はてなキーワード: 裁量とは
https://this.kiji.is/530717544895661153
これは俺の想像だけど、何が特別保存の対象かなんて内規はないと思うよ。想像ではあるが、国籍法違憲判決の記録すら廃棄するぐらいだから、まちがいないでしょう。で、最高裁で判断が確定したら地裁に記録を送って、あとは地裁が判断する。
だが送られた記録を受け取るのは記録係であって裁判官じゃないし、最高裁から送られてくる時点で既に地裁の手を離れて何年も経過しているので、当時担当した裁判官なんて残っていない。そもそも裁判官は、これは弁護士もそうだけど、事件を処理し、判断する訓練を受けているだけであって、自分の担当した事件に歴史的な価値があるかないかと問われても、そんなの知らんとしかいいようがない。まして人の担当した事件が社会的に重要かどうかなんて聞かれても困るよ。
そんな状態で、最高裁から送られてくる膨大な事件記録のうち、どれが特別保存の対照で、どれが廃棄していいかなんて判断できるわけない。おそらく東京地裁にはこうした判断をする部署すらなく、記録係の主任に丸投げだったんじゃないかな。大規模庁である東京地裁ですらそれだったとしたら、他の地裁なんてさらに無理。裁判官も書記官も忙しいしね。
地裁からしてみたら、最高裁から具体的に指示されるか、明確なルール作ってもらわないと判断なんてできないと思うよ。
戦後、マイノリティの権利について憲法14条違反として法令を違憲無効とした判決は、国籍法と女性の再婚禁止期間100日超の部分を違憲とした判決しかない。だが記録がなければ、後の研究者が訴訟の過程を詳細に検討したいと思っても、当事者か代理人に聴くしかない。
国籍法の場合、判例集に載っている事件は、集団訴訟で報道された別事件と違って、強制送還の命令から始まり、強制送還を命じられた本人が実は日本人でした、というところに特殊性がある。1人でちまちま始めた事件で、メディア対応等はしていないが、集団訴訟より1年早く始まっているので、判例集にはこちらが掲載されている。研究者なら事件名が「退去強制令書発付処分取消等請求事件」となっているのを不思議と思うはずだ。http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=36415
退去を命じられた人が、実は退去の判断が裁量違反で無効であるというに止まらず(これは"if"だが、もしも国籍を問題として提起していなければ、原告は強制送還されていたと思う。)、憲法的には日本人だったという奇妙な経過と結論は、日本の社会における外国人の地位について示唆するところが多いはずだが-不思議だよね。本人の社会的な地位はいっさい違わないのに、争点がズレるだけで、「煮て食おうが焼いて食おうが国の自由」と切り捨てられる対象から、最高裁の裁判官が15人も集まって、やれ憲法に違反するとか違反しないとか大議論の的になる-俺が忘れたか死んだりしたら(いちおう国の書面や証拠も含めて全部PDFにはしているけど)準備書面すら読めず、判決を読んで国籍法が違憲になったロジックは理解できても、なぜそんな事件名になっているのか、そこで問われたのはどういう問題だったのか、永久にわからなくなる。 (一審判決まで辿れば少しだけ触れられててはいるけど)
俺は学者じゃないし、そもそも俺にとっては終った話なので、東京地裁が廃棄したからけしからんというつもりはないけど、学問的には損失かも知れないね。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190801/k10012017821000.html
すごい!たった一日でいろんなことが見えてきて、変えていく。変わっていく。
入所施設の職員ですが、先日の参議院選挙で知的障害を持つあるご利用者が「選挙に行きたいと施設長に言ったがあなたは選挙権がないので選挙に行けない、と施設長に言われた」と発言があり、日誌で報告したが消され、投開票日に単独で自分がご利用者を連れていき無事投票できました。おかしいと思い職員会議でそのことを議題に挙げると施設長より「選挙権がないとは言っていない。日誌を消したのは自分で、記名がないので消した。利用者を連れて行くかどうかは管理者が決める。あなたは勝手に連れて行った。よくないことである。」と注意を受けました。警察、市、県、厚労省などにも問い合わせましたが施設の裁量があるので難しいだろうとのこと
見えにくいことは見えにくいままで悔しい。
親に言われたわけだが。
昔から親の言葉の軽さ、口論になり感情が高ぶるとかんたんに罵詈雑言を人に浴びせるところが嫌いだった。
そして、感情が落ち着くとへらへら薄笑いを浮かべながら「ごめんね~…でも、(以下、『お前があんな事言うから=言わせたお前が悪い』という要旨の言い訳が続く)」
と軽く謝ってくるのがもっと嫌いだった。
自分の価値観ではそれは謝罪ではないし、本気で悪いと思っている人間の言葉ではない。
本当に自分が悪いと思っている人間は『ただ謝る』だけではないのか。
そしてそれを受け入れるかどうか、許すかどうかは謝罪を受けた人間の裁量であり、許せなかったとしても仕方がない。
それを「謝ってるのになぜ許さないのか」「家族なんだから許せ」と謝っている本人が憤るのは筋が違うのでは、と思う。
今回、『言うからには相手と絶縁する覚悟で言うべき』と自分には思える罵詈雑言を浴びせられた。
(具体的には『お前は犬畜生以下だ』と言われた)
その言葉だけはどんな理由があっても言うべき言葉ではないし、どうしても許せないと思ったので、
翌日、案の定へらへらと薄笑いを浮かべて『ごめんね~でも…』と形だけ謝ってきた親に対して
『謝られても許せない、自分にとってはそのレベルの言葉だから』と言ったら、
てっきり許されると思ってたのか、またつらつらと言い訳を連ね、
挙句『許せないならどうするんだ』『家族ならどんな失言や暴言があっても謝ったら許すべきなのに』『哀しい』と自己弁護を繰り広げてきた。
どうするのかなんてこっちが教えてほしい。許せるものなら許したいが、尊厳を踏みにじる言葉を言われて許せずに苦しんでるのはこちらなのに。
昔から何度言っても何度伝えても、親とは言葉に対する考えかたが違いすぎて、全く価値観が噛み合わなくて苦しい。
全くこちらの主張を理解してもらえず、自然化け物を見るような目で親を見てしまう。
それが気に入らないらしくて『どうしてそんな目で見るのか』と、『哀しい』と捨て台詞を吐いて、謝罪に来たと言いながら自分の傷をしっかり強調して帰っていく。
年老いた親に対して取るべき態度ではないのかもしれないが、だが、言われた言葉を思い出せば怒りと失望が沸き起こり、とても許せそうにない。
せめてしばらく時間を置いてほしいのに、『謝ったんだからさあすぐに許せ、許せないなんてこちらが傷ついた、哀しい』という親の態度にまたどうしようもない気持ちになる。
他人だったらこんな人間とは絶縁できるし二度と近づかないで済ませられるのに。
親とは死ぬまで互いにわかりあえないことは確定だし、言われた言葉はずっとわだかまりとなって燻り続けるだろう。
親なんて他人だからそれも仕方ないとわかってる(親からすると『親子でも他人』という価値観も受け入れられないらしい)が、それでも付き合っていかなければいけないのがしんどい。
諦めはある程度ついてきているけれど、まだ親に何か(理解)を期待しているのかもしれない。
毒親をもつ他の人々はどうやってこういう気持ちと折り合っていくのだろうか、よければ教えてほしい。
追記:
トラバしてアドバイスくれた人ありがとう。正直『うんち』って言われるだけだろうなって思って吐き出したから、マジレスもらえて嬉しかった。
>親なんて基本クソ~
あとから、『オレが犬畜生以下ならてめえは犬のクソ以下だ!』って言ってやればよかったなって思った(笑)。言われた時は頭が真っ白になって、『そっか、犬以下か…』としか返せなかったのが悔やまれる。
段々、ああ自分はあの言葉にめちゃくちゃ傷ついたんだなってわかってきて怒りが湧いてきた。でもそれを言ったら親と同列になるから言わなくて正解だしこれからも言わないだろう。
色々とあるんだけど、書いて突きつけたところで親は『そんなこと覚えてない』『そんなつもりで言ったんじゃない』って言って終わるんだろうと思うし、
それでまた失望するのも疲れるし、読み返すたびに怒りが戻ってくるだろうからこっちがしんどいなって思ってしまうんだ。怒りの感情を持続するってきついな。
言いたいことはわかるし、自分にも頑なな部分があると思う。
相手の価値観を絶対に間違ってるなんて断罪はしないし、自分が絶対に正しいとも思っていないけど、
『それは自分の価値観では許せない』って線引きは誰にでもあると思うし、親にだってあって当然だと思う。
『それは自分には許せない』って自分なりの倫理の基準を持つことは普通なんじゃないかって思うんだけどな…相手の全てを許して受け入れることはできないよ。聖人じゃないし。
親じゃなきゃFOでさくっと終わるんだけど。ただせめて、『自分は相手にとって許しがたいことを言ったんだ』って自覚くらいは持ってほしいなってさ…
自分の『(親を)許せそうにない』って言葉は、親からすれば『許せない言葉』なのかもしれないって自覚はあるよ。
ところで、増田は『犬畜生以下』って言われても『ごめんね☆』で許せるのか? 心広いな…菩薩か。
>距離を置くように~
てか大雑把に言って、敵に攻められても現場の判断で反撃出来ないのが今の憲法
もっとも厳密に適応すれば本来、現場の判断も関係なく反撃してはいけない(武力による紛争の解決は一切行えない)
でも多分、今本当に攻めてきたら、現場の人命の尊重が最優先されて、超法的措置として反撃が事後承諾的に許される可能性が高い
それでいいじゃんと言っている人たちとか
それでも数時間のロスは発生して下手すると人は死ぬんだからもうちょっと現場の裁量で出来るようにしようよ、って人たちとか
てか、そういうのとは関係なく、自衛隊をもうちょっと役立てようよ、国際貢献できるようにしようよ、って人たちとか
そもそも、実質自衛隊は防衛軍隊なんだから、国際的にも防衛軍隊として動けるようにして牽制に使おうよ、って人たちとか(ちなみに諸外国は自衛隊を軍隊としてしか見ていない。ていうか、自衛隊という概念が正しくは理解されていない)
少なくともこれくらいには揉めている
https://anond.hatelabo.jp/20190619220147の続き。
「東大生番組マジうぜえ」→「そうだ俺東大の卒業生だから関係者として提訴しよう」
とりあえずばばっと書いてみた。一部ぼかしを入れています。
本番組では、複数人の東京大学学生が出演し、芸能人たちとクイズの勝負を行っている。番組のコンセプトとして、「東大生だからできる/東大生なのにこのようなこともできない」ということを中心に据えていることは明らかである。しかしながら、このようなクイズの回答を知っていることと東京大学の学生であることは一切の関係がない。それにも関わらず、上のようなコンセプトが成り立つのは、世間に存在する「東大生はがり勉/世間知らず」という偏見を利用しているからに他ならない。「東大生」という特定の集団に対して、一方的な偏見や蔑視を押し付けるのは、蓋し社会的マイノリティに対するヘイトスピーチと同じ構図である。私は、東京大学卒業生および関係者として、このような偏見が放送されたことにより名誉を毀損され、精神的に苦痛を受けた。
そもそも、「東大」を冠してこのようなクイズ番組を放送することも問題である。第一に、上でも述べたが東京大学の全ての学生がこのようなクイズに精通しているわけでも、ましてや好んでいるわけでもない。集団から極めて限定された一側面を切り出し、それがあたかも全体の特徴であるかのように扱う。例えば特定の民族や人種に対しこのような扱いが許され得るだろうか。このような番組が不適切でないならば何が不適切な番組であるのか。東京大学の卒業生の一人として、「東大生」に対しこのようなイメージを結び付けられることは名誉の毀損である。
第二に、そもそもこの手のクイズは調べればすぐにわかる問題である。東京大学のどのような部局であっても、「調べればすぐにわかること」に重きを置いた研究・教育はなされていない。これは、東京大学憲章(https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/overview/b04.html)を見ても明らかであろう。しかしながら、このような低俗なクイズ問題を知性の象徴であるかのように扱い、東京大学の名前を使用することは東京大学およびその構成員の名誉を著しく貶めている。私も、東京大学関係者として名誉を毀損された。
私はこの番組に出演したことは一切ないが、本放送は「東大」を番組名に冠する以上、当事者は出演者だけではなく、東京大学関係者全員である。したがって、私も放送人権委員会運営規則第5条(6)に記されるところの「その放送により権利の侵害を受けた個人」にほかならず、これをもって放送人権委員会に当該番組の審理を要求する。
「東大生」といえば「がり勉」「変人」「常識知らず」という世間一般のイメージが存在することは否めない。実際、例えばインターネット検索エンジンgoogleで、大学名とともに上記のようなワードを入れて検索すれば、大量のウェブページがヒットする。文脈によってはポジティブな意味で使われていることもあるかもしれないが、ほとんどの場合ネガティブな意味で使われている。
このようなイメージ自体の真偽や是非はこの場で議論すべきことではないが、問題なのは本番組がこの種の偏見に基づいた作りとなっている点である。番組内では、数人の東京大学学生が出演し、彼らと芸能人たちの掛け合いが放送されている。その中で、上記のイメージに合わせるように、全編にわたって出演する学生の「面白おかしく」「常識から外れた」振る舞いが放送されている。この放送は東京大学およびその構成員に対する偏見を強く助長している。それにより、私は東京大学の関係者の一人として、多大な精神的苦痛を被り、名誉を毀損されるという「著しい不利益」を被った。
また、学生出演者の裁量がどこまであったかも明らかにされなければならない。このようなバラエティ番組において、テレビ局と出演者の力関係は一方的である。出演者はテレビに映されたいと思う一方で、作成側からすればまさに代わりはいくらでもいるからである。その中で、出演者が番組中で世間的には非常識な振る舞いをする、あるいはされられるに至った経緯は何か。そもそも台本・編集がある以上、歪な力関係を背景にした圧力・指示は一切なかったとは言えまい。後輩たちのこのような振る舞いを放送で目にすることは、私に東京大学卒業生として大きな精神的苦痛をもたらした。
私はこの番組に出演したことは一切ないが、本放送は「東大」を番組名に冠する以上、当事者は出演者だけではなく、東京大学関係者全員である。したがって、私も放送人権委員会運営規則第5条(6)に記されるところの「その放送により権利の侵害を受けた個人」にほかならず、これをもって放送人権委員会に当該番組の審理を要求する。
そもそも、特定の少数者に対するネガティブイメージ・偏見を扇動することは、あってはならないことである。本番組は東京大学に関するものであったが、これが特定の民族や宗教に関するものであったらどうだろうか。テレビは社会的影響が大きいなればこそ、この種の偏見やネガティブイメージには慎重でなくてはならない。本放送は、この点において明確に放送倫理を違えている。表現の自由の名のもとに、このような不当なステレオタイプを広める番組を作成し放送したフジテレビおよび関係者の人権感覚の欠如にはただただ驚かされる。今後さらなる人権侵害番組を作成させないためにも、貴委員会により正しい裁定が下されることを強く希望する。
ダウト。
資金過不足統計という統計を見て、政府が中立の時が財政均衡が取れている時。
で、バブル直前は政府が真ん中近くにいて、資金余剰側にいることもあったんだよ=財政が中立に近かった。
この統計は日本全部の資金余剰(貯蓄)と資金不足(投資のための資金調達)の関連性を示すもの。これは一定期間の集計後に位置する。
バブル後の貸し剥がしやフリーハンドの法人税減税で一気に企業が資金不足側から資金余剰側になってしまった。これが金余りであり、景気を悪化させている原因。
景気は金の量×金の回転だからな。
なお、消費税増税は、累進所得税減税と法人税減税のためのもの。だけど、富裕層や法人はほっといたら貯めこんでしまうから、フリーハンドで減税してはならなかった。
使ったら減税ならまだよかったが、新自由主義のもとでは、政府の裁量による歪みだからと否定されたがな。
国の財政均衡より、金の回転が悪いことのほうがよっぽど問題だ。
新自由主義の前のケインズ主義は金の回転などを重視していたが、オイルショックに対応できないと弱まった。そこに政府が何もしないのが望ましいという新自由主義が勃興した。
金の量も金の回転もガン無視していた。
https://anond.hatelabo.jp/20190701083530
・「最近注目してるサービスは?」という質問で「web業界がセキュリティやプライバシーを蔑ろにしてきた揺り戻しとして業界全体がピリピリしてることもあり、メッセージングアプリSignalに注目している」と答えたら「僕はSignalやTelegramとかについてはテロリストが使ってるイメージしかないっすねぇww」みたいなコメントが返ってきた。「この流れで出てくるコメントがそれ?」とは思った。
・「ドワンゴ(特に企画側)に対しての不信感を持っている」と伝えたら「そういう人も社内にいるから安心していいっすよw」と返ってきた。自分の意図としては、批判と「問題を抱えているあなた達が今後改善されるのか」という疑問を投げかけたつもりだったのだが会話が噛み合わなかった。
別にハラスメント的なことがあったわけではないが、流石ドワンゴ企画職だなという印象だった。
受験料3000円取るくらいなのだからと心構えしていたが、面接含め一般的で無難な新卒採用だった。
「エンジニア職」枠では二次面接までお世話になった。そちらでは会話が噛み合わないなんてことはなく、概ね普通に真摯に対応して下さった。
終わった後に気付いたのだが、両枠共に「利用しているniconicoのサービスはあるか」という質問はされたのだが「niconicoのサービスで投稿者側に立つことがあるか」という質問をされなかったのは改めて考えてみるとおかしな話だと思った。
追伸:ついでに私見を述べると、エンジニアチームは個人の裁量が大きいだけでなく個人のSNSでの発信に対する検閲をしていないこともあり悪目立ちしてるだけであって、特別残念なチームではないように思う。ドワンゴは企画ディレクター職と経営側に深刻な問題を抱えている印象がある。
そうした中で元増田のように「自分はniconico衰退要因の1人だ」と素直に認め、去っていく姿勢は普通に偉いなぁと小学生並の感想になるが思った。
自分の気持ちの整理の為に非エンジニア目線で退職理由などを書いていければと思います。
ドワンゴにはいろいろな職種がありますが、筆者は「企画・ディレクター」という職種でWebディレクターをしていました。Web・アプリサービスや追加機能などを企画して事業の立ち上げ・伸張を目的に、企画書を作ったりデザイナーさんやエンジニアさんと相談しながらサービスを作っていく職種ですね。
niconicoには様々なサービスがありますが、動画や生放送などの花形サービスではない部署で企画職として働いてました。
これは割とどこにでもある話かも知れませんが、個人的に残念に思うポイントでした。
よって役職者になり、手当をもらうことがとりあえずの目標となります。
やはり給与は低め、かつ長く勤めている人ほど給与が低いということが多かったのではないかと。
もちろんキャリアパスは複数ありマネージャー以外の道もあるのですが、そう言ったキャリアの人はそれはもう優秀な方だけという印象です。https://meso.github.io/post/farewell-dwango/
いい人が多いので直接関わる人たちと仕事を進める分にはストレスは少ないです。これはある程度勤めていればそう感じるものかとも思いますが、特に筆者の場合は良い方々と仕事ができたと自負しています。
いい人が多いという点と矛盾するかと思うのですが、社内のコミュニケーションツール(Slack)は心理的な安全性を阻害していると思っています。
エンジニア主体で運用されていた頃は、IT企業特有の自由な雰囲気で楽しさがあったのですが社内の標準ツールになり利用者が増えてからは、発言の場として自由であることの自治を重んじるあまり、発言がしにくい環境になっていたように感じていました。
たとえば…
強制的に参加するSlackチャンネルは会社の総合チャンネルだけなので、見なければいいだけなの話なのですがいわゆる「ネットのノリ」「インターネット文化」が強く不快になる人も多かったと思います。
社員全員ではないが、基本的に企画職やエンジニア職は完全裁量労働なので出勤時間・退勤時間などは自由。
基本的には良いことなのですが、社風が緩めなので昼のミーティングにメンバーが集まらなかったり午前のミーティングはそもそも設定が不可能だったりします。子育てなどの都合で、早めの時間帯で出社退社される方もいるのですが、メンバーが全員集まる時間が遅めのため退勤後に連絡を取らなくてはならないこともあり、問題点は少なからずあるのかなと思います。
また、明らかなシフト勤務の部署もあるようで、その場合でも裁量労働としての勤務形態なので不満がある方も居たようでした。
在宅勤務は制度としては存在しないですが、部署によっては上長の判断で許可することもあり多様に働ける部分は素晴らしいと思います。
ドワンゴでの仕事が「ナウいBtoCサービスを展開するIT企業の企画だった」と胸を張って言えたらよいのですが、ここ数年結果を見ればドワンゴの下り坂を加速させた要因を止められずにむしろ加速させた人たちが筆者のような「企画・ディレクター」職だったのかなと個人的には思っています。
また、いわゆる傍流のサービス企画というのは成功・失敗したとしても会社の業績・事業に与えるインパクトが少なく明確な成功体験を得ることはできませんでした。
そういった、自責の気持ちともっとやれるんじゃないかという気持ちが折重なり、別の環境で新たなキャリア・力試しをしてみたい…と言うのが表向きの理由で、やはり業績面・給与面への不安や不満というのが大きな理由として挙げられます。
伝えられかたは違いますが「年収100万下がるかも、ごめんね。」と言われたのはとても大きかったですね、はい。※穿った見方をしたので、実際にはそうはなっていないとは思いますが
また、担当していたサービス・関わっていたサービスが縮小や終了していくなかで、自分にできることが無くなっていく感覚は強かったです。
本当はもう少し色々と良くない事を書き連ねてやろう、と息巻いていたが書き進めると様々思い出して取り留めのない文章になってしまった。傍流サービスとは書きましたが、非常にボリュームのあるサービスを運営できたことは本当に良い経験になりました。
これはドワンゴという会社だからできた経験だと思いますし、本当に自分にはもったいのない経験でした。正直かなり厳しい状況だと思いますが、オレの好きだったniconicoや社員たちを守ってやってくれ…
追伸:本当は雇い止めの話とかしたかったのですが、当該者ではなくむしろ加担した側の自分が語ることは失礼な話だと思い削除しました。
うちの会社の先輩(男)はとても人当たりがよい。
怒るとこなんてみたことないし、新人にも適度に裁量を与えつつ、質問しやすいように配慮している。
パット見ちょっと頼りなさげに見えることもあるけど、実際は結構勉強していることを知っている。
そして家庭でも良い夫のようだ。土日の昼は料理しているらしい。
奥さんとは会社のBBQで1回会っただけだが、おっとりした優しそうな美人で、知らない人ばかりの環境はちょっと苦手みたいで、先輩ができるだけつきっきりで、話しやすそうな同僚との間を取り持っていた。
そういうのって嬉しいよね。時々家族の写真を見せてもらう。とても幸せそう。
幼稚園の娘さんがとてもかわいくて、よく先輩があやしてる写真がある。
うちの会社はわりとそのへんは理解があるので、奥さんが友人とお茶しに行くときとか、早退して迎えに行ったりしてあげてる。
そんな先輩は、定期的にネットで出会った女性とオフパコしている。オフパコ。
先輩と仲のいい同期から聞いたのだが、はじめは意味が分からなかった。
オフで出会ってパコパコするからオフパコ。なるほど。あんまり実際はパコパコって音しないですよね。え、する?
多分だけど、既婚者ということも相手の女性達には明かしてるんではないか。
単なる直感だけど。なんというかそういうとこで相手を騙すような人ではないと思う。
バレたときがめんどくさそうだし。
奥さんはどう思うのかな。オフパコどころか、旦那さんが風俗、いやキャバクラに行くことすら嫌がりそうなタイプに見えた。
二人で食事にいくとか、手をつなぐとか、そういうの全部すっ飛ばしてセックス。
離婚もできなさそうだけど。
でも知らないでいれば理想の旦那さんだろう。それなりに名のしれた会社に勤めていて。
子供の世話にも積極的で。いわゆるイクメン。家事も手伝ってくれる。
レスなのかなあ。
こういうのはロールキャベツと言うんだっけ?
昔の話ですね。
※ネタバレは当然のごとくにする。
・いきなりハイライトの感想から言うけど、百鬼丸が目を取り戻したら度を超えたイケメンに超進化したので、私エネル顔。
昔話の『鉢かづき姫』みたいだなと思った……。
・百鬼丸VS多宝丸のシーン、シリアスなはずなのだがめちゃめちゃ笑ってしまった。多宝丸がいきなりお部屋紹介を始めたからだ。
「ここは私の部屋だァ!!」
ってなんだよwwwww先週「もう話すことはないな」って一方的にコミュニケーション遮断してきたのは何だったんだお前可愛すぎだろう。
・からの、回想に幼い頃の陸奥・兵庫を入れてくるのずるい。そんなん泣くに決まっている。
・というか、ここら辺の百鬼丸の心理が今一つわからないんだけど、派手に暴れたらストレスが解消されたのか冷静さを取り戻したのか、よくわからないんだが急に物分りがよくなったのはなぜ。
・まぁよくわからないがお互いに欠けているもの同士として響くものがあったのかなあ?
・最後の鬼神、あんな所にいたんだ。へぇ。案外あっさり倒されたなぁ。
・ご都合展開の極み的に寿海ママと縫ママが百鬼丸のピンチに駆けつけたけど、この手のご都合展開は本作の醍醐味というかなんかもう慣れた。
・抜け道から百鬼丸達が闘っていたフロアまで結構高低差があるはずなんだけど、そこを縫の方がどうやって濡れた打掛を被って上がって来たのかが気になって仕方がない。
・百鬼丸が二人のおっかちゃんの愛情を感じられて良かった。良かったのでその前の滅茶苦茶な展開も許せる。
・多宝丸には生き抜いて欲しかった。でも最期を母上に看取って貰えてよかったね。
・シリーズ後半までずっといい子だった多宝丸が終盤に思い切り我を出して来たのは良かった。親近感の湧く少年であることよ。
・百鬼丸が初めて見るものは多宝丸の死体かどろろの顔のどちらかではないかと予想をしていたのだが、二人のママだったのがとても良い。
・しかし寿海ママの指差しポーズが爽やか過ぎて笑う。CV.大塚明夫で「気を付けて帰れよ!」って言いそうな顔だし現にCV.大塚明夫なのである。
・井戸の底から引き上げてもらうときに百鬼丸に抱えられたどろろが猫みたいで好き。
・「空、きれいだ……。どろろ、きれいだ」セリフだけなら良い場面っぽいのに殆どギャグだった。"溜め"とか無いんだ。
・目を取り戻してから燃え落ちる城を見詰める場面まで百鬼丸がものすごく美少女である。本作の真のヒロインは百鬼丸、君だ!
・様々な問題をどろろは親の金で解決しようと決める、というまさかの展開にびっくり。え?それでいいんだ???
・どろろの父・火袋の埋蔵金は果たしてちゃんと手付かずで残っているのだろうか。埋蔵金の隠し場所に人が来られなかったのは、しらぬいの次郎丸と三郎丸があの辺で人喰ってたからだろうに。次郎丸・三郎丸が討たれた後は……。
・景光と百鬼丸が会話してる……!百鬼丸、こんなに喋れるようになって………(ハンカチで目頭をおさえる
・ついに景光が敗けを認めたのでせいせいした。ほんと嫌な親父だったなぁ。国の為民の為と言ってたけど結局、功名心だけの人だった。
・刀も持たずどろろを伴わず、みおの種籾だけを持って旅に出てしまう百鬼丸。みおの種籾はもはや完全に忘れ去られたアイテムだと思っていたので、再登場してよかった。
・みおの種籾が百鬼丸からどろろに託されたり、百鬼丸とどろろの二人で田んぼに植えて育てるという展開は正直嫌だったので、百鬼丸が種籾を懐に仕舞い直したことにホッとした。
・みおとの初恋の思い出を、どろろとはいえども他の女の子と共有するのはどうなのかと私は思っていたので。
・異論あるみたいだけど良い終幕だった。
・本作は批評される際に手塚治虫の『どろろ』の後継(というよりコピー)としてアリか無しかということで見られがちなのが気の毒だと思った。
・原作付きアニメの宿命ではあるけれども、それにしても手塚治虫がビッグネーム過ぎるので……。
・原作漫画を100として減点法で採点されるばかりで、アニメそのものの出来を評価されるってことがあまりないんだよなぁ。
・私としては、2019年版アニメ『どろろ』の出来はあまり良いとは言えないと思う。
・前半はかなりよかったのに、後半はずいぶん失速してしまった。一体どうしてこうなった?と観ていて戸惑う部分が多々あった。
・シリーズ構成・数話の脚本を担当した小林靖子氏のインタビュー記事や前期エンディングと第15話の演出を担当したコバヤシオサム氏のツイート、後期OPスタッフのツイートやインタビューなどから、制作スタッフのなかで何らかの内輪揉めがあったのかなぁ、と、邪推かもしれないが、思った。
・せっかく時間をかけて企画を練っていたようであるのに、後半からいきなりごちゃごちゃのグダグダになっていく様が非常に勿体ないと感じる。決して詰まらないストーリーではなくアニメーションの技術が低い訳でもない、むしろクオリティ高くやれそうなのにそうならなかったから残念なのだ。
・アニメは多くのスタッフのチームワークによって作るもの、ということの悪い部分が表面に出た感じ。
・宮崎駿や高畑勲の作品みたいに細部にわたって監督の思い通りに作るアニメには勝てないのだろうか?
・しかし各話の演出家の裁量に任せてるっぽい所、嫌いじゃないんだけど。特に15話はかなり異色な回だったけど面白かったし好き。
河野 真太郎氏の私が一橋大学の教員を辞めた理由〜国立大に翻弄された苦しい日々
これが分断統治であるということの意味は、「教養対専門」の対立は、「大学改革」を押し進めるための人為的な対立だ、ということである
これは事実に反すると思う。「教養対専門」の対立は「大学改革」を押し進めるための人為的なものではなく、新制大学発足当初からある構造的なものである。そして、大学設置基準の大綱化を奇貨として大学側が旧教養部を解体したことで、むしろその対立が緩和されたと考えられる。
例えば、平成10年の大学審議会の議事録に以下の認識が残されている。
△ 教養部再編の時に各大学が積極的になったのは、教官グループ内の差別がなくなるということがインセンティブになったから。これから、大学院専任と学部専任という仕分けができてくるとすると、教養部の時に一度解決しているのに新たな差別を持ち込むこととなり、非常に強い抵抗があると思う。
また、旧教養部の成立から解体までを詳しく分析した第3章 教養部の形成と解体 一教員の配属の視点から 吉田文は、大綱化の背景を以下のように要約している。
P.61
一般教育に関わる規定が大学設置基準から消えた背後には、一般教育そのものに対する大学内外からの批判や不要論よりもむしろ、一般教育のみを担当する教員やその所属組織の存在に対する大学教員自身の卑下と格差解消の願望の歴史があったといってよいだろう。
もちろん河野氏も「とはいえ、大綱化によって、それまで存在しなかった教養対専門の分断・対立が生まれたという話ではない。その対立はずっとあった」と述べてはいるが、ではその対立とは一体どんなものだったのか。
P.65
民主化の旗手のようにいわれて新制大学に導入された一般教育であるが、専門教育しか行ってこなかったうえに、新制度下の組織編成も専門教育を行う学部が中心であった旧制度下の大学には、一般教育の根付く場がなかったのだといってよい。新制のもとでの教育がスタートしてわずか数年のうちに一般教育の座りごこちの悪さは、どのようなタイプの大学にとっても問題となって、それぞれの方式で解決策を見出そうとした。
で、一般教育の座りごこちの悪さはどのようなものだったかというと、
P.66
こうした(引用者注:教養部を法制化して学部と格差を埋める)要望が出されるに至った背景には、教養部が劣悪な教育・環境条件におかれていたことがある。名古屋大学の場合では「学部だと・・・文科系で教授三十二万五千円、助教授が十七万円。・・・理科系になると教授百二十三万円、」助教授でさえ七十五万円になる。それが、教養部となると、教授でも文科系が十三万五千円、理科系四十四万七千円。とても学部助教授諸君の足元にもよれない。」(名古屋大学、1989、p. 250)といった状況が記されている。こうした物質的な条件格差に加えて、「ごく最近のことだ。全学教授が顔をそろえた席上で『大学ではねぇー、こんな風にやっとるんだが、教養のはどうだね』と、・・・教養部の教授たちは、さぞくちびるをかみしめたことだろう」(名古屋大学、1989, p. 251)というような、条件格差を身分格差とみなすような日常が教員間には醸成されていたようだ。
このように、大綱化のはるか前から深刻な「教養対専門」の格差と対立が存在したのである。上記の名古屋大のエピソードは1950年代後半から60年代初頭の間のものと思われるが、そのエピソードをわざわざ1989年発行の大学史に載せるぐらいだから、大綱化直前の大学内の空気を推して知るべきだろう。そして、大綱化によってカリキュラム編成の裁量拡大が大学側に与えられ、このような格差を是正するために旧教養部を解体することを大学教員側が決断したのである。
ツイッター上には大学設置基準の大綱化によって旧文部省が大学の教養教育を破壊した、という言説が蔓延っている。しかし、教養教育を破壊したのは1990年代の当の大学教員側である。「教養対専門」対立に関する河野氏の主張も含めて、これらは大綱化を巡る歴史修正主義ではないか。
ちがうよ。各分野の研究者たちが、近い分野でこれは新しい発見につながるものじゃないか?と判断したものに金を出す(競争的資金)ってのと、そもそもの給与基盤や、新しい発見のさらに萌芽を作る(運営交付金)ってのの2つが必要。
その競争的資金もあくまで近い分野じゃないと、根本的にわからないよ。研究者間でもやや遠い目の分野の萌芽であれば内容ははっきりわからない。
2.近い分野の研究者ならわかる
3.遠めの研究者でもわかる
4.素人にもわかる。
1から研究を積み重ねて4に移っていくが、各フェーズごとに対応した金を増やさないとならない。だけど、4に偏りすぎてるがため、1,2,3が枯渇しているのが今の日本。
そうして、4のネタすらも新自由主義化国立大学法人化が始まる20年30年前に手掛けたネタで、そのあとでは日本初では出なくなくなっている。
ましてやメディアアーティスト(笑)になんざわかるわけない。能力不足な人間が無理をするぐらいならまだしも、本当に騙そうとする詐欺師すらも紛れ込む。で、詐欺師は詐欺師で口がうまいんだよね。
技術素人でも真摯にその分野の勉強を自分でして判断する覚悟があるならともかく、忙しい合間(笑)で分野について無勉強で審査員になって上から目線で適当な質問をして終わりでしょ。
それに、どうしても革新的であればあるほど、金より時間が必要だ。だが、革新的なものを多く生み出したいがために、時間をゴリゴリ減らすがな。そもそもが短期だということと、パンダとしての扱いな。
新しい発見ってのは、今までの研究をわかったうえでここは未開拓じゃないか?というのを見極める必要がある。また、技術としての実現可能性も見る必要がある。商売としての実現可能性なんざまず技術として実現してその次の話。
だから、ピアレビュー型の最低限の助成が、結果的にはのちのトップ論文作成には効果的だ。科学立国の危機という本ののデータからも示された通り。
あとは、こういうガチで成果出した人が自分の裁量で使える金をつかんで、それで自分に近い分野の基礎研究をすることだね。どのみちがんの免疫療法はさらに多くの基礎研究が必要なのだからさ。
新卒で入った超大企業を1年未満で辞めてベンチャーに入り1ヶ月ほど経ったので、ざっくりと変化をまとめておく。
・「新入社員だから」という理由で押し付けられる雑務(電話応対、議事録作成など)がなくなり、スキルアップに直結する仕事に集中できるようになった
・仕事の裁量・スピード感があがった(1年も経てば中堅社員の扱いになるイメージ)
・8:45出社だったところが、11:00出社になった。朝早く起きて満員電車に揉まれる通勤はシンプルに苦痛だった。最近は3:00に寝て9:00に起きる生活をしているが、夜型の自分にとっては快適ですごく寝起きが良い。もちろん電車も余裕で座れる。
・スーツから私服に変わった。スーツの縛られている感覚が大嫌いだった。あの拘束感がなくなるだけでも、のびのびと働けるようになると気づいた。そもそもエンジニアのスーツ姿は大概イケてない。外にでないし。
・「こんなおじさんになりたくない」というネガティブな気持ちが、「こんな人を目指したい」というポジティブな気持ちに変わった。死んだ目で働く大人が誰一人いなくなり、皆が楽しんで働いている。それに、自分と同年代なのに能力の高い人たちがごまんといる。
・いわゆる「オフィス感」が薄れた結果、「社会の奴隷感」も薄れた。ソファー席があったり、スタンドアップ席があったりする。なんとビールサーバーまである。オフィスの環境は楽しく働く上で重要な要素だと思う。
・形式ばったコミュニケーションがなくなり、すべてがフランクになった。関係性がフラットなのはもちろんのこと、メールさえほとんど使わない。大体のことはslackで済む。
・100時間残業の世界から10時間残業の世界へ。11時出社なので、そもそも残業の天井が低い。大体皆20時過ぎには帰る。
いいところしか書いてないので悪いところも書こうと思ったが、なかなか思いつかない。強いていえばボーナスが減るくらい。
大企業とベンチャーという二項対立で語るのが正しいのかは微妙。あくまで自分の経験則。
以上、雑にまとめたブログでした。
・「新入社員だから」という理由で押し付けられる雑務(電話応対、議事録作成など)がなくなり、スキルアップに直結する仕事に集中できるようになった
・仕事の裁量・スピード感があがった(1年も経てば中堅社員の扱いになるイメージ)
・8:45出社だったところが、11:00出社になった。朝早く起きて満員電車に揉まれる通勤はシンプルに苦痛だった。最近は3:00に寝て9:00に起きる生活をしているが、夜型の自分にとっては快適ですごく寝起きが良い。もちろん電車も余裕で座れる。
・スーツから私服に変わった。スーツの縛られている感覚が大嫌いだった。あの拘束感がなくなるだけでも、のびのびと働けるようになると気づいた。そもそもエンジニアのスーツ姿は大概イケてない。外にでないし。
・「こんなおじさんになりたくない」というネガティブな気持ちが、「こんな人を目指したい」というポジティブな気持ちに変わった。死んだ目で働く大人が誰一人いなくなり、皆が楽しんで働いている。それに、自分と同年代なのに能力の高い人たちがごまんといる。
・いわゆる「オフィス感」が薄れた結果、「社会の奴隷感」も薄れた。ソファー席があったり、スタンドアップ席があったりする。なんとビールサーバーまである。オフィスの環境は楽しく働く上で重要な要素だと思う。
・形式ばったコミュニケーションがなくなり、すべてがフランクになった。関係性がフラットなのはもちろんのこと、メールさえほとんど使わない。大体のことはslackで済む。
・100時間残業の世界から10時間残業の世界へ。11時出社なので、そもそも残業の天井が低い。大体皆20時過ぎには帰る。
いいところしか書いてないので悪いところも書こうと思ったが、なかなか思いつかない。強いていえばボーナスが減るくらい。
以上、雑にまとめたブログでした。
でもどうしても納得できないことがあるので
自分の中で整理するためにココに吐き出させてください(ここまでタイトル)
増田は新人。新入社員の登竜門的なものとされている研修レポートの作成中。
上司Aは同じ職場の上長であり、レポート作成における指導のメイン。
レポートに関する指導の際の上司B、Cの言動について問題だと感じ会社に相談した。
不法行為を強要するような言動を繰り返すことはパワハラにあたるのではないか。
また、実際に、ある月の勤務時間は、80時間を超過した分を申告していない。
「休日出勤もしていて、勤務時間もギリギリ(80時間を超えそう)だったりするかもしれないけど、
僕や上司Cの予定が定時内は埋まってることも多いよね?
直接言うと問題になるから言えないんだけど、僕が何言いたいかわかる?」
→(わからないと回答)
→「本当に?わからない?」
「(増田の勤務時間が)80時間超えちゃうとぼくたちが懲戒になっちゃうからね。」
「上司Aも勤務定時後の時間とかは勤務時間としてつけてないと思うよ。ぼくもそう。増田さんのためを思ってやってるだけだからね」
「自分たちの頃は勤務時間表をつけて提出しても上司に書き直されて残業なしにされてきたんだよ」
「研修って自分の勉強のためにやることだから自己啓発としての側面もあるよね」
※以下は上記の話を繰り返しされたためこちらから質問した内容とその回答
(研修は自己啓発の面があるから自分の裁量で勤務時間につけないようにしなさいということ?)→「そう」
①増田が主張する上司B、Cの発言が本当にあったという事実確認
レポートへの今後の取り組み方について心構えを問うものであると言う意見があり、
また「 勤務時間の過少申請を指示している」ように受け取るものはいなかった。
ただ、増田が誤解してしまうような言い方には問題があったため、さらに上位の幹部から口頭で注意をした。
昔話は誰だってする。それ自体を問題視して禁止してしまうと言うことはできない。
ただ、増田が誤解してしまうような言い方には問題があったため、さらに上位の幹部から口頭で注意した。
上司B、Cの発言について、勤務時間の過少報告の指示(パワハラ)と感じたのは
相談者(増田)のみであり、今回相談があった件についてはパワハラとは認められないが、
上司としてのコミュニケーションには問題があったため、幹部が口頭で注意した。
事実勤務時間を過少申請している月が存在していることは加味しないし、
上司B、上司Cが繰り返し同じ話をした、ということも加味しないし、
上司Cに至ってはメールで「研修は自己啓発」という発言をしているにも関わらず
昔話という一点にしか焦点を当てないし、
「心構え」の具体的内容も明らかにされないし。
心構えと言われても、「サビ残をしてでも頑張るぞい!という心構えのこと?」としか思えません…
もろもろ踏まえて何一つ納得できない、と言うのがこちらの気持ちですが、
すでに処罰(偉い人に怒られること)が済んでいるのでもう出来ることはないそうです。
いろいろなことをぼかしながら書いているので読みづらくて申し訳ありませんが
ちょっと自分の中で整理しておきたかったので場所をお借りました。
例えば、相手を名指しで呼ぶ時。
「マスダ、お前の番やで」
基本は呼び捨てであるが、学年が上の相手へは少しだけ気をつかって「くん」付け。
「ちゃうやろ、マスダ弟ぉ」
「え?」
「ワイのことは“カン先輩”と呼べ。“カンくん”とか、むず痒くてかなわん」
「先輩呼びだったら痒くないの?」
「あ~?……なんや、不服なんか? そこまでして“カンくん”って呼びたいんか?」
「“カンくん”呼びやめろとは言うたけど、ディスってええわけちゃうぞ」
「ねえ、マスダ」
「ん? どっち」
「弟の方。マスダの兄さんじゃない」
俺だったら「マスダ(くん)」または「マスダの兄さん(ちゃん)」。
弟は「マスダ(くん)」または「マスダの弟(くん)」。
面倒くさがりな奴からは「マス兄」、「マス弟」とゾンザイに呼ばれていたこともある。
呼び方がまるで安定しないため、俺たちはしばらく混乱していた。
この独自の呼称ルールは、学童所に唯一存在する大人である指導員にもあった。
「なあ、マスダ」
「どっちのこと言ってんの、ハリセン」
名前にハリが含まれていたからハリ先生、略して「ハリセン」だ。
本名は知らない。
見た目から来る印象も朧げだ。
よく不精髭をたくわえていたので中年だと思うが、剃った時の顔は20代のようにも見えた。
声は妙に甲高かった気がする。
「ほら、こういうことになるから、肩を叩くなりして呼べばいいって言ったじゃんか」
「ああ、すまん、すまん。どうも忘れっぽくてな」
学童はみんなタメ口で喋ったが、ハリセンは咎めることもなくフランクに接した。
しばらく後になって知ったことだが、学童保育に就く人間は、学校の教員とは色々と勝手が異なるらしい。
俺たちのあんな態度を気にも留めなかったのは、むしろそっちのほうが自然だったからなのだろう。
しかしながら、半年に一度程度の感覚で猛烈に焼きとうもろこしが食べたくなることがあるし、冬場に体を震わせながら飲むコーンスープなどは格別である。
最近はトルティーヤのうまさにも気づいた。ポップコーンなどは言うまでもなく、うまい。
だが、我々に最も近しいコーンとは、なんだろうか。
それは、「なんとなく料理に入っている具材としてのコーン」である。
具体的には、こうである。チャーハンの具に交じるコーン。クリームシチューをかき混ぜればコーン。カレーライスにコーン。オムレツを開けばコーン。コロッケをかじればそこにはコーン。
これは、世の飲食店とお母さん(若しくはお父さん)たちの裁量によって差はあれど、おそらく数多くの人々が目に、いや、口にしたことのあるコーンであるといえる。
コーンそのものは世界三大穀物という看板を背負う、多大なるポテンシャルを秘めた素晴らしい具材である。
にもかかわらず、とかく料理の具材としては雑に扱われがちである。
もちろん、そのコーンが悪意を持って加えられていると言いたいわけではない。料理の彩り、アクセント、栄養素の補填といった意図は持っているではあろう。
だが、前述の通り、なまじコーンという具材が万能であるがゆえ、ポテンシャルに頼り切った雑な使い方をされていることもまた、事実であると思う。
雑に使われたコーンは、本来の魅力が損なわれるばかりか「なんとなく入っているとがっかりするもの」というイメージに繋がりかねない、危険なゲートウェイ・コーンである。
我々は今、なんとなくコーンを料理に散りばめることを止めるべきではないだろうか。
ほんとうに美味しく「とうもろこし」という野菜を味わうため、コーンとの向き合い方を、距離感を、真剣に考えていくべきではないだろうか。
そう思い、筆を執った次第である。