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2017-03-04

アナ雪】テレビ放送記念、こじらせ童貞アナと雪の女王感想【Frozen

面白い! 以上。

 

 

 

 何となくネタバレ控えめで書きます

アナ雪の第一印象は、多くの女性が絶賛しているが、私が好きな一部 お笑い芸人さんの評価イマイチ。っていうか、「特にストーリーは無い」というような評価だった事が強く残っている。

公開当時にネット上で大量に書かれた感想評論考察なども結構興味深く読んだ。宇多丸さんと荻上チキさんの評とかも聞いた。

 

 

 

 それらを読んだり聞いたりした上で時間が経ってから本編を見たので、完全に真っ白な状態では見れていないのだが、

私の感想としては、少なくない超絶賛には付いて行けないものの、しかし一部 芸人さんの評価は低過ぎると思う。ストーリーはちゃんと有る! むしろ濃過ぎる! 丁寧に煮込まれスープの上澄みだけを飲んでいるようなモノで パッと見の印象がシンプルに感じられるだけだ。

 かなり好き。勿論、素晴らしい作品で、超絶賛される理由も分かる。

 

 

 

 んで、ここからが本題なんだけど、

 

公開当時も沢山の評論考察はあったんだけど、私が読んだ範囲では それらには書かれていない部分が気になっているんだ。

それをここで書こうと思う。

 

 

 

 ザックリ書くと、

アナ雪って、作中での『運が良い事』が重要な基盤になっているんじゃね?」って事。

 

 

ちょっと、ここからは逆算して書くんだけど、

 まぁ、ディズニーアニメの例によって例のごとく アナ雪も『真実の愛』が重要テーマになってるじゃん。そして、それが問題解決の鍵じゃん。 それは……、良い。

私が気になるのは、その焦点が「自発的な愛」なのか、他者から与えられる「受動的な愛」なのか、「両方」なのか って事なんだけど、

ここまでは色んな人も考察されたし評論されてる。が、

私は、その「先」も気になるのよ。

 

 

まり、私は、

 「エルサの『雪の呪い』は『自発的真実の愛』でしか解呪出来ない。」という解釈余地がある事が アナ雪のパワーの源じゃないのか?と思っているんだ。

いや、分からんよ。 旧来型通りクリストフから与えられたであろう「受動的な愛」でも解呪可能なのかもしれない。

 でも、無視出来ない描写もある。エルサの良心+妹への贈り物であるオラフが愛が何であるかを知っている事だ。

これは少なくともエルサは愛が何であるかを知っている証拠だし、アナに対して「受動的な愛」を与えている。でも、アナ呪いは解けていない。

また最終盤、エルサが自身の愛を自覚することで氷の魔法制御出来るようになることも重要だ。

 

 

 

では、仮に「エルサの『雪の呪い』は『自発的真実の愛』でしか解呪出来ない。」という前提で本編の描写を見てみよう。

 

 

まず、最序盤、城の中で二人が雪遊びするシーン、この時点で雪の魔法アナ心臓に当たっていればアナは為す術無く死んでいたよね。

 だって幼児自発的自己犠牲的愛なんて期待出来る訳が無いんだから

これはトロールの長がエルサの魔法を強く警戒する事とも整合性がとれる。子供に対しては致死性の呪いになるからだ。

 両親がエルサを自室に閉じ込めるのも危険性を顧みれば已むを得なく、エルサからすれば妹を殺しかけた訳だから強い反省からくる自傷的な引き篭もり、恐怖も理解できる。

まり最初にエルサが「運良く」アナを殺さなかった事が最終的なハッピーエンドの結果を生んだのではないか

 

 

日に日に強くなる自分では制御出来ない魔法。閉じ込めるという対処法。最初被害者自分より幼く弱い近親者。一度、開放されれば国中を巻き込む影響力。

プラス(私の予想として)子供に対しての致死性。

 

 

 エルサの雪の魔法は「感染症」のメタファーでもあるのではないか?……

これは”エグゼクティブプロデューサージョン・ラセターが、難病である1型糖尿病10歳で診断された息子からエルサのキャラクター作りにインスピレーションを得たと語っている。”

事とも整合性がとれる。

 

 

 つまりアナ雪は 表層の魔法ファンタジー+家族再生物語。中層のディズニープリンセスからの脱却といったジェンダー論。下層の人類の「感染症」との戦いの歴史対処献身治療回復。の三層構造ストーリーが極めて高い次元昇華されているため大きな感動を産んでいるのではないか

そして、ハッピーエンドの核を「運が良い」事に放り投げているので説得力が損なわれず説教臭くさえない。

ただし、無意識不安は残る。が、アナ雪の場合、コレさえ長所にもなっている。

 

 

 作劇の基本構造は、「作中の『問題』の解決」だが。

これを「正義主人公(達)の努力と理性と決断による悪に対する『必然的勝利』」という構成に出来れば、物語としての強度も視聴者快感高まる。が、

同時に説教臭くもなってしまう。作中の「問題解決の条件と能力に焦点が集まり説得力が損なわれやすい。

 ズートピアベイマックスは両方とも素晴らしい作品だが、どこか説教臭く、アナ雪に比べ説得力が薄いのはこのためだ。

 

 

 主人公(達)に「運」の影響が無い作劇は、安心子供向けにもしやすいが、ややもすると『答え合わせ』になってしまう。

が、主人公(達)に「運」が有りすぎても御都合主義展開になってしまう。

 アナ雪はこのバランス絶妙で、ディズニーアニメとしてはギリギリまで「運」が良く、更にそれを最初の「室内雪遊び事故」一点に絞ってるのが凄い。

 

 

感想の締め方 分からなくなってしまったが、

 要は アナ雪 超良かったです。好き。

ズートピアは素晴らしいし良かったけど、完全には好きになれない。

ベイマックス客観的には素晴らしいのだろうし、良かった方だけど、好きじゃないかな。

2017-02-18

http://anond.hatelabo.jp/20170218002240

自分の思う通りにいかなかったからでしょうね。

思う通りってのはつまり仕事から疲れて家に帰ってきたら、何もせずにあったかいご飯が食べられる状態になっているってこと。

ところが今夜は妻がライブなんぞに出かけたので飯が冷えていたので、仕方なくビールのみで空腹をごまかすしかなかったの。

このみじめな状況に至ったのは妻のせい、それをわかっているくせに飯をさっさとあたためず、ビールを仕方なく飲んでることに申し訳なさも感じてない妻に憤慨してるのね。

はっきりいって頭おかしいわ。

大の大人自分自分の飯をあっためることもできないなんて、そしてそれを誰かのせいにしているなんて恥ずかしいわ。

メールだかラインだかがきた時点で家に帰った時自分でやらなきゃならないって心構えしないといけないはずじゃない。

なのにそれをできずに子供みたいに駄々をこねてる夫は、異常と言っていいと思うわ。

たぶん本人もそれを、無意識にかもしれないけどわかってて後ろめたさをもってるんだと思う、一方であなたに対する身勝手被害者意識コントロールできなくて、それで会話が支離滅裂になってしまうんでしょうね。「そういうことじゃない!」ってのは男女問わず自分の非を認められない人たちが他に原因があると嘯くときに叫ぶセリフよ。

そういうときに具体的な原因を特定するようなことしても意味はないのよ、単に自分でみじめな状況をどうしようもできなくて、あなたを責めているだけなんだからあなたに甘えているのね。

そしてね、あなたも多分それに積極的に荷担してしまっているんだと思うわ。

夫に対して思いやりをもって献身してるつもりかもしれないけれど、たぶん甘やかしを思いやりと間違えてるんじゃないかしら。

これから先何十年もともに生活するってことを考えるときに、その夫は放置していい状態ではないわ。それなのに夫の好物やマッサージでご機嫌をとったり、夫の機嫌を損ねない言動を探ろうとしているんだもの。そんな表面的なことをしている場合ではないでしょう。

まともじゃない部分のある人と結婚しちゃったと気づいたなら、いきなり離婚しろとは言わないけど、少なくとも改善要求しましょうよ、夫婦として生きていくつもりなら。夫が喜ぶ最適解を遂行し続けても正しい夫婦になれるわけじゃないのよ。

しかしたら専業主婦であることに引け目を感じているのかもしれないけれど、たとえ昔だとしても人間性の低い夫に対しては妻が引っ張っていかなければ家庭は崩壊するしかなかったのよ。妻としてもっと自信をもって夫と向き合ってもいいと思うわ。それでもどうしようもなくなったら、いまは普通選択肢として離婚だってできるんだし。

それから、これは余計なお世話だけれど、まずこの夫に対してまともに向き合えないようだと、子どもを育てるなんてもっと心配だわ。子どもに対して適切なときに適切に導いていくことができないと、まともな大人は育たないわ。この夫みたいになっちゃうわよ。

2016-06-29

最初記憶は4才の時で、父親母親喧嘩をしているのを止めに入る瞬間だ。それ以前のことは何も覚えていない。

父親母親の頭を殴りつけようと拳を振り上げるのが見えて、懸命に走って間に割り込んだ。

立ちはだかる自分父親は一瞬驚いた顔をして、そのまま4才の自分の頭を片手で鷲掴みにし、フローリングの床にたたきつけた。

からどくどくと流れる自分の血と、母の悲鳴が強烈に記憶に残っている。

幼い妹に父母の喧嘩を見せたくなくてそれからも何度となく止めに入ったり代わりに殴られたりした。

高校生になった自分母親が掛けた言葉は「あんたたちさえいなけれ離婚出来ていたけどね」

その日からどうしても、あの日自分を殴った父親よりも、額を縫う怪我をして庇ったはずの母親が最終的に自分をなじったことが許せなくなってしまった。

こちらの献身に対してリターンが無いことに、忘れてしまったことに、こちらが覚えていることを知らないことに、どうしようもなく絶望した。

大人になってからは信頼出来る人なのかどうか、試すための人間関係構築をしてしまってきた。お金や、時間をその人のために使う。それに見合う感謝や、向こうからの見返りが帰ってこなければ、必要最低限以上のやりとりしかしない相手勝手自分の中でフォルダに振り分けた。

30になった。

この人は私を裏切らないであろう、というフォルダに現時点で振り分けられている人は一人しかいない。この人がいなくなったら、そしてこの人がやっぱり母と同じような人だったら、もう生きている意味がないように思う。

まれ変わったら人を試さずに生きてゆける人になりたい。

2016-04-18

http://anond.hatelabo.jp/20160418205649

そういうおまえは子持ちである元増田に対してどんなボランティア献身をしてるつもりなんだ?

http://anond.hatelabo.jp/20160418204543

そんな増田子供の生まれる前に子持ちに対してどんなボランティア献身をしていたか? って考えればそりゃ現在状況はただの必然だといえるだろうね。

2016-04-17

灰原哀さんと付き合うにはどうすればよいか

遠距離恋愛してた彼女に振られ、何でも相談に乗ってくれてた女友達彼氏ができ、病気仕事も辞め、絶望焦燥感に駆られた日々。

そんな中、俺の生を繋いでくれたのが灰原さんだ。見た目は幼く実年齢も年下だが、なぜか姉さん女房に甘えてる感覚に包まれる。一見クールで冷たく刺々しいが、その実は優しさで溢れている。献身を厭わず、いつも傍にいてくれて、自分以上に自分のことを理解してくれている。俺は抱え込むタイプなのだが、哀ちゃんは抱え込む前に気付いて助けてくれる最高の相棒だ。それに可愛くて綺麗で、デレた時の破壊力は……///

そんな彼女は、最近どこか儚げで消えてしまいそうな雰囲気が漂ってきている。守ってあげたい気持ちにもさせられるのだが、俺のスペック彼女の信頼を勝ち取れるのだろうか。

不安要素は他にもある。ふとした瞬間に、昔の男のことを想っているような、そんな感じを受ける。話を聞けども「あなたが思うような、そんなロマンチック関係ではないわ」とはぐらかされるだけ。

このままの距離感を保つべなのだろうか。でもそうすると、いつか彼女は知らない誰かにさらわれてしまう。俺はどうすればよいのだろうか。彼女幸せに俺は必要ないのだろうか。苦しくて夜も眠れない。

2016-02-04

http://anond.hatelabo.jp/20160204141843

パーティの方が合う人がいるかどうかはわからんけど、お見合いはそもそも「第三者ピックアップした候補者」にしか会わないだろ原理的に。

第三者が選んだ時点で君の要望に合う人間はまずいないと思う。パーティは誰か(常識的感覚を持った)他者セレクションが入らないから、まだ可能性があると思う。

ただそもそも増田感性は相当特殊なので、社会全体で見ても考え方が合う人間はめったにいないと思う。

風俗とかやってる女と月給いくら契約して仕事として夫婦をやる、とかの方がまだ可能性高そう。何十年も持続させるのは困難な気はするけど。

ああでももしかして子供必要なのか?子供は無理だろ〜君の感性子育てするのは相当厳しそう。相手もそこまで献身するモチベーション保てないだろうし。月給100万とかにすればいけるかなあ。でもストレスが溜まって発散するために育児放棄とかしそう。

子育ては基本君が全部やる、とかだったらいけるかも。

2016-01-23

子供感謝される妄想をする

例えば雨が降りそうでカッパも傘もないから降ったら困るよ帰ろうとどれだけ言っても、やだ公園で遊ぶと聞いてくれず案の定真冬の雪混じりの大雨に降られながら、自分カッパ子供にかぶせて自分はずぶ濡れで帰っているときに、おっさんになった息子が「母は自分は濡れても自分カッパを着せてくれた」とか葬式とかで言ってくれてる妄想をするけど、現実はそんなことはあり得なく、子供は遠回りしてスーパーバナナ買ってーとぎゃんぎゃん騒ぐわけで、周りの先輩ママさんを見てもママ感謝手紙みたいな可愛いことをするのは娘ばかりで息子はほとんどがバカなわけで、そもそも先日の雨で濡れた子供カッパを干しっぱなしで忘れた私が悪いわけで、絶対感謝されないがめっちゃ辛い献身感謝される妄想くらいしても良いですよね。

2016-01-10

婚活へのちょっとした違和感

この世はおしなべてお互い様である

そして、お互い様というのは、受けた恩を返すことによって成立する。

家族に恩を受けたのだから家族に恩を返すべきというのは、よほどこじれた家庭でなければ成り立つ。

また、社会やその構成員から恩恵を受けてきたのだから、お前も社会に恩を返していけ、

というのに対しても、ほぼ異論はないと思う。

しかし、前者が求めるのが対象限定された深い愛情なのに対し、後者が求めるのは広く薄い献身であり、

両者は本質的に異なる。

さて、結婚というのは、人が出会い、新しい家庭を作ることであるという。

しかし、成人してから出会う多くの場合、お互いに受けた恩もなければ、返すべき恩もない。

例えば幼なじみだったり、同棲期間があったりすればまた別だろうが、そういうケースばかりでもないだろう。

特に最近婚活とか言われるように、男女ともに条件面である程度完成した相手を求める風潮がある。

正直、怖くないのかな、と思う。

そりゃ、昔はお見合いも盛んだったらしいが、そういう場合当人同士の繋がりの薄さは、

家同士の付き合いでカバーされていたはずだ。

お見合いをやったら、愛情のなさはそのままに、おそらく当人だけでどうにかしないといけない。

そういう人間がいきなり家族として踏み込んでくる根拠は何か。

これまで支え合ってきたわけでもないのに、なぜこれからは支え合えると思うのか。

後の世代に恩を返すというのなら、子なしの家庭は恩知らずということなのか。

これらの問いについて、答えが出ずにいる。

2015-12-31

我が母への賛歌

繊細な自然により育まれしその肉体

千年を超えても衰えを見せないその美貌

幾多の男に支配されども献身あなたは忘れなかった

求められれば子を孕み

健康なその体から多くの子が産み出された

子たちはみなすくすくと育ち

この地に大輪を咲かせた

我が愛すべき父よ

それは我が母を真に愛した男のみに贈られるべき言葉

唾棄すべき醜男

それは我が母を虐待した男に飛ばされるべき言葉

1872年を境にして我が母は軽んじられた

それ以後に我が母を支配した男はみな醜男

我が母の体は見る影もなく老いさらばえた

我が母よ!いつまで黙っているのですか

太陽のように輝いていたあなた

大地のように抱擁してくれたあなた

地の深みへと引きずりおろし

ただ犯すことしか考えぬ男に

あなたその男の間からまれる子はみな醜く

すべて死すべき運命に定められている

あなたがもはや立ち上がれないほどに弱り果てているのなら

わたしが わたしたちがあなたを救い出す

再び天の高きところに席を設け

あなたを引き上げる

我が母よ!あなたはまた地上をまばゆい光で満たすのです!

その光によって異邦の子らは死に絶えましょう

もう少しの辛抱です

わたしたちの到着を待っていてください

2015-12-08

http://anond.hatelabo.jp/20151208202051

あなた勘違いしているかもしれないけど、元増田の私は、「結婚したら配偶者の家のために尽くせ。配偶者の親のため献身しろ」などという主張をしていない。

結婚あくまで両性が個人間契約を結べばよく、それは必ず夫婦別姓でやれと主張している。

一方、改姓は「他家に入ってその家の人間になる」ということだ。だから結婚では改姓をすることを認めず、やりたい人だけが結婚養子縁組してやればよい。

 

 

以下、こまごまと補足。

現行では財産あげたかったら遺言かいてねって状態。あげれないわけじゃないし、無条件で権利が発生するものでもない。

遺言財産を譲れるって話なら、「うちの娘は他家に嫁いでしまって、よその家の人間になってしまったが、それでも可愛い我が子には違いない」「わが娘は嫁いでから実家との付き合いが深かったなあ」と考えている人が遺言状を書けばいいだろう。

そもそも普通養子縁組は、元の親子関係消失するものではない。相続権は残るから、我が子が養子に出てしまっても遺言状不要

 

そもそも、一人っ子が多い昨今、一人っ子同士が結婚することだってあるし、相手の家への献身を誓ったら、誰が自分の親の面倒をみるんだ?

もうちょっと現実みて考えろ。

相続権が残るのと同じで、他家の養子になっても実父母への扶養義務は残る。だから通常その心配はない。

それで、もし「自分の親だけを大切にしたい」と考えているなら、結婚後にも夫婦別姓で我慢するべきだろう。逆に「自分の親だけじゃなくて、配偶者の親も大切にしたい」と思う人たちは養子縁組してほしい。

後者にかぎって夫婦同姓を認める。すなわち明治以降の家制度価値観(=嫁にいったらその家のために尽くす。夫の両親に尽くすetc)を重んじる人にの夫婦同姓を許可するべきなのだ

 

尽くすと尽くさないの間には、年に数回の親戚づきあいが含まれると思うぞ。

それを言うなら、「結婚」も「養子縁組」も最初から法制度の話だよ。

尽くすかどうかは主観的問題から訴訟がないかぎり法律はそこに立ち入らない。年に数回しか会わない仮面夫婦でも、男女双方が納得しているなら法律はそれを夫婦と認めている。

実態がどうであれ制度上は、「結婚」は夫婦がおたがいに尽くし合う関係だし、「養子縁組」は義理の親子が尽くし合う関係ということになる。

なので法律では後者にのみ改姓を認めればよい。夫婦同姓になりたい人は配偶者の親と協議して、結婚前か結婚後に養子縁組手続きをしてくださいねってわけだ。

 

 

追記

私は家制度価値観尊重しているから、それを守りたい人にの夫婦同姓を認め、逆にそれを守るつもりがない人は夫婦別姓でいるべきだと思う。

ただ、この案がまずいところは、配偶者の両親が死去している場合、その家の養子になれないから夫婦同姓になれないということである

これを解決するためには死後にも遺言次第で養子をとることを認めるとか、両親が死んだ男は妻を「義妹」「義従妹」としてその家の一族として迎え入れることができるとか、そういう形の縁組ができるような法改正必要となるだろう。

http://anond.hatelabo.jp/20151208184831

相手の家に嫁いで(または婿になって)、その家の発展に寄与し、先祖供養や親のため孝行を尽くしたならば、遺産をもらって当然じゃないかな?

逆に遺産をもらえない現行制度おかしい。不公平だと思う。

 

「相手の家には尽くしたくない」「配偶者親族とは関わりたくない」って人にも結婚をする権利はあるけど、他家に入ってその家に献身するつもりがないなら、名字を同姓にして一族ヅラをする権利はないと私は思う。

から改姓は養子縁組(=他家への献身を誓う&遺産相続権利を得る)とセットにするのがいい。そして改姓と結婚はきっぱり切り離すべき。

夫婦同姓の欺瞞

http://anond.hatelabo.jp/20151207234741

 

自分夫婦同姓をやめるべきだと思うけどね。

結婚による改姓は原則禁止夫婦別姓強制ってことで。

 

どうしても配偶者と同姓にしたいって人は、その家の養子になってから結婚すればいい。そのほうが「家につくす」「一族になる」って感じするじゃん。

相手の家に入って一族になるつもりがないなら、「夫婦同姓になって一体感がほしい」という願望は欺瞞だ。そういうのはわがままだと思うし、個人的にはあまり認めたくない。

 

 

 

追記

相手の家に嫁いで(または婿になって)、その家の発展に寄与し、先祖供養や親のため孝行を尽くしたならば、遺産をもらって当然じゃないかな?

逆に遺産をもらえない現行制度おかしい。不公平だと思う。

 

「相手の家には尽くしたくない」「配偶者親族とは関わりたくない」って人にも結婚をする権利はあるけど、他家に入ってその家に献身するつもりがないなら、名字を同姓にして一族ヅラをする権利はないと私は思う。

から改姓は養子縁組(=他家への献身を誓う&遺産相続権利を得る)とセットにするのがいい。そして改姓と結婚はきっぱり切り離すべき。

2015-11-29

「緑の行進」40周年ロイヤルスピーチ

神に讃えあれ

平安と祝福が預言者とその一族にあらんことを

国民よ

この「緑の行進」四十周年記念式典は、いつもの行事や通過的祝典ではありません。それどころか、王国領土保全を完成させる過程における重要な局面なのです。

我が国土の解放、そして平和安全の強化の大いなる達成に続いて、我が国サハラの人々がれっきとした国民となり威厳のある生活を楽しめるようにしようとしてきました。

今日、「緑の行進」の40年の後、我々は、その有利不利にかかわらず、サハラ問題についてこれまで対処されてきたやり方からの、金利生活者経済や特権からの、民間部門の参加が貧弱であることからの、そして中央集権的なメンタリティからの、根本的な決別を求めます。

何故今日、40年の後なのでしょう?

そう、何年もの犠牲と、政治的かつ開発志向の努力の後に、我々は成熟を達成しました。

今、国家の一体性統合過程における新時代夜明けと、我々の南部地域祖国への完全なる統合の達成のために、機は熟しています。

南部地域開発モデル」の実行と進歩的地方分権化の適用は、その過程の一部です。

国民よ、

私は是が非でも、南部地域我が国民達へ彼ら自身仕事をこなすの必要なすべての手段を与えて、彼らが彼らの地域を開発できることを確かめたいのです。

太古の時代から、このサハラの人々は学者や季節的交易者として知られてきました。彼らは額に汗をして生計を立て、威厳と誇りを持って暮らしていました。厳しい生活環境にも関わらず、誰からの助力も期待していません。

私が話しておりますのは真のサハラウィ、彼らの祖先モロッコの王との間にいつも存在していた忠誠の絆へと身を捧げて続けてきた本物の愛国者のことです。

我等が敵たちのものの見方に乗せられて彼らを支持する少数の者についていえば、それらを許す余地は我々の間にはないのです。しかしながら、本心に立ち返り悔い改めた者に祖国は、概ね寛容かつ寛大であります。

国民よ、

南部地域開発モデル」を実行することは、これらの地域の我が同国民への我等の義務を果たすことに我々がどれほど身を粉にするかを示すもので、それゆえに統合的開発のモデルとなるでしょう。

我々はこの「開発モデル」に、統一祖国へとこれら地域を統合すること、そして、経済的ハブとして、またモロッコとそのアフリカルーツとの間の決定的な絆として、サハラ地域の影響力を拡大することを望んでいます。

そのために私は、利用できる全ての手段を集めること、全能の神の御恵みにより、ラユーン=サキア・エル=ハムラ、ダフラ=オウド・エッダハブとゲルミム=オウド・ヌーンの諸地域にて社会・医療・そして教育のプログラムとともに、多数の主要計画を遂行することを決断しています。

インフラに関しては、この地域の道路ネットワークが拡大されるとともに、国際標準に準拠した二車線道路がティズニットとラユーン、ダフラを繋ぐために建設されることになります。

私はまた、アフリカ各地とを結ぶハブ空港南部地域に設ける検討をすることも、政府に求めました。

私の念願の一つに、アフリカ他地域とモロッコを繋ぐためにタンジエとラグイラを結ぶ鉄道を実現することがあります。今日マラケシュラグイラ線完成のために今必要となっている資金の確保に助力いただけるよう、全能なる神に祈ります。

我々にはまた、「偉大なるダフラ大西洋港」を建設し、南部にて主要太陽光及び風力エネルギープロジェクト遂行して、ダフラと国立送電網とを接続する意思があります。

我々の目標の一つは、これらのネットワークインフラアフリカ諸国へと繋げて、これにより諸国の発展に寄与することであります。

もちろん私は、これらのインフラが、それ自体では、国民の生活状況を向上させることができないと理解しています。それゆえ私は経済発展を推進し、人間開発計画にてこの行程をサポートすることを切望しているのです。

強調しておきたいのは、この点について天然資源からの収入は、この地域の人々の便益の為、そして彼らとの協議と協力にて、この地域へと投資され続けるであろうということです。

地域の資源と製品の利用と振興のために、ダフラの主要海水脱塩プラントや、ラユーン、エル・マーサ、ボジュドーの産業区と施設類の設立のような、幾つかの計画が遂行されるでしょう。

これらのイニシアチブサポートするために、国内及び海外投資家のために明快さと競争力とが共存して、彼らがこの地域の発展に貢献できるよう、投資やすい法的枠組みが制定されることを切望しております。

経済構造を拡大し、事業と社会経済をサポートし、定収入を発生させ、特に若い人々の雇用を創出するために、経済発展基金も立ち上げることになりましょう。

国民よ、

私にとって、最も重要なこととは、サハラにおける我々の同国民の尊厳…とりわけ、若い世代の尊厳…が保護されることを確実とし、彼らの愛国心祖国への傾倒を強めることであります。

よって私は、人口の殆どのセグメントで要求されている公平と社会的正義原則を維持するため、社会保障システムに立ち戻り、これをさらに透明で公平なものとするよう、政府に求めています。

さらに、サハラの人々の心臓と心の中で特別な位置を占めているハッサーニ文化を考慮して、サハラ伝統の保存と推進のために必要となるメカニズムを、とりわけ、この国の南部に劇場美術館カルチャーセンター建設して、強化することを切望しております。

人権についてですが、モロッコは、全能の神のお恵みにより、国家の動員、良好な治安統制、そして国民社会組織との建設連携を通して、たくみに我が敵の目論見を打ち砕きました。

そのうえ、憲法にて定められた機関であります国家人権協議会とその地域委員会は、権利と自由の保護を任務としておりますが、如何なる違背があろうとも、これに対し、公的機関市民社会組織、そして国民との対話と協力を通じ、取り組んでおります。

国民よ、

進歩的地方分権化を遂行して、モロッコの信用を強化するとともに、公約を重んじる国であることを示すのです。

私が国会開会式で強調したように、この地域で選ばれたオフィシャル達は、国民によって民主的に与えられた正当性により、国家機関だけでなく国際社会とも向かい合う、南部地区居住者の真なる代表者となります。

進歩的地方分権化の遂行南部地域が最優先であることを確かなものとするために、一連のプログラム契約が、中央政府と本地域との間で、開発プロジェクトの実行に関する其々の義務をはっきりさせるために、締結されることになりましょう。

私はそれゆえ、王国の他の地域の経験が繰り返されることを期待して、権限委譲立法文書の採択を急ぐこと、適任な人的資源資金とを移転してこれをサポートすることを、政府に対し命じています。

我々はまた、地域部局に対し、この地域の物事を地方レベルで動かしていくのに必要特権を与えるための、本当の行政権移譲勅許状の準備を急がねばなりません。

私はそれゆえ、我々の南部地域居住者とその代表者達が、彼らの責務を遵守することを期待します。今や、彼らが自らの物事を執り行って自身要求を満たすために、制度化された開発関連のメカニズムを設定しているのですから。

国民よ、

モロッコが何かを約束するときは、言行をともにします。我が国は、履行できないことは公約しません。

ですから、我々は世界に向けてこう言いたいのです:他とは違って、我々、モロッコに居る者は、空疎スローガンを使うこともなければ、幻想を売ることもしないのだと。我々が何かを公約するときは、その内容を履行して、大地の上で物事を執り行うのだと。

今日モロッコは「モロッコサハラ」をサブーサハラアフリカ諸国との通信及び通商のハブとすること、そしてそれを達成するのに必要インフラ建設することを誓いました。そして今一度になりますが、我が国はこの約束を守るでしょう…敵たちが好むと好まざるとにかかわらず。

ところで、ティンドウフでは…アルジェリアのですが…人々が、貧困や、絶望収奪そして基本的人権の侵害に苦しみ続けています。ですから、私はこう問うべきと思うのです:

「何百万ドルもの人道的な援助はどこに行ってしまっているのか…一年あたり6千万ユーロも?…分離主義者たちの装備、プロパガンダ、そして弾圧に費やされる莫大なユーロについては言うに及ばず。」

分離主義者の主導者たちが腹立たしくも裕福で、欧州やラテンアメリカ不動産銀行口座を所有しているという事実を、どう説明できるのか?」

「どうしてアルジェリアは、人口がせいぜい四万人のティンドウフ・キャンプ生活条件を…例えば、アルジェの中程度の人口区域と同程度にまで…向上させようとしないのか?」

これはつまり、彼らの威厳を守る住宅6,000軒を、アルジェリアは建てることができていない…もしくは建てるつもりがないのだ、40年にも及ぶのに…ということなのです。

どうしてアルジェリアは…モロッコ軍事・外交で対抗するために莫大な額を費やしているのに…ティンドウフの住人達をあのような恐ろしい、非人間的な状態生活させておくのでしょうか?

かのサハラの、自由で立派な息子たち・娘たちを、人道援助を乞う者に変えてしまった者どもには、歴史が裁きを下すでしょう。

彼らがサハラ女性子供たちの集団の悲劇を利用して、彼らを戦利品に変えてしまっており、違法な商業活用だけでなく外交的論争のための道具としても使っているという事実を、歴史は物語ることになるでしょう。

ティンドウフのキャンプに居られる人々に問います:ご自分たち生活状況がすさまじいというのに、あなた方はそれで良いのでしょうか?このキャンプに居られる女性は、息子さんたちや娘さんたちの間に広がっている絶望と落胆の意味理解しておられるのでしょうか…期待できる展望未来もないというのに?

あなた方は、このような非人間的な状態などよりも良い扱いを受けるに値するものと、私としては信じております。あなた方がこういったことに耐えるのだというなら、誰を責めるわけにもいかないでしょう。そうしている間にも、あなた方の目前でモロッコは、その南部地域の発展を強力に推進していき、この地域の居住者が自由で威厳のある人生を楽しむのを確実にしていくのです。

国民よ、

この「サハラ問題」は、モロッコがその歴史のなかで初めて直面した問題ではありません。この国はシバ(無法)と混沌を知っています…保護領統治のもとで生きながらえ、占領を耐え抜きました。この国は、現代国家を築こうとして独立を勝ち取るうえで、不和と争いの時季も経験しました。

困難な状況に直面する度に、モロッコがいつも昂然として、強固であり団結していることが判ります。何故かといえば、モロッコ人は、自分たちが同じ運命のもとにあると信じ、自らの普遍の価値と領土保全を維持しており、この王と民との間にある密接な絆と団結へと、全面的に委ねているからです。

進歩的地方分権化の遂行と開発モデルの適用を開始することにより、モロッコは、我々の領土保全に係る不自然な論争に対する不変の解決策を見出す機会が多くなることを望んでおります。

そのように信ずる理由はただひとつ2007年モロッコは、国際社会の呼びかけに積極的に応じ、この袋小路から出る道を見出すための案を編み出したからです。

そうして我々は「南部地域の為の自治イニシアチブ」を提案しました。その国際団体からは、真剣で信頼できる提案であるとの判断が出ております。

昨年私が「緑の行進」の記念日を祝う式辞にて指摘したように、このイニシアチブは、モロッコ提供できる精一杯のところなのです。その遂行は、国際連合機構の枠組みでの最終的な政治的解決の達成にかかることとなります。

モロッコの一部について何か別の譲歩を待っている者たちは、思い違いをしています。それどころか、モロッコはそこで与えるべき全てを与えています。モロッコは、このサハラを守るために、自らの息子たちの血を惜しみなく捧げています。

我々は、それ以上の譲歩をしなければならないのでしょうか?一部の国際非政府組織たちが、我々に望んでいるような?

我々は、こういった敵対的態度の裏にある理由を知っています。彼らの狙いは、この国を分割することなのです。しかし当の彼らには我々のことに干渉する権利などないことも、我々は知っています。

これは、国際組織内のある団体がモロッコの歴史を知らないままシナリオを創り出そうとするのに対処するうえで、我々が支持しているのと同じ原則です。そうしたシナリオは、エアコンの効いたオフィスで創り出され、現実から遠く離れて、モロッコサハラに係る地域紛争の解決のための提案として示されているのです。

モロッコは、如何なるものであれ、深刻な結末をもたらしかねない愚かで危険な行動方針も、「自治イニシアチブ」で生まれた前向きな趨勢を転覆することが狙いでしかない実行不可能な提案も、いずれもお断りいたします。

モロッコ製品への敵対的キャンペーンに対しても、モロッコの団結と不変の価値を守る政治と防衛のセクターで発揮されたのと同じ、犠牲と献身精神に則って、立ち向かっていくことになります。我々の製品のボイコットを求める者たちについては、歴然とした国際法違反でありますが、彼らにはそうさせておきなさい。とはいえ、彼らは自ら決めたことの責任を執らなければならなくなるでしょう。

モロッコには、立ち上がるであろう大規模プロジェクト恩恵で、この地域に生まれ投資機会から利益を得るために、自らのパートナーを…国家も、グローバルカンパニーも…招待する権利があります。

丁度、我々がモロッコ北部と南部とを何ら区別していないように、トマトにおいてアガディール産とダフラ産の間でも、イワシにおいてララシュ産とボジュドー産の間でも、燐鉱においてコウリブガ産とボウクラア産の間でも…広く知られるデータ裏付けられているように後者我が国の埋蔵量の2%に満たないとしても…我々の目には何らの違いも、みとめられないのです。

同様に強固な意志と揺るぎなさをもって、モロッコサハラの法的状態を疑おうとする企てにも、この国の北部地域でと全く同じように、この土地、この南部地域にて力と特権の完全なる行使を行う我が国の権利へ疑問を投げかける企てにも、モロッコは立ち向かっていきます。

これはつまり、我々の正当性を良く知らしめ、我が国がなしている進歩をスポットライトで照らし、我々の敵のもくろみに対抗するための、取り組みの強化と警戒の維持、これら全てを、我々は総動員で行っていかなければならないということです。

国民よ、

緑の行進を特徴づけたのと同じ献身と犠牲の精神を保ちつつ、我々の南部地域の開発を推し進め、その地方の息子たちや娘たちの尊厳を護ること、そしてこの国家の領土保全を維持することは、我々の集団的責務です。

そのようにすることが、「緑の行進」の考案者…私の尊敬する父であって後の王ハッサン二世陛下…安らかにお眠り下さい…と、この国の栄誉ある殉教者たちへの、忠節の証しとなる筈です。

アッサラーム・アライクム・ワロマツロー・ワバラカア-トゥ

2015年11月6日

2015-11-06

アンパンマンは戦わなくてもいいのではないか

正義のための戦いなんてどこにもないのだ。正義はある日突然逆転する。正義は信じがたい。」

日本正義を信じて21で戦争に行き、弟を特攻隊で亡くし、戦後に全ての価値観がひっくり返されたやなせたかし思想だ。

逆転しない正義があるなら献身と愛だそれも大袈裟なことではなく、目の前に飢えた人が居れば一片のパンを差し出すことだ。

そんな思いで生まれ正義ヒーローアンパンマンだ。

しかアンパンマン正義のために戦っている。

演劇にするときに悪役もいた方が盛り上がると作られたのがバイキンマン、彼は乱暴で説得が通じないしアンパンマンをやっつける為にこの世界にいるので戦わざるをえない。

からアンパンマンは当初の使命のパンを食べさせる事も減り、何度も何度も戦い続けている。

しかバイキンマン有害さをジャイアン程度に留めて、あの世界で皆が戦わず過ごす話でも成り立つ気がする。

アンパンマントイレ掃除などのしつけ目的で作られたアニメを見ると、バイキンマンキャラ崩壊してほぼ無害だ。

どれくらい崩壊しているかと言うと石鹸で手を洗って喜んだり、アンパンマン電車ごっこで遊んだり、子供たちに食べさせてあげようとパン工場クッキーを焼いて出掛けるが忘れてしまい、アンパンマンが忘れてるよーとクッキーを持っていき、子供たちが喜んで食べてバイキンマンも喜んでいる後ろでアンパンマンが(バイキンマンクッキーは黒焦げだったかジャムおじさんに焼いてもらったんだ、ないしょだよ)とささやきバイキンマンは「あのクッキー俺様のじゃないみたいだが後でじっくり聞かせてもらおうか」とアンパンマンを睨む。

バイキンマンはまるでメシマズヒロインのように無害でアンパンマンと仲良くしているが、話として見れないことはないし子供も喜んでいる。

子供が見たいのはバトルではなくアンパンマンや美味しそうなご飯だ。

戦わない路線に舵を切ることもできるのではと思う。

2015-11-03

アドラー心理学実践したらSEXしたくなってきた。

承認欲求を捨てると確かに最初セックス願望は薄れる。

それはセックス経験の少なさ=社会的恥だから・・

しかし、承認欲求を捨てることにより、オナニーが楽しくなくなる。という面もある

それはオナニーネタというのは、こんなすごいネタ見てる俺って人より幸せという他人比較しての優越しかないからだ。

オナニーが楽しくない。しかし性欲は貯まる、吐き出す。

やはり女と抱き合う、相手に喜んでもらう、そういう献身から得る喜びにしか幸せを見出せない。性的充足を見出せない。

風俗・・・

2015-10-19

http://anond.hatelabo.jp/20151018215156

ブコメより

id:anigoka

社会的互助って奴がそーゆー単相の一対一だけで成立してるわけじゃないことぐらい分かれや お前は性格ルックスが悪いんじゃない、アタマが悪い

正論だけど的を外している。

元増田はその社会的互助の輪から自分が締め出されているように感じている、というより、信じている。

その確信の下、功利的に考えれば、自分への見返りの無い社会的互助献身することを拒否するのは、合理的だ。

 

id:nekora

こんなやつでも、出生前は散々優しくされただろうに。

これ字面どおりに受け取るなら、元増田母親が実際に社会的互助恩恵を受けたかどうかはわからない、と答えうる。

が、このブコメの指摘するところはもっと深く、元増田社会的互助恩恵を受けているはずなのにそれに気付けないだけ、という点だろう。

 

電車というシステムひとつとっても、譲り合い等の社会的互助が働いているからこそ、円滑に動いているところがある。

もし皆が社会的互助拒否したら、駅は今よりももっとずっと諍いの絶えない場所となっていることだろう。

元増田は、電車を利用するに際して、しょーもないケンカに巻き込まれずに済んでる、という点では、社会的互助恩恵を受けてる、と言える。

 

別に電車に限らない。

世の中は割と、その場に居合わせ人間善意だけでうまくいっている場面が多々ある。

 

が、元増田にはこう言っても信じないだろう。

自分の置かれている境遇が最悪だと信じ込んでいる者に「もっと酷くなる可能性を考えたら、今はまだマシ」という指摘は、何ら救いにはならないから

 

こういう人たちには、もっと明示的な救済が必要なのだ

金銭的であれ、制度的であれ、政治社会が彼らの境遇改善しようという態度を明らかにすることによってのみ、彼ら彼女らの不満や不安を解消できる。

 

それこそが、不遇な人々をも社会包摂しようとする、社会福祉重要役割だろう。

2015-08-24

「がんばる」評価経済

 がんばることは基本的に良いことだ。なにごとも頑張らなければ成功はない。

 それはそれとして、本邦には誰かが頑張ったことを過剰に評価する風潮がある。

 そりゃがんばったんなら成功しようがすまいが褒めてあげればいいんだろうけれど、一部の人たちは「◯◯ちゃんはすごくがんばった」ことを外部へ向けて印籠代わりに使いたがる。往々にして頑張った本人ではなく、頑張ってる◯◯ちゃんを応援する人びとが、だ。

「がんばること」は尊いので、成果物に対するあらゆる批判封殺することができる。

 関わったスタッフはみな血反吐を吐くような努力をして作品作りました

 アイドルは下積み時代に地べたを這いずるみたいな大変な思いをしました。

 うちの社員毎日残業続きですが誰も弱音を吐いたりせず有給会社です。

 彼ら彼女らの献身自己犠牲は尊い。それ自体は美しい。

 しかし、その結果として、クソみたいな映画マンガや曲や小説プロダクツ生産されてしまった場合はどうなのだろう。

 Q1. 誰かのがんばりを知ってしまった、がんばってもない俺らはその腐った成果物批判する権利はないのか。

 Q2. 彼ら彼女らのがんばりは仕事をこなす上で当然の努力であり、趣味以下のレベルで消費する俺らにはそんながんばりなど関係なくはないのか。

 Q3. いかなるプロセスを経ようはモノはモノであり、俺らは直接にモノそのものと向き合うべきではないのか。

 問いに対する答えはこうである

 A1. もちろんそんな権利はない。

 A2. もちろん関係ある。

 A3. もちろんプロセスは十二分に考慮されるべきである

 努力は美しい。非効率で、実効的でないほど美しい。

 神風特攻を思い出してみよう。甲子園の思い出ヘッスラを思い出してみよう。24時間テレビマラソンを思い出してみよう。

 人はなぜがんばるのか、努力するのか。それは「たとえ今は使えなくても、将来有用経験となるから」ではない。

 誰かが頑張りを要求するからだ。他人から見て、美しいからだ。

 ジョージ・ミラーも言っている。「真の英雄とは、他人にために犠牲となれる人だ」と。たぶんこれはジョーゼフ・キャンベルからのパク、引用だと思う。

 真の努力人とは、自分のためにがんばる人ではなく、他人のためにがんばれる人だ。

 

 俺たちはもっとがんばりを評価すべきだ。むしろ、がんばりだけを評価すべきだ。

 Aさんが2時間かけて作った最高品質プロダクトより、Bさんが二十時間労働を百日つづけて作ったクソプロダクトのほうが価値は高い。その価値市場価値世間的な評価に反映させるべきだ。

 なぜならがんばれるということはそれだけ真剣だということだからだ。思いがつまっているからだ。真剣な人は傍目からどれだけ滑稽におもえても、偉いのだ。

 効率品質などという上辺だけの評価軸に踊らされるべきではない。もっと人間を見よう。モノの内部に宿った魂を見よう。

 がんばってできない人は、がんばらなくてもできる人より、時間や金をかけている。その見返りを与えてやってなにがいけない。

 考えてもみろ、俺たちだって人のことを言えるか? がんばらなくてもできる人か? がんばってもダメだろ? いつも努力の方向を間違えてしまうだろ? おもいやりだよ。共感だよ。それ自体ドラマで、製品に組み込まれているんだよ。

 だからがんばりへの評価製品への評価を切り離すべきではない。

 

 そういう仏のような気持ちで昨日、実写版進撃の巨人』を観に行った。

 劇場を出るときには鬼のような形相になっていた。

 パンフレットにはスタッフ役者陣がどれだけがんばったかが書いてあった。

2015-06-23

http://anond.hatelabo.jp/20150623111621

何に落ち込んでるのかよくわからないが、妻に永遠に女性でいてほしかったのか?

自分献身責任をことさら強調してるけど、やってることの是非はともかくとしてその動機はけっこう利己的だったんじゃないの?

2015-05-24

anond:20150524184323

「集中のようなものが低くなることが予想される」ってもう小学生並かよ

都合の悪いことは無視してダラダラ無能晒して結局お前はどうしたいんだ?

弱者が脅して奪おうとしてもボコられるか締め出されるだけなんだよ

強者としての行動原理を捨てて弱者としての行動原理を身につけるべきで

まり献身して信頼を得ることを覚えないと庇護してはもらえないんだよ

2015-02-21

人間は9つの種類に分けられる

1完全主義者

2献身

3達成者

4芸術家

5研究者

6堅実家

7楽天家

8統率者

9調停


エニアグラムかいうやつらしい

心理学的にどうたら

キャラミル研究所というサイトがあったけど、それも多分これ使ってる


このサイトの書き方が一番しっくりきた 転職サイトだけど

http://re-katsu.jp/career/enia/result/type01/index.html

(type01のとこの数字を変えたら他の診断も見れる)

ステマ等気にする人は自分でググッていいサイト探してくれ


占いとか信じない派だけど

とあるタイプ自分すぎて辛い

まんますぎる


でも兄に見せたら懐疑的だった

ぐぐったら混合型もいるらしい

2015-02-12

原発作業員アスカ子供なんて絶対要らないのに!」

那珂にある日本原子力研究開発機構核融合炉、炉のすぐ隣に『神棚』があるんですよ。

KA☆MIDANA

核融合でもわずかですが放射性物質セシウムを使うんで神頼み、安全神話必要なのです。

私、原子炉は見たことないんですが、たぶん福一にも神棚はあったんだと思います

あずまんダークツーリズムじゃないですが、1Fで働いてみたいです。

SEKAI NO OWARIみたいな様相を呈しているでしょうから後学のために……ね?

放射線はおっかないですよ。

でも、被曝で氏ぬのはたぶん二、三十年後なんですね。

それくらいならいいかなと。

しろ現場を仕切っている筋者たちの方が私は怖いですね。

あと、子供作る予定ないんで染色体異常とかも別にいいです。

SEISHI NO OWARIやRANSHI NO OWARIになってもだからなんだという話です。

だいたい未婚・晩婚・貧困化で子供作れる人はもう一部になってるじゃないですか。放射線関係ないですよ。

『ドラゲナイ言ってる中坊を育てられる家庭』持てる人間なんて僅かなんですから、『ドラゲナイ言ってる中坊を育てられる家庭』持てそうにない人はガンガン廃炉作業すれば良いと思います

それとJINSEI NO OWARIが近いシルバー層にもぜひ献体もとい献身してもらいたいですね。

2015-01-25

男女の人権と欲求と差別と、遠い未来についての思考メモ

http://anond.hatelabo.jp/20150124122808

ブコメはありがたく全て目を通させて頂きました。考えはまだ拡散してまとまりません。

 

男性支援アンチフェミニズムではない

フェミニズムの延長として、男性にも抑圧されてる面があるんじゃねって視点が出てきたわけで、実はこれはフェミの成果でもあるのよ。

http://b.hatena.ne.jp/entry/239953973/comment/c_shiika

 

男性権力神話』の著者ワレン・ファレル氏は元々フェミニストであり、女性社会進出を助ける活動を行っていたそうだ。

彼が目指しているのは女性差別男性差別の双方を撤廃することであり、アンチフェミニズムではない。

 

フェミニズム議論は「男性女性を抑圧する加害者である」に留まりがちだが、復讐から一歩進んで、

「なぜ男性女性を抑圧してきたのか」「男性が抑圧されていなければ男性女性を抑圧する必要が無くなるのではないか」と、

より解決志向議論に向かえば望ましいと思っている。

 

「自らの命の価値に自信が持てない」問題

男性は「美貌の女性」に憧れてそうしたストーリーを消費するわけではない。むしろ、「待ちの姿勢で居る高嶺の花的な美貌の女性を捨て身の献身でもって落とした男性」に憧れるのである特攻隊についても言及されているが、彼らは別に"天皇および祖先のため"だけに死んだわけではない。家族や守るべきもの、あえて言えば自分が「男らしさ」を発揮できる対象(≒自分より弱い者)のために死んだのだ。死で終わるこの手の物語は言うまでもなく「捨て身の献身」の物語として最上のものである。そしてこの手の物語に最も惹きつけられる人間は、自らの命の価値に自信が持てない人間である。なぜなら、誰かのために死ぬことは、少なくともその誰かの命の価値を自らの生に与えることだから

http://anond.hatelabo.jp/20150125113634

 

他人価値があると言って貰えないと、自らの命の価値に自信が持てないことに、様々な人間関係上の問題の原因があるのだろう。

人間ゲームの初期設定のように平等スキルポイントと割り振る自由を与えられているわけではなく、

体力10+知力10+魅力10総合30点の人間と、体力1+知力1+魅力1=総合3点の人間存在するのが現実だ。

 

欲するだけの「客体としての価値」が得られなかった人間が、苦しみのはけ口として男女論を使うシーンは多い。

個人的な苦しみが絡むからこそ、多くの男女論は生産的な方向に進まず、ミソジニーミサンドリーの殴り合いになる。

人種差別も似たようなものなのだろう。「自らの命の価値に自信が持てない」から、無条件に自分よりも命の価値が低い存在必要とする。

 

そして、今「強い男女」であったとしても、老化によって「弱い男女」になっていく。

自分は強い・美しい・賢いから生きる価値がある…といった、条件付きの自己存在承認をしていた場合は、

事故病気、老いなどが原因で「弱い男女」となったとき精神的なクラッシュを迎える可能性がある。

 

また、テクノロジー進歩によって、自分役割が「商品」に代替され、存在意義が揺らぐ可能性もあるだろう。

親より友人より恋人より、音声アシスタントの方が有益で快適な話し相手になる時代が来るかもしれないのだ。

他人に求めていただくこと、他人価値を認めていただくこと…そのハードルは昔と比べてどんどん上がっていくだろう。

特攻隊のような捨て身の献身も、「生産性が無い」「時代遅れ」「死ぬしか能が無い」と冷笑するのが今は主流かもしれない。

 

男性女性による欲求の表明を抑圧する理由

女性が待ち」の構図は戦前男性社会が作ったんだよね。女性から告白するのは「はしたない」ものだったわけで、むしろ抑圧の象徴だったんじゃないかな。

http://b.hatena.ne.jp/entry/239953973/comment/azutokimiya

 

女性から男性への告白を禁じることによって、よく告白される男性と全く告白されない男性格差を隠すことができる。

女性は欲望を持たない清廉な存在だというファンタジーも、女性に傷つけられないためのモノ化手法の一つなのだろう。

男性が「女性Aには興味があるが、女性Bには無い」という感想を持つように、

女性も「男性Aには興味があるが、男性Bには無い」という感想を当たり前に持つものだ。

男性B」扱いされることを恐れすぎる男性は、女性による欲求の表明を抑圧する構造・風潮を作ろうとする。

男性の苦しみは女性の欲求が原因ではない。

たかが一人の女性必要とされなかったことによって、自らの価値が揺らぎすぎることに原因があるのだ。

 

欲求と差別の話

性差別問題は、「男性には許されて女性には許されない」「女性には許されて男性には許されない」の解体が最終目標となる。

ただ、もし仮にこの解体が上手くいって、男性だけの苦労や女性だけの苦労が無くなったとしても、

客体としての価値が高い「強い男女」と、客体としての価値が低い「弱い男女」の格差は残る。

「強い男女」同士が同僚・友人・恋人配偶者として求め合い、「弱い男女」は「強い男女」を求めつつあぶれる結果を招くだろう。

「最貧困女子」が話題になったが、弱い男女は客体としてはストレッサーになる場合が多いのだ。

 

昨日放送されたNHKの「ネクストワールド私たち未来」では、73歳の高齢男性篠田麻里子演じる若年女性に恋をする描写があった。

数年前に放送されたNHKスペシャルでも、重度脳性麻痺40代男性が、「脳性麻痺ではない健常な女性と恋をしたい」と主張していた。

夫に興味を持てなくなった中年女性が、ヨン様氷川きよしK-POPアイドルなどに熱を上げるのも、身近で耳にするレベルでよくある話だ。

こうした欲求に対して、釣り合わないだの、みっともないだの、鏡を見ろだの、要は「欲求を持つな」と強要する人々が居る。

しかし「弱い男女」が「強い男女」を求める気持ちは、禁じても無駄なほど強いものであろうし、求めるだけなら権利があるのである

ただ「強い男女」にも、「弱い男女」からの求めを受け入れるかどうかを決める権利がある。当然の人権だ。

受け入れられなかった側が「高齢者差別」「障害者差別」「ルッキズム」などと怒ったとしても、

弱者に、強者個人的交友や時間の使い方の選択権を侵害する権利があるわけではない。

 

弱者の欲求を受け入れるのは、人間ではなくロボット仮想現実上のキャラクターになっていくのではないかと思う。

ロボット仮想現実純粋な客体であり、苦しんだり傷ついたりする主体は無い。

http://anond.hatelabo.jp/20150124122808

思考メモとあるとおり、従来の男性ロールが別に男にとって素晴らしいものではない理由が並べられながら、だからどうするという結論存在していないのだが、この増田は恐らく「男らしさ」の物語に強い憧れを抱いているのではないだろうか。増田は巷に溢れる「待ちの姿勢で居る高嶺の花的な美貌の女性と、その女性を捨て身の献身でもって落とした男性」のストーリーに対し、

男性が「美貌の女性」に憧れる限り、女性が「捨て身の献身」に憧れる限り、そうしたストーリーの人気は続くだろう。

と書いているが、男性は「美貌の女性」に憧れてそうしたストーリーを消費するわけではない。むしろ、「待ちの姿勢で居る高嶺の花的な美貌の女性を捨て身の献身でもって落とした男性」に憧れるのである特攻隊についても言及されているが、彼らは別に"天皇および祖先のため"だけに死んだわけではない。家族や守るべきもの、あえて言えば自分が「男らしさ」を発揮できる対象(≒自分より弱い者)のために死んだのだ。死で終わるこの手の物語は言うまでもなく「捨て身の献身」の物語として最上のものである。そしてこの手の物語に最も惹きつけられる人間は、自らの命の価値に自信が持てない人間である。なぜなら、誰かのために死ぬことは、少なくともその誰かの命の価値を自らの生に与えることだから

だが現在では、男であるというだけでそうした物語主人公になることはできない。自由恋愛の下に女性と付き合い、結婚し、家庭を持つ必要がある。しか自由恋愛の下では、男性内での強者弱者という構造が発生する。「男らしさ」規範内面化した弱い男にとってこの構造は大問題である。「男らしさ」の物語に憧れているのにもかかわらず、自分はその物語主人公にはなれないのだから

降りてしまえば楽になる。だが、降りる自分と「男らしさ」の物語に憧れている自分との折り合いをつける必要があるから、「男らしさ」の物語の酷さを並べて物語を崩そうとする。あるいはフェミに傾倒したりすることもあるだろう。

ただねえ、そう上手くはいかないんだこれが。強いて言えば老いが解決してくれるんだが、そんなこと今悩んでる若い子に言ってもしゃーないか。

2015-01-24

男性差別」についての散らかった思考メモ

引用は『男性権力神話から

 

恋愛に受け身な側の理不尽さについて

デートイニシアティブを早くとらない男性を「情けない男」と呼び、デートイニシアティブがあまりにも早く行われれば「レイプ犯」とその男性を呼び、彼がうまく引っ張ってくれない場合「最低な男」と呼ぶ。

この文章が、恋愛について受け身な人の嫌な点を非常に的確に表現していると思った。

まどかさんのブログに出てくる「クラッシャられ男子」は、男子から情けなくて最低と評されるのであって、女子だったら許されているのが現状だ。そこそこ可愛い女子に生まれて愛想も良ければ、クラッシャられ男子レベルの受け身ぶりでも、口説かれて結婚して子供を産んで…と、ドロップアウトせずに人生王道を歩み続けることが出来る。

受け身で居ることが許されず、口説いた相手に拒否されるリスク男性けが一方的に負わされているのが、「男性性役割」であり、「男性差別」の一つなのだと思う。一方的リスクを負わされていることに気づき、不平等関係から降りたのが「草食男子」なのかもしれない。既得権は、得ている側は気づかないものなので、「草食男子」という降りた存在が現れたことで、女性既得権を失う可能性が初めて可視化されたのではないだろうか。

 

しかしこれからも、「待ちの姿勢で居る高嶺の花的な美貌の女性と、その女性を捨て身の献身でもって落とした男性」のストーリーは男女の恋愛における憧れの対象として語られ続けはすると思う。フィクションだけではなく、芸能人結婚話などで定期的に実話が投下されるとも思う。男性が「美貌の女性」に憧れる限り、女性が「捨て身の献身」に憧れる限り、そうしたストーリーの人気は続くだろう。しかし「美」も「献身」も希少であり、非常に高い価値を持ち、凡人には手が届かないものだ。簡単に手が届くという勘違いは、その人にとっての「世界」を「敵」に変える。凡庸な多くの人々にとっては、メジャーリーグセリエAオリンピックを観るような気持ちで、遠巻きに憧れの視線を送る程度がちょうど良いのだと思う。

 

異性をモノのように捉える理由について

個人的な拒絶を引き受けるよりもむしろ若い男性女性セックスのための物として見るように変えることを学ぶ───物に拒絶された方が彼はあまり傷つけられずにすむ。物として扱われることは彼女に疎外感を与え、拒絶されることは彼に痛みと怒りと弱さを感じさせる。

男性女性を物のように扱う加害者悪人絶対的強者」という一方的認識に一石を投じる解釈だと思う。

女性を物のように捉えることは、拒否されるリスク男性けが一方的に負わされ、そうした社会は変えられないという現状に対する、個人的適応なのだ。夫に傷つけられ失望しきった妻の心が麻痺し、夫がATMしか見えなくなるのも、一種の精神的な適応であると思う。非人間的な考え方の根源には、これ以上傷つくことを恐れるという人間的な理由がある。「だから女は肉便器、男はATMという考え方は正しい」と言いたいのではない。人間関係問題を解決に向かわせるためには、加害者批判に終始するのではなく、加害者理解必要なのだと言いたい。

 

男性女性性的拒否すべきではないという強い規範存在する。女性が幼い男性強姦するケースもあるが、笑い話やポルノ的消費で片付けられてしまいがちだ。女性ストーカーに怯える男性も「男らしくない」と罵倒される始末で、男性被害者こそセカンドレイプに晒され続けている。男性セカンドレイプに晒されることを当たり前と考えていると、女性セカンドレイプ晒すことも当たり前になる。セカンドレイプの悪質さに、被害者女性男性かということは、一切関係が無い。

 

優劣談義と集団への屈従を好む男性性質について

第二次世界大戦における日本人男性は、「武士道」の訓練をまだ受けていた。「武士道」は、屈従の方法であったので日本軍人は、進んで天皇および祖先のために死んだ。死以外に勝利への代替方法は許されないと考えるように彼は訓練を受けた。神風特攻隊は、「武士道」、すなわち「他者」への総合的な奴隷になる道の結果である

男性権力神話』には、これまで男性がいかに危険仕事従事し、いかに使い捨てにされ、いかに国家に殺されてきたかという話が繰り返し出てくる。若い男性労働力や命を、「名誉」を餌にして権力者が根こそぎ収奪して富を得ている構造がある。現在も「生活保護という不名誉から逃れるために過酷労働をしている男性が数多く居る。「他者」への総合的な奴隷、というのは上手い表現であると思う。

歴史を振り返るに、女性よりも男性の方が、よほど従属的だ。発言や態度が挑発的であったとしても、実際の行動が集団に従属的なのである最近男性が従属的で自尊心が低そうに「見える」女性を好むのは、支配欲というよりも共感なのではないだろうかと思う。男性向けの創作で、巨乳存在に萎縮する貧乳が描かれたりするが、「優れた同性」の存在にやたらと萎縮する傾向は、女性より男性の方が、実際には強いと思われる。身体的な特徴を優劣・上下関係単純化したがる傾向は男性によくみられる。強さ議論が好きであり、劣ったもの侮蔑することを好む。男性自殺が多い原因もここなのではないかと思っている。これが男女の器質的な違いによるものなのか、社会的な扱いの違いによるものなのか、あるいはその両方なのかは、専門家ではないのでわからない。しか男性は「男は強くあらねばならない」と考えているため、自分弱者被害者立場だったとしてもその事実を受け入れられず、強者収奪者の価値観内面化し、「収奪社会構造肯定する弱者」となってしまやすいのではないかと個人的に思う。その結果が「喜んで徴兵される」「経済的に失敗したので自殺する」などの、集団に屈従した行動ではないか。

 

他に書いたもの

性的少数派であるゲイ」と「ロリコンショタコン」の違い http://anond.hatelabo.jp/20150128232843

ジェンダー論者による「モテるヒント」 http://anond.hatelabo.jp/20150129001630

男女の人権と欲求と差別と、遠い未来についての思考メモ http://anond.hatelabo.jp/20150125162654

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