はてなキーワード: 傍証とは
なにしろ九州が未曽有の大災害に襲われている渦中であるから、ひっそりとしか報じられていない印象だが、
安倍晋三が、今日から始まる靖国神社の春の例大祭に真榊を奉納したというニュースが流れている。
参拝は見送ったとのこと。
例のごとく、なぜ参拝しないのか、特亜に配慮なんかするな、戦没者の慰霊がなぜいけないのか、などと
最近はなんだが「マスゴミはなぜいちいちこんなことを報道して騒ぎにするのか?」などという発言も見られるが、
まあ「取り上げれば騒ぎになること」をとりあげるのはマスコミの仕事なのだから、取り上げてあたりまえである。
自分は、靖国神社の存在について、神道の伝統にしたがえばきわめて特殊な神社であると思う一方、
なにかと「首相の参拝実現を!」と叫ぶことには反対の立場である。
というか、首相などということよりも、もっともっと先に実現すべきことがあると考えている。
英霊たちは、岸信介の孫のパフォーマンスなんぞより、今上陛下の御心を待っているはずだ。
先帝陛下は、先の大戦に敗れて以降も、定期的に靖国に親拝されておられたが、1975年11月を最後に靖国を訪れることなく崩御された。
先帝陛下は、その大御心を無視して靖国神社がA級戦犯を合祀したことに対して不快感を持ったれており、
それが親拝されなくなった理由だという説がある
今上陛下がなぜ親拝されないのかということについては、現在の陛下のお立場から考えて、
少なくとも陛下のご在位の間には決して明らかになることはなかろうが、
「もし、今の状況で陛下が靖国に親拝されたりしたら、ハチの巣をつついたような騒ぎになる。
そんなところに、陛下がいかれるわけがない」と答えた、という話を読んだ記憶がある。
となれば、現在、行政の最高責任者である安倍晋三のなすべきは、
自らが「最高権力者でござい」という顔をして陛下を差し置いて靖国に赴くことではなく、
陛下が親拝されるとなれば、やれ軍港主義の復活だのなんのと騒ぐ輩が内外からでてこようが、
それは間違っている。
たしかに、先帝陛下は昭和20年まで大元帥として軍を統率されていたが、
敗戦によって軍服を脱がれて以降、荒廃する日本の各地に赴き、親しく国民と接せられ、
「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世になど波風の 立ちさわぐらむ」という明治大帝の御製を引かれて
その御心を示された方である。
軍服に威儀を正した大元帥陛下でおられるよりも、スーツとソフト帽の姿で民衆に手を振る象徴天皇でおられるほうが、
望みだったのではないかと、畏れ多くも推察する。
もしかしたら、庶民的な君主であろうとしたが故に、君側の奸に疎まれ、挙句は若くして病に倒れた父君
国籍や民族を問わず、先の大戦の悲劇を語り継ぎ、その犠牲者を慰霊することを
自らの責務として精力的に活動されていることは、近年の海外への慰霊の旅の数々をみれば、言うまでもあるまい。
先の大戦に敗れて「象徴天皇」という立場になって以降、日本の天皇というのは
英国の王族などは、軍務につき、結婚式では嬉々として軍服に身を包んでいたりするが、
現在、我が国の天皇はじめ皇族方は、けして軍服などという野蛮な服装に身を包むことなく、
我が国の事実上の軍隊である自衛隊の最高指揮官は内閣総理大臣であるから、その地位にあるものが靖国神社を参拝すれば
現行憲法下で今上陛下が靖国に参拝することが、軍国主義の復活につながるとはとても思えない。
もし、そのことで国内外に誤解があるのならば、その誤解を解くことこそが、首相の仕事であろう。
首相自身が靖国に行かないことで近隣諸国の懸念を防ぎ、陛下の親拝実現に一歩でも近づくのであれば、むしろそうすべきだ。
にもかかわらず、無用に近隣諸国との緊張を高め、陛下を差し置いて自らが靖国に行きたいなどという首相がいたならば、
それは、本当の意味で皇室を敬愛しているのでもなかれば、我が国のことを思っているとは、到底思えないのである。
そもそも現在でも陛下は、伊勢をはじめ、各地の神社や天皇陵を親拝されているし、
宮中では、日夜、神道の形式にのっとって、我が国の安定の民の幸福を祈っておられる。
もちろん、それは「象徴天皇」の「国事行為」ではなく、天皇家の私的な行事としてであって、
その区別は厳格にすべきだろうが。
皇室を敬愛する愛国者のふりをして、近隣諸国へのヘイトスピーチをばらまきつつ「首相の靖国参拝実現」を声高に叫び
結果として陛下の靖国親拝への道を遠ざけ、英霊の御霊の安らかなるを妨げるものは、
愛国者のフリをした不逞の輩というべきであろう。
上の記事を書いた。
学生から好かれるまでは確率の話だったが、好かれた後にどう対処するか(要するに交際に応じるかどうか。)は倫理に属する話。
大学教員として20年以上過ごしてきて、学生と交際に至った例を見聞きした経験は相当少ない。
この手の秘密は完全に隠し通せるものではなく、ウワサとしてはあっという間に広まる。特に、口さがない大学生・専門学校生のコミュニティでは。
ただ、そういった話は、大学上層部が介入しない限り、ウワサのまま終わる。
そのようなウワサは毎年耳にはするが、学生×教員の接触総数から言えば、相当少ないと感じている。
自分の話をしてもたいした傍証にはならないが、大学教員を始めて以来、数十名から告白を受けつつ、結局、誰とも付き合うには至らなかった。
お泊まりセットをバッグに詰めた大塚愛似の女の子が、週末の夜、研究室までやってきて、今日は先生の家に泊まりたいです、という趣旨のことを言い出したときも、受け流して、自宅までのタクシーに乗せた。
大塚愛(当時19歳)にはわずかに心揺れたが、親へのアリバイ作りを友人たちに頼んでいたと後日聞いて冷や汗をかいた。もし泊めていれば、翌日には学科全員の知るところとなったろう。
一般女性から告白されて数十名を振ることはまずないので、上記の例でも分かるように、学生に手を出すことにはやはり特別の抑制が働くようだ。
にもかかわらず、ウワサは広まる。本人たちはバレないよう振る舞うが、「忍れど色に出にけり」は止められない。
ここは自分の経験論なので、根拠レスの与太話になって申し訳ないが、同僚教員たちや学生たちは見てないようで見ており、まあそうなのだ。
別に犯罪ではないし、教員が独り身であれば不法行為でもない。「自由恋愛」の一言で不問に付される大学もあるやに聞く。
学生とつきあう先生は、何割かの同僚から眉をひそめられつつ、学内政治がうまいか研究業績が抜群であれば安泰だし、そうでなければ程よいタイミングで外に出されるだけのことだ。
神戸の女子大学で20歳下の教え子さんと結婚に至った内田なにがし先生はきちんと愛を貫かれ、職もまっとうされたのだと思うし、ひとときの熱病から覚めた学生にポイされて職場も家庭も失った先生もいるだろう。
しかし、いずれも「自由恋愛」の帰結ですと言われれば、そんなものかなと言えなくもない。
もっとも、10歳も20歳も年の離れた男性が、同世代の男子学生が及ばないであろう経済力(と女性あしらいの経験値)を背景に、先週告白してきただけの女子学生に手を出すなんて事象は自由恋愛なのだろうか、チート恋愛なんじゃないの、という疑問もなくはないのだが、当職はそのようなトラブルを処理する立場にないので、この疑問はしばらくのそのままとしておきたい。
いや俺も長期の話はしてないんだが。
山田太郎さんと鈴木花子さんの別姓夫婦の家族を指す呼称として「山田さん家」も「鈴木さん家」も併用して使えるよって話をしている。家族の呼称がひとつでなければならない理由などない。
傍証:
(1)別姓可能な国ではそうやってて特に不便は生じてない
(2)家族に別の姓が混ざるのは日本でも珍しくなかった。サザエさんの家族を指すのに「磯野さん家」と「フグ太さん家」を併用しても特に困らない。
(3)家族の呼称は文脈依存である。山田家が二つあれば区別できるように呼びわけるだろ? 要するに文脈の中で区別できればそれが個別の家族の呼称として使えるわけさ。
あなたが「現状機能しているシステム」と言っているのは思い込みにすぎないように見えるし、どうしても代替案が欲しいなら「山田さん家」「鈴木さん家」併用を代替案と考えてくれて構わない (代替案と呼ぶほどのこともない、当たり前の話だけど)
cider_kondoさんの回のブコメにvlxst1224さんが「大人感がすごい」と書いていた。同感だが、他にも大人感がすごいコメントをするブックマーカーが何人か思い浮かんで、その一人がkash06さんだった。決して暴言や極論を言わないし、はしゃがない。
それより先月の増田「タグにid振って見たよ」の「クリスチャン:」に名前が挙がらなかったことが不思議に感じた。有名ブックマーカーでクリスチャンと言えばkash06さんでしょう。kash06さんの「キリスト教」タグは読んでると勉強になる。
「キリスト教」タグはついていないが「運命論の2つの解釈」のブコメの、最初の方の同氏を含む何人かのコメントも「レベル高い!」と記憶に残っている。
それから「関東のカトリック教区に対する違和感」であるとか「日本のキリスト教は反日教に堕したのか?」であるとか、信仰に政治の問題を持ち込んだ記事に毅然と反論するブコメを残したことも忘れられない。
一方で、後者の記事に反論する増田「クリスチャンと反日と左翼についてのクリスチャンとしての見解」のブクマには登場しないので、この増田はkash06さんが書いたんじゃなかろうかとゲスパー。
もし他の人が書いたんだったら、何かブコメを残しそうだと想像しただけで、文体が似てるのか似てないのかは判断つかなかったし他に傍証があるわけでも何でもない。いい加減なことを言って間違ってたらごめんなさい。
いい加減なことを書きついでに、思いつきのもっといい加減なことを書きたい。昔、松尾匡先生が「右翼と左翼」に書いた誤解の構造は、「右翼とクリスチャン」に変えても成り立つんじゃないだろうか?
松尾先生の記事を乱暴にまとめてしまうと、右翼は世の中をウチとソトに分けて考え、自分はウチの味方、左翼はソトの味方をしていると考える。左翼は上と下に分け、自分は下の味方、右翼は上の味方をしていると考えるから、相手の考えを理解できないし議論もかみ合わない、というものだ。
先に挙げた記事では、右翼はクリスチャンが左翼と同様ソトの味方をしてると考えて問題視している。
でもクリスチャンは全然そんなふうに考えていない。クリスチャンは神と人間という考え方をし、不完全な人間がいかに完全なる神と向き合うかだけを問題にするのだ。神から見たらウチもソトもあるはずないじゃないか!
傍目から見たらそういう誤解は一目瞭然だし、誤解を解くべく言葉を尽くしてるのはkash06さんだけじゃないけど、その言葉が届いてほしい人にはいつも決して届かないことが、傍で読んでいてもはがゆくつらい。
話を戻すと、どうしてもキャラの立ったブックマーカーにばかり注目が集まるのでブックマーカーは変人揃いだと誤解が生じがちだが、実際はそんなことはないと思う。まともな人が大勢いることをもっと強調したいんですが、だめですか?
追記:
書き忘れてた。「増田ブクマカーたちのアイコンを雑に文字で表現する」でアイコン「チロルチョコきなこ味」って書かれてたけど、島原の乱の陣中旗の聖杯と天使ですよね?
深津氏の http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/ とそのブコメを読んで問題が混乱してるのを感じたので書く。
ただし自分も法律の専門家ではないので,これを読んだ法律家の人がちゃんとした記事を書いてくれたらありがたく思う。
それぞれ保護の目的や保護される範囲,侵害の判定基準が異なる。
権利 | 保護の対象 | 保護の目的 | 侵害の判定基準 | 権利の発生 |
---|---|---|---|---|
著作権 | 創作物全般 | 創作物の公正な利用→文化の発展 | 類似性&依拠性 | 自然発生 |
商標権 | 商標(ロゴ,マーク,社名/ブランド名等) | ブランドの信用維持→産業発展及び消費者保護 | 類似性 | 登録 |
意匠権 | 製品デザイン | 意匠の創作の奨励→産業発展 | 類似性 | 登録 |
商標権と意匠権は割と似てるが,違いは商標権が商標を一つ登録するだけで(特定産業分野の)あらゆる製品についてその商標が保護されるのに対し,意匠権は製品の意匠(デザイン)が保護対象なので,製品ごとに登録が必要な点。自動車を例にとると,自動車会社のエンブレム=商標を一つ登録すると車種に関係なく保護されるが,意匠は車種ごとに登録が必要になる(自分で書いててあまりいい例じゃないと思ったが,他に思いつかないのでこのまま進める)。つまり今回のエンブレムのようなものは,意匠権での保護は難しく商標権での保護が一般的ということになる。あと商標権は登録者だけじゃなくそれを見てモノを買う人=消費者の保護も重要な目的だが,意匠権は専ら登録者の保護が目的。
1. 原案の提出
ここで問題になったのは「商標権」であり「著作権」ではない。従って侵害の有無は類似性のみに基づいて判断される。コンセプトとかは一切関係なく,見た目が似てたらアウト。但し保護目的の大きなウェイトを「消費者が誤認しないこと」が占めるので,誤認しない程度の類似なら許容される。
3. 一次修正案の提出
6. 最終版の公表
7. 最終版がベルギーのリエージュ劇場のデザイナーから著作権侵害として使用停止を求められる
ここで問題になったのは「著作権」。著作権の侵害は,類似性と依拠性(被侵害著作物を知っていて,それを真似した)の両方が立証されて初めて成立する。従って元の著作物を知らずに作ったものがたまたま似てしまった場合は,著作権侵害にはならない。佐野氏が pinterest の会員だったかどうかが問題になるのも,この「依拠性」の証明に関係してくるから。但し単に会員だったというだけでは依拠性の証明としては全く不十分。佐野氏が(一次修正案以前に)リエージュ劇場のロゴを見ていたという蓋然性が高いことを示す証拠(例えば pinterest のログ等)が必要。
他方,深津氏は「依拠していない」ことの証明として「コンセプトが違う」ことを挙げているが,これも現時点では証拠としては弱すぎる。証拠というよりは傍証レベル。まずその「コンセプト」なるものがすべて頭の中で考えられたものでしかない。つまりリエージュ劇場のロゴを見たあとでも,言い訳としてそのようなコンセプトを考えることは極論今からでもできる。「いや,このコンセプトでずっと考えてたんですよ」ということを示す物証(ラフスケッチや素案,メモ等)が出てくれば多少マシだが,それでも「見ていない」証拠としては弱い。ただこの場合挙証責任は基本的に訴えた側のドビ氏にあるので,よっぽどマズい法廷戦術をとって挙証責任を押し付けられない限り,佐野氏側は「依拠していない」ことを証明する必要はない。
ちなみにもしリエージュ劇場のロゴが商標登録されていたとしたら,商標権での争い,すなわち類似性のみでの争いになるため,「専門家であるデザイナー」諸氏がどれだけ「コンセプトが違うから違う」と言っても一笑に付されていたはず。もっともそうなる前に商標調査で引っかかった可能性は高いし,また類似性のみの判断になるとしても消費者が誤認するレベルかというと正直微妙だとは思う。
以上に書いたことを冒頭に挙げた深津氏の記事,特に「まとめ」の直前に掲げられている5項目と読み比べてみるとわかると思うが,2番目の「コンセプト」の話以外はだいたい同じ。2番目の「コンセプト」の話も「コンセプトが違う」ことを以て「(著作権侵害で問題になる)依拠性はない」という主張を補強する傍証としているだけで,デザイナーの専門性とかは本質ではない。
つまり,深津氏は「法律的には問題ない(はず)」と言っているだけなので,だったら「この問題の専門家はデザイナーじゃなくて法律家じゃね?」と考える次第である。
権利 | 保護の対象 | 保護の目的 | 侵害の判定基準 | 権利の発生 |
---|---|---|---|---|
特許権 | 自然法則を利用したアイディア | 発明の奨励→産業の発展 | 類似性 | 登録 |
実用新案権 | 自然法則を利用した物体の形状や構造に関するアイディア | 考案の奨励→産業の発展 | 類似性 | 登録 |
特許は機能を実現する方法や装置などの技術的手段のアイディアを保護するもの。実用新案も,特許をラスボスとした時の中ボスみたいな位置付けだと思うので,意味的には特許と変わらない。いずれも機能とは無関係な表現としてのデザインの保護とは全く異なるので,そもそも特許制度と比較してどうこうというのは筋違いだと思う。
★子供が「くもん」の国語教材で悪戦苦闘している。内容は「盲導犬」。
自分の世界(大人の世界・仕事の世界)だけだと、盲導犬の話と接することがない。
子供が悪戦苦闘している「おかげで」、盲導犬の話といろいろ接することが出来る。くもんの副次効果
★そもそも、自分が子供だった頃(1970年代)は、「盲導犬」という存在が社会的に広く認知されていたとは思えない。
正確な記憶ではないが、自分が盲導犬の存在を知ったのは、中学ないし高校の頃だと思う。
つまり、今の40歳以上の人は、「義務教育課程で、盲導犬の存在を学習していない世代」じゃないか?
★「1970年代当時、盲導犬を知っている大人の割合はせいぜい10%程度で、盲導犬を知っている子供の割合もせいぜい10%」
傍証として「盲導犬の飼育頭数」を調べてみたら、「70年代当時⇒90年代末で、盲導犬の数は5倍に急増」らしい。
よって、当時の大人は、盲導犬という犬種を認知している人の方が、ごく少数だったと推定される。
★以前、「今の40歳以上は、吉野ヶ里遺跡を義務教育課程で学習していない」とツイートした。
発見が彼らの義務教育課程以降だったので、学習の機会を逸している。
盲導犬も80年代に急増したので、急増した盲導犬に関して学習する機会を、今の40歳代以上は逸している
★何が言いたいか?と言えば、
「80年代、90年代に急増した事象・覚知された事象について、社会人に再教育する制度を、なんらかの形で用意した方がいいのでは?」という話。
吉野ヶ里遺跡について知らない大人がいてもそんなに問題ないが、盲導犬に関して知らない大人がいると困る
★よく「盲導犬を連れて日本旅館に泊まろうとしたら、拒否された」的な話があって、世間の無理解を批判する人が多い。
批判する人は「盲導犬が60年代・70年代から普及して、今の中年も義務教育課程で存在認知していた筈」と誤解している。
★自分は45年間人間やってるが、今回「くもんの国語教材」で人生で初めて知った盲導犬トリビアも多い。
⇒答え「日本語で命令すると、第三者の通行人が、キツイ命令語に驚いて反応してしまい、それが犬に影響する」から
変な話だが、「子供と一緒にくもんをする」ことで、70年代に義務教育にビルドインされてなかったことも、学習してしまう格好になる。
「訓練者の命令に対し、人間に危険が及びかねない局面では、あえて盲導犬が命令に背いて人間の安全を優先させる」ようにする訓練
ウチの子が躓いていたのが、この部分。直感的には、なぜ命令違反を訓練するのか、なかなか理解が難しい
★この「飼い主の安全のため、あえて命令違反する」の部分、これが「盲導犬型ロボット」開発時の最大のポイントじゃないか?
ロボットが犬を超えられるかどうか。
今、日本精工が盲導ロボットを開発中、早ければ2016年に登場との情報
というか、難聴障害解決ベンチャーにも出資するような大和ハウス辺りが、本気で盲導犬ロボを開発しそうな予感
★で、この「盲導犬ロボット」の試作画像を見た海外人の反応が、ネガティブ反応が多数派だったらしい。
「盲導犬には癒し効果がある、ロボットは代わりになれない」云々
このあたり、ロボットに好意的な日本人、イヌに好意的な欧米人の文化差が観察されて面白い
★そもそも日本と欧米では、今でも盲導犬普及率が格段の差。70年代当時はもっと差があった。
自分の家には投票日の朝になると、某K党の電話部隊から必ず電話が掛かってきて「投票に行って下さいね!」と言われる。いや、言われなくても行くし、当日行けなくても期日前投票するし!と、毎回思うんだけど。あれは、某K党の勢力拡大に役に立っているんだろうか?
よく固定ファンが多い政党はどんな荒天でも行くから、悪天候の方が有利とも聞くが、どうもそうでもないという話もあるし。
K党が意地になって(?)小選挙区から立候補してるのも評価する向きもあるが、あれも建前の為に非合理な決定や行動をする傍証になってるような気もするのであんまりいい印象が無いです。
K党に限らず、投票行きましょう!コメントしている人も、どういう意図があるんだろうか?と思います。どうせなら、無理やりでも投票して、多数の投票によって信任された政治家であると、政治力を強めたいんでしょうか?まぁ、そんな事は無くて、結局は、K党と一緒で、普段行かない人が投票に行けば、野党に有利であるに違いない!と信念があるんだと思うのですが。どうも、それは事実とは思えないのです。
http://anond.hatelabo.jp/20141128102439
jsとIPの方の調査がお見事だったので、便乗して自分がテキスト読み込んで気になった点を。
結論から言うとこのテキストは政治家もしくはその身内が書いたものだと8割くらい確信してる。
日本は、技術者、研究者、経営者は世界のトップレベルだと感じますが、政治家はそれらに比べてひどく質が落ちるという感じは否めません。
記者質問の場で人目を憚らず号泣したり、大臣でもあった有名女性2世議員の政治資金をめぐる対応を見ても、その質の低さを痛感いたします。
ここの結び。
これって、書き手が政治家自身じゃないと筋が通らない文章構造なわけ。
あと、「痛感」って自分の身が痛いってこと=反省しているときによく使う言葉、だよね。
つまり
を直訳風に書き直すと
「自分は、身内の質が低いことについて、あなたに対し反省し恥じています」
「政治家である自分は、同族である政治家の質が低いことについて、あるじたる国民のあなたに対し反省し恥じています」
となる文なわけ。
謙譲語って「身分の低いわたし」から「身分の高いあなた」つまり書き手と読者が別集団に属する場合に使用する言葉で、「国民が国民に呼びかける」って文の建付けと、真っ向から対立しちゃう。主語を意図的に省略した文を書いたのに、いつもの「有権者様に対してへりくだる癖」が出たとしか。職業病だね。「政治家カテゴリ」に野々村議員も小渕議員も筆者も含まれる&議員は常に客体である国民より下の身分というタテマエが刷り込まれているため、こういう書き方になる。これも主語サイズ問題の一種。
納得出来ない人は逆のケースを、もうちょっと一般的に考えてみよう。
あなたが同僚に対し、買ってきたケーキがまずかった話をするときどう言うだろう。
「ケーキの質が低いです」または「ケーキの質の低さが際立ちます」くらい?
「ケーキの質の低さを痛感いたします」とはまず言わないでしょ。
じゃあケーキ店オーナーが、実食した自店舗のケーキがまずかったことを客に詫びなければならない時は?
半信半疑だった自分が「あ、これ決定的にあかんやつかも」と判断した最大のポイントはそういうこと。
2カ所目は
誰に入れていいかわからないのは、政治家が政治への関心を持ってもらおうとする努力を怠っているということの表れでもあります。
弱いけど、「痛感いたします」を踏まえた目で見ると傍証として。
「政治家が政治への関心を持ってもらおうとする努力を怠っている」という言い方は、やはりあまりに書き手が政治家側に寄りすぎている。「もらおう」謙譲語、「努力を怠っている」わがこととして反省しすぎ。
一般人が書くなら
「政治家が政治への関心を呼び起こそうとしなかった怠慢の表れ」
くらい?
上記2つの論点以外の+1としては、全体に「てにをは」が滅裂&説明不足の慣用句多すぎという、文章の素人っぷり。
これは、自己主張やアピールによって、政治的リーダーになることが原則の民主主義においては 、「能ある鷹は爪を隠す」「沈黙は金」といった風潮の我が国では 、どうしても優秀な人材が後ろに控えてしまう傾向があります。
↑「は」何回使うねん。
そんな慣用句知らん。カーライルは「この国民にしてこの政府あり」と書いたけど。渡辺美智雄は言い間違えて「この国民にしてこの議員」って言ったんだって?
(ちなみにこういう言い間違いは、ネット探偵の重要な手がかりだったりする)
グローバル化する世界で 、国家間のせめぎ合いが増してゆくなかで 、国内外において、外交、経済にとどまらずあらゆる分野において優秀な政治家の必要性は、ますます高まってきています。
↑「で」何回使うねん。
あと「国内外において、外交、経済」は「国内外において」が不要だし、「代々の政治家系の世襲議員」とか重複表現が多すぎる。
これテキストをちゃんとしたライターが書いてたら、絶対にリテイク食らうレベル。
つまりそれがないってことは、書いたのはずいぶんと偉いひとっつーかクライアントの直筆なんじゃねーの、という(サイトの社長直筆テキストとかにありがち)。+1のこっちはこじつけ感もあるけど。
うん。引っ込めて。
これ?
http://anond.hatelabo.jp/20141029155031
もともと反原発の言説流しててネットで壮絶にバカにされたんだろ?
そうでもなきゃお前のその異様な憎しみはありえねーつってんの。
書いてるとおり、お前の書き込みに異様な憎しみを感じたんだよ。
以下の異常な書き込みもお前だろ?
http://anond.hatelabo.jp/20140530102254
みてろよ
http://anond.hatelabo.jp/20140810081602
知識があると言ってもそれあくまで反原発の中でも最底辺と比較した時だけだからなw
いつか殺してやる
http://anond.hatelabo.jp/20140516150909
使っていたらいつか殺すリストに入るところでした
梅木が有料コンサルの客の相談内容をブログで晒してdisった話。
http://tanimachi-9.com/2014/08/the-startup/
まーたこんなことやらかしてるのかと思わざるをえない。
依頼者はやたらと善意に解釈しているが、こんな話は日常茶飯事だ。
例えば去年彼が炎上した、そのきっかけとなった某クラウドソーシングサービス。
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2013/08/the-startup-033.html
そこからも有料コンサルの体でマーケの手伝いの仕事をとっていたのは周知のとおり。
自分が炎上して社長からも突き放され、分が悪くなると、クライアントのはずのそのサービスが「有料被リンクを買いまくってスパムSEOや競合相手の逆SEOをやっている」というネタを自らメディアに売り込んだ。
そのサービスが実際そういうことをやっていたかどうかまず怪しいが、それよりもクライアントの利益を守らない姿勢が問題だ。
普通、金をとってコンサルするような場合、いかなる内容であれ一切口外しないのは当たり前。
それ以前に、相談前にアウトラインを聞き取ったりして自分なりに準備するのも常識だ。
ところが、今回の被害者のブログを読めば分かる通り、梅木は何の事前準備もせず、一方的に自分の前提でもって2時間説教しただけ。
TheStatupの他の記事も読めば分かるとおり「どこどこがダメだ」とか「どこどこは思ったより厳しいと聞いた」とか、ほとんどが第三者の伝聞情報で、本人に直接話を聞きにいくということがない。
彼がちょいちょい宣伝している月2000円の有料サロンもそうだ。
梅木サロンに参加してるある人は、月2000円の会費を「みかじめ料」と呼んでいた。
つまり、サロン会費を払って適当に絡んでおけば、悪しざまに書かれるリスクは(ちょっとだけ)減るかもということだ。
スタートアップ限定の物書きなんか少ないので、うっかり変なことを書かれると非常に迷惑なわけだ。
そのリスクを3、4割は軽減できるとなると、月2000円払ってもいいかなと思う人が今300人くらいいるってことだ。
サロンメンバーに起業家は多いが、VCが少ないのもその傍証だろう。
もちろん、たまに間違って純粋に勉強するつもりで入る学生くんもいるけど、実際そういう人は少ない。ヤのつく商売と同じで、結局みかじめ料だから300人も集まるのだ。
その証拠に、本人もブログに「会った人を燃やすことはない」などと書いている。
ひどいとは思うけど、そういう商売もある。
しかし実際は、サロン参加者でも割と適当に書かれているので、あまり効果は無いんじゃないか。
仕事の合間にエロゲをやりつつ無聊を慰める日々のなかで、ふと疑問に思ったことがあるので、この場を借りて聞いてみたい。ちなみにいまやってるのは「くるくるくーる」だ。けっこうおもしろい。
エロゲには数多くの定番シチュが登場する。たとえば水着イベントだが、俺にはあれがよくわからん。どうせエロシーン出てくるわけだし、水着ごときで抜くわけにもいかぬ。そもそもだ、俺は学生時代を通じて彼女と呼べるものは一人もいなかった。つまりエロゲで出てくるたいがいのシチュエーションは経験したことがない。エロゲのなかには実在が疑わしいイベントも多々ある。そこでだ、以下のイベントに関して、実際に経験がある人がいるのかどうかを知りたい。
海、プールを問わずだ。そもそも中学生や高校生の男女がグループで、あるいは2人で海とかに行く状況というのがまったく想像できない。どこの国のお伽話だそれは。
・サンオイル塗る
これはもっと実在性が疑わしい。おかしいだろう。公衆の面前で、その、異性の肉体に粘度の高い液体状のものをにゅるにゅると塗りつけくすぐったいけど我慢したりときどきくすぐったいのでは済まなくなったりそれはなんというか端的に言ってセックスなのでは? いや、むしろセックスだろう。
あるのかこれ。そもそも俺は自宅に幼なじみがメシ作りにくるシチュエーションにも懐疑的だが、これは家族同然のつきあいがある幼なじみがいるとするなら理論的にはありうる。しかし弁当は。「買わなくていい」「学食を利用しなくていい」以外にあんまりありがたみを感じないんだが。しかし自分が女の子になったらやってみたくはある。
・「あーん」
これもわからん。つーかこれこそは実在を疑う。魅力に関しては、自分が食わせてやる側ならばなんとか想像が追いつくが、食わせてもらう側としてはよくわからない。楽しいか? あとスプーンならともかく、箸だと、おかずはともかくごはんについては食わせるのにかなりの技術が必要なのではないか。落下の危険性が高い。ここで実際に試されているものは愛情とか恋人どうしとしてのアレとかではなく、箸を使う技術なのではないか。
最近のエロゲはぱんつ見えるまでの時間が短い。どうかすると初登場からぱんつ見える。まあそれはいい。場合にもよるが基本的にぱんつはありがたい。しかし実際になんらかのハプニングによりぱんつが見えたとか、おしっこしてる現場に出くわしたとか、空から女の子が降ってきてお尻から顔面に着地とかはそうそうあるものとは思えない。あれ見るたびに頚椎とか無事なのか気になってしょうがないんだが。まあ実際は作劇上の必要性によって生じたものだろう。しかしどうなんだ、扉を開けたら女の子がおしっこしてて「いやぁ、止まんないよぉぉ!」とかリアルに存在するのか。
・お医者さんごっこ
これについては、どうやら都市伝説ではないらしいという傍証を過去に得たことがある。一例がある以上、ひょっとしたら人の記憶の闇に葬られたお医者さんごっこは無数にあるのかもしれない。なお、せっくすごっこは後藤寿庵先生がマンガで実現してくれた。思い残すことはない。
以上、実在するかどうかを問うのが野暮なことはわかっている。また上記のシチュに自分が興味がないからといって、だれもがそうではない、ほかのだれかにとっては「あーん」がかけがえのないイベントであることだってもちろんありうるだろう。もとよりフィクションの話だ。
しかし推理小説における「殺人」などとこれらのイベントが違うのは、恋愛関係の表現として描写されていることだ。そして世に恋愛関係は腐るほどある。物理的にも倫理的にも可能である。ならばどこかでだれかがやっているのではないか。俺はそれを知りたい。知ってどうなるものでもないが、知りたい。
「掃除しながら本読むのは非効率」ってのも前提を勝手に作っている。どう考えても「掃除中に充電池の残量が足りなくなったから充電してるけど手持無沙汰だから本読んでる」って解釈のほうが普通でしょ。
先述したように「人工知能の学習は自炊して(ryの過程こそが合理的なのでそもそも本を『読む』わけがない」。電子書籍だったらどうこうという問題ですらない。情報をナマで取り扱うのはAIの得意中の得意でやらせない手は無いにも関わらず、本を『読む』こと自体がオカシイ。カメラ映像解析の方が情報処理に余計にメモリ食うしミス(視界のブレや読み間違い)も圧倒的に多くなるであろうことは想像に難くない。まして椅子に腰かけて落ち着いてゆっくりではなく、掃除しながらである。
つまり、この人物はボディを持った人工知能として描かれているが、想定されているのは「ボディを持った人工知能」ではない。
あと自分でも充電パッドとか例に挙げたからアレなんだけど、これって充電「ケーブル」なのは充電中でも広範囲に動いて掃除するためでしょ?
ちょうど人工知能(と充電池)を搭載していない、よく見かける蛇腹ホースの掃除機が、コンセントから直に電力を取りつつ広範囲を掃除できるように。
(というかぶっちゃけ、ブコメにも「ルンバの擬人化」とあったけどそうじゃなくて、これは蛇腹ホースのあの「掃除機」の美少女化なんだろうなと思うけど。深い考えもなくそれこそ「機械的」に萌え掃除機に翻訳したら炎上しちゃったみたいなアレだろと)
とにかく、読書は手持無沙汰の暇つぶしというより仕事と並行してこっそりやってる私的行為。
本業はお掃除で、それも自分の持ち物でない(であろう)書斎のお掃除。つまり本来の書斎の主である人間の家事労働代用。
その「対等」は既に単なる対等や平等を通り越して、限りなく「同一」とか「同類」に近い意味になっている。
細かく言えば、「立場として上下はない(から使役する・されるの関係が成立しない)し、互いに尊重し合わなくてはならない」というニュアンスを大いに含んでいる。
要するに「人間と対等な人工知能」ではなく「血と肉と骨で出来てはいない【人間】」として見ている。
それも「人間に達していない、人間未満である。よって人間ではない」というニュアンスではなく、「人間とは根本的に異質な情報処理を行い、また人間のように振る舞う事自体が彼ら自身にとっても適切な行動たりえない」という意味で人間の同類ではない。
ちょっと毛色の変わった同類、ではない。毛色とかでなく同類ではない。哺乳類と両生類より開きがでかい。
だから本来なら「対等な存在」として並列的に語る事すらできない。
では並列的に、いかにも人間のように描かれているあのイラストの「人物」は何者か?という話になるがそれは前記事に書いたので以下略。
「使役されていない自由な人間は普通掃除しながら本を読んだりしない」って書いてるけど、むしろ使役されてない人間だからこそ掃除しながら本読んだりするんだと思うけど。
「自分のやりたい事よりも優先させなければならない事がある」というのは、社会的に責任のある大人なら当然のことで、むしろイラスト中の人工知能が周りの人間と対等であることの傍証だよね。
この二文は矛盾している。
使役されていない人間だから自発的に掃除と読書を同時に行っているのだとしたら、それは趣味のようなもので「社会的に責任を果たしている大人の行動」には当てはまらない。逆もしかりで、社会的に責任を果たしている大人(の人間)は「優先させなければならない事」に集中するべきであるとされていて、片手間に本を読んでいたら「サボっている」と称される。
>人工知能がホウキで掃除して紙の本を読むことがどれほど高度なことなのかもわからんのか
わからなきゃ「そこまでして『従順でかわいくて世話やいてくれる都合のいい女の子』が欲しいのか…」とドン引きしたりするかw
つうかそんなに高度な事ができる人工知能が「ホウキで掃除して紙の本で読書」っていう人間のフェチに付き合わされてんの見て何も思わんのかい。
>「人間のかたちをしたものに掃除させ」たら「奴隷」。ちなみに料理ならOK。
ルンバがあるのにわざわざ人型ロボに掃除させるのは使用する人間のフェティシズムだろう。
それとどこに料理OKと書いてあるんだ。一体何を読んだんだ。いけないキノコでもやってるのか。
>何故本を読んでる事が前提なのか
ブコメが「読書をしてる=使役されるだけの(ry」と主張してたのでそれに反論してみた。
自分はそもそもサムネしか見てなかったので本に言及されるまで本を持っていた事に気づかなかった。ホウキを持っていたことにも気づかなかった。
気づいてみるとどう見ても人間の書斎をお片付けするの図にしか見えない。人工知能は目では読書しない。
>自我を持った人工知能に対して「ヒト型である必要がない」とか「性別がわかるようなのじゃなくていい」とか何様だよ
人工知能にコスプレ趣味に走るような自我があると思っているんですか。
少なくとも今現在チューリングテストに挑戦してる連中はみんな自我なんてないぞ。たぶん身体性の獲得くらいからクオリアを取り扱えるかどうかが課題になってそこで情報を統合するために自我みたいなシステムが必要になるんじゃないかなって感じはするけど。でも無くても何とかなったよみたいな話にもなるかもしんないし。
というか、自我を持った人工知能に対して「絶対ヒト型であってほしい」「かわいい女の子やってほしい」とはそれこそ何様だね。
生身の人間の女が付き合いきれなくて裸足で逃げ出すような欲望に、従順なロボットを従わせたいというその身勝手は問題じゃないのかね。
まぁだいたい合ってるのでいいんだが、よくわからんのが、
そもそも使役されていないよ・本を読んでいるのは「使われるだけの存在じゃない」アピールだよ派
⇒反論として最もまずく頓珍漢であり、人間の女性にも人工知能にも失礼。レイシズム二乗してパターナリズムが入ってる上にSFの延長でものを考えちゃってる痛すぎるタイプ。正直これが一番ヤバい。無自覚すぎて。
まず人工知能が学習にあたって人間と同じように本を使うと思ってんのがもうオカシイ。本を読むというのは極めて身体性の高い霊長類ヒト科的行為であって、自炊してファイル読み込んでついでにクラウドあたりに接続して情報をバラまきつつ拾いまくった方が圧倒的に効率がよい人工知能がやることではない。
読書による学習をもって成長や自立性を表現しているという解釈自体が、イラストの人物を「ボディを持った人工知能」ではなく「血と骨と肉で出来ているのではない人工の【人間】」と無意識に見なしている。
ところで、使役されていない自由な人間は普通掃除しながら本を読んだりしない。読みづらいことこの上ない。例外はこの時期の大掃除の最中に押入れから出てきたマンガに捕まった時くらい。
つまりこのイラストの【人間】は自分のやりたい事よりも優先させなければならない事(掃除)があり、その仕事の合間にサボりながら少しずつ自由を行使するしかない存在であることが前提されている。
これは過去に奴隷として扱いを受けてきた全ての人間の境遇そのものに一致する。
彼らの言い分を踏まえてあのイラストを見ると、あれは奴隷的に扱われているアンドロイドではなく、人間の召使の女を描いて「これは人間ではありません」という言い逃れのためにケーブルに繋いだものであるという見方をむしろ強めさせる。完全に差別。
ここのパートですな。
結論として「こういう解釈もできるから差別的表現じゃない」って批判者に対して反論するのは無意味だと思うけど(この反論をする人はPCの概念がわかってないと思うよ)、「そもそも使役されていないよ・本を読んでいるのは「使われるだけの存在じゃない」アピールだよ」という解釈そのものにはまったく差別的要素を含んでないと思うけどねぇ。
検証してみよう。
まず、イラスト中の人工知能が「使役されている」存在であるというのが、勝手な前提だよね。
「使役されていない自由な人間は普通掃除しながら本を読んだりしない」って書いてるけど、むしろ使役されてない人間だからこそ掃除しながら本読んだりするんだと思うけど。
「掃除しながら本読むのは非効率」ってのも前提を勝手に作っている。どう考えても「掃除中に充電池の残量が足りなくなったから充電してるけど手持無沙汰だから本読んでる」って解釈のほうが普通でしょ。
そして手持無沙汰に読む本は、効率重視の電子書籍じゃなくてもいい。
それを踏まえて考えるなら、「読書による学習をもって成長や自立性を表現しているという解釈自体が、イラストの人物を「ボディを持った人工知能」ではなく「血と骨と肉で出来ているのではない人工の【人間】」と無意識に見なしている。」という推論からは、「イラスト中の人工知能は人間と対等な存在である」という結論が導かれるよね。
「自分のやりたい事よりも優先させなければならない事がある」というのは、社会的に責任のある大人なら当然のことで、むしろイラスト中の人工知能が周りの人間と対等であることの傍証だよね。
もちろん、上記したのは「可能な解釈」の一つにすぎない。でも、「イラスト中の人工知能は生身の人間と対等な存在として描かれている」というこの解釈自体が差別的要素をはらむものだとは思わない。
少なくとも日本の都市圏に限ってはそれはあてはまらない(と僕は信じる)。確かに、地方については、海外の地方を、その国の味覚で味わうことができないので、ひいき目もあるだろう。
東京がクレイジーな美食の街である傍証その1: 「本国に負けないレベルの外国食レストラン」が東京にはひしめいている。
東京がクレイジーな美食の街である傍証その2: 「あの、味では譲らないフランス人も、日本は評価せざるをえなかった」(ただしソースはWikipedia)
これほどの密度で世界各国のうまい料理が食えるのは、あとはパリとNYぐらいじゃないか? パリは行ったことないから知らないけど、あとは美食の街ってないだろう。
ああ、アメリカ人に「ちゃんとした日本食」がウケない理由は、やつらの味覚が壊れてるからだ。あさりよしとお曰く「米国人の味覚は『甘い・辛い・くどい・デカい』でできている」と。やつらにとってウマい、というモノが全うな美食感覚からすると90%ゲテ物であることは議論するまでもないと思うぞ。ホームパーティに呼ばれてコーンプディングを食わされた身としては。
とはいえ、奴等の牛肉の食い方(日本でも最近「エージドビーフ」とか流行りつつあるが)だけは見習う価値があると思う(これが、残りの10%)。
Naoki Takahashi
そもそも俺が社会反映論を認めるわけがないってのは分かりきってる話でね。
ある「論」を本音では信じていなくてもあえてそれを主張するなら論拠は必要
ディベートってそういうモノだ
「霊は実在する」と信じていなくても、その立場で主張を展開するならデータなり傍証なりを用意し
その説を信じている者として論を立てる
つまり、その言説を論者が信じているか否かは論拠の必要・不要性とは関係ない
話すり替えないでねw
シロクマせんせいのこの記事はうさんくさくってオモシロかったわ
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20071219/p1
でも、NaokiTakahashiくんの「社会反映論」と、これのどこがそんなに違うのかね?
(自分が医者である事を逆手にとって)「ベタに」芸をしているだけだろこれ
このベタ記事が「かがくのほん」として出版されたら俺だって突っ込んじゃうけどな
ただ、「非モテ界隈・非コミュ界隈」の神経を逆なでする内容であることはよくわかるw
結局「あえてベタにこういう芸をするなら」って、前置きさえつけておけば無罪っちゅう話かな?
シロクマも「あえてニューサイエンス的に語るなら」とか言っておけば、
少なくともNaokiTakahashiくんだけは納得させられたのに!っておはなしなのかな?
科学的実証性も反証可能性も存在しないけど、何となく論拠がありそ~ななさそ~な話を
データ提示がないまま社会的風潮と自分語りを織り交ぜてテキトーにでっち上げる
彼女のボキャブラリーが少ないわけじゃない。僕らのボキャブラリーが多すぎるんだ。
おっぱい、ちんこ、舐めて、入れて。生殖するためのボキャブラリーなんて彼女が知ってる程度で十分すぎる。
これだからDQNは。よく聞くセリフだけど後天的に獲得した形質は遺伝しない。彼女がどんなに学習したところで生まれてくる子のレベルは変わらない。もちろん、彼女が学習の結果として優れた成績を残すのなら、傍証として彼女の知性が高いと判断することはできる。判断はできるが、だからといって、彼女が愚かだということは意味しない。環境や何かが悪かったせいで学習に打ち込めなかっただけかもしれない。
そう考えるのならば、学習によるフィルタリングがされてないだけで、彼女の知性を判断することはできない。賢いかもしれないし、愚かかもしれない。産んでみないことにはわからない。それに愚かだったとしても大した問題じゃない。
DQNが、DQNが、なんていうけどほんの100年ちょっと以前は、学のない農民ばかりが子を成していたわけだし、さらに遡るなら土人や何かの子ばかりなわけだ。そしてその結果として、今この現在がある。100年前、1000年前、5000年前。どの時代の人間と比べたところで、いまの人間も、人間の出来自体としては大して変わらないだろう。
そういった意味じゃ、自分より前の数百世代、自分より後の数十世代を考えるならば、知性なんてほんの些末なことだし、むしろ余計なものですらあると言える。
そんな当たり前のことに気づく。彼女のボキャブラリーが少ないわけじゃない。僕らのボキャブラリーが多すぎるんだ。必要最低限のボキャブラリーで性行する彼女と、余計な知識ばかりを身につけてろくに性行しない僕らをみれば一目瞭然だった。なにせ彼女の血筋からは天才が生まれる可能性があるのに、僕らの血筋は今まさに途絶えようとしてるんだから。
先日、各県毎の平均寿命が公表され、
が話題になっている。
この順位の理由としては、様々な要因があるが、主な要因として
・食生活
・運動の有無
・健康啓発、検診啓発
・医療体制の充実
が主要因である、と皆思っているだろう。
つまり
★沖縄が今まで長寿日本一だったのは、沖縄料理が長寿に貢献したからだ(海藻が多い、豚肉摂取で適度に動物性蛋白がある)
★だが、沖縄が首位陥落したのは、米軍進駐の影響でステーキ、ハンバーガーなどのファーストフード、ジャンクフードの
★また、那覇都市圏(都市圏人口100万人)に暮らして、マイカー依存で運動しない人が増えたため
★長野の長寿日本一は、減塩食啓発や、健康診断啓発などの地道な努力が結実したから
★青森の長寿最下位は、塩分過多な食生活で、高血圧系の成人病や胃癌などに罹患しやすいから
という説明がなされている。
自分も、上記説明で、各県の寿命差の7~8割は説明できる、とは思っているが、
それ以外の「隠れた副因」も無視できない、と思う。
その理由というのは「住環境の変化」、もっと言えば「冬季、住宅室内が寒いかどうか?」である。
高齢者の死因の一つとして、脳卒中や心筋梗塞等の循環器系の発作というのがあるが、
この発作の発生要因の一つがとして、
「寒い浴室から、急に暖かい湯船に浸かった」のような、急激な温度変化が
循環の異変、ショックを招く、と言われている。
従前の日本の伝統的家屋は、あまり断熱性能も高くなく、(マンションなどに比べると)
冬は暖房なしだと寒かった。
主な居室は暖房を入れても、廊下とか浴室なんかは暖房を入れないため、ヒートショックが起こりがちだった。
一方、沖縄の場合は、冬でもそんなに寒くないから、ヒートショックはあまり発生しない、
つまり本土と比べると循環器系の発作が起きにくい環境であった、と言える。
これが「沖縄が本土より寿命が長かった」要因の一つであった、と自分は推察している。
(勿論、沖縄料理等の要因が主因だとは思うが、副因としては無視できない。)
しかし、本土の方でも、浴室暖房とか、高断熱住宅とか、マンション居住とか、
そうなると、本土のヒートショック回数が減り、寿命が伸びてくる、
逆に言えば「沖縄は追いつかれてしまう、アドバンテージがなくなってしまう」ことになる。
これが、「最近になって、沖縄の寿命順位が下がった理由」の副因である。
一方、青森県であるが、ここは冬寒い。だからヒートショックは本州で最も起こりやすい。
・・・でオシマイにすればいいのだが、青森より北には北海道という最寒の土地があり、
そっちのほうが寿命が短くなるべきなのに、そうなってない。何故なのか?
北海道と青森の住宅を眺めてみると、北海道の方が、より断熱性が高く、
全館空調的な造りになっていることに気がつく。
北海道だと玄関が二重になっていて、断熱性能も二重になっている家屋が多いが、
また、断熱性能に優れた2×4工法は、シェア的には北海道が青森の2倍以上普及している。
よく「北海道では、室内全体にガンガンに暖房している、道産子が東京に来ると、逆に室内の寒さに驚く」
というエピソードがあるが、これなんかも「北海道では室内全体を暖房している、ヒートショックが起こりにくい」
ことの傍証だろう。
「道産子は室内でアイスクリームを食べる、それだけ北海道の室内は暖かい」とも。
(人口構成は札幌都市圏に人口の半数近くが居住しているため、雪下ろしの手間が嫌がられているため)
マンションは全体的に断熱性能に優れており、それゆえヒートショックが起こりにくい。
よって、北海道の寿命が青森より幾分長いことは、これで納得がいく。