差別とは、身体的特徴を元に不当な扱いを受けることである。例えば、肌が黒いということで、奴隷扱いされる、または汚い、不潔とされて侮辱されること。
では、身体的特徴を指摘、言及することは良いのか?肌が黒いね、黒人は背が高くて、運動能力が高いよねなど。ポジティブに捉えられる、おおよその場合において、これは問題ないと捉えられる。
ただし、これが女性の場合、セクハラ・差別として問題になる。胸の大きさ、お尻の大きさなど。身体的特徴でも、言及箇所によってはネガティブと捉えられる。
黄色人種なら、目の細さや、平らな顔か?
おそらく白人の美的感覚から逸脱した特徴がネガティブなものであり、それら特徴を元に侮辱、不当な扱いを受けることが差別なのだろう。
特徴の指摘から侮辱、までがセットで差別だとは思う。しかし、場合によっては特徴の指摘の段階で、侮辱の意味が込められているとして、差別と判断されることもある。だからこそ、純粋な疑問を抱く子供の問いは、その裏に侮辱意識が無いとして、差別とは判断されないのだろう。
セクハラの場合は、特徴の指摘から、だからあなたは性的に魅力的で猥褻行為をしたい、という意識を汲み取ることで、防衛意識からの拒絶反応になるのだろう。
差別の難しさは、この指摘段階で差別と捉えられる点だ。どこまでの指摘、言及が差別と捉えられるかは、その発言の背景と、発言者の背景が求められる。
だか現状、多く場合、発言・言及・表現した時点でアウトだ。これが非常にややこしく、煩わしい点であり、差別言及が過激化する要因の一端だと思う。
私が感じている違和感は、この差別の適用範囲の過激化で、まるで言葉狩り、表現狩りのように思える。日本でも、身体障害者を表す言葉が数多く規制されてきた。
過激化は、人種差別から性差別、LGBTの全てにおいて見られる。
過剰にセンシティブな世界において、我々は幸せなれるのだろうか?全てが平坦で、そこから少しでも逸脱した人間が、過剰に攻撃されることは平等なのだろうか?
差別の本質は偏見なんだよ。 お前は部落出身だから、悪い奴に違いない。⇒差別 お前は悪いことしてるから、悪い奴に違いない。⇒区別 差別は、善良な人間を悪い奴と間違える可能...
でもホモは病気なのに開き直って治療しようとしない悪い人ですよね
被差別集団の上澄みと出会う機会のある人間にとってはそうだろうよ。 なんでこんな優秀なのが差別されているのかわからない。だから差別をやめる意味だってある。 でも他の人間だと...