はてなキーワード: 肥大化とは
今は老後の生活の見通しが厳しい実家の脛をかじって職探しをしているふりをしているが、スーツを着て出かけて夜遅くに帰るだけ。パートでも派遣でも選ばなければ世の中に仕事はなんでもあるのに、こなせる自信がないのとこの期に及んでくだらないプライドがせめぎ合っている。ほんとゴミクズ。
人は思春期、青年期を経て色々な経験を通して社会でやっていく能力を身につけていくのだろうけど自分は12,3歳の頃から思考や人格に悪癖が付いたままダラダラ日々を重ね、全く何も身についていないことにいてしまった。
外に対して、ガワだけ意識高そうなフリをしてちっぽけなプライドを守ってきたが、実行力や実現力がないので虚像でしかなく、いよいよ社会に出れないままいい歳になってしまった。
思考の偏りや歪んだ自己愛、強すぎる恥の感情など人格障害の線も勝手に自己診断で疑っているが、過去にかかっていてあまり意味のなかった心療内科から切り替えた大学病院の診察は2週に一度や1ヶ月に一度という進捗がもどかしい。
感知している症状としては、とにかく頭が働かない。頭に何か詰まっているような感覚が日々強くなり、思考力と判断力はゴミカス。常に負の自動思考が脳の容量を食っている。どこにいても自意識が肥大化して、人の目が気になり何も手がつかない。身体は何もしていないのにいつも疲れて首背中が常にシクシク痛い。
既に先住猫(メス・避妊済み)を飼っているのだが、最近、ウチに出入りするようになった野良猫(メス・6か月くらい?)を保護しようと考えている。
それなりに関係性も築けて、敵意剥き出しであった先住猫も「まぁ仕方ないか」的な感じになりつつあるので、
そろそろ家族として迎え入れたいと思い、動物病院に捕獲機を借りに行った。
懸念点は、先住猫への病気感染の予防と、今回保護する猫の妊娠の可能性(ここ数日、乳首が肥大化していた)だった。
野良に子供が宿っていた場合はウチでは保護すること自体が難しい。とりあえず捕獲してから検査しようかなという心積もりだった。
しかし、獣医師が言うには、感染検査もエコー検査も容易ではなく、(妊娠していて)保護する場合
「産ませるか」「避妊手術とともに赤ちゃんも殺すか」が合理的な二択で、或いは保護自体しないかの選択肢を含めての三択であるという話(大意)だった。
実務的にどういう処理をするのかを詳しく聞いた。話自体はゴモットモで納得したが、想定外だったので混乱した。
現実的に人間が対処できない繁殖能力。それに伴う人間社会への害悪。野良の過酷で短い生を避ける為の完全室内飼い。
完全室内飼故に繁殖できないまま発情し続ける猫の心身の負担。そして人間への負担。分かる。その通りだ。だから現に先住猫は手術済み。
しかし、彼女のお腹を(毎日)見る度に少し胸が痛くなるのも事実。
生き物を飼うということは素朴に共存することではなく、「身体改造した=ペット化した」生き物を飼うことだと思った。
「共存するには現にその方法=避妊しか有り得ない」現実を以って「避妊は猫の為でもある」とは言えない。
人間の女性は、婦人病を忌避する為に乳房や子宮を摘出するなんてことはしない。
室外で生きていたら事故の可能性があるからと言って、妊婦の腹の中の子供を殺して子宮を取り外すことなんてしない。
たぶん、私は、数日内に野良の子を捕獲保護できた場合は、病院に連れて行くことになるだろう。
妊娠していた場合は、お腹の子供には死んでもらうことになると思う。それ以外に選択肢がないので
(避妊手術の末に野良に戻ってもらう選択肢も有り得るが、そもそも保護したいわけなので)。
しかし、私に関わらなければ、彼女は、野良として生は短く過酷な生き様であったとしても、子供を産んで育む生き方ができていたのかもしれない。
自分が選択することになる選択肢の意味が理解できておらず、何を選択してもそれぞれに後悔が伴う気がしている。
何について悩んでいるのかも分からない。ある種の生命倫理の分野に属する事柄だったとして、具体的な解決案が見つからない。
つらい。
なるべく多くの人間に影響力を持ち、実際には存在しないインターネット世論を誘導した上でどこまで現実に影響を及ぼせるのか?
まえがき
増田やSyamuなどインターネット汚物が国会にまで持ち込まれるようになり、アラブの春の後始末すらまだ終わっていない現代社会において、SNS上での衆愚の扇動が安全保障上のリスクになることは自明であり、かつてアカがサボタージュつまり働かない労働者によって生産性を下げる攻撃という概念を持っていたように、インターネット上にフェイクないしある方向に誘導する情報を撒き散らすことによってインターネットの利便性を下げる攻撃や世論を誘導する攻撃という概念が生まれている。
白人至上主義を煽るアメリカ大統領戦や嫌韓感情を煽る自民党への囲い込みなどに実際に実用されているがここではご家庭で簡単に始める衆愚扇動のやり方と大規模な攻撃への発展アイデアを紹介したりしなかったりする
従来の方法としては専門の業者に依頼することやインターネットの有象無象に依頼することなどが挙げられる(例 クラウドワークスで文字の流れる動画を作るように依頼する、自民党ネットサポーターズクラブ、火消し業者、ネットに強い弁護士)これらはいずれも金銭がかかり、また効果に疑問点がある。これらを発展させたものが前述の大統領選や囲い込みであり、方法としてはカルトの手口を併用したものである(この手口は非常に洗練されており、インターネットサロンやプログラミング塾など様々な場面で活用されている)。これらには社会的弱者を狙い、参加への誘因として憎悪を使い集団への帰属感を与えた上で孤立させるという倫理的に悪影響がある手法を用いるうえ参加者一人ひとりの質に問題があるため二次拡散に期待できず(せいぜい彼らの狭い交友範囲内で、それもこの手法の過程で消える)頭数のみが重要な場合にしか価値がない→集金、選挙など 金を絞れればいい=生存していればいい ひらがなで候補者名がかければいい=初等教育を受けていればいい ために汎用性に欠けてしまう。
これらの従来の扇動方法の弱点を解決するためには、ターゲットとして
・一般ユーザー 友人とのやり取りや好きな話題を話すアカウントを持つ(複数の場合もある) /実際の世論形成を担う
・パワーユーザー ツイ廃など依存症的な人々 POSTの大半を占める /扇動内容の二次拡散を担う
・文盲 三語文が読めない感情的な人らまたはお気持ちの人 (神が絶対でそれとの距離は個々人で差はないという論理が起点となっている平等主義と相対主義でしか働かない近代的理性は相性が悪くて、平等の完全な実現に伴って相対評価の理性から絶対評価のお気持ちの時代になるためお気持ち勢は増える) /社会の多数派 頭数や実弾はここから湧く
・インフルエンサー ダークウェブで買った人は含まない /ネットのおもちゃ
を含める必要がある。
またゴール地点として「予め設定した枠の中でしか議論をしなくなる」ということを設定する。
成功例:中国政府の言論統制は自国への批判は許すが自国への行動は許さない。体制の揺るがない範囲での体制批判を許可している。また人民は海外メディアにアクセスする必要があるという発想をそもそも持っていない。
では何をするべきか?前提としてダークウェブ↔ウェブよりウェブ↔ウェブのほうが断絶していることに注意する必要がある。通常のおおよそ全ユーザーに到達するウェブコンテンツとしてはネットニュースがある(これは各サイト、サービスが配信またはキュレーション//死ね//という形で再配布するため)この分野ではオールドメディアが依然強く、また権威つけあるいは盲従するためのハードルを下げる手段として有力である。 これに載るためには犯罪者や自然風物になるという方法もあるが扇動のコントロールが難しく、再現性が低い。また扇動者が現実に露出する必要があり、リスキーである。それでは有名人になった上で何かをする芸能人枠かネットの意見なるもの枠を取ることが現実的であろう。虚像の芸能人の成功例としてゆるキャラやVirtualBeing、初音ミク等などがあるがこれらは地域PRの手段とかロール、インターネット集合知のためのキャンバスといった色合いが強く(VBはよくわかんない、ごめんね)自分からアクの強い意見を発信したり誘導を仕込むことには向いていない。これは各政党のゆるキャラの名前を私が知らないことからもわかる。
SNSでインターネット世論などという汚泥のレンガみたいな概念を焼成してオールドメディアに取り上げてもらいそれがネットニュースで配信されることで(インターネット蝗が多ければi.e.よく燃えていればPVとPRが上がる、この点でももともとの火力は大事)各層に浸透、一定割合が仕込みの終わったSNSでよくわからんことをよくわからんままに自分の意見として話し合ってくれれば成功というのが筋が良さそうだ。
これのモデルケースが「幼稚園落ちた日本死ね」ではないか?扇動者がいたかどうか知らないがこれは可燃性の高い話題が溜まった憎悪を焼き固めてこれを拾ったオールドメディアは国会まで打ち出したという構図に見える。 (三次元物体は視点の違いで違う形に見えるのでここに対する批判は致命的なもの以外許して)
ポイントとしては
弱小、個人アカウントにはDMを多用し優しくする,マシュマロ等利用する
可燃性は最終的に的にする場合以外下げる
話題にはのる
ここで文章自動生成とかを使うと戦略兵器になる 普段はネット定形構文のおもしろネタとトレンドへの言及をしつつ誘導、イベントや祭りの発生時に扇動 数で勝負できる
しらない 詳しい人かいて
周りのすべてが一定の枠組みの中の視点しか持っていなければ一般人は前提を疑わないために容易に思考を囲い込むことができる。現実での多数派を囲えれば十分世論は枠にはめられるので一般ユーザがアクセスしうる範囲だけ誘導できればいい。実践としては検索結果一ページ目とSNSのトレンドとSNS上の各知的社会的階層からそれぞれ賢そうに見える人らで十分だ。あとは勝手に拡散していく。
検索結果一ページ目はフェイクサイトやらまとめサイトやらで埋めればいいのではないですかね ある健康食品だったたかサプリメントだったかがWikipediaから解説サイト、体験談などなど全部フェイクのサイトたくさん用意しててすごいと思ったみんなも真似しよう わかりやすいのはヨーグルト関係、腸内細菌とかまともに調べられなくて困っちゃうわー
SNSのトレンドにはわかりやすい正義とわかりやすい攻撃手段を作って喧嘩させれば良い まずツッコミどころのわかりやすい的を作ってそいつに暴れさせて、その後適度にわかりやすい武器を配れば勝手に燃やしてくれる 異常者が全面に出るように小さなコミュニティを的にするのが合理的(異常者を演じる、あるいは操作する際に少ない人数で大きな割合を占めることができる また支援者の絶対数が少ないため横槍が入りにくい)この過程で視野を狭め議論の枠組みを狭めることができる
SNSの賢そうな人らには「売出し中でフォロワーを増やしたいと思っているアカウント」に見えるアカウントを用意する(このアカウントは誘導したい方向と逆かあるいはジャンル違いのアカウントにする。一般的なフォロワーを増やす過程で前者なら過激な方向へ誘導しつつ意図的に意見に穴を開けておき、後者なら誘導したい方向へ偏らせるか誘導方向と逆の方へ過激な発言をそれぞれ不利益の無い程度に行っておく)
過激なアカウントかつ誘導方向と逆向きであれば失礼な発言から無理筋な議論へと持って行き自分とフォロワーないしファンネルを焼いてもらい、その後改心宣言か狂犬として噛み付いて回る
温和なアカウントかつ誘導方向であれば話しかけてフォロバしてもらうそれ以降は穏健な交流を行い人の流動性を高める 最終的にはこのジャンルならこの人というポジションを確立する(彼らの思考の外部委託先となる)
以上3つが達成できればあとは何もしなくても世論は形成される。
これらの行為は普段からインターネット上で盛んに行なわれているためそれぞれが少しずつ意図する方向に向かうよう仕込むのが一番楽だろう。具体的にはその誘導に囚われることで何かしらの利益を他人に与える仕組みを考える。例えばある特定の意見に偏向したサイトを作ると儲かるとか特定の意見をSNS上で発信すると気持ちいいといった誘因を作ればいい。うまくいっているのが婚活とか恒心とか
まとめ
飽きた
読書という荒野 (NewsPicks Book) 単行本 – 2018/6/6 見城 徹(著)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07D9D1QVM/
今をときめく幻冬舎の編集者、箕輪厚介氏による自社の社長アゲの一冊である。
元々、箕輪氏は双葉社で勤務していたが、その頃に見城氏にアプローチをかけ、『たった一人の熱狂』という書籍を編集した。
その際に見城氏に見初められて幻冬舎に転職し、その後、数々のヒット作をつくる。
つまり、元々この見城徹という男は箕輪氏にとって恩人のような存在であり、本書はいわばその「黄金タッグ」とでも言うべき二人による共同制作本なのだが、悲しいかな、文章は読みにくく、何とも昭和臭の漂う精神論やモーレツ主義が垣間見られる何とも言えない言葉が羅列され、かつ見城氏の既刊とも内容の被りが多く新味に乏しい。
つまり、純粋な編集能力や書籍の質という観点から言えば、高く評価することが難しい一冊であり、手に取った多くの方が後悔することになるであろうと予想される。
それでは、なぜこれだけ話題になり、勢いよくベストセラーへの道を突き進もうとしているのか。
そして、どうして箕輪氏の手がけた本は次々と売れていくのか。
そこには、彼がホリエモンから学んだ一種の戦略(スキーム)が存在する。
箕輪氏は「箕輪編集室」(通称”みのへん”)という名前で、自身のコミュニティを持っている。
そのコミュニティでは、箕輪氏を慕う約1000名の会員が月額でそれなりの会費を集い、イベント等に参加し、そして箕輪氏が手掛けた書籍をいちはやく贈られている。
メンバーたちは、書籍が発売される前に予め本をもらい、読み込み(あるいは読まないでいる方もいるかもしれない)、そしてAmazonに一気に星5個のレビューを書きまくる。TwitterなどのSNSでも盛大に感想を発信し、あたかも「大波が来ている」かのような演出に貢献する。
他のレビューで、この本を「News Picksメンバーにだけ向けた内輪本」と表現されていた方がいるが、非常に的確な指摘である。そもそもとして、この書籍は第一義的には自前のコミュニティメンバーに読ませることを意識してつくられているのだから。
さらに、箕輪氏の周辺にいるファンなども早い段階でAmazonの予約を入れ、人気ランキングを一気に押し上げる。
かくして、箕輪氏の担当した本は世に出た瞬間に、恰も「超話題作」であるかのような堂々たる風評を追い風に、勢い良く売れていく。
書店も利益を最大化したいもの。初速が良く「売れている」本は目立つように置き、堂々と展開する。
そして幻冬舎お得意、特大新聞広告などの宣伝と一気呵成の大増刷である。数万部を世に送り出して、「大ヒット!!」という流れをつくっていってしまう。このあたりの既成事実の作り方というか、本の勢いの出し方と売り伸ばす力は幻冬舎という版元が誇る最強の武器であり、出版不況の中で確実に結果を出しているのだから凄いとは思う。
かくして、クオリティとは無関係に、書籍のイメージと評判は肥大化し続ける。
そして、「どうやらこの本、人気らしいぞ」という噂に釣られた方々までもが買い求め、そして多くは失望していくわけである。
こうした「売り方」最優先のテクニックに走った商売をいつまで続けていくのだろうか。
根本的な編集能力を磨かず、ひたすらに勢いと話題性だけに頼った本づくりは、どこまで寿命が保つのだろうか。
これから箕輪氏のつくった本を手に取りたいという方は、冷静に立ち読みなどを通して内容と、そのクオリティを冷静に見極めた上で購入されることを勧めたい。さもなくば、期待した分だけ失望も大きいかもしれないから。
電気自動車というのは、リチウムイオン二次電池をエンジン代わりに350VDCを作ってFETに食わせブラシレスモータで"変速"して駆動する自動車の一種ですが、あらゆる二次電池は可逆反応を用いるゆえに、燃焼で化学的に安定状態に落として排ガスを捨てるガソリンエンジンよりエネルギー密度が落ちる。使い捨ての方が理論レベルで性能が良いのは当たり前なのです。で、ガソリン乗用車の燃料タンクというのは後席乗員の腰と尻の下あたりにあるのですが、電気自動車では燃料の低い密度のため燃料タンクでありエンジンでもある電池パックの体積を大きくせざるを得なくなるが故にこれが二倍三倍と肥大化し床下全面に広がり、ケツの下は代わりにインバータとか電源回路が行くようになっている。代わりにこの燃料タンクたる電池パックは構造部材となり車体下面を軽く手抜きして負荷を共有するようになってきている。
燃料を2倍3倍と積めばコストは2倍3倍、いやハイテク燃料なので8倍27倍と増えるのだろうかそこは知らないが増える。またリチウムイオン電池というのは最低でも1C速ければ3Cとか5C(九龍ではない。いちしーと読む。リチウムイオン電池の充放電比較に用いる、充放電電流[W]を容量[Wh]で割った慣用表記である)で充電できつまり1時間で充電が完了する、はずであるが、実は電気自動車の5Cというのは0.5メガワットとかでありザクIIF型の後付け設定上定格の半分に達する。旧ザクではない方のザクのミノフスキー核融合炉を全力稼働させても普通乗用車わずか2台か3台を定格で充電できるのみなのである。そんな大電力は急速充電所でも中々用意ができず充電時間は2時間3時間と伸びてしまうのである。
しかしまあ、原発をボコボコ建てればよい話でもある。5Cというのは1/5[hr] = 12分で充電が完了するという話であり供給できる限りにおいてはまあ抑えて20分くらい見ておけばよいわけであるし「電気自動車の充電時間」問題の原因は電池や車体の受電能力ではなく発電所の供給能力にあることはぜひ理解してもらいたいところである。
もろちん、ガソリンスタンドに12分も居たくないという当然の声は出るであろうと思うが、電気自動車はガソリンなんか使わないのだからスタンドにスタンドを置く必要はないのである。駐車場に置いてしまえ。いや駐車場に置いた"電気燃料ポンプ"からコンセントをぐいぐい伸ばして駐車スペースまで引いてしまえ。いやもういっそ電気配線なんかすべての駐車スペースに引いてしまえばいいのである。揮発性の爆発物が流れるわけではないのだから。するとどうだ、駐車スペースに20分停めておくくらいならまあ、昼飯休憩だってそのくらいはかけるだろう。可能じゃないだろうか? ついでに自宅ガレージにも配線をしてやろう。家を出る時は満タンなんである。まあ、300kmは走る。そのあと20分くらいは休憩が必要だ。そのくらいは休憩するんではないか? もちろん一日に300km走らない人は多いだろうし、休憩スポットに充電スポットは必要ではあるのだが。
この辺まで社長がまだ収賄で逮捕されてない方のブラック企業のプロパガンダな。
上を踏まえて電池交換式を考えてほしい。電池交換は1台3分ですみ、充電なら15分必要である。ただしロボットを使う交換所は充電所より遥かに少なく待ちが発生する。待ちが12分以下で済むと言えるか? 電池交換不能なら車体下面を手抜きして軽量化できる。交換式なら締結を緩くし簡単に脱着できるようにすべきだ。脱着構造はどれだけのコストアップになる? 交換後の電池パックは交換所に溜まるが、充電しても交換しても1個につき0.5メガワットの電力を消費する。意味のある違いがあるか? この質問は定性的に答えられるものではなかろうが、商業的には結論が出ている。電池交換所はあまりに初期投資が大きく、待ち時間は長く、交換用電池の充電電力要求は過大で、車体の重量増や電池容量への影響は重い。話にならんのである。なお電池規格共通化や課金モデルの話は蛇足になるので省く。
おそらく、中国の電池交換式タクシーは電池交換式ゆえに車載充電器が貧弱だし実験結果も多く収集することは理にかなっているし、交換運用を維持する方が合理的だからそうしているのだろう。あるいは中国も行政の身動きが悪く後れを取ることはあるというだけのことかもしれない。だがいずれにせよ、政治を省いて技術的・商業的に見れば上に述べた諸所の理由により電池交換式電気自動車コンセプトは破綻しており、実用化の見込みはないのである。そこを諸賢にはぜひ直視していただきたいところである。結びの言葉が思いつかなかったので句点を打っておく。
余談だが、リチウムイオン電池が絡む話には電気自動車に限らず「共通規格・交換式」を求める声を非常にうるさく感じる。こうした声が交換用電池や交換可能装置の売上に繋がることはない。顧客が求めるのは電池を含めた全体が製品寿命まで整備不要で機能する装置であり整備可能製品を求める声は顧客のものではない。ぜひ口をつぐんで消えていただきたいと思う。
私は自身がオタクであると自認しているが、ツイッター等で語彙力低下した奇声を上げるオタク諸氏と比べると執着・感情が薄い方だと思っている。もちろん推しキャラはいる(いた)が、そこまで熱心にコンテンツを追いかけた試しがないし、数か月で冷めて離れてしまう。
リアルの人間関係も特定の人とべったり仲良いということはあまりない方だ。
だが、そんな私がこっそり十余年におよび執着している対象がいる。相当気持ち悪い怪文書ポエムになる気がするので、ここでネットの海に放流しておく。
それはまあ、要するに昔好きだった人(実在)のことなのだが。理由を後付けで推察するなら、私がクラスでいじめられてて誰も口を聞いてくれなかった時に、最初に普通に接してくれたのがその人だったからだと思う。
うんうん、イイハナシダナー。
でもそれだけである。この同級生Tとはその後ほとんど接点がなかった。当時人間関係にびくつきながら生活していたスクールカースト下層地味真面目オタク族の私は、今でいう所のウェイであるTに自ら話しかけることすらなく卒業した。
イイデスネー。
青春の甘さ控えめの思い出デスネー。もちろん私も卒業したら忘れるだろくらいのつもりでいた。ところがそれ以来10年以上、私誰かに恋愛感情を抱いたことがない。
そして私の脳内のとある機密性の高いフォルダは新しいデータで上書きされることなく放置されてしまった。
だが、それでも、たまに、
動悸すらするようなキラキラした感情を抱きたい気分の時がある。
世間に蔓延する恋愛を歌った歌詞やポエムの意味を理解したい時がある。
到底口に出せないこっぱずかしい妄想と共に眠りたい時がある。
そこはハッピーなオタクのパワーの面目躍如というやつで、推しがいる時は推しでいい。何せ私は割と夢女寄りだし。しかし冒頭の通り、私は感情の薄いオタクなので、心躍る推しがいない時期が結構多い。
そんな時には私はTの残像を引っ張りだしてきた。当然、卒業してから会ったこともないし、今どこで何をしてるかも知らない。当時の人物像と感情を、私は大事にしまい込み、引っ張り出し、焼き増しし、繰り返しコピーしては眺めてきた。最早擦り切れて原型を留めていないその人物像を、流石に私もリアルの人物とは捉えられない。人は変わるのだから「このT」はもうどこにも存在しない。どちらかというと偶像とか概念に近い。
いつの間にか、この残像への執着はどちらかというと二次元の推しに対するそれに近くなっていた。
自分は関わりを持てないし(ほんとは持ちたいけど)持たなくていいけど、
そういう存在になってた。
自分でも意味不明だし超キモイと思うけれど、「推し」って言葉が一番近い。語彙力の足りないオタクなので他に表現しようがない。でも聞いてください!!!三次元に!!推しがいるってハッピーなんですよ!!!何せ推しが生きている限りオワコンにならない!!!どんな覇権アニメでも最後は過去の物になるけど、今日も推しはどこかで寝て起きて(たぶん)仕事してごはん食べてるんですよ。え?お前何も知らないだろって?うるさいな!!あくまで私の手元に届いてないだけで毎日新規コンテンツが生産されてるんだよ!すごい!!
………。
そんな心持ちでいる。
Tには日本の(きょうび海外かも)どこかで元気にやって欲しい…。
しかし、時代の変化はすごい。私の妄想エアコンテンツではなく、正真正銘本物の新規コンテンツを突如投下してくる。いつだって現実は空想を凌駕するのだ。
そう、フェイスブック(FB)である。陰キャオタクの私はFBが流行りだした当初、当然のように忌避して近寄らなかった。しかしある時気づいた。この恐ろしいツールを使えば疎遠になってしまった同級生とかTとかTとかの最近の情報が分かるのでは???いやあまりに恐ろしい。まさしくパンドラの箱である。
私はTがいかにクソなウェイ野郎になっていても全然かまわないつもりでいた。何せかつてTHE・クソガキという感じのうるさくて下品でおふざけの酷い子供だった彼である。ちょっと(反社会的な意味での)素行の悪い噂すら耳にしていた。オールオッケーである。
よし、好奇心には逆らえない。
…探した。
…見つけた。
かくして、そのアカウントのプロフ写真に写っていたのはウェイ感の欠片もない黒髪眼鏡地味男だった。
あまりに記憶と似てないので他人のアカウントかと思って五度見した。ほとんど公開情報はなかったが、共通の友達欄といくつかの項目的に本人に間違いない。全然違う、違いすぎる。首をかしげながらスマホを回転させ、十n年前の写真とも比較した。私が人の顔をあまり識別できないタイプなのもあるが、わからない。混乱を招いている眼鏡部分を手で隠したりして十度見くらいした結果、やっぱり本人と認めざるを得なかった。
……。
現実による予想鋭角斜め上の襲撃を私は受け入れられなかった。
だってそうだよ。かつてクラスの皆が避けてた奴と平気でヘラヘラ話すようなパワフルなウェイだったから私は救われたのです、好きだったのです。断じて私の推しは、こんな工学部キャンパスで周囲の9割を占めていたような第一印象オタクマンではない。強いて言えばキ・モ・オタクではなく清潔感のあるオタクといった感じなのは救いだが、そういうことではない。人は見た目で判断すべきでないし、スーツの写真だったので地味に見えただけかもしれないがやっぱりそういうことではない。私は数日睡眠妨害を受けた。
しかしこれが現実である。10年も経てば人は別人というのは常々思っていたはずなのに、どこか都合良く除外対象に入れて現実逃避していただけだ。
(友達申請についても検討したが、もうブームがひと段落して放置されているアカウントが目立つ時期だったし、Tは当時の同級生とあまり繋がっている形跡がなかったのでやめた。申請して「誰だよコイツ(申請拒否ポチー」とかされたら一生立ち直れる気がしない。)
私はそのプロフ画像を直視できるようにならないままFBをそっ閉じした。
そしてちょっとだけ上書きした推しの概念をまた脳内にしまい込んた。
脳内と現実の乖離が激しくなってしまったが、とりあえず推しが元気にしてるならそれでいい。だが、現実は予想だにしない方向からパンチを入れてくる。
私にはKという昔からの友人がいて、Kは同級生だった当時Tと仲が良かった。今でこそ私はKとかなり親しくしているが当時はそこまでてなく、Kを接点にしてTと関わることはなかった。そしてKは根っからの厄介オタクなので、Tやその周囲のウェイ達と親しくしているのが当時不思議だったものだ。クラスの友達関係なんて進級や卒業で薄れてしまうことはあるし、Kが当時の同級生について言及したことはほぼなかったため、とっくに関わりないものと疑わなかった。
しかし最近、KがポロッとTについてしかも明らかに最近のTについて言及したのだ。私は飲みの席で一気に目が覚めて飛び上がった。
そして「何か近況聞いてるなら教えてよ~」と言ったのだけれど、「そういうのを口が緩いって言うんだよ」とぐうの音も出ない正論でスルーされてしまった。Kはこういう奴なのだ。ぐう。
しかしここで布団にくるまれてぐるぐるする思考の中、あることに気付いた。Kの友人ということは友達の友達である。ノード2つ先である。二親等の祖父母の忌引きですら3日休める。めちゃくちゃ近い。存在がリアルすぎる。「友達の兄が聞いてきた話」みたいなのとは格が違う。
私は青ざめた。Tは実在人物でこそあれ、もう接点のない準架空存在であると思えばこそ推しとかなんとか言って気持ち悪い感情を向けていたのである。このキモさはリアルな人間に向けていいものではない。
アカン。
大体向こうの立場になってみろ。そんな奴いたかぁ程度の同級生から半永久的に執着されてるなんて意味不明すぎて、寒気で震え上がるわ。自分だったらお祓いに行く、うん。
……。
でも多分、この脳内のこじれて肥大化したフォルダを今更捨てるとかは無理だ。絶対何かの拍子に思い出してしまう。執着というのは中毒性の高いドラッグのようなもので、これまでの執着が重りになって足を引っ張る。天井まで2/3くらいになった時のガチャくらい恐ろしい。
以上、自分が何を思って何に執着しているのか最近よく分からなくなってしまった。
ところで米津玄師のLemonって歌あるじゃないですか、もっといい歌たくさんあると思うけどテレビだと妙に推してるやつ。この前初めてちゃんと聞いてみたら、超いい歌で感動した。サビの「今でもあなたは私の光」っていい言葉だなぁ。うん、そういうことだよ。
もし、もしも、どこかでまた会うことがあったら、変にならない範囲で、お礼を言いたい。
「覚えてないだろうけど、知らないだろうけど、助けてくれてありがとう」と。
でもこれも、ただの一連の空想でしかない。そんな機会は万に一つくらいしかないでしょう。
そして私は、未だに直視できないFBのプロフ画像を風景写真とかに変えられてしまう前に保存しておくべきか悩んで、スマホをそっ閉じして現実に帰ります。
我が子はいわゆる発達障害児だった。小さい頃から東大を目指してがんばってきたわけではない。周りの子供と同じように田舎の公立小中学校へ通ったし通塾などはしたことがない。本人が「自分と話が合う人が多そうだから」と希望したので高校は私立へ進んだが、受験直前も夜10時には寝ていた。彼にとって、中学までの学校生活はつらいことも多かったと思う。けっこうトラブルもあった。高校では水を得た魚のようで、本当にほっとした。同級生は我が家より裕福な家庭の子弟が多かったが、特に疎外感をもつほどではなかったようだ。
夫はサラリーマン、私はパート主婦で、東大へは「行かせてやれないことはないが余裕はない」レベルの経済状況だ。本人が東大を志望し合格した時は、もちろんうれしかったが不安も大きかった。彼に一人暮らしができるレベルの生活能力があるとは思えなかったし、十分なサポートをするだけの時間的経済的余裕が我々夫婦にはなかった。危惧したとおり様々なことがあった。今も、このまま無事社会にでて自立してくれればと祈るような気持ちだ。
実は、私自身も今なら発達障害者と言われていただろう人間だ。親や周りからぼこぼこにされながら生きてきた、という恨みのようなものも抱えている。反面、「出来が悪い普通の人」として生きてこられた自分は「恵まれている」という思いもある。我が子は、東大に入ったことで、かえって生きる道を狭めてしまったのではとすら考えることがある。
彼は「東大なら自分の能力が生かせる」「自分と同じような人、もっとすごい人と出会える」という希望を抱いて東大に入学したのではないだろうか。しかし、本当にそうだったのか。上野氏の祝辞は、彼に響いただろうか。東大にあの言葉が響く「恵まれた」学生が多いのなら、私は失望しかない。「恵まれた」とカッコ書きにするのは、彼らを恵まれていると思えないからだ。肥大化したエリート意識を持ち想像力が乏しく、東大合格によって自分の将来が約束されたと誇らしく思う人々、上野氏の祝辞で言及された社会の諸問題や「恵まれない人」のことを今まで考えたこともなく、「初めて考えた、心に響いた」と思うほど無知で愚かな人々…彼らは本当に「恵まれている」のか?
いわゆる裕福な家庭で小さな頃から学力を高める教育を受けてきた子、そういう子に負けずに「エリート」へのパスポートを得ようとがんばってきた裕福ではない家庭の子、東大にはその二者しかいないのか? いってみれば「東大くらいしか行き道がなかった」子は少数なのだろうか。学問の道ならば自分の生きるすべがあると希望を抱いて入学する人々は、この大学には数少ないのだろうか。
上野氏の祝辞は少なくとも私には響かなかった。全体に雑で学者なのか疑わしく思う。「自閉症はマザコンのせい」といったとんでも発言で名を馳せた人らしいですね、と皮肉をいいたくなった。「弱くダメな人、他者から恵まれないとみなされがちな人」を社会にどう包摂していくか、そもそも「弱くてダメ」「恵まれない」とみなしていることに間違いはないのか、そこに価値がないのかを考えることが学者の仕事では。
人選をした東大もどうかと思う。コミュ力が高くてはったりが効く外部の人間を人寄せパンダのように登用するのはやめて、大学でしっかりと研究をして実績を積んだ人々を縁故や世間受けなどと関係なく登用していくほうが(されていないとはいっていない。実態を知らないので)、長い目で見れば大学の価値を高めていくのではないだろうか。
https://www.asahi.com/articles/ASM461CLKM45ULBJ01M.html
http://nakajimahiroshi.xblog.jp/article/464365960.html
http://nakajimahiroshi.xblog.jp/article/464290012.html
東北大学を出て日本思想史で近世仏教を研究していたポスドク女性が自死した件。
女性の遺族は遺稿集を出版し、その中で結婚相手が統合失調症であることを隠して結婚した件について、
結婚相手の男性を実名をあげて批判しているが、これは明らかなヘイトスピーチでしょう。
たとえば結婚届を出してから、夫が元在日朝鮮人で帰化した人であることが分かったから、
離婚します、在日であることを伏せて結婚した元夫許せない、と書いてあれば、完全に
ヘイトスピーチです。
しかし、精神病の話となると、同じ構造でもそれが差別だと認識できずに、精神病者の側
精神病者は差別のサンドバッグはありません。差別されない権利があります。
自死した女性がなぜ離婚したのか詳細は分かりませんが、統合失調症であることを伏せて
いた一点が肥大化し、離婚に至ったのであれば、女性も、統合失調症患者の男性を恨む
本を出版している家族も、精神病者への差別心を持っていたと非難されても仕方ないでしょう。
確かに女性の自死は不幸なことです。しかし不幸な出来事に遭遇からといって、
出版物で差別発言(ヘイトスピート)を拡散することは許されません。
私は統合失調症の当事者ですが、精神病者が一方的に不幸の原因と看做されることに反対します。
冒頭の参考資料としてあげたブログを読むと、ブログの書き手(編集者らしい)も、
まず早い段階で倫理や道徳面を言葉で理解できる子とできない子の差はある
客観的な想像力を働かせる事ができない子にも感情面に訴えかける事でそれを自分に関わる問題として自ら行動を制御させる事はできる
野菜食べなきゃおっきくなれないよ、そんなじゃサンタさん来ないよとかはそれ
それでも感情に支配され自分でもよく分からなくなってる子とか分かってるけど構ってもらうためだとか別の要因でわざと困らせるようやる子もいる
別に特にやりたくもないし困らせる気もないけど友達と同じ行動を取りたいだけの子もいる
何も考えずテレビで見たのをマネする事に力を傾けたいだけの子もいる
言葉で分からせるためには分からせるための言語理解、共感性の下地を作る事が必要だし
下地があってもかまって欲しい子に行動の倫理性を説いてそれを理解させたとしても問題は解決しないし場合によっては悪化する
子供のその言動がどこから来るものかの理解が親にも必要でそれでアプローチも変える必要があって
またなぜそれがいけないかの客観的正当性の言語化と更にそれを言葉で分からせるための子供の立場での主観的発想と表現も必要で
それが子供の社会経験の土壌として外からの影響に対しての取捨選択の筋道になっていくんだけど
言葉で分からせる、をただ単に口で伝えるそれだけだと定義するから子供は言ってもわからないでしょ、となる
叱る時手を出すのはそれらの親側の言語化や親自身の共感性や社会への倫理観、道徳観の客観的理解の有無も含め、全部すっ飛ばして言葉で共感を誘う技術もそれを考える事もしなくても、もしくは出来なくても手っ取り早く動物的なすり込みとしてネズミの電流と同じように誰でも容易にできるものだから安易に使われて来た部分はあるのかなと思う
少なくとも仮に百歩譲って体罰を正当化するなら最低限事前にルールと罰を提示する事と罰として判決理由のような改めてのそこに至った客観的正当性を伴う理由の提示は必要だろうけどそれさえないただ単に大人側が物事を簡単に治めるための手を抜くためのツールとしている場合それは文字通りパブロフの犬のような反射に任せた思考停止でしかないし現状の運用としてはそちらに寄っているように見えるからその理不尽さに反発の声があがるようになっているのは当然の事のように思う
感情的にどうにもできない子供へ手をあげて言う事を聞くよう仕向けるのも躾ではなく多くがその実単なる言動の抑止の手段止まりになっていてネズミと同じく反復する事での反射的な学習方法とするならそこに論理への理解はないので結局は少し状況が変わるだけでまた新たな学習が必要になり効率や学習させる側の負担の面でも本人の負担の面でもいいやり方とは言えないと思う
ただでも思春期には感情面が肥大化して世界も広がって当人でさえ自分で舵取りが難しくなるのに下地も土壌もなく判断基準が作れない、作られないまま外の色んなものに触れて影響を受ける事になってそれが反社会的なものだとしたらそれが親にとってもぐら叩きでいたちごっこのようになってしまうのは目に見えているわけだし
そうなったらもう最悪祈るしかないわけで
でも現実親の余裕や知識や技術が平等であるわけもなく、その差をある程度是正するための幼児、学校教育であり、だからこそ教育の場での安易な体罰は本末転倒で許容されるべきではないんだと思う
あと躾がなってない、は言う人間が自覚してるかどうかは知らないけどおおよそその幼児期からの土壌の有無、またはそこを怠りその後も相対的に結果が出せていないその事を言われていて躾が出来ない状況をそもそも何で作ったのかという過程への親の怠慢を責める意のもので、その上での体罰による躾と口で伝わらず放置するしかない状況との選択は理解と価値観の下地作りを出来なかったという前提による同グループの中の異なった結果でしかないんだけど、それは言ってしまえば過去に遡らなければ現状どうにもならない事なのでそれを責めるのは人としてどうかと思うから無視すればいいだけだと思う
理解を深めさせる過程の年齢の子に躾がなってないとか面と向かって言ってくるやつはただの何も分かってないクソだからクソの意見なんて無視すればいいだけだと思う
そういう親を無理に責めて暗に子供を制させるよう向ける状況が子供のための教育や躾という意識の枠をこえた不必要な公益意識からの焦りによる体罰を生んでいるんだと思う
子供、特に幼児期の子の倫理、道徳面での理解に必要とされるのは愛情だけでも言葉にする事自体でもなく大人側の徹底的な感情をも含めた論理的思考と計画性を伴ったアプローチ技術とその体系化でしかないし、それが圧倒的に足りてないと思う
そしてその事はセーフティーネットである教育の現場への負担としても影響してると思う
この前夕方のニュースかで学童保育の話をやってて子供が泣いてて、それはじゃんけんで勝った方が何かの遊びを出来るって双方ルールを理解した上でやった結果で負けた子は悔しかったか思い通りに行かなくて腹が立ったか感情的に抑えられなかったみたいなんだけどそれを忙しそうにしてた大人が勝った子に相手の子が泣いてる事を理由に謝らせてて
一定の体系化と周知は親のためにも子供のためにも現状色んな過程に触れる機会がない、なかった子供に対してのケアとしてもやっぱり必要な事だと思う
親も子供と一緒に親になっていく、親として学びながら、なんていうけどそれは親の情緒面だけの話にすべきだと思う
個人的には幼児期の子に手をあげるのは知識以前の大人側の甘さや過信も一因としてあるんじゃないかと思う
何で自分の望みや言葉をただ自分の価値観で口に出すだけで自分の経験の何十分の一も生きてない存在に通じるなんて甘い考えを持ってるのかと思う
言語の壁に対してどうして分からないのって叫ぶようなものだし、そういうものだと分かってれば少なくとも通じない事に苛立つ意味の無さは理解できるはずだし、それを手出して事を済ませようとする傲慢さや安易さも分かるはずで
分かってても皆が英会話習う時間もお金も余裕もあるわけじゃないように完全な対策を求めるのは酷だってのも分かるけど端から舐めてかかってるようにも見える事も多いし
それは先の親以外の周りの大人もだけど子供という一人の存在に相対するための認識が甘すぎると思う
本当に違う世界の生き物相手にするくらいの心意気でやってもまだ足りないくらいのとこあるのに
だから最低限でも知識や情報、有用な指標の共有が求められるんだけど
長いな