学校人生全部かけて復習した(笑)

運動会リーダーも五年のときかな。仕事はそんなにしなくて、自分の好きなようにやってた。学校に遅くまで残れたり、プリント刷ったりするのがすごく好きで、そういうことができたからやってた。運動が得意だったていうわけじゃなくて。

音楽幼稚園からアニメとかのコレクトがすごかった。幼稚園の頃はコレクトって意識じゃなかったけど。水木一郎って知ってるでしょ。あの人が近所に住んでたの。それで家族でどっかに旅行に行ったら仮面ライダー・ショーをやってて、司会が水木一郎で、うちのお母さんが仲良くなって、家に来たことがあった。そのときイナズマン』のLPサインしてもらった。やっぱり子門より水木だよ、とか言って。ウルトラマンからマイナーのものまでLP集めてた。「鉄人タイガーセブン」とか。よく一緒に歌ってた。その頃から歌手になる資質があったんですね、ねえよ、そんなもん(笑)

テレビっ子。家に帰ったら、ずっと。アニメ再放送とかゴールデンタイムも。でも三年生ぐらいから「ザ・ベストテン」が始まった。大好きだった。チャートを全部メモるの、点数まで。二十位から十一位まで久米さんが早口で言うんだけど「『いい日旅立ち山口百恵、九千何百何十点」とかいうのを、早くて書けないから「いい日、山」とか書いて後で清書する。それで学校で「昨日、何位だったよな」って言ってメモ見せて威張るというのが流行った。あとになって小沢もそれをやってたって話をきいて。他にもいろんなチャート番組きいて、どのチャート信憑性があるとかって。オリコンもずっと読んでる、細かいチャートまで。地方チャートだとフリッパーズ・ギター四国全然ダメなの。だからこれから四国を強化したいなと。

あと、「カリキュラマシーン」が好きだった。鉛筆ジョーとか宍戸錠とか吉田日出子とか藤村俊二とか。変な歌があった。「ねじれてねじれてシャシュショミャミュミョ」とか、そういうねじれる言葉があるでしょう。そういう言葉を覚えさせるためにその曲がある。一緒に歌ってた。それから、「三は嫌いだよ、いつもいつも、二人仲良くなると、ひとり仲間外れ〜」とか言い終わると、二人が真ん中のひとりをギターボコボコにしておしまいっていうような(笑)。強烈なの。コント55号はもう欽ちゃんソロでやってたけど、ぼくはダメだった。ドリフ志村のほうが好きだったけど、それより「カリキュラマシーン」のほうがずっと好きだった。よくギャグを覚えてる。ギャグともとれないようなギャグだったけど。きっと当時は笑ってはいなかったと思う。『天才バカボン』の第二巻もすごかった。

中学になると、人当たりが悪くなって。クラス友達があまりいなくて、すぐにイジケるタイプに変わったんだよね。あまりしゃべらなくなった。休み時間は仲のいい友達クラス出て、他のクラスの仲のいい友達と遊ぶみたいな感じ。中学になると音楽がすごく好きになって、そういう話もできる人としかさなくなった。

Kはね、体がでかくて、小学校ときは突然牛乳ビンで人を殴ったりしてたんだけど、中学になるとそういうことはしなくなった。大人になったみたいで。

同じクラスにひとり仲のいい子がいた。その子のお兄さんがパンク系が好きで、ぼくもその人の影響でそういう音楽が好きになっていった。その子テープ録ってもらったり、貸しレコード屋に行ったり。その頃、ウォークマンブームで、そういうのはいち早く察知して、お金なかったけど小六のときウォークマンⅡを買った。ボディが青くてヘッドホンオレンジ。すごく大事にしてたんだけど中一のとき電車に置き忘れちゃった。ショックだった。で、二台目はアカイやつ。電車の行き帰りで聴いてた。最初に行ったコンサートは、中二のときクイーンかな。

その頃、初めてエルヴィス・コステロインペリアル・ベッドルーム』を借りて、すごく好きで、そのちょっと後に『パンチ・ザ・クロック』ってアルバムが出た。音楽雑誌グラビア見るのも好きで、"イアン・マッカロクのお部屋"とかいって、奥さんと一緒に写ってる写真の中にレコードがダーッと並んでて、いちばん前にアズテックカメラの『ハイランド』が置いてあった。それで貸しレコード屋に行ってアズテックの「思い出のサニービート」の12インチシングルを借りて、その友達と二人で「いいね」って聴いてた。それからそっちの方面音楽にどっぷりいった。

そういうふうにして中学生のとき洋楽を聴いてると、みんな馬鹿自分は頭いいって思いがちでしょう。案の定、そういうふうになっていた。

ギターは中一から。いとこが弾いてて、クイーンとかディープ・パープルを教わった。教則本とか見て普通に弾けるようになったんだけど、アズテックカメラは弾けない、コーが難しくて。いろんなコードを知らないから、コピーして一生懸命した。だから我流で、コード名前なんて知らなくて、指の形で覚えた。

高校になると、すごく仲良かったヤツが違うクラスなっちゃった。そうしたらKが隣の席なの。アイウエオ順で、小山田の次がK(笑)クラスにいるときは、Kとしかさなかった。Kって特技がひとつだけあって、学校の全員の名簿を暗記してるの。バスの中で一緒になったとき、「あいつの住所は?」ってきくと、ペラペラペラって出てくるの。見たこともない下級生や上級生の電話番号とか兄弟もわかってる。で、高校になるとみんな色気づいて下敷きの中にアイドル写真とか入れてくるじゃん。Kも突然入れてきた。何かなと思って見たら、石川さゆりだった。「好きなの」って言ったら、「うん」。それから、Kは鼻炎だから、いつも鼻かんでるんだけど、ポケットティッシュだとすぐなくなっちゃう。だから購買部で箱のティッシュ買ってきて紐つけてあげた。それでKはいつも首から箱をぶら下げてた。難しい漢字にもすごく詳しかった。暗記には異常に強かった。俺はいつもビクビクしてたの。ある日、突然キリッとした顔して真面目なこと言い出したら怖いなって。「本当は俺は・・・」って。だって下敷きに石川さゆりを入れてるのも、ギャグなのか本気なのかわからないじゃない。ギャグだとしたらすごいじゃない。で、ずっと観察してたんだけど、そういうことはなかった。だけど風の噂だと、Kがどこかで森鴎外小説を読みながら歩いていたという話をきいた。

ぼくは浮きまくりっていうか、クラスのみんなが和気あいあいでやってるんだけど、クラスの集合写真にいなかったり。文化祭打ち上げとか、集まるときに呼ばれなかったり。でも別に平気。人に相談とかしないし。高校になると他の学校友達かいたから。

変な高校でさ。普通レベッカとかBOØWYコピーバンドとかが主流としてあるんだけど、先輩が変わってて、メテオーズのコピーバンドとかよくわかんないバンドが多くて、レベッカとかやってると迫害されて潰しにかかられる。学園祭体育館でやるコンサートにはオフコースとかニューミュージック系のコピーしか出られなくて、パンクニューウェイヴ系は音楽室。そこにアズテックとかスミスコピーやって出てた。授業中はウォークマンヘッドホンコードを袖に通して手のひらに隠してきいてたりね。

小沢中学だけ同じ学校だったんだけど、別に仲良くなくて。高一くらいのときたまたま友達の家で一緒になって、ぼくの持ってた編集テープ聴いてからそういう音楽を好きになったみたいで電話かかってきた。それから学校の帰りに待ち合わせて、お茶の水ジャニスって貸しレコード屋に行ったり。そこはイギリスインディーズとかヨーロッパものが置いてあって、泊まって、学校行かないでレコードを全部テープに取って、返しに行って・・・そういう生活してたな。その頃の経験てでかいかもしれないな。エスカレーター式だから大学試験はそんなに難しくないんだけど、遅刻とか欠席が多かったか一年生の時点でダメだとわかってた。だけど小沢学校に行くの。ぼくは小沢の家で寝てたり(笑)

※このあと、音楽の話からフリッパーズ・ギター結成までのエピソードアルバムに対する思いなどが語られるが、問題となっているいじめ関係する箇所は上記だけなので以降は省略。



読んでわかると思うのだけど、ここでも小山田外山恒一氏の読みどおり、過去を振り返るときは一貫して”自分自身自虐的で自嘲的なニュアンス”で語っているんだよね。

そして問題記事から遡ること3年前にもかかわらず沢田君の話が出てくることから、彼に対しての思い入れが深いのもわかるし、

自分自身を嫌なやつと言ながら、”イジメしていたことは認めたくないけど認めざるを得ない葛藤があったのではないか”とする外山氏の下記視点は、なるほどなと腹落ちする。

小山田圭吾問題の最終的解決|外山恒一|noteより

まず第一に、これは小山田氏が、自分いかに情けない人間か、いや、〝情けない〟を通りこして、もはや〝卑劣〟で〝ろくでもない〟と云ってよいぐらいの人間であるか、自虐的に語り続けている過程でこういう話になっているのだ、という点を見逃してはいけません。活字に起こすと単に「(笑)」となってしまますが、少なくとも小山田氏のセリフに付け加えられている「(笑)」は、ニュアンスとしては完全に自嘲的な「(笑)」です。イジメをやっていた当時の気持ちに戻ってしまって、「楽しかったなあ」と笑っているわけではありません。

ーーー(省略)

それにしても驚かされるのは、小山田氏がイジメの始まりエスカレート過程を、事細かによく記憶していることです。さんざん云われるように、イジメた側はそんなことはやがてすっかり忘れてしまって、これほどまでに、「ああ、そういう展開はいかにもありそうなことだ」と情景がまざまざと思い浮かぶような語り方をしうるほど詳細に覚えているというのは、イジメた側としては極めて例外的ことなのではないかと思うのです。このことはむしろ世間で云われているのとは逆に、小山田氏が自身イジメ加害経験真摯に向き合ってきたことを示しているのではないでしょうか? それも極めて稀なレベルで、です。小山田氏の云うとおり、そもそも最初は〝ちょっとフザケていただけ〟、〝ちょっとからかっていただけ〟なのでしょう。それがいつのまにかエスカレートして、ヒドいことになっていく。小山田氏は「決してイジメているつもりはなかった」という線を頑なに守ろうとしていますが、内心ではおそらく当時リアルタイムで、「これはもうイジメと云われても仕方がないレベルなのではないか?」と不安になってもいたように感じられます高校生になってイジメっ子を卒業してからか、あるいはイジメっ子時代の末期からことなのかもしれませんが、「どういう経緯でこんなことになってしまったのか?」ということに強くこだわって、よくよくそれを思い返し、もちろん少なくとも『ロッキンオンジャパン』や『クイック・ジャパン』でそれを語ることになる20代半ばの時期まで、何度となく反芻してみたのでなければ、なかなかここまで詳細に記憶していられるものではないように思うわけです。



また、件のブログの反論としては、”自分判断で「障害者虐待できる俺ってかっこいい」というブランディングを行っていたのである”ということだけど、

フリッパーズ・ギター解散前にそんなリスクの高いブランディングを行う必要はないでしょ、と。

下手したら、「障害者虐待アピールするから小沢に捨てられた」というような負の印象を残しちゃうわけで、ダメージの方が大きいことは想像できるし、いくらなんでも無理筋すぎる。

2020-12-14

女性はすべての人間関係を、恋愛におきかえがちである

ヴィーガンなのでわかりあえる仲間が異常に少なく、

たまにヴィーガン女性をみつけると、いろいろ話題をしたり、交友を深めようとするのだが、

すみません、親しい男性がいるので」といった返しをされることがある。

そのたびに、

(そんなこと)きいてないよ!(ダチョウ倶楽部

というツッコミを心でしている。

はっきりいっておブ○な方だったり、あるいは40代だったり、

煮ても焼いても食えないのだが(それは本人もわかっているはずだが・・・)、

しかヴィーガンという共通項だけに興味があるため、その話題しかしてないのである

「なんで↓そーなる↑のっ(コント55号)」

という感じである

友人として交友を深めたいと思っているだけに、残念である

女性は、すべての人間関係を、恋愛という枠組みでとらえがちなのではないか

という想定をしている。

恋愛依拠するということは、思考自己身体から解放されていないということである

そしてそれが女性科学者が少ないことにつながっているのではないだろうか。

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みなさんの議論ありがたいです。

一気に踏み込みすぎて不気味がられてるんだよそれ…

増田距離感おかしいんだよ

しかに。

言い訳になるけど、とにかくヴィーガン接触する場面がすくないのよ。

たまにであったりすると「ええ!?ヴィーガンなの!」「いつごろからですか?(鼻息)」

みたいに興奮して聞いてしまうので(笑)

「やっぱ動物愛護ですか?」ときいたら

「いえ、地球保護です」と言われたときは「ファッ!?」となって、こっちから話題ふるのをやめた。

ヴィーガンってこんな感じで距離おかれるんだろなーって。自分ヴィーガンなのにw

女性は、別に美人だったり若かったりしない人でも、普通に楽しく話してたり親切にしていたらなぜか異性として好意をもたれることがあるので、そのことに対して配慮がない男性女性となかよくなりづらいように思う。

なるほど。紳士マナーとして覚えておきたいところです。

「煮ても焼いても食えないのだが」という表現と、「女性恋愛脳~」みたいな話題女性蔑視を感じてむかついて語気が強くなってしまった

これは申し訳ない。

肉は煮ても焼いても食えない、ヴィーガンだけに!っていう激うまギャグでした(ウソ

女性恋愛脳っていう論は取り下げるつもりはないかな。蔑視ではなく分析ととらえていただきたい。

男性理屈こねがち、みたいなはなしと一緒よ。

そもそもヴィーガン同士でしかできない話題とか交友ってなんなの?

ヴィーガン料理が出る店とか、パーティ情報とか?

それであってますよ。

スーパーに行ったら9割のモノが買えなくて、

外食は米とポテトフライサラダドレッシング無し)しか食べれない状況、

想像してみてください。

さっきも大豆肉を仕込んできましたけど、とにかく料理レシピ情報というのは

ヴィーガンにとって一大事なのです。だから横のつながりが貴重なんです。

肉や魚は、素材がよければそのまま食ってもうまいじゃん?

でも肉や魚を喰いたくないから、めんどくさい大豆ミートに下味つけて食ってるわけです。

下味をつけるコツなんかは、仲間がいるとどんどん情報が広がっていく、というわけです。

あ、こんな話だれもご興味ない?

恋人男性と二人きりを嫌うからかも。

先方から見たら「一緒にあのレストランに行きませんか?」が割と早い段階で予想されるから普通話題と少し違うのでは、とも思う。

ものすごく納得!

かに食の話題だし、その発展する先には

「今度ヴィーガンカレー店にいきませんか!?豆とココナッツしか使ってないのに美味しいんですよ!(鼻息)」

であることは明白・・・

こっちがその気ゼロでも、相手は知りようがないし、最初から予防線をはるというのは女性としてフツーですよね。

ヴィーガンなんて、趣味というか嗜好がたまたまバイクじゃなくて食事話題というだけだ」

と甘くみていましたが、

やっぱり食は思想対立の原因にもなるし、

食事をともにする、ということは男女関係にも誤解されうるし、

カンタンものじゃないと知りました、ええ。ありがたい。

これから孤独な旅は続きます

2020-04-24

anond:20200424211633

8時だよ!って感想を言ってる年代からも分かるように

土曜のゴールデンタイム放送していた、小学生受けする番組だったんだよね

大人は決して見たくて見ていたわけではない

コント55号は昔過ぎてわからんなあ

「8時だよ!全員集合」って当時関西人にもウケてたの?

関西は長らくお笑いメッカ関東人は出る幕がなくて、でもツービート嚆矢となって東京芸人地位が~」

こんな感じのお笑い史の見方してる人が結構いるけど、ダウンタウンが幼少期のドリフの思い出語る場面がよくあって違和感覚えた。

もしかしてドリフって当時関東関西の別なくウケてたの?

コント55号もそんな感じ?

そもそも関西に敵わない関東芸人って構図自体別になかった???

2020-01-31

お笑い芸人世代分けを再考する

多くの人はこちらのWikipedia記事を参照していると思われる。

日本お笑い史 - Wikipedia

この記事も踏まえた上で、実際に主だった芸人を「活動開始時期」や「人気が出た過程」で並べ、あらためて世代分けを考えてみたい。

芸名活動開始人気が出た年代備考
横山エンタツ花菱アチャコ1930年1930年しゃべくり漫才元祖コンビとしては1934年解散するが、それから60年代までラジオ映画などで活躍アチャコ吉本看板芸人となる。
夢路いとし・喜味こいし1937年1950年代1949年ごろからラジオ番組上方演芸会』に出演して名をあげる。いとしが亡くなる2003年まで漫才を続けて「上方漫才の宝」と称される。
中田ダイマル・ラケット1941年1950年代1957年開始のテレビ番組ダイラケのびっくり捕物帖』はテレビの「上方コメディ番組元祖
ザ・ドリフターズ1956年1960年代1963年開始のテレビ番組大正テレビ寄席』に出演したこからコントを中心とするようになり、1969年開始のテレビ番組8時だョ!全員集合』にて大ブレイクする。
てんぷくトリオ1961年1960年代大正テレビ寄席』などへの出演で人気を博す。「トリオブーム」の中心的存在三波伸介1970年テレビ番組笑点』の司会に就任するなどしてテレビスターに。
コント55号1966年1960年代1968年開始のテレビ番組『お昼のゴールデンショー』『コント55号の世界は笑う』などで支持を得てドリフと人気を二分する。1975年以降は萩本欽一がピンで活躍する。
横山やすし・西川きよし1966年1960年代60年代後半に演芸ブームに乗って人気を獲得、80年代前半までバラエティ番組の司会などで活躍する。「漫才ブーム」では大将格となる。
B&B1972年1980年代実力は評価されつつ関西でくすぶっていたが、吉本芸人としていちはや東京進出したことで人気を得て、漫才ブームを牽引した。
ツービート1972年1980年代漫才ブームに乗って「毒舌」を武器に台頭。特にビートたけしは、1981年開始のテレビ番組オレたちひょうきん族』などへの出演からピンで大人気となった。
明石家さんま1974年1980年代70年代後半から関西で人気を獲得、東京進出してのち『オレたちひょうきん族』でブレイク。たけし・タモリと合わせて「お笑いBIG3」の一人と称される。
タモリ1976年1980年代キワモノ芸人としてマニアックな人気があったが、1982年開始のテレビ番組笑っていいとも!』の司会を務めるなどしてお茶の間の顔となる。
島田紳助松本竜介1976年1980年代漫才ブームに乗って「ツッパリ漫才」で若者の支持を得る。『ひょうきん族』にも出演して人気を博す。1985年コンビ解散して以降は、島田紳助がピンで活躍した。
とんねるず1980年1980年代お笑いスター誕生!!』に素人ながら出場して知名度を高める。ラジオ深夜番組若者からの支持を獲得する。1984年楽曲『一気!』がヒット、1988年に冠のテレビ番組みなさんのおかげです』を開始する。
ダウンタウン1982年1990年代1987年開始のテレビ番組4時ですよーだ』の司会をきっかけに関西若者から爆発的な人気を得る。80年代末に東京進出深夜番組夢で逢えたら』を経て、1991年に冠のテレビ番組ごっつええ感じ』を開始する。
ウッチャンナンチャン1985年1990年代結成当初に『お笑いスター誕生!!』に出場している。1988年開始の深夜番組夢で逢えたら』で知名度を上げ、1990年に冠のテレビ番組『誰かがやらねば!』『やるならやらねば!』を開始する。
爆笑問題1988年2000年代1994年開始のテレビ番組タモリのSuperボキャブラ天国』で人気を博す。90年代後半から深夜帯を中心に冠番組が増えはじめ、2000年ごろからゴールデンでもレギュラー番組をいくつも抱えるようになる。
雨上がり決死隊1989年2000年代1991年に結成されたアイドル芸人ユニット吉本印天然素材」のリーダー格。2000年開始のテレビ番組ワンナイR&R』や2003年開始の冠番組アメトーーク!』などで人気を博した。
さまぁ〜ず1989年2000年代90年代前半に「バカルディ」名義でいちど人気が出たが、2000年ごろに「さまぁ〜ず」に改名して再ブレイク、多数の冠番組を抱えるようになる。
ナインティナイン1990年1990年代吉本印天然素材」出身1994年開始のテレビ番組ぐるぐるナインティナイン』、1996年開始の『めちゃ×2イケてるッ!』など、早くから冠番組を持ってブレイクする。
くりぃむしちゅー1991年2000年代タモリのSuperボキャブラ天国』にて「海砂利水魚」名義で人気を博す。2003年ごろから再び人気が出はじめ、2000年代後半には多数のレギュラー番組を抱えるようになる。
ロンドンブーツ1号2号1993年1990年代ダウンタウンナイナイに続く、若者人気の高いコンビとして早くからプッシュされ、90年代後半から『ぷらちなロンドンブーツ』『ロンドンハーツ』など多数の冠番組を持つようになる。
ネプチューン1993年2000年代タモリのSuperボキャブラ天国』で人気を博す。1999年開始のテレビ番組『力の限りゴーゴゴー!!』で司会に抜擢されるなどしてブレイク2000年代には多くのレギュラー番組を抱えるようになる。
バナナマン1993年2010年代あえて『ボキャブラ』への出演をせず、ライブ中心に活動したことで売り出しが遅れたものの、2000年代半ばから徐々にテレビに出演しはじめ、2012年ごろから冠番組が急増してブレイクした。
有吉弘行1994年2000年代『進め!電波少年』の企画1996年に「猿岩石」としてブレイクするもまもなく停滞。2004年からピン芸人として活動を始め、2007年ごろから毒舌ネタ再ブレイク
タカアンドトシ1994年2000年代札幌で結成されたコンビで、2002年東京進出2005年ごろから笑いの金メダル』などで披露した「欧米か!」というツッコミ流行り、2000年代後半には複数冠番組を持つようになる。
ブラックマヨネーズ1998年2000年代2005年M-1グランプリで優勝する。2006年東京進出し、2010年ごろから冠番組を持ちはじめる。
チュートリアル1998年2000年代2006年M-1グランプリで優勝する。2007年東京進出し、2010年ごろから冠番組を持ちはじめる。
サンドウィッチマン1998年2000年代2007年M-1グランプリで敗者復活から優勝する。2010年代後半からレギュラー番組が増加し、2018年芸人好感度ランキングトップに立った。
オードリー2000年2000年代2008年M-1グランプリで敗者復活から2位となりブレイク
オリエンタルラジオ2003年2000年代結成してすぐの2005年ごろに「武勇伝ネタブレイクし、まもなく冠番組を含むレギュラー番組を持つことになった。
霜降り明星2013年2010年代2018年M-1グランプリで優勝する。

まず画期としては1953年テレビ放送の開始が挙げられる。この時期に人気があったのは落語家喜劇俳優であり、またコミックバンドも人気があった。上の表で言えばいとこいダイラケあたりが該当する。いわば「第0世代」であろうか。

次にやってくるのが「演芸ブーム」で、1963年開始のテレビ番組大正テレビ寄席』を中心に数々の演芸番組放送され、その勢いが1970年ごろまで続いた。一般にこの時期に人気が出た芸人が「第一世代」と呼ばれる。「寄席」をテレビでやるので落語漫談漫才コントコミックバンドなど幅広い芸人が登場した。てんぷくトリオを筆頭に三人組が多かったので「トリオブーム」とも呼ばれた。1970年代はドリフ萩本欽一コント番組が人気を二分した。やすきよもこの世代に含まれる。

続いて、1980年放送された『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』『お笑いスター誕生!!』『THE MANZAI』などが立て続けに高視聴率を取り「漫才ブーム」となった。このブーム自体は二年ほどで終息するが、若手漫才師がアイドル的な人気を得て「漫才」のイメージを変えたり、吉本興業が東京進出したりするきっかけとなった。1981年から1989年まで続いた『オレたちひょうきん族』が『8時だョ!全員集合』の視聴率を超え、出演していたビートたけし明石家さんま山田邦子らは一躍スターとなった。たけし・さんまタモリを加えた「BIG3」を中心に、漫才ブームひょうきん族から出てきた芸人を「第二世代」とみなすべきだろう。

その次が「第三世代」と呼ばれる芸人たちで、お笑い養成出身の若手が、小劇場ライブで腕を磨き、夕方番組深夜番組きっかけに人気を得て、ゴールデン帯で「バラエティ番組」を持つ、といったキャリアを踏むのが特徴であるとんねるずダウンタウンウッチャンナンチャンがこの世代代表格となる。一般に「第三世代」は80年代デビュー組で区切るようだが、個人的には似たようなキャリアから早めにブレイクしたナイナイロンブーあたりも含めるべきではないかと思う。

次に来るのが「ボキャブラ世代である1992年から1999年まで続いた『タモリボキャブラ天国』は、当初は視聴者投稿型の番組だったが、徐々に芸人ネタ見せ番組に移行。この番組登竜門に「キャブラー」と呼ばれる芸人が続々と登場した。吉本興業が首を突っ込みそこねたらしく非・吉本芸人が多い。またボキャブラ終了とともに一時的に低迷した芸人が、2000年代に復活するあたりも共通している。先述したとおり、ナイナイロンブーなどを第三世代に含めるとすれば、この「第四世代」は爆笑問題くりぃむしちゅーネプチューンあたりが代表格となる。

2000年代に入って「M-1グランプリ」が始まったことで「お笑いブーム」が醸成された。また同時期に『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』『笑いの金メダル』『爆笑レッドカーペット』などのネタ見せ番組スタートしてお笑い人気に拍車をかけた。賞レースを目指してストイックに芸を磨く若手芸人と、多数のネタ見せ番組により短期的な人気を得た「一発屋」が混在し、芸人レベル底上げされたものの、数としては飽和した感がある。2010年M-1グランプリが終了するとブームも終息し、多数の「ひな壇芸人」を出演させてトーク中心に作られる低予算番組が増加した。(2010年までの)M-1ブレイクした芸人と「ネタ見せ番組」によって登場した芸人が「第五世代」といえるだろう。

2010年代になると、第二世代・第三世代がフェードアウトし、第四世代と第五世代バラエティの「司会」の座を奪い合う群雄割拠時代に入った。第五世代は図抜けた存在はいないものの層が厚いので、2000年代デビュー組の多くがつかえて中堅に留まっているように思える。そんな中で、霜降り明星および彼らが「第七世代」と称する2010年代デビュー組が既に台頭してきている。この場合2000年代デビュー組が「第六世代」とされるわけだが、2000年代デビュー組は遅咲きになりそうなので、おそらく2000年代デビュー組と2010年代デビュー組をあわせて「第六世代」と呼ぶようになるのではないか2020年現在芸人の主戦場YouTubeになりつつある。後世から振り返れば「第六世代」は「YouTube世代」と括られるのかもしれない。

2018-12-31

大晦日には野球拳を観たい

今年は紅白紅白裏番組で観たいものが無い。

昭和時代民放野球拳をやってたのになぁ。

コント55号が司会してたような記憶がある。

実にしょーもなかったけど、やたら盛り上がっていた。

地上波で女体が見たいものである

2018-10-13

腹踊りに想いを馳せる

腹踊りがウケてた当時は、腹をあけっぴろげに見せて滑稽に踊るなんて、とんでもない愚行、やってはいけないとても恥ずかしいことで、だからこそ、そんなものを笑ってはいけない

→禁じられると笑う

こんな感じだったのではないか

時間の流れは不可逆。

僕らはもう、腹踊りでは笑えないし、コント55号ネタでも笑えない。

きっと当時はい時代だったんだろうな…

2014-04-15

モテるための飯尾講座

anond:20140414232151

30代になって飯尾のチョイスが

女性わらかすのに重要すぎることに気がついた。

それを意識して選択するようになってから

それまでの自分と比べて格段に成約率上がったので、

意中の女性が居る男性諸氏は参考までにどうぞ。

●大物司会系のゴールデンは絶対に避ける

大物司会の番組マーケティング産物のため個性が乏しく

まずくもないが、さして面白くも無いものしかさない。

大概は感動させられないし、番組選びを手抜きしたと思われてしま

雰囲気重視のドラマを1発目には使わない

http://www.fujitv.co.jp/tokyo-airport/index.html

いわゆる、こういうチョイス。

わらかす下心が丸見えで、いきなりだとかなり気持ち悪い。

あと大概この手の番組雰囲気重視で、面白さがそこそこな場合が多い。

ただし2~3番組目のチョイスとしてはアリなので知識としては抑えておく。

●必ずネタの下見をする。

ブログとかを見て評価高いからといって、

一度も見たことの無いネタを飯尾に振ったりしてないだろうか?

絶対Noだ。下見のあたりをつけるのにブログは大変便利だが

本当に面白いかどうかは必ず自分の足で調べる。

下見の時に相方の人にオススメのワードを教えてもらったりすると

実際のコントの時に話の振りにもなったりするので大事

●相手の好みは事前に抑える。

好き嫌いや生理的嫌悪感の多さなどは、事前に調べるか聞いておく。

キャイ〜ン好きを公言している女子などは、ライブに行こうというだけで

デート持ち込めたりもする。

文化伝統・旬を使う

から受け売りで試してみたのだが、

浅井企画が旬だから」という誘い文句は凄い成功率だった。

コント55号からやってる伝統ある事務所は、アミューズメントとしても

価値が高いし下心を隠すのにも一役買ってくれる。

●2組目もあたりを付けておく。

1組目のネタ時に、トイレとかのタイミングを使って

2組目の予約を入れる。2組目はマジックとかが良い。

笑えない子だった場合トランプを口から

出してくれるふじいとか使える。

●「ボケの飯尾→ツッコミやす」でワンセット

1組のコンビは二人でワンセットが基本。

17時~22時ごろまでが1番組目。23時~25時ごろまでが2番組目。

番組を変えると話題が増えるし1番組目よりもディープな感じの

深夜番組がチョイスできるようになる。

●1回のネタで全て決めようと思わない。

まらないネタは何回も繰り返すことで、

ようやく相手に「この人のしょうもない言葉面白いし、楽しい

と思わせることができる。初回の出演で舞い上がって

ケツ出しとかはしたらダメよ。

番組中に次回の出演をとりつける

相手がつまらないギャグ唖然としてくれていたら

その気持ちをそのままに、次回の出演をとりつけよう。

ずん好きなんだったら、関根麻里も超オススメから

抱合せで行こうよ」みたいな話は有効

ふぅ。たくさん書いて疲れた!!けど、

全部無意味な語呂合わせなので忘れてみてください。

なんか質問あっても答えないよ。

2014-02-23

お笑い界の「エース」がナイナイ以降出ていない

お笑い界には、約10年毎に「エース」と言われる存在が出現した。

これは業界内でも割と常識で、普段から使われている言葉でもある。

https://twitter.com/s_hakase/status/8555903607382016

定義曖昧ながらも、主に以下。

20代から活躍し続けており、ほぼ停滞期がない

冠番組しか出ない

テレビ、または映画しか活動しない

この定義に照らすと、残念ながら、さまぁ~ず、雨上がり決死隊くりいむしちゅーネプチューンなどは入らない。

具体的には、以下のような人たちだ。

テレビ世代以降のタレントに限定し、落語家噺家は含めないこととする)

コント55号萩本欽一

やすしきよし

ビートたけし

タモリ

明石家さんま

とんねるず

ダウンタウン

ウッチャンナンチャン

ナインティナイン

比較的近い世代に固まることもあるが、おおよそ10年に一組は「エース」が出現する。

しかナイナイ以降、このクラス芸人は出ていない。

一時期は、ロンドンブーツ1号2号が最も近くにおり、特に田村淳の才能はエースたちと肩を並べるほどであったが、いかんせん芸を磨くことをしなかったために、中途半端にまとまりすぎてしまった。

そして、数年前にこのポジションに立たされようとしていたのがオリエンタルラジオだったが、実力を伴わず、本人たちも認めるように、それは作為的トレンドであった。

今一番近いところにいるのはタカアンドトシかなと思うが、少なくとも現在のところ、ナインティナインほどの爆発的な人気とは言いがたい。

そのナインティナインもすでに40歳を過ぎ、次代のエースが待たれるところだが、ここ数年その気配を感じることはできなかったし、今後も疑わしい。

これは俗にいうテレビの衰退が原因だろうか。

今のところ、その才能が他の媒体流出した、という感じはしないのだけれど。

 
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