2015-08-24

「がんばる」評価経済

 がんばることは基本的に良いことだ。なにごとも頑張らなければ成功はない。

 それはそれとして、本邦には誰かが頑張ったことを過剰に評価する風潮がある。

 そりゃがんばったんなら成功しようがすまいが褒めてあげればいいんだろうけれど、一部の人たちは「◯◯ちゃんはすごくがんばった」ことを外部へ向けて印籠代わりに使いたがる。往々にして頑張った本人ではなく、頑張ってる◯◯ちゃんを応援する人びとが、だ。

「がんばること」は尊いので、成果物に対するあらゆる批判封殺することができる。

 関わったスタッフはみな血反吐を吐くような努力をして作品作りました

 アイドルは下積み時代に地べたを這いずるみたいな大変な思いをしました。

 うちの社員毎日残業続きですが誰も弱音を吐いたりせず有給会社です。

 彼ら彼女らの献身自己犠牲は尊い。それ自体は美しい。

 しかし、その結果として、クソみたいな映画マンガや曲や小説プロダクツ生産されてしまった場合はどうなのだろう。

 Q1. 誰かのがんばりを知ってしまった、がんばってもない俺らはその腐った成果物批判する権利はないのか。

 Q2. 彼ら彼女らのがんばりは仕事をこなす上で当然の努力であり、趣味以下のレベルで消費する俺らにはそんながんばりなど関係なくはないのか。

 Q3. いかなるプロセスを経ようはモノはモノであり、俺らは直接にモノそのものと向き合うべきではないのか。

 問いに対する答えはこうである

 A1. もちろんそんな権利はない。

 A2. もちろん関係ある。

 A3. もちろんプロセスは十二分に考慮されるべきである

 努力は美しい。非効率で、実効的でないほど美しい。

 神風特攻を思い出してみよう。甲子園の思い出ヘッスラを思い出してみよう。24時間テレビマラソンを思い出してみよう。

 人はなぜがんばるのか、努力するのか。それは「たとえ今は使えなくても、将来有用経験となるから」ではない。

 誰かが頑張りを要求するからだ。他人から見て、美しいからだ。

 ジョージ・ミラーも言っている。「真の英雄とは、他人にために犠牲となれる人だ」と。たぶんこれはジョーゼフ・キャンベルからのパク、引用だと思う。

 真の努力人とは、自分のためにがんばる人ではなく、他人のためにがんばれる人だ。

 

 俺たちはもっとがんばりを評価すべきだ。むしろ、がんばりだけを評価すべきだ。

 Aさんが2時間かけて作った最高品質プロダクトより、Bさんが二十時間労働を百日つづけて作ったクソプロダクトのほうが価値は高い。その価値市場価値世間的な評価に反映させるべきだ。

 なぜならがんばれるということはそれだけ真剣だということだからだ。思いがつまっているからだ。真剣な人は傍目からどれだけ滑稽におもえても、偉いのだ。

 効率品質などという上辺だけの評価軸に踊らされるべきではない。もっと人間を見よう。モノの内部に宿った魂を見よう。

 がんばってできない人は、がんばらなくてもできる人より、時間や金をかけている。その見返りを与えてやってなにがいけない。

 考えてもみろ、俺たちだって人のことを言えるか? がんばらなくてもできる人か? がんばってもダメだろ? いつも努力の方向を間違えてしまうだろ? おもいやりだよ。共感だよ。それ自体ドラマで、製品に組み込まれているんだよ。

 だからがんばりへの評価製品への評価を切り離すべきではない。

 

 そういう仏のような気持ちで昨日、実写版進撃の巨人』を観に行った。

 劇場を出るときには鬼のような形相になっていた。

 パンフレットにはスタッフ役者陣がどれだけがんばったかが書いてあった。

  • http://anond.hatelabo.jp/20150824060721 ブクマ狙いとしても纏まっていて頑張りに対する皮肉もきいてますが、冒頭から共感を呼ばない点と、巨人ネタは増田よりTwitterで騒いでいたネタなので若干...

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