はてなキーワード: クローズアップとは
まぁ楽しめた。全26話の内、8話までで戦国編が終わったのが評価できた。これをかたらないとなぜハルが魔法少女になったか充分に語り得ず、かといって原作があれだけの分量を費やした戦国編である。バランスをどう取るか気がかりだったが、ここは制作指揮を執った田町ボラギノール監督の『ぱらりんぴっく!』以来の豊富な経験が十二分に活かされた結果と言えるだろう。ただし、平塚為広と大谷刑部との絡みは安直に過ぎると思う。田町ボラギノール監督がかつて制作した『都立尾久の原公園のたたかい!』のキャラ「パシフィック種村」と「パラリンピック吉岡」との情愛の構造のトレースであり、なんらの新規性がないにも拘わらず、人気を得るための安直な策と思しい。この構造は為広と刑部との間に何らの検討も経ずトレースされた。これらはもう受け手が嘗められているとしか思えない。「お前らはこれで楽しいんだろ? え? ほれほれ」という馬立コーラック監督の意図がすけすけである。ここは助監督の木村氏にも頑張ってほしかったが、最近は岐阜県揖斐川郡にある自分の農場の管理が忙しいらしい。
9話から最終話にかけてが原作の通称「大正SF編」に該当する。アニメ第1期で語られた明治41年の初デート。これがハルを魔法少女として目覚めさせる直接の経験になったわけだが、そもそも成美女子英語学校時代の勉学や課外授業と言った、争乱に巻き込まれる以前の牧歌的な部分こそがアニメ第一期の醍醐味かつ要旨であった。「大正SF編」では田町監督が好むスチームパンクの要領を原作に累加し、ハルの激動たる活動を描いた。これが本作。もうおわかりかと思うが私は「第1部のノリが良かった! なにこのノリ! 付いていけないよ!」という意見に真っ向から反対したい。第1期が文学への淡い目覚めであり、その後当然闘争への情熱が生まれてくるのは原作を読んでいれば自明なわけで、1期のノリが変わるのは当然だ。作品とハルの生涯を見渡せばこれは当然のはず。昨今のアニメのノリにたまたま第1期がたまたま、たまたまである。合致したに過ぎない。最近のアニメに絆されてるんじゃねえよ。ばーか。
「大正SF」編では後述するが声優の田端エリザベスの演技が相俟って、独特のケミカルさを醸成していた。一般に「大正ロマン」+「スチームパンク」はかなり親和性がありSF界でも常套手段とも言える組み合わせである。ここに長い歴史を持つ魔法少女モノを組み込もうとしたとき田町ボラギノール氏にとっては、師匠である大谷江戸仕草氏の影響を受けたことが役に立ったと私はにらんでいる。60年代の草創期に活躍した大谷江戸仕草氏の功績は今更贅言する必要性も(とくにこの増田界隈では)なかろうが、特に「ハル」の一連の成果には、氏のアニメにおける第三作目「モリソン号じけん!」がかなり直接に関係しているように思える。あまり界隈でもこの指摘はなされていないと思うので、まあ皆さんには自明と思いますが一応・・・。
さっきも書いたけど上中里マリアンヌの演技最高ー! もう大好き。主人公のハルの魅力を充分に発揮しているうえに、かわいい陰獣の「ウンゲツィーファー」も彼女がやってるんだぜ。もうたまらんうー。せーの! 「たまらんうー。」「たまらんうー。」「たまらんうー。」「たまらんうー。」「たまらんうー。」「たまらんうー。」
恋人役「燕尾服仮面」こと奥村の声優西荻窪松庵の演技もまた良かった。松庵の思想上の師である都立家政ドトールの1932年ベルリンでの演技を彷彿とさせるシーンがあった。おわかりかと思うけど19話の例のシーンね。
友人の市川房枝役の声優保谷ビアンキも妖艶な演技が光った。市川房枝って公式でも眼鏡がずれているんだけれど(wikipediaでも見てほしい)、それをアニメでも反映させていて、保谷はその眼鏡がずれているという演技をしているところが印象に残りました。最近揖斐川郡でハウス栽培やっているそうです。岐阜の。っていうか俺あんま声優詳しくねーや。
正直残念だったのが魔法詠唱シーンの作画だ。ハルが本を開いて中空に浮かせて詠唱するというお決まりのシーン。ここに全く気合いが入っていない。ハルが水晶槍の呪文をパージしてマテリアルタスク化するロマネスク技を出したシーンあっただろ。12話だったか? あそこで監督や、あるいは原作者の十返舎一九も多分想定していたことだと思うが、あそこのモチーフは一般にイメージされるフェミニズムの観点からだけでは捉えられない。このアニメを見る際には岩波の『日本のフェミニズム』全編を通読してからにしたほうが望ましいと半分冗談でwikiに書かれているけれど、これは実際マジだとおもう。あのシーンではむしろ参政権の獲得と戦争との関係がクローズアップされているのであって、フェミニズムへの外的要因(ここでは太平洋戦争・・・というか総力戦体制というべきか。この辺りは突っ込むと難しいからこれ以上は無理だー誰か解説してくれ。)が問題なわけだ。で、あの作画である。作画誰かは知らないけれどそういう文脈が必ずしも現場に伝わらなかったのではないか。25話のハルが友人の奥むめおの101才の誕生日をタイムワープして祝うシーン。これも輻輳するフェミニズムのイメージに作画が全くついて行っていない印象を受ける。ここも、参政権から出発し、翼賛体制との関わりから、さらに高度経済成長を経てバブルという消費社会を経験しかつ男女雇用機会均等法が出たあと、というハルの至らなかった(生きられなかった時代の)地平を魔法で見に行く、というのが大魔法の骨子になっていたと思う。これにたいしてあの70年代初期を思わせる「リブ」で作画されちゃあ適わねえ。ハルまだいきてんじゃねーか。
結局ハルは原作では婚約者からもらった指輪をマレーシアのビナツボ火山に捨てに行ったわけだ。いわゆる夫婦別姓という現代的問題を魔法でどう解決するのかが楽しみです。文句も沢山書きましたが、基本的にこのシリーズには期待しています。制作会社の「オベリスク護国寺」の益々のご発展を祈っています。
今回は下世話関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
恐らく君がいっているのは主に女性に対して、だろう。
だから、どうしてもこのテの話題で女性側の立場がクローズアップされるのは自然ではある。
偏った天秤に、両方とも同じ重りを乗せても偏ったままだからな。
チカンによる冤罪うんぬんという新たな問題も出てくるわけだが、それはまた別の問題だ。
事例としては数年前、服の上から写真を撮った人が有罪になった話は有名か。
当時は、「いずれ見ただけで捕まる世の中が来そう」と割と本気で思っていた記憶がある。
そういえば数年前、教え子の一人が言っていた話を思い出すなあ。
下世話なことで盛り上がりたい年頃なのは分かるが、さすがに低俗すぎたので叱りつけたね。
君にとっての「ゴール」とは何だ。
まあ、それもいいだろう。
「何をもってゴールとするか」という話だ。
また、そのゴールは個々で決めるべき、ということでもない。
例えばサッカーのゴールは誰が決めている。
君以外の“誰か”だろう。
だが、それに参加する人々は、その“誰か”が決めたゴールに向けてボールをシュートする。
それが誰かにとって「ゴール」なら、それは他の人にとってもゴール、ということはあるだろう。
ならば、結婚することを「ゴールイン」と呼称して、それを周知とすることに何ら問題はない。
まさか「サッカーと人生は違う」だなんて、すっ呆けたことは言わないよな。
君がそう思わないことは結構だ。
だが、例えばそこをゴールと定めている人に、「ゴールじゃない」と冷や水をぶっかける行為が、理知的だと思っているのならばやめたほうがいい。
「ゴール」はある。だが、それは終わりでもないし、一つだけでもないんだ。
だから誰かにとってのゴールが、君にとってはゴールじゃないからといって、そこまで目くじら立てる必要はないんじゃないかな。
それが誰の定めたゴールかなんてことは重要じゃない。
シュートするかどうかだよ。
……ゴールできなかったら?
学ぶべき教訓はこうだ。
「人生は続く」
勝負の命運を分けるPK戦でシュートをミスした、とあるサッカー選手の言葉さ。
彼はゴールを逃した人間だが、また別のゴールに向かうしかないんだ。
ゴールしても、ゴールしなくても。
その気があるなら、君もシュートしてみることだよ。
その気がないのなら、それもまたいいだろう。いずれにしても人生は続く。
私としては、死ぬまでゴールが一つもない人生は辛いだけだがね。
日本だとビッグクローズアップって言うのか。(アメリカだとECU, Extreme Close-up)
何で日本で使われないか、については経験ほとんどないから分からないんだけど、制作体制の違いもある?
シーン撮る時、まずマスター撮って、それから一方からのフル→ミディアム→CU(→ECU)、switchしてリバースからフル→ミディアム→CU(→ECU)、って撮ってくじゃん? デジタル時代になって2台カメラ、3台カメラでやることも増えたけど、フルとCUを同時とかってやっぱりやりにくいから、結局ひとつのシーンで7-10ショット、各ショット2-3テイクとかやってたら時間かかるよね。予算的にその時間がかけられないのかな、とか。
資生堂ショックについて
読んでてなる程と思ったけど、NHKや他の記事を読んでみんな思った事を書いたんだから、それは報道側に問題があるんじゃないのか?みんなブコメする前に毎回ググってられないぜ
11月10日にNHK「おはよう日本」でこの「資生堂ショック」というキーワードに関する特集が改めて報じられたわけだな
特集自体は、企業側、社員側双方から取材して第三者の専門家の意見も交えたごく温和なものだったんだな
「女性に優しい制度を率先して作ってきた資生堂」「育児中の短時間勤務制度を周知徹底させた年から業績が落ちた」「制度改革、DVDで時短勤務でも土日遅番有りで一般社員と同じノルマを告知」「現場では家族の協力の有無を聞き取ったりベビーシッター費用の補助出したりしてシフト組む」「社員は『今のところ大丈夫。キャリアアップを目指したい』」「専門家『時短者に配慮するのと同時に不満がでないような公平な制度が望ましい』」
でも社員に配ったDVDの内容の「甘えをなくせ」「権利だけ主張するな」という厳しい発言だけがネットでは短絡的にクローズアップされて一部で発火してるんだな
さらにNHK見てない層が朝日(AERA)の8月の過去記事なんかを取り上げて「資生堂ショック」を再発見して拡散されているという
http://anond.hatelabo.jp/20151024020306
先進国化すると少子化になるよ、女子上昇婚が残ってると、そもそも結婚しない/できないよ、EUは移民に頼りすぎだったよ、というあたりな
19 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2015/10/19(月) 11:04:37.27 ID:nLk7kzKc0
14年11月24日(月・祝)
天候 快晴
イベント来場者 16000人
サークルスペース数 1600SP
来場者数 3621人
コメント数 7306人
来場者数 45020人
コメント数 38779人
27 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 11:08:23.50 ID:0QV4ShAX0
(2003年:冬) 7
(2004年:夏) 50
(2004年:冬) 98
(2005年:夏) 229
(2006年:夏) 366
(2006年:冬) 574
(2007年:夏) 558
(2007年:冬) 793
(2008年:夏) 885
コミケで人気ジャンルになってからでも10年くらいは経ってるな
38 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 11:23:46.64 ID:kbtiw1uh0
7000件近くの回答を集めたアンケートの集計があるな
他にも1万円以上使う参加者が70%超えている結果が書いてあるね
少なくとも3億の金が回ってるという...
41 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 11:29:25.73 ID:JfBQMkF70
まあ 艦これ東方がそういう集まりですって言ってるようなもんになるけど
43 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2015/10/19(月) 11:30:17.99 ID:MW8+GfZ20
直接例大祭に出向くような層は他のジャンルに無関心or併催のオールジャンルイベントは眼中に無い可能性があるんだよな
あいつ等nextより偶然重なってた豆腐イベントの方に御執心だったしさ
昨日のイベントも十代が多かったらしいし艦これと客層が重なってるのかは疑問だ
46 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 11:41:05.28 ID:EYyiGx6A0
今年の春例大祭で色んなアンケートやってたけどコミケ等の東方以外のイベントにも行くか
という質問に対して行くと答えたのは3割位で、6割の人はコミケにも行かないそうだ
一億総活躍社会だそうだ。現在、日本の人口は1億3000万弱だが、一億となっているのは語呂だけでなく将来を見越した表現だろうか。
女性の社会進出が叫ばれて久しい。女性の平均的な待遇の低さがクローズアップされ、それは全くその通りなので、同じ貢献度なのであれば同じ待遇にすべきだと思う。
ところで、比較的簡単な事務作業などを除けば、特に規模が小さければ小さいほど、男性ばかりの職場というのは掃いて捨てるほどあると思われる。一方で、女性ばかりの職場というのはどれほどあるのだろうか。男女の能力は同じなのだから、当然、その比率も同じに収束するはずだが、その様には思われない。今でも女性だけの会社となれば、その点だけで注目に値するような扱いを受けている気がする。もし、何らかの客観的な統計があれば、教えて欲しい。もちろん、時間もかかるだろうが。
いうまでもなく、会社としての営為はその会社のみで完結しているものではないため、女性のみで構成されていると対外的に差別的な扱いを受ける可能性があるだろう。しかし、サービス業であれば、本質的に男女の生得的な差(筋力とか)によって有利不利があるわけではなく、また、女性が中心の会社が一定以上あれば、協業先にも困らないのではないかという気がする。
とすると、女性だけの会社の数がある閾値を超えていないことが一億総活躍社会を阻害しているのではないかと考えられる。但し、最近のアファーマティブアクション的な政策には全く賛同できない。なぜならば、女性を差別してきたのは、アファーマティブアクションで不当に不利益を受ける現在の若い男性ではなく、決定権を持つ過去の中高年の男性だからだ。もちろん、女性を差別してきた決定権のある男性が「適切に」降格され、女性が抜擢されるのであれば、大いに歓迎だがそのような話は聞いたことがない。
また、最近は、Apple、Google、Microsoft の例を挙げるまでもなく、いずれも女性が作り上げる可能性が十分あった IT 業界が経済で大きな地位を占めているのに、なぜそのようなことにならないのだろうか。
団塊世代の高齢化に伴い、これからますます人手不足になっていくだろうから、専業主婦にも働き口は出てくる。
家事育児サービスは安価でないと客がつかない。高額であればその料金を払えず仕事を辞めて自分で行う事を選ぶ(選ばざるを得ない、とも言う)女性が多いからだ。
つまり家事育児サービスは需要が増えても値上がりする事はない、つまりそこで働く人の収入の相場も上がる事はない。
そして他の働き口が増えていくのだから、敢えて低収入の家事育児サービスで働こうという人は当然減っていくだろう。
現に保育士は今ですら求人難だ。今後も求人難は続くだろう。家事サービスも同じ事と思われる。質も下がるだろう。
共働きでも良い家事育児サービスが買えない夫婦の多くは子供を作らない事を選ぶだろう。
普通の保育園じゃろくに教育できないし、保育だけではなく教育も重視した高級保育園に入れられる財力がある夫婦なんて限られているからね。
上記の通り育児サービスの質が低下すると思われるため、その低い質に耐えられず専業主婦を選ぶ層も増えるだろう。
(と言ってもそもそも育児サービスを買えず専業主婦になる層の方が圧倒的に多いだろうから、全体に影響を及ぼす程にはならなそうだが)
子持ち家庭が優遇される制度は賛成だが、賃金が右肩下がりの現状において、専業主婦を養えるだけの収入がある男性は少ない。よって、配偶者控除を拡大しても婚姻数は増加しないだろう。また、配偶者控除を拡大すれば税収は減るから、子持ち家庭を援助する財源は得られない。
政府が検討している夫婦控除のように共働き夫婦を増やすのが現実的かつ効果的だと思う。
働き手を増やして多くの人から税や社会保険料を徴収しなければ、これからの高齢化社会は到底乗り切れない。
団塊世代の高齢化に伴い、これからますます人手不足になっていくだろうから、専業主婦にも働き口は出てくる。
育児サービスや家事サービスなんかは子供を育て終えた専業主婦の得意分野だろう。
共働き夫婦を増やすことで、これらのサービスが増加、多様化する。
結果、今まで表に出てこなかった家事労働がGDPにも反映されることになって一石二鳥だ。
残念ながらこれが現実
戦いの主体が、個人から集団へと規模が大きくなると、戦いの動機は感情より利益が優先される傾向がある
感情だけに突き動かされ、感情だけで完結した戦争が人類史を振り返って一つでもあっただろうか
戦いの真っ最中にもかかわらず、政治的利害が一致したとたん、先ほどまで殺し合いをしていた兵士が酒を飲みかわす・・・そんな戦争が数えきれないほど歴史の中に埋もれている
近代の戦争は、前線の血生臭い殺戮ばかりがクローズアップされ、戦争=肉と肉がぶつかり合う喧嘩というイメージでとらえられがちだ
http://documentary.nicovideo.jp/
http://blogos.com/article/122730/
TVでは放送出来ないタブーをネットで放送しようという試みだ。
田原総一朗さんがまだ元気だった頃は朝生でタブーを知れたが今は朝ナマも機能せず。
田原さん亡き後次世代は池上彰さんに頼るしか無いかと思っていたが
ニコ生がこういう試みを始めたのでありがたい。
ついこの間までは言われていたが
「タイズ・ザット・バインド ~ジャパン・アンド・コリア~エピソード1」
http://live.nicovideo.jp/watch/lv227557733
「著作:ドワンゴ / 制作:Blakeway Productions / 配給:BBCワールドワイド」
って発注してBBCがBlakeway Productionsに作らせてドワンゴに映像を渡したってこと?
で、その中身ですが、
朝鮮と日本の関係を豊臣秀吉の朝鮮出兵から語った視点は面白かった。
耳や鼻を戦利品で持って帰ってくるというISISばりの頭のおかしい日本人達の話は初めて知って驚いた。
隠されているわけでもないのにこの史実を自分が知らないということはどういうことなんだろう?
と考えさせられた。
相変わらず簡単に洗脳され情報操作に踊らされてしまうんだなと思い知らされた。
ほとんど私の知った情報でしかなかったので特に驚きはなかった。
なんかやたら川上さんは韓国寄りに見えるかもしれないがこれが現実だ!的に言っていたが
個人的にはどっちに偏っているとも思わなかった。
個人的には凄く胡散臭く思っている。
ぶっちゃけ私はそんなことに興味が無い。
理由①戦後に生まれた私には史実が正しいかどうかなどもう確認するすべがないのでどうしようもないから。
理由②韓国人だろうが日本人だろうがアメリカ人だろうが黒人だろうが全部同じ人間。
環境や生まれで誰しもが加害者になり被害者になる可能性があるというだけ。
理由③私が韓国人に何かしたわけでもないし祖先の責任を感じろと言われても実感的に無理だから。
私は今日本が一番仲良くなり近い存在にならなければならない相手こそ韓国だと思っている。
何かあって困れば一番最初に助けに来てもらえるし
交通・流通・時間の面でも一番効率よくなんでもできる相手が隣国である。
逆に仲悪くなれば一番めんどくさくて大変なことになる相手である。
お隣さんと仲良くならないでまともな生活などできるわけがない。
でも近すぎる相手だからこそ掌握したくて日本は上から目線で力で相手を制圧しようとした。
愚かである。
流石耳や鼻を持ち帰って自慢したがる頭のおかしい種族の末裔だけのことはある。
なんでこんなにいがみ合って自分の足引っ張ってんだろう?って感じである。
当時を実際に経験して苦い思い出がある高齢の方達にとっては
私とは違い実感のある重い問題だとは思う。
でも私には関係ない。
多分多くの戦後生まれの人達はこんな感情なんじゃないだろうか?
しかしそれに反して世間ではやたら大きな問題として取り扱われる。
凄く違和感。
余計なことを荒立てて炎上商法で金儲けしようとしているという穿った見たかもできなくはない。
ぶっちゃけもう当時を知らない人間が戦後責任だなんだかんだ言っても
誰があー言ってたこー言ってた、
とかそんなお粗末な話にかならないのは目に見えている。
そんなくだらないことに時間と労力をかけている暇があったら、
いがみ合いは年寄り連中だけでやっててくれ。
正に老害。
東アジアここにあり!と隣国と手を取り合って世界に発信したい。
私利私欲のためではなく欧米の侵略からアジアを守ろうとしたという論説をよく聞くが
今度は力で相手を制するのではなく
文化と知恵で共に手を取りみんなでアジアを繁栄させて行きたい。
そのためには、
何かの利害関係で政治的・商業的に日韓問題を利用しようとしている人達は無視し
それに踊らされずに
そんなことにこだわりを持たない層で
ここ数日間めちゃくちゃ凹んでいるというか気が滅入っている。母校のことだ。
中2男子生徒自殺か 「悪口言われた」 NHKニュース http://nhk.jp/N4K74Fpv
私は数年前にこの中学校を卒業し、現在は岩手を離れて暮らしている。おそらくもう中学の生徒・先生で(知り合いを介さずに)直接知っている人はいないけれど、それでも多感な3年間をあの学舎で過ごせたことに感謝しているし、だからこそ今回母校で起こった事件は残念で腹立たしいし哀しい。自ら命を絶った少年の絶望感を思うとやるせなくなってくる。
全国的に取り上げられるようになってから2,3日くらいいろいろなメディアを周回してこの事件を追っている。報道する側も糾弾する意見も擁護する意見もあまり核心を捉えられていない感じを受ける。一部分の情報しかあらわになっていないのでまだ判断しかねる部分はあるけれど、矢巾で学生時代を過ごした印象やこの事件の所感について書き連ねていこうと思う。
まずこの事件へのコメントとして目に付いたのが「田舎の(岩手の)人って陰湿だから」という感想。人が集まれば人間関係のこじれなんて田舎も都会もいくらでもあるわバカヤロウ、と言いたいところだけど矢巾に関していえばちょっと特殊な事情があるのかもしれない。
もともと矢巾は農村地帯で、北隣の盛岡の人口が増加するにしたがって田んぼが住宅地へと埋め立てられ変わっていった歴史がある。私が小学校の頃に人が増えすぎて新しく小学校が建設されたし、岩手医大が矢巾に移転されてからも人口はますます増加している。そんなわけで地元の小中学校は旧家の子と新興住宅地の子が混在する。私立の小中学校に進むという選択肢がメジャーではないため学力は上位と下位の差が激しい。また、部活動は強制加入で、運動系が非常に盛んであり文化系は吹奏楽部か美術部しかなく受け皿が少ない。以上のような点から、いわゆる「スクールカースト」が発生しやすい環境だったのではないかと卒業した今にして感じている。ちなみに、運動部の激しいところは一度入ったら放課後や休日はほぼ部活や練習試合に充てられるため勉強する暇がなく、勉強のできない子はとことんできないまま卒業していく。
私の在籍していたときの学校はどうだったのかというと、浮く子もいればいわゆる不良もいたけれど、問題が起こればきちんと学年の先生が一丸となってしかるべき対処を取っていたし、それぞれの得意な分野を各行事で活かしていこうという雰囲気が生徒間でもあったと思う。報道を見て気になったのは担任の先生ばかりクローズアップされているけれど学年主任や他クラスの担任のサポート体制は整っていたのかな、ということだ。私たちの代の学年主任は週1で学年通信を発行して問題が起こるたび記事にして公開していたし、学年にひとり副担任がいてたまにクラスの様子を見に来ていた。荻上チキさんのツイートにもあるように( http://togetter.com/li/844936 )、担任の先生1人が抱え込む構造になっていなかったかを検証する必要があると思う。
一部報道では18年前にもこの学校で自殺があったと書かれている。私たちがいたときはすでにその代は卒業してしまったけど公然の噂となっており、「学校内のステンドグラスを割ってしまいそのことを苦に思っていた」などと言われていた。報道ではその自殺を今回の件と関連付けて荒れた学校であるようなことを書いていたけれど、正直学校内では共通の関係者はいないはずで、影響は薄いのではないかと思う。
ネット上の掲示板で行われている「犯人探し」は、大津のときや過去の事件と比べて情報が集まっていない印象を受けた。このことから「この町は隠匿体質で恐ろしい」などという書き込みもあったけれど、そもそもこの町は人口の絶対数が少ない。ネット環境が整ってない印象もある(LTEが入るようになったのはここ1,2年くらい)。また、田舎の地域に特有だと思うんだけど、「2ちゃんねるを閲覧することですらバレたらヤバい」みたいな雰囲気が小中学生にあって、そのためタレコミが少ないんじゃないかと思う。
ただこの町の子供にITリテラシーがあるのかというとそうではなく、事件後のTwitterでは「矢巾北は報道されているような悪質な学校ではなくこんないいところもあります!」みたいなツイートが散見された。この件に関係のない卒業生はそんなツイートしても効果がないことを理解して欲しいし、在学生ならそんな書き込みをしている場合ではないということを自覚して欲しい。
この事件が大々的に報道されるようになったのは、担任のbotのような応答の影響もあれど、町の教育委員会や学校の対応がことごとく悪手だったのも挙げられると思う。なぜアンケートの結果の報告が二転三転したのか。なぜ校長は最初の会見時にマスコミを通して顔を公開させなかったのか。なぜ炎上がひどくなったタイミングで中学校のWebサイトを閉鎖したのか。このような対応への不信感と、被害者の父親の糾弾もあいまって今回のバッシングに繋がった感じがする。岩手では夏休みが始まるまであと1週間ほどなので、長期休みでうやむやになる前に町と学校は真摯に情報を公開し迅速な対応を取る必要がある。
母校をかばいたい気持ちもある。父親の子供への対応は適切だったのか、マスコミが一部のみをクローズアップして報道していないか、など疑問に思うことはいろいろある。だけどいまはただ少年の冥福を祈りたいし、事件の詳細が明らかになることを望んでいる。今度帰ってくるときには花束を手向けるつもりだ。
追記・
否定しておきたいのは、一部掲示板で上がっていた「どうせ宗教がらみ」「部落の多い地区なんでしょ」という声。たしかに公明党のポスターはちらほら目につくしローカル番組のスポンサーに創価学会、ということは多いけれども、しつこい勧誘はないし宗教の本部が町内にあるとかいうことはなく、宗教がらみの人間関係への影響は薄い地域である。また、東北以北で部落問題は聞いたことがなく教科書で初めてその存在を知った程で、岩手近辺の地域で「部落」という言葉は「集落」と同義であることを付け加えておきたい。
初めて増田に投稿してみる。いまホットなLGBTの話題だけど、内容はとても個人的なものだ。
先日、アメリカの連邦最高裁で全州において同性婚が認められた。それを期にSNSでアイコンをレインボーにすることでLGBTの人々を支援を表明しようという流れが見られる。彼らは海の向こうの決定に歓喜している。私も歓喜ほどではないが、よいニュースだと思っている。
一方で私にはLGBTの人々そしてその支援を表明している人に対しては応援したいという気持ちと同時に「恐怖」に近いようなモヤモヤした感情がある。これは数年前、LGBTの人に「恋人になってほしい」と思いを告げられたことに端を発する一連の出来事と感情に起因している。
数年前、大学生の時のこと。LGBTの知人(仮名:X)に夜の公園に呼び出され、思いを告げられた。Xのことは同性の知人としか見ていなかった。ゆえに非常に戸惑った。また私には付き合っている恋人(仮名:Y)がいた(恋人は異性)。パートナーとして順調に仲を深めており、大切に思っていたYと別れるなんて選択肢はありえなかった。
そもそも、Xは住んでいるところが近かったからよく遊んでいたり、話をしていただけなのに、そこまで大切に思われる理由もわからなかった。また、考え方に相容れないところがあると思っており、性別関係なく恋人になれそうだとは思えなかった。
そこでXにはすっぱりと「お付き合いはできない」と答えた。このとき、Xは気持ちを諦めて知人としての関係に戻って落ち着くだろうと思っていた。しかしそうはいかなかった、このあとXはやたらと私と遊びたがったり、Yに相談するなどしていた。
そのときの言動はまるで自分は同性だから愛されないのだ、自分を異性としてせめて気持ちだけでも認めてくれと言わんばかりだった。この態度や発言に私もYも困惑し、「自分は同性愛は認めているのに、Xの気持ちに応えてあげないことはいけないことではないのか」と日々モヤモヤすることとなった。
私について言えば、日頃会うXの発言や行動を上手く躱しながら、だんだんと「Xの気持ちに応えない私はレイシストかなにかで後ろ指をさされる存在なのではないか」と日々悩むようになり、大学に行くことも怖くなっていった。ついに大学でパニック症状を起こしたこともあった。
一方で、Xは日々、自分の思いが伝わらないことを遠回しに Twitter に書き込み、LGBT の人々の「憤り」をリツイートしていた。それを見て私は益々自分の政治的立場と自分のとった行動の間で悩むこととなった。
Xの告げた思いに対して応えなかった理由をはっきり言わなかった私も悪いが、私は「多くの人々から後ろ指をさされそうな恐怖」に怯えて言えなかった。Xの気持ちを汲んであげない我々が悪い存在なのではないか、と。それはYも同じだったようだ。Yは私の恋人でありながら思いが伝わらなくて苦しむXを何故か慰めるという立場におかれ、とても苦しかったそうだ。
いつからか私もYもXを避けるようになり、その後Xも私のことを諦め、「元の知人関係」に戻っていった。
結果的には無難なところに着地したとは言えど、この「多くの人々から後ろ指をさされそうな恐怖」は私に大きなトラウマを植え付けた。特にLGBT関係のことになると頭の中がモヤモヤし、話題を避けるようになっていた。友人に話してみても「お前の潜在意識の中にある差別意識がそうさせるのだ」と言われて凹んだこともあった。こうしてずっとXを巡る一連の出来事や感情が消化できずにモヤモヤしていた。
最近、LGBTに関する話題が急速にクローズアップされてきた。そして、レインボーアイコンの人・LGBTとして活動する人を見ると、私は彼らに糾弾されるのではないかという恐怖に怯えるようになり、モヤモヤとした感情が渦巻くようになった。
そこで、恐怖やモヤモヤとした感情を打ち消すためにもあえて問いたいことがあって増田に駄文を投稿してみた次第だ。
問いたいことは2つ。
こんな駄文増田だが、ブコメ・トラバの反応があれば嬉しく思う。
昔、ある出会いがあった。
おそらくは、一秒すらなかった光景。
されど。
その姿ならば、たとえ地獄に落ちようとも、鮮明に思い返すことができるだろう。
その先が地獄だとしても前に進むと決めた士郎と
その先が滅亡と知っていても王になると決意したセイバー
やっぱりこの二人は似たもの同士だと改めて思ったなあ
本編のアーチャーの詳細の中で「なんのペナルティもなく固有結界を使いこなし」という一文があったが、本当に消えかかった身でも発動可能なくらい消費が少なかったんだな
わりと初期の頃このペナルティがどれくらいのものなのかと議論されていたがまさかこんなところで結論が出ようとは
HAの『たとえ地獄に落ちようとも思い返すことのできる光景』をまさかUBWで見れようとはなぁ………
アーチャーが契約した“かつてのセイバー”に対する思い入れ、出会いの強さがしんみりと来たぜ
……だからこそ、歯痒いものを感じる
セイバーの聖杯に対する願望、そして自分の内にある鞘の存在を知るほどの関係に至っていたのに、なんで彼女を救えなかったんだ馬鹿野郎………!!
この世界の士郎は先にアーチャーを見たからこそ、アーチャーの様にはならないんだろうな。
守護者の立場が確定したアーチャーはもう抜け出せないけど、後悔だらけの自分とは違う道を示す自分を見たわけで。
本人にはもう救いはなくても、可能性を感じられるだけマシ、なのかなあ。
問おう、貴方が私のマスターか
のカットが入っててまたいいわ。あのシーンて確か本編士郎じゃなくて
本編アーチャーの過去編だったよね。
セイバーの表情もとても良かった。
そういえば士郎はよく「借り物の理想に執着してしまった愚かな男」って言われてるけど、どっかの誰かさんが言ったように「借り物の理想を持たない人間はいない」んだよな。そして自分も元だけど「借り物の理想」をもった人間に該当する。
何年か前、ある人の実況動画をみて、その実況者がプレイしたゲームの素晴らしさに憬れて、自分もそのゲームの製作者のように素晴らしい作品を造りたいと思うようになったのよ。
でもいつからだったか覚えてないんだけど、自分の抱いた理想が「そのゲームの製作者のように」ではなく「自分だけの、自分にしかできない作品を創りたい」という理想に変わったたんだ。
つまり何が言いたいかっていうと、全ての理想に対するanswerは「他人から受け継いだ借り物の理想を借り物の理想のままに終わらせるか」と「借り物の理想を自分だけの理想に変えられるか」という二つの結論に帰結するんじゃないかなといいたいんだ。
新規の人のコメントで「袖がないアーチャーの服は『涙を拭くことができない』ことを表していると思った。」っていうのを見てめちゃくちゃ納得した。
一晩たって落ち着いて考えてみると、この一番大事なシーンを時間の制限ついたアニメにしっかり合わせて分かりやすく構成してると感心するわぁ…
原作やったのがだいぶ昔でアーチャーの言葉にひたすら対抗して打ち合ってたイメージあったけど、ちゃんとその苦しみを理解してその上で対峙するって段階を丁寧に丁寧に描写してたのがほんとよかった、特に同情なんてしないけど心が欠けそうになるってシーン。
あと原作やった時は二人にしか目が行かなかったけどセイバーさんめっちゃ辛そうだな
挿入歌の「傷だらけの硝子の心が」の部分でボロボロの士郎が映って、「忘れかけた熱をともす」でアーチャーに切り替わってるんだよな
偶然かもしれないけど、なんか感じるところがあった
ある意味では士郎にとっても(桜関係や横暴なところを除けば)そういった持ち味を持った慎二も愛おしい日常の象徴だったんだな。だからこそHAでの殺し殺されるっていう緊迫した感じや魔術に対する毒気が抜けて、これから間桐家から出て一般人として再出発しようと語る慎二と士郎のやり取りは(セイバー&桜√で死んでることを考えると)胸にくるものがある。もしHAが映像化したらぜひ入れて欲しい。
理想に執着しているのであって助ける相手に執着していないと言っているのだと思う
衛宮士郎は幸福のために邁進する者ではなく、もっとあいまいなものを守ろうとしているに過ぎないと
だから誰を救うのかも定まらない
それは特定の誰かを助けるために必死になれる人間(たとえば士郎のために真剣に怒った凛など)に比べれば動機が弱い
自分の欲望ではなく願いのために戦うから薄っぺらいんだとエミヤは言いたいんだと思う
じっさいは薄っぺらいどころか士郎は折れる気配すらないと悟るんだけど
今思えばアヴァロンって必ず誰かを救ってくれる要なんだよね…士郎の命が切嗣によって救われただけじゃなく切嗣自身も士郎と出会い救われたし、SNでは後にセイバーが士郎と忘れられないあの夜に出会って彼女自身が救われるきっかけになったしさ。皆の架け橋のような存在だよね。
数ある宝具の中でも、特にアヴァロン(全て遠き理想郷)は尊いものに感じるな。
エミヤに「その先は地獄だぞ」と言われた後の士郎の微笑みが素晴らしかった。
自分の理想の根底にかつての自身の願いがあったことに思い至っての、自身の理想が空虚な借り物でなかったことへの安堵、かつての自分と同じようにたとえ未来の自分から進む先が地獄だと告げられてもその道を進むことをやめようと思わない「自分」と言う人間の性への苦笑、そしてこれからも理想を追い求めていくという決意、それらがあらわれた絶妙な表情だった。
「士郎は人間の振りをしたロボット」とよく言われていたけれど、実は士郎も自分自身のやりたいことを追い求めたれっきとした人間だったんだな。
士郎の始まりは切嗣との出会いでも「正義の味方」という借り物の理想ではなく大災害の地獄の中で願った「誰かを助けたい」という思いだった
今回の話は視聴するまで不覚にも自分ですら忘れていた事柄を士郎と一緒に再確認させられたエピソードだった
これまで士郎は「人間のフリをしたロボット」や「士郎が人間になれるのはHFだけ」っていう意見が多かったし、自分もそう思っていたところがあったけど
今回の回想を見て、改めて以前にきのこが語っていた「士郎という人間は大災害に遭わなくっても最初からああいう人間だった」や「士郎は成長しない主人公」という言葉通り、士郎は最初から士郎以外の何者でもないと改めて気付かされた
今回のUBWはアーチャーが忘れてしまった大切な事を思い出す物語であると同時に、視聴者が「衛宮士郎は衛宮士郎という一人の人間である」っていう原作をした時には分かっていたことを思い出す話じゃないのかな?
そういう風に思わせてくれるufoときのこの演出は本当にすごい
ある意味ではこれまでのfateの総決算ともいえるの名エピソードでした
Fate/stにおいては近くにアーサー王がいるとオートリジェネが入る便利装備
もう一つ便利機能があるがこれは別の話
アーサー王物語にて、策略でアーサー王と決闘させられたある騎士がすんでで相手の正体に気がつき
鞘をアーサーに返却、同時に鞘の加護が消滅してしまい、治癒しきっていなかった致命傷が元で死亡してしまった
と、本来なら死亡しているであろう傷でも命を繋ぎとめてしまう能力がある
もう一つの便利機能、害意判別といいアーサー王物語におけるエクスカリバーの本体はこっちなんじゃないかとの声も
忘れてしまったモノを思い出す為に記憶(うみ)に潜り、あの地獄、あの原初の光景の中にある大切なモノを手繰り寄せる。
Fateは偉大な英霊同士のバトルが目玉なのはよく分かるし、派手だから目に付きやすいし当然だと思う。
でもやっぱり、こういった『人間の想い』を丁寧に織り上げる物語こそが、Fateの真骨頂だとPC版をプレイした時からずっと感じてた。
次話の『answer』もだけど、これから終局まで続く怒涛の展開に期待!
ユニクロ士郎は前編通してやるともうこれしかねぇって感じになるからね、仕方ないね。
個人的に士郎のユニクロについては、端的に士郎の特徴を現してる気がする。
服装って現代では(昔からそうではあるが)自分をよりよく見せたいとか人と異なる服装をして自己の個性を出したい、または同じ服装をすることで一体感を味わいたいといった意味で使われると思う。でも、士郎にはそういった人より優れた自分を見せたいという“自己”には乏しい。士郎がユニクロ着てることからそういう風にも読み取れるんじゃないかなぁと自分は思ってます。
凛の「アイツはああでなくちゃいけないって、ああいうヤツがいてもいいんだって救われてる。」
20話視聴後の感想はまさにこの心境だった
衛宮士郎というキャラクターは創作物の中でも一番好きなキャラかもしれん
違うアーチャーも言ってただろ
「助けたいから助ける」そこに理由がないから偽善だって言ってる
普通の人は大切な人だからとか誰かを助けるに足る理由が存在する
でも士郎は見ず知らずの人すら命がけで助けてしまう
でその理由を挙げるなら死にそうな誰かを助けたいという理想しかないんだよ
間違ってない願いだけど人間として致命的に欠けている
「それを手にする前に、きちんと考えたほうがいい。それを手にしたが最後、君は人間ではなくなるよ」
「おい、そこから先は地獄だぞ」
剣を抜くカットもそうだけど、この辺りもまた対比になってるなぁ
元から、「今、願ってる主体」が士郎以外の誰かだったことはないよ原作でも。
これ、普通の物語なら「始まりがなんだろうとこれは俺の心だー!」になるんだけど
そこで、「もう借物だとか自分の心だとか、理想が理想である前には超些細ですし」
までぶっとぶのがUBW。
「笑いたかっただけ」みたいな話は、普通のキャラにとっては深刻なんだけど
衛宮士郎二人にとっては、自分が偽善呼ばわりされるなんて大した話じゃないから
話さくさく流れて理想の話になっちゃうんだよね。
そこを凄い脳内で拡大してる人が出たりする。
それこそ、「士郎は切嗣の行動をなぞってるだけ」とか。
士郎は切嗣に「憧れた」わけだけど、
それはつまり、「ああいうものに憧れを抱く、善しとする価値観」を
士郎が元々持っていないと始まらない。
それを考えると、もうちょっと複雑なんだよねその辺り。
アーチャーの「幸せそうだったから憧れただけ」を真に受けるのはナシだしな。
「実は贖罪」もそうだけど、UBWであいつが殊更露悪ぶって口にする言葉を
それよりは
>「―――覚えてる。俺を覗き込む目とか、助かってくれと懇願する声を。
> その淵で思ったんだ。自分が助かった事じゃなくて、助けてくれるヤツがいる事は、なんて」
> 素晴らしい、奇蹟なんだって事を。
の辺りを読み込んだ方が未だヒントになりそうな。
→じゃぁもっと決定打になるものを見せてやろう
っていう意味じゃないか? UBW展開は。
「お前の辿り着く先はこの不毛の荒野だ」を文字通り目に物見せると。
あと、演出的には、Ufoはアーチャーと士郎を背負う空(特に雲)で表すそうだから
多分answerが凄いことになる。
UBWは心象世界だから、心象のぶつかりあいをビジュアル化する装置になりうるんだよ。
まさかここにきて、「アーチャーのUBW展開はローコスト」という設定が
演出上の最強のカードになろうとは。
某動画サイトでのコメントはアーチャーがセイバーを間接的にdisってるwwって解釈してるから違和感ある。
あそこのシーンのセイバーはアーチャーの言葉に傷ついてるわけじゃなくて自分と同じような道を歩んだ士郎の成れの果てのアーチャーを痛々しく思いながらも自分と似た願いを持つアーチャーを否定しきれない葛藤も持ちながら二人の問答の答えがどうなるか見守ってるんだと思う。
ホントそれ。そもそも願いが間違いなだけでセイバーの在り方自体はFateの全編を通して否定しえないものとして書かれてる。
SNから入った人はセイバー√で初めにそれを理解するんだけどそれをZeroで盛大に全否定したもんだから
そこから入った連中はセイバー=否定される、していいキャラとして認識してるから大問題。
虚淵のネームバリューもあって被害は甚大よ。
たまに絵に起こしてもらうと、ゲームのCGイベントは戦闘だし、
「いかにもうおおおおおとか言いそう」なとこが対外的には押されがちだったけど
基本「己と向き合い自分の心を形にする」人間だから
実は「動」だけじゃなくて「静」の面も強いんだよね。
その「静」に支えられるから熱さもあるって感じ?
今回の、内面でのアーチャーとの静かな対峙で
「静」の面が凄いクローズアップされたと思った。
自分はこれが見たかったんだよね。
とりあえず、「以前の記憶がない」は「ほほをつたう」と矛盾してると思う。
士郎、思い出に浸るのを自分に禁じただけで、普通に記憶はあるぞ。
> 何もなくなった場所にいって、有りもしない玄関を開けて、
> 誰もいない廊下を歩いて、姿のない母親に笑いかけた。
> ……あの日の前に戻れて。
> 何もかも悪い夢だったのだと、そう目が覚める日を待ち続けた。
士郎って割と元々ああよ。
衛宮士郎がアーチャーと士郎に分かれて真剣に自分の将来を模索するお話まじ熱い
アーチャーは自分が辿った選択ではろくな道筋にならないと力説する
士郎は自分が進む未来は「選べる道」ではなく「選びたい道」を進もうとする
幾度の面談を経て衛宮士郎は見つけづらい険しい道筋を見つけて答えとする
自分会議(物理)は死ぬほどストレスたまりそうだけどその分効率の良さが半端じゃないな
今回のエピソードは、アーチャーの月下の誓いに対する「呪い」という言葉が
あまりにそのまま伝わり過ぎていることに対する反論的な意味もあるのかな……と思った。
余人から見れば呪いととられかねない歪なものなのは確かだし、発言したのが未来の士郎と
いう点もあって、「信憑度が高い」と取られても仕方がない部分はある。
だが、そうじゃない。そんなものは、アーチャーのレトリックに過ぎない。
「月下の誓いに至るには、大火災のさなかで救いを求める自分がいて、生存者がいないと分かりながらも
助けようとした切嗣がいた。だからこそ、救われない人間をこそ救おうとするエミヤが生まれた。呪いなんて、忘れてしまったアーチャーの後付だ」というように。
ここら辺、原作やってても勘違いしちゃう人間がいるし。これをより説明的にしたことを指してデチューンと言ってたのかもね。
なんだかんだ分析してるが、初見じゃもうボロボロ涙でて凄かったよ。そうだよ!そうだよ!と絶叫しちまった。
価値観っていうと語弊があるのかもしれないが
とにもかくにも「心」はないと憧れも発生し得ないってところは
押さえておいてもいいのではと。憧れって心の働きなので。
災害中の描写から、衛宮士郎の連続性を断つ描写は作者したつもりないと思うんだよな-。
っていうか、原作の描写をそう読まれちゃったことを踏まえて再構成したのが
んー、言いたいことは分る。確かにもっともだ。
だが、「心が死んだ」「ゼロの状態で切嗣から新規に心を貰った」だと
極論すると、士郎以外の誰であっても
上記二条件を満たせば、士郎の如き人間になるってことだろう。
実際問題、それは非常に考えづらくないか?
なんで士郎がああまで凄まじい人間になっちゃったのかって言ったら
やっぱり元々「何もできないのに謝って楽になるのはだめだ」と
涙を呑んで歩き続けるような真っ当すぎて真っ直ぐすぎる子供だったからで、
そういう心をベースに憧れが発生したからだろう。
「心が死んだ」「ゼロの状態で切嗣から新規に心を貰った」
を強調し過ぎると、なんっかその辺拾えてない印象になる。
大事そうな話をよく読むとさっくり投げっぱなしにしつつ
「え、そこ?」ってとこに落ち着くのな。
よく考えたら何故その話が理想に落ち着く、みたいな。
読み甲斐があるといえばそうなんだけど、お陰で
「借物」が「心がない」と誤解されたり
「笑いたかっただけ」が一人歩きしたり、
今回、物凄い分かり易くバッサリまとめてきて、色々衝撃だった。
始まりは憧れ、でも根底に在るのは願い って、きのこだなぁおい
思い出したよ、くっそながい文章アホみたいにぶっ通しで昼夜読み続けてここの所で「なんて尊い大馬鹿野郎どもだ」ってボロボロ泣いたの。
今回は素晴らしかった。
なんというか、エミヤシロウというキャラクターの魅力を再確認できたよ
人間なら誰であれ死に絶えるような地獄の中で意味もなく切り捨てられる小さな命をこそ守りたいと願った少年が、その地獄の希望をくれた人から受け継いだ理想によって、その最も救いたかったものを切り捨てて大多数を救うものになってしまったんだからやるせないよなあ
士郎が本当に凡人なら、途中で折れるんだろうけど、地獄の道行を後悔なく駆け抜けることができてしまった心身の強さに物悲しくなる
一応補足しとくけど、兄貴とディルでは置かれた状況が全く違うからな
兄貴とディルを比べてディルをけなしている人はそこらへんを忘れているし、あえてどちらがより酷いかといえばディルの方が遥かにひどい状況だったんだよなぁ
そりゃ恨み節の一つも吐きたくなるだろって納得するくらいに
仮にディルが戦闘続行を持ってて、セイバーと切嗣を倒してケイネスたちを救えた後に消滅したなら恨み節は残さなかったろうし
もし兄貴がディルと同じ状況だったら、恨み節はともかくとしてやはり憤怒の形相で怒っていたんではなかろうか
それに主君に忠を尽くすってディルの願いも、強い奴と全力で戦いたいっていう兄貴の願いも自分本位な願いという意味では同じだからディルも兄貴同様、立派なケルトの英雄だと思うけどなぁ
士郎が人助けをしたいのに、元々法政志望してたことが昔から疑問だった。救急隊とか医者とか、もっとわかりやすく人助けできる仕事があるのに、と。
でも、きっと士郎はそんな自分の手の届く距離だけに留まるミクロの人助けではなく、社会の仕組み全体を変えるようなマクロの人助けをしたかったんだろうな。
そう思うと、世界と契約したのも、膨大な力で社会全体をよりよくできるという期待を持ってたのに、実際は何の権限もないただの末端の処刑人でしたっていうオチに涙せずにいられない。
なんて愚かで、なんて愛おしいんだろう。大人しくレスキュー隊にでもなっていれば良かったのに。でも身の程を超えて、それより上を、人類の幸福の根源を求めてしまう士郎だからこそ、愛せずにはいられない。
大河になってアーチャーを馬鹿馬鹿って言いながら思い出してくれるまで思いっきり抱きしめたい。
俺もそんな風に思っていたけどFateを深く考察するようになってちょっと考えが変わった
士郎が最も助けたいのは苦しみ足掻いてなお幸せになろうとする人なんだよね
だからもしかしたら罪を犯しても尚幸せになろうと苦しんでいる人をこそ助けたいと思っていたのかも
分かりやすい消防隊員や警察官を目指さないのは
だからあのゲリラの少年を始めとする人々はアーチャーにとっては助けたい相手だったんじゃないかって
指導者はともかく実際に戦っている人達は思想に関係なく自分や家族が食べていく為だったりするし
>>「(幼士郎の)この地獄を覆してほしいという願い」
>原作ではこう
>>自分では持ち得ないから、その尊さに涙した。
>>いけないのか。自分の気持ちではないから、それは偽物なのか。
それ、別に矛盾しなくない?
士郎は元々恐ろしく真っ当な子供で、「『誰か』この地獄を覆してほしい、みんな助かってほしい」
っていう願いを持ってた。
でもそれは、救いのない、誰も彼も死んでいく現実をつきつけられて
意味をなさなくなった(これを「心が死んだ」作中では表現する)
そして、その地獄にあって未だ生存者を探す、
「『自分で』地獄をどうにかしようとする」切嗣に会って、
士郎は、「助かりたい」「助かってほしい」という情動すらボロボロになった己の心では
抱けなくなってたその思いに涙したわけだろう。
SN切嗣では強すぎて物語にならないのは分かるけどだからといってケイネス一人に原作で語られた外道戦術使うのはちょっと弱体化させすぎやな(せめてもう一組くらい・・・)
会話の制約があったとはいえ、セイバーをあからさまな無能騎士道中にしたり、切嗣に明らかにおかしい戦争は英雄のせいだ論を抱かせるのもちょっとな(過去編から考えても切嗣が恨むようになるのは魔術師のはずだし、セイバーがあんなに騎士道大好きなはずもないから、明らかに話の都合のためにそうなったようにしか見えない)
これはもうちょっとやり様があったのじゃないかと思ってしまう
後やっぱりなぜ切嗣は火災の犯人になったのだろうか?
虚淵さんが言峰大好きだったから変えたんじゃないよな流石に
ナタリアとの別れによる正義への絶望や故郷での事件等の過去編がよかったから余計にそこらへんの矛盾や弱体化が気になってしまうな
横からだけど、「士郎は正義の心を元来から備えていた」と思われる描写は今回、原作、前回のアニメでも見えたりしてるよ。
・泣きながら災害のなかを歩いた。その時、周囲から「助けて」 と声が聞こえてきた。止めてくれ、オレにはそんな力はない。という感じの描写。
・そして今回の顔。泣いてはいるけど、泣き顔ではない。
「誰か助けて」ではなく、「助けられないのに助けを求められることに対して謝りながら、歩き続けた」
スマホからだと書きにくいな…
俺は
「たしかに、始まりは憧れだった」
「けど、根底にあったものは願なんだよ」
「(幼士郎の)この地獄を覆してほしいという願い」
「(切嗣)誰かの力になりたかったのに、結局、何もかも取りこぼした男の、果たされなかった願いだ」
って解釈した
根底にある願いは切嗣に会う前から持っていた
のコメントを見て思ったけど、確かに「こんな地獄を覆して欲しい」っていう表現は、今まであの手この手を尽くして地獄を覆すために努力してきた切嗣の願いとしては受動的すぎるかなって思うんだよね。だからこれはやっぱり地獄を前に何も出来なかった子供士郎の願いなんだと思う。
車の傍の死体
暗転[黒い画面に白い文字で]理想(じごく)を見た。
トンネルの中の死体
暗転[黒い画面に白い文字で]理想(じごく)を見た。
荒野の木の周りの死体
暗転[黒い画面に白い文字で]理想(じごく)を見た。
世界との契約
暗転[赤い画面に黒い文字で]――いずれ辿る、地獄(りそう)を見た。
という事?
そうじゃなくて、
地獄を見た。
地獄を見た。
地獄を見た。
――いずれ辿る、理想(地獄)を見た。
ってこと。
いや、原作ではとてもそうは見えなかったけどな。
実力的には1/10しか戦闘能力出せない状態でも圧倒的に士郎<アーチャー。
そして勝負のついた最後の一刀もアーチャーなら余裕で防げた。けれど防がずに士郎の攻撃を受け入れたってちゃんと理解出来る用になってる。
セイバーも「アーチャー…何故……」って疑問を口にしてた筈だし。
だからこそDEEN版でそこが分かりづらくて不満点になってるんだし。
セイバーが辛そうなのは士郎達が殺し合ってるのに見てる事しか出来ない辛さだと、思うけどな。
彼女はずっと士郎の生き方は危ういと言ってたし、実際に破滅したアーチャーが士郎を殺そうとしてるんだからそりゃ辛い。
士郎とセイバーは似たもの同士だから士郎やアーチャーの気持ちもセイバーは理解できるだろうしね。
挿入歌にあるSTARDUSTって星屑もそうだけど「夢を見るようなロマンチックな気持ち」という意味もあると知ってショックを受けたよ。星屑はまさに「願い」の記号だけどそれだけじゃなく、地獄と知っていても夢を掴みにいく士郎の熱い気持ちも表しているようでAimerさん、なんという言葉を選んでくれたんだ。ついでに、
Ashは色も熱も失った灰塵=アーチャー
Judasはエミヤシロウを最後には殺してしまう裏切り者=理想
として歌詞を見ると本当にアニメ映像とリンクしていてもうこの歌が大好きになってしまったよ。本当になんてすばらしい物をつくってくれたんだこの人たちは。