はてなキーワード: 名言とは
http://yuma-z.com/blog/2013/05/student_books/ という人のエントリを見て、自分も(学生じゃないけど、)読んで楽しかった本をまとめてみたくなった。
この長い本の紹介を読んで、読んでくれる人や、ほかにおもしろい本を紹介してくれる人が続いてくれたら自分はうれしい。まだ微修正中で、加筆・修正するかもです。
これから紹介する本の順序について、あまり意識していないけれど、なんとなく読んでいる人が多そうな順。下に行くにつれて、読んでいる人が少なくなっていくと(書いている自分は)予測してます。
このエントリで紹介するのは以下の本です。つづきは http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で。
宮部みゆきさんの小説。一人の女性が婚約後にいなくなってしまう。主人公はその女性の捜索を頼まれて、懸命に消息を追う。そして、調べていくうちに、現代資本主義社会の底しれぬ闇が見える――。
とても有名な作品で少し前にテレビドラマにもなったようだ。物語の始まりが冬の寒い時期のせいだろうか、自分は冬の時期に読みたくなる。三日間くらいで読了できるとおもしろさが持続すると思う。
読まれる方は、Wikipediaのあらすじにネタバレの要素があるので注意されたい。Amazonの書評にも、ややバレる要素があるかな。この小説についてはあまり詳細について語ると魅力が半減してしまう気がする。読まれる方はできる限り事前の情報収集を避けて読んでください。
1995年にそれまで350年にわたり証明されなかったフェルマー予想が証明された。そのフェルマー予想をテーマにしたノンフィクション。著者はサイモン・シンさん。翻訳は青木薫さん。
著者のサイモン・シンさんはこの後紹介する「ビッグバン宇宙論」においてもそうだが、説明がとても丁寧だ。わからないことを教えてもらおうとして、わかっている人に聞いたときに下手な比喩でたとえられて、全くわからないという経験をした人は自分以外にも大勢いるだろう。サイモン・シンさんの比喩はわからないという気にならない。なぜなのだろうか。
数学をテーマにした本なので、数学が嫌いな人は手に取ることもないかもしれない。しかし、そういう人もぜひ読んでみてほしい。というのも、この本は数学の「問題そのものを解く」ということが主題ではないから。むしろ数学の問題はどのように生まれるのか、それを解こうとして350年にわたり数学者たちがどのような試行錯誤を続けていったのか、そのもがき苦しんだ歴史の本だからだ。
海外の本はしばしば翻訳調とでもいうべきか、文が堅く読みにくい感じがすることもあるけれど、この本はとても翻訳が丁寧で読みやすい。青木薫さんのすばらしい仕事だ。
自分は単行本(ハードカバー)で読んだ。文庫版だと新しい翻訳者のあとがきなどがついているかもしれない。
ジョージ・オーウェルが書いた小説。ユートピア(物質的・精神的に豊かになる、健康で長生きできるといったような人間の社会が幸せで良い方向に向かう社会)小説の反対、ディストピアを描いた小説。
ここまで暗く描かれるとむしろ読む方の気分は明るくなるような、そんな気にすらさせてくれる小説。ただし、それは読後の感想であって、読んでいる最中は暗いままだけれど。
村上春樹さんの1Q84はもしかしたらこの小説に関連があるのかもしれない。今ググったら、どうやらそうらしい。自分は村上さんの方は読んでいないので何も言えません。(すみません)
この小説が書かれた時期も意味があるし、この小説の中で登場するニュースピークという言語体系の設定は、そもそも言葉とは何なのかを考えるきっかけにもなるだろう。
火車と同じくWikipediaはあまり見ないで読み始めた方がよいだろう。
大崎善生さんの小説。純粋な小説というよりも何割かはノンフィクションかな。
自分は将棋のことは駒の動き方くらいしか知らないのだが、羽生善治さんやほかにも何人かくらいは将棋指し(棋士)の名前を知っている。この棋士の方々は、奨励会という将棋のプロを養成する機関の中で勝ち上がってきた人たちだ。勝ち上がってきた人は晴れて棋士になるわけだが、では、「敗れ去った人たち」はどうしているのだろうか。その人たちをテーマに据えた小説だ。
この小説はけっこうずしりとくる。最初に挙げた宮部みゆきさんの「火車」は小説の範疇ということもあるせいか、なんとなく怖さを感じることはあるが、現実的な切実さ、哀しさまでは感じないかもしれない。この「将棋の子」は、何かを一生懸命やってうまくいかなかった人の哀しさがよくわかるし、そういう体験をしてきた人(あるいは今そういう一生懸命何かに取り組んでいる最中の人)にはこたえるものがある。
ファインマンというアメリカの物理学者の自伝的エッセイ集。著者はリチャード P. ファインマンさん。翻訳は大貫昌子さん。この本もすばらしい翻訳だ。
エッセイ集ということもあって、好きなタイトルから読み始めることができる。エッセイ集なんてつまらんだろう、などと思っている人は読んでみてほしい。物理学者とは思えない言動の数々と、物理学者だからこその言動が少々。そして、その間に驚かされるような洞察が垣間見えるのだ。場合によっては論語みたいな読み方もできるかもしれない。
全般に明るく楽しく描かれているけれど、これは意図的なものだろう。第二次世界大戦のロスアラモス時代には、自分の心にとどめるだけの悲しい出来事も数多くあったのではないか、と自分は想像している。
最後の「カーゴ・カルト・サイエンス」の節はできれば最後に読んでほしい。この節だけは特別だ。物理学がわかれば、もっとファインマンさんのことをよく知ることができるのだろう。それができないのは残念だ。
「プー横丁にたった家」は「くまのプーさん」の続編だ。「くまのプーさん」というと、単なるハチミツが大好きな黄色っぽいクマだと自分は思っていた。そうではなかった。
この本は子供向けの童話だと思われるかもしれないが、読んだことのない大人の方も読んでみてほしい。自分も大人になってから読んだ。著者はA.A. Milne。翻訳は(童話のジャンルでは高名な)石井桃子さん。
プーさんはもともと、著者が自分の息子に聞かせるためのお話だったようだ。こんな話を子供時代に聞かせられたらすごいことだ。
ところどころでプーさんが代弁する著者の考え方は、Amazonのレビューにもかかれているけれど中国の思想家のような、どこか超然としたところがある。このクマがほかの動物たち(と一人の子ども)に向かって話しかける姿が良い。それとプーさんと行動をともにするコブタ(ピグレット)が健気だ。自分は大人になってから読んだせいか、出てくる動物たちの役割に目が向いた。すなわち、物語の筋よりもおのおののキャラクターが人間のどういう面を強調したものなのかを考えてしまいがちだった。子供の頃に読んだならば、もっと無邪気な読み方ができただろうと思う。
サイモン・シン氏の2作目の紹介になる。翻訳も前に紹介した「フェルマーの最終定理」と同じ青木薫さん。(本自体は「フェルマーの最終定理」→「暗号解読」→「代替医療のトリック」(共著)→「ビッグバン宇宙論」、で四冊目だ)
大人になるにつれて、子供の頃に「なぜだろう」「どうしてだろう」と単純に不思議に思えたことへの興味がだんだん薄れていくと思う。すくなくとも自分はそうだった。どうして鳥は飛べるのに人間は飛べないのだろう、なんでお風呂に入ると指がフニャフニュになってしまうのだろう、どうしてテレビは音が聞こえたり絵が見えるのだろう、泥だんごはうまく丸くなってかちかちに固くなることもあるけど、そうでないこともあるのはなぜだろう、カブトムシはかっこいいけど、クモはすこし気味が悪いのはなんでだろう…、などなど。
そういう疑問の中で、人間がずっと追いかけて考えてきた疑問の一つが「この人間が生きている空間はどういうものなのか」だろう。その考え方の歴史をまとめたものがこの本だ。この本をひもとくと、この百年の間に予想もし得ないことが次々に見つかったことがわかる。ビッグバンという言葉はほとんどの人が知っていて、宇宙は一つの点から始まったと言うことは知っているだろう。意外に思えるけれど、今から百年もさかのぼれば、ビッグバンという言葉すらなく、そう考えている人も科学の世界において異端扱いされていた。
宇宙論という非常に大きなテーマを扱っているため、「フェルマーの最終定理」よりも分量があって読むのが大変かもしれない。ただ、自分が読んだ単行本(ハードカバー)には各章にまとめがついていて、おおまかな筋はそこを読めば追えるように配慮されていた(これはうれしい配慮だ。)文庫版のタイトルは「宇宙創成」のようだ。
読み終わったら、ぜひ上巻のカバーと下巻のカバーのそれぞれの色に着目してほしい。
今まで見てきた本を読むとわかるかもしれないが、あまり自分は昔の小説を読むことがなかった。一つには風俗や文化が違いすぎて、いまいちぴんとこないからだろうか。そう思って昔の小説を読むことがほとんど無かったけれど、このモンテクリスト伯はおもしろかった。著者は三銃士でおなじみのアレクサンドル・デュマ。翻訳は竹村猛さん。自分は上に挙げた岩波少年文庫版を読んだ。
復讐劇の代表的な作品だそうだ。「それってネタバレでは?」と思う方もいるかもしれない。そうと知っていてもやっぱり楽しい。引き込まれるようなおもしろさがある。
少し前に「レ・ミゼラブル」が映画になって、そちらの原作も良かった。境遇は何となく似ているのだけれど、「レ・ミゼラブル」が愛の物語なのに対して、モンテ・クリスト伯は純粋に復讐劇だ。その痛快さ。モンテ・クリスト伯の超人的な活躍が楽しい。
自分はまだ一回しか読んでいないせいか、下巻の最後の方のあらすじはうろおぼえになってしまった。もう一度読む楽しみが増えた。今度は岩波文庫版で読もうかな。
森博嗣さんの小説。もともと「まどろみ消去」という短篇集の中に「キシマ先生の静かな生活」という短編があって、それを長編ににしたものだ。
(科学系の)研究者の世界とはどういうものなのかを丹念に追った小説であり、若干の事実が含まれているのかな?と思っている。森博嗣さんは某大学の研究者であった(今では退職されたようだ)人で、その知見がなければ書けない小説だろう。
今Amazonのレビューを見たら、「自分には残酷な小説だった」というレビュー内容もあった。自分は、心情、お察しします、という気持ちだ。ただ、主人公は喜嶋先生と出会えたことは僥倖だったに違いない。この小説の中で登場する喜嶋先生の名言は、本家よりもむしろ心に残る。
北村薫さんが選ぶミステリーを中心とした選集。あるテーマを設定して、そのテーマの中で北村さんが編集者と対談形式でさまざまな物語を紹介していく形式だ。テーマは「リドルストーリー」であったり、「中国の故事」であったり、「賭け事」であったりと様々だ。
編集者との対談は実際の編集者ではなくて、北村さんが頭の中で生み出した架空の「編集者」であるけれど、この対談がとても読んでいて楽しい気持ちにさせてくれる。いろいろな本が紹介されて読みたくなる。そういう罪深い(?)本だ。これを元に幾冊か叢書が組まれた。
その叢書の中で、自分が気に入ったのは「私のノアの箱舟」と「なにもない猫」だ。このシリーズはまだ全部読んでない。だから、気に入ったものは変わるかもしれないし、増えていくだろう。
自分は中国の故事や旧仮名遣いの本は読みづらく感じてしまうので、「真田風雲録」は読めないかもしれないなあ。
海外の人を中心にした伝記シリーズ。主に子供を対象としているためだろうか、シリーズ全体として、文は平易で図や写真を多用している。そう書くとありきたりな伝記に思われるかもしれないが、装丁、ページの中の文と写真の配置の良さが際立つ伝記集だと思う。
全体として、割とマイナーな人も取り上げていたりするし、平和に貢献した人たちを取り上げている点も特徴だろう。気になった人がいたら、その人を読んでみてほしい。
星新一は、多くの人がショートショートと呼ばれる一連の作品群で読んだことのある作家だろう。その人の評伝だ。著者は最相葉月さん。
星新一さんはその作品を読むとところどころに冷徹さが垣間見える。その冷徹さがどこから生まれたのかがわかるだろう。もともと幸せな境遇に生まれ育ったが、途中からどうしようもない災厄に見舞われるからだ。それだけが冷徹さの理由ではないだろう、ほかにもこの本を読めば思い当たる点がいくつかある。それらも書くと紹介としてはやや度が過ぎるのでやめておく。
最後の方で著者は有名な芸能人にもインタビューする機会を得て、実際に星新一さんについて尋ねる。そこも印象に残る。その芸能人はちょうど星新一さんの逆の人生をたどるような状況になっている。
自分はこの評伝を読んで、がぜんショートショートに興味を持つようになった。
SF小説はあまり読んだことがないのだけれど、この小説は良かった。著者はケン・グリムウッドさん。翻訳は杉山高之さん。
SFのよくある設定として、「もし過去に帰ることができるとすれば、その人の人生はどう変化するのだろうか」というものがある。その王道設定を利用して、すばらしい小説になっている。
この小説が書かれた時代は1988年なので、やや風俗や文化の描写が21世紀の現代と比べて現実離れしている点があるけれど、それを差し引いてもすばらしい小説だ。
あまりあらすじをかかない方がよいだろう。http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で紹介する「心地よく秘密めいたところ」と全然違う話なのだけれど、自分には似たものを感じる。
この本は近年読んだ中で最も良かった。
自由への長い道は南アフリカ共和国でアパルトヘイト(人種隔離政策)が撤廃されるまで闘った人々のノンフィクションだ。著者はネルソン・マンデラさん。翻訳は東江一紀さん。
アパルトヘイトという言葉とその意味は何となく知っているけれど、それが具体的にどんなものかを説明できる人は日本の中で多くないのではないかと思う。ネルソン・マンデラさんとその仲間たちは、それをなくそうと政治活動を繰り返す。そしてその度に時の政府の激しい妨害に遭い、その結果そういったグループを作ること自体が違法になり、グループの首謀者たちは収監されてしまう。そこからが圧巻だ。
いかにしてそういう逆境の中で自分の政治信条を保ち続けるか。自分たちの仲間を増やして支持を広げていくか。そして時の権力機構に対して、アパルトヘイトの「非道さ」をアピールし、撤廃にこぎつけるか――。
仲間の反乱分子やスパイへの対処、国際社会へのアピールなど、常人には思いもよらない方法でアパルトヘイト撤廃に向け前進してゆく。ところが、前進したと思ったら後退したりすることが何度も繰り返されるのだ。
この本はネルソン・マンデラさんがアパルトヘイト撤廃後の大統領に選出された直後に出版された本なので、結末に近づくにつれてかなり筆が鈍って、慎重な言い回しが増えていく。現在進行形のことを縷々書くと信用問題になるからだろう。それでもこの本は読んでいて楽しい。
この本を読んだ人は「ネルソン・マンデラ 私自身との対話」もぜひ読んでほしい。自分もまだ途中までしか読んでいないが、より素直なネルソン・マンデラさんの言葉と考え方がわかると思う。(「自由への長い道」についての言及もある。)
ほかにも映画「インビクタス」や、「マンデラとデクラーク」など、映像作品もある。後者の「マンデラとデクラーク」は「自由への長い道」と同じテーマだ。ついでに、youtubeにあった国連の広報映像(日本語訳付き)もリンクしておく。
俺も30代前半であり、ミソジニーをこじらせた経験がある。ミソジニーっていったって、単なる女性恐怖症なのだが、これはミソジニーなのだが、それはおいておくとして、同年代の男も、またミソジニーをこじらせた。その話を効きながら、俺は本田透の『電波男』から7年くらい経つんだな、ということを考えていた。本田透も、ギャグとして「非モテ」といっていたのが、段々と30代が近くなってから、病的な印象を与えるようになって、あの本を書いた、みたいな話をきいた。
女性か、あるいはこじらせていない男子は覚えておくといいのは、30代になってから、急に「非モテをこじらせて暴れる」ということが往々にしてある、ということだ(ちなみに、これを書いた当初は「翁媼」と誤記してしまっていた)。
今となっては殆ど信じられないが、『電波男』に影響されたのかどうかわからないが、はてなで非モテの議論が熱心にかわされていたことがある。非モテを一言で語ることは難しいが、単純に「モテないという"自意識"を抱えている男」くらいのまとめ方でいいと思う。彼らが定形化した「※ただしイケメンに限る」という言葉は、彼らの"実体"とは余りにもかけ離れているように思われた。自分もちょくちょくとオフ会などで顔を出していたが、半分くらいは、少なくともフェミニズムもどきの話を出来るくらいには、インテリだった。実際に、男性学がどうのこうの、という話をしていた。
その後彼らの人生を見てたら、技術者として大成し、一人の「デベロッパー」として注目を浴びるようになった。また、海外で働くのを選ぶものや、あるいは大企業に勤めたり、あるいは定期的に同人雑誌を出したり、単著を出していた。そういえば革非同ってどうなったっけ?まあいいや。とにかく、そいつらは、殆ど非モテの話をしなくなった。なぜなら、それはもはや「センセーショナル」ではなくなったからだし、彼らは非モテを語ることよりもやるべきことが見つかっただけだ。
それは宇野(当時の仮想敵)か宮台か知らないが、当時に言っていた「小さな成熟」なのかもしれない。ある程度、彼らは自分の「自意識」に折り合いを付けて、卒業した。他人がどうあの空間を気持ち悪いと思っていたとはいえ(あとから、そう話をちらほら聞いた)し、実害を出していた。乱暴にまとめるが、結婚に付いて語るだけでフルボッコにされた。しかしあの頃を考えるに、それはイニシエーションだったのかもしれないな、と思う。要するに、自分の自意識とどう折り合いをつけるのか、あるいは、そういう話を通じて、自分が「モテない」という、主観的な意識を相対化していったように思う。
最近になって、比較的「リベラル」だと思われる男子が、30代を超えて「恋愛について全てを諦める」といい始めた。これが魔法使いの意識なのかとは思ったが、それはいい。彼は社会学の教育を受け、そしううて大学院に入り、ポスドクになったわけだが、急にそういう風にいい始めた。非モテはネタだし、リア充は爆発しろ、というのは若人にとってはネタではあるが、だんだんと周囲が結婚し、子供を生むにつれて、「それをやっていない自分と言うのは、世間から見て劣っているのではないか」と思い始めた。社会学を専門にしている人でもそういうことを思うのか、へぇ、とは思ったが、学問的な含蓄と実践というのが結びつかないのは往々にしてあるのは知っている。それは、鈴木謙介のクズさだし、東浩紀が単なる「哲学に詳しい中小企業のおっさん」になってしまったのと一緒だ。それも「小さな成熟」かもしれないが、それはよくわからない。
それはともかくとして、既に若者には「非モテ」より、ただ「2ちゃんねるまとめ」の気の利いた話を聞いたりしているが、彼らからは「自分がモテないという自意識をこじらせることについて」みたいな話をしているのか、というのは気になるところだと思う。だんだんと論客が減って、そこにこだわっているのはシロクマ先生みたいなものだが、宇野の「サークルクラッシュ研究」と似たようなもので、もう「脱非モテ」みたいなもので、それを語ることはない。まあ、東にしろ、宇野にしろ、単純に言ってしまえば「非モテなんて自意識をこじらせたやつは気持ち悪い」と心の底では思っているだろうから、そんな彼らの悩みなんて触れたくもないだろう。
はてな村が大好きな有村悠は未だに「童貞」をダシにしているが、あれも単純に童貞を捨てたら自分の価値が無くなるから、アイデンティティを必至に守っているだけでしかない。彼もまた「女性がエロ漫画なんて書くわけがない!」というのを定期的につぶやいて、ミソジニーをこじらせているっぽいが、もはやあれも芸であって、「自分の欠点を認めたくないが故に、自分の欠点を認めたフリをする」といったものなんだと思う。とはいえ、男性のホモソーシャル(ようするに男性中心で回っている共同体)なんつーのは、ただそいつが「童貞」だからという理由だけで同情して仕事を与えたりする。
ただ思うのは、そういう話題が出来なくなって、結果として「俺がモテない」という自意識について、半年くらい考える機会というのは、自分の恋愛経験を相対化して、消化して、自分がどうするべきか、について方向性を与える機会というのはあったと思う。チャーチルの名言(これも怪しいものだが)としてよく挙げられている「20歳までに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない。20歳を過ぎて左翼に傾倒している者は知能が足りない」という言葉があるが、結局のところ、非モテを続けている人間は、芸風だけになってしまった印象だ。あれだ、童貞.comの人(勝手に検索してくれ)が、なんかロフトプラスワンでイベントをやるたびに女性を食いまくるために、童貞をダシにしていたのと似ている。あとえがちゃんか。えがちゃんという名前を聞くたびに吐き気がする人間は数人知ってるが、彼は上手く企業して、ぼちぼちと受託をこなしているそうで、彼は彼でまた「あがり」になった。
食堂で飯を食っていたところ、慶應大学生らしき学生二人組が隣に座って「俺たち非リアだもんなwwwwあーゼミの発表とか忙しいなー、○○ちゃんノートうつさせてくれねーかな」みたいな感じだ。もしかしたら、そっちのほうが健全なのかもしれない。だって「俺はモテる」というよりは、「俺がモテない」というほうが話題が進むからだ。(前者はただの嫌な奴だが、後者は「なんでーそんなことないのにー」みたいなキャバクラトークになる)
もしかしたら、今の「中途半端に真面目な人間」というか、「真面目系クズ」と呼ばれるような男子は、Facebookか、あるいはTwitterで、5年前と同じことを繰り返しているのかもしれない。これは観測範囲という問題なのだが、あんまりそういう話題をてんで見かけなくなったように思う。最近の流行りはどうやら「意識の高い学生を叩くこと」だが、そこには怨みたいなことはなく、おっさんの説教みたいなことが繰り返されている。俺がよくわからんのは、今のそういう「自意識をこじらせた男子」というのは、何処で話題を深めているのだろうか。それとも、結局これはインテリの遊び事であって、インテリの遊びが、そういう哲学ごっこではなくて、むしろ「売れている作品のマーケティング戦略を分析してわっしょいする」(これをインテリ界隈では「批評」と呼ぶと聞いた。濱野智史の新書はそういう本だって聞いた)ということのほうが楽しいのかも知れない。そりゃそうだ。誰にも頼まれないのに悩むなんてバカがやることだ。
しかし、この手の「リベラルな男子」が自分のミソジニーみたいなものをこじらせたとき、今は何処に行くんだろう?ゲンロンカフェか?まあいいや。こういうことを書きたくなったというだけで、おっさんであり、老害だ。「俺と結婚しろ」と書いて「まってました!」みたいな承認を貰ったほうが、インターネットは楽しくなったというだけだ。むしろそっちのほうが健全なのかもしれない。そういうのを気にするのは、「みうらじゅんは嘘つきだ」という今更の話をただずるずると引きずっているだけなんだろう。
『たとえば、フルマラソンを走ったことある人に、ジョギングしたことすらない人が偉そうに「ランニングとは」てな講釈を垂れることはないのに、結婚に関しては、したことない人が「結婚とは」みたいなものすごい御高説をぶつ場合が多いのはどうしてなんですかね。』って、田中泰延が言ってた。
肯定・共感・感謝・感激・悲哀・哀愁・否定・嫉妬・苦悩・悪阻・呪詛・・・
本当にありがとう。
この一週間、俺の書いた記事に対して着いたコメントは全て読んだ。
田中泰延はあんな事言ってたけど、結婚してない人からの意見はある意味ピュアっつーか理想像っつーか、それはそれで大事なものって感じがしたわけですよ。
また、女性からも『共感した』『初めて理解できた』って意見を頂いてホクホクした。
『全然わかんねーしキモイ』『もっと家庭にコミットしろや!』って意見もごもっともだと思うし、真剣に叱ってくれて嬉しかった。
その中でも、特に心に残った、考えさせられたコメントを、以下にまとめてみた。
ちょっと長いけど、暇な時に目を通してみてくれたら嬉しい。
http://matome.naver.jp/odai/2136920479189073201
http://matome.naver.jp/odai/2136921148591165101
こういう話って、普段なかなか聞くことができないよな。
どんなに酔っ払っていても、恥ずかしい、人には言いたくない部分の話だ。
やっぱり本質的に抵抗感があるところなんだろうな。
でも、すべての人が関係する可能性のある事だよね。
俺の置かれている状態は、あくまで1サンプルでしか無いけど、それでもこれだけ多くの人が共感してくれているということは、決して珍しい状態ではないんだろうなと感じたよ。
俺は、自分の感情が、思考が、行動が正しいのかわからなかった。
そもそも正しい答えなんて無い問いだという事がわかりつつ、それでも他の人の意見を聞いてみたかったんだ。
全てさらけ出すことには抵抗感がすごくあったけど、抑えきれない衝動があった。
思い切って書いてみて、良かった。
俺の小さな声に気付いてくれて、本気でぶつかってくれて、ありがとう。
昨日の夜、嫁さんと二人で話をした。
みっともないけど、顔を真っ赤にしながら、嫁に自分の思いを伝えた。
仕事が辛いこと、
酔うとチンチン立たないこと、
犬を飼うのは勘弁して欲しいこと。
君の両親と会う時間を増やしたいこと。
寂しいこと、
君ともっと話をしたいこと、
君と抱き合いたいこと。
君を本当に幸せにしたいと思っていること。
途中から泣いちゃって自分でも何言っているのかわからなくなったけど、嫁さんは俺の手を握りながら最後まで話を聞いてくれた。
彼女から何か答えが返ってきたわけではないけど、伝えたことで心が軽くなった。
寝るのは別々のベッドだったけどな。
変えられるといいな。
そろそろ仕事に戻らなきゃ。
俺に変わるきっかけを作ってくれた、
スナックの話はいいね!してくれたのに、タイトルに風俗と入っているといいね!してくれないFB民さん、
バズるきっかけを作ってくれたダイノジ大谷さん、@KS_1013さん、@wOsamuさん、
ありがとうございました。
※ちなみに、田中泰延さんとは、全く面識ございません。
おっさんが水商売の店に行く理由 http://anond.hatelabo.jp/20130515153030
おっさんが風俗で何をしているか知っていますか http://anond.hatelabo.jp/20130517180521
以下、拾い物の名言
「韓国戦争から逃げた連中が、祖国統一を口にするのはおかしな話だ。
日本には弾は飛んでこないだろう。僑胞にそんなことを言う資格などない。」
「私は僑胞の連中を信用などしていない。徴兵の義務を負わないくせに韓国人を名乗り、日本の選挙権を求める。馬鹿げていないか。つまりは、いいとこどりではないか。
と、有名な盧武鉉大統領の発言を捏造したコピペが引用されていたので、それはデマだと指摘するコメントをした。
下記は原文のままではないが、だいたいこんな感じのコメント。
実際にはそのような在日蔑視の発言はしていません。
ソース:
http://goodreporthunter.blog.fc2.com/blog-entry-5.html
http://anond.hatelabo.jp/20121207174452
自分の主張の為に捏造を垂れ流すことは、ここで非難している「強制連行」や「従軍慰安婦」の嘘の主張を繰り返して来た朝鮮人と瓜二つで、日本の恥だとは思いませんか?
翌日、記事の訂正はされてるかなと思ってアクセスしてみたら「あなたはブロックされてるので表示できません」と…
「煽るような書き方のコメントだからブロックされたか~ま、しょうがないね」と思いつつ
記事だけでも訂正されてるのかな?とスマホで見てみたら全く訂正されていない。
つまり、無知ゆえにネットのデマに釣られてしまったのではなく、嘘を嘘と分かった上で拡散しているということですね。
愛国が聞いて呆れるね┐(´∀`)┌ヤレヤレ
①
>これはそういうゲームなのです。
ゲームは現実を基礎として可能性や実現度に関して人間の知覚において擬似的に体験させることで快楽を得る嗜好の形態です。
現実がゲームに似ているのではなく、ゲームは現実を基礎として現実の世界において存在できるように作成された商品です。
ゲームが現実の下位クラスであることを認識するには大人になって感覚による知識などを得ることが必要ではないかと想像されます。
現実のルールを基盤にしていないゲームがなにかひとつでもありますか。
たとえば「夢」は現実にはいまのところ存在していませんが、夢と似た構成のゲームがありましたか。
「Aさんに声をかけたらBさんだった。Bさんはカエルで、私は橋を渡ろうとしたら足元が崩れてちがう商店街に移動して、お店で飲み物を買おうとしたらそこは実家だった。実家は農家でまわりに民家はなく。」
みたいなストーリーを自分自身がたった一人体験したという以外の話を、夢という記憶に近い情報を共有できていない現在の段階で聞いたことがありますか。
現実のルールを基にしてはいますがそれをゲームという感覚で共有しようとしている行動自体が「夢みたいなもの」ではないですか。
あなたの夢見た世界を現実にする手段としてはゲームがあると思いますが、世界はオーナーもメーカーもユーザーも無いですよね。
世界を支配しているのは特定個人だ、という「夢」も抱くのは自由です。それをおしゃべりして受け入れられる友達は、社会に出たら数が少なくなっていくのではないでしょうか。
②
>これから数十年後、日本の子供達は公務員の家族の子供がメインになります。
匿名掲示板で自由を謳歌されているようですが、匿名なので個人について意味はありません。どれが僕の文章ですと開示いただいた分だけをまとめとして情報を総合的に得ますがさらに他にも文章があったりまたは他人の文章を項目に加えても判りようがありません。
それを踏まえて匿名の方が特定個人や団体を指摘しても「フィクション作品にでてくる団体が実在しているか、またはそれらを具体的に指摘しているものか」という価値観には疑問を匿名である私個人は抱きます。
もちろん今後それが発生するか、その市場規模はと思い図ることができる情報でないことではあります。歴史上成功例があるから効果があるだろうというのは意味の無い発言ということになります。
では転じて意味のある発言と考える候補とすると「歴史上成功した例を私が実際に取り組み始めます。この結果がでることは自分は確信しております。」ということになります。
実行すること自体にのみ「意味」という他人の評価を得る結果を生成します。
行動すれば結果はでる、だがしないまたは行動しても結果は目に見えているという情報そのものはその時点で情報としての役割を終えている末端消費商材ですので、情報を得た時点で取引が終了しているものと同等の価値、転売時にどれほどの価値になるであろうかと考えます。
特定の業界を席捲した成功者がいかにして市場の全てを掌握できたかという伝記本を情報として販売したとしても、その業界にはもう他者の立ち入る隙は無いという裏づけ情報を手に入れてもその市場に入るための手段に自身の研究として使う以外、転売したりするときに本の値段以上の価値が発生するものでしょうか。
これからの時代、これがメインになる、これが大多数になるであろう、こういう流れになる、はどの業界のどの部分がどういう方向になるのか、ただ大きなタイトルをもってきて「こうなる」というのでは「大きな船は遠くまで旅ができる、しかし小さな港につけることはできない」といったなにやらすごい発言のようですが実際の船を所有するオーナーはそんな名言を教えていただかなくてもわかっている話で実際そういった条件を前提に行動をされていくことと思います。
この文章をはじめ、なにがどうなるというのを行動もせず発言すること批評すること、批評について賛同者に実行者を含めない場合または評論自体が感覚として自身が認識したことを羅列するだけでは「自分の感覚を自己紹介しているだけ」ということになります。
自己紹介自体には自己という存在を相手に知らしめることとして十分な意味がありますが、匿名である状態での自己紹介にはなんら意味はありません。
②が文章の大半を占めるので、お伝えしたい内容のほとんどになりますが最後に
日本、世代、現実、経験、理論などはご感想に述べられていることについてご自身と、お話をされていることとに一切関係がありません。
世界のなにがどうなっても、いつもどおりの仕事をしていつもどおりのお給料をもらって、いつもの買い物にいったらいつもと違っていてショック、ということになるかと思いますがご自身には変化が一切なく供給されるものについての変化にご自身が感想を抱くだけで、それはご自身単体の感想です。
「世界が変わったのにみんな何にも思わないのかよ俺だけが世界の異変に気付いているのかよ」とかフィクション作品にまみれているという雰囲気がまた未成熟さを感じさせるのだと思いますが、大人になればそこまでピュアな心を維持できません。
他の方がとくに顔色を変えずに消費税が割り増しされた商品を買っていく様子をみて「社会がおかしい」とかよりも自分の家計と会社の残業時間を鑑みることなどを一例にしたいと思います。
自分の残業時間で生産された商品が流通市場の何割り増しになってコストをいくら下げて売上がどれほどあがってそこからの納税分で社会サービスがいくら向上して社会がよくなるとか、考えなくても日々の業務を懸命にすることで成果はでるはずなので考慮する必要も意味もありません。
そのうえで労働と対価と社会性についてご自身の環境を疑問に思うことがあれば、発言の方向性はまたちがったものになるのではないかとおもうところから「社会生活が充分ではないのではないか」という感想を受けることになるのではないでしょうか。
総理がバカで右翼で経済が滞って日本人の意識が低くて戦犯で商品のレベルが下がった、とそういう見識をお持ちだとお話をされてなにがどうなるのですか。
だれが、どうするのですか。
ご自身が満足する以外に、ご自身が満足するためだけに自分のストーリーを人に「そうだね」といわせしめんとしている以外が、なにか文中に存在していましたか?
教育現場では「うんそうだね」とは言われなくても実際に今後行動する指針や論理の基盤としての知識をできるだけ記憶の引き出し上部にもってこようと繰り返し伝達したり、行政は「うんそうだね」という書き込みだけではなく実際に生産、消費、成長を促すことを紙切れに書いた文字や電子の塵にしないように印紙をはりつけて価値のある物質として約束を物質化したり発言を物質化したりしていますが、末端で消費する個人は自身の時間や身体能力などを消費して自分自身を切り売りしなくてもよい備蓄を得て、それを交換に他人の生産物と交換していますが、ご自身は消費するだけで他人から金銭を必要とするような生産、再利用性や価値を文中のどこに含まれていたかを考えて、「無料で匿名なのに再利用価値がある情報だ」という評価を一人の対話者から得ていることで「一人からは義務教育以下の消費行動である」と認識されている可能性があります。
世界に問題があふれているなら、解決してください
それをしている大人がわるい、というならだれが悪いのか、だれと話をしてどういう方向にすすめれば問題は解決するのか、個人名または団体に発言者ご自身が依頼できる数の案件を挙げてみてください。
たとえば、日本は最低でなんの価値もなくて失敗ばかり、なら日本以外の成功している国に移住してください。
移住できない理由について、移住を許可しない人間の名前と、移住を許可するための条件を教えてください。
移住先が見つけられないのであれば、日本よりよい国の条件を挙げてみてください。
また日本をよくするのであれば、誰がどうするかという意見はもちろん重要ですが、その人たちを動かすための方法とコスト回収方法を教えてください。
それらを解決しましょう。
移住したいがお金がない、とかあるかもしれませんがそれならお金を稼いでください。
どうやったらお金がかせげるか、それをご自身で考えるのは大人であれば必要だと思いますし、しろといわれたことをするのであればご自身の生活を24時間ソーシャルメディアで流せばいいのではないかと私は意見します。人にいわれたことに隷属しねぇ、とか言われるのでしたらご自身で考えてください。ご自身でお金の稼ぎ方が思いつかないのであれば、それがご自身の「国内での価値」なのだと思います。
「そういうのはわかんないんだけど、雰囲気として自由じゃないなーってゆうか、なんかもっとでかいことしたいし。俺を満足させられない世間って、俺さえも満足させられるようにするってことが社会じゃない?」
とか、権利は主張して責任、責任といっても「なにかしろ」という命令ではなく「自身に対する入金先の明示と、交換する有価物の項目を明示する」ことを責任と称しその責任を放棄している状態を「中学生みたい」と言われているのではないでしょうか。
買えもしない車の乗り心地を評論したり、いやなら出て行ける店に居続けて文句をいったり、こうするともっとよくなるという意見について実行内容に一切加担する要素がない状態のことを「きみのその行動をもし実際に行うとしたら、君ではできないので他に代理として行う人がいるのか」という状態を保護者つきという状態と表しているのではないでしょうか。
大人さんの方でしたら「税金、おさめてるし」以外の社会参画とご自身で取り組める改革についてご意見を発してみてはどうでしょう。
子供の方でも税金は納めてらっしゃいます。もちろん保護者の方のお財布から。
保護者の管轄化にあることが「子供」と評価される基準で年齢や容姿ももちろん含みますが「親に生活を維持してもらっている状態」を何歳になっても「子供」だと評価されることもあると思います。
子供である場合は「保護者の生活がよくなりますように」といった意見の出し方が理想的という基準からも「子供」と揶揄するにあたって、評価者の見解から小学生やら中学生などといった表現をすることがあるかもしれません。
仕事もお金もなくても、デモには参加するとかいう人も、いると思います。
行動だけじゃない、言葉にも意味がある、というのであれば公証人役場にいって印紙を貼るべきです。
有料サービスのWebメディアを使うことでも、それなりに価値はあるのではないかとも、思います。
この「私個人」という匿名の相手に対して一言一句、ご自身の感想を述べるのはご勘弁いただければと思います。匿名の私とあなたがなにをどう交流してもお互いにも閲覧される状態にも何も意味がありません。
私自身も、匿名のアノニマスダイアリーという日記をつかって自分の文字を自分のために書いただけであって、お返事を全文引用されて書かれても拝見できませんしお返事も差し上げることができないと思います。
もし返事をされても匿名ですので、返事を「送った相手からの反応」という事実としてお返しすることができません。
もちろん「私はこの文章があなたのものだと確証しているので、こう書いた」と「日記」に「自分の思い」を書かれるのはご自由です。
重ねて「そんなことはない、俺は大人だ。」という主張をする方法として挙げたいのは「ご自身の社会参画と憂思する案件に対するご自身の取り組みの紹介」を用いるで、指摘された「存在理由をビーコンのように発するのは出席簿に返事をする学生みたいなもの、哲学的にハイと返事しようが理化学的にハイと返事しようが大人は子供の夢想をにっこりわらって処理するだけ」を回避できるのではないかと、私は思います。
人に見せたりしない日記に、誰かや何かに対して、どうしたほうがいいとか、書いたりしたこと、ありますか。
匿名の日記が「日記」であることは、ご自身のためだけに記録する媒体であることを意味するにちょうどよいタイトルなのではないかと感じています。
アノニマスダイアリー自体に閲覧数が多いからそこに便乗して自己を個人として紹介していっても、だれにも見せない日記に本当の俺はちがうんだといくら書いてもというそれに似ていませんか。
世界を変えるにはまず自分から、その自分のために自分以外の書き込みもある日記という存在はなんだか有効に活用できそうではないかと、私は感想を持っています。
過去の輝かしい実績についてはこちら参照。
そのかっこいいigiさん、最近はてなについての言及が多いんだけど
https://twitter.com/igi/status/328537144320749568
最近ちょいちょい出てきてたからなんとなく今後のはてな界隈について予想として新たに思うことが出来て。限界集落的になって団塊Jr.世代の再生産限界地点に到達しているのが今なワケだけど(だから増田がああなる)、数年後は中年化として何かに対するエネルギーの出力が下がるだろうなとは読んでる
https://twitter.com/igi/status/305125534726225920
ブコメとか文章の中に「ネオテニー」って単語があるかなーと思って待ってたんだけど、待てど暮らせど出てこず。お前ら不勉強すぎだ。他にも「ニューエイジ思想」とかはてな村大好きそうなのにあんま出てこねーし(ブツブツ
https://twitter.com/igi/statuses/317620213560512512
増田はいい線いってるけど、75点止まりなんで、分析は出来ても解法にまでたどり着けてないから、また同じ事を繰り返すんだろうなってのは容易に予想出来るんであって。オタク的なナルシズムとエゴでいけばそりゃそのあたりがおそらく限界だろうと。
一部取り上げたけど、まあいっつもはてながどうのとか増田がどうのみたいなこと言ってる。
site:twitter.com/igi はてな - Google 検索
はてなで言えばいいのに。
怖いの?
ていうかこんなの見つけた
https://twitter.com/igi/status/322142425898430464
増田に書こうかと思ったが週末事務所ぶっこまれると多分めんどっちくなってやんねー気がする。というかそもそも宣言するとやらない率が跳ね上がるのでエッセンスだけ抜くか。
増田に書こっかなー|д゚)チラッ|д゚)チラッ
何がしたいの
また言ってる
最近ニコニコのブロマガで海燕氏が非常に注目されているのだけれど、自分も海燕氏をきっかけにブロマガのチェックを始めた一人だ。
やはり子供が多いのかくだらない記事を書く筆者も多いのだけれど、そんな中で良い記事を書く人を発見。
「子供好き」というフレーズを使いにくくなった昨今だけれど、これほど「子供好き」というフレーズにぴったりな人はあまり居ない。
鍛造氏の記事を色々読んでいると子供を応援したり、子供に何かを作らせようとする記事がかなり多い。
心にグッと来るようなフレーズを吐くことも結構ある。今回の記事であれば次のようなものだ。
この記事では海燕氏が光属性・闇属性で語る部分を、鍛造氏は光も闇も人間は持っていて光れないのは自分がつまらないからだと言ってる感じだ。
彼は何をしに川崎に行ったのだろうか?
2ページ目の7コマ目で五郎は「大仕事はこれからだっていうのに、元気つけなきゃ」と発言している。
ということは何かの取引だろうか?
だが仮にも客商売である。これから客と会うというのに焼肉をそれも腹いっぱい食べるというのは少々考えにくい。
スーツから焼肉臭をプンプン漂わせたオッサンが素敵なヴェネチアグラスを売りに来たら?
ハンバーグ屋の店主でなくとも間違いなくアームロック騒ぎになるだろう。
ではプライベートだろうか?
最終ページの5コマ目で五郎は堀之内のソープ街に触れた発言をしている。
ということは彼の言う『大仕事』とやらは風俗の隠喩なのだろうか?
しかしこれはこれで疑問だ。今から女性と接するという時に焼肉を食べるとはナンセンスにも程がある。
これから一発勝負をするという時に腹を膨らませて感覚を鈍麻させるなど愚の骨頂。
直前の食事は軽めにして体調を万全に整えてから事に臨み、戦いを終えた心地良い疲労感の中で食事を楽しんでこそ真のグルメと言えよう。
ありふれた日常の中にも詩的情緒を求めて止まない彼がその程度のことも理解していないはずは無い。
謎は解けないのである。
手垢にまみれて真面目に使うのが馬鹿らしいワードになってしまったけれども。
いや、違うか。古今東西、真面目に使っていた人なんていないか。多分。
今さら語るのも憚られるけどさ、あれが常套句とされたってのは真理があったからだろ。
まあ「結局のところ見た目が大事なんだろ」っていう感じかね。雰囲気的に。
いや、分かるよ。見た目を重要視する女性への皮肉以外に、選ばれない人間の自虐とかも含まれているんだろう。俺だってマジで言っているわけじゃない。
このワードって、「見た目で選ぶ人は愚か者」という認識が今でもメジャーだから使われているわけっしょ。価値観の多様性が認知されていながら、「見た目より性格」っていう考えが今なお根強い。
野暮なことを言わせて頂くね。
「見た目だけ」で選ぶならそうかもしれないが、それが選ぶ要素として愚かしいわけではないわな。
少なくとも優劣はないっしょ。
様々な要素を照らし合わして総合的に決めるべきってのが、とりあえずの優等生的な回答だと思います。
あと、「選ばれる側」と「選ぶ側」両方の側面があるだろ、とか云々。
いや、そんなこと分かった上でネタとして言っているんだろうから、やっぱり野暮だったな。
何かゴメン。
でさ、一緒に焼酎でもかっくらって聞いて欲しい程度の話なんだけどさ、なんなら納得する?
選ばれると思うわけ? お前ら。
俺が選ぶわけじゃないし、お前らのことは何も分からないけれど、何となく無理だと思うなあ。
まあ、見た目で選ぶよりは、分があるかもしれないって思える余地はあるか。
状況にもよるだろうけれど、そういうの置いておいて、どう?
ゴメン。予想以上につまらない話だったな。
何にしろ、傾向としては「見た目より性格、でも見た目が大事」で世間は揺るがないわけだし。
少なくとも、その間は「ただしイケメンに限る」という言葉は使える。
ルックスのいい人たちを冷やかせるし、自身の言い訳にもできる便利な言葉だ。
http://anond.hatelabo.jp/20130405093236
ナンセンスに茶化そうかと思ったけれど、一度書いてみてさすがにアレだったんでやめた。
いや、ゴメン。お前さんの幻覚だとかじゃなく、実際に、本当に、そんな背景があってその言葉が生まれたなんなら。俺の認識が甘かったわ。考えが浅かったわ。スマン。
皆がそこまでの重い理由を抱えて、「ただしイケメンに限る」という言葉を噛みしめて使っていただなんて知らなかった。
「当然」とまで言えるかは俺には分からんが、軽々しく使っているわけではなかったのは分かった。
もう15年も昔に卒業した大学に卒業証書を貰う事になった。戯れに偏差値を調べてみたら40だった。
15年前の偏差値を知るよしも無いが、当時から3流大学だった事は間違い無いし、それでも大学は非常に楽しかった。
ふと、もしかしたら高校生や浪人生で偏差値40の大学に入学する事に不安を抱いている人もいるかもしれないと思い、ここに吐き出してみる事にした。
いい大学へ入りなさい。いい会社に入りなさい。安定した仕事をしなさい。親が公務員だった事から常日頃からそう言われて育てられた結果、小学校から成績は低空飛行を続け、高校では県下で下から数えた方がいい3流高校へ入学。そのまま推薦で3流大学へ入学という底辺コースをひた走った。
努力無く見栄えだけは整えようと、部活や生徒会の役職をこなしながら教科書の代わりに小説や漫画を読み、寝食を忘れてゲームにのめり込んだ。というのが僕の小中高だった。
当然学校の勉強なんてついて行けるわけが無く、中学時代は教科書が記号に見えたし、英語なんて未だに主語と動詞も理解していない。
それでも高校も3流だった事が功を奏し、比較優位の問題で成績は悪くなく、小論文と面接で大学は受かった。第二次ベビーブームの終焉による学生不足という学校側の都合もあったと思う。
もちろん、私立、文系、低偏差値、別居という4重苦に対して多大なる投資をしてもらった親があってこその入学だった。
入学して最初に感じた事は、大学は人種のるつぼだったという事だ。政令指定都市の3流私立なんて、政令指定都市のご子息が集まるはずもなく、僕の様な「はぐれ者」が全国から集まる事になる。
いきおい、出身もバラバラ、年齢もバラバラ、バックグラウンドとしての知識もバラバラなやつらに囲まれる事になる。それだけでも相当面白い。
また、皆一人暮らしな事から寄り集まる事も多く、各地の料理や故郷観とも言うべき価値観などもゆるやかに共有していくコミュニティが作られる事になる。
その政令指定都市の中でも15くらい偏差値の高い大学に在籍した妻の話を聞くと、周りは政令指定都市のご子息だらけで、実家または遠くても近県出身が多かったとの事なので、これは偏差値というより立地と偏差値がパラメーターになってバリエーションが変わってくる様だが、多様な価値観を知る事ができ、感じる事ができるというのはどこの大学にも共通した価値だと思う。
曰く「社会に出てからの仲間には必ず損得勘定が働く。君たちは損得勘定抜きでつきあえる最後の仲間だ。大切にしろ。」
おぼろげながら社会の厳しさを想像していた僕には、目から鱗な一言だったが、今でも確かに一理ある。と思う。
低偏差値大学であればあるほど、なんというか社会に出てからのバリエーションが豊富(?)なため、価値観にも違いが出てきて、仕事の話や生活の話はしにくくなるが、今でも合えば当時に戻って文字通り損得抜きで話ができる大切な仲間ができたというのは財産だ。
逆に偏差値の高い大学に入るメリットも、まさにここだろう。低偏差値の場合は損得抜きの仲間を作れるが、偏差値が高いと損得有りな関係を構築する事が可能だ。
今後いつまでこの状況が続くかわからないが、就職というのが卒業生大多数の選択肢となる現代日本においては、偏差値の高い人達は価値観が似通う仕事をしている割合が多いようにみえる。
結果、社会に出てからも有用なお付き合いができる仲間が持てる。という事になる。正直これはうらやましい。
研究内容や就職しやすさなんてのは些細な話で、この一点においてのみ、僕は高偏差値大学がうらやましいなと思う。これが必要だと思う人は頑張って勉強して偏差値の高い大学に入って下さい。
ただし、これは低偏差値出身でも高偏差値の人達と付き合ってると、次第に増えてくるものなので、何が何でも学生時代に得なきゃいかん!というわけでは無い。ちょっと座布団ひいて社会人生活をスタートできる。という程度の話だ。
大学に入ると教授という生き物が居る。低偏差値大学は、この大学教授の距離が異様に近い。
これは卒業して他校の話を聞いてはじめて知ったが、低偏差値大学の教授はある種学生に諦めにも似た境地を持って接しているため、権威誇示などという無駄な事に労力を使わない。
普通に研究室へ行けば居る人という近所のおじさん感覚で教授と会話できるのは、低偏差値大学ならではのメリットだろう。
低偏差値大学は遊びに来ている学生も多い事から、少し普通に学生ぶってみるだけで、その道の専門家の豊富な知識と多様な人脈が面白い位簡単に手に入る様になる。
これは有形無形の様々な価値を僕にもたらしてくれた。当時の研究内容は教授の助けもあってそれなりに面白いテーマにできたし、それは社会に出てからも自分の専門領域として高偏差値出身の人達との目線併せという意味で一役買ってくれている。
また、師事した教授の人脈で直接師事していない教授を知り、そのつてが就職にも有利に働いた。
何よりも「答えの暗記」ではなく「問題を考える」という事に慣れる事ができた事は大きい。今にして思えば、なんで高校までは考える事を教えないんだろう??実は聞いてなかっただけで教えていたのかな。
ほんの少し吐き出そうと思ってたら、意外と長くなってしまった。もう一回要点だけまとめてみる。
文系でも私立で一人暮らしとなったら、余裕でレクサスを買える位の金を払って大学に行く事になる。それなら、十二分に喰い物にしてやろう。という気持ちで臨めば、低偏差値大学には低偏差値大学なりの得られるメリットはあるので、前向きな気持ちで入学してください。新入学おめでとう。
あくまでもあれは瞬間最大風速的な絶望
どうでもいい人なら何を言われてもダメージ低いけど
好きな人、身近な人にあんな感じでネチられ失望され見下されると流石に辛い
「どうして○○しないの(ニヤニヤ)」「どうして○○しないの(ションボリ)」
「○○すればいい」と切り捨てて忘れるような人は恵まれてるから「○○できない人もいる」
ことに思い当たらない
一つ「普通」の基準に近づけても、また別の「普通」で無い事を探されていじられる
その繰り返し善意の「○○すればいい」「名言」で解決することなら増田に書く必要は無い
生きてる限りは出口の無い嘆きもこの世にはある
いじってくる人が怖い 憎い
増田もどこかで「普通」を振りかざして誰かを過去にも傷つけてきたのだろう
それは過去も今も未来も生きてる限り連鎖する地獄 人の業 生きててすみません 生まれてきてごめんなさい
あがいてもあがいても平均値に達せません
だから何を言われても耐えなければ「すみません」と「土下座ストラップ」を握り締めながらいう
他人のいう事など気にしなければ良いという人達は「普通」と扱われない事の怖さがその身で分かってない
「普通」でなければdisってもいいと集団が認識すれば何を言われても暴力を奮われても世間には黙殺される
たまにはニュースにはなるけど、「普通」でない人に原因があると言われる 嘆きは打ち据えられ かき消される
面倒臭いから 救いようが無いから 「○○すればいい」と切り捨てて忘れられる
ってこういう日記が書きたかったわけじゃなくてキンドル日記が書きたかったのでここからはいきなりキンドル日記
MP3ミュージック ストアで洋楽やニューリリースを時々チェックしてたら昨日「ゲスの極み乙女。」という気になるグループ名に惹かれて
試聴ボタン押して聴いた「ぶらっくパレード」という曲を200円で買ったらビビビッと歌詞が脳に来たので悩みも一時的に麻痺した
歌は人を癒す
やっぱり新曲はすぐにMP3ストアに出してくれると嬉しい
キンドルのMP3ミュージックはオルゴールやカラオケやカバー曲が多すぎて新曲があまりないけど、新曲をMP3ミュージックに載せてくれる
人が増えてくれると嬉しい そろそろ一日の食費とMP3代稼ぐ為に1480円の仕事しに出かけてくる
人はご飯だけでは生きていけない 魂にも栄養が必要なのではてブや歌も必要なんです
昨日は久しぶりに栄養が摂れたのでしばらくは元気でいれそうです ありがとう
藤原正彦。
内田樹。
ここ数年くらい「とりあえず一躍脚光を浴びた」感のある人間を見てきたけど、
この3人だけは「なんだかなあ」という感じでいつも見ていた。
一躍脚光を浴びたけど、いつの間にかフェードアウトしてった藤原先生と内田先生。
そして、なんか読者の失笑を一身に浴びつつ、フェードアウトしつつあるイケハヤ師。
本についてはもう色んなところから突っ込みを受けた挙句、気付いたら保守の論客みたいな感じで持ちあげられたのはいいけど、
あの人今どうしてんだろうみたいな感じの人。
品格本以降、全ての段落に突っ込みどころを搭載したクラスター爆弾を投下してくれていた。
たぶん割と高位の老害。
内田樹。代表作はたぶん「ハシズムを許すな」だと思われる。自称思想家兼武道家の本業翻訳家兼実業家。チラシの人や精神科医のお友達。
橋下選挙のときにちょこっと出てきて喧嘩を売ってきたけど土俵に出てこないままフェードアウトした感がある元大学教授。
やまもといちろう曰く、「専門から外れた物事でゴミすぎる論説をしては物笑いの種にされる」
池田信夫曰く、「彼の頭が悪いのはしょうがないが、せめて知らないことには口を出さないほうがいい」
深沢明人曰く、「現実に立脚した話ではなく、何か気の利いたこと、一風変わったことを口にして、商品にしてやろうというだけ」
そして我等がイケハヤ師である。
最早説明不要な感じになってきてるが、最近の尊師のエントリーがびっくりするほど酷い。
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アンチのみなさん、今日もせっせとありがとうございます - ihayato.書店 | ihayato.書店
どのくらい酷いかというと、顔を真っ赤にしながら自転車操業やってんだけど肝心の自転車は1ナノも進んでいない。
そんな感じである。
とりあえずこの2つのエントリーの間のブクマ数を調べてみた。(2月25日時点)
アンチのみなさん、今日もせっせとありがとうございます - ihayato.書店 | ihayato.書店 182
安易な謝罪がモンスター消費者を助長させる - ihayato.書店 | ihayato.書店 5
(本)村上隆「芸術闘争論」 - ihayato.書店 | ihayato.書店 1
「一流の人は、みんな異常」—デザイナー・山本寛斎名言まとめ - ihayato.書店 | ihayato.書店 41
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もうめんどいので調べるのをやめますが、炎上系エントリーを挟んだエントリーがあんまりブックマークを稼げていない。
というか、炎上系エントリーと、それ以外のエントリーの落差が酷すぎる。
「プロブロガー」なのに大丈夫なんだろうか。本来このあたりのエントリーでPVなりアフィ収入なり稼がないといけない筈なのに。
これで月収なのか売上なのかよく分からないけど月間52万(以上)稼ごうというのだろうか。
やまもといちろうとのブログでのやりとりのほうが圧倒的に面白かったし、
現在進行形でイケハヤ師の株価がどんどん下落、というか暴落していっているので、
対談をやる頃にはもうイケハヤ師自身が賞味期限切れになってフェードアウトしている可能性大である。
フェードアウトしていった2名と、これからフェードアウトしていくであろうイケハヤ師、
この一連のサイクル、特に3において主張されるものが過激であればあるほど、炎上すればするほど、有名になる。
一部の人間に尻尾を振りまいている内容ならなおよい。(保守、反TPP、脱原発、脱貨幣経済など)
しかし毎回違った燃料が投下され続けなければ周りからは飽きられてしまう。
なおかつ1(専門知識がないこと)が露見しないように注意しなければならない。簡単なように見えて実は結構難しい事なのだ。
FUJIWARA先生と、内田先生は、専門知識がないことが露呈してしまったために、フェードアウトしてしまった。
今、イケハヤ尊師も、周りの失笑を買いながら、専門知識が皆無なことを露呈している。
彼らの言論に共通しているのは、「賛否両論ではなく、ただの間違い探しである」ことだ。
間違い探しになりはじめたら、もう終わりだと思う。
駅前で宇都宮候補の運動員がビラを配っていた。曰く「子供を守れ!脱原発!」
もらったビラに目を通すと「瓦礫広域処理凍結」と書いてあった。思わず目を疑った。どこぞの泡沫候補でなく、リベラル派の統一候補が、まさかこのようなトンデモ公約を掲げるとは!
はっきり言って、この一言だけで「地獄に堕ちろ」と言われて仕方がないものである。こんな公約は撤回するしかない。でなければ「アスベスト吸って死ね」と躊躇なく言うだろう。
瓦礫広域処理の危険性がデマであることは論ずるまでもない。福島県の一部地域を除けば東京都の一部地域の方が被災地よりよほどCs134, Cs137の沈着量は高く、たとえば福島第一原発からほど近い広野町・楢葉町・南相馬市あたりの一部地域と、葛飾区あたり一部地域のCs137沈着量はほぼ同程度だ。つまり、都内のゴミを処理できるのなら、少なくとも福島県の一部地域を除く地域の瓦礫を処理するのに反対する理由はどこにもない。でなければ、都内のゴミ処理にも反対しなければ筋が通らない。
他方、瓦礫処理というのは人道問題でさえある。アスベストその他の汚染物質が処理されぬままに瓦礫の中には残存している。「子供を守れ」というのであれば何よりもまずこちらを処理しなければならないはずだ。大阪の印刷工場の胆管ガンの事件で誰もがわかったと思うが、「放射能」より恐ろしい危険物質はいくらでもあるし、アスベストなどはその筆頭だろう。
というか、阪神大震災のときに被災地に住んでいた「子供」だった私は、当時誰からも「子供を守れ」という声が上がらなかったことを覚えているので、今回の首都圏の人間の「子供を守れ」にはただただ軽蔑しか感じない次第である。
阪神大震災と言えば、なぜか瓦礫を広域処理しなかったというデマが流れている。だがこれは嘘だ。
「阪神淡路大震災でも広域処理が行われました。あのときは神戸が一番大きな被害を受けたのですが、あそこは港湾エリアだったため、そもそも土地がたくさんありました。それに加えて大阪湾には、大阪湾周辺の自治体が廃棄物を処分する大阪湾フェニックスセンターという大きな処分場がありました。まず、そういったところに港湾地域の廃棄物を移動させ、そこで分けたがれきをフェニックスセンターで処分した。阪神淡路大震災のがれき全体でいうと14パーセントは被害を受けた市町村以外の県外で処分をされたという実績があります」(同氏)
つまり、どういうわけかわからないが阪神はよくて東北はダメ、なのだ。何が気にくわないのか理解できないが、とにかく被災地差別であることは間違いない。
思えば、東京の人間は2011年3月には買いだめに走ったりと「被災者ごっこ」に走っていた。あれはいわゆるsurvivers' guiltだったのだと思うが、その反動で今は被災地と自分たちの切断操作に走っているのだと思われる。
ちなみに、運動員に瓦礫反対の理由を問いただしたところ、「瓦礫は産廃扱いなのに産廃以外の施設でやろうとしているから」だそうだ。だが、それならば産廃処理の施設でやればいいだけの話であるし、そんな技術論を都知事選の争点にすることもあるまい。これも真っ赤な嘘であるといえよう。
以上のことから容易にわかるように、宇都宮候補の公約は人権派弁護士が聞いて呆れる、人権無視の非人道的なものである。
知性と誠実さとナチスであることのうち少なくとも1つは成り立たない、という名言があるが、瓦礫反対についても同じことがいえる。そして「人権派」を売り物にする公人の立場でありながらこのような悪質なヘイトスピーチをがなりたてる宇都宮候補が一番欠いているのは「良心」であることは間違いない。
遠からず東京は大地震に襲われることになる。そのとき、東北は確実に東京の瓦礫処理を拒むだろう。結果、東京はいつまでも瓦礫が横たわり、有害な粉塵が飛び交う無惨な街となることだろう。宇都宮候補やその支持者は、そのときこそ己の罪業を思い知ることになるに違いない。
ほむらちゃん…私、群馬の出戻り大学生(元)で結局実家に戻り農業をしてて、
金髪幼女が大好きなのに日曜日は休日ではなく幼女変身魔法少女アニメをリアルタイムで見れないでいて、
アニメの名言をちょこっと改変してなにか言った気になったりするような人にはなりたくない
追記:
ごめんなさい。言ってることとやってることが違うと思うかもしれませんが、disる気は全くありませんでした。気を悪くしたのなら申し訳ないです。
凡庸と天才ってよく対置されるじゃん?でも凡庸の反対はあくまで非凡。天才の反対は凡人。まったく別ベクトルなんだよね。凡庸な天才だって非凡な凡人だっているのだ。
芸術家は非凡な凡人が多い。凡庸な天才は勉強が全国上位レベルに出来る、でもそれだけってタイプっていう。
別に勉強じゃなくていい。仕事や勉強や趣味が異様なまでにさらっとこなせる。でも特別な(singular)ことは何もできない。凡事を非凡にこなせるってタイプの非凡人。
対して非凡な天才は非凡なことをこなせる。そういったタイプの人間が時代を変える。なぜか?凡事は代わりがいくらでもいるから。
全国100位レベルといったって日本に100人はいる。世界なら何千人といる。時が熟せば誰かがやる。単なる時間の問題なんだ。
往々にして我々はこう考えがちだ。すなわち、「難しいことを分かりやすくシンプルに説明できるのが天才」と。 いかがだろう?
先日、カントのような哲学書は小難しく言って気取りたいだけに見える、と聞いてぶったまげたよw
でも分かりやすく言うのって、凡事を非凡にこなすことの典型だよな。たとえるなら日本式のエリート官僚の仕事。代わりは沢山いるっていう。
名言でもそう。月並みな内容だけど、的確簡潔であるがために評価されるってタイプの名言、これは実につまらない。似たようなのが沢山あって、知れ渡り、使い古されているっていう。
知れ渡っているので、「名言なんてどれも当たり前のこと言ってるだけじゃん」とか言い出すヤツもいるw ちげーよっていう。
マンネリな目で見るからマンネリに見える。そして非凡なことを新たに周知されても評価できない。特異な新発見を周知する名言をスゴイと思った経験が一度もないのかっていう。でっていう。
しかしまあ、非凡=特異なことを分かりやすく言う、これは特異な天才性だな? そうだな?分かりやすく言うだけならサルでもできる。サルのような天才とハサミは使いようだけど。
新人社員にありがちなマニュアル指向。すぐに簡単な答えを欲しがる。自分で見つけようとしない。これは今大問題なんだぜ?
あいつら異様に分かりやすさを求める。そのくせ向上心あるヤツもいるんだよな?滑稽な光景。 簡単で分かりやすい方法があるならとっくに知られてますがなっていう。株式投資といっしょ。
ならば凡人でも良いから非凡なことをしようって話になるんだべさ。エッサホイサ。エイコサペンタエン酸。
ロングテール(笑)なんて言葉持ち出すまでもなくオンリーワンは馬鹿にならんよイマドキ。分かりやすいものはあっちゅうまに知られて、お得感なくなるもの。ライバルより先に情報入手しても大して差がつかずうま味ナッシン。
自分で非凡なことできない人はどうすればいい?見つければいいんだよ。分かりにくいものの中に宝石があるってこったい大腿骨体。
増田名物「ニートおじさん」のひそみに倣えないとすると、ヲチが薄れたところで炎上させられている人のちょっと良い所探して
大事なのは炎上よりも「ターゲットにされた人をネットやオフラインで孤立させないこと」
「アクセルワールド」で例えるならバーストポイントを全て奪い尽くさせないことが重要
「炎上」って拡散を流す側よりも情報を受け取る側のリテラシーが問われる問題
ネットで有名になる人には7人くらいのアンチができるけど、炎上の時はたった7人ではなく「深淵に潜む最悪の7人」と思っておいたほうがいい
一人目:炎上を目論む人
三人目:Togetherにまとめる人や有名まとめサイトの人、自称フリーライター、自称ネット言論人
七人目:
昔からの名言をもじればネットというサバンナに出て目立てば7人の敵に狙われるってことです
そんなネットで目立ちたがる人もいるけど、その気持ち増田にはマジさっぱりわかんね
炎上で狙われるのは「立ち位置」だけでなく「悪魔にとって美味たる魂の柔らかい部分」そのものなのにね
炎上で面白がる人やコメしてるだけの人も標的の魂(精神の柔らかい部分)を捕食してるってことに気づけばいいのに
ネットにSNS性を求める以上増田もあなたもこれを見てる人達全員もどこかで標的の精神の欠片をくいつくわれる精神の食物連鎖の輪の中にいるわけですが
程度の問題で全てを食い尽くそうとする人は「もう終わっている人」なので放置OK 他で居づらくなったら「増田」に移住すればいい