はてなキーワード: ヨガとは
http://anond.hatelabo.jp/20130601235722
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上の20年来のつらさが消えたというのを私も4年くらい前に読んで試したけどだめだった。
私の場合は別のところに原因があり、それを治したら18年来のつらさが消えた。
結論からいうと、上咽頭炎というらしかった。広い意味では風邪かもしれない。
喉の上のところが慢性的に腫れているため、そこから全身倦怠感などの症状を作り出すらしい。
1回に3日〜7日くらい寝込む。学校も会社も休みがちで本当に悲惨だった。
手洗い、うがい、バランスの良い食事、ストレスをためない、徹夜しない、睡眠をしっかり取る、ビタミンC、にんにく、ねぎ、生姜、生姜紅茶、クエン酸ドリンク、キョーレオピン、はちみつ、養命酒、漢方専門医の処方した漢方、整体、足湯、半身浴、はり、灸、太極拳、気功、マクロビ、耳鼻科、内科、甲状腺の検査、大学病院での総合的な検査、その他色んな病院の医者に相談、扁桃腺除去の検討(扁桃腺は全然腫れてなかった)、精神科(投薬もした)、カウンセリング、ロイヤルゼリー、プロポリス、寒風摩擦、有酸素運動、マラソン、アーユルヴェーダ(本場にも行った。2カ国で治療を受けた)、部屋の掃除、アレルギー治療、逆に気にしすぎも良くないのでこれらを何もしない、自律神経強化体操、深呼吸、腹式呼吸、ヨガ、田舎に行ってきれいな空気を吸う、気合いを入れて絶対に風邪引かないと思い込む、ごはんとおかずを沢山食べる、納豆を食べる、元気な友達と遊ぶ、様々なお茶でうがい、人ごみにいかない、電車ではマスク、
このように数知れずの風邪対策を順番に、1項目を最低半年〜18年実施した。
会社では気合いが足りないとか虚弱体質とか、すぐに寝込むから信頼できないとか、病院でちゃんと見てもらえとか、休職するならいつまでに完治するのか明言せよとか言われて、迷惑をかけ続けるのが本当につらくて何度も退職と転職を繰り返した。朝起きて体が猛烈にだるくて起き上がれなくて、会社に休む電話をするときのつらさといったら。人生のほとんどをこうして過ごして、性格も歪んでる。無表情、無感動。まあそんな性格は隠せるからいいけど。親もそんな体質があるなんて理解できないようだった。何もしてくれなかった。体調を崩してもいいように、自宅での請負仕事に転向もした。でも解決にはならず。毎日毎日風邪を引かないことばかり考えていた。
「風邪」で寝込んでる、そのせいで会社をやめたなんて言っても誰も同情も理解もしない。障害者認定もされない。
18年の苦しみは何だったんだろう。
医者にも行きまくったし、google先生にも聞きまくったのに何故病名が見つからなかったんだ?
医者では「風邪です。抗生剤出します。ゆっくり休んで下さい。週に1回風邪をひく?体力をつけるようにしてください。検査の結果は全て異常なしです」としか言われたことはなかった。
>もう少し若い時に同じことができたら、高給取りのコンサルになれたのにな
本当にそう。大学の同窓生は働き盛りでみんな生き生きと仕事をしている。私より出来がいいとも言えない人でもみんな私の何倍もお給料がある。わたしもそうなっているはずだった。
頭も別に悪くなくて、向上心もあって、努力も工夫もしても、体調が不安定というだけで社会人としては壊滅的。単に悔しいというのもあるけど、医療費と働けない分の収入のロスで経済的にもダメージがひどい。
教育論の基本は分からなくなった所から繰り返す。これ。今の教育はその基本から大きく逸脱している。ゆとり教育しかり。
ゆとり教育の盲目的な叩きは見るに堪えなかったが。問題はどこから分からなくなったかをきちんと認識しているのかということ。
教育の現場では進度や達成度を定期テストの点数ではかってしまう。テストもいいがそれだけじゃダメだダメだ。
テストで赤点さえ取らなければOKというのは正直甘すぎる。たとえば40点以下は再試験などとたわけごとを言う。正直ダメよこれ。
せめて9割は取れないと。たまたま部活が忙しくてテストできなかったとかテスト当日絶不調だったとかで赤点なのは分かるけど、大半の赤点とる奴は常連なのよ。
そいつらは小学校からの積み上げができてない。小学校から9割主義でいかないとダメ。8割程度の生ぬるい理解でよしとするから次行ったときに躓くし、勉強の楽しさも分からない。
楽しくない勉強をいやいややる人間のできあがり。ちゃんと全員が9割レベルで理解してないとダメ。センター試験も9割とれる奴は東大やそれに近いレベルとされるがそんなんじゃダメなのよ。
9割は当たり前にしないと。もしそれがキツいのであれば課程そのものがキツかったってこと。のぼるべき階段のステップをきちんとこしらえないから9割を当たり前にできないんであって。
もっともいい先生ってほんとに少ないから難しい面もある。じゃあ教育よりも「教育の教育」のほうが本質的な問題とも言ってよい。
ヨガ教室やってる友人も後継をいかに育てるかって話をしてる。最初は自分が先生やってたけど今は先生を教える立場。さらにゆくゆくは名誉顧問になって不労所得。
毒親の影響と遺伝的な素質などが原因で10代後半から数年暗黒時代を過ごした現在20代前半女性です。
最近立ち直ってきて、身体におもしろい変化がいくつか起きているので書いてみます。
・ほうれい線が消えた
・目が上向きになった(目の上のアーチが丸くなり、目の下がふっくらしてきた)
・ほっぺの位置が上がった
・骨盤のゆがみが小さくなった
・体がやわらかくなった
・呼吸が深くなった
・肩こり、首の痛みがなくなった
・食べ物の消化が早くなった
・便秘がなくなった
・お風呂ですぐに汗をかけるようになった
・乾燥性の湿疹ができにくくなった
・全身のむくみが取れた
・疲れにくくなった
一番嬉しかったのは、体がやわらかくなったこと!
以前は呼吸が浅く、全身がっちがちで、体の動かし方に滑らかさがなくぎこちない感じでした。
今はストレッチやヨガをすると簡単にポーズが決まるし、さらに柔らかくすることも簡単です。
心と体って本当にリンクしてるんですね。
ざく さんのコメント...
うーん。いい名前。
しかし、統一協会信者と思われるコメントが多くあるみたいだから、エイトさんの地道な活動(取材だけではなく、偽装勧誘に引っかかりそうな人に声をかけるなどの活動)は、
効果があるようですね。
エイトさん お体に気をつけて、頑張ってください。
あ、今日、街頭で冊子を貰ったら、宗教関係だった。天華の救済とかいうの。本部が横浜、西日本本部が滋賀県になっていたな。ちょっと調べてみよっと・
ざく さんのコメント...
ありがとうございます。私もネットで調べてみました。冊子は非売品と書いてありましたが、信者の人が配布用に購入させられたのかな。
それと、ダン・ヨガ。職場の近くの ベイリズムとかいうダンス教室で暖(ダン)・ヨガのポスターがたくさん貼ってあったな。
初回 525円。
お年寄り、子供、若い女性、若い男性も出入りしていたな。ダンスのレッスンしか通るときは見かけないけど、先々、ダンヨガの方に嵌って、金搾り取られなきゃいいんだが。
横だけど、「社会人として期待されること」だと思う。
ゴルフ、釣り、フラワーアレンジメント、ジムやヨガ、芸術鑑賞、語学、旅行、など。
読書はまあ、ありかな。活字を読むというのはなんだかんだで評価されてる。
少なくとも、ゲームなんかでアキバヨドバシにすれ違い通信に行ったり、あるいはアニメのエロ同人欲しさに毎回コミケなんかに入り浸るのは「社会人として違う」と思われてもしかたがないと思う。もちろん、俺はそれを承知でやってるから表向きには告白しない。
121 ソーゾー君 [] 2013/02/10(日) 19:37:52 ID:wAi3Rflg Be:
統一協会を避けてるのはお前だろ?
日本のヤクザとかロシアンマフィアとかあからさまに統一協会じゃねーか・・
しかしお前等は見事に両建てサバタイの情報を引っ張ってくるな・・
大きく別けて三つ。
2、立法府が関与できない特別会計=天下りの滅茶苦茶な仕組み。
石井コウキの嫁はロシア人で石井コウキ自身ロシアで暮らしていた事がある。
3は非常に都合が悪い。
「ロシアにあった統一協会施設とそこに暮らしていた信者がいつの間にか
オウム真理教の施設になり統一協会の信者がオウム真理教の信者に変わっていた。」
↑これを暴露しようとした。これはんでもなくヤバイネタだわな?
オウム真理教=統一協会=創価であることを国会で暴露しようもしたんだからな。
今じゃ当たり前のことだが単なるヨガ団体だったオウムを支援したのは統一と創価だろ?
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1357424442/l50
134 :ソーゾー君:2013/02/14(木) 17:27:16 ID:wg0mln3o
しかしお前等は見事に両建てサバタイの情報を引っ張ってくるな・・
大きく別けて三つ。
2、立法府が関与できない特別会計=天下りの滅茶苦茶な仕組み。
石井コウキの嫁はロシア人で石井コウキ自身ロシアで暮らしていた事がある。
3は非常に都合が悪い。
「ロシアにあった統一協会施設とそこに暮らしていた信者がいつの間にか
オウム真理教の施設になり統一協会の信者がオウム真理教の信者に変わっていた。」
↑これを暴露しようとした。これはんでもなくヤバイネタだわな?
オウム真理教=統一協会=創価であることを国会で暴露しようもしたんだからな。
今じゃ当たり前のことだが単なるヨガ団体だったオウムを支援したのは統一と創価だろ?
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1357424442/l50
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1353851390/l50
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naver、cookpad、まとめ、レシピ、ランキング、コンビニ店長
脚とか膝とか腰とか肩とか、どこかしら疲れてたり痛んでてどうにかしたい、しよう、と思うことはあると思う。
あるいは、O脚やX脚の矯正とか、小顔とか、増田読んでる人でこういうことに興味ある人がどれほどいるかわからないけど、そう思うこともあるとおもう。
そういう時、どこに行くだろうか。それが整体だったら、ほかの選択肢も検討した上で、後悔のないように、と言いたくて、これを書くことにした。
腰が変だと言ってた友人がいる。
激痛ではないけど、趣味のアーチェリーも休まないといけない程には痛むと言ってたのに、通いだしたのは医者ではなく整体だった。
そこで「かなりひどいので、毎日来てください」と言われ、腰痛治療のためといって、律儀に毎日通っている。すごいよね。たまげたよ。
どっかの家電量販店が、iPhoneのTwitter設定サービスに数千円の代金を設定したってニュースを見たときと同じくらい、いやそれ以上に、びっくりした。
整体院がこんなに乱立してるのは、これほど簡単に、何も知らない人からお金を吸い上げられるからなんだな、と。
自分は、親戚が整形外科医なことと、医学部に編入したこと、O脚矯正であらゆる療法を数年ジプシーしてきた経験から、医療の提供側としても、利用側としても、ごく一般レベルよりは整体や整形外科の周辺について多少は知っているといえると思う。
その立場からいえば、この友人がまず行くべきだったのは医者だった。腰痛が重大な病からのものでないか、まず確かめるべきだった。
整体師が重大な病気を発見したところで、結局医者に行ってくださいといわれるだけだろうし、本来整体はそういう役割をになっていない。
整体はトレーニングだから。ジムの筋トレにも、大人のバレエ教室にも保険がきかないのと同じ。
なので、保険は本当は骨折や捻挫治療にしかきかない。それ以外で適用された経験があるなら、保険の不正請求が行われてたことになる。
今朝もこんなニュースがあった。柔道整復師の「療養費」 適正化を検討へ
激痛でないし、たいしたことないから必要ないと思うかもしれない。
けど、それは安全日だから避妊は要らないみたいな考えで、わざわざリスキーになってどうするよ、って話だし、根本治療をせず症状が重くなって結局整形外科にかかるとなると、時間もお金も無駄になってしまう。
整体師にできて医師にできないことはないから、まずは医師にかかって、症状や治療について根掘り葉掘り聞いてほしい。これが大事。
たとえば自分は、バレエを習いたてのころ、柔軟が不十分で軽い筋肉の炎症を起こして、大層にも筋弛緩剤と痛み止めを2週間分も出そうとした医師にかかったことがある。
医者が苦手で整体に行きたい人はこういうことが嫌ってのもあると思う。
でもこれは、病気に対して基本的に非力と想定された患者が、最低限の努力で症状を克服できるような場合を想定しているから。
体を動かせなかったり、休む間もなく睡眠時間も少ない人でもなんとか治るようになっているので、整体で治そうと思える時間的、心の余裕が確保できるなら、それを伝えてほしい。
自分の場合、学生だから柔軟を毎日数時間やるのも苦でないし、余裕もあることを伝えたら、薬はもしもの保険用の痛み止めだけになり、患部に効くストレッチのやり方を教わることになった。
とりあえず医師にかかった。重大な病ではなかった。「整体に通う?まあいいんじゃない」と医師も言ってる。さて通おう……!!
整体やカイロの営業を妨害したいわけではないんだけど、整体はあくまでトレーニングを補佐するところで、「手間の省略をお金で買う」ものだと思ってほしい。
整体やカイロがめざすのは、「柔軟」と「筋肉のトレーニング」。ジムのインストラクターみたいなもの。
整体師はその道について詳しいので、柔軟と筋トレでどうこうしたいというなら、検討するのは大いにありだと思う。
ただ、柔軟や筋トレをやったことがある人はわかると思うけど、試行錯誤と勉強でかなりの所まで独学で伸びることができる。幸いにも日本はそういう情報にアクセスできる環境が整っている。
そして何より、柔軟と筋トレを指導するのは整体だけではない。バレエ、ヨガ、体操なんかは整体と同じかそれ以上に柔軟と筋トレ重視だし、トレーニングジム、ボクシング、空手とか、たぶんスポーツの分だけ、柔軟と筋トレの方法があると思う。
体をよりよく動かすには柔軟性と筋力が必要だから、どこかしこも発展にともなって柔軟と筋トレのメソッドが確立されていったんだと思う。
整体もなんか医学の片隅っぽい雰囲気をかもしだしてるけど、もともと柔道にルーツがあるみたいだし。
続けることで意味が出てくるものだから、最もお金と時間を無駄にせず、続けられそうで自分にとって効果がありそうなものを選んでやってほしい。
整体は町の学習塾のようなもの。やる気があればすばらしい参考書があるから独学も可能だし、机に向かうのも億劫だから塾に通わないと無理、って子供もいる。
ただ、「英単語を覚える」みたいな独学可能な事を、それも最終的に独学でやらならないといけないようなものを、必要以上に不安にさせたり煽ったりして、選択肢も期限もを提示せず、ただ「毎日来てください」なんていうような塾はやめておいたほうがいいよね。
友人がかかったような一部の整体は、専門性のせいで何が起こってるかわかりにくい状態を利用して、あえて不透明にしたまま、金づるにしようともくろんでいるようだから気をつけてほしい。
情報弱者を相手にした商売は何も悪徳整体だけじゃあないだろうけど、医療関係者のはしくれっぽく見える人が「からだの状態がひどい」といって、説明もなしに「通え」はあまりにもひどいと思ったので、つい書いてしまった。ただこれは医師の説明不足の文化の問題もある。
けど、健康のために壺でもハンコでもあやしいキノコも買ってしまうのが人間だし、ましてやあたかも医療従事者のような人間がそこに悪意を持って接するのは、ああ怒りが収まらない。
たいていの整体屋さんはまっとうに営業してると思う。自分もO脚矯正でそれなりにお世話になった。
最後に、整体は治療への応用ももちろんできるけど、基本的にトレーニングするところだと思ってほしい。
うまく使えば柔軟性と筋力で体は軽く、動かしやすくなり、整形外科系の持病があるならいくらか軽減するだろうから、後悔したり搾取されたりしないよう気をつけて、利用してほしい。
あまり距離がなかったりすると
他のお客さんに気を使ってしまったり
話しやすい席の確保
できれば横並びの座り方だと親密感が増す。
2.お互いに緊張しているので、
初めは大げさにわらってみるとか
共通の趣味となるような話題をさがしつつ
共通の話題があったなら、そこを掘り下げて
いくことができる。
深呼吸をする・表情がかたくならないように
リラックスすること。
4.あらかじめデート
出来ていると心に余裕ができて柔軟に対処できる
ので、あまり行き当たりばったり
対処することが少なくするようにする。
6.話している相手のプロフィール関連の
ことは漏れがないように相手をいったん受け入れる
相手の会話に集中して、同じことを聞き直したり
しないようにする
この程度にしか思われていないと
その時点で気持ちが離れてしまう。
8.嘘でもいいので(心の中では全く違う意見・
考えでも)はじめは相手の話に合わせる
とにかく、はじめは否定をしない。
特に相槌 うなずきを会話に嫌味にならない
感じ適度な間隔で入れる。
9.コミュニケーションの原点は相手を知ること
相手を知ろうと努力していれば、
自然と糸口が見つかるはず。
逆に相手を知ろうとする気持ちが相手に伝わり
良好な関係が組み立てていける。
聞くことは良好な人間関係を築く上で出発点
10.会社でもそうですが、
当たり前ですが意外と相手の名前で呼べていないことが
多いので、気をつけたいです。
その他.
文化 ゴルフ オペラ ワインなど自分の得意なジャンルを持つ。
ただ、人に押し付けない。
当たって砕けろという気持ちで
表情が硬くなったりするので、いい意味で開き直る。
私の骨には歪んだ箇所がある。
小柄で華奢な母が無理に普通分娩したせいで、母は十数時間の難産に苦しみ悶え、私は骨が歪む結果になった。
服を着ていればわからない。裸になって体の右半分と左半分を見比べると、おかしいということがわかる。
更衣室で気付かれたりはしない程度だ。みな、他人の骨の形状なんてじろじろ見ない。
自分では気にしていないように思っていたのだけど、そういえば銭湯が嫌いだし、水着も嫌いだ。
ジムでヨガクラスに参加し、マシンで有酸素運動し、身体の状態に気を配るのもコンプレックスから来ていたのかもしれない。
振り返れば振り返るほど見られることを避けていた。やっぱり気にしていたんだなあ、私。
2ヶ月弱前、彼氏に骨のゆがみを触られて、「やっぱり変形してるなー」と言われた。
そのときは「やだー言わないでよー」と笑って流したものの、心臓に杭が刺さったような感覚があった。
彼氏の声色に、嫌そうなニュアンスが含まれていたからだと思う。
ここがもっと、こうなっていたらよかったのに…と悔やむような触り方でもあった。
小学生の私が風呂からあがったとき、どうして普通分娩にこだわっちゃったのかしら、
周りも帝王切開が良いって言っていたのに、あの時はどうしても頑固になってしまって…
綺麗に産んであげられなくてごめんね…と言いながら触る手つきにあまりにも似ていた。
元々高い頻度ではなかったので乗り切れていたが、これ以上続くとさすがに浮気でも疑われるかもしれない。
抵抗感や恐怖心がこのまま抜けなかったらどうしよう。お互いの両親に挨拶は済ませているし、
彼のお母さんとは電話までする関係で、増子さんなら任せられるわと言われている状況だ。
ああ、別れることを想像しても、彼の母と私の母への説明が面倒であることしか思い浮かばない。
もう駄目なんだろうか。面倒で、息苦しい。
気が向いたらスニーカーを履いて、Tシャツ短パンの軽装で玄関を出る
あとは走るだけだ
嫌になったら バスにでも乗って帰ってくればいい
ここ5000年くらいの話
ぼくらは毎日12時間くらい草原を駆けまわったり 毎日12時間くらい畑耕す生活をつづけてきたのだ
一日12時間光る板を凝視するようにはできていないし、一日300歩しか歩かない生活なんてなかった
それは20万のアーロンチェアに座ったって、JinsPCをかけてブルーライト防いだって
エスカレーターを階段に変えたってなんの足しにもならないくらい
「人体の構造と根本的にかけ離れた生活」を送っているんだ いまのきみみたいに
それが ここ100年も経たないくらいのおはなし
原始的な生活にもどりたいっていう話じゃないよ
でもそんなんじゃパフォーマンスが下がる一方だ
お金があるなら整体でもジムでもご自由にどうぞ行ってらっしゃい
でも解決策はそこにはないんだよ
0円でいまからはじめよう
安いスニーカーと Yシャツの下に着るようなペラペラなシャツを着て
これを読み終えたら外に出てみるといい
走るくらいしかやることがないし
走って走って 嫌になったらバスにでも乗って帰ってくればいい
辛くなったらやめるのがコツ
限界まで追い込まないのがコツさ
なぜかみんな続かないよね
それは 体を痛めつけるのはただ辛いだけだから
ランナーズハイじゃないけれど いちど走りはじめたら辛いことなんてないし
むしろ日々のつらい仕事を忘れて 頭からっぽで無重力みたいな開放感が得られるんだ
だからみんな 疑ってもいいけれど
ランニングが解決してくれるんだ
ほんとうだよ
走る衝撃で イヤホンが踊り 風がおこり タッチノイズにまみれた128kbpsの音楽は
きみの集中力によってどのオーディオルームよりも音がクリアに 今までにないほど綺麗に聞き取れる
はじめての感覚におちいるんだ
湿度や温度をきにしながら 座布団の感覚すら余計だったきみのオーディオルームを一回でひっくり返す
これは 本当にくせになる
もしかして ぼくが感じているような集中や開放感は
ほかの何かでも得られるものかもしれないけれど
あえて何故ランニングなのか
ただ ジムに7000円と入会費を払ってやるのもしゃくだとおもっただけだ
たとえばきみが ジムで筋肉質なオトコ(コウチとかいうヤツ)にマゾヒスティックになじられるのもよし
たとえばきみが 座禅組んでハゲアタマのオトコにはたかれるもよし
たとえばきみが ヨガでアロマでロハスするもよし(ただ新興宗教に気をつけて)
たとえばきみが 早朝から皇居を周回して意識高いひとたちと共に陛下の気を高めるもよし
やり方はきみしだいだ
でもね
おつかれさま きみはよくがんばった
走り終わったら、水分をとって日陰か家かでゆっくりすること
さっきまでとは違った充足感がきみを包んでいるはずだ
頭の中にこびりついていた仕事の悩みや 人間関係のドロドロしたやつは
コースにポロっとおきわすれていて 心臓が全身にここちよいリズムで血流を遊ばせているはず
どれだけたくさんライフハックを齧っても手に入らなかった自己変革感が
得られましたよね
つまり
そういうことです
http://anond.hatelabo.jp/20120706172447
「日本のアマチュア演奏家のほとんどは学生のクラブ活動である」というのはどうなの?
社会人になって、音楽で食べていくつもりがなくても続ければいいのに、今の日本人は二足のわらじに嫌悪感すらもっているんじゃないかと、侍でも無いのに。
他の仕事しながらでも、別にプロを目指してなくても真剣に音楽をやっても良いのに、そういうアマチュア演奏家は少なくて、周りの目も冷たいというか、まあ少なくともステータスでは無いだろう。
週3でギター教室行ってます、と初対面の相手に胸はって言えない29歳男性みたいな。週1でボイストレーニング通ってます、と初対面の相手に胸はって言えない31歳女性みたいな。
これが週3ランニングと素振りして、毎週末草野球してる29歳男性ならどうか? 週1でヨガピラティスに通っている31歳女性ならどうか?
草野球の男性に「何のためにやってるの?」と聞く人がいるだろうか、ヨガ・ピラティスの女性に「悟りでもひらくつもりですか?」と聞く人がいるだろうか。
しかしながら、ギター教室の人には「何のためにやってるの?」と皆が問うだろうし、ボイストレーニングの女性には「歌手にでもなるつもりですか?」と聞く、しかもふざけて聞く訳でも無く、真顔で心底不思議そうな顔して聞く。
というわけで、結局は前回のはじめに書いてんだけども、
不妊の多くは器質性の問題だということ。そのほとんどは、病院以外では良くならない。病院に行くまでこんな単純なことを知らなかった。
しかし、女性誌を賑わすのは「妊娠力」とかいう謎の言葉。不妊をまるで生活習慣病と同列に扱うようなことはことは愚かなことだ。ヨガ、漢方、身体を温める食生活etc.そういうまやかしで、結果として不妊治療にかかることを遅らせる。そんな詐欺師連中がいることに腹が立つ。今すぐ死ね。
そして、不妊=生活習慣病という嘘が他ならぬ女性自身にもまかり通っていること。多くの女性の友人から、やれ生姜が良いだのプチ断食が良いだのありがたいアドバイスを今まで貰った。そしてその多くが独身or既婚小梨、高学歴で働く人が多い。なぜ彼女たちは版を押したように「頑張れば妊娠するわよ」と言うのか。
調べれば直ぐ分かる。不妊の多くは、卵子の老化と器質性によるものだ。しかし、「不妊は甘え」論というか、自己責任論があまりにも当たり前のようにまかり通っている。オカルトにはまって何年過ごしても事態は全く好転しない。その間卵子の老化はどんどん進む。子供ができない→即病院となるよう周知すべき。
不妊治療は保険適用外とか、他にも分かったことはあるけど、取り敢えず詐欺師と詐欺師の片棒を担いだメディア、とりわけ女性誌を中心とした紙メディアの罪は重い。
【追記】
ご指摘の方もいましたが、このエントリは「騙したなこの野郎!」という怒りが発端となっています。
その怒りは、主にメディアと詐欺師連、それから自分自身に向かっています。まぁ赤っ恥日記です。
「いますぐ首吊って死にたい」と併記しなかったのは片手落ちだったと思っています。反省その1。
それと、性別を明らかにせずに書いたことは卑怯だったかなと。反省その2。
読み手にあれこれ想像を働かせてしまって、少々申し訳無く思っています。
多くのコメント非常に参考になり、冷静になって考えることが出来ました。
個人的には、医療に関わることなので、ホメオパシーなどと同様、個人的問題と帰さずに
ある程度社会的コストが必要なものなのかな、と感じています。友人としてアドバイスが
難しいのであれば、なおさら、ですね。
「~~系女子」という最近の流行にあやかって、自分も1個考えてみた。
もちろんのことながら、「便所飯をたしなむぼっち系女子大生Grpの総称?」はアウトだ。
そんな人達には今から僕が2時間30分小笠原○子お嬢様をたっぷりと肉奴隷に調教した過程を、
あますことなくチャプター分割、シーンごとの見所や監督と美術、演出家からなどそれぞれのコメンタリーを
ふんだんに盛り込んだBlu-Ray版とDVD版をたっぷりと見てもらおうか。
(3時間後)
予想通り抱腹絶倒の嵐だった。
完全な脱線だったけど便所系女子っていうのを思いついた経緯は、
ずいぶん前になると思うが・・・こんな言葉を僕が目にしたからだ。あ?ビッチ系?
ttp://bipblog.com/archives/1315609.html
※リンク先はよくあるまとめ系ブログです。元記事のURLはしんでます。
>そして肉食系女子が次に向かう先こそが“ビッチ系女子”なのだ。我が道を、己の赴くままに突き進み、
>他人もリスクも気にしない。迷惑なのに目が離せない女性たち。そんなビッチ系女子が全世界で増殖中とも言われ、
>アメリカではレディー・ガガやパリス・ヒルトンがその最たる例である。
http://ja.bab.la/%E8%BE%9E%E6%9B%B8/%E8%8B%B1%E8%AA%9E-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/bitch
からは剥離している!すげえ!
みなさーん!もうGoogleの「日本語版のWebページを検索」なんかしても本当の意味でのBitchがなんなのかなんて、もうわかりませんよー!
どうせ誰もわかんないかもしれないけど。まぁ、言葉や言語は生きていて、脱皮を繰り返しているといういい例かも。
ところが。
http://www.menscyzo.com/2012/05/post_3956.html
"私が言うのもなんですが結構イケメンで。この人以上の人は見つからないだろうな~と思って、とりあえず付き合いはじめと同時に妊活もはじめました。コンドームに穴開けたり、『今日は安全日なの』『ピル飲んでるからナマでOK』っていうのはひと通りやりましたね。あとはヨガやったり食生活改善したりして妊娠しやすい体作りをしたりとか、ナマでヤッてるとき、彼がイキそうになって抜こうとするのに、『このままイッて』ってガッチリ足で押さえたりとか。毎回そんな感じだったんで、半年くらいですぐデキちゃいました。彼も当然『中絶しろ』なんて言うわけないし、すぐ入籍しました。今はまぁ、満足してますよ。念願の専業主婦ですし。…もうちょっとお給料が高ければ言うことないかな!"
http://www.youtube.com/watch?v=6_I4Msmq3Lg
※シャベッター!!!みたいな感じで
ああもうここらだろ。
これだろ。この方向性でいこうぜ。
いいか?考えろ。
こう想像してみるんだ・・・我々日本人は、日本語圏は、日本語文化圏は、
英語文化圏から「Bitch」という言葉の本来の意味をもぎとってやったのだ!イェー!Tally Hooooooooooo!!
嬉しくねええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ
やっと最初いった話に立ち返ってこれる・・・「便所系女子」をブームとして巻き起こそうぜ!
便所っていったらもう。そりゃあ。ビッチのアップグレード版ですからね。
考えろ!(※非常に強い口調ですが、筆者はここで「例として一つ考えてみてください」、というメッセージをこめています)
・社会通念における貞操観念というモラルのレベルが低い、か欠如している
・そのため、男女間交際においてトラブルになる例がある
・服装に関しては、うーん。自分から見たらギャル系の類似・・・のような。
まぁこう見るとね。ビッチっていう言葉もね。ホント多面性ある言葉だこと。ビッチ≠Bitch。うん。
・貞操観念というか、衛生観念がない。なんでも食べるし、なんでも飲む。娘さんはこんなに強い娘に育ちましたよおとうさん!(先述の○笠原祥子肉奴隷調教ドキュメンタリー「マリア様見ちゃダメ! ~アヘ顔WPでいろんな体液がまじったのをがぶ飲みするシーン
・男女間交際に関しては、不特定多数、もしくは特定多数からなる集団によって性的な欲求の対象になっている
・本人は、自分が集団性的暴行事件の被害者になっていることに関して、ライフワーク、自分自身の生き甲斐であると信じている。れぞんでーとー。
・「現実にそんな行為できねーだろwww」という人もいると思うが・・・まぁ、なんだったら具体的な考察を後ほど用意してみたい。
まぁギャル系のファッションとか、あー、ビッチ系っていうファッションのジャンルもあるんでそ?
VICCIもあるしね!(※意味がちがいます)んじゃー今から僕がですね・・・
女性のみなさんを思わず「私もお便所になりたい!」とか、「ビショったんで近所の公園のトイレいってくる」とか、
「まああたしもともとお便所ですけどーvvvてゆーか今も(ry」な女性をひきつけるファッションにしなきゃな・・・
「黒の油性ペン」どどん。
大多数の人は「は?」てか、理解して吹いた人は回れ右して鏡の前へ行け。服をめくってみろ。僕はお前が普段着てるアンダーウェアの下にどんなやんちゃな
あ、すいません暴走しましたね。・・・というわけで、自分の体にメッセージや料金、アートなどを描きます。
これを雑誌に載せるときのキャッチコピー。キャッチコピーキャッチコピー。あー。
「愛され安心中出し一回¥30価格設定でガテン系おじさま達全員とメルアド交換!?」
「キュートでラブリー☆シールタトゥーだからすぐはがせるキラキラ☆精子シール&メコマークシール付!
これ見てまだ「何これ」って思ったり吐き気催した方はー・・・あー。すません。
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ファッションは揃った。
音楽・・・秋元あたりにプロデュースしてもらうか。グループ名は・・・「WC1+47」ていうのはどうだろうか。読み方?ゴロ悪いからまかせる。
意味としては公衆便所志願の便所系女子1人と残り47人は申し訳ないんだけど公衆便所にあんまお金かけたくないからAV男優とかよべませんでした^^;
代々木公園あたりでボランティアの融資を募ってツアーバスを出すくらいしないとおっつかないな・・・
(これでどうやってCDを売ったり握手会するのかは聞かないでください!!でもまぁ・・・握手会っつーか・・・うん。ファン交流イベントとしては乱交とか最高のイベントだよねきっと・・・)
もうこれは流行る。仕掛けられる。機は熟した。いざ鎌倉。そういえば!!
この前鎌倉いってきましたー!彼女と一緒に鶴岡八幡宮へ。神前式の結婚式やってて見てて楽しかったー・・・。閑話休題。
これは売れる!!便所系女子!!
そして町に溢れる大量の公衆便所志願の女性たちが!見える!見えるよ!
日本の少子化問題も解決!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ピルの輸入は停止して生産もしませんし妊娠中絶はこれを機に禁止!!!!!!
その代わり公衆便所が出産した赤ん坊に関しては国が完全にめんどうみようぜ。公衆便女がみんなの物なんだから、
その子供もみんなの物だ。当然だろ?どんな敬意で生まれたにせよ、子供は子供。赤ん坊は・・・赤ん坊なんだ・・・。
みんな・・・生きてる・・・みんな大切な・・・・命なんだ・・・(BGM:僕らはみんな生きている)
というわけで長々とお送りしてみましたが、便所系女子。
あ、ちなみにこんな素敵な公衆便所ライフに、もし奇特かつ危篤にも志願したい、してる、なりたい、なってみたい、興味はある、
以前そうだった、友人がそうだった、母がそうだった、ていうか自分はそうやって生まれてきました、というレジェンダリーな女性がいたらメールください。電話ください。僕に。ええ、誰にって、僕に。
オウムの信徒制度には、在家のほかに出家がありました。オウムの出家とは、世俗的な関を一切絶ち、麻原に全生涯を捧げ、人類の救済―最終的には解脱させること―と自己の解脱に専念することでした。
出家者は教団施設内で共同生活をすることになります。家族とも絶縁の形になり、解脱するまでは、会うことも、連絡することも禁止でした。財産はすべて教団に布施し、私物として所有できるのは、許可されたもののみでした。飲食は禁止でした。本、新聞、テレビ、ラジオなど、教団外の一切の情報に接することも禁止でした。これらの戒は、苦界に転生する原因となる執着を切るためのものでした。
入信時、私は出家をまったく考えていませんでした。長男という立場上、親の老後を見たいと思っていたからであり、また私が出家すると家庭が崩壊しかねないとも思っていたからです。そもそも、入信前に読んだ麻原の著書によると、在家でも解脱可能だったので、そのような無理をしてまで出家する必要を感じませんでした。
自分が培ってきたものを崩すのは真に恐いことです。入信間もないころ、私はある在家信徒と話をしました。彼は出家の準備のために定職を捨て、アルバイトをして暮らしていました。その話を聞き、私は恐怖心を抱いたのです。実際、昭和六三年十月の私について、母は「就職の内定を喜び、安心している様子だった」旨法廷証言しており、その時点で出家の意志は皆無でした。
ところが、私は出家することになりました。私の入信後、勢力拡大のために、オウムが出家者の増員を図ったのです。私の入信前の一年半の間に約六十人が出家したのに対し、入信後の一年間には約二百人が出家しました。
「現代人は悪業を為しているために来世は苦界に転生する。世紀末に核戦争が起こる。(本文二十一頁)」
―麻原は人類の危機を叫びました。そして、その救済のためとして、信徒に布教活動をさせたり、さらに、出家の必要性を訴え、多くの信徒を出家させたりしました。
このように、一般社会は苦界への転生に至らせる世界として説かれていましたが、それを聞いているうちに、そのとおりの体験が私に起こりました。
私の公判において、友人が次の証言をしました。昭和六十三年晩秋か初冬に私が話した内容です。
町中を歩くとバイブレーションを感じること、電車内のいかがわしい広告を見ると頭が痛くなること、繁華街の近くにいると体調がおかしくなるという話がありました。
当時、私は街中を歩いたり、会話をするなどして非信徒の方と接したりすると、苦界に転生するカルマが移ってくるのを感じました。この感覚の後には、気味悪い暗い世界のヴィジョン(非常に鮮明な、記憶に残る夢)や自分が奇妙な生物になったヴィジョン―カンガルーのような頭部で、鼻の先に目がある―などを見ました。この経験は、カルマが移り、自身が苦界に転生する状態になったことを示すとされていました。さらに、体調も悪くなるので、麻原がエネルギーを込めた石を握りながら、カルマを浄化するための修行をしなければなりませんでした。
また、一般社会の情報は煩悩を増大させて、人々を苦界に転生させると説かれていました。そのために、情報によっては、接すると頭痛などの心身の変調が起きたのです。
他方、当時、日常的に麻原からの心地よいエネルギーが頭頂から入って心が清澄になり、自身のカルマが浄化されるのを感じました。
これらの経験によって、一般社会が人々のカルマを増大させて苦界に転生させるのに対して、麻原だけがカルマを浄化できることをリアルに感じました。そのために私は、麻原の説くとおりに一般社会で通用する価値観は苦界に至らせると思うようになり、解脱・悟りを目指すことにしか意味を見い出せなくなりました。
この状況に関連することとして、検察官の「広瀬から出家の原因、理由を聞いたことがあるか」との確認に対して、私の指導教授は「結局、神秘体験だと言っていた」と法廷証言しています。(当時、私は教授にも入信勧誘していたのです。)また、出家することが、苦界に転生する可能性の高い親を救うことになるとも思うようになりました。子供が出家すると、親の善業になるとされていたからです。出家にあたり一番の障害は親子の情ですが、それを除くために、オウムではそのように説かれていたのです。
こうして、私は出家願望を抱くようになりました。世紀末の人類の破滅というタイム・リミットをにらみながら、家族の説得に要する期間や就職が決まっていた事情なども考慮して、二、三年後の出家になると思っていました。
このような昭和六三年の年末、私は麻原から呼び出されました。麻原は救済が間に合わない、もう自分の都合を言っていられる場合ではないと、出家を強く迫りました。私は麻原に従い、大学院修了後に出家する約束をしました。そして、平成元年三月末に出家しました。
私の出家後、平成元年の四月から、麻原は「ヴァジラヤーナ」の教義に基づく救済を説きはじめました。現代人は悪業を積んでおり、苦界に転生するから、「ポア」して救済すると説いたのです。「ポア」とは、対象の命を絶つことで悪業を消滅させ、高い世界に転生させる意味です。この「ポア」は、前述(二十一頁)のように、麻原に「カルマを背負う―解脱者の情報を与え、悪業を引き受ける―」能力があることを前提としています。
その初めての説法において、麻原は仏典を引用して、「数百人の貿易商を殺して財宝を奪おうとしている悪党がいたが、釈迦牟尼の前生はどうしたのか」と出家者に問いました。私は指名されたので、「だまして捕える」と答えました。ところが、釈迦牟尼の前生は悪党を殺したのです。これは殺されるよりも、悪業を犯して苦界に転生するほうがより苦しむので、殺してそれを防いだという意味です。それまでは、虫を殺すことさえ固く禁じられていたので、私にはこの解答は思いつきませんでした。しかし、ここで麻原は、仏典を引用して「殺人」を肯定したのです。
ただし、このときは、直ちに「ポア」の実践を説いたわけではありませんでした。最後は「まあ、今日君たちに話したかったことは心が弱いほど成就は遅いよということだ」などと結んでいます。私も、実行に移すこととは到底思えませんでした。
ところが、麻原は説法の内容を次第にエスカレートさせていきました。その後の説法では、「末法の世(仏法が廃れ、人々が悪業を為して苦界に転生する時代)の救済を考えるならば、少なくとも一部の人間はヴァジラヤーナの道を歩かなければ、真理の流布はできないと思わないか」などと訴えています。それに対し、出家者一同は「はい!」と応じており、「ポア」に疑問を呈する者は皆無でした。(『ヴァジラヤーナコース教学システム教本』―教団発行の説法集より)
前述(二七~二八頁)のように、私にとっては、現代人が苦界に転生することと、麻原がそれを救済できることは、宗教的経験に基づく現実でした。ですから、私は「ヴァジラヤーナの救済」に疑問を抱くことなく、これを受容しました。なお、麻原は、私が述べたような宗教的経験を根拠として、この教えを説いていました。
さらに、私はいわゆる幽体離脱体験(肉体とは別の身体が肉体から離脱するように知覚する体験などもあったので、私たちの本質は肉体ではなく、肉体が滅んでも魂は輪廻を続けるとの教義を現実として感じていました。そのために、この世における生命よりも、よりよい転生を重視するオウムの価値観に同化していました。このことも「ヴァジラヤーナの救済」を受容した背景だと思います。
このような説法が展開されていたとき、私は解脱・悟りのための集中修行に入りました。第一日目は、立住の姿勢から体を床に投げ出しての礼拝を丸一日、食事も摂らずに不眠不休で繰り返しました。このときは、熱い気体のような麻原の「エネルギー」が頭頂から入るのを感じ、まったく疲れないで集中して修行できたので驚きました。
この集中修業において、最終的に、私は赤、白、青の三色の光をそれぞれ見て、ヨガの第一段階目の解脱・悟りを麻原から認められました。特に青い光はみごとで、自分が宇宙空間に投げ出され、一面に広がる星を見ているようでした。これらの光は、それに対する執着が生じたために、私たちが輪廻を始めたとされるものでした。その輪廻の原因を見極めることは、輪廻から脱した経験(=解脱)を意味しました。
解脱・悟りを認められた後は、以前は身体が固くてまったく組めなかった蓮華座(両足首をももの上に載せる座法)が組めるようになりました。教義によると、これはカルマが浄化された結果と考えられました。また、食事が味気なく、砂でも噛んでいるように感じ、食事に対する執着が消えたように思えました。さらに、小さなことにこだわらなくなり、精神的に楽になりました。
以上は麻原の「エネルギー」を受けた結果のように思われたので、彼が人のカルマを浄化して解脱・悟りに導くことの実体験になりました。
平成二年四月、麻原は古参幹部と理系の出家者計二十人に対して、極秘説法をしました。冒頭、「今つくっているもので、何をするか分かるか」と私に問いました。しばらく前から、何らかの菌の培養を指示されていたのです。目的は聞かされませんでしたが、指示の雰囲気から危険な菌らしいことは分かりました。私は、「ヴァジラヤーナの救済」とする旨を答えました。一年間説法されて、その実行が当然のことのようになっていたのです。
麻原は、「そうか、分かっていたのか」と言い、「ヴァジラヤーナの救済」の開始を宣言しました。
「衆院選の結果―平成二年二月の衆院選に、麻原ら教団関係者二十五人が出馬し、全員が落選―、現代人は通常の布教方法では救済できないことが分かったから、これからはヴァジラヤーナでいく」
そして、麻原が指示したのは、猛毒のボツリヌストキシンを大量生産し、気球に載せて世界中に散布することでした。私たちは、その場で各人の任務も指示され、直ちに作業に取りかかったのです。私はボツリヌス菌の大量培養―容量十立方メートルの水槽四基―の責任者でした。
作業は過酷でした。ヴァジラヤーナの救済になると麻原は血道を上げるので、指示を受ける私は寝る暇もないことがありました。私は約三か月間教団の敷地に缶詰めにされ、風呂にも二度しか入れませんでした。それも関連部品の購入のために業者を訪問するときなどに、指示されての入浴でした。そして、安全対策も杜撰で、非常に危険な状況での作業でした。結局、種菌さえできていなかったことが後で判明したのですが、できていたら私たちが真先に死んでいたと思います。
私たちは、一般社会では無差別大量殺人とみなされる行為を指示され、しかも厳しい作業が続きましたが、誰も疑問を口にすることなく、淡々と行動していました。外部の人が見たら、殺人の準備をしているとは思えなかったでしょう。
それは、私たちにとって、「ヴァジラヤーナの救済」が宗教的経験に基づく現実だったからです。(本文三十一頁)そして出家後も、次のように、そのリアリティは深まるばかりでした。
一般社会が苦界への転生に至らせることに関しては、出家後初めて外出したときに、以前に経験のないほど厳しくカルマが移ってくるのを感じて(本文二十七、二十八頁参照)、危機感を覚えました。出家者に対して外部との接触を厳しく制限するなど、教団が外部の悪影響を警戒していたことが暗示になったのだと思います。また、テレビ・コマーシャルを視聴したところ、その音楽のイメージが頭の中でぐるぐると繰り返されるようになり、集中力が削がれる経験がありました。それは、選挙運動中に、麻原の指示でオウムに関する報道を録画したときのことでした。私の変調に気づいた麻原が、「現世の情報が悪影響を与えている」と作業の中止を指示したので、一般社会の発する情報への警戒心が強まりました。
一方、麻原の救済能力に関しては、その「エネルギー」によって解脱・悟りに導かれたと感じる経験をしたために、さらに奥深さを知った思いでした。
ボツリヌストキシン散布計画が中止された後、私は集中修行に入りました。そして、自分の意識が肉体から離れ、上方のオレンジ色の光に向かう経験などをして、ヨガの第二段階目の解脱・悟りを麻原から認められました。また、認められたその場で、毒ガスホスゲンの生産プラントの製造計画(平成二年十月から三年八月、中止ーオウムでは、次の計画の指示が入り、前の計画が中止されることが多かった)に加わるよう指示されました。その後も、プラズマ兵器、レーザー兵器の開発(同四年十一月から五年十二月、中止)、ロシアにおける武器調査(同五年二月と五月)、炭疽菌の散布計画(同五年五月から六月、失敗)、オーストラリアにおけるウラン調査(同五年九月)、自動小銃AK七四千丁の製造(同六年二月から七年三月、一丁完成、逮捕のため中止)などを麻原から指示されました。
このように、オウムにおいては、「ヴァジラヤーナの救済」の実践は日常的なことでした。
そして、平成七年三月、私たちは地下鉄にサリンと散布する指示を村井秀夫から受けました。麻原の意志とのことでした。その指示は、当時の私には、苦界に転生する人々の救済としか思えませんでした。一般人が抱くであろう「殺人」というイメージがわかなかったのです。
地下鉄サリン事件に関するある共犯者の調書を読むと、私たちが事も無げに行動している様子が散見されます。そのような記述を読むと、残酷な事件を平然と起こしたことについて、自らのことですが戦慄さえ覚え、被害関係者の皆様に対しては心から申し訳なく思います。誠に愚かなことでしたが、オウムの宗教的経験に没入している状態でした。
[ただし、私は決して軽い気持ちで事件に関与したわけではありませんでした。救済とはいえ、「ポア」の行為そのものは、通常の殺人と同様に悪業になるとされていたからです。それまではカルマの浄化に努めてきたのですが、救済のためにカルマを増大させる行為をすることが「ヴァジラヤーナの救済」と意味付けられていたのです。そのカルマは、修行によって再び浄化する必要がありました。さもないと、「カルマの法則(本文二十一頁)によって、自身にも返ってくるとされていたからです。実際、地下鉄から下車した後、私は突然ろれつが回らなくなく、サリン中毒になったことに気付いたのですが、そのときは「カルマが返ってきた」と思いました。]
以上のように、オウムにおいては、非現実な教義が宗教的経験によって受容されました。そして、その教義が社会通念と相容れないものだったために、逸脱した行動がなされました。
他方、「禅」も宗教的経験を起こす技法を用いますが、「悟了同未悟―悟り終われば凡夫に立ち返る―」という教えがあります。これは「禅」の瞑想技法によって起こる日常生活への不適応(本文二十五頁)を防ぐ安全装置ではないでしょうか。何代にもわたって存続している宗教には、問題が起こるのを回避する知恵の蓄積があるのだと思います。
宗教的経験を起こす技法やその経験に基づく思想に係わる場合は、その弊害の予測が困難なので、このように経験的に安全性が保障されていることを確認する必要があるでしょう。
また、私は宗教的経験によって教義の検証が可能と思いオウムに関心を持ったのですが、それは大きな誤りでした。人間の感覚は決して常に真実を反映しているわけではありませんでした。神秘的体験の心理状態は次のようにいわれており、幻覚を真実と認識してしまうこともあるのです。
神秘的な状態は比量的な知性では量り知ることのできない真理の深みを洞察する状態である。それは照明であり、啓示であり、どこまでも明瞭に言い表されえないながらも、意義と重要さとに満ちている。そして普通、それ以後は、一種奇妙な権威の感じを伴うのである。(前出ジェイムズ)
幻覚的な宗教経験によっては、決して“客観的”な真実は検証できません。できるのは“主観的”に教義を追体験することだけです。それ以上のものではありません。
ですから、宗教的経験はあくまでも“個人的”な真実として内界にとどめ、決して外界に適用すべきではありません。オウムはそれを外界に適用して過ちを犯したのです。
【vol.4「恐怖心の喚起」】へ続く。
宗教的経験
カルトの「超越的世界観」によって、現実世界においては解決の困難な問題が解決することと述べました。他方、この類の世界観は非現実的であるために、受容が困難なのも事実です。ところが、「神秘体験」、「超越体験」などと呼ばれる幻想的な宗教経験は、その受容を著しく促進します。
オウムにおいても、教義の妥当性の根拠は、その種の宗教的経験でした。つまり、多くの信徒は教義の世界を幻覚的に経験しており、その世界を現実として認識していたのです。地下鉄サリン事件への関与は誠に愚かであり、心から後悔しておりますが、この事件についても、宗教的経験から、私は教義上の「救済」と認識して行いました。
このように、宗教的経験は、「殺人」を肯定する非現実的な教義さえ受容させる原因となります。したがって、宗教的経験を根拠とする思想やこれを起こす技術の使用には注意すべきです。
以下、宗教的経験の検討のために、私の経験を述べさせていただきたく思います。
前述のように、高校三年生のときに、私は、「生きる意味」の問題を意識するようになりました。しかし、その後、私は目を引いた本を読んだり、簡単な瞑想を指導する団体に入会したものの、その問題は棚上げ状態でした。大学で学ぶことが将来の職業に直結するので、学業や学費のためにアルバイトに忙殺されていたのです。
そのようなとき、偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年のときでした。その後、関連書を何冊か読みましたが、彼の説く解脱。悟りが気になりました。
最終的な解脱・悟りは、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地であり、本来、私たちはその状態に安住していたにもかかわらず、煩悩にとらわれたために、輪廻して苦界をさまよい続けているとされていました。ここで、絶対自由とは、カルマ(業。転生する原因)から解放され、どの世界に転生するのも、最終解脱の状態に安住するのも自由という意味でした。絶対幸福とは、金、名誉など自分以外の外的存在を必要としない幸福という意味でした。絶対歓喜とは、自己が存在しているだけで歓喜状態にあるという意味でした。
不明な点が多いものの、何らかの絶対的に幸福な境地の存在が事実であれば、その追求は「生きる意味」に値するのではないかと思いました。
また、麻原は修行を完成させて最終解脱の境地にあり、弟子を指導して彼らをも解脱させているとのことでした。麻原や弟子たちの体験談を読むと、解脱への確かな道が存在しているように思えました。彼らの体験には普遍性が感じられたからです。さらに、麻原は自身の体験の妥当性を、ダライ・ラマ十四世をはじめとするチベット仏教やインドの聖者たちと交流して確認したとのことでした。
前述の解脱のような教義の話だけならフィクションを読んでいるようなものでしたが、このような実証的な姿勢は理解できることでした。この点は、私がそれまでに接した斯界のものとは違っていると思いました。
しかし、事はそう簡単に運びませんでした。麻原が主宰するのは、宗教団体「オウム真理教」だったのです。(なお、当時、オウムはほとんど無名の団体でした。)
私は新宗教に対して拒絶反応が起こるのを禁じ得ませんでした。「輸血拒否事件」、「霊感商法」…新宗教に関するマスコミ報道は、決まって言いようのない不快感を催すものでした。とりわけ、「輸血拒否事件」は、高校三年生のときに話を聞いた団体のことだったので、新宗教に対する問題意識が高まりました。
この事件の報道では、事故に遭った子供が「生きたい」と言っていたのにかかわらず、両親が教義に従い、輸血を拒否したとされていました。この団体の聖書の解釈が正しいという保証はないのだから―私にはほかの解釈も可能に思えました―、そのような不確実なことに基づいて命を犠牲にすることが信じられませんでした。ですから、この事件で、私の新宗教に対する不信は決定的なものになっていました。
このようなわけで、私は本を読む以上にオウムに近づけなかったのです。
ところが、本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行の過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一ヶ月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。
眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。
意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニーが覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。
続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーのことでした。そして、それはゆっくりと背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。
「クンダリニーの動きが正しくないと、くも膜下出血を起こす」、「指導者なしの覚醒は危険だ」―オウムの本の記述は別世界の話でしたが、今や、我が身に起こりつつある現実でした。私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意志に反して、クンダリニーは上昇を続けました。
クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした。
突然の出来事に、どうなることかと思いましたが、それをピークに一連の現象は収束しました。どうやら、無事に済んだようでした。
オウムの宗教的世界観が、一挙にリアリティを帯びて感じられました。麻原をグル(修行と指導する師)として、解脱・悟りを目指すことが私の「生きる意味」であると確信しました。麻原の著書を読み始めて以来相次いだ体験に、彼に強い「縁」を感じていたからです。クンダリニーが自然に覚醒したのは、前世のグルの著書を読んだために、修行者だった私の前世の記憶が甦ったからだと思いました。
このように、急激に宗教観念を受容して、思考体系が一変する心理現象は、「突然の宗教的回心」と呼ばれています。これと漸進的な宗教観念の受容との違いについて、研究論文には次のように述べられています。
突然の回心は、被験者そのものが全く変えられるように思われる経験として定義した。つまり、その変化は、被験者が生じさせるのではなく、彼にもたらされるように思われた。また、その変化は、被験者の生活様式、道徳的特性を形成する態度におけるものだった。
漸進的な宗教的発達は、上で説明したような回心経験がないという特徴のもので、そして被験者が自身を無信仰と識別したことがないものである。
すべての回心者は、疑いの余地なく、無信仰の状態から信仰深い状態になった。
二つの集団の特色をかなりよく示す、二つの自伝を下に引用する。一人の突然の回心者は、彼の経験を次のように記述した。
この経験は、私が一四歳の秋に起きた。私は畑を耕して働いていた。突然、嵐が近づいたように思われ、そしてあたかも私の周りの全てが止まったようだった―私は神の存在を感じた。馬たちは完全に止まった状態になった。真っ黒な空がとどろいたので、私は祈った。嵐はすぐに通り過ぎたが、この瞬間だった、―私は祈りながら―主が望むならば、クリスチャンになり、主に仕える決心をしたのは。
漸進的な宗教的発達をした集団の一員は、彼の経験を次のように記述した。
私が信仰深いと自覚したときを説明するのは難しい。それに対し、何年か前に私は十ポンドで生まれ、そして現在はそれよりかなり重いという事実を説明するのは、全く簡単だろう。この成長には、出来事の印象がないわけではない。しかし、少なくとも回想では、そのプロセスはあまりに完全に連続したように霞んでいる。だから、私が自身の認識に現れた時点を思い出せる以上に、私は“信心深く”なった時点を分離できない。私はその二つの出来事はほとんど同時に違いないと思う。
このような宗教的回心は、人が葛藤状態にあるときに、幻覚的な超越体験と共に起こることがあり、このとき葛藤が解決するとされています。また、突然の宗教的回心においては、常識から非常に逸脱したビリーフ・システム(思考体系)が受容される場合があるとされています。そして、「カリスマグループの一つの注目せざるを得ない特徴は、入会の特徴がしばしば劇的な回心の経験であることだ」といわれています。
私の場合、「生きる意味」に係わる葛藤のために、回心が起き、オウムの教義体系が受容されました。このように、非現実的な世界観が突然現実として感じられ、それが受容されることがあるので、超越体験に基づく世界観には要注意でしょう。後述のように、それが日常生活との間に摩擦を生じる場合は問題が起こるからです。
オウムの宗教的世界観が現実となった私に、入信以外の選択はありませんでした。また、新宗教うんぬんといっていられる状況ではありませんでした。クンダリニーが覚醒した以上、指導者は不可欠だったからです。私はクンダリニーをコントロールできず、頭蓋がきしんでも、なす術がなかったのです。この状況について、ある共犯者は「広瀬君は、本を読んだだけでクンダリニーが覚醒して、困って教団に相談に行ったと言っていた。ある種の困惑を広瀬君から感じた。」と法廷証言しています。
こうして、オウム真理教の在家信徒としての生活が始まりました。在家信徒は、社会生活しながら、教義の学習、守戒など教義の実践、ヨガの行法、奉仕などの修行をすることが基本でした。
オウムの教義と修行の目的について、あとの話の理解のために必要な部分のみ説明致します。
教義において、修行の究極の目的は前述の最終解脱をすること、つまり、輪廻から解放されることでした。なぜ解脱しなければならなのか―それは、輪廻から解放されない限り苦が生じるからだ、と説かれていました。これは、今は幸福でも、幸福でいられる善業が尽きてしまえば、これまでに為してきた悪業が優住になり、苦しみの世界に転生するということでした。特に、地獄・餓鬼・動物の三つの世界は三悪趣と呼ばれ、信徒の最も恐れる苦界でした。
それに対して、解脱はすべての束縛から解放された崇高な境地でした。解脱に至るには、次のように、私たちが本来の最終解脱の状態から落下していった原因を除去していくことが必要と説かれていました。
私たちは自己が存在するためだけで完全な状態にあったにもかかわらず、他の存在に対する執着が生じたために輪廻転生を始めたとされていました。それ以来、私たちは煩悩(私たちを苦しみの世界に結びつける執着)と悪業を増大させ、それに応じた世界に転生して肉体を持ち、苦しみ続けているとのことでした。たとえば、殺生や嫌悪の念は地獄、盗みや貧りの心は餓鬼、快楽を求めることや真理(精神を高める教え=オウムの教義)を知らないことは動物に、それぞれ転生する原因になるとされていました。
これらの煩悩と行為は過去世のものも含め、情報として私たちの内部に蓄積しているとのことでした。この蓄積された情報が「カルマ(業)」でした。そして、「悪業に応じた世界に転生する」というように、自己のカルマが身の上に返ってくることを「カルマの法則」といい、これも重要な教義でした。
カルマの法則から考えると、解脱、つまり輪廻からの開放に必要なのは、転生の原因となるカルマを消滅(浄化)することになります。ですから、オウムにおいては、カルマの浄化が重視され、修行はそのためのものでした。
[なお、前述の「殺生」は、虫を殺すことも含みます。ですから、そのほかに挙げた行為もそうですが、一般人の日常的な行為はほとんどが悪業となります。したがって、信徒についても、入信前は悪業を為してきたことになり、それらを浄化しない限り苦界に転生することになります。だから信徒たちは必死に修行していました。また、家族など周囲の非信徒たちは苦界への転生が避けられないことになり、それを信徒たちは案じていました。後述しますが、日常生活と相容れないこの教義のために、一般社会は苦界への転生に至らせる世界とみなされました。そのために、信徒は一般社会を離れて出家していきました。さらに、苦界へ転生する現代人を救済する目的で、殺人まで犯すことになりました。]
また、オウムの教義において、麻原は「神」といえる存在でした。それは、最終解脱者であり、様ざまな「神通力」を有するとされていたからです。特に麻原は、人を解脱させたり、高い世界(幸福な世界)に転生させたりする力があると主張していました。私たちに「エネルギー」を移入して最終解脱の状態の情報を与え、代わりに、苦界に転生する原因となる悪業を引き受ける―「カルマを背負う」といっていました―と説いていたのです。カルマを浄化していないと苦界に転生するのですから、カルマを背負ってくれる麻原は、まさに「救済者=神」でした。
麻原の指示が絶対だったのも、そのような「救済」の能力を有するためでした。オウムの世界観においては、苦界への転生の防止が最優先であるところ、麻原の指示の目的は、苦界へ転生する人類の救済とされていたのです。
回心による教義の受容の後、入信後は、私の身の上に個々の教義の体験が現われ、教義の世界観に対するリアリティがますます深まりました。たとえば、入信の一週間後に、麻原の「エネルギー」を込めたとされる石に触れたところ、気体のようなものが私の身体に入ってきました。そして、胸いっぱいに広がり、倒れそうになったのです。そのときは、ハッカを吸ったような感覚がして、私は自身の悪業が浄化されたと思いました。
その後も様ざまな形でこのような体験を重ねたので、私にとって、麻原が「カルマを背負う」能力を有することは現実でした。そのために、麻原は「神」であり、その指示は絶対だったのです。
なお、現在は、この種の経験は暗示の機制による幻覚と理解しています。つまり、以前に接していた「エネルギーを移入してカルマを浄化する」という教義(二十一頁)が暗示になり、「エネルギーを込めた」とされる石に触れたところ、教義どおりの幻覚が現れたものと思います。(このように、回心後は幻覚的経験が極めて起きやすい状態になっていました。)
なぜあの男が―麻原の地位が教団内で絶対だったことに対する疑問の声をよく聞きます。その理由の一つは、私と同様に、信徒にとっては麻原を「神」とする教義の世界観が現実だったことでしょう。ヨガの行法によって、多くの信徒が教義どおりの宗教的経験をしていたのです。
現役の信徒は、今も、麻原の力でカルマが浄化されると感じる経験をしているようです。だから、麻原が法廷でどんなに見るに堪えない振る舞いをしても、彼は「神」であり続けているのです。私もそうでしたが、信徒が帰依しているのは生身の麻原ではなく、宗教的経験によって知覚した麻原です。「現実」よりも「宗教的経験」のほうがリアリティがあるのです。
このような宗教的経験の作用について、文献には次のように述べられています。
アメリカで(そしてしばしば国際的に)現在見られる多くのカルト様のビリーフ・システムを概観することは、臨床医が特定のセクトを正しく評価するにあたり役に立つ。ビリーフ・システムは、一般に部外者を困惑させるもので、多くは超越体験や神秘体験に基づいている。あるものは、なじみのない東洋の伝統から得ている。あるものは、教義を再構築する程度にまで、既存の宗教を粉飾する。
超越体験あるいは神秘体験は、回心のプロセスにおいてしばしば重要だが、このことはジェイムズとフロイトが注目した。葛藤の解決における超越体験は、非精神病者と精神病者の両方に急性の幻覚的エピソードが起こる程だが、この重要性も強調されてきた。これらの経験はまた、カリスマセクトの多くの全員にとって、グループの全員をを続けされる総体である。これらの出来事は、類似した現象を経験したことのある他の人たちとの友好関係を、最高潮に高める強力な感情的経験になる。
宗教的経験のコンテクストにおける精神病様超越現象が生じることを説明できるモデルは、まだ開発されていない。しかし、注目すべきなのは、かなり注意を引く知覚現象を、これらのセクトの全員が普通に報告することである。たとえば、一つのグループの百十九人の全員のうちの三十パーセントが、瞑想中に幻覚様経験を報告した。明らかに、このような現象は、心理学者が正常な精神的プロセスのみならず病的プロセスを理解するのにもかなりの影響があるはずだ。それらはたぶん、精神病といわれる人に幻覚状態を起こすあるコンテクストの性質を、心理学的に理解する助けになるだろう。
(A教団は)夢さえも「お父様(教祖)の夢を見ますよ」などと暗示を与えて教祖の夢を見やすいように誘導したりする。それらのプライミングの結果、信者は身辺でおきる現象がすべて神やサタンといった心霊現象ととらえることになっていると思われる。さらに、こうした経験が西田のいう個人的現実性を高める。つまり体験や推論が教義と整合しているという認知を与え、ビリーフは強化される。
(西田公昭 一九九五年 ビリーフの形成と変化の機制についての研究(4) 社会心理学研究、一一、一八-二九)
(プライミング―特定の情報に接触させることによって、人間の情報処理を一定の方向に誘導すること)
瞑想のより高い段階は多くの経験を含む。これは、伝統的な文献によく載っており、明るい光のヴィジョン、身心の喜びに満ちた陶酔感、静けさ、明晰な知覚、および愛や献身の感情を様ざまに含む。“超意識”、“超越体験”、“神秘体験”、あるいは“クンダリニーの覚醒”と名付けられており、これらの状態は、人を引き込む影響を及ぼす。この影響は、瞑想の伝統によれば、非常に深刻になるものだ。
※「輸血拒否事件」1985年6月に神奈川県川崎市高津区で起こった事件。ダンプカーにひかれた当時小学5年生の男の子が、両親の輸血拒否にあい、約5時間後に死亡。「大ちゃん事件」とも。