はてなキーワード: 拒絶反応とは
会社が成長するにつれ起きる主に人事関連で起きる問題を象徴的に表す言葉で「●人の壁」というのがあります。
その30人の壁・50人の壁を体験している社長さん側の語りは見たことがあるのですが、社員側の意見を読んだことがないなと思い、筆を取りました。
ちなみに特に結論みたいなものはありません。「ふーん」と読んでくれればと思います。
しばらく前になりますが、六本木の安い居酒屋でベンチャー社長たちと飲んでいるとひとりの社長が語り出しました。
「いまちょうど30人の壁のようなものにぶち当たっている気がするのがけれど、何がいけないのかわからない。会社は順調だし、ブラックでもないし」と。
数億の資金調達をし、界隈ではそこそこいけている感じの会社だったと思います。
自分は少し前に独立したのですが、話を聞いた時はこの社長とは別のベンチャー社員でした。30人の壁とやらで辞めたうちの一人です。
30人の壁を前に、そして真っ最中に、どういうことか起きるか、起きたかを羅列してみたいと思います。自分は辞めた側なので当たり前にマイナスなことが中心になります。
ちなみにこの壁とやらが30人で起きるのか50人で起きるのかは会社によるのですが、簡単な言葉で言うと『社長の器による』という印象です。20人で起きている場合も、50人でも平和そのものという会社もあります。
そして、ここ重要ですが、「社長はこう思ってるんだよ」「イチ従業員の君たちにはわからないだろうが」というのは当たり前ですが一切抜きでいきます。
30人の壁を見上げる者、また後方から眺める者としての一方的な意見です。
1、フラットに近かった関係性に「組織」という概念が生まれる。人事に納得のいかない社員がつまらない思いをする。(自分はこれです)
2、縁故採用だけではなく、一般採用が急激に増え、コミュニケーション不足による不協和音が発生する。
3、サービス認知の拡大により1→10のフェーズに入り、これまでヒーローとされていたゼロイチが得意なメンバーが営業チームに押され、プライドが傷つく。(自分はこれです)
4、社長ブログがパワーアップして胸焼けする。(自分はこれです)
で、この中で、2や3は社長さんたちのブログなんかでよく見かけるので(でも的外れな意見だったりするとは思う)、1についてやや深堀りし、4についてはもっと深堀りたいと思います。
まず1の組織化ですが、全員が納得する人事なんてあるはずもなく、自分はもっと良いポジションにあるべきだという(自分のような)人は、よっぽどその会社に恩義を感じていたり、給料が良かったりしない限りは俄然やる気が消滅します。そして当たり前のように「会社やめよっかな〜」と言う考えが脳裏をよぎるようになるのです。
何せここは引き抜きが横行するベンチャー界です。しかも今は大型資金調達の成功が続き、経営者たちは西にIoTプログラマーがいればウチならもっと唯一無二の開発ができるよと口説きに走り、東に死ぬまで売りまくる営業がいればビジョンと涙を垂れ流して獲得に行く、そんな時代。ライバル企業のメンバーを堂々と引き抜きにかかる猛者もいます。人材流動性の高いベンチャー界においては人事は諸刃の剣となることはいうまでもなく、「このポジションでしばらく我慢してくれよ」と言っている間によそから引き抜かれてもしょうがないのです。
自分の場合でいうと、辞めた会社では一桁台の入社で、自分の能力で会社を支えてきた自負がありました。技術の方向性と会社の事業もマッチしている。自分が開発したものが売れて、人の役に立っている様子はとても嬉しかった。みんな忙しいだろうなとひとり仕事を抱えたことも数知れず。でもベンチャーってそういうもんなんだろうなと思っていたので頑張ってました。
でも人事で自分の上に立ったのは、自分より後から入ってきた「人に仕事を渡すのが上手い人」。技術者として自分よりいい仕事をしているとは思わない。お恥ずかしながら勝手に感じていた社長との信頼関係はないものなのだと感じ、人事発令から2ヶ月で、辞めますよと(slackで笑)辛い時期を支え合った総務のメンバーに伝えました。
「情けないな、次の人事で上に行くように頑張ればいい」という、自分の大人気のなさを諌める自分も出てきて一瞬悩みましたが、その時間ももったいないと思い、すっぱり辞めることにしました。
そもそも管理職になりたいのかというとそうでもない。ただ、会社の行方には口は出したい、そんなわがままな気持ちがあることもここで気づかされました。
出した退職届はそれなりの引き止めののち受理され、いま自分は独立してひとりで仕事をしています。誰かを雇うなどは考えていません。めんどくさいので。
さて、僕のしみったれた話はこの辺にして、次に、4の社長ブログについて。
そもそも壁とか関係なく社長ブログを好まない社員も多いと思います。自分も嫌でした。
以下、社長がブログを書いている会社の社員に聞いてみた、社長ブログで「まじ勘弁」と思っていることベスト3です。(3人しか聞いてませんが。プラス自分)
1位 読んでることが前提なこと(勝手に発信して読んどけ感出すな。)
2位 すべてに感謝感謝みたいな内容(マジでやめてほしい。恥ずかしい。イタイ。 ※20代は拒絶反応)
3位 名前は出さなくても社員の誰のこと書いてるかわかる批判(自分のことだなっていう内容を書かれたあとどういう反応したらいいかわからない)
壁とどういう関係があるのかというと、やっぱり組織化すると雰囲気変わるんです。ブログもちょっとより社長っぽくなる。
辞めるまでの2ヶ月、組織ってどう変わるんだろうと思って見てたんですが、それぞれがそれぞれっぽくなるんです。
総務がめちゃくちゃ厳しくなったり。営業でそれまで自由にやっていた子がなんかパワー半減してたり、その上に行った人はキリッとしてたり。「俺通して」感出るんですよね。
それが耐えられなかったんですよね。なんか。子どもですね。自分がそこに混れなかったからかもしれませんが。
前の会社は入った時から組織ができていたからなんとも思わなかったんだと思うんですけど、みんなが窮屈そうになったのがなんか嫌で。もう自由になろうと決めました。
社長のブログはよりラブ&ピースになり、以前からあった特定の誰かを示唆する内容がより増えました。僕以外にも人事に抵抗しつつ残っている人はなんかかわいそうなくらい書かれていました。あれって、社員には言い返す場がないんですよね。ずるいよ。
いきなりですが、ネガティブな気持ち書いてたら疲れてきたのでここらで締めます。
結論はありません。では。
差別とは、身体的特徴を元に不当な扱いを受けることである。例えば、肌が黒いということで、奴隷扱いされる、または汚い、不潔とされて侮辱されること。
では、身体的特徴を指摘、言及することは良いのか?肌が黒いね、黒人は背が高くて、運動能力が高いよねなど。ポジティブに捉えられる、おおよその場合において、これは問題ないと捉えられる。
ただし、これが女性の場合、セクハラ・差別として問題になる。胸の大きさ、お尻の大きさなど。身体的特徴でも、言及箇所によってはネガティブと捉えられる。
黄色人種なら、目の細さや、平らな顔か?
おそらく白人の美的感覚から逸脱した特徴がネガティブなものであり、それら特徴を元に侮辱、不当な扱いを受けることが差別なのだろう。
特徴の指摘から侮辱、までがセットで差別だとは思う。しかし、場合によっては特徴の指摘の段階で、侮辱の意味が込められているとして、差別と判断されることもある。だからこそ、純粋な疑問を抱く子供の問いは、その裏に侮辱意識が無いとして、差別とは判断されないのだろう。
セクハラの場合は、特徴の指摘から、だからあなたは性的に魅力的で猥褻行為をしたい、という意識を汲み取ることで、防衛意識からの拒絶反応になるのだろう。
差別の難しさは、この指摘段階で差別と捉えられる点だ。どこまでの指摘、言及が差別と捉えられるかは、その発言の背景と、発言者の背景が求められる。
だか現状、多く場合、発言・言及・表現した時点でアウトだ。これが非常にややこしく、煩わしい点であり、差別言及が過激化する要因の一端だと思う。
私が感じている違和感は、この差別の適用範囲の過激化で、まるで言葉狩り、表現狩りのように思える。日本でも、身体障害者を表す言葉が数多く規制されてきた。
過激化は、人種差別から性差別、LGBTの全てにおいて見られる。
過剰にセンシティブな世界において、我々は幸せなれるのだろうか?全てが平坦で、そこから少しでも逸脱した人間が、過剰に攻撃されることは平等なのだろうか?
元増田の話を要約すると
「今、ほのぼのふるゆわアニメ好きは少数派なの!?私がおかしいの?」「世の中のメジャーはバトルアニメなの?」ってことかなと思う。
これについては、なんともいえないが、ランキングサイト(統計うんちゃらはいうなよ、あくまで参考だから)は一つの見方にはなるだろう。
https://www.anikore.jp/chronicle/2017/summer/ac:all/
パっと見る限り、2017夏アニメに限っても、かなりバランス良く散らばっていると思う。なのでそんな極端に偏ってはいない。
その上で、自分の意見を言うならば、オタクに受ける作品とは「ほのぼのかわいい世界に、緊張や若干のストレスを加えた作品」だろう。
そのストレスの加え方のさじ加減は非常に難しく、そこは好みが分かれるところだが、グロまでいくと拒絶反応が出て来るが、その加減しだいで大ウケする。
「まどマギ」、「がっこうぐらし」の虚淵作品なんかまさにそうだ。グロも一部効果的に使うことで見事にヒットした。「メイドインアビス」もそうだ。
元増田が褒めている「サクラクエスト」も暴力はないにしても精神的なストレスは多少加えてスパイスになっている。
大ヒット「けもフレ」も、基本ほのぼのだが、微妙な世界の不穏さやセルリアンを加えている。
「ガルパン」だって、基本ほのぼのに砲弾飛び交い手に汗握るバトルを加えて大ヒットした(スポーツということにしてグロや身体的痛みは排除した)
これらを完全に排除した作品として「きんモザ」などはあるが、ここまでいくとやはり人を選ぶ。
まとめると
・オタク的にはその中間、さじ加減が大事。(さじ加減の好みに正解はない)
ぐらいかな?
カープ優勝のツイッターを眺めてたらトレンドに「リンダリンダ」が上がって来た。どうやらMステでブルーハーツの過去映像が流れたらしく初見の人達のつぶやきが膨らんだらしい。曰く「ヤバイ」「この人クスリやってるだろ」「落ち着きなさ過ぎ」「障害者?」等々。まぁネガティブ。けどその衝撃を受け入れ切れない拒絶反応にも思える。
当時中学生、家族でテレビを観ていると件のリンダリンダ。広島の更に奥地の田舎といえでも既に友達の間ではダビングテープが回ってきてたし先輩はコピーバンドを始めてたし、誰かがパクった吉本バナナのブルーハーツ本は回し読みされてた。少なくとも自分の周りは皆パンクロックの熱に浮かされていた。で、リンダリンダ。母ちゃん「なんなん、この人、気色悪い」姉「狂っちょる」自分「キチガイじゃね」 いや、カッコよかった。ぶちカッコよかった。おしっこちびった。カッコよかったと言いたかった。けど家族の手前言えんかった。火照ったまま二階に上がって布団に包まって雄叫びあげてセンズリこいた。
http://www.kansou-blog.jp/entry/2017/09/04/073456
この記事のブコメを見てると、太田に共感を示してるようなコメが結構あるけど、みんな正気?松本の意見がどうかは置いといて、俺には太田のいうことがサッパリ理解できなかった。支離滅裂過ぎて。
この時点でもう無理。いきなりなぜ音楽家の評価の話なる?凄い音楽家ならビンタOKってこと?
もし仮に、コイツが「暴力はNG」という立場に立って発言してるんだとしたら、なおさらこの発言は看過できない。失礼すぎるでしょ。ビンタはNGだけど言葉の暴力はOKって言いたいわけ?だとしたらとんだダブスタだ。
あの場面はどう見てもいきなりビンタから入ってるわけではなくて、コミュニケーションが取れなかった結果ビンタにつながったわけでしょ。この言い方だと日野氏が何でもかんでもビンタしてるように受け取れる。
意図的な印象操作で悪意を感じるんで、個人的には拒絶反応モノなんだけど、みんななんで平気なの?
これもいきなり出てくる意味が分からない。そもそもビンタに繋がったのは中学生が気に入らなかったからじゃないでしょ。ショーの進行に支障が出るのにトチ狂った中学生が全く指示に従わなかったから。
それに、これは意図的な矮小化であり、悪意を感じる。こういうのは気分が悪くなる。
太田「いや、言ってわかんなかったらビンタすりゃ良いってことは、日野さんのこれが気に入らないって人がいたらビンタすりゃいいわけ?」
言ってわからないということと、気に入らないということは別の事象。同一視するのはおかしい。意図的にやってる証拠。悪意を感じる。
太田「じゃあ例えばね、我々がお笑いでお客を笑わせたいと思ってるときに、客をくすぐっちゃうようなもんなんですよ。それやっちゃったら、それはもう自分のやってることの否定になっちゃうから」
この例えは心底理解できない。くすぐるのは暴力じゃないし、親しい間柄なら別にやっても何の問題も無い。(金のないキモいオッサンが女性にやると犯罪になるけど。)
話は暴力としてのビンタじゃなかったのか?なんでこんな美学みたいな話になってんの?マジで意味わかんねえ。
太田の話は一貫して、それっぽいことをその場その場でオウムのように言ってるだけで、全然話が繋がってないように思えるんだよね。だから支離滅裂に感じる。みんななんでこんなのに共感できるの?
※あまりURLを張ると色々だるいので、各自勝手に検索して欲しい
何のつもりか知らないが、最近、ジャンプ+でお色気枠(候補)の連載あるいは読み切りが時々見られる。
通常のブラウザではなくスマートデバイス用の専用のアプリでジャンプ+を見ると、upvoteのできるコメント一覧を見ることができる。そして、コメントの傾向を見ると、直近では以下のお色気枠の漫画の評判が悪い。
一方、本日始まった "ハイリスクミッションセラピー" は今のところ好評である。この差は何か? 色々考えられるが、おそらく大きなウェイトを占めているのは "ヒロインの積極性" である。
雑に言うと、不評だった漫画のヒロインは、自覚してる・してないを問わず、みんなエロいことに対して積極的である。一方、ハイリスクミッションセラピーのヒロインはエロいことに対して原則消極的である。
つまり、ジャンプ+を読んでる奴らのほとんどは「女性本位で性を楽しむこと」についてなんやかんや理屈をつけて拒絶反応を示す。「女は性に対して恥じらっておけ」というドレスコードでないと不快に感じるのだ。
結局これが、ジャンプ+を読んでるような奴らの正体である。「エロには(女の)恥じらいがないと」という男主体の価値観。自発的に性へ向き合おうとする女の自主性を認めない、勘違いした男どもである。
すべて正解ではある。しかし性癖が 「拡張」できるということを知ってるひとは意外と少ない。
例えば普通のセックスAVを見るA君が居たとする。純愛モノのラブラブセックスAVでないとちんこも勃起しないとする。一例としてレイプモノを見せると拒絶反応を起こすレベルだと考える。
中身は違えども人は誰しもA君のような状態である。レイプモノは容認できてもスカトロモノは絶対に容認できないと考えている人は多いと思う。
はっきり言って、これは単なる嘘であることを言っておきたい。
味の好き嫌いを直せるように、実は性癖の好き嫌いも直せるのだ。
しかも性癖というものは味の好き嫌いと違ってもっと自由にコントロールすることが可能だと長年の研究により判明した。
それこそリョナであろうがスカトロであろうが射殺であろうが箱化であろうがダルマ女であろうがすべてのおかずで抜けるようになる。
しかし一体どういった 「メリット」があるのかと考えた人もいるかもしれない。
よく考えてみよう。人は最適なおかずを探すのにどれだけの時間を無駄にしているのだろうか?おかず探しに1時間ぐらいかけた経験を持っている人もいると思う。
これは業界では有名なことではあるがズバリ「おかずの最適化問題」である。
例えばランダムに掴んだおかずが自分が抜くに値する最適なおかずである可能性はかなり低い。
統計的に調査した結果、人がおかずを探してお目当てのおかずにたどり着くまでに平均で動画に4個、画像に60枚かかる。
そこでどんなおかずであっても抜ける人のことを考えてみよう。彼は文字通りどんなおかずでも抜ける。女優が思ったよりブスであってもブス好きの性癖があるので抜ける。逆に美人であっても普通に美人は嬉しいので抜ける。同じ要領でどんなおかずでも抜けることになる。
立命館のやつね。長いけどこれでも短くしようとしたから大目に見て。
自分の気持ち吐き出したいんだ。どう思ってるかまとめたいし知ってほしい。
①始めに
・二次創作は「創作の自由」があるから、著作権的に認められてない活動が出来ている。引用を認めないのであれば、それは論文を書く「表現の自由」を蔑ろにしたダブスタでは?
って発言に
・取り上げられた10の作品の中には、権利元から二次創作を規約で認められているものもありますが、そのことはいかがお考えでしょうか。私達はダブスタではありません!
前提:刀剣乱舞は盗用で大炎上した時期がある。
(いまだ調査中のままのものもある)
(補足)
今回の刀:引用が引用になってない。法律違反だから、あの論文は許されない。
以前の刀:刀剣乱舞というゲームはアイコンやキャラクター、はてはゲームUIまで盗用という法律違反だけど、私たちが萌えられるから許される。
今回の刀:法律違反だから即刻潰すべき。大学に電話で抗議するし、教授や学生に未来はないと思え。
以前の刀:当事者間の問題だから、外野の私たちは黙って今までと変わらずゲームをするべき。課金もするし二次創作もするし、盗用問題をスルーして公式が舞台化という未来を示してくれて嬉しい。
(この時、公式に疑問の声を上げたユーザーは集団で責め立てられアカウントを消すなどに追い込まれるなど、Twitter内で言論統制じみた状況に)
今回の刀:プロではない趣味の作品を引っ張りだしてくるなんて言語道断。即刻消せ。
以前の刀:公募のお弁当コンテスト入賞者、アマチュアの日記の写真、プロの水墨画etcを盗用しても、発覚して数か月経ってから差し替えたんだから無問題。
今回の刀:pixivからひっぱってきたのって規約違反じゃ…?法律よりも優先されるべき!許されない!
以前の刀:個人趣味のブログのゲーム素材で、利用規約が定めてあって、刀剣乱舞ではその規約違反してるけど、ネットにアップロードしてるんだからこうなるのは覚悟済みでしょ。嫌ならやめろ
⑥②~⑤を総括しての気持ち
お前ら矛盾しすぎだよ。立場変われば言うことも変わるとかいうレベルじゃねーぞ!
「二次創作が認められてる著作権が関係ないジャンル」じゃなくて「そもそもの原作が著作権違反してるジャンル」なんだよ。
そんなゲームで尊いしてて、著作権語るのを自分でオカシイなって思わない?あ、思わない。自分が萌えられれば良いのか。
自分の楽しみを奪うものは「悪」で、「善」たる法律をコネコネして適用させて殴って、数を力にもみ消せば良いのか。
感情とか配慮とかの言い訳も立命館に対して大口叩いてたけど、それもダブスタでしょ。
実在する刀と一言一句同じ名称のキャラクターで創作するのによく配慮せずにいられるよね。
刀の銘で検索して「チ●コ大好き~ザー●ン美味しい♡おま●まん疼くのぉ!」って文字や絵が出かねない事、刀の現在の所有者さんやそのファンの人に対してどう思ってんの?
盗用発覚から差し替えまでどれだけ時間かかったか分かってんの?
その間お前らゲーム続けてたよな?一時利用停止にしない公式を崇めてありがとうって言ってたよな?
今回どうよ。速攻論文消させて、当たり前って言ってたよね。開いた口が塞がらないよ。
「私は以前の刀:みたいなファンじゃない」って主張が絶対あるだろうけど、ゲーム続けてファン名乗ってる限り同類だよ。
「容認」してるんなら何も違いはないよ。
⑦最後に
「二次創作を認められてる」⇒「引用になってない論文に、私たちは著作権違反で声をあげられる」
「原作が盗用で著作権違反をしている」⇒「法律違反はダメだけど、私たちが萌えられるならOKです。気にしません」
⑧3行でまとめろ
お前ダブスタじゃん
※刀剣乱舞というゲームの盗用問題についてはgoogleなどで検索すればwikiが出てきます。詳しくは自分で調べてクレメンス。
帰省の折、来期からグループ会社に出向することになったと報告したら、そりゃもう大変な騒ぎになった。
せっかく本社に就職したのにどういうことだ、左遷か、何かやらかしたのかと怒涛の質問責め。
ただの出向だと言っても、せっかく本社に就職したのに(ryの無限ループ。
一旦鎮火した後に親父が「そのまま転属になることもある」とか言い出したもんだからさらに爆発。
父よ、それはまあ正しいんだけどさ、もうちょっと空気読んでくれよ…。
大体俺が就職した先は「本社」じゃない。これも何度も説明したっつーのに。
社内カンパニー制度は分かりにくいから仕方ないけど、まさか出向まで理解してくれないなんて思わなかった。
ていうか疲れた。おかんは俺の社会的ステータスを過大評価しすぎ。確かに知名度はある会社だけど俺が入った部門は花形ではない。
自分が育てた成果物(俺)の分かりやすい評価だから、勤務先に固執するのは分かる。分かるけど、それがちょっとでも揺らぐとめちゃくちゃ拒絶反応を示すのは勘弁してくれ。
右派も、戦争を可能にする状態をたった一度の立法で実現しようとは考えていない。
改憲でも、抵抗が生まれにくい分野から手をつけて国民を改憲に慣れさせようと計画してるじゃないか。
拒絶反応が起きないように少しずつ変えていくという相手の戦略に対して、その都度警鐘を鳴らすのは当然。
ブコメではオオカミ少年の例えを前提にして反論してるから、「左翼はオオカミ少年を都合よく解釈している」と再反論されて議論が脱線している。
あえて例え話にオオカミを絡めるなら、
オオカミははじめ遠くから村人に姿を見せ、だんだんと近づき、村人がすっかり慣れたところで羊を食べたが、村人は「オオカミだから仕方ない」と、自分の子が噛み殺されても文句を言わなくなった。
という具合だろう。
当方は夫で夫婦でそろそろ40って感じで子供は2人。俺が言うのもなんなんだけど奥さんはかなり美人。
結婚前から毎日オナニーしてたし俺は毎日でもHしたいんだけど、ほぼ断られる。
なんか同僚とかが話してる週1とかのペースまじ信じらんない。どうやってんの?うちは多くて2か月に1回だし約1年開いたこともある。
1. やだ
2. お風呂に入ってない(疲れて次の日の朝入ることが多い)
3. 月のもの
こんな感じで、基本的にはなんかこうお膳立てがないというか、雰囲気がそうじゃないのにHに突入するのがいやなんだそうだ。
わかるんだけど、奥さんは早起きして上の子の弁当つくってて、日中は小さい子の相手と家事でくったくたになって、そのあと夜にそうなるのってほぼ無理ゲー。
だから俺がなんとなく無理やりキスしてるうちにー、とか、布団の中に隠れてて寝にきた奥さんにいきなり襲いかかったりとか、そういうノリでなんとか押し切る感じで夫婦生活を始めてる。
それはそれで奥さんもまんざらじゃない……、みたいのはほぼなくて時々マジで切れられてしまう。泣かれたこともある。ごめんなさい。
ただ、そうしなかったらHに至れる気がしない。
真剣な話し合いもしたし、私はもともとH苦手だから浮気してくれてもいい。しょうがないと思う。みたいに言われたりしたけど、いやそうじゃなくない?
行為にさえ突入すれば、嫌がってる様子はないと思うし、普段はろくに触らせてくれない美人の奥さんが俺に体を許してる、って思うと本当にすごい興奮する。
めったにHできないから、性行為がマンネリで、みたいな悩みはまったくないし、Hしたい一心で奥さんの負担を減らすためにあれこれ腐心してるし、これはこれでいいのかもしれない。
追記)
いろいろアドバイスなどありがとうございます。
Hを早く終わらせたいっていうのは、俺がそう感じなくてもぜったいあると思う。ただ、奥さんの場合、次の朝はやいとか、そういう心配があるならしない、というスタイルなのです。
今書いてて思ったんだけど、奥さんもともと体弱いし、Hの次の朝しんどくて起きれないとかわりとある。
Hに至ればいやじゃなさそうなのは大丈夫?っていうのは直接的、間接的にそうとう確認したんだけど、本人曰く性的快感に乱れるのが恥ずかしくて自分を嫌悪してしまうとか。
たしかにご両親が性に対して相当保守的な方々で、奥さんをみてると端々に潜在意識まで教えというか躾が染み付いてる感じがする。下ネタにすごく拒絶反応でるとか。
なので、子供寝てる横でキスするだけで嫌がる。だからいつそういう雰囲気になってもいいように今日は!という夜は別室に布団しいて避妊具用意してる。まあ99.9%空振りなんだけど。
というわけで俺本人が嫌がられてるわけではない、はず。友人たちからも子供からも仲良しすぎるっていわれるくらいだし、奥さんも俺が仕事やすんでデートとかするの喜んでくれてる。
俺がひとりでゲームしてるとくっついてきたりするし。その延長でついその夜に体を求めたくなるのが俺で、あー嬉しかった!で終わるのが奥さんって感じかなあ。
奥さんが泣いてしまうのは、Hそのものが嫌というわけじゃなくて、ほぼ俺の無理解が悲しいという理由。今まで5回ほど、だいたい2年に1回起きてる。
なんで俺がそうしてしまうかというと、基本100%だめって言われるので、もうちょっと探りたい、もうちょっとだけ!って感じで、いつの間にか一線を越えてしまう感じ。
申し訳ないです。
ですが、この初見感想も非常に重要でしたので、是非お目通しいただいて推理の参考になさってください。
※表に出した最新考察と印象はこちら。初見感想の次にでもどうぞ
http://anond.hatelabo.jp/20170209222825
http://anond.hatelabo.jp/20170212024356
一夜明けて昨日の話。
推しの握手会が思いの外さっくり終わり、通りすがりのご夫婦に推し布教も楽しくできて、気力と時間が余ったので当日券でレッドシアター行ってきた。
とても面白かったのだけど、なんかこうすごくもやっとする原因を掴みたくて、江戸川乱歩の原作の方の感想を漁り、こちらのブログに辿り着いた。
http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636
こちらを拝読してめっちゃスッキリしたので、スッキリしたこと前提に感想を書く。
ネタバレしまくるし、恐らく原作既読でも舞台未観劇の方は先に舞台観た方が絶対面白いだろうから、観劇予定のある方は読まないでくださいね。
まず私がもやっとしたのが、「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」ということ。
こーゆー考察し甲斐のあるタイトルや、善悪、美醜、世間と自分の解離みたいなモチーフが出てくる作品だと、どうしても「果たして鬼とはなんだったのか?」と邪推してしまう。
『私』役・佐藤永典さんのお人形のような美貌と、書いて字のごとく鬼気迫るお芝居、そして聞き慣れない失われた昔の日本言葉は、あまりにも『我々観客と同じ存在』であると共感し難い。
そもそも、主人公目線で語られる物語は、主人公に感情移入させて物語に没入させることが狙いのひとつだろうに、全然『私』=箕浦に感情移入できない。
(ネタバレにならないことを祈って例を挙げると、演劇で観たことがあるミステリーだと『罠』『スリル・ミー』などが思い出される。)
これは『私』が作品の『語り部』であるため、強制的に観客が『聞き手』の役割を担ってしまうからでもあるかもしれないけど……
それにしたって、締めの内容からしても物語の本題が「『私』と諸戸道雄」の関係に集中してしまってならず、
そうすると、田中涼星さん演じる諸戸の執着心のおぞましさに沿ぐわない清廉でどこか儚げな美しさが、彼の一途な愛を健気で尊いものに感じさせてきて、その愛情を受け入れない『私』が何か恐ろしいもののように思わざるをえなかった。
でも、それっておかしくね?って思って。
ホモフォビアを受けることへの同情というか、同性愛差別への嫌悪感も逆手に取られているような気がする。「理由はどうあれ女の子は泣かせちゃいけない」みたいな、ずるい構図が仕組まれているように感じる。
自分が恋をしてフラれた時のこと・恋されてフッた時のことを参照すると、
いくら思わせ振りだったとしても応えてくれない相手の方が悪者だなんて絶対に思えないし、
どんなに周りから薦められてもどうにも受け入れられない相手はマジほんと無理。
腐目線でだって、絶対許せない地雷カップリングというものは実在する。
だから「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」であるとは、理性的には到底思えない。
でもじゃあどうして「『私』が鬼」だと感じるような作品に仕上げてしまったのか?
これが冒頭に書いた「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」というもやもやの詳細。
この感情は原作に対して正当なのか? 舞台版という二次創作であるが故の解釈の押し付けなのか?
という部分が気になって、ググって辿り着いたのが先ほどのブログ。
http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636
Wikipediaに書いてあった、「陰獣」みたいな新作をとリクエストされて執筆されたのが「孤島の鬼」らしいというエピソードからも勝手に妄想して、
江戸川乱歩=諸戸目線で「創作された箕浦」が『私』なのではと解釈し、舞台版にめちゃくちゃスッキリできた。
諸戸道雄の死で物語が終わるのもさもありなん。
観客は真の主人公である江戸川乱歩(諸戸)に感情移入させられて、「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」だと錯覚してしまうのではと。
田中涼星さんの白木蓮みたいな美しく一切の嫌悪感を感じさせない諸戸は、きっと江戸川乱歩のブロマンスの結晶として大正解。
対する『私』がエゴイスティックに語れば語るほど、それは作者(江戸川乱歩であり諸戸)の恋の哀しみの深さ、恋情の深さを伝えてくる。
女性に執心する姿がなんか気持ち悪く見える・描かれるのも作者による悋気からだろうし、諸戸に対して残酷過ぎる描写は傷付いた作者本人が語らせてるからだろう。
『私』が歪であればあるほど、「箕浦にもどこか諸戸(作者)を愛する部分があってくれ」といった願いの叫びに聞こえる。
(観ていると「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑が浮かんでならないのだけど、『白髪になってしまうほどの生理的な恐怖・嫌悪』という動かぬ証拠は、容疑を否定してならず、この辻褄の合わないミステリーももやもやの一つだった。)
メタ推理として「陰獣」を出したのも、江戸川乱歩自身による己の殺害が物語のカタルシスにあるように感じられたから。自身を不幸の中で殺すことで、遺された人間へ爪痕を残すという側面も含めてね。
(愛を願いフィクションを書き綴るのに成就させず永遠の片想いとして殺す……って、個人的にめっちゃ萌える。)
作者による「ぼくが考えた最高に美しく残酷な箕浦(永遠に愛してる)」ってやつ。考えたというか、「恋愛の疑心暗鬼の中で見えていた箕浦」。
舞台「孤島の鬼」(2017)では、語り部の『私』と『箕浦』を別の役者さんが演じている。
私は原作未読であるため、同一人物であるはずの二人を別々の人間が演じるということが奇策なのか妥当なのかわからない。
でも、配役を知ったときに
美少年役もまだまだできそうな童顔の佐藤永典さんが30代で老人のような白髪姿になった『私』で、
佐藤さんより身長も高く年上にだって見えかねない美青年の石田隼さんが20代の箕浦「過去の『私』」を
演じることが疑問だった。
いくら『私』は外見が変わってしまったといえど、あまりにも二人の外見が似ていないこともあってね。
「もう一人の自分」みたいな表現が出てくる演劇はいくつか観たことがあるはずだけど、原作未読とはいえ観劇前に違和感を持ったことはなかったように思う。(まあ大体そういった存在は物語の核心中の核心に触れるので、配役表から対の存在と公表されてることは少なそうだけども。)
しかし『私』を『諸戸が想い描く箕浦』とすると配役がまあしっくりくるし、『本物の箕浦』と役者を分けたことが大発明のように感じられる。
舞台上には二人の箕浦が同時に立ち、シーンによって他者とのコミュニケーション表現の担当者が変わるのだけど(どっちが台詞を言うか、みたいな)、
諸戸と出会い親交を深めた学生時代の箕浦はずっと『私』(佐藤さん)が表現し、
諸戸と別離し大人になり恋人の初代との出会いから箕浦(石田さん)は登場する。
石田隼さん演じる箕浦は、佐藤さんの『私』と同一人物のはずなのに、鬼なんて印象もなく何故か善良な青年に感じられていたのだけど、『私』の方が諸戸(江戸川乱歩)の色眼鏡で認識された箕浦なんだと思えばこの対比はすごくいい。
「『私』は諸戸目線で見えていた認知の歪んだ箕浦」であるため、『私』の歪さから「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑を持ってしまうが、
事実として『箕浦』は諸戸に迫られることに身体が変調するほどの生理的な恐怖・拒絶を示している。
(皆さんは自分の体が深層心理の拒絶反応で意のままに動かせなくなったことがあるだろうか。私はある。手から全身が痙攣してゆき、これしきのことで動じるな止まれと意識しても震えがまったく止まらない。だから私は生理的な拒絶は動かぬ心の証拠だと考えている。)
しかし性的に愛されないことが、『愛されていない』ということなのだろうか?
必死に求めるあまり諸戸からは見えなくなっただけで、性愛ではないけれども某かの情が、性愛にも決して劣らない尊い愛が『箕浦』にもあったのではないか?
そういった諸戸の盲点が、諸戸が『私』と会話し夢中になっている時の『本物の箕浦』(石田さん)にあったのではないかと、舞台演劇となり二人の箕浦が居ることで私は考え至った。
物語としての「孤島の鬼」の作者は諸戸(江戸川乱歩)だという解釈は私が勝手にしてるだけなので、舞台版が諸々の采配をこの解釈で行ったかはわからないけど、改めて『私』と『箕浦』の登場場面の違いを確認しながら観劇したら面白そうだなぁ!
より妥当なところの分裂理由として「箕浦の二面性」はあるだろうし、じゃあそれぞれの境界線を舞台版ではどこだと考えられているか読み解くのも面白い。
作中に登場する双生児は境目が見えたけど、二人の役者に分けられた一人の人物のメスは何処に入ったのか。
うろ覚えだけど、諸戸の告白以降は『私』が箕浦として生きているから、舞台では箕浦と諸戸は一緒に天国に行けたのだ、な~んて解釈もハッピーだよね。
(どちらかというと、諸戸が悋気を持たなければ、欲を出さなければ、あるいは悪い男になれていたら、箕浦と一緒に天国に行けたかもしれないのに諸戸が鬼の箕浦を生み出してしまった…って自己破滅エンドの方が私は好きかな。まさに疑心暗鬼を生んだ、的なね。)
(報われず自分に追い込まれ破滅した美しい男性がテーマの舞台、大好物なんです。)
延々と箕浦組について語って夜が明けてしまったけれども、他の役者さんや演出等表現もとても良かった。
諸戸の父親の最期に対して、主人公である『箕浦』の感情が語られず『諸戸道雄』の感想がセリフとして発せられたのも、諸戸の父親を演じていたのがまだ30前半と『私』に近い年齢の美しい河合龍之介さんで妖しい男の色気を放っていたのも、「諸戸の主観こそが語り部の『私』」であったとするならよりしっくりくる。
父親の変貌は、絶対に他人の箕浦よりも諸戸の方がショックな出来事だ。
父親越えなんてテーマもよくあるほど、子供から見た方が親はより巨大さ恐ろしさを増すし、親が壊れる様というのは「自分にも起こり得る恐怖」と「自分があれほど巨大に感じていたものとは一体何だったのかという虚無」感がぱない。私も父親で経験したからわかる。
舞台というものは面白いもので、同じ現実を同じ密室で複数の人々と同時に別々の目線位置角度(物理的な意味で)から観測するものだから、
書籍や映像で物語を鑑賞する以上に「他者が見ていない『自分の視点』」が感想を述べる際にものすごく意識される。
たとえ自分が複数人居たとしたって、観劇した感想は同じにならない。
演出による印象操作は完璧に同一にはできない。(それをぶち超えるクソチート暗殺者が『音楽』だと私は考え重要視しているけど、それはまた別の話)
だから舞台は観るだけでも楽しいし、感想を言うのも聞くのも他メディアの何倍も楽しい。
そんな訳でこれらの感想はすべて《私》の主観でしかなく、原作者・スタッフ・キャストが込めた意図の真相はわかんないんですけどね。
“息を吸うように交わされるホモ行為。もう男同士で手を繋いだりハグをしたり顔を近付けたりは日常茶飯事で、最初は「これユーリやなくて、ホーモやないかーい!」と陽気なツッコミでエンジョイしていた自分も、回を重ねるごとに露骨になっていく描写に耐えきれなくなり、10話でエンゲージリングに見立てたペアリングを贈って疑似結婚式を始めたところで、完全にドン引きしました。このシーン、今思い出してもめちゃくちゃ気持ち悪かったです。
こうやって「気持ち悪い」とはっきり述べてしまうと、私はLGBT否定論者の差別主義者だと受け取られるかもしれません。しかし、私はゲイそのものに拒絶反応を感じているのではなく、ゲイではないくせに(認めていないくせに)ゲイを気取っている男どもが気持ち悪いと感じただけ。そう、これだけ勇利とヴィクトルの2人は同性愛を匂わせていながら、互いがゲイであることに一切言及しないのが問題なんですよ!
断言できますが、もし勇利がヴィクトルのことを真剣に愛した上で指輪を贈っていたのなら、私は気持ち悪さなど微塵も感じることなく、2人のことを祝福していました。セクシャルマイノリティであろうと、周囲に何ら引け目を感じることなく、実直に求愛できるのは大変麗しいこと。でも、勇利がヴィクトルに指輪を贈った理由には、「お守りだから」「お礼だから」という苦しい言い訳が入り、これだけ直接的な行為に及んでいながら、2人がゲイである事実から頑なに目を背けようとするから腹立たしくて。
10話放送後、作者の久保ミツロウさんはTwitterで「この作品を現実の皆さんがどのように思われても、この作品の世界の中では絶対に何かを好きになることで差別されたりはしないです。その世界だけは絶対に守ります。」と、差別主義者には屈しない! というスタンスで反論されていましたけど、作中でゲイであることを認めていないからとても滑稽に聞こえます。
本当にこの世界が、あらゆる愛情のカタチに差別が入り込まない世界であるなら、「その世界だけは絶対に守ります」と豪語するなら、どうして彼らはゲイであることをはっきり認めようとしないのでしょうか? 同性愛を肯定しながら、一方で師弟愛や友情を隠れ蓑にしてゲイである事実を誤魔化そうとするやり口は、とても卑劣で悪辣だと私は思います。ゲイに対して不誠実ですし、これこそ差別です。
結局、本音ではホモを匂わせて腐女子を釣りたいだけのくせして、差別がどうのこうのを持ち出して正当化させようとするから気持ち悪さを感じるのですよ。ユーリ!!! on ICEという素晴らしいアニメに対し、私はただひたすら絶賛だけがしたかったのに、こんなくだらないことに長文を割かなくてはならないのが何よりも残念です。“ttp://ndsk.net/anime/yurionice.html
本人はこれを差別だと自覚していないようですが、なぜ勇利らが「ゲイ」であることを認めなければいけないのか考えが足りなすぎるのでは
そもそも恋愛や性愛について「同性愛」「異性愛」「両性愛」「汎性愛」「全性愛」「無性愛」「ホモフレキシブル」「クエスチョニング」「ポモセクシャル」「ポリセクシャル」「バイキュリアス」「デミセクシャル」「オブジェクトゥムセクシャル」、、、、、と数限りない愛の形があるのに勝生勇利とヴィクトルは自分たちを「ゲイ」と認めなければいけないのかよくわからない
5話で
【僕の愛。それはわかりやすい愛や恋ではなくて、ヴィクトルとの絆や家族や地元に対する微妙な気持ち ようやく自分の周りにある愛のような物に気付く事ができました。はじめて自分でつなぎ留めたいと思いたい人、それがヴィクトルです その感情に名前はないけど、あえて愛と呼ぶことにしました】
彼の気持ちは「既存の愛ではない」と語られているのに、浅生大和(あそうやまと)氏はゲイかゲイじゃないかというふうにしか二人の関係を考えられないってこと?
【この作品を現実の皆さんがどのように思われても、この作品の世界の中では絶対に何かを好きになることで差別されたりはしないです。その世界だけは絶対に守ります。】
これについて
【と、差別主義者には屈しない! というスタンスで反論されていましたけど、作中でゲイであることを認めていないからとても滑稽に聞こえます。本当にこの世界が、あらゆる愛情のカタチに差別が入り込まない世界であるなら、「その世界だけは絶対に守ります」と豪語するなら、どうして彼らはゲイであることをはっきり認めようとしないのでしょうか? 同性愛を肯定しながら、一方で師弟愛や友情を隠れ蓑にしてゲイである事実を誤魔化そうとするやり口は、とても卑劣で悪辣だと私は思います。ゲイに対して不誠実ですし、これこそ差別です。】
一体どう解釈すればこのような文章を書けるのか疑問。てかホモ、ゲイと書いている時点で立派な差別なんだがな、、、
同性愛について見識深いみやきち (id:miyakichi) さんの意見も伺いたい
ユーリ面白くて数時間後に迫った最終回が楽しみすぎるので思ってること書くよ!
私は好きなものや気になったものについて、よく検索かけて他の人がどう言ってるのかを見たりする。勝手に同意したり反論したりして楽しむ。まあこの習慣のせいで最近はしんどい思いをすることも多くなってきたのでやめたほうがいいのかなとも思うんだけど。
ユーリでももにょ案件は結構あった。ユーリにかこつけて実在のスケーターの画像をBL的に消費して楽しむファンとか、最初は面白かったのにホモで気持ち悪いとかトレパクとか。
実在人物のそういうアレで大騒ぎするのは小学生が「AくんとBちゃんが付き合ってまーす!」って騒いでるみたいで品がないなあと思う。ああやって騒ぐタイプの人とは仲良くできないな。それこそいわゆる生物案件なんだから腐女子が得意な検索避けで楽しむべきなんじゃないの..あとユーリに限らずクソコラやめてほしいな〜〜〜〜楽しいのはわかるけど失礼じゃないかな...
ホモで気持ち悪い、あるいはホモじゃないから尊い、みたいなゲイフォビア発言が大手を振ってまかり通る日本はまだまだ遅れていて悲しいなあ。わかる、わかるよ、私も昔はどっちかってとBLに対し否定的だった。例の水泳アニメを見てうわあ...って思ったりもした。
でも、今から思うと多分「普通じゃないこと」に対しびっくりしちゃっただけだったんだよね。「これまで自分の中で培われてきた常識から外れている」「衝撃的」な絵面に対する拒絶反応。最近は考え方が変わって、どういう性別だろうと親愛の情を抱くことは当たり前のことだと思うようになったからユーリもなんの違和感なく見ている。キスしたからって恋愛とは限らないし逆も然りじゃない?いろんな解釈があっていいと思う。全部当たり前で普通だよ。
ここからは個人的な見解だけど勇利とヴィクトルの関係は師弟愛から始まってはいるけどいろんな愛情が混ざり合って結婚して当然だしセックスしててもおかしくないかなってくらいには発展してるとおもう...ただGPF終わったら離婚しそう(ごめん)っていうか、なんか一種の青春みたいだよねっていうか、最後のGPFという刹那っていうか、まあこの辺は日本語得意な人に任せた!
そしてトレパクはまあ専門外なので論ぜぬ。黒だったら残念って感じ。「検証画像がフォトショ」みたいな反応も見かけたし個人的には白を信じたいけどな〜〜〜〜。
あとまたこれは別の問題だけど、「ホモで気持ち悪いという感想をおおっぴらに言えないために鬱憤の溜まった人たちで構成された集団が好機とばかりに卵アイコンで叩いている」という印象が拭えないので、なんかもう、地獄だな、と。大勢が好きだ、面白いと肯定するもののよさが自分だけちっともわからないみたいときのマジョリティに対する腹立たしさ、圧迫感みたいな気持ちめちゃくちゃよくわかるんだよ...それで鬱憤溜まるのも叩きたくなるのもわかるんだよ...地獄...
私とある漫画のとあるマイナーキャラが大好きだったんだけど、その子が理不尽に殺されて、でも殺した方のキャラが人気で、私は許せないのに殺した方のキャラを擁護する声の方が大きくて、あまつさえ「彼こそ主人公」みたいなコメントがたくさんあって、重要キャラだから公式でもどんどん優遇されて、一方私の好きな彼はグッズやサブコンテンツでもハブられ続けて...そんな風潮を見て悔しくて悲しくて腹が立って、眠れない夜とかあったくらいなんですよ...だから気持ちはよーーーーーーーくわかる。しんどいよね。そのうちエネルギーが怒りに向かうんだ。 違う話だって?そう思うならごめん。でも私は一緒だと思う。
あとはあれだ、「本格的じゃなかった」みたいな批判。まあそれはわかる。スポ根を期待して見たらスポーツを題材にした少女漫画だったのでがっかりした、という人がいてもおかしくはないかな。私は少女漫画も好きなのでこれはこれで、といった風に楽しんでるけれど。あと演技中の心理描写は本格的を謳うのにふさわしく緻密だと思うよ!きっと修行パートが足りないんだな。ユーリに12話は短いよ!!!!!
個人的な見解もういっちょ。ユーリを作品としてLGBT問題とくくりつけるのは賛同にせよ批判にせよお門違いだと思うよ!!!!!そんなにウェイト大きくないよ!!!理想の世界ではあるけど!!!まあユーリみたいな雰囲気の創作物が増えたらいいなあとは思うかな。
さて、こういう話はもういいかな!ここからはJJの話させて!私はJJが大好きです!!!
あーJJ!!!!!!!大好き!!!!!!!初登場回の初演技で、あのずっとこちらと目が合ったままの謎スピンで一目惚れしました。アニメに限らず、スケートにも限らず、私ああいう根っからのエンターテイナーな選手が大好きなんです!!!!
パフォーマーには二種類いると思ってる。一つは己の内面を見つめ己を表現するアーティスト型。もう一つはお客さんを感動させることを目的とするエンターテイナー型。両者の違いは端的に言えば内向的か外向的かってところなんだろうと思う。ユウリカツキなんかは典型的な前者だよね。そして私の解釈ではJJことジャン・ジャック・ルロワは絶対後者。スケートどころか、氷上に限らず彼の生き方そのものがエンターテイナー。あー好き!!!!!!!!
JJの彼女も大好き。イザベラちゃんっていうらしいね。JJってたくさんのJJガールズに愛想振りまいて、EDでは左右に女侍らせてたりもして、それでもイザベラちゃんは全く意に介してないどころかJJガールズの存在を自慢にまでしていている。多分左右に女侍らすJJを見ても「さすが私のJJね!」って肯定してくれそうだし、イザベラちゃんはジャンジャックルロワの「JJ」という理想、生き方をまるごと肯定してくれる女性なんだなって思った。JJみたいなタイプの極めて外向的なパーソナリティを支えるには最高のパートナーだと思う。
どーも最近のコンテンツでは「飾らない自分を愛してくれる」みたいな、たとえ世界中に否定されてもたった一人に肯定してもらえればそれでいい的なことを信奉しがちな気がするけど、JJはそんなこと求めてないんだと思う多分。たった一人に肯定されるだけじゃ足りないからどこまでもどこまでもストイックに上を向く、立ち止まらない、立ち止まれない状況に自らを追い込む。そんなJJに向かって「あなたの良さは私が知ってるから十分でしょ」みたいなこと言うタイプのパートナーは窮屈だろうなと思うよ。今のところは。
オーケー、優勝を逃し婚約がおじゃんになって、イザベラちゃんの前でどういう顔をしたらいいのかわからない19歳のただのジャンの前で、エンゲージリングをはめたままの薬指を愛おしそうに握り込めて「楽しみだわ、JJ」ってイザベラちゃんが微笑んでくれるところまで妄想した。さあ来い最終回!!!!!!!
(さっき今のところは、って言ったんだけど、私はもともとオタクとして闇属性なのでどうしてもこのGPFまでがJJの選手としての絶頂だったとしたらって事態を想像してしまう。大会に出ても成績が振るわず、どんどん優勝が退いていくJJに対してイザベラちゃんがどう反応するのかってのは...まあ...気になる...)
否!!!!!!!!!!!!!!!!一人のJJガールズとして宣言します!!!!!!!!!私はJJの大逆転優勝を信じてる!!!!!!!!!!頑張れJJ!!!!!!!頑張れイザベラちゃん!!!!!!!!!!!!!ジャン・ジャック・ルロワをどうかよろしく!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!最終回楽しみ!!!!!!!!!