はてなキーワード: テレビドラマとは
取引先で「ドラゴンさん」とか「ドラさん」と呼ばれている人がいる。
名前が「辰◯」だからと聞いていたのだが、食事会の席でその本当の由来を教えてもらった。
一時期「東大なんて簡単。バカでも受かるんだよ、あんな所」と口癖のように言っていた時期があったのだそうだ。
2chを初めて見た時「おいおい、こんなしょうもない中学生コメントはあめぞうでは見なかったぞ…」と思い、
Twitterがそれなりに普及してきた後のクソリプを初めて見て「マジか。世の中、こんなにバカが多かったとは…思ってはいたけど、目の当たりにするとすごいな」と思い、
YouTubeでヒカキンが台頭してきた時、コメント欄を見て「このマジでしょうもないコメントたちはマジだ。精神的に未熟な大人や中坊ではなく、ガチの小学生だ…」と驚き、
ここ30年ほどみるだけでも日本の精神的幼稚性をまったく改善できてないことに絶望した。日本の政治家は長期投資がめっちゃ下手だな。目で見たものしか信じれない連中に、科学理論への理解を期待できようはずがない。
これはつまり、政治家を選出した我々の落ち度だ。ひいては、お前の隣の根暗な理系をバカにし続けた軽薄なギャルども (未来の主婦候補) が悪い。
結論、日本の政治がダメになったのは青文字系雑誌と、美形しか認めない少女漫画、テレビドラマ (20代であんないい部屋に住めるヤツらなんて一握り) のせい。
文化醸成をバカにしないでほしい。アートや音楽にももっとちゃんと触れて。
俺らは自分で自分の首をゆっくりと、しめて、茹でガエルなのさ!!
ハーッハッハ!!
映画版ペンギンハイウェイのアオヤマ君とお姉さんの関係が批判されている。
しかしテレビドラマや小説、漫画、アニメも含めて、世の中の作品には世相を反映したプロパガンダや思想が含まれているものである。
そのプロパガンダの詳細とは、「女キャラは男から認められるようなタイプしか出してはいけない」というもの。
映画に出てくるお姉さんのような、若くて美人で胸が大きくて、小学生の男の子から見ても魅力的な女性しか出してはいけない。
原作者や映画監督達は意識的にそのような女キャラを作り上げたのではなく、これはおそらく無意識的なものなのだろう。
このようなプロパガンダによって世の中に何をもたらすかと言えば、女は美人でなければならない、胸が大きくなくてはならないという無意識の規範が生まれることになる。
いまや日本の若者の大半がネットに接続してSNSのアカウントを持っている時代。つまり、SNSをしている若者が必ずあなたの近くにはあるわけだ。だから犯罪のツールにネットがあるというのは、その意味では当然だ。
もちろんそれが非行と直接関係しているわけではない。全国に張り巡らされたインターネット網とIT、それに伴う社会の膨大化によって、今までの日本の地域社会の流動化と不安定化が進み、非行を誘発しているのだ。かつ若者の高知能・所得のばらつき・欧米化により、市民が日常的に目の届かない地域で非行が拡大し、それにより初動が遅れる。
おそらく、暴走族の活動範囲も、昔であれば地方の幹線道路沿いに限られていたのが、都会のインナーシティや住宅街などにまで分散しているはずである。田舎だけを見回ればすむ時代ではなくなった。しかも暴走族そのもののゲリラ化が進んでいるために警察の対処がますます困難になる。こうした理由から、近年都市部を中心に暴走族が異常発生しているのであろう。
さらに、IT技術の高度化により、物的証拠などによる捜査が困難になっているという。特殊詐欺なんて昔から多いじゃないかと思うかも知れないが、インターネットを用いた詐欺事件の続発という状況は、この5年ほどに起きた現象だ。2017年に社会問題になったランサムウィルスも、手口が巧妙で何の手がかりにもならない。日本中の人間が、アメリカやヨーロッパなどと同じ環境に生きるようになったので、事件の手口がつかみにくくなったのである。
かつ、日本社会のテクノロジー化は、日本国内のコミュニケーションとコミュニティを消滅させた、あるいは衰弱させた。振込みでも銀行のATMを使わなくなるようになり、スマホやワンタイムパスワードの機械が重要になった。書店の仕事量は減り、定額で本読み放題という価値観が広がった。そうなると、メディアのビジネスも益々やりにくくなる。まして読書やメディアチェックすらパソコンやスマホで済ませる人がほとんどすべてになれば、新聞やテレビの収益も減る。休日の移動で満員電車を使わなくなれば、鉄道会社の収益が減る。都会の税収が減って益々不景気になるのだ。
YouTubeで立て続けに犯罪が多発したというのは、どういうことなのか?犯人の顔を知っている人が隣近所にもいなかったのか?まったく不思議だ。コミュニティが衰弱しているのは地方だけの問題ではなく日本全体の問題であると考えなければ理解できないであろう。
こうした日本全土の極端なファスト社会化の大きなメルクマールがアマゾンだ。ネット化が進めばアマゾンが台頭するし、アマゾンが便利になればますます個人化が進む。テクノロジー化による個人化が進んで、コミュニティが崩壊し、流動化した地域社会は犯罪を抑制する機能が低下している。あらぬところから道路や鉄道に乗って、どんな犯罪者が来るかも知れない。犯罪者も腹が減るから、たまには仮想通貨支払いで食事をするであろう。しかし周りに知る人はいない。そして駐車場で、たくさんあるアカウント情報のなかから気に入ったアカウントを盗めばよい。
最近のネットやテレビのニュースを見るとゲリラ化したヤンキーによる事件が毎日のように発生している。後から出てきたニュースもどれの関連ニュースなのかわからない。業務妨害事件といってもどの事件なのか、毎日のように起きているから分からない。しかもほとんどの事件が貧困層やマイルドヤンキーがうようよいるような地方ではなく、景気のいい大都市部で起きている。
ゲリラ暴走族が発生した道路を見ても、都心かと思えるような立派な地区も多い。だから地域的には申し分ない所なのに何故醜悪な事件が多発するのだろう。特に暴走族事案が目立つのは何故だろう。子供が荒廃しているとか家庭が荒廃しているとかは前から言われていたことだが、それ以外にも国民のコミュニティーが崩壊していることも原因の一つだろう。
もちろんネット社会が悪いわけではない。経済の合理化や近代化は時代の流れで避けて通る事が出来ない。ネットが便利なところは活性化するしネットそのものが雇用も創出する。外出せずに食品から生活用品まで全て買い揃える事が出来る。自宅から車で買いものに出かけて大量に物を買って車に積んで帰ってくるような生活が車無しでできる。まったくアメリカの田舎のような生活が日本社会に定着した。
私の若いころには便利なネット環境や高度なネット文化はない。用事のときは必ず外出していた。ところが現在ではネットが一人一台の時代が来て、買いものはネットショップで買いものするのが普通になっている。貧乏人がクレジットカードを持っていないのは過去の話だ。クレジットカードの審査はより甘くなり、手数料の無料かも進んでいる。
その結果、東京の都心で小銭やお札をお店で目にする機会は少なくなった。持っているのは地方からの観光客か未成年者ぐらいだ。だから日本でも現金を持ち歩く事がなく生活できる。もちろん地方都市は今でも現金が手放せないが、大都市部のチェーン店や富裕層が訪れる地域ではカードの普及が進んでいる。
このようにテクノロジー化した社会ではたとえば事件が起きても犯人の捜査もままならず、犯人もあらゆる手口を使って広範囲に移動するから警察も適応できない。今までは免許を持たずに生活していた階層が免許を取るようになった。オートバイを乗り回す高校生は現実になり、それに対する不満も生まれない。近所づきあいも薄くなったから事件の芽があっても近所も気がつかない。
このような環境が学生たちにも悪い影響を与えて、学生の非行の増加にもつながっているのだろう。戦後のアメリカで起きた青少年犯罪の多発が日本でも起きているのだ。一見歴史ある町並みの地域で青少年犯罪が発生するのはなぜか。そのような環境では家庭も個人も孤立してしまうからだろう。
小説や漫画やテレビドラマのような社会が現実に出現している。SNSを用いたゲリラ暴走族もアメリカ型少年犯罪の象徴だ。日本もテクノロジー社会がやってきたからそのようなライフスタイルが実現した。つまり日本も欧米のような犯罪多発社会になってもしかたがないのだろうか。チーマーやマフィアや極○も衰退し大人が子供を狙う犯罪も激減した。多くの人が未知の人間と寄せ合って生活している。日本にあったコミュニティーは崩壊した。
日本では欧米のような社会が理想であると教え込まれてきた。だからこそ誰もがネットに接続しそれで買いものや昔ではATMでしていたことをする。しかしその理想が実現したとたん青少年の非行化と犯罪が昔のように多発するようになった。凶悪な詐欺事件も増えた。日本はこれでいいのだろうか。コミュニティーを再建するにも社会そのものの流動化で無理だろう。
最近、オカルトブームを振り返る人が多いけど、あまりに言っていることがあやふやなので、とりあえず調べられるだけ調べてみた。
あのとき誘拐犯を擁護して被害者を売女扱いしたアカウントほんとめちゃくちゃあって「でもわかんないじゃーんひょっとしたらさーいやネタだってマジになんなよバーカバーカ顔真っ赤―しかし家帰ったら女の子が待ってるとか犯人勝ち組でしたなーあー俺も女の子”保護”したいなー」みたいなの山のように見たからな。実写化でそんな意見が更に補強されたら、誘拐は面白がってオッケー娯楽にしてオッケーみたいになったらたまったもんじゃねえわと思ったよ。
私は私の生きる現実の為にひとつの作品の首を絞めたがお前らも同罪だからな。逃げんじゃねぇぞ。
そんなことで大人が人の楽しみを、少年少女のためのフィクション作品を奪い取るようなことは、本来あってはいけないんだ。
いかに現実がクソだからってフィクション作品が消される理由は無い。だから漫画連載自体は無くならないでほしいなと思う。
勝手だけど。
【まとめ】
・陰惨な作品も、アンモラルな作品も、たくさんある。消させていいなんて思わないし、生みだすことも魅力に感じることも当然の権利。
・展開するメディアは漫画、小説、テレビドラマ、テレビアニメ、映画などそれぞれ触れ、受け取るハードルの高さが違うのではないか。
・こっちのメディアでOKならこっちのメディアでもOKだよね、とは簡単にはならないと思う。
・歳くって経験値や知識があるぶん嫌なことのフラッシュバックがきっついし、だからといって無視できない影響力があるとわかってるから行動する。楽しみにしてたファンは恨んでくれ。ごめん
というのが今回の騒動の一面ではあるよという話でした。4行になったわすまん。
これ「https://note.mu/amakara_no_tare/n/na4eb53fb6768」を受けて書きたいと思ったこと記事。
自分は今回に関してはテレビ局に慎重に取り扱ってほしい旨をメールで送った、ドラマ実写化に関してのみ規制賛成派。
該当作品はツイッター投稿をリアルタイムで見てて、その後ピクシブのぶんだけ読んだ。
ここまで前提。
■幸色のワンルームは少女にとって魅力的なのは「性」の扱い方にもあるんじゃないか
■クロスメディア展開がへたくそなのと制作側が色々甘く見てそうで怖い
■実写ドラマ反対したい理由は色々だけど、私個人に関しては”自分のため”だったと思う
の3本です。長い。一番最後に3行でまとめたから忙しい人はそれ読んでくれたら嬉しい。
幸色のワンルームは単なる誘拐の話ではなく、ただの男女の逃避行でもなく、
・理不尽にただ蹲って耐えるしかなかった少女が守るべきもの(=居たいと思える居場所、人)をはじめて得て戦うことで少女から大人へと羽化する話であり、
・リアルの男女の性に絶望した読者に対して「男と女ではなく、大人と子供でもなく、ひとりとひとりの人間として関係性を結ぶ」という夢を与える物語。
と捉えることができる。できるんですよ。傍から見たら犯罪だけど。
(問題は誘拐ストーカー設定なくてもこれを描けたことだけど、その設定のおかげで(いろんな意味で)バズってるから うん…)
「男とか女とか性とか支配被支配とかラベルだけの話ではなく、ぜんぶひっくるめて、私という人間とあなたという人間の話であり、救いの話」というふうに見たとき、
正直、読み口としては2000年代の商業BLやブロマンスに近いなと私は思った。
実際幸色のワンルームの幸とお兄さんの関係は決して恋愛感情だけにはとどまらないという風に描かれています。
加害者と被害者であり、無自覚的な搾取する側とされる側であり、姫と従僕であり、ナウシカと王蟲の幼生であり、友情であり、慈愛や同情であり、恋愛感情もうっすらあり、依存であり、共闘関係であり、勘違いであり、共犯者であり、そして全てを肯定し合う関係である。
だから人気が出た。
恋も愛もべたべたラベルが付いてひと山いくらで売られていることを、十代の少女たちはとっくに気づいている。そんなふうに安っぽくない、けれど十代少女たちに門戸を開いているフィクション作品をもとめている。それがどれだけ過去の文学や映画や漫画でありふれてやりつくされてきたものだとしても、「いま」「ここ」で「私たちに対して」向けられている作品に惹かれて何がおかしいのだ。
またこれは重大なポイントだが、お兄さんは性のにおいがしない。
デフォルメされた世界で成人男性の記号をほとんど持たない、いってしまえば無性の存在。メンタル的にもそう。
その上、精神年齢は少女とほぼ変わらないため、罪の意識を持った姿は読者にはどこか可哀想にうつる。過去の傷があるらしく年下の幸が守らねばと思うほどいたいけでたよりない。幸に都合の悪いこともしない。
けど、男。
「そんなやついねえよ」だ。だからこれはファンタジーだし理想たりえる。リアルと切り離せる免罪符でもある。
ひと山いくらのラノベに出てくる都合のよいヒロインから性の匂いをひっぺがしたようなものだ。少女にとって男の性は不要なもの、というか幼いころから自分を脅かしてきたものでしかないから、無い方がいい。幸の安心できる居住空間を提供する為にも。
だから、ストーカー、誘拐犯の男、というショッキングでスキャンダラスな設定はあるものの、それは今やおにいさんと幸が法を犯したことをしても問題ないというハードル下げのための設定になり下がっており、基本「ある日突然(可愛くて自分が居ないと生きていけない(A))女の子が空から降ってきた」と同義なのだ。ぺらっぺらだが、それこそが求められている。「怖くないから」だ。
(A)には「やんごとない身分の」「血のつながらない妹/姉である」とか、あと「大量殺戮生体兵器の」とか「妖怪の」とか「暗殺者の」とか「殺人鬼の」とか「サイコパスの」とか入ったりする。よくあるやろ。そういうのを①男女逆にして②リアル現代の③クライムフィクションにチューニングすると
ついこないだあった事件にそっくりで笑えなくなる、みたいなの超あるあるなんすわ…
とはいえフィクションだし少女漫画だし、問題ねーじゃんと思うだろ?私も思う。お兄さんは捕まるか虐待親に突撃して共倒れして死んで美しい思い出になって欲しいけど(どうせやるなら徹底的に幸に都合よく退場して欲しい)。
ツイッターへの最初の投稿とか現実の事件に対してタイミングが最悪すぎる件に関してわざとかどうかはもう「関係ありません」で貫き通すだろうし実際分かんねえからいいわ…。マジでインスピレーションさえ受けてないとしてももう運が悪かったと思ってほしい。というか当時あれだけのトップニュースすらチェックしてなかったなら作者はうかつだし、チェックしてても特に何も考えず出したならそれはそれで大変アレなのでそれは怒られても仕方ないんじゃねーかと思う。
特に問題に思うのは、クロスメディアするとしたら慎重にやるべき題材だったということだ。
「先生!」「PとJK」の実写化の時も同じこと思ったけど(あれも「少女漫画なら素敵だがリアルに考えるとわりとやばい」案件)今回は格が違う。なんせ誘拐犯でストーカーだ。どれだけ気を使っても使いすぎるということは無いだろうに…と思う。
後ろめたさも、退廃的なことも、この作品の魅力と分かちがたく結びついている。伝え方を一つ間違えたら倫理観を疑われる作品なのは変わらないのだ。
このへんは制作側の、なかでもプロモーションの腕が必要な作品だろうなと思う。
たとえば、この作品がギリギリまで性のにおいを消臭できているのは、絵柄の影響が大きい。デフォルメが強く、リアルさは無いティーン向けの絵。虐めのシーンにも性的なものは見受けられず変態教師とのバトルでさえ匂わせる程度だ。
性も犯罪も、それが主題ではないのだと、なによりも絵が主張している。
また、この作品は家族で見てやいやい言いながら見るより、一人で集中して見たいものじゃないだろうか?ターゲットは現在テレビを良く見る層と被っているか?いないんじゃないか?ティーンの原作ファンがこの作品を見て語り合うなら、家族よりも、同性で趣味の合う友達とではないか?
だから、メディア展開を思い切り間違えてる気がしてならないのだ。
テレビでやるならアニメ作品にすべきだったと思う。その人気に火を付けた一端でもあるキャッチーな絵柄を生かし、フィクションであることを最大限利用すればよかった。あくまでこれは夢物語で、リアルとは違うのだとアピールすればよかった。それでも非難は受けただろうが実写化よりはましだったはずだ。「誤解されやすいけど本来こういう話ですよ」と12話でも24話でもかけてやればよかった。
実写化したいなら、この退廃的な作品は映画の方が合うだろうと思った。それに映画館でしか見れない、というフィルタリングは大きい。実写化することでどうしても露悪的に、生々しい匂いになる画面をテレビから無作為にまき散らすのではなく、納得して料金を払い席に着いた観客にだけ誠心誠意向き合う形をとれば良かった。観客を巻き込んで二人の世界に浸れる場所を作ればよかった。
広告展開で規制派の火に油を注ぐ可能性は大いにあっただろうが、中止よりはマシな結果になったんじゃないか。
なんで再現が難しい絵柄を実写で、なんでナイーブかつ視聴者を選ぶであろう題材を全国放送の誰でも見れる割にメインターゲットを逃しまくるであろうテレビで、やろうとしたのだろう。やはりコストの問題だろうか。
いや本が売れたらいいなと思ってたんだろうけど炎上商法やった割にリターンがアレ過ぎない?そうでもない?わからんけど
正直、ドラマ制作側も作者の方も編集部も、「現実にある犯罪を扱った現代劇である」という認識が甘すぎたのではないかと思う。
それも、未成年の被害者がいる事件を、「犯罪としてではなく救済として描く」というひねりを売りにした作品でだ。
「カリオストロの城」でも撮っている感覚だったのかもしれない。モニタの解像度低いわ。
もしくは、とてもリアルだと思ったから実写にしよう!と思ったのかもしれない。
そのリアルさは虚構で夢でしかなく、それでいてとてもありふれた現実だ。
だって、実際の誘拐や幼児への事案はひっきりなしに起こっていて(マジでひっきりなしに起こっている)。
ストーカーや誘拐犯の脳内で、自分は被害者と愛し合っていたという美しい物語が展開されているのは決して珍しくないのだから。
その恐ろしさを無視して、リアルに寄せる実写化をするのは賛成できなかった。
苦言を呈す派に対して作者からのコメントは「実際の事件とは切り離してみてください」これだけだ。たったこの一言で全て免罪されるなら表現の自由とはなんとも気楽で無責任なものではないですか。いや作品内で色々ファンタジー要素盛って免罪符切ってるしあれこれ言及するより作品に集中するのは良い手だと思うけど無責任だとは思うぞ。
だって「世の中いろんな人もいる」と、これが現実でもありえるかもね、とでも捉えられるコメントを付けて世に送り出したのは、他ならぬ作者自身なのだ。
ドラマにしても、女優に「実際にこういうこともあるかもと思う」というコメントを、編集もせず流してしまった。(これで規制派の使命感に火を付けたようなものだと思っている)。制作側止めろよ…
現代のクライムフィクション作品でこのコメントが出るときは「だから怖いなって思いました」くらいのことが続くはずが、「実際あったら素敵」と続いてしまうような。
作品そのものというよりもその周りの倫理観がガバガバなのだ。現実がガバガバ。
そうでなくても今現在、長年沈黙されてきたハリウッドやら世界的に女優の性的搾取の告発が起きてて転換期で、それでも搾取する側の擁護をやめない(「いや、でも女性側も望んでたんじゃないか」みたいなのワイドショーで沢山見ましたね!)、日本のテレビ業界をつい最近私たちは見せつけられているのだ。そもそもの信頼感が地に落ちている時に「地獄の真ん中で搾取されてるけど女の子はハッピーです」みたいな作品作ってもそりゃ倫理観が疑われるだろという話だ。
お兄さんと幸の間にある感情はとても純粋なもののように描かれる。
それは憂いを帯びて美しい。破滅に向かっているからだ。地獄の上にある安息だからだ。あかるい太陽ではなく、暗闇の中の星。
薄汚く、ふたりを虐めるものばかりの世界でここだけは綺麗であるように感じる。実際そうだからなのだろう。未来なんて考えたくもないし過去の事は忘れたい。いまここにある、おにいさんと幸のあいだにある、形容しがたいなにか、それだけが全ての世界でいたい。
この作品のメディア展開が一つ潰れることで、悲しく思うファンもいるだろうなと思う。恨まれるだろうなとも。
つーか私も十代の時に、リアルで起きた殺人事件(娘が父を鎌かなんかで…)をうけて「ひぐらしのなく頃に」のメインキャラが義父を鉈で殺す回の放送が見送られた時「いやリアルとの区別くらいついてますけども~~~~~????」って怒ってたよ。
でも今(アラサーだよ)、もし「新幹線で鉈をふるう殺人事件が起きたけど、犯人は実は悪い人ではなかった」みたいなフィクション作品がテレビで予定されてるとしたら…今の私は、「それは見送った方が良いのではないか」と思う。
大人になるにつれて、想像力は広がりだけではなくリアルさを増していった。経験と知識が増えたからだ。
「これのせいでちいさい子供や、少年少女が酷い目にあうかもしれない」と思うと、耐えられなくなってくる。大人になれば強くなると思っていたのに、陰惨なフィクションも年々見れなくなっている。それは、年を重ねた分現実に起きる陰惨な事件を、それに対する酷い言説を、これまで見過ぎて、現実を見過ぎて、どうしても思い出すから、なんだか嫌になっちゃうからだと思う。大人になるにつれて、後から生まれてくる子たちが傷つかない世界になればいいと、祈るようになってきたからだと思う。
フィクションなのに、現実で被害に遭って泣いていた子や、かつて嫌な思いをしたときの自分を、思い出す。被害者の絞り出す様な言葉や、それに向けられた酷い言葉の数々を、理不尽を、やたらと思い出して、想像してしまって、苦しいときがある。
子供の時はフィクション作品やメディアの力を舐めてたし、大人になればもっと区別がつくようになる、
なんならフィクションを見てリアルを思い出すなんてオタク失格だとすら思っていた。
でもそうじゃなかった。
倫理観スイッチ切って倫理観ゼロの作品を楽しむには、TPOがある程度大事だと知った。自分の家族を亡くした直後に、家族を殺す話を楽しく読めないように。
倫理観ゼロの作品は、倫理観ゼロの現実世界では楽しめないと分かった。楽しめるならそれは娯楽である以上に、麻酔や薬であり、治療なのかもしれないと思った。生きるための救済。
作品の影響力を舐めたらダメだと思った。面倒なオタクである自分は偶像やフィクションに命を救われてなんとか生きてきた。
ならば人の命を奪う作品が無いなどとどうして言えるのか。
だから今回の幸色のワンルームへの規制は、わたしは(あくまで私はな)、
これを見た「大人」がリアルに起きた事件や今までの経験のフラッシュバックに耐えきれなくて「やめろ、せめて少女漫画のカテゴリのなかにいてくれ。そうでないなら無作為にまき散らす前に対策してくれ無作為にまき散らされて何が起こるか分かってんだおれはくわしいんだ(※嫌なことを沢山思い出しながら)」
って言ったんだと思う。
そういう側面は大いにあると思ってる。
「それでも僕はやってない。」が公開された以降から痴漢被害者への二次加害が酷くなったって話聞いてワァーってなった。
そんな変遷を見てきたら「こういう作品が公開されたら、また…」というフラバもそりゃ起きるよと思った。
直前に現実の誘拐事件があり被害者バッシングを見てるんだから余計に「あれが、また…」ってなるよ。(だから本当にタイミングが悪すぎたんだよ…)
というかそれはダメだ。現実がこうだから配慮して作品自体消そうみたいなのは私が一番やりたくないことだった。だからゾーニングとフィルタリング推進派なんだけどさ。
そしてゾーニング・フィルタリングはメディアの差でも実施できると思う。その作品に触れるまでのハードルの差があると考えているから。テレビは特にハードルが低い。例えば映画館での上映や本屋で棚が分けられパッキングされた単行本等とはそれだけでも違う。同列に語れないと思う。
だからってガチガチにこの本は誰向け!この本はこの性別この年齢このカテゴリ!とかマジ誰もやりたくねーよ。なにそのディストピアだよ。
ネックは「現実の事件に対する二次加害が野放しなこと」だから、ここがマシになれば結果的に表現の自由も守られるんじゃねーかなと思うけどどうですかそのへん。
ほんとね現実クソだったよ。現実の誘拐事件おこす犯人もマジでクソだったし被害者に向ける目も相当クソ。二次加害を大量に見過ぎて本当にメンタル削れたし、なによりオタクのリアル事件に対する大喜利に慣れ過ぎて、被害者がいるっつーのに自分も一瞬「あっそんなひどいことされてなかったのかも?」とか思ってしまったのがめちゃくちゃ自己嫌悪で死にたくなった(自分ネットのアイドルと二次元オタクカルチャーに10数年どっぷりなんですよ)。「そんなわけねーだろ」と思った。被害者の苦しみをも加害者のやったことも軽視出来るもんじゃない。絶対。
この感覚のままでいるのはやばいと思った。でもこれは曲りなりにも女体持ちで嫌な思いも散々してきたから「そんなわけねーだろ」と思えた部分はあるだろうなってのもあるし、「そんなわけねー話」をいくらでも茶化せる人がいるのも知っていた。
誘拐もストーカーも盗撮も被害者叩きも遠い世界の人にとってはそれはファンタジーだろうしな。
でもファンタジーじゃねえんだよな。
私が生きていく現実に影響があるんなら、私は私のために戦わないといけないと思ったんだよ。
もと南海の電車からホームに降り立つと、千頭駅にはたくさんの親子連れがいた。
妻と、4歳の娘と、1歳の息子と、チケットがとれてから、楽しみにしていたトーマスに会える日だ。
子供だけではなく、大人が見ても、このトーマスはテレビから飛び出した等身大のヒーローだ。大きさだけのハリボテではない。ホンモノなのだ。
トーマスの種車はC11-227。かつてはテレビドラマや映画で大活躍。裸の大将(雁之助の再放送)をよく追いかけていたのを覚えている。
正面にはトーマスの顔をつけ、ライトブルーに化粧をして、動輪までしっかりカラーリング。
大ベテランが子供の前で大活躍する姿をみて、Eテレの幼児番組、みいつけた!のワンワンと中のチョーさんを思い出してしまった。
千頭駅では機回りをした後で転車台で方向転換。ちゃんと顔を新金谷方面に向けるためだ。周りには子供も大人も集まっている。
転車台にのって、係員が人力で回すと、トーマスも汽笛を鳴らしてアピールする。
ぐるぐるっと向きをかえ、止まるかと思ったら、あれあれ、まさかのファイブフォーティ。魅せます、トーマス。一回転半まわって転換完了。
駅構内はイベント会場に整備され、パーシー、ヒロに、方向転換を終えたトーマスが並ぶと、地方私鉄の構内とは思えない華やかさになった。
トーマスの汽笛に合わせて、他の列車も汽笛を鳴らす。効果音ではない。本物だ。
新金谷駅の売店で買ったお弁当をベンチで広げ、子供たちの声を聞きながらお昼ご飯を食べる。ホームに入る風は山岳ローカル駅の風だ。
ただ、駅全体に子供の声があふれている。混んではいるが、人道的な混み方だ。ちょっと並べば、トーマスの前で写真も撮れる。
トーマスは発車直前まで写真撮影に応じている。煙突からは煙が出ている。発車が近くなると、黒い煙が増えてきた。
小型タンク機関車とはいえ、1,600mmの動輪径は子供の身長の倍。ホンモノのトーマスは、車輪の大きさも圧倒的だ。
みんなが並んでいるその前を再びゆっくり走り出し、再び客車に連結。
鉄道界の老老介護、最後尾の補機、電気機関車E10-2に感謝の黙礼をする。
そして、7輌の客車なかほどのスハフに乗り込む。
青いモケットのボックスシートに、トーマスのシートカバー。そして、所々にJNRマーク。
娘は、窓が開く、扇風機があると大喜び。昔はみんなこれだったと喉まで出かかったが、トーマス号とは関係の無いこと。
千頭駅から新金谷駅まで1時間強。途中の鉄橋や通過駅ではみんなに手を振ってもらえる。
特急となっているが途中の駅に止まらないだけで、各駅停車の電車と所要時間はほぼ一緒、のんびり走るのだ。
だから、手を振ってくれる人の顔がよく見える。子供はもちろん、大人も年寄りも、みんな笑顔だ。
白レンズを構えたおじさんもお兄さんも、客車が通過するころにはシャッターチャンスはすぎたとみえ、ニコニコしながら手を振る。
本命はこの後のC56-44かもしれないけど。
大井川にかかる鉄橋は見晴らしも良く、遠くから手を振る人もみえる。
吊り橋の上から手を振ってくれる人もいる。
茶畑のおばさんも手を休めて両手を振っている。
新金谷駅に着くと、車両基地の機関庫に入っていくトーマスがみえた。
子供と近くまで歩いてみると、もと近鉄電車や他の蒸気機関車とならんで、トーマスがみえた。
抗日ドラマはもはや「フィクション」で「パロディー」だ=中国報道
https://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20171112/Searchina_20171112021.html
中国では過去の歴史を扱ったドラマが非常に多く放送されており、こうしたドラマの人気は高い。特に多く放送されているのは、中国共産党の存在意義を正当化し、強調する意味もあると言われる「抗日ドラマ」だ。だが、近年は抗日ドラマはあまりに現実離れした描写が多いため、中国国内でも「抗日神撃」と揶揄(やゆ)する声も少なくない。
中国メディアの今日頭条は8日、「誇張された抗日ドラマはいつ終焉を迎えるのか」と疑問を投げかける記事を掲載し、中国で放送されている抗日ドラマの多くが「脚色され、事実と大きく異なっている」と指摘している。
記事はまず、中国では抗日を題材にしたテレビドラマが非常に多く放送されているが、その質は「玉石混交」と言わざるを得ないと指摘。しかも内容は誇張されているケースが多く、歴史を忠実に描いていないことを伝え、歴史を尊重せず、エンタメと化した抗日ドラマを通じて、多くの中国人は正確ではない歴史を植えつけられていることを指摘した。
続けて、中国で放送されている抗日ドラマはもともと抗日戦争が基になっているが、現在は内容が脚色されて時代錯誤の武器が登場したり、侠客化されたりして、もはやフィクションドラマになっていると指摘し、破天荒な描写が含まれる抗日ドラマは「抗日神劇」と揶揄されていることを嘆いた。
中国には毎日のように抗日ドラマが放送されており、当然、中国の子どもたちの目にも触れることだろう。では、子どもたちはこのドラマを見た時に、戦争に対する嫌悪感を抱くだろうか。むしろパロディーとして楽しさすら感じてしまい、戦争の残酷さや悲惨さに対する理解のない大人になってしまうのではないだろうか。(編集担当:村山健二)
どんな荒唐無稽な設定にされていても日本人の多くは抗議してないのにね。
別に中国人投資家が投資を控えても、中国販売を止めてくれても何でもいいし、原作者にアニメ製作者が損してもどうでもいいんだけど。この話題でドヤっている人たちは好きじゃない。
https://www.imdb.com/title/tt2930136/
7/10
これは、近年日本で最も人気のあるテレビドラマと言われています。 10のエピソードのシリーズ全体を見た後、私はそれがなぜとても人気があるのか理解しています。
一つは、日本の苦労している給料給付の男性が、自分が望むことを言いたいとは言いたいが、恐れている人を助ける。それは抑圧された声に役立ちます。
第二に、日本でバブル崩壊して以来、失業中の中小企業を大切にしています。彼らは、ナンバーゲームをしたり、資産を蒸発させたりする代わりに、実際に商品を生産する人々です。
急速に変化し、金融中心の社会では、Hanzawaは私たちがかつて失ったものを持ち帰ります。
私はそれがファーストクラスだとは言わないが、それはとても価値のあるものだ。より多くの観察:
それは日本の時代のドラマのようなものです。重要な人々はすべて行進して角を曲がり、その後将軍は支部長です。その後、すべてのトリックと扱い、同盟者。それは、昔や今、日本や中国でも同じです。
それは、ハンザワが自分の誇りを擁護しているサムライドラマのようなものでもあり、彼の将棋に対する忠誠ではなく、彼の父親の人間哲学に対するものであり、バンクーバーにいなくても観客に魅力を感じさせる。
上から下位の給料人には、生存のためだけに人生が苦しいというグループの圧力がたくさんあるようです。あなたは、他の妻と集まらなければならなかった妻のためにさえも、あなたがしていることや、あなたが言うことを細心の注意を払わなければなりません:彼らは調和して見えるという意味で多くの偽善があります。あなたが尊厳と誇りで生き残りたいなら、あなたの達成感はもちろん厳しいでしょう。
ランキングは、会社と妻の間で非常に重要です。さまざまなルールや習慣に従うというプレッシャーがたくさんあります。
したがって、コホートのサポートは、このランキングシステムと戦わなければならないときに非常に強力です。
結婚と仕事の生活は非常に異なっているようです。男性は通常、家での仕事について話しません。カップルの間には多くの秘密(不必要なもの)がたくさんあるように思われます。したがって、彼らは通気できず、多くの病気に発展する可能性があります。泥棒はそのような愛する父親になることができます。したがって、日本では、パンの唯一の養育者であり、自宅でも通気することはできません。彼らが以前に死んだのも不思議ではない。
すべての妻(大和田を除く)は、夫が職場で何をしているのか分からなくても、非常に支持的で理解しています。彼らから学ぶべきことがたくさんあります!
少なくともこのドラマでは、すべての行為は非常に役に立つものです。コホート間の協力を除いて、すべての行動が何か他のものと引き換えにあります。妻の花からのプレゼントでさえ、彼の勤勉のための報酬のようなものでした。無条件の献身と愛はどこにありますか?
詐欺師は1次元でもありません。私は彼らが物語をもっと説得力のあるものにする一方で人間でもあると確信しています。
ハンザワは対立しています。これは日本の伝統的なハーモニーの育成とはまったく反対です。多分日本の伝統に挑戦し、日本の給料人の間で未達成の欲望をたくさん出すので、彼らは皆それを愛しています。
スクリプトの面では、すべてのエピソードで新しい情報が少し驚いています。それは自然にあなたの注意を引くサスペンス映画のように動作し、あなたは放置できません。
日本人は長期的な関係を非常に重視しているようです。コホート、大阪の記者、敵。彼らは、彼らに邪悪で厄介な人々の良い思い出を持ち、それに応じて行動します。だから、それらを混乱させないでください!あなたが彼らに親切なら、彼らはあなたに親切であり、逆もまた同じです。その時点で私は似ています!
誰もが転送を恐れているようだ。しかし、少なくともあなたはまだ給与計算の下にあり、多国籍企業では、外国人として働くことは特別手当を受け取り、あなたは遠隔地に移され、古代中国のように新しいことを学ばない限り、キャリア進歩のはしごと見なされます。しかし、多くの偉大な文献は、著者がこれらの遠隔地に移されたときに書かれました。
大沢を演奏した香川照之は、ハンザと演奏した酒井正人に比べて優れた俳優です。彼らはKey of Life(2012)とその映画で一緒に仕事をしてきましたが、違いはさらにはっきりしています。 http://www.imdb.com/title/tt2078599/reviews-1
8/10
誰が企業の銀行口座振込がとても面白いかもしれないと思っていたでしょうか? Hanzawaと彼のローン部門は、数百万という総額のローンを承認するために、より高い価格で取引されている。 あなたが何か怪しげなにおいをする前に、口座は破産し、経営幹部はハンザワに対してすべての責任を負わせる。 彼らが推測していないことの1つは、彼の執拗さ、お金を守るスキル、そして彼を追いかける暗い復讐です。 罠はどこからも発射されず、敵は邪悪で狡猾なジャッカルのようなサークルです。 怒りを学ぶ - ハンザワとねじれ、それは二重の払い戻しだ! 殺人も殺人もない - ヌードはありません。 格付けはアジア全域で崩壊する。 非常に中毒性が高い。
私は小説が好きで、常に何かしら読んでいます。今でこそ慣れて一人の世界を築き、記録も他人が見ない前提でつけていますが、文学にハマり始めの頃、人と感想を交換できないことを残念に思っていました。本好き界では「良い本はいつ読んでも良い」みたいなことがよく言われていて、これは本当にその通り。だから、皆自分がその時に好きそうな本を、時代・国・作家を問わず求めると、結果趣味はバラけるわけです。読者が読むものが集中するとしたら、人気作家の新作とか、何かの受賞作とか、実写映画化したとか、そのくらいでしょう。「趣味は読書です」「小説をよく読みます」という人と出会っても、会った時点で一緒のものを読んでいた、同じ作家のファンだった、なんてことを私は体験したことがありません。全員バラバラなのです。おすすめを聞いて相手の真似をして初めて、同じ作家や作品のことが語れるようになるわけです。
そこをいくと、アニメやテレビドラマのファンてのは放送されたのを同時に見るし、漫画は多分連載や単行本発売のタイミングで読むだろうし、映画ファンも公開されたのを同時期に見るわけだから、一緒に見て感想を言い合う家族や友人がいなくても、ネット上で同志が見つけやすそうな所が羨ましい。実際はそこで積極的にいかなければ親しくはなれないだろうけど、多くの人が同じアニメを一斉に見ていてハッシュタグ実況になってる状態はとても楽しそうに見えます。
もっと言うと、スポーツ、ゲーム、バーベキューでもコミケでも何でもいいですけど、人との交流・共有に重きを置く趣味に憧れます。私は仕事ありの生活リズムと睡眠時間を優先するあまり、時間の決まったお教室(テニス、ダンス、ヨガとか)でお試し期間をこえて契約するに至らず、読書や楽器やランニングなど、好きな時間に1人でやれる、自分に都合のいいことしか続けてこれませんでした。仕事している限りこの癖は今後も変わらないだろうし、変えようとも思っていませんが、やっぱり趣味友達は羨ましい。