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2019-09-07

行動主義心理学10分で理解する

はじめに

行動主義はJ.B.Watsonが最初提唱した心理学哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。

しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義自称している行動主義者は現代はいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。

そこで、行動主義誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。

Watson の行動主義

行動主義は、Watson が 1913 年に提唱した。

Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学対象客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。

当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。

Watson が反対したのは、Wundt の方法である人間自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能事象関係研究対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。

また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代身体性を重視する心理学認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。

さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。

注意しなければいけないのは、Watson の行動主義立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判歴史的な批判以上の何物でもなく、現代科学議論ではない。

では、行動主義を自認する現代研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である

Skinner の徹底的行動主義

Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。

Skinner は、科学目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。

徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学重要対象であるとはっきりと述べている。

逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明である。心的な活動実在するし、それ自体研究対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。

ただし個人見解としては、行動分析学ほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。

行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。

(1) 「反応」を運動パターンとして定義するのではなく、「どんな結果事象を引き起こすのか」から定義する機能主義
(2) 人間の営みを超えた真理探究ではなく、行動の予測制御という現実的有効性の上昇を目指すプラグマティズム
(3) 仮説構成体・仮説群から研究演繹するのではなく、実験結果から法則抽出する帰納主義

なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人いるかもしれない。

Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータ必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係データの蓄積を重視した。

まりあくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。

ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。

また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。

Skinner と同時代の行動主義 (新行動主義)

Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。

ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくま歴史的な展開として捉えるべきである

Guthrie

Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学研究対象客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。

Hull

Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数挙動の変化により行動の予測に挑戦した。

Hull の研究問題点は、いたずらに潜在変数いくらでも増やせてしまい、理論肥大化する危険はらんでいるためである特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論必要か?」という論文理論研究批判していているのだが、Skinner が批判たかったのは Hull の心理学だったのである

Tolman

Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。

Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である

現代視点で見ると、認知心理学下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。

ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義立場からすると方法論的行動主義立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義なのだ

なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象研究をする。公的事象操作 (実験条件) を通じて、内的事象定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である

Skinner 以降の展開

1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。

Heyes の機能文脈主義

Skinner の行動分析学プラグマティック科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパースジェームズデューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。

Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学目的である予測制御寄与しないと考えたことも一因である

Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。

具体的には、「態度」を測る質問研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。

このような、伝統的な行動主義比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学自由主義化」であると述べている。

少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である

また、機能文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。

行動主義科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。

これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造プロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。

Baum、Rachlin の巨視的行動主義

巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。

(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」

Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。

巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性行動主義心理学分析単位であると主張している。

まりミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロ環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である

行動主義心理学目的予測制御に置くならば、結局はマクロ記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。

(2) 内的出来事の導入の拒否

Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。

彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである

このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである

Staddon の理論的行動主義

Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学必要であると考えた。その点は、実験結果から法則抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である

行動主義心理学目的は、予測制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズム表現」の位置心理学位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。

Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくま心理学レベルでの記述である

ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。

Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析単位とするかは、それ自体研究立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉表現している。

それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである

また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカル議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。

一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義認知心理学を分ける特徴の 1 つであるしかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。

おわりに

以上、行動主義 100 年の歴史簡単に振り返ってみた。

色々なアイデアはあるものの、基本的現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学議論として行動主義批判したければ、Skinner を相手にするべきである

行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解責任基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。

個人的には、アンチ信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワーク出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。

2019-09-05

しがないポケモン初代から現代進行形ファンぼやき

私はポケモンが好きである。初代からサンムーン全てやってきており、グッズや派生ゲームやあらゆるコンテンツにおいてポケモンが好きである

ポケモン剣盾については私は両方買うほど楽しみであるが、昨今のポケモン界隈はギスギスしすぎて大きな声で楽しみなことを言えない雰囲気がある。

知らない人の為に言うと、最新作からポケモンゲーム本編に一部ポケモンが連れていけないという事が6月発表された。所謂、実質の互換切りだ。この発表は深夜のインタビューコメント程度で発表されたが、世界中に瞬く間に来た真実ポケモンファン阿鼻叫喚を与える形となってしまった。海外では署名活動まで発展し、以後剣盾の情報が出る度に「その要素のせいでポケモンリストラされた」と言われるばかり。

かに公式の発表の仕方や態度、1年おきの開発という制作時間の短縮など公式側の怠慢もあって良くなかったとは思う。私も好きなポケモンを連れて行く事が出来ないのは悲しいとは思う。

しかし、ポケモンコンテンツ肥大化は最早ゲームだけで解決できない程になった。私も互換切りについえは新作の度に考えていた為、ショックであるが遂にそれが来たと覚悟はできていた為さほどショックとは思わなかった。制作側の怠慢という意見はわかるが、ここまで凄いゲームというものを作る側が過労死してまで作るとしたらそれは問題だし、なによりポケモン新作は新作で新たな出会い世界観を楽しみたい気持ちが大きかった。きっと増田さん制作側にとっても英断だと私は思う。

さて、この衝撃的な真実世界中に知れ渡ってだいぶ日にちが経った。

ポケモンや新要素もちょくちょく出て、アニメクライマックスへ話数を重ねてきた。

相変わらず私は新たな情報一つ一つが楽しみな気持ちを大きくするばかりで早くやりたくてたまらなかった。

そんな中、ニンテンドーダイレクトでまた新たなポケモン剣盾の情報が公開された。ポケモンキャンプだ。今までポケモン触れ合い要素はあったが、ポケモンキャンプはその最高傑作ではないかと私は感じた。ポケモン一対一での触れ合いしかなかった今までのポケモンとの触れ合いが、ポケモンポケモン交流を眺められ、触れ合いもおもちゃを使ったり話しかけたり。更にネット通信により他の人のポケモンとも触れ合える。最高な機能で嬉しかった。

そんな最高な機能とともに、カレーというポケモンシリーズ新たな食品が登場した。文字通りあのカレーだ。昔あったポフレ作りに似ていて懐かしく、ポケモンうちわであおいだりポケモンが食べる姿が非常に可愛いしかも100種類もあるので素材集めから制作ゲーム好きな私は面白いと思った。これもまたわくわくしたし、材料からポケモン世界観をまた知れるのも一興だと思った。

楽しみだからこそ、人々の反応が気になって見たくなった。これがまさか事態になるとは思わずに。

ネットにあった反応は、カレーについて否定的な反応が多かった。確かにカレーというポケモン世界観において突如現れた現実要素だ。100種類もあるのは衝撃的だろう。よくよく考えれば50種類でも多い。

だが、そんな否定的な反応は別にどうとは思わなかったのだが、ネットに溢れていたある言葉に声を失った。

リストラされたポケモンの肉が入ったカレー」 

えっ…??

私は本気でその言葉が溢れかえっていたのに衝撃を受けた。しかも、SNSではポケモンアイコンの人も言う。ちょっと待ってほしい、本気でそれを言っているのかを。

最初説明した通り、このポケモン新作には連れていけないポケモン、すなわちリストラされたポケモンがいる。カレー図鑑100種類よりポケモンを出せと思う者の気持ちも分かる。そしてこのリストラ問題は今も尚新たな情報の度に言われていた。最早ねちっこい荒らしのような存在スルーすればいいと思っていた。

だが、だがポケモンリストラが許せないからと言って冗談でもそれは言ってはいけないと私は思う。カレーの中身は公式ではソーセージが描かれていてポケモン入りかもしれない。過去アニポケではコイキングのお刺身も出た。昨今のポケモン弱肉強食図鑑に明記されている。だがそれを、リストラが許せないからとポケモン好きが言ってはいけない。それはつまり、愛するポケモン死ねと言うのと変わらないことだ。ポケモンが殺されてもなんとも思わないのか?私は笑って草生やすなんて絶対に言えない。

リストラに対して不満に思うならいくらでも言えばいい。署名活動なり公式への問い合わせなり自由にすればいい。なんなら買わない選択もしても構わないし、あえて買ってひみつクラブメッセージ投稿したって構わない。

しかし、リストラされたポケモンカレーに使うという言葉意味を考えてほしい。つまり貴方の好きなポケモンを平気で殺す事になんとも思わないのと同じだ。最早それは「愛するポケモンが連れていけなくて悲しいポケモン大好きなファン」ではない。「ポケモンを殺す事になんとも思わない犯罪者」だ。たかキャラクター現実はいないが、というか現実にいないかリストラ問題を今も尚言い続けるのはどうかと思うが。それでも、それでもポケモンが本当に大好きだから絶対に良くない。

私は剣盾から登場したメッソンが好きだ。もし、メッソンを殺してカレーにすると言われたら悲しいどころじゃない。それは最早明確な殺意であり草とか言える冗談ではない。ゲームというサブカルチャーを好きなら推しを殺された事で恨む者がいる事を知っているはず。

正直、そんな事を言うポケモンファンは剣盾を買うどころかポケモンコンテンツから一切いなくなってほしい。ポケモン剣盾売れなくなっていいの?とか言うかもしれないが、ポケモンという愛するキャラクターを殺すならそれはもうファンではなくアンチ。いや、アンチも生ぬるいと思う。

しかしたら、「リストラは殺されたのと同じ」と考えて復讐のつもりだと言う者もいるかもしれない。だが分かってほしい。

ポケモンが大好きで、剣盾が楽しみで、どんな要素もポケモンを成り立たせると考え、今日ポケモンを愛でる者は少なくとも一定数いる。

リストラきっかけでそこまで言う者に、もうポケモンを愛せるとは思えないから。

単なる言葉に何熱くなっているんだと言うなら言えばいい。単なる一人のオタク戯言ですので。

2019-08-30

anond:20190830100323

10~15回、ギリギリできるくらいの負荷で3セットとかかなあ

脂肪燃焼程度が目的なのか、肥大化目的なのかで負荷の掛け方が違ってくるらしいけど

なかやまきんに君のザ・きんにくブログおすすめ

2019-08-15

から不安を感じやすい質で、年を経るごとにその傾向が強まっている。

社会生活を営み続けると、どうしても自分注視すべき管理箇所は増加する。よって管理コスト肥大化し、精神疲弊する。

それどころか、たとえ社会活動を何もしなくとも、ある管理箇所について考えを巡らせるだけで、そこから枝分かれするように管理箇所が増えてしまう。

結果心配事が無制限に増加してしまう。

もちろん枝分かれして出来る類の管理箇所は、大抵自分の力が及ぶ範囲を超えている。

からこそ、この思いを人に話すとき相手からは「心配のしすぎ」「杞憂」と言われてしまう。

それでも考えてしまう。考えても仕方がないことを考えてどうする、と自分を律しようとしても、考えることを止められない。

"変えられないものと変えるべきもの区別する賢さ"が自分には無いのだ。

不安に思うことを止める」という抜本的解決策がとれないとき次点で挙がるのは「不安ごまかす」という手法だ。

ということで、自分楽しいと思うことを列挙していこうと思う。

なにかの本にも、精神的に疲弊しているとき自分幸せに感じる具体的に行動を列挙し、上から順に実施するといったことが推奨されていた記憶がある。

とりあえず列挙し、記載したアクションを上から順に行動。それによって不安が解消されれば一見落着だし、解消されないようでれば記載を削除して次項目に移る。

こうしていけばそのうち不安は解消されるという寸法だ。ということでつらつらと書いていく。

1. ポテチをしこたま食べる。(これは体重へのインパクトが大きいため最後の手段

2. 1万円以上の寿司を食べる。(これは貯蓄へのインパクトが大きいため最後の手段

3. 1万円以上の天ぷらを食べる。(これは貯蓄へのインパクトが大きいため最後の手段

4. 焼き肉を食べる。

5. 10万円以上の時計を買う。(これは貯蓄へのインパクトが極めて大きいため最後の手段

6. 店で生ビールを飲む。

7. 爆音高校時代に好きだった音楽を聞く。

8. ボードゲームをする。ボードゲームは新しいものならなんでもよい。

9.時間眠る

10. スーパー銭湯に行く

11. 近所を散歩する

12.


ここまで記載したが、全然駄目だな。そもそも最後の手段が多すぎる。

加えて、おそらく本当に不安を感じているときはきっと何もできない。

将来を考えるとあまりお金を使うことや、健康へのインパクトがあることは、いくら不安解消のためとはいえやりたくない。

とまあここまでいろいろと書いてきたが、若干ながら不安が軽減されてきた。

結局のところ、思いをなにかに書き出すこと自体精神安定に良いのかもしれない。

自分主観から客体に置くことで、不安自分ごとではなくなるからだろうか。

2019-08-14

anond:20190814150248

人間種族単位で考えずに社会的現象効果マクロ面での問題

個人間での問題ミクロ問題すり替え矮小化しようとする側の支配者層、もしくはエリート意識肥大化させた努力が結果を産んだ側の成り上がり層の人間

支配者層は庶民が仕組み、システム社会構造に対して素直な疑問を持つのを抑止するためにミクロ問題すり替えるために自己責任流行らせた

成り上がった人間特にそういった考えはなく自分思想スピリチュアル観点自尊心自己顕示欲のために多々、この言葉を使う、しかし彼らは本当の弱者を助けるだけの力はないため決してヒーローにはなれない

2019-08-12

anond:20190812014325

院卒の女は現場仕事死ぬ気で避けるからだよ。

博士号を持った男のトラックドライバーは珍しくもないが、女は自己肥大化のために学歴を積んでるので内勤の低所得に甘んじてしまうんだね。

anond:20190812020611

院卒の女は現場仕事死ぬ気で避けるからだよ。

博士号を持った男のトラックドライバーは珍しくもないが、女は自己肥大化のために学歴を積んでるので内勤の低所得に甘んじてしまうんだね。

2019-08-10

貞本くんの一連のツイッタ見て思うこと

偏見混じりだけど、あの世代の意識ってあの程度なのが、マジョリティなんじゃないか

で、シロクマせんせの記事じゃないけど、「おまえの生きやす世界は、俺の生きづらい社会」って骨身にこたえてるんではないか

あの年になって認識刷新しようとするのはすごい困難で、自分が築いてきた世界観を守ろうとするのはしゃーないんではないか

哀れみを感じるところも多々あるけど、アレが貞本くんの偽らざる本音であるのなら、これ以上彼を追い込むのは止めておいた方がいいのかもしれない。

ネットワーク民のFAXおじさんみたいに、暴発するかもしれない。

貞本くんを指弾している人たちの正しさにはまあまあ同意できなくもないのだけど、生きづらさを表明している人をそこまで追い込んでいいのかな?

ヘイトスピーチ在特会動画でも、囲まれたら「俺余裕ですよ」ってビビり感満載のニヤつきしかできてなかったのを思い出す。

まれたら反論できずに「効いてない」アピールするしか能のない人々を、さらに追い込んだ先になにか救いはあるんだろうか?

自分世界観に閉じこもり自己愛肥大化して易怒性が加齢とともにマシマシになっている人との付き合い方、考えたほうがいい。

認知症患者とお医者さんがどう向き合っているのか? というのを参考にした方がどちらにとっても受け入れやすい柔らかい決着をできるのではないかしら。

2019-08-06

お茶くみを問題化する女はお茶の代わりに工具や重機を持て

女はゼネコン内部でお茶くみさせられるのが嫌だと言ったかと思えば、

現場派遣されてろくに監督できずに3日で辞める根性なしばかりですよね。

女は現場職に応募してみたらどうなんですか。

まあ、自己肥大化のために大学行った怠け者の女には一生届かないでしょうけどね。

2019-08-05

anond:20190805205524

そもそもおかしいからそういうのにはまるんじゃん

オウム死刑囚なんかそんな感じだったろ

生きづらさというか肥大化した被害者意識抱えてなきゃあんなのに飛び付きゃしないし、その時点からもう何か狂ってたんだよ

2019-07-29

anond:20190729081225

ネットだと意識肥大化するのでやり過ぎになりがちで、その自分客観的に見れるのならまあ大丈夫ではないのかな。

2019-07-18

つらい

つらいよ、はてな見出しみるのが。犯人アニメ人生をかけていたのかはわからないけど、スマホPC画面を見つめてSNS掲示板感情をぶつけて、こんな犯行に至ったのだろうか。この人を殺したい、ではなく、対象肥大化しているのが怖いよ。彼にとっては命を削られるような痛みがあったのかもしれない。だけど、想像力があまりにも欠如してるよ。自分の痛みを主張することと、相手に与える痛みが釣り合ってなさすぎるよ。それが釣り合ってないことを教えてくれる人は周りにいなかったのかな。こんな人にどうすれば止められるのかもわからないし、巻き込まれた方々の命を考えたら、何だか気持ちが落ち着かないよ。つらくて悲しくて無気力にさせられてしまうよ。

2019-07-10

anond:20190710212500

俺が敵意を向けてるのはお前個人だよ

勝手対象すり替えてんなよ、

え?まさかお前、本気で俺が女に敵意向けてると思ったの?

自己肥大化も甚だしいな、たしか知的障害はあるみたいだから前言撤回するわ

悪かったよお前の障害のこと知らずにバカにして

外出しを常用するエンジニア

プログラム中にベタ書きされていたパラメータを外部の設定ファイルに書き出す、肥大化したルーチンを外部モジュール化する、といった意味で「外出し」という用語を使ってくるエンジニアがいる。

外出しといえば、コンドームを装着せずにセックスしてイク直前に膣から抜いて射精する行為しかかばないので、「設定ファイルに外出し」「モジュールに外出し」と聞くとワンテンポ理解が遅れてしまう。

エンジニアなら外出しを使い分けられて当然なんだろうか。

2019-07-04

anond:20190702064321

体脂肪を減らす+腹筋を肥大化させる=皮膚からでもわかるくらい腹筋の凹凸が明確になる

だよ。人によって片方を予め満たしてると片方だけで成立するだけ。両方必要

割れるとかい比喩つかうから意味からない想像ちゃうんだろうけど。

2019-07-02

anond:20190701142228

腹筋運動して腹筋を肥大化させないと痩せても格好悪いシックスパックになる

2019-06-26

誰が生きているのか誰が死んでいるのか

高畑勲のなんかが見つかったとかとかい記事がこの間出ていたが

高畑勲が生きているか死んでいるかは俺の中であやふやだった

まり俺の観測する世界では高畑勲は死んでいるかもしれないし生きているかもしれなかった

検索して観測するまではその状態は未確定で重なり合っている

シュレディンガーの勲である

最近はあの人生きていたっけな死んでたっけな

という生死があやふやな人が増えている

昔はそんなこともなかったから脳が劣化している可能性もある

だが、昔と比べて知っている人間の数が増えていることが原因のような気もする

若い頃は知っている人間の数が少ない

から知らない人が死んでも気にもしない

知らない人間の生死の情報など持つ必要がないからだ

年をとるにつれ人物データベース肥大化

その管理はいいかげんになる

名前を知っているだけの有名人の生死など正確に管理されているわけないのだ

これからシュレディンガーの勲は増え続けるだろう

2019-06-17

怠慢育児教ちゃちゃこ正直クソババアお母さんとNO科学者に箸を、いや

箸の持ち方やマナーに関して何やら揉めているようだが

こんなもので大騒ぎになる事自体不思議でならない。

ちゃちゃこ正直クソババアお母さんという下品ハンドルネームの女や

もじゃもじゃ頭のNO科学者が「持ち方の自由」を主張している。

だが、騒ぎの本質は「正しい」という表現への脊髄反射。それだけ。

これが子供ではなく、いい歳した大人の態度というのだから驚きだ。

動作操作に関しては「適切なフォームポジション」が存在する。

私は筋トレ趣味だが、いわゆる「正しいフォーム」というのがあり

その「正しいフォーム」とは「数多の先人達による膨大な試行錯誤経験則から

「平均的、あるいは好ましいフォーム」として定まったと解釈している。

そして「正しいフォーム」は自ずと美しく見える。

もちろん平均から外れる人もいる。私も種目によっては正しいフォームが合わない。

しかし、それは大抵微調整で済むレベル

「正しいフォーム」を頭ごなしに否定自由で良いんだと言うのは

一時的かつ一面的しか物事を捉えていない脊髄反射人間だ。

無粋で無責任で無作法で無節操

結局「使いやすければどんな持ち方でも良い」を突き詰めれば

必ず、前述した「数多の先人達による膨大な試行錯誤経験則」の繰り返しになる。

箸の基本形状と構成は変わらないのだから当たり前だ。

フォームポジションというのはそういうもの

「正しい」とされるに至るプロセスを辿らず表面だけ見ているとそんな事にも気付けない。

料理下手が陥るのもこのパターンだ。

基礎を禄に学ぼうとしないのに「なんとなく」「雰囲気で」調理する。

そして「アレンジ」を加えて「独自性」を出そうとする。

満足しているのは自分だけ。

こんなのに料理を出された方はたまったものではない。




ただ「正しいとされたきた」全てを肯定しているわけではない。

例えば「下半身強化には走り込みが常識」という主張には反対だ。

走り込みというのは有酸素域の運動であり

それは「過負荷の原則」及び「漸進性の原則から外れ

筋力が上がるどころか下がるリスクの方が高いというの学んだからだ。

強化の観点からすれば走り込みは裏付けのない根性論しかないとわかる。

ちゃちゃこ正直クソババアお母さんとモジャモジャNO科学者

マナー・エチケットフォームポジションなどをご破算にし「自由」の行使を主張するなら、

今後、他者無礼や無作法を「自由」の名のもとに受け入れる覚悟があるということか。

どうせ立場が変われば批判対象と同じことをやらかすだろう。

お前が言うな」と嘲笑されても甘んじて受け入れるか見ものだ。

従来の正しさを葬ったところでまた独自の正しさを押し付けてくるのは明らか。

それが予想できないペラペラ人間には、モジャモジャ毛の生えたハートに箸を、いや釘を刺して

「いっぺん死んでみる?」と言ってやりたくなる。

こいつらは、なぜ過去からの積み重ねを検証せず

現代に生きる自分が必ず最良の選択していると勘違いするのだろう。




私は、恥ずかしながら食事所作をまともに教わった事がなく

中学生時代スプーンの持ち方を同級生非難された。

「親の躾がなっていない」と。私は酷く憤慨した事を覚えている。

今思えば憤慨は恥ずかしさを隠すためだった。

20代前半、付き合っていた女性が箸で簡単に豆を掴んだり

魚や肉を綺麗に切り分けたりしているのを見て

同じ箸を使っているのにどうして自分にはできないのだろう、

そんな疑問が浮かび訊いてみた。

答えは簡単あなたの持ち方がおかしいのよ」。たったそれだけ。

私は愕然とした。持ち方が違う?まさか

それから懸命に持ち方と動かし方を真似て練習。するとどうだろう。

今まで何となく不便を感じていた箸がまるで最適な道具になったかのよう。簡単に物を掴める切り分けられる。

米粒でも豆腐でもツルツルした煮豆でも容易く掴むことができた。

正しいフォームを反復練習するだけで、こんな大きな違いになるのか、

自分なりに使いこなそうとしていたのはなんだったんだと、己の視野の狭さと浅はかさに唖然とした。

今、私は中学時代同級生と当時の恋人感謝している。

フォームポジションの大切さを教えてくれた恩人。

そして何より箸を考案し正しい持ち方までも無償提供してくれた昔の人にありがとうと思った。

ちゃちゃこ正直クソババアお母さんという女、ちらっと見ただけでも

浅い、煩い胡散臭い、あつかましいなど、何拍子も揃う。

子育ての大変さを軽く見積もっていたくせに

その覚悟もなく子作りをした結果、子育てに窮し不平不満を爆発させ

ブログSNSで当たり散らしているというのが実態だろう。

どうせ子育てについて「正しさ」「適切さ」に反発して碌な情報収集勉強もせず

「己を犠牲にしない自由育児」なんてアホなお花畑思考だったのではないだろうか。

この女は悪知恵も働くようだ。

子育てしている主婦なら誰でも直面する不安を不平不満に転換させ肥大化正当化を煽る。

悪いのは夫だ!親だ!環境だ!社会だ!と責任を他に求めるよう誘導

あなたは一人ではありません、私のサロンで仲間と学び人生謳歌しましょうと

思考麻痺した人から金を搾り取る。弱みにつけこむ強欲女。

夫のことを平気で「旦那」なんて呼べる品の無さと

「正直さ」と「あつかましさ」を履き違えたデリカシーの無さは見苦しい。




ネットで消耗している暇があれば家族に全力出せ。




こんなのがチヤホヤされているのを見ると

未だに橋下や堀江を有難がっている人がいるのも頷ける。

「正しい持ち方」は効率的使用法の情報提供に過ぎない。

どうした訳かそれを突っぱね修正アップデートもしない。

これが現代人のやることなのか?

何の検証考察もせず、既存価値観概念否定したり壊せば

明るい未来が待っているなんて幻想しかない。

それも過去から学べるはずだが。

箸の持ち方ひとつとってもこの有様なのだから

まともな日本人の皆さんは危機意識を高めたほうが良いと思う。

おかしな輩が暴走したら取り返しがつかない。




【対案を出せ!】中野剛志改革バカをぶった斬る【大阪都構想

https://www.youtube.com/watch?v=EduqZb9Xf0o&feature=youtu.be&t=79

西部邁

論理性をなくす背景に、新しいこと、普通改革と言われている「Change」

「New Change」は何か良い事をもたらすはずだという漠たる…

中野剛志

変化を恐れるなとかですね。

西部邁

それがずっと続いているんですね。

中野剛志

セリフ同じなんですよ。

起爆剤!!」とか「突破口!!」とかですね。

お前起爆してやるっていうw




西部邁ゼミナール戦後日本の自滅願望【1/2】

http://www.nicozon.net/watch/sm20102492

17:42~

佐藤健志

そしてこれまでが全部悪かったんんだ、これまで全部否定して良いんだと言って始まった人達

行き詰まってくると、またそれをやりたくなる。

これ言葉があるんですよね。

英語では「The Myth of the Clean Slate」って言うんですが

日本語で言いますと「ご破算で願いましては神話」。

今のシステムチャラにして1からやり直すのが一番良いという発想です。

これをやりだすと大変なことになる。

今あるシステム全部壊すことなんです。

で、壊すと言うことは何やら「現状に風穴を開ける」ということで

それだけで自分達が建設的なしているという錯覚に浸れると。

2019-06-10

anond:20190609141806

家というのは最小の系譜単位だろ

最大化を求めてどうすんだよ

みんな同じ味とメニューなっちまうじゃねえか

系譜肥大化させると腐敗を招くのは世界的にも例が多いし

継承組織ってのは短く回転させることが長期的にみて安定するのは

科学の分野でも同じだろ

味選びに迷いたくなかったら国系や星系でもいいが

味にこだわりたいなら小さくした方がいいな

2019-06-02

風俗で客が嬢に嫌われるわけ

女の子最初から客のことをキモ客、金づると見ているわけではない。

(見た目が生理的に無理ゾーンに入るやつは除く。生理的に無理ゾーン努力突破やすいから今更語ることはない)

女の子はそこまで冷徹鬼のような生き物ではない、と信じたい。

ではなぜスタートライン問題ないのにそこからキモ客になってしまうのかというと、

女の子との気持ちのずれがどんどん大きくなっていくからだと思う。

出会って1時間も経ってないやつにベタベタしたいと思う女の子はいない。

しかし、客の方はベタベタする気満々で来ている。

そして仕事からベタベタするのは許され、男はそれを許容と錯覚し、ますます好意を抱く。

そうしてサービスを終える頃には肥大化した意識ギャップは埋めがたいものと化し、男はキモ客と化すのだ。

そこで自分気持ちでいっぱいいっぱいになってしまわないのが、遊び慣れているということなのだと思う。

2019-05-29

anond:20190529142637

本人だが、「肥大化した権利意識」っては自称被害者」様のほうだろうよ。

無実無関係男性にさえ差別リスク押し付けていい、協力しない奴は痴漢だ!という「肥大化した権利意識」。

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