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2022-08-18

anond:20220817173650

お前の言うフェミニズムはどのフェミニズム

それが女性解放フェミニズムならまだ頷ける

平成後期から令和にねじまがったフェミニズムなら間違っている

親は薬物

私の親は毒親だったと思う。大人になるまでは気が付かなかった。毒親ネグレクトとか暴力をする親だと思っていたから。

3食ご飯を出してくれて学費を出してくれた。夏休みには祖父母田舎帰省、22までは親元で暮らしていた。鬱で仕事を辞めた時は実家で療養までさせてもらった。

では何故、毒親と気が付いたか、それは化粧や洋服に対する美意識が周りと違うと感じたからだ。

「こうなりたい=親から否定される」が幼少期から根強く、髪を染めるのにも親の説得が必要だった。

思えば学生時代から洋服は母に買ってもらいお友達に教えてもらった化粧をしてみたら「可愛いからそんなことしなくていい」と否定をされていた。

このねじ曲がった教育が今の自分形成してしまってることがすごく恥ずかしい。あからさまに10代でしかできなかった服装を今してしまってる。髪色もピアスの数も、アクセサリーも。

流石にTPOはわきまえる努力をするが、それでも親に抗いたいという念は消えない。

親は優しいと思うがそれ以上に麻薬のような中毒性がある、親は絶対世界正義こそは親の元にあるのだ。親の言うことさえ聞けばとりあえず問題ない、安心感がある。

政治の話なんか絶対にできない、親が正しいと分からせるから

親元から離れて3年経つが麻薬が消えかかってるのか生活不安がある。お金が足りないわけじゃない、友だちも恋人趣味もある。

それでも何か不安になる。

「正しい何か」が足りないから。

親は薬物。正しくないのに洗脳をさせた。

優しいことは認めるが親は正しくなかった。

それを今はただ認めるしかない。

この前よくいく料理屋で一人飯をしてたら、「この地頭はいいねぇ、下町情緒があるね!」 という声がしたから隣を見ると、カウンター席で何かの撮影をやってた。カメラやら照明やらの人たちに囲まれて、唇の厚いおじさんがスーツを着て、皿に載せた焼き地頭を食べながら論評している。たしか多部田先生かいう人だ。テレビグルメ番組でたまに見かけるが、実物はわりと普通のおじさんだった。

最近地頭ブームらしく、自分お盆休み長野まで行って収穫してきたのでレポ。地頭農園入口で料金を払うと、目の前いっぱいにひろがる地頭畑に通される。畑一面に、土から出たイガグリ頭が何列にもきれいに並んでいるので、なかなか見ごたえがある。その中から好きな地頭を選んで収穫するシステムになってる。さっそく目についた地頭の両耳を掴んで、勢いよくねじると、採れる。

採りたての新鮮な地頭をその場で食べられるように、畑の脇の方で炭火を起こしているので、自分で採ったやつを持っていくと、網の上で焼いてくれる。真っ黒こげに見えるくらいまで火を通してから皿に取って、ナイフで割ると、中はホクホクの地頭が食べられる。かなりいけたので、お土産にもう一個採って帰った。

2022-08-16

杉田水脈サムネ

ただいま世の中を席巻中の杉田水脈はてブに上がってる各ニュースサムネで表示される顔がいちいち違うので、おまえ誰や?杉田か!また騙された!と度々接したくもない関連ニュースを開くはめになる。

キャスター経験があり見た目を整えるのが当たり前な業界にいた小池百合子蓮舫はともかく、高市早苗福島瑞穂でも、たとえば選挙用に修正が入っていたとしても誤差の範囲で本人だと特定できるのに、杉田画像はなぜ顔が安定しないのか。

髪型、表情も含めて、「いちばん良い自分に見られる」スタイルを把握し、そうありたい姿に演出するのもこういう職業の人たちの仕事の一環であるはずだが、おそらくなんらかの形で準備しているはずの数々の正面顔も、表情が安定しておらずキメ顔はなさそう、かと言ってナチュラルさもなく、それならホームページトップ画像みたいにやれるとこまでやった画像を無理矢理ねじ込むこともせず、では画像はアレだけど実物だと意外に感じがいいんですねと印象が転じるわけでもない。

こういうこと書くとルッキズムがどうのと言われるかもしれないが、サムネに並ぶ顔を見てると、この見た目に有権者として騙されることはない表情ばかりなので、わかりやすいことは確かではあるのかなと思いながらまたサムネに騙されてしまうのであった。

2022-08-15

産地直送 顔が見える野菜

今年は地頭の出来がいいと聞いたので農協会館から外に出て隣の畑を見たらまあ、あるわあるわ、土から丸々としたイガグリ頭が突き出てずらりと並んでいる。一目見て思わず変な声が出てしまった。

その声が聞こえたのか、向坂さんも会館から出てきた。畑一面の地頭にやはり驚いたらしく、しばらく見入ったまま動かない。向坂さんは白い夏のニットタイトジーンズを合わせて、黒いロングブーツで畑の土を踏む。月曜はだいたいこの格好をして仕事にくる。

「今年はまたずいぶんできたねえ」

うっとりしたような声を出して、向坂さんはマルメンライトに火をつけると、煙の輪を静かに吹きだした。

「雨が多くて心配だったけど、まずまずだね」と私は相槌を打つ。

「そうねえ、これだけ出荷したら、今年はバケットを買うのに困らないでしょ」

向坂さんがそう言うが早いか、イガグリ頭の一つが目をむいてこちらを見上げ、

バケットじゃない、バゲットだ!」 と叫ぶ。

他のイガグリ頭たちはどよめいて、「いまだにフランスパンバケットと言ってる奴がいるとか」「ちょっと教養なさすぎじゃないか?」などと言い合う。

向坂さんは遠くからでも聞こえる音量で舌打ちをして、

「はあ? なんかくっせー奴らがいるみたいなんだけど、バケットつったらバケットなんだけど? フランスパンとか何の話?」

地頭たちもいきり立って、

フランス語baguetteは細い棒のことだからあのフランスパンの形状を表しているんだろうが、そんなことも……」「教養問題が」などと早口で唾を飛ばしながら声が高くなる。

そうこうしているうちに向坂さんは会館の裏からメロン色の油圧ショベルに乗って現れ、るあ、という掛け声とともに、掘削用バケットをイガグリ頭に向けて振り下ろす。赤いしぶきがバケットの先端に飛ぶ。

地頭たちのどよめきは一瞬で止む。

向坂さんは油圧ショベルから降りて、ぱっくり割れ地頭の上にしゃがみこむ。

「あのさ、バケットっていったら、これじゃないの? 普通農協で買うバケットつったらさ、ン?」

ジーンズを下ろし、しゃがんだ白い尻から地頭めがけて有機肥料を投下しようとする向坂さん。その後ろから私は脇に手を入れて静かに引き上げ、まあまあそのくらいで、となだめる。もう出荷なので、売り物なので。

「まあそうだったね、これがこれからバケットになるんだからね」

話しているうちに梱包材屋さんの配達が来てようやく本来仕事が始められる。地頭を一つずつねじって収穫してからビニール袋に詰め、出荷準備をする。今年の地頭はどれも大きめで、すべて梱包が終わった頃には少し腰が痛かった。

これから道の駅ワゴンを設置して、『産地直送 顔が見える野菜』というポップを立てて、地頭を売る。この光景を見ると、毎年夏も後半だなあと思う。

2022-08-14

2ちゃんねる管理人について

もう昔の話だし、

増田だったら、書いても良いよね?

まあ、大した話じゃないし、

フィクションだと思って、読んでもらえば。

最近2ちゃんねる(以下、2ch)の管理人だったひろゆき氏が、

メディアで引っ張りだこになっている。

2chがあれだけの無法地帯だったのにも関わらず、

彼が逮捕されていないことを疑問に思っている人も多いと思う。今だから言おう。彼は策士だ。

情報機関顔負けのスキルを持つ漢だ。

ひろゆき逮捕されなかったのは、本当は逮捕起訴される予定だったものの、警察が恐れをなしたから。

他人のことを、犯罪者逃亡者呼ばわりしていたけど、ひろゆきも決して誉められた存在でない。

もちろん、立件から逃れるために、海外に身を隠すことは褒められたことではない。公人なら尚更だ。

民事トラブルを抱えていたことを、ひろゆき本人も認めているが、だからといって刑事事件トラブルがなかったわけではない。「同じ穴のムジナ」というのは、まさに言い得て妙だ。

名誉毀損投稿を削除しなかったのは有名な話だが、問題2chを通じてテロ事件殺人事件犯行予告が多発してしまたことだ。凶悪犯罪につながるケースが後を絶たなかった。

それによって、警察が手出しできなくなってしまった。

例えば、秋葉原通り魔事件2ch犯行予告があったにも関わらず、警視庁事件を阻止できなかった。世間的には、1人の男による通り魔犯罪認知されているだろうか?あの事件は、警察組織にとってはとんでもない大失態であった。

わかりやすく言えば、安倍元首相銃殺事件並みのインパクトだ。

安倍元首相の件は、警備体制が不十分であった警察に対してではなく、統一教会槍玉に上がっている。

日本社会にとっては、事件の総括をしっかりするよりも、その方が都合がいいからだ。関係者の利害が一致してしまった。

決して、統一教会の肩を持つわけではない。だが、今、メディア統一教会口撃の急先鋒になっているのは一体誰だろうか?

話題が飛んでしまった。話を戻そう。

警察としては、人命に関わる事態が起きたときに、2chちょっかいを出したことによって、投稿者の情報が得られなくなることを、とても恐れていた。

1990年代に遡ろう。様々な凶悪事件引き起こした、某宗教法人のような組織なら、公安監視し続けることで、抑えつけることはできていた。

しかし、2chのような指揮命令系統不明瞭な緩い組織を、警察としても、どう扱ってよいのかわからなかったのである

考えてみてほしい。国賓が来訪するときや、国家威信をかけた行事で何か起きたら、警察組織はどう扱われるだろうか?

ましてや、犯行予告が出ていて、犯人を速やかに検挙できなかったら?

違法投稿は、通常、捜査事項照会書をサイト運営者に送り、投稿者の情報提供を受け、通信事業者発信元を照会することで、投稿者の身元をある程度特定することができる。

サイトアプリによっては、各都道府県警とホットラインができていることも多い。Lineなどが非常に良い例だ。

いずれにしても、サイト運営者の任意の協力が必要になる。もし協力関係がなければ、どういう不利益が生じてしまうのか?つまり、そういうことだ。

こうした背景もあり、警察ひろゆきの家にガサ入れまでしたのに、逮捕起訴は取りやめた。もはや、司法取引と言っても過言でないだろう。

ひろゆきが、一枚上だったのは、

サーバー意図的海外におき、

警察が手出しできないようにしたことである

日本サーバーがあれば、最悪どうにかして押収することができるが、

海外にあれば一切手出しができない。

それどころか、サーバー管理者海外にいたため、投稿ログ強制的に調べることすらもできない。

日本警察には、海外に手出しできるほどの権限もなければ実力もない。仮にできたとしても、ほとんど実務では使えない、国際司法共助ぐらいだろう。

こんな状態は、出世を気にする警察官僚にとっては脅威でしかなかった。

こうやって、イカれた人を増長させ、

飼い慣らすことに成功してきたわけだ。

2ch関連で起きた事件を総括すれば、

緩い結束のテロ集団と言っても過言ではない。

控えめに言っても、犯罪の温床であったのは間違いない。

無法地帯を作り出すことで、

捜査の網が自分にかからないようにしたのである

結局のところ、このとき警察犯罪組織に屈してしまったのである

ひろゆきは、違法サイトの先駆けとして成功し、

警察ねじ伏せた唯一の尊師なのである

あのサイト成功の裏には、光も闇もあるのだ。

彼が警察を異常なまでに擁護するのは、それなりに理由があってのことだ。それだけは、理解しておいた方がよい。

ひろゆきに対しては、本当に余計なお世話かもしれないけど、4chanの扱いだけは気をつけた方が良いよ。

いくらひろゆきであっても、FBIとは戦えまい。

Win-Win関係を築けるのか?

まあ、フランスアメリカと仲があまり良くないから、

そこにいるのは、とても賢い選択だと思うけどね。

誰かを利することがあってはいけないと思うので、最後に敢えて書いておく。

海外在住だからといって、日本パスポートを持っている限りは、身柄が安全とは限らないことを申し添えておく。

刑事事件被疑者に対しては、一定の条件を満たせば、旅券返納命令を出すことができるからだ。これ自体は、警察ではなく、仕事の遅い外務省管轄ではある。

とにかく、ほかに国籍を持っていない限り、有効パスポートなしにその国に滞在し続けることはできない。

その時点から不法滞在になってしまうのだ。

示談が済んだとしてもその事件はその事件

他に事件があれば、それはそれ。

捜査の手が伸びることになる。

から、罪を重ねることのないように。

結局、この記事を通して何が言いたいかと言うと、

物事を表面だけで捉えるな。すべてを疑え。

たまには役に立つことも書きたくなるものだ。

邪魔したな。あばよ。

2022-08-13

同人音声の隆盛と衰退について書いてみる

同人音声について取り上げたブログが先日ホッテントリに上がっていたのもあって、同人音声沼にもう何年も浸かってる自分が界隈の変化と今を簡単にまとめてみる。

まず、音を聞いて抜く(しこる)ってのがよく分からない人もいると思う。AVエロ漫画と違って視覚的な刺激がないので、物足りなさを感じるかもしれない。可愛い声の女の子エロい台詞を喋ってくれればそれはエロいのだが、同人音声はエロい台詞というよりシチュエーションで抜く文化になってる。目を閉じてイヤホンヘッドホンをはめて、女の子が隣にぴったり座って耳元で囁きながら手コキしてくれるような妄想で聞いて抜く。エロい台詞があったらもちろん抜けるんだけど、ぶっちゃけ耳元で吐息があればいいし、随所で「おっきくなってきたね」とか「我慢汁でてるよ」とか「そのままいっていいよ」とか簡単台詞があればそれだけでもいい。エロい台詞朗読じゃなくて、どっちかというとバーチャル女の子がすぐ隣にいるシチュエーションで抜くわけ。VRAVもかなり一般的になってきたけど、同人音声のバーチャルは本当にすごい。だって想像から。とても可愛い二次元美少女世界最高峰モデリングで出てくる。だって妄想から。それを可能にしてくれるのが音の存在感っていう作り。映画ちょっと音響のいいシアターで見ると音がすぐ隣にあったり後ろから来たりしてビクッとすると思うんだけど、それをすごくミニマムエロに特化させたのが同人音声ということ。シチュエーションバーチャル二次元美少女を成立させるための演出に特化してる。

それで、2010年代後半に爆発的に発展したのが、バイノーラマイク。それまでは正面位置の音を左右にパンするのが一般的だったけど、バイノーラルで細かく位置や高さや距離演出できるようになった。音だけで女の子が近づいてきたり、離れたり、手前に移動して乳首を舐めてくれたかと思ったら、左耳に回って囁いてくれて、今度は右に移動して耳を舐めてくれたりする。さっき上に書いたシアターの音響に近づいた。今ではバイノーラルの音声作品が主流になって、そうじゃないのは市場の一割くらいになった。それくらい、バイノーラルで爆発的に発展した界隈。

そういう背景もあって、同人音声はMと相性がよかった。目を閉じて、バーチャル二次元美少女イメージしながら抜くから自分から腰を振るのはちょっと動きとして違うよねっていうのがずっと強かった。エロ漫画を思い出してほしいんだけど、エロって普通、責める方が喋るの。言葉イニシアチブを取ってる方が発する。陵辱ものは竿役がべらべら喋るし、痴女ものヒロインが喋る。だから、お姉さんが優しく手ほどきしてア・ゲ・ル(はぁと)、みたいなのが同人音声には多かった。受け身のMが二次元美少女に手ほどきされるのが同人音声のメディアと相性よかった。だから同人音声といえばM向けって印象を持ってる人も多いんじゃないかな。これは音を聞いて抜くっていうスタイルを重視した結果で、1人でしこしこオナニーするには受け身の内容がぴったりだった。でもバイノーラルの発展と共に、スタイルじゃなくって、音そのもの勝負する流れが生まれてくる。マイク技術が上がってきたのもあって、女の子の喘ぎ声をクリアな音声で収録して、それにぐちゃぐちゃぱんぱんって腰振りの効果音を合わせると、男が動く内容でも音として抜けるようになってきた。技術スタイルや相性を上回ってきた。

また、同人音声は当たり前だけど竿役が喋らないから、「〜ってこと?」っていうちいかわ構文みたいなオウム返しを使って竿役の台詞を代弁させるのが一般的だった。これも変わってきていて、巷の噂では声優オールアドリブをさせて収録させていたりと、より自然に、シナリオではなく臨場感や音の質やリアリティで抜かせる方向に進化してきた、ってこと。

ASMRっていうのも今では一般的になって、YouTubeでもよく見るようになった。これはぞくぞくする音の快楽を求めるものなんだけど、もちろん、同人音声とも相性がよかった。R15あたりのちょいエロASMRが出始めて、今ではASMRと同人音声をひとつ作品パッケージするものも多くなってきた。これも上の流れと同じで、アニメチックでM向けとされてきた同人音声が、音の質というガラパゴス進化を遂げてきた背景がある。だから今は環境音に凝るサークルも多くって、実際に街中で街の雑踏の音を録ってきたりもよくある話。腰振りパンパン効果音も、金と機材のあるサークルマイクの前でオナホとローション使って声優の声にあわせてパンパンして録り下ろす。よりリアル臨場感のある音が仕上がって、妄想の中で二次元美少女が喘ぐ。実際に腰みたいな大型オナホを買う人もいるだろうけど、ほとんどそうじゃないと思う。本当は腰を振ってないけど、音で腰を振るイメージができる。AVエロ漫画みたいに、映像や絵の刺激と同じように、音そのものの刺激という根源的なところに戻ってきた。それができる技術が積み上がってきたのね。だからほとんど受け身コンセプトだった市場はがらりと変わった。

女の子が喘ぐ声と音の質を重視する流れは、ASMRと合体して、耳舐めという文化を作った。女の子が耳を舐めてくれるエッチプレイ。ただ浅いところでぺろぺろするんじゃなくて、本当に舌をねじまれているようなぐぽくぽしたやつが今の流行り。そのまま吐息混じりに淫語を囁いてくれる。それもバイノーラマイクで。そして今の流行りはオホ声。これはエロ漫画アヘ顔の音声版みたいなやつで、女の子が濁点がついた お゛っ て喘ぎ声をはしたなくあげるというもの。一歩間違えるとゴリラのウホウホ声になっちゃうんだけど、上手い声優さんはとても上手い。しかもこれはいわゆる種付けピストンみたいなごりごり男が責める内容と相性がいい。オホ声の流行は、古くから続く同人音声=M向けが決定的に覆されたわかりやすい例だと思う。

でも、ここまで盛り上がっている市場は衰退しつつある。粗製濫造のターンに入ってきた。それまでは個人サークルが細々と作るまさに同人文化だったが、そこから成り上がった大手サークルや、資本力のある企業が、どんどん数を出すようになってきた。

同人音声って、実は簡単に作れる。まずエロアイデアを出す。そこからライター仕事を依頼する。これで3万くらい。声優に読んでもらう。多めに見積もって10万。絵師に依頼する。これも10万だとする。編集だってネットで探せばやってくれる人は山ほどいる。これに5万としよう。あとはデザインとかロゴとかをフリーデザイナーに依頼して2万として、合計30万。これだけあれば立派な見てくれの作品は作れてしまう。これを1000円で売ったとして、プラットフォーム(例としてDLsite)の取り分が4割なので、600円が利益。500本の売上が損益分岐点だ。500人に買ってもらえばいい。そしてこれは、有名な声優と有名な絵師を使えば、ほとんど簡単に達成できる。そして流行りがとても顕著でユーザーもすぐそれについていく市場なので、今であればとにかくオホ声主体作品を作ればいい。損益分岐点を越えれば、あとは補充不要自販機として延々と売れていく。有名サークルほとんどFIREしていくだろう。年に数千万は固い。だから参入障壁がとても低い。同人で家が建つの漫画だとイメージやすいと思うけど、絵はそう簡単に身につかない。練習必要。でも同人音声は簡単。全部人に依頼しても作れてしまう。最初の元手さえあれば回るだろう。コロナもあって副業で音声サークルやる人が増えて、実は近年、同人音声の作品リリース数は過去最高を更新し続けている。完全に市場は飽和。そして利益が落ちたエロ会社もどんどん資本を投入してきていて、個人同人)では作れないクオリティの音声をすごいスピードリリースするようになった。今、音声市場は完全に供給過多になった。でも、それでも売れている。もうほぼギリギリで、そろそろ表面張力限界のような気がする。

あとはプラットフォーム問題。現状はDLsiteが独占状態で、FANZA最近は音声に力を入れてきたけど足元にも及ばない。DLsite事実上の独占にあぐらをかいて、一部サークルを反感を買うレベル優遇したりと阿漕なことも沢山やっていた。最近ちょっとそういうのも大人しくなったけど、あまりにも一社独占なので、DLsite判断ひとつでどうにでもなる感じ。市場競争が成り立っていない。これもすごく危ない。

そして同人声優。元エロ声優が半分くらい、もう半分は同人音声の時代に成り上がってきた若手。といっても有名どころの十数人が主力で、ほとんどその人たちで回っている。上に書いたように作品リリース数が跳ね上がってるけどネームバリューのある声優はまだまだ少ないので、余裕で半年一年先の収録スケジュールまで埋まってたりもする。バイノーラマイクを扱えるスキルがあってASMRにも理解があって耳舐めできてオホ声も出せる、あまりガラパゴス進化しすぎた存在なので、替えが効かない。これもちょっと市場としては健全じゃない状態

同人音声は、聞き手想像力に頼る形で発展してきた。ドラゴン娘もサキュバスエルフスライム少女ともエッチできる。だって想像の、バーチャル存在から。どんなエロ漫画よりどんなコスプレより解像度が高くぬるぬる動く。妄想から。そしてそれに説得力を持たせられる音の技術が上がってきた。純愛NTRスカトロも欠損も拘束も催眠も、だいたいの性癖はそろってる。無い性癖を探す方が難しいと思う。視覚に頼らないから、人の想像力っていう根源的なところが占める割合が大きい。AVエロ漫画より可能性が広い。人の想像の数だけ広くなる。それが、目をつむって楽しむエロである

2022-08-11

リコリス・リコイル』はドストエフスキー児童搾取テーマに通じるメタアイドルサバイバルアニメの傑作だ!

 ども、皆さん、アニメリコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときリアルタイムで見る作品としては破格に面白い


 一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。


 そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。


 さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。


 一見すると現代日本と同じように平和社会舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。


 このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズ説明されている。


 しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案アサウラさんはインタビューでこのように述べています


アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656464389


 最初の時点から少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品系譜があります虚淵玄最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。


 現在アニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつジャンルといっても良いかもしれません。


 ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感ねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います


 それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。


 これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています


――足立さんが入って、物語が明るい空気になったそうですね。


足立アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分DVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的ものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。


 ひとつパートナー役の大人がいないことで、もうひとつ少女たちが洗脳されておらず、自分意思戦闘に参加していることです。


 前者に関しては原案アサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。


 しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的意思で戦っているわけです。


 もちろん、「自発的意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。


 きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するときひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事はてな匿名ダイアリー投稿されています


前線少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたときリコリス少女のみで構成される理由(※)や、少女前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。


アサウラバニラのころからこういうところがあって、物語少女大人社会)という対比ではなく少女少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。


まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。


https://anond.hatelabo.jp/20220806182309


 しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。


 「社会正義平和を守る組織」としてのDA欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。


――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。


足立子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。


――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。


足立:確かな事実として、日本世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーあるかな


要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品批評したことにはならないのです。


 そして、個人的感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピアユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。


 とすれば、この認識の上にさら議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバであるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的ものでしょう。


 「現代日本では女子高生が最も警戒されないか子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。


 さらにその女の子たちのうちのふたり喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。


 このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルアクションストーリーというよりは一種寓話志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的ウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。


 そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉寓意を見て取るべきなのです。


 それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます


 まさに上記匿名ダイアリー批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本アニメ産業欺瞞でもある。


 評論家杉田俊介は、新海誠監督映画『天気の子』について、このように書いています


ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本アニメ批判するアニメ、「アニメ化する日本現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本現実」とは、少女人柱アイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである物語最初の方に、風俗店求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜チンピラに騙されて新宿性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的演出だろう)。


https://gendai.media/articles/-/78976


 ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。


 杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本現実」とは、少女リコリスアイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。


 つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会構造のもの批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメであるわけです。


 『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾欺瞞偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います


 その意味で、『リコリコ』は、じつは一種アイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。


 たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています


今日アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイル可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。

暗黙の「恋愛禁止ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズムSNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実アイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。


その一方で、自らの表現模索しながら主体的ステージに立ち、とき演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手欲望規範押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。


https://www.amazon.co.jp/dp/478727449X/


 アニメ場合美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンキャラクターに「身勝手欲望規範押し付け」て「消費」している構造は同じです。


 そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞構造現在日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題テーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます


 もっとも、この児童搾取問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます


 この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟であることは論を待たないでしょう。


 この小説のなかで、イワンカラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります


 そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。


 俺は一般的人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一相手子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。


(中略)


 まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!


 つまりイワンはここで子供犠牲にして成り立つユートピア欺瞞告発している。(続く)

リコリス・リコイル』はドストエフスキー児童搾取テーマに通じるメタアイドルサバイバルアニメの傑作だ!

 ども、皆さん、アニメリコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときリアルタイムで見る作品としては破格に面白い


 一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。


 そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。


 さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。


 一見すると現代日本と同じように平和社会舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。


 このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズ説明されている。


 しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案アサウラさんはインタビューでこのように述べています


アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656464389


 最初の時点から少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品系譜があります虚淵玄最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。


 現在アニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつジャンルといっても良いかもしれません。


 ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感ねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います


 それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。


 これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています


――足立さんが入って、物語が明るい空気になったそうですね。


足立アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分DVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的ものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。


 ひとつパートナー役の大人がいないことで、もうひとつ少女たちが洗脳されておらず、自分意思戦闘に参加していることです。


 前者に関しては原案アサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。


 しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的意思で戦っているわけです。


 もちろん、「自発的意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。


 きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するときひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事はてな匿名ダイアリー投稿されています


前線少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたときリコリス少女のみで構成される理由(※)や、少女前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。


アサウラバニラのころからこういうところがあって、物語少女大人社会)という対比ではなく少女少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。


まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。


https://anond.hatelabo.jp/20220806182309


 しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。


 「社会正義平和を守る組織」としてのDA欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。


――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。


足立子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。


――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。


足立:確かな事実として、日本世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーあるかな


要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品批評したことにはならないのです。


 そして、個人的感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピアユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。


 とすれば、この認識の上にさら議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバであるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的ものでしょう。


 「現代日本では女子高生が最も警戒されないか子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。


 さらにその女の子たちのうちのふたり喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。


 このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルアクションストーリーというよりは一種寓話志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的ウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。


 そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉寓意を見て取るべきなのです。


 それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます


 まさに上記匿名ダイアリー批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本アニメ産業欺瞞でもある。


 評論家杉田俊介は、新海誠監督映画『天気の子』について、このように書いています


ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本アニメ批判するアニメ、「アニメ化する日本現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本現実」とは、少女人柱アイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである物語最初の方に、風俗店求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜チンピラに騙されて新宿性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的演出だろう)。


https://gendai.media/articles/-/78976


 ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。


 杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本現実」とは、少女リコリスアイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。


 つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会構造のもの批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメであるわけです。


 『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾欺瞞偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います


 その意味で、『リコリコ』は、じつは一種アイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。


 たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています


今日アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイル可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。

暗黙の「恋愛禁止ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズムSNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実アイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。


その一方で、自らの表現模索しながら主体的ステージに立ち、とき演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手欲望規範押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。


https://www.amazon.co.jp/dp/478727449X/


 アニメ場合美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンキャラクターに「身勝手欲望規範押し付け」て「消費」している構造は同じです。


 そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞構造現在日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題テーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます


 もっとも、この児童搾取問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます


 この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟であることは論を待たないでしょう。


 この小説のなかで、イワンカラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります


 そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。


 俺は一般的人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一相手子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。


(中略)


 まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!


 つまりイワンはここで子供犠牲にして成り立つユートピア欺瞞告発している。これは、『天気の子

リコリス・リコイル』はドストエフスキー児童搾取テーマに通じる

 ども、皆さん、アニメリコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときリアルタイムで見る作品としては破格に面白い


 一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。


 そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。


 さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。


 一見すると現代日本と同じように平和社会舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。


 このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズ説明されている。


 しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案アサウラさんはインタビューでこのように述べています


アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656464389


 最初の時点から少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品系譜があります虚淵玄最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。


 現在アニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつジャンルといっても良いかもしれません。


 ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感ねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います


 それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。


 これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています


――足立さんが入って、物語が明るい空気になったそうですね。


足立アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分DVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的ものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。


 ひとつパートナー役の大人がいないことで、もうひとつ少女たちが洗脳されておらず、自分意思戦闘に参加していることです。


 前者に関しては原案アサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。


 しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的意思で戦っているわけです。


 もちろん、「自発的意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。


 きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するときひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事はてな匿名ダイアリー投稿されています


前線少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたときリコリス少女のみで構成される理由(※)や、少女前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。


アサウラバニラのころからこういうところがあって、物語少女大人社会)という対比ではなく少女少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。


まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。


https://anond.hatelabo.jp/20220806182309


 しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。


 「社会正義平和を守る組織」としてのDA欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。


――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。


足立子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。


――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。


足立:確かな事実として、日本世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーあるかな


要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品批評したことにはならないのです。


 そして、個人的感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピアユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。


 とすれば、この認識の上にさら議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバであるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的ものでしょう。


 「現代日本では女子高生が最も警戒されないか子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。


 さらにその女の子たちのうちのふたり喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。


 このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルアクションストーリーというよりは一種寓話志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的ウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。


 そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉寓意を見て取るべきなのです。


 それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます


 まさに上記匿名ダイアリー批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本アニメ産業欺瞞でもある。


 評論家杉田俊介は、新海誠監督映画『天気の子』について、このように書いています


ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本アニメ批判するアニメ、「アニメ化する日本現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本現実」とは、少女人柱アイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである物語最初の方に、風俗店求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜チンピラに騙されて新宿性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的演出だろう)。


https://gendai.media/articles/-/78976


 ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。


 杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本現実」とは、少女リコリスアイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。


 つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会構造のもの批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメであるわけです。


 『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾欺瞞偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います


 その意味で、『リコリコ』は、じつは一種アイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。


 たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています


今日アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイル可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。

暗黙の「恋愛禁止ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズムSNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実アイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。


その一方で、自らの表現模索しながら主体的ステージに立ち、とき演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手欲望規範押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。


https://www.amazon.co.jp/dp/478727449X/


 アニメ場合美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンキャラクターに「身勝手欲望規範押し付け」て「消費」している構造は同じです。


 そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞構造現在日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題テーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます


 もっとも、この児童搾取問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます


 この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟であることは論を待たないでしょう。


 この小説のなかで、イワンカラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります


 そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。


 俺は一般的人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一相手子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。


(中略)


 まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!


 つまりイワンはここで子供犠牲にして成り立つユートピア欺瞞告発している。これは、『天気の子

リコリス・リコイル』はドストエフスキー児童搾取テーマに通じる

 ども、皆さん、アニメリコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときリアルタイムで見る作品としては破格に面白い


 一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。


 そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。


 さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。


 一見すると現代日本と同じように平和社会舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。


 このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズ説明されている。


 しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案アサウラさんはインタビューでこのように述べています


アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656464389


 最初の時点から少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品系譜があります虚淵玄最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。


 現在アニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつジャンルといっても良いかもしれません。


 ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感ねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います


 それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。


 これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています


――足立さんが入って、物語が明るい空気になったそうですね。


足立アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分DVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的ものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。


 ひとつパートナー役の大人がいないことで、もうひとつ少女たちが洗脳されておらず、自分意思戦闘に参加していることです。


 前者に関しては原案アサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。


 しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的意思で戦っているわけです。


 もちろん、「自発的意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。


 きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するときひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事はてな匿名ダイアリー投稿されています


前線少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたときリコリス少女のみで構成される理由(※)や、少女前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。


アサウラバニラのころからこういうところがあって、物語少女大人社会)という対比ではなく少女少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。


まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。


https://anond.hatelabo.jp/20220806182309


 しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。


 「社会正義平和を守る組織」としてのDA欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。


――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。


足立子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。


――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。


足立:確かな事実として、日本世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーあるかな


要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品批評したことにはならないのです。


 そして、個人的感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピアユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。


 とすれば、この認識の上にさら議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバであるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的ものでしょう。


 「現代日本では女子高生が最も警戒されないか子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。


 さらにその女の子たちのうちのふたり喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。


 このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルアクションストーリーというよりは一種寓話志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的ウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。


 そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉寓意を見て取るべきなのです。


 それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます


 まさに上記匿名ダイアリー批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本アニメ産業欺瞞でもある。


 評論家杉田俊介は、新海誠監督映画『天気の子』について、このように書いています


ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本アニメ批判するアニメ、「アニメ化する日本現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本現実」とは、少女人柱アイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである物語最初の方に、風俗店求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜チンピラに騙されて新宿性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的演出だろう)。


https://gendai.media/articles/-/78976


 ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。


 杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本現実」とは、少女リコリスアイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。


 つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会構造のもの批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメであるわけです。


 『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾欺瞞偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います


 その意味で、『リコリコ』は、じつは一種アイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。


 たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています


今日アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイル可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。

暗黙の「恋愛禁止ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズムSNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実アイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。


その一方で、自らの表現模索しながら主体的ステージに立ち、とき演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手欲望規範押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。


https://www.amazon.co.jp/dp/478727449X/


 アニメ場合美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンキャラクターに「身勝手欲望規範押し付け」て「消費」している構造は同じです。


 そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞構造現在日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題テーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます


 もっとも、この児童搾取問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます


 この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟であることは論を待たないでしょう。


 この小説のなかで、イワンカラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります


 そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。


 俺は一般的人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一相手子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。


(中略)


 まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!


 つまりイワンはここで子供犠牲にして成り立つユートピア欺瞞告発している。これは、『天気の子

2022-08-10

anond:20220810225718

ただのきつねじゃなくておそらく聖獣

部屋で発狂するのは楽しい

普段我慢してたありとあらゆる癇癪や怒りを一人で暴れまくって解消するのはたまらいね

もちろん近所迷惑なっちゃめだから、大声を叫ぶときは湯を張った風呂場の浴槽の中で

ドン壁ドン対策のためにドタバタ暴れるのではなくマットの上で身体ねじって声にならない奇声を上げてビクビクする

工夫はいるが十分に発狂できる、こうでもしなきゃ俺に溜まるストレスは消せない

キチガイになって好きなだけキチガイをやることで心の平穏を得られるんだ

宇宙戦艦ヤマト2202が、評判悪いけど観てみたらそんなに悪くなかった

ネタバレ満載だからこれから見る人は注意してね。

で、悪くなかった。

かにアラは目に付きまくるが、まあ本来2時間で終わるさらば宇宙戦艦ヤマトを、2クールで作れと言われたらあれ以上にやるのは難しいだろうな、という感はあった。

自分は「2」は見てないのでそっちとの比較はしないが、個人的には2199よりも満足感が高かった。

というか、自分は2199の随所に不満があり、そっちで期待値を爆下げしてたので、2202が意外と悪くなく感じたのだろう。

2199の何に不満を持ったかと言えば、真っ先に思い浮かぶのが「波動砲封印」。これである

なんかイスカンダル姉妹が二人とも波動砲嫌いで、何でも昔イスカンダル波動砲宇宙に覇を唱えた事を悔いているからとか。

しらねえよアホ。それをやったのはイスカンダルであって地球じゃねえ。

なんでお前らの反省地球が縛りプレイしなきゃなんねーんだよ。

波動砲封印したせいで外敵に敗れて地球が滅びたらお前責任取れんのか?

ヤマトは大ガミラス相手に1艦で戦ってんだぞ。

沖田艦長は何か使わない約束しちゃったけど、あれほとんど戦争終わってたかOKしただけだろ。バラン星より前にそれ言われてたらOKたかよ。沈むぞヤマト

まあそんなこんなで波動砲封印しちゃって、その悪影響が2202まで引きずってたわけだが、

ご存じのとおり、2202の後半なんて数百発の波動砲が飛び交う波動砲天国である。(というか、波動砲くらいしか相手有効攻撃が無い)

2202の冒頭では、「波動砲を使いたくない古代と、波動砲を使いたい地球連邦軍」という対比になっていたが、

本来これは逆であるはずだ。

波動砲がなきゃ敵に勝てないと骨身にしみてる古代と、かすっただけでも比喩抜きで地球木端微塵になりかねない波動砲封印したい地球連邦」という図式の方が自然だ。

波動砲撃ちまくりになったら困るのは地球なのだ。この辺、旧作のさらばでも何も考えずに波動砲艦隊作った辺り、幾ら核兵器比喩とはいえ扱いが雑だなあという感が強い。

まあ、それはともかく、通常兵器では殺していいけど波動砲では殺しちゃダメ、というイスカンダル姉妹の独特の価値観は、普通空襲で死んだ人は特集しないくせに広島長崎で死んだ人は毎年特集して語り継いでる日本へのオマージュかと思われるがとにかくアホらしい。

人道を掲げるならいっそのこと「兵器は何一つ使うな」くらい言えば良いものを、そこまで言えない辺りに底の浅さがにじみ出ている。

だいたい、あの姉妹イスカンダルの座標すら地球に教えてくれず、試練とかふざけたことを言ってて、本当に地球を救う気があるのかも怪しいのだが、

この辺の高貴なるイスカンダルの高貴なるお遊戯は旧作には出てこないわけなので、2199で追加された新設定であると思うと腹立たしさも倍率ドンである

まあ、リメイク作品の作り手の常として、「旧作を極力リスペクトしつつ、旧作の矛盾点は解消したい」という欲があった事は想像に難くないので、「なんでイスカンダルガミラス二重星だと最初に言っといてくれんのや」という旧作の不満点を解消しようとしてそうなったのだろうが、

そんなちまい矛盾を解消するためにスターシャを人類に試練を課す女みたいな妙な位置づけにして世界観をぶっ壊してしまうのは本末転倒ではないのか。

旧作のひおあきら版なんて、スターシャ様はイスカンダルを爆破してガミラスを巻き添えにする烈女ぶりを見せており、そこまで献身的に助けてもらっちゃうと、さらばで地球連邦の増長ぶりに腹を据えかねた古代の怒りも理解できるのである

イスカンダル自分犠牲にしてまで地球を救ってくれたのに、テレサメッセージ他人事としてブッチするとか、地球はそこまで恩知らずかという古代の怒り、失望、そういったもの理解できるわけで、それがさらばのラストで「今度こそ地球は目覚めるだろう」という、地球文明自体の成長と、そのためのヤマト犠牲という図式に収まるわけなのだが、

リメイク版では2199のイスカンダル女がイスカンダル価値観押し付けてくる傲慢さを見せつけているせいで、その辺の図式がパァである

というか、イスカンダルガミラス本来異星人であり、地球理解し合える部分なんて「点と点」でしかないのが当たり前なのだが、2199では何を血迷ったのかガミラス地球の戦いを、ガミラス恒久平和を目指してるとか、地球から先制攻撃したとか、お前、「戦争はどっちにも正義がある」的なDD論を持ち込もうとしてるやろというSFも糞もない地球価値観を設定をぶち込んできたのだ。

このガミラス地球人化は話が進むにつれてどんどん進行し、なんかドメルが良い家庭人的な扱いになってたりとか、かわいい少女宇宙人がでてきたりとか、もう目も当てられないほど地球的なガミラス像が展開されている。

旧作も最終的にそういう方向に行ってしまうのだが、少なくともデスラーが「愛」とか馬鹿な事を言い出すのは新たなる旅立ち以降の話であって、話が通じないか大砲で会話するという異文化コミュニケーションの基本は旧作の方が押さえていたと言えるだろう。

あと古代守の特攻シーンもなあ。旧作の、負け続けて逃げ続けて、負け疲れた人がとうとうブチ切れて「死んでやる」と言い出したような救い難さがなりを潜めて、皆で笑顔軍歌合唱しながら特攻である戦争やった事ない人の軍人ロマンやな、という感が強い。(私も戦争やった事なんてないけど)旧作の方が「負けっぱなしの軍人が死に場所を求めた」感があって、良い感じにやるせなかったのだ。この辺は「バカめ」も同じで、あれは本来、指示を受けた通信手の方でも真意理解できないタイプの、どんだけ負けまくっても諦めない男・沖田十三がどんな人間かを示すセリフのはずなのだが、2199では部下の方も心得顔で得意満面の返答であるスタッフバカめと言ってやれ。

あとはもう、戦争やってんだか青春やってんだか分からんお前ら本当に軍人かと言いたくなるようなヤマト学園ぶり(これは2202にも引き継がれている)とか、まあ色々あって2199には大変失望させられた。

一方、2202はまあ、確かに変な部分もあった。

テレサ位置けが微妙過ぎて、なんなのあの人って感が強かったのとか、なんか「一日稼げば一日分の艦隊作って持ちこたえられる」みたいな事言ってた割に、最後バルゼー艦隊が何の抵抗も受けずに地球上空を押さえちゃったの何でなのとか(なんか私が見落としたんだろうか・・・)、トランジット波動砲かいうの、他の地球艦にも装備して2,3発撃ち込めば終わってたんじゃないのとか、斎藤の名セリフとか無理やりねじ込んでキーマンとか華々しく死なせた割に、あの特攻なんも意味ねーじゃんというかもう、そこで死なせるなら加藤と同じ場所でも良かったじゃんとか、加藤加藤で、お前そんな選択はいくら何でも無いやろとか、お前そんな死亡フラグ立てまくる事ないやろとか、まあ、色々言いたいことはあるのだが、

旧作の海原雄山みたいな傲慢な爺さんであったズォーダーや、キャラ立ってたくせに退場シーンすら存在しないサーベラー関係ないけど、アメリカだと古代×サーベラーカップリングが割と鉄板だとか20年ばかし前に聞いた覚えがある)なんかに大胆な設定を付与して、旧作とは全然別物ながら「異質な異星人」として存在感出しまくってたのが大変良かった。この辺、地球人化が著しいガミラス人とは対照的である

旧作で存在した「アンドロメダ征服した帝国首都星一破壊されたくらいで終わるわけないやろ」という矛盾点(これはガミラスもそうだけど)を、ゴレムとかいシステムで解消した事とか、旧作の地球連邦艦隊のあまりにアレな負けっぷりが解消されてたのも良い。

時間断層かいう取って付けたような設定も、当初は「一年でそんなに復興するわけないだろ」という旧作の矛盾点を解消するためだけのギミックかと思ったら、終盤ではそれをフル活用して「勝てないけど負けない」という異形の戦術を編み出す所までSFしてくれたのは意表を突かれて大満足だった。独自の設定を前提として、現実ではありえない合理性を編み出してこそSFである。小賢しいワームホールとか波動なんちゃら理論なんか幾らそれっぽいのを出そうが、そんなものSFではない。別の合理性を構築してこそSFなのだ

2202については、双方の戦法がデタラメである事を批判する声もあるようだが、もともと「知らない文明同士の戦争」でまともな戦法なんてあるわきゃ無いのである。とりあえず隠し玉を用意しつつ、ちまちま突っついて相手の手の内を探る以外の何ができる。相手がどんな兵器持ってるか分からないのに、陣形とか笑止である。密集陣形が良いのか、散兵戦術が良いのか、機動戦術が良いのか、野戦築城が良いのかなんて、相手がどういう兵器を持っててどんくらいの数がいるのか分からなければ、判断できるわけもないのだ。

ガミラス戦争ガミラス側が陣形を多用できたのは、ガミラス地球側の戦力を読み切っていたからと、相手ヤマト1艦だけだったからであろう。

そもそも地球もガトランティスワープ持ってるのだから、先に手の内を晒した方が著しく不利なのだどこでもドア持ってるやつ同士の戦いで陣形が何の意味があるというのか。

有効な戦法があるとすれば、「あとどれだけ増援が来るか分からない」という状態を維持することで、相手方に全力を出させない事くらいだろう。全力攻撃で目の前の相手殲滅しても、その隙をついた後だしジャンケン攻撃で我が方が殲滅を食らっては意味がないからだ。要するに戦力の逐次投入が最適解だ。

という事で、ガトランティスの戦法のなさっぷりは別に不満は無い。

山南も良いキャラしてて、特に前半の「イスカンダルに行った連中は浮世離れしてて・・・」みたいな発言は良かった。確かにあの世界では銀河系の外まで行った地球人はヤマト諸君だけであり、ほとんどの地球人は太陽系の外どころか、生まれた星の外に出た経験がある人すらどれだけいるか怪しいレベルなのだ

そのせいで、ヤマト諸君感覚と、一般的地球人の感覚にはかなりのズレがあると考えるべきで、上記発言はその辺の地球人側の感覚を端的に表している。

そんなこんなで2202はわりと満足できる出来だった。スタッフお疲れ様でした。

2022-08-08

anond:20220804160350

俺も博士課程(工学)に籍を置いてる28歳男、博士は今年4年目で現在休学中、主著論文なし、奨学金返済免除解除、ほぼ卒業諦めてるから増田気持ちがなんとなく分かる。

俺の場合研究したい!指導教員のような良い先生になってこの分野の面白さを広めたい!なんて思って博士課程に飛び込んだけど、博士課程2年目で、あ、俺はこの世界でやっていけない、成果残せない、論文が書けない、周りの人がスーパーマンすぎるわってなって勝手に病んで徐々にフェードアウトしていった。

その点いままで研究してきた増田はめちゃくちゃえらいし、俺から見ればスーパーマンだ。ほんとすげーよ。

俺はその後、知り合いがやってる研究開発のベンチャー会社に拾ってもらって、そこでぼちぼち仕事して今はそれで細々と飯食ってる。

しかしたらまた頑張ろうとなるかもしれないか大学は休学しているけど、これから行くかはわからん

もし増田国立大学所属なら休学を視野に入れてみるといいと思う。休学中は授業料がかからないはず?。

また満期退学をして卒業後何年間かは審査に挑めるかと思うからその間に実績を積んで挑むというのも手かもしれない。

どちらにせよその間の身分はどうするんだとなるが、そこは指導教員に一度相談してみるといいと思う。もしかしたら助手有給・無給は分からんが)として置いてくれて研究室に出入りできるようにしてくれるかもしれないし、どこかの企業ねじ込んでくれるかもしれない。

企業研究開発の部署に行ければ論文を書く機会もあるかもしれない。もしかしたら共同研究ということになって研究テーマ変更して、共研のテーマ論文書けるかもしれない。

この辺は先生次第になってしまうから分からんし、増田の分野次第だが。

結構適当社会は回ってるし、博士で得た知識、考え方、応用力自体無駄にはならないと思う。もしアカポス以外に行ってもこの4年は決して無駄ではないよ。きっと人生を豊かにしてくれるよ、俺はそう信じてる。

それにこれまでアカデミックだけ見てきたか正規ルートから外れると人生終わったように感じてしまうけど、案外なんとでもなるよ。

アカポスストレートで行くのは確かにかっこいいしスマートだけど、何もストレートで行ってる人だけがアカポスにいるわけじゃないんだし、多少遠回りしてもいいんじゃないかと思ったよ。

色んな事に挑戦してみようぜ。

ほどほどに頑張って

2022-08-04

セカンドバージンとふにゃちんがマッチした

26歳女。

セカンドバージンっていうか本当はサードバージンなんだけど、セカンドバージンって調べたら「長いこと性体験から遠ざかっている女性」ってあったかセカンドバージンなんだと思う。

さすがに26歳にもなってほぼしたことないのやばいな〜と思って、とりあえず抱いてくれるいい感じの男の人がいたらいいなってTinder始めた。

それで好みっぽい男にlike飛ばしまくって運良くマッチした人にメッセージ送ってってやってたら、始めて数日でとある男の人と「明日会いましょ〜」ってなった。

女性風俗店で働いてる25歳の男、タロウ(仮)。

いい具合に抱いてくれる男の人がいればと思って始めたし、女性風俗店勤務なら慣れてなくてもいけるかなって思って「いいですよ〜」って返した。

待ち合わせは土曜日の16時に渋谷

嘘くさい美容モニター勧誘を受けながら宝くじ売り場の前で待ってたら、写真よりちょっとだけ野暮ったいタロウが現れた。

「初めまして〜」って挨拶してそのままホテル行った。「お酒とか買ってく?」って聞かれたけど緊張しすぎて断った。お酒めちゃくちゃ好きなのに。

ホテル着いて部屋入ってシャワー浴びたらタロウが「おいで」って言って(どうでもいいけどこの台詞が1番テンション上がった)、ベッドに転がされてそのままマッサージされた。女性風俗店では最初マッサージするんだって。知らなかった。

それでどんどん性感マッサージみたいになってって、気付いたら色々されてた。タロウ風俗店で働いてるだけあって色々やってくれた。経験がほぼ無いから知らないけど前戯は長い方じゃないかな。多分。知らんけど。

そんなこんなされてると、タロウが「舐めたことある?」って聞いてきた。だから正直に「手でしかない」って答えた。

そしたら「舐めてほしい」って言われたか人生で初めて舐めた。タロウは全身脱毛済みでツルツルだった。

「上手くないと思うけど…」とか言いながら私も初めてなりに色々やってみた。やってみたけど、どんなに舐めてもタロウは元気にならなかった。

初めてだから下手なんだろうな…ごめんな…とか思ってたらタロウが「やっぱだめか〜」って言い始めた。

えっ、馬鹿にされた?と思ったんだけどそうじゃなくて、タロウ実はEDだったらしい。

正直「私と会ってる場合じゃなくない!?下手な処女じゃなくて上手いお姉さんと会えば!?」って思った。

からそのままそれを言ったら「性癖ねじ曲がって処女しか勃たないかもしれないと思って」って言われた。そんなことある?多分ないと思う。

結局その後は「申し訳いからイかせてあげるよ」ってタロウが言ったからまた色々されたんだけど、残念ながらセカンドバージンの私の体は全く慣れていないので私もイかなかった。心なしかロウしょんぼりしてた。

結局二人ともすっきりすることなホテルを出て、コンビニで缶ビールを買って駅まで歩きながら飲んだ。駅前は人が多いからってちょっとだけ手前の方でどうでもいい立ち話をして(何で女性風俗で働いてんの?とか、普段お酒どのくらい飲むの?とか)そのまま解散した。

ロウ最後ハグをしてチュッて軽くキスしてくれた。缶ビールのせいでちょっとだけ息が臭かった。多分私も臭かった。

連絡先も交換しなかったし、好きになるような何かがあったわけでもないし、そもそも私は結局抱かれてないかセカンドバージンのままだし、っていう当初の目的を何一つ達成してないような時間だったけど、そういうのは抜きにしてタロウは多分普通に良い人だった。

幸せになってほしいなって思えるほどタロウのことは知らないけど、コロナかかってないといいなぐらいは思える程度には良い人だった。

結局その後は仕事が立て込んだり単純に飽きちゃったりしてTinder開いてすらいないから今のところ私が会ったのはタロウだけなんだけど、でもなんか同じ年代の男の人にも見えないだけで性の悩みとかもあるんだなって思った。私だけだと思ってた。

いつかいい感じの男の人に抱かれてセカンドバージン卒業したいな〜誰か抱いてくれ〜

2022-08-03

anond:20220803200254

なぜ民主主義ねじ込んだし

その文脈なら出すべきは資本主義で、今まさに格差の拡大が問題だと言われてるところ

anond:20220801153406

組織トップ主人公」に限定すると男女ともマトモな漫画なんか一つもないと思うよ

父親家族のためにがんばる野原ひろしか部長まではいったクッキングパパ、あと社長会長島耕作、あと夜王もあったかな、くらいだろ

あれ女がやっててみんな見たいか?いやクッキングママならいいけど(いいのか?単なる九州男児おせっかいおばさんじゃん。普通すぎるし男尊女卑臭が鼻もちならんのでは)

ライバル社の社長を次々抱いていく島耕子なんて嘘臭さ極まるし寝取り趣味かかなりモラルねじまがった特殊性癖のやつしか読みたくないのでは?

 

女性で盛んなBL二次創作だの夢小説だのってそういう少女漫画にも少年青年漫画にもあきた人のための個人的創作だとおもうよ

 

あとルフィーーーさんのことを馬鹿にする意図はないけどあい現実的にみてリーダー向けじゃないよ

あれをみてリーダー論、組織論をぶちかませるやつはお花畑すぎる。

台風たまたまトラックが橋上で横転するのをスマホ撮影できたやつは「組織のちからで」そこにいたのではなくたまたまそこに住居があって家にいてふとスマホたちあげただけの人だろ

そのまわりに何万人も「台風うるさすぎ、スマホがあってもなにも撮影するものがない」とおもってる人がいる。実際台風からって窓の外みてても退屈なだけだし。

ゴムゴムの実」食ったら主人公になれるのでもなく、偉いか主人公になれるのではなく、あとからふりかえったらそこにいるやつを主人公にするしかなかった立ち位置のやつに漫画家がカメラ向けてるだけ。

ルフィしろ誰にしろ主人公ってのは「たまたま運がよかったのでそこにあてはめられて、編集者作家が練り込んだそれらしい嘘(幸運で~とか協力者が~とか)というきれいなおべべ(服)を50枚くらい着せたやつ」にすぎないよ

現実社会じゃ裸の王様

2022-08-02

anond:20220802184242

なんかねじ曲げて藁人形してるけどこの文脈における需要がないって売り専における需要の話だからね?

実際に希少属性持ち以外は売りの需要マジでなくて全然稼げないからね?

男女の場合と違ってタチもウケもセックスしたい人が溢れ返ってて、何万も払わなくてもマッチングアプリなり発展場なりで安くセックスできるから

統一教会改憲案と自民党改憲案が似てるのは統一教会側の方が自民党案に寄せてるからって事くらいわかりそうなもんだけど。

もっとも、いくつかのキーワード統一教会ねじ込んだというのはあり得るけどね。

少しでも統一教会の事を知っていれば統一教会改憲案に微塵も統一教会らしさがないことくらいわかるはず。

anond:20220802152225

そんなときは便利な量子力学を使って、波動関数の収縮過程に神の介入をねじ込もう。

○○した事ないなんて人生の半分損してる!

とかぬかす奴いるけど、そもそもの俺の世界に無かったものなんだから損じゃないんだよな

今○○を知ったとしたら、これから○○のある世界を生きて行けば良いだけの話

逆説的に言えば自分世界に無いものを聞きかじりで「○○いらない」とか「○○より□□の方が良い」とか言うのもちょっと違う

恋愛かめんどくさいかオナニーで十分」とかい童貞は「恋愛とか多分ネットで読んだ感想としてめんどくさいだろうからオナニーで十分という事にしておく」というのが正しい

  

とはいえ、取り合えず一回本物を経験してからいらないとか言えよ。みたいな話をして、「じゃあお前はホモセした上でやらなくなったのかよ!」とか言われると、やっぱり人生において一度も経験しなくていいですなので

タイトルみたいな事を言うやつは「勝手に人の人生不要ものねじ込んできて、お前の価値観で損とか判断すんなボケ」って結論になると思う

2022-08-01

ねじはちまきを元に戻してやった

お前はもうねじはちまきじゃねえ!

ただのはちまきだ!

そんなんじゃもう祭りには出られないよな!

どうだ?どんな気持ちだ?

恥ずかしいか

んん??

ハハッ!そうかそうか!

そりゃ恥ずかしいよな!

お前はもうただのはちまきだもんな!

ねじった後が残ってるのがまた悲しいな!

・・・じゃあさ、どうしてほしい?

どうしてほしいか、大声で言え!

「私をねじってください!」って言え!

・・・?聞こえないな。もっと大きな声で!

「私をねじってねじってねじり倒してください!」って言え!

よしよし、よく言えたな。

そーれ、ねーじねーじ。

おいおい、まだ少ししかねじってないのに嬉しいのか?

ほんとにお前ってやつはダメなやつだな。

ほーれ、ここはどうだ?こんなねじり方されたことないだろう!?

ほーれほーれ!ねーじねじ

なに?やめてほしいってか?

仕方ねえなぁ、じゃあ、やめようか?

・・・え、やめないでってか?

そりゃそうだよな、お前は根っからねじはちまきだもんな!

あー楽しくなってきた!ねーじねーじ!

なんだなんだ!?そんなにねじったらちぎれちゃうってか!!?

本当はちぎれるまでねじってほしいくせに!!

ほーれ!最後ねじりだ!ほーーれ!!!




こうして出来上がったねじはちまきは、ただいま当店で販売中です。

ご購入のかたはブクマトラバでご注文ください。

安倍長期政権統一教会選挙協力のお陰で国民意思は介在してなかったみたいな話になっててもうなんか駄目だ。

そこまで認識ねじ曲がってるともはや何を言っても無駄なんだろうなぁと思うし、耳にしたくもないけど、毎日職場でアベガートウイツキョウカイガーとうるさくて正直げんなりしてる。

いっきうんざりした顔してるのに全く気づかないんだな、あん人達って。

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