はてなキーワード: 中学校とは
(つづき)
続いて、ウルトラマンメビウスでウルトラマン80の矢的猛の教え子がアラフォーになってから中学校の屋上で同窓会を開くという回も見てみました。
当時、兼業ウルトラマンが突如専業になってしまった不可解さは当時の子どもたちにも残っていたのかもしれません(私は全然覚えていませんが)
元増田です。
この出来事をきっかけにyoutubeでウルトラマン80を見てみましたよ。
wikipediaによれば、ウルトラマン80の主人公、矢的猛は最初の十数回は中学校教諭とウルトラマンの兼業でしたが、視聴率が伸びないという大人の事情で途中からウルトラマン専業になりました。
youtubeにアップされているのは専業ウルトラマンのみ(本当は兼業ウルトラマンを見たかった)で、そのうち見てみたのは、オコリンボールという吸血怪獣の回です。
(ごめんなさい。以下ネタバレです💦)
訓練を終えて宇宙船で帰還中の地球防衛軍(?)隊員20名弱がオコリンボールの襲撃により全員死亡します。オコリンボールはたくさんのボールに分かれて地球に飛来し、河川敷で市民2名が死亡、UGM(ウルトラマン80上の防衛組織)の自動車修理工2名が(河川敷に車で急行したUGM隊員たちの不注意で)車の中に潜んでいたオコリンボールに襲われ死亡、UGMによる外出禁止令を守らずに外を出歩いていた市民が多数死亡(youtube上では、これらの市民になぞらえて無警戒な外出による新コロ感染者を揶揄するコメントもありました)、地球防衛軍の国際会議場で会議の参加者が全員死亡です。
死に方がエグい。オコリンボールという砲丸投げの玉ぐらいの大きさで脳みそみたいにシワがたくさんついた玉が人間の首に吸い付き、人間は血を吸われてミイラになるのです。
UGMのタジマ隊員もオコリンボールに襲われて死にかけますが、隊長による密室での毒ガス噴射攻撃と医師による冷凍保存手術によって3/1000という確率で一命をとりとめます。
地球の各地に散らばっていたオコリンボールは一箇所に集結し、怪獣となります。
その後はUGMの爆撃機によるオコリンボールへの(あんまり効果ない)攻撃→爆撃機全滅→ウルトラマン80登場→一時は怪獣に圧倒されつつもなんとか退治、という昭和のウルトラマンではほぼ定番のパターンで地球の平和が取り戻されます。
圧倒的な犠牲者の数、犠牲者のミイラの表情のグロテスクさ、なのにオコリンボールという全然怖くなそうな怪獣の名前、これらの理由によって、ウルトラ界隈ではウルトラシリーズ上、最もエグい部類の回に数えられているようです。
性別のない履歴書を発売すること自体が強力な社会的メッセージだよなあ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/94483ca53a44cb5da5e37290ccb3bd0e28f67eac
部落地名総鑑を使って部落出身者を排除したい企業のニーズがあるからなんやろな
私が小学生時代を過ごした土地は、所謂ニュータウン。街がつくられる時にそのまま居着いたブルーカラーの家と、ベッドタウンとしていついたホワイトカラーの家が、住んでいる地域でわかるような土地柄だった。
とてもではないが治安がいいとは言えない街。小学生が放火をし、中学生が喫煙し、高校生がバイクで走り抜ける街だ。某児童売春斡旋組織事件発覚の発端となった小学生もうちの地元出身だった。
私の家は紛うことなきホワイトカラー一家だ。元ボンボン・サラリーマンの父と江戸っ子の母の間で、歳をとってから出来た一人娘として、それなりに大切に育てられた。世帯収入は高くも低くもなく、他に兄弟姉妹がいれば私立に行くのは許されなかっただろうレベルだ。しかし女子校に入れたいという父親たっての希望で、私の中学受験は私が園児の時に既に決められていたことだった。
そうは言っても、その受験計画は実にのんびりしたものだった。目的はあくまで「公立中学校に行かないこと」。小学校一年生から塾に行くような子もいる中で、私の中学受験は小学校四年生から始まった。それもSAPIXや日能研といった進学塾ではなく、まったりとした中堅の塾。10人に満たない同級生たちと、地元の中堅私立を目指す予定だった。
しかし、それでも学校の教員からの敵意からは逃れられなかった。
彼らは常にブルーカラーの子供たちの味方だった。ブルーカラーの子供たちはまさにギャングエイジといった風体で、私の学年は4年生になる頃にはすっかり学級崩壊に陥っていた。
そんな状況の中で、私のような「恵まれた家庭」の子供は、彼らを「根性論で更生させる」ための必要悪にするのに適していた。ホロコーストと一緒。共通の敵をつくることで、教員たちは彼らと連携をとろうとしていた。
まずは保護者会で、担任の教師が「私は中学受験と塾が嫌いです」と言い放つところからスタート。この言葉はあっという間に子供たちにも伝わった。小学生にとって、それがどんな不良小学生だったとしても、「先生の言葉は絶対」だ。「先生が悪いと言った」子は、いじめたっていいのだ。
休み時間に円周率の計算暗記表を見ていたら、担任にそれを取り上げられ、クラスメイトの前で激昂された。帰りの会で黒板の前に立たされ、「私は学校で塾の勉強をしました。本当にごめんなさい」と謝らせられた。それを皮切りに、ブルーカラーの子供たちからのいじめが始まった。
帰り道で待ち伏せされる。容姿についての罵倒や、時には両親への悪口もあった。ある時はマフラーで首を絞めあげられた。子供の力なので大事には至らなかったが、笑い声のなか、酸欠で頭がぼうっとしてきたことは覚えている。
「先生の言うことは絶対」。これは私にも有効だった。だから私は、自分は悪い小学生なのだと思い込んだ。
おうちが貧乏で、ちょっと不良みたいで、勉強は嫌いで、でも、中休みになったら一番最初に校庭に出てドッジボールを始める。そんな生徒が、「良い小学生」なのだ。クラスメイトたちが音楽室に立てこもって授業をボイコットしていた時、私は大人しく教室で待っていた。でも先生が好きなのは「仲間意識の強い」彼らなのだ。
悪い小学生なのだから、虐められて当然なのだ。そう思った私は、繰り返されるいじめを誰にも相談出来なかった。
また、これは本当は幸運と言えるのだが、殊にこの場合にのみ不運と言える、両親の誤算があった。私の成績だ。
私はどうやら「出来る子」に分類される子供だったらしい。入った中堅塾ではあっという間にトップに立ち、テストも満点以外とれなくなった。ここまで来ると両親にも欲が出てきたようで、私はバスで通える範囲に出来たS某超進学塾に通うようになった。そこでも女子ではトップの成績で、あれよあれよという間に御三家を目指すことになっていた。小学生にとっての成功体験は、その子の人格形成において重要だ。私は勉強するのが楽しかった。そもそも運動は嫌いで、中休みも図書館にいるような子供だった。かけっこしか見てくれない小学校の教員たちとは違って、塾の先生は私の「勉強の」成績を褒めてくれた。後は好循環だ。持って生まれたメンタルの弱さで、模試の前に嘔吐するようなこともあったが、私の中学受験は大方順調だった。
一方小学校生活は、ぼろぼろのメタメタだった。私の通塾先が変わったことがどこからか漏れ出て、「エリート意識を持った嫌な奴」の烙印を押された。低学年までは仲良くしていた子達も、私のことを大腸菌呼ばわりするようになった。
担任が、わかりやすく私に嫌がらせをするようになったせいだった。授業中に指されて答えても、「どうせ塾でやったんでしょうね」。覚えもないいじめ事件の首謀者にも仕立て上げられた。
だんだんと体調にも影響が出るようになっていた。学校に行く前に必ず吐いた。食道は焼けただれ、小学校5年生の冬には胃薬が手放せない体になっていた。
真面目な気質のせいで、私はそれでも学校に行くのをやめられなかった。親も流石に勘付き、担任に嘆願書を出した。しかしそれも虚しく、担任は私にその嘆願書を叩きつけ、「どうしてあたしがいじめなんて言われなきゃいけないんだよ!!」と私を怒鳴りつけた。
別の小学校に越境入学しようと思ったこともあった。別の中学受験をする同級生が、そそくさと学校を変えてしまったからだ。実際両親はその準備もしていた。しかし、自分の学校に問題があることが外部に晒されることを恐れてか、校長はそれに難色を示し、「○○ちゃんだって仲良しと離れたくないでしょ」と、結局その小学校から離れることは叶わなかった。
私の小学校時代は闇だ。小学生5年生の学芸会の劇で、悪役の親分のオーディションに受かったら、自分の母親と隣のクラスの教員が寝ていると噂されたこともある。最高学年になる頃には、私は両親と塾の教師以外の大人を信じられなくなっていた。
話は飛んで、中学受験の結果から言うと、私は第一志望には落ち、第二志望の女子校に通うことになった。そこは天国だった。私が休み時間に勉強していても、誰も怒らないし、誰も馬鹿にしなかった。正直それだけで救われたし、良き友人にも多く恵まれた。そして高校生活を経て、今私は東京大学に通っている。
もし父親に先見の明がなかったか、私が過度のストレスで受験全滅していたことを考えると、今でも寒気がする。
数年前の東大の入学式の祝辞は、ノブレス・オブリージュについての話だった。私も上野先生の意見に大方は同意する。しかし私は、もし「恵まれた人間」として支えなければいけないのが「あいつら」なのだとしたら、それは吐き気を催す話だと思う。
エリートが冷たいなんていうのは嘘だ。いや、もしかしたら真実な場合もあるかもしれない。でも、そんな言説よりずっと、「学のない連中は残酷で野卑だ」という言説が本当だと言うことを、私は知っている。
私がこのブログで書く内容を簡潔にまとめると、高校の頃の担任に言われた呪いの言葉についてだ。
彼は簡単に放った言葉だったと信じたいけれど、これから先の人生の中で何度も何度も私を引き止める言葉たちだから、どうせならここに全て置いていきたい。
どうかこのブログが担任のアカウントまで届きますように。決して高校の目には止まりませんように。担任の鍵垢、知らないけど。
私は去年まで高校生だった。3年間クラス替えが無いクラスで、結果的に担任も変わらなかった。
まず最初に伝えたいのは、全国の女子高生がみんなJKブランドを持っていたら大間違いだということ。JKブランドを持てるJKは限られていて、少なくとも私の高校にはJKと呼べそうな子はいなかった。
当たり前だ。制服が泣きたくなるほど地味な偏差値60前後の自称進学校なんてそんなものだ。みんなJKブランドなんか知りませんという顔をして、晴れの日は暑い、雨の日は重くなる膝下スカートを履いて登校する女子高生だった。たまに都心に出る時はスカートを引っ張るんだけどすぐに落ちていくし、ウエスト部分がゴムじゃないから巻くとお腹の部分が膨らんでいた。
校則も厳しかった。メイクをすることも髪を下ろすことを禁止していたため、中学校とほとんど変わらなかった。「ここを望んだのだからここのルールに従いなさい」こんなことを集会で言われた記憶がある。
こんな高校生活だったから早くに女子高生を諦めた私(周りはどうか知らないけれど)は大学では自由になりたいと願った。だから1年生の夏休みの宿題だったオープンキャンパス巡りで都内の女子大を中心に巡った。
オープンキャンパス巡りは夏休み明けの個人面談で活用する媒体だった。担任になりたい職業や行きたい学部を絞っていく。1年生の秋だったから、みんななんとなくの個人面談だった。
私は今のところの第1志望を担任に伝えた。すると困った顔をされてこう言ったのだ。
「そこの大学に通う子と○○(私の苗字)は会話が合わないよ?うちと偏差値が5〜10違う高校の子が通うんだけど、わかりやすく言うと中学校の頃みたいな感じかな。その子たちと一緒に勉強してもいいの?」
いますぐ志望校を変えろとでも言いたいのか。さもその女子大に通ったことがあるかのように担任は話していた。私は「会話が合わない」という言葉が何よりも悲しかった。16年間生きてきた中で会話が合わなかったことは無かったし、偏差値で人を測る担任が素直に怖かった。今の私だったらてめえの物差しで勝手にはかるんじゃねえ、くらいのことは言う。
これが1つ目の呪いになった。
2つ目の呪いは2年生の修学旅行前に起きた(起こした)。前述した通り、私のクラスは3年間クラス替えがない。その中で1年半一緒にいた友人がいた。運動会も文化祭もその子たちと回っていたし、修学旅行の班も
私がこのブログで書く内容を簡潔にまとめると、高校の頃の担任に言われた呪いの言葉についてだ。
彼は簡単に放った言葉だったと信じたいけれど、これから先の人生の中で何度も何度も私を引き止める言葉たちだから、どうせならここに全て置いていきたい。
どうかこのブログが担任のアカウントまで届きますように。決して高校の目には止まりませんように。担任の鍵垢、知らないけど。
私は去年まで高校生だった。まず最初に伝えたいのは、全国の女子高生がみんなJKブランドを持っていたら大間違いだということ。JKブランドを持てるJKは限られていて、少なくとも私の高校にはJKと呼ばれる子はいなかった。
当たり前だ。制服が泣きたくなるほど地味な偏差値60前後の自称進学校なんてそんなものだ。みんなJKブランドなんか知りませんという顔をして、晴れの日は暑い、雨の日は重くなる膝下スカートを履いて登校する女子高生だった。たまに都心に出る時はスカートを引っ張るんだけどすぐに落ちていくし、ウエスト部分がゴムじゃないから巻くとお腹の部分が膨らんでいた。
校則も厳しかった。メイクをすることも髪を下ろすことを禁止していたため、中学校とほとんど変わらなかった。「ここを望んだのだから」
そんな女子高生を諦めた私(周りはどうか知らないけれど)は大学では自由になりたいと願った。だから1年生の夏休みの宿題だったオープンキャンパス巡りで都内の女子大を中心に巡った。
その後
・「」
どっちも滅んでくれー
いやマジでさ、なんで有名な企業たちがこんなエアプ健康論ふかしてくんの?
父は瞬間湯沸かし器みたいな人で、些細なことですぐキレて手が出る。
私も物心ついた頃から殴られたり床に倒されて踏まれたりしていた。
父は人とのいざこざで殴ったり恫喝したりしたことを武勇伝としてずっと話していた。
小中学生のスポーツチームの指導なんかもやっていて、今だったら問題になるレベルの体罰の話も自慢げにしていた。
父の友人達もそれを持ち上げ、「さすがだなあ」「それが正しい」とかっこいいことであるかのように扱っていた。
私は幼少期から父から殴られ、暴力自慢話を聞き、周囲の反応を見ていたので、力で相手をねじ伏せることはかっこいいことで、ためらわないでよいことだと思い込んで育った。
それから色んなマンガで男よりケンカが強い女キャラを見てかっこいいと思い、ごくせんのドラマも流行っていたので「男を殴れて勝てる女はかっこいい」とどんどん思い込んでいった。
漫画やドラマでは「女を殴るなんてありえない」というシーンがあったりするので、女の子に暴力をふるおうとは思わず、男子とよく取っ組み合うようになった。なぜか女である自分が殴られることに抵抗はなかった。
取っ組み合いにきっかけや理由なんてない。小学生男子なんて暴れたい盛りだし、意味もなく突進してくるやつとか、私がすぐ手が出るのをわかっててからかいに来るやつが同級生にたくさんいて、私はいちいち応戦していた。
父は人を殴って相手の歯を折った時の傷が指に残っており、それを勲章のごとく自慢していたので、私は男がケンカで体や顔に傷をつけることはかっこいいことだと本気で思っており、男子と取っ組み合うと顔面にも容赦なく蹴りを入れたりしていた。
休み時間や放課後にはだいたい男子たちと暴れ、殴ったり殴られたりする毎日で、これが普通だった。ドッチボールとかサッカーとかで遊ぶのと同じ感覚でケンカして遊んでいた。
ある日の休み時間、いつも通りに男子たちと取っ組み合う中で1人の男子の頬に回し蹴りを入れた。結構なクリーンヒットだった気がする。
特に気にせず他の男子とさらに取っ組み合っていたら、数分後「何やってんの!!!」という担任の金切り声が響いた。
いつも「危ないよ!」くらいの注意しかしなかった担任だけどその日は様子が違った。
担任の横にさっき私が回し蹴りをくらわした子がいて、泣いているので「え、何?何?」と手を止めて近寄ると
「何じゃないよーーー!!もういやーーー!!!」と担任が泣き叫び、膝から崩れ落ちた。
それから校長室に呼ばれ校長に事情を話し、それぞれの保護者を待ち、帰った。
翌日登校したら担任に呼ばれ相談室のようなところで「これを読みなさい」と手紙のようなものを渡された。
私が回し蹴りした男子のお母さんが担任に宛てたもののようで、口内を切ったのと歯茎への衝撃?で出血が多かったがとりあえずは大けがではないこと、
大けがではなくてもどうしてうちの息子がこんな目に遭わなければならないのかということ、男の子相手ならやんちゃ同士で許せるかもしれなかったが女の子にやられたなんて信じられないということ、
担任は私が手紙を読んでいる間ずっと泣いており、その後数日学校に来た後は長期の休みに入ってしまった。
手紙に書かれていた通り、私の父親は件の当日に私を迎えに来たけど、担任から事の顛末を聞いたくらいで後は私に何も言ってこなかった。
怒るでもなく慰めるでもなく事情を聞くでもなく。ガストで夕飯を食べて帰った。その日も帰宅してから別件でキレられ、殴られた。
数日後、男女数人で公園で鬼ごっこか缶蹴りかをして遊んでたと思う。
1人の女子を後ろから手で目隠しし数を数えていたら、知らない女の人がすごい剣幕でやってきて「やめなさい!」と怒られた。
危ない遊びはやめて!こないだの〇〇くんの時もだけどあなたの暴力性は信じられない!あなたはおかしい!女の子にも乱暴する気!?
みたいなことを言われ、めちゃくちゃ怒られた。
私は知らない人だったけどたぶん同級生の母親とかだったんだと思う。私がクラスメイトにケガをさせたことを知っているようだった。
取っ組み合いのような遊び方よりははるかに優しい遊び方をしていたと思うんだけど、自分が少し相手に触れるような遊び方をしているだけで大人はこんなに取り乱すんだ、と少しショックだった。
危険人物である、悪である、と人に思われていることを急に自覚して、なんだかとんでもない気持ちになった。
今考えたら子どもを育てている親からすれば暴力的な子が自分の子の近くにいれば怖いし叱るべきなのはわかる。
どう考えてもあの頃の私はおかしかった。
それから私は取っ組み合いや殴り合いをやめて、普通の子どもになったと思う。(体育や休み時間にやるスポーツは派手にやっていたけど、普段の生活では大人しくなった)
腹が立つことや納得いかないことも話し合いでなるべく穏便に解決することを学んで、大声を出して主張する人や嫌なことがあると物にあたる人、手が出る人を見ると嫌だなあと思うようになった。
子どもながらに自分のしてきたことを棚に上げたり棚から下ろして飲み込んで吐きそうになったり、ぐるぐる悩みながら中学生になった。
小学校には私以外にも男勝りをアイデンティティーにしているような女子が数人いたけど、中学校にはボーイッシュな子はいてもそんな暴力的な子はいなかった。
制服のスカートのままで毎日男子とのケンカを楽しんでいる豪快な女子なんてマンガの世界にしかいなかった。
中学校までは同じ小学校出身も多かったが、高校はなるべく遠く、同じ小学校の人があまり受験しない学校を選んだ。
穏やかでにこやかに、口の悪いこともなるべく言わないように過ごし、友人も文化部や帰宅部の和やかな雰囲気の子が多かった。
父は相変わらずスポーツチームの指導に勤しみ、家にはたびたび非通知で電話がくるようになった。
「うちの子がそちらのコーチに殴られて倒れた後蹴られたそうですが」「1人だけグラウンドを20周以上走らされ吐いたと聞いた。家に帰って来ても体調が戻らず、もうクラブの練習に行きたくないと言っている」
知らずに電話を取ってしまった時は人の憤りと恨みを直に感じてしまい1人で泣いた。
母がそういう電話を取った時は「名乗りもせず言いたいことだけ言って失礼じゃないですか?」と応戦していた。
父はそもそも電話が鳴っても取らない。家主は家では自分の席から動かず、家族は家主が動かないでいいように働くべきだそうだ。
鳴る電話は父が暇で電話の一番近くにいても必ず誰かが取らされ、電話が取れなかった時ややむを得ず父が取った時などは殴られた。
偶然小学校の同級生の男子と会社で同期となったので、2人で飲みに行った。
当時殴り合いをしていたうちの1人だったので、お互いに「お前落ち着いたなあ」と言いながら飲んだ。
私が男子を流血させて担任を取り乱させたことも覚えていたし、今でもその男子と交流があるという。傷は残っていないし、私の話が悪い意味で出ることもないらしい。
それでも「あの時はごめん」と謝った。涙が出た。
何と言っても私がしたことやあの時の自分の考えが変わるわけじゃないのに、女の私が泣くのはずるいと我ながら思った。
「俺も暴れる問題児だったからお互い様だ」と言われた。今度は件の男子も連れて飲もうと言ってくれた。
同期は父の教えていたスポーツチームにも所属しシバかれていたので、「父は理不尽に怒るし体罰もするし嫌いだったでしょう」と聞くと、苦そうな顔で「ま、あの頃は子どもだから……」と言われた。
私も父を好ましく思っていないはずなのに、そう言われて少し胸が痛かった。
かっこよくない。自分の気分だけで人を大声や暴力で威圧することなんて何もかっこよくない。
父は父母の署名により数年前にスポーツチームの指導者を辞めさせられた。
誰に言うということでもないので、増田に書き捨てておく。
成人式は狭いホールで行われる予定だったが、そのホールに入る前から着物やらスーツやらを着た新成人でごった返していた。中にはキャバ嬢のような派手な着物を着た女性や、逆立てた金髪と袴を合わせた男性などもいて、中学時代の卒業式を思い出して懐かしい気持ちになった。
成人式は中学校の区分で分けられているはずだったが、ホールの外ではほとんど同級生は見かけなかった。しかし、一旦ホールに入ると中学校の名前が書いた看板が立てられていて、なるほど、一つの中学だけじゃないんだと気づいた。看板が示す区分けのほうに行くと、必然的に見覚えのある顔がなんだか増えてきた。
見覚えのある顔と言っても中学校は定期的に引きこもっていておそらく2/3くらいしか行ってない。だから、あんまり感慨は無かった。ホールの中は人がごった返していたので、そんな感慨よりも人混みから早く逃れたいと言う気持ちと、後悔するだけなのになぜ参加したんだろうと言う気持ちが強くなってきた。
幸いな事に各中学の区分けには椅子が設置されており、式が一旦始まるとそれなりにスペースを確保する事が出来た。そのおかげで一息つく事ができた。
式には自分を半ば無理やり学校に連れ出した当時の担当が現れた。普通はこういう時ありがたいと思うのだろうかと思って「ありがたいぞ、これはありがたい事なんだぞ」と自己暗示を試してみたが、ありがたさは全く湧いてこなかった。スペースを確保してくれる椅子のほうがずっとありがたいとすら感じた。
式が終わると一斉に人群れが動き始めた。椅子に座って動きが落ち着くのも待っても良かったが、一人椅子に座っていて目をつけられても嫌だった。人波に乗ることにしたが、式が始まるよりも激しい人波から早く逃れたいと言う気持ちが俄然強くなっただけだった。
人波に揉まれているとどこからか「増田くん!」と言う声がした。振り返ると中学校の頃に良くしてくれた学級委員長のAさんだった。多少は恩を感じていた分、無視するのも悪い気がしたので、Aさんの方に近づいた。Aさんはぼんやりと記憶の中にある姿と思ったよりも変わっていなくて、少し嬉しかった。
「同窓会があって、今、出席する人を集めてるの。増田くんは出席する?」とAさんが聞くので、なるほど学級委員長は5年たっても学級委員長なのだなと妙な感心をした。「行くよ」と返事したが人混みの喧騒に紛れて聞こえたかは分からない。
そうこうしているうちにAさんは別の同級生を同窓会に誘いに行った。取り残された僕は人波にもまれているうちに早くここから離れなければと言う気が強くなった。多少の抵抗したが、人波に流されるだけだったが、なんとかホールから出る事が出来た。ホールから出ると記念撮影をしてる人がまばらにいた。当然、僕には記念撮影をする相手なんて誰もいない。
どこにも属する事が出来ずにぶらぶらしていると、B君に合った。B君とは中学時代よく遊んでいて親は僕とBくんが友人だと思っているのだが、半ば手下のような扱いをされたので僕はあんまり友人とは思ってない。そんな微妙な関係のBくんとはさしあたりのない話を少しした。Bくんは同窓会がある事を知らないのか、知ってて断ったのかは定かではないが、完全にもう帰るつもりらしかった。中学の時と同様に僕も流されて完全に帰る気になってしまった。
家に帰ると親から「同窓会はどうだった?」と聞かれた。人混みに疲れた、とだけ言うともう何も言ってこなかった。
その日のうちに大学の下宿に帰った。電車の中で、Aさんに返事が聞こえていても、誰の連絡先も知らないし誰も僕の連絡先を知らないな、と気づいた。
成人式から5年たった今でも誰の連絡先も知らない。だから同窓会がどうなったのかは分からない。
けれど、こうして時々、Aさんは元気にしてると良いなと思う。
小学校の頃、好きでもない相手から「はてな君が、増田君が私の事好きって言ってたんだけど、気持ち悪いから本当に勘弁してね?」と伝えられたこと。今でも覚えている。
視線を向けるな、話しかけるな、お前と関係があると思わせるな、プリントを回すときにプリントに指を触れるな、言葉を変えて色んな女に言われてきた。俺がブサイクで、ブサイクに好かれたらブサイクとのカップルとして扱われ恥をかくから、と。
中学校では流石に状況が変わった。多くの女は理性を手にして、相手がブサイクなだけなら人間扱いをする必要があるということを理解した。基本的人権の開眼を直ぐ側で何度も目にした当事者だと言ってもいい。
同時に、それでもなおブサイクを人間扱いしない一部の女達は、成長により手にした暴力や知識や冷酷さを俺を社会から排斥する行為に活用し続けてきた。許せねえ。しかし、あんな女を許すかどうかについて精神エネルギーを使うのが人生の無駄なので、あまり盛り上がる気にはならない。
高校、大学、会社、状況は変わらない。相変わらず女達の中には俺を天性の加害者として扱い容赦のない「反撃」を繰り出してくる奴が紛れ込んでいた。ブサイクは罪なのか?
ブサイクは罪なんだろうな。これは、男達の中にも変わらずある心だ。ブサイクは罪だ。ブサイクの触った食べ物は穢れるから食べれないと語る男達を何度も見てきた。ブサイクと同じ空気を吸うことに耐えられないよなと話を振られ、嫌われたくないので俺も相槌を打つた。俺はブサイク故に犯罪者、そして俺もブサイクという誰かの罪を裁く顔面偏差値の憲兵。咎人を裁く咎人。俺の罪が許されるはずもない。
産まれ落ちた罪。生きてきた罪。同族殺し。ブサイクという犯罪。その加害者。私刑の礫。その加害者。だが神に許しはこわない。人が産んだ人の決めた罪に過ぎぬから。それがブサイク罪。
「株式会社集英社: ぼくたちは/男子たちは 狼なんかじゃない。 少年ジャンプは「エロ」と「性暴力」の違いを区別してください。」 https://t.co/pkzmYuVeYp
このキャンペーン、男性が発信してる。体験がリアルなので、署名しなくても読んでほしい。
僕と少年ジャンプの話をします。僕は小学四年生の頃から現在社会人3年目の今まで週刊少年ジャンプをほぼ読み続けていました。
当時小中学校の時はToLOVEるなど女子と性的なコミュニケーションを取る漫画をハラハラドキドキしながら読んでいました。しかし大学生も後半の頃に当時ToLOVEるを読んでいなかったという友人(男)に出会いました。その時僕は理解ができなくてしどろもどろ興奮しながら「男なのに!?意味がわからない」と発狂しました。しかし今は「性暴力」と「女性も同じ人間」だという事を知っているので、彼がなぜToLOVEるなど性的な作品を読まなかったのか理解できます。「相手の同意を取らずに性的な行為をするのは性暴力で、相手の心を傷つけること」「女性の体を見境なく性的に見ることは当然のことではないこと」ということを当時の僕が知っていれば僕も彼と同様ToLOVEるなど性暴力を扱う作品を楽しく読むことはなかったでしょう。「性暴力含むエロを豪胆に愛して憚らないのが男らしさ」という少年誌のメッセージを内面化してしまい、性暴力を含む作品を声高に称賛して、男らしくなれてると錯覚してた自分は本当に恥ずかしいし迷惑なことをしていたなと思います。
小学校高学年の頃、東京に住んでいた僕は秋葉原もそこそこ近く、「非実在青少年」の話を皮切りにした漫画の規制の話をよく耳にしてました。少年ジャンプの作者たちも「読者は現実とファンタジーの区別ができる」と言った論調で規制を反対していました。ぼくも「その通りだなー」と思っていました。しかし今思い返してみると当時の僕は区別なんかできていないことに気づきました。今でもすごく心残りの事件があるのですが、僕が小学生の頃公園で遊んでいると同級生の男子が女子に棒アイスを差し入れました。僕は少年漫画でアイスやチョコバナナを男性器に見立てて、それらを普通に食べている女子をエロい目で見るというセクハラの存在を知っていました。しかし女子たちはそれを知らずに暑い夏だったので棒アイスを感謝しながら食べてました、男子たちは僕の予想通りいやらしい笑みを浮かべて彼女たちを見ていました。その時は嫌な奴らだな、でも「男子はそういうものだからな」ということが当たり前だと思い込んでいたので、問題な行動だとして注意をするという発想がありませんでした。男子たちも仲間内で露悪的だけど楽しいことをしているといった雰囲気でした。その男子集団のリーダーだった男子は高校生の時に風呂覗きをして学校を退学になっていました、風呂で盗撮した写メを男子のグループに共有したらしいです。多分いいことをしていると信じての行為だと思います。僕も彼も「男子はそういうものが好き」という少年ジャンプが発信する嘘の常識を信じ込んでしまっていた点は同だと思います。そのために、セクハラをされたらその人の心は傷つくという当たり前のことに気づけなかったのです。
小学生の頃、僕は少年ジャンプを作っている人たちに「子供は現実とファンタジーの区別ができる、倫理観や道徳観を持っている、判断がつく」というような期待をされました、そして今の僕がそれに答えるとしたら「性的な表現に関しては、十分な性教育を受けていなかったので正しい判断はできてなかった」と答えますし、現実とファンタジーという区切りではなく、「社会的責任がついて回る空間と、そうでない空間」での影響を論じるべき内容だと思います。
僕は面白い漫画を読むためにジャンプを買ってきたつもりです。大学の頃に出会った彼もそうだと思います。極論、ジャンプにエロ表現がなくても僕たちは大学生までジャンプを購読し続けてただろうと思います。
ジャンプ作品の性暴力表現は誰のために描かれているのか、僕は今、甚だ疑問です。
個人的に、女体を切り売りして、それを喜ぶ層に商売をする今のジャンプは見ててつらいものがあります。女女でやれば批判されないと思っているのか、この頃女から女にセクハラするという作品が増えています。今一度、同意のない性的な行為は相手が誰であろうと性暴力であり相手は傷つく、という認識をジャンプ編集部は持ってください。
漫画を使って教育しろと言う気はないですが、今のジャンプの作品内での女子の扱い方は、パブロフの犬のように、読者に「女体=エロ」と脊髄反射でつなげてしまう、そういう訓練になってしまうという一面があると思います。
「男は、女性の性的な部分を力づくやラッキーで見たいと思ってる」というような「男=狼」観を決めつけで小さい子供たちに信じ込ませるようなメディアを作るのは大人としてやめて欲しいです。
そもそも作品でよく描かれている高校生以下の女子は、大人が守るべき児童の枠の中にいます。倫理的にそういう枠の子をエロく描くのはいけないのではと思います。
「株式会社集英社: ぼくたちは/男子たちは 狼なんかじゃない。 少年ジャンプは「エロ」と「性暴力」の違いを区別してください。」 https://t.co/pkzmYuVeYp
このキャンペーン、男性が発信してる。体験がリアルなので、署名しなくても読んでほしい。
僕と少年ジャンプの話をします。僕は小学四年生の頃から現在社会人3年目の今まで週刊少年ジャンプをほぼ読み続けていました。
当時小中学校の時はToLOVEるなど女子と性的なコミュニケーションを取る漫画をハラハラドキドキしながら読んでいました。しかし大学生も後半の頃に当時ToLOVEるを読んでいなかったという友人(男)に出会いました。その時僕は理解ができなくてしどろもどろ興奮しながら「男なのに!?意味がわからない」と発狂しました。しかし今は「性暴力」と「女性も同じ人間」だという事を知っているので、彼がなぜToLOVEるなど性的な作品を読まなかったのか理解できます。「相手の同意を取らずに性的な行為をするのは性暴力で、相手の心を傷つけること」「女性の体を見境なく性的に見ることは当然のことではないこと」ということを当時の僕が知っていれば僕も彼と同様ToLOVEるなど性暴力を扱う作品を楽しく読むことはなかったでしょう。「性暴力含むエロを豪胆に愛して憚らないのが男らしさ」という少年誌のメッセージを内面化してしまい、性暴力を含む作品を声高に称賛して、男らしくなれてると錯覚してた自分は本当に恥ずかしいし迷惑なことをしていたなと思います。
小学校高学年の頃、東京に住んでいた僕は秋葉原もそこそこ近く、「非実在青少年」の話を皮切りにした漫画の規制の話をよく耳にしてました。少年ジャンプの作者たちも「読者は現実とファンタジーの区別ができる」と言った論調で規制を反対していました。ぼくも「その通りだなー」と思っていました。しかし今思い返してみると当時の僕は区別なんかできていないことに気づきました。今でもすごく心残りの事件があるのですが、僕が小学生の頃公園で遊んでいると同級生の男子が女子に棒アイスを差し入れました。僕は少年漫画でアイスやチョコバナナを男性器に見立てて、それらを普通に食べている女子をエロい目で見るというセクハラの存在を知っていました。しかし女子たちはそれを知らずに暑い夏だったので棒アイスを感謝しながら食べてました、男子たちは僕の予想通りいやらしい笑みを浮かべて彼女たちを見ていました。その時は嫌な奴らだな、でも「男子はそういうものだからな」ということが当たり前だと思い込んでいたので、問題な行動だとして注意をするという発想がありませんでした。男子たちも仲間内で露悪的だけど楽しいことをしているといった雰囲気でした。その男子集団のリーダーだった男子は高校生の時に風呂覗きをして学校を退学になっていました、風呂で盗撮した写メを男子のグループに共有したらしいです。多分いいことをしていると信じての行為だと思います。僕も彼も「男子はそういうものが好き」という少年ジャンプが発信する嘘の常識を信じ込んでしまっていた点は同だと思います。そのために、セクハラをされたらその人の心は傷つくという当たり前のことに気づけなかったのです。
小学生の頃、僕は少年ジャンプを作っている人たちに「子供は現実とファンタジーの区別ができる、倫理観や道徳観を持っている、判断がつく」というような期待をされました、そして今の僕がそれに答えるとしたら「性的な表現に関しては、十分な性教育を受けていなかったので正しい判断はできてなかった」と答えますし、現実とファンタジーという区切りではなく、「社会的責任がついて回る空間と、そうでない空間」での影響を論じるべき内容だと思います。
僕は面白い漫画を読むためにジャンプを買ってきたつもりです。大学の頃に出会った彼もそうだと思います。極論、ジャンプにエロ表現がなくても僕たちは大学生までジャンプを購読し続けてただろうと思います。
ジャンプ作品の性暴力表現は誰のために描かれているのか、僕は今、甚だ疑問です。
個人的に、女体を切り売りして、それを喜ぶ層に商売をする今のジャンプは見ててつらいものがあります。女女でやれば批判されないと思っているのか、この頃女から女にセクハラするという作品が増えています。今一度、同意のない性的な行為は相手が誰であろうと性暴力であり相手は傷つく、という認識をジャンプ編集部は持ってください。
漫画を使って教育しろと言う気はないですが、今のジャンプの作品内での女子の扱い方は、パブロフの犬のように、読者に「女体=エロ」と脊髄反射でつなげてしまう、そういう訓練になってしまうという一面があると思います。
「男は、女性の性的な部分を力づくやラッキーで見たいと思ってる」というような「男=狼」観を決めつけで小さい子供たちに信じ込ませるようなメディアを作るのは大人としてやめて欲しいです。
そもそも作品でよく描かれている高校生以下の女子は、大人が守るべき児童の枠の中にいます。倫理的にそういう枠の子をエロく描くのはいけないのではと思います。
中学校で教えるべきだわ
図形に線を一本引くことで∠ABCの角度や、辺BCの長さが求められるようになるやつだ。
これを見つけて引く、というのができる人が当時から超能力者に見えた。なんでここに一本引けば答えがわかることに気づくんだろう?
一体どういうふうに補助線を見出していたのか、40を過ぎた今になって彼らにすごく質問したい、おじさんの人生はどこに補助線を引いたら問題が解けるのか?と。
こんなどうでも良い話にコメントつくとは思わなかったが、切り込み入れたら線じゃなくて面だろ、、、
無料で読めるし、話題にもなってるのでピッコマや漫画UPでいくつか読んだ
読者層がまともにプロセスを経て成果を得るという体験に乏しいため、結果が先にあり逆算的に問題と解決が発生するような作品が多いように感じた
ターゲットの読解力なども低く想定されてるからか、問題やその解決方法も単純で一辺倒に思えた
美少女にモテるという結果のために、問題が発生し、それをチートで解決する
貴族に気に入られるという結果のために、問題が発生し、それをチートで解決する
ここはオレといっしょだな。オレはロスジェネじゃなくて、バブルの一歩手前くらいの、就職楽々世代だったのだが。
クラスの中では1番か2番くらいに背が高かったので、小学校の時に2〜3回喋ったことがある程度の薄い関係のセンパイに
「お前、背が高いからバレーボールやれよ、エースアタッカーになれるぞ!」って誘われて、まぁ運動嫌いだし運動神経も平均以下だけど、どっか入部するのが義務だからしゃーないか!って気分で入った。
球拾いが8割がただったが、パスとかレシーブとかの練習もそこそこやった。
生来の運動音痴なので、スパイクの練習があっても、5回に4回は空振り。まともに当たって相手コートにボールが飛ぶことは皆無だったね。
で、1学期の終わりくらいにはもうだいぶやる気を無くしていて、そこで新入部員が新しいユニフォームを買うことになった際に、
番号が1から10何番までついてるやつで、「4番」という縁起の悪い数字を押し付けられたのがイヤで、退部したw
その後、1年くらいは、どこにも所属してない「帰宅部」で、のらりくらりした。
2年生の2学期くらいに、いろいろ説得してくるセンセーをかわしきれなくなって、吹奏楽部にこれまたイヤイヤで入部、一番「容易」とされるパーカッション担当で、タンバリンとか木魚とかトライアングルとか叩きまくるw
その後、センパイが卒業して欠員ができたティンパニ担当となり、メキメキ頭角を現さなかったが、出場した地区コンクールの審査員評で
「ティンパニの音程はなかなかしっかりしている」との評価を受け、それが中学校時代の最良の思い出であるw
おわり
終戦の日は、Y君の命日です。
高校時代の同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。
Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。
しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。
Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校の受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。
入学式からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップの公立高校を落ちてきた人間でした。
はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。
端から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。
入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。
第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ校合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。
その時の僕にはまだ、そんな理由で勉強をはじめようと思う理由を理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意に入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。
とは言っても、その後Y君が試験のライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラスの文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラス二クラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。
交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。
彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街に引っ越してきたので、同じ中学校の出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えます。しかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。
Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いています。しかし、同じクラスのテニス部員から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。
Y君と同じグループのテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦のメンバーに入ることはなかったそうです。
ときに一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活の練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。
僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。
Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。
高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強のノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活が休みになってY君が加わったことが何度かあります。
Y君が、自分の勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間の発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間の発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者の発言に賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。
僕らはみな自分に合わせて勉強のスタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。
僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語の勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題を毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習を英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間は文法を勉強していた方が都合よかったのです。
そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法の問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。
時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベルな英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。
学年上位の彼女の場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。
すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベルの問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。
試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。
Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法・勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分に必要な勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。
高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験室から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ、模試のたびに奪い合うのです。
事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑の眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。
勉強をしたからテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位で一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。
正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。
僕は、努力の方向性を間違える人間は愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間を軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑の対象でした。「三年の夏に部活を引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。
当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分を鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。
みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学だから、日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部二学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命は早慶、国公立大学」
Y君が目指したのも、早慶の文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格は絶望的なので記念受験だったと思います。
日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専を第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベルの大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。
先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学に合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力の甲斐あって志望校に合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベルの大学です。
高校の卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館で勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。
僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分の精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。
僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。
Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専の文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学の教育学部に合格したのも少なからず影響があったと思います。
Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。
Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法中レベルの大学に手応えを感じていたそうです。高校時代の担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専の合格は決まっていました。
しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専の手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専の入学一時金を払わなかったそうです。
かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪、二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイで変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後のメールには、そう書かれていたそうです。
苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間だけが、成功を評価できます。しかし成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。
三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています。
同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。
二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察に通報したそうです。海上保安庁と警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。
沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。
暗く塩辛い海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。
人生の遠回りを許さない日本の空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分の責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。
彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。
彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。
こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。
今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れます。しかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。
実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれた田舎の風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。
「高校で文学の勉強をせずに、もっぱら実用文に重きを置いた教育をすることになった」という記事だ。
「本が読めない人」を育てる日本、2022年度から始まる衝撃の国語教育 | 教育現場は困ってる | ダイヤモンド・オンライン
あまりにも間違いが多いので、どこかでデマとして中和されるだろうと思っていたが、一向に中和されず、インフルエンサーまでツイートしはじめる始末なので、無駄かもしれないが、間違いを指摘しておきたい(一部については、心ある人の指摘によって途中で記事が修正されている。ありがとうありがとう。)
デマに対処するのは面倒だが、整理しつつ述べていきたい。なお、この文章は今回の改訂の方針に賛成・反対という立場を採らずに書く。
「2021年から「大学入学共通テスト」が実施され、それに合わせて高校の国語の改革も行われることになった。」と書いてある。これはその通り。そして、モデル問題として、「国語に関しては、生徒会の規約、自治体の広報、駐車場の契約書が問題文として出題された」と書いてある。これもその通り。
しかし、既存の「小説(詩)」や「評論」が出題されなくなるわけではない。このことを書いていないことが悪質だ。モデル問題は、記述式がなくなったため、参考になりにくくなっているが、ちゃんとモデル問題そのものを見てほしい。思ったものと違うはずだ。
「実用文」は確かに出題されるようになる。だが、それだけを出題するわけではない。古文も漢文も出る。
ここからが少しややこしい。高校の国語には「必修科目」と「選択科目」がある。
必修科目は主に1年生で学ぶことになる科目だ。これには、「現代の国語(評論文や実用文)」「言語文化(小説や古典)」の2つがある。これはどちらも学ぶわけだ。科目を2つに割ることはどうなのか、という議論はあるが、「小説」が消えるわけじゃない。
記事の中で書かれているのは、2年生以降で学ぶことになる選択科目だ。これには4科目ある。
「論理国語」:実用文や評論文 論理的に書いたり話したり聞いたりすることも学ぶ
「文学国語」:小説や詩 小説や詩を読んだり書いたりすることを学ぶ 創作楽しみだ
「国語表現」:主にコミュニケーション中心の科目。レポートを書いたり、スピーチをしたり、ディスカッションしたりを学ぶ
「古典探究」:古典 古典を読んだり、古典について探究的な学習を行ったりする。古典と現代の言葉を比較して変遷を調べたりもする
中身は大ざっぱに書いている。くわしくは学習指導要領を読んでくれ。
で、この4科目から、おそらく「2科目」(多いところは「3科目」)選ばれるだろう、というのが今の目算だ。
いわゆる進学校だと、入試を考えると外しにくいのが「論理国語」。これは記事にも書いてある通り。もうひとつは「古典探究」が確かに有力だろう。だが、「文学国語」が選ばれる可能性もそれなりにはある。
そもそも元になっている記事は「古典」にまったく触れていない。「古典」にはかなりの部分文学が含まれるのだから、「文学の勉強をしない」は嘘っぱちだ(古典文学よりも近代や現代文学が大事だ、という主張ならばできる)。
さて、肝心の「論理国語」だが、記事ではあたかも「実用文」の科目であり、「駐車場の契約書、レポート、統計グラフ、取扱説明書」を学ぶかのように読めるが、これだけではない。
対象になっているのは、「論理的な文章(論説文や解説文,社会生活に関する意見文や批評文等)」と「実用的な文章(法令文・記録文・報告文,宣伝文等)」だ。記事では前者についてほとんど言及していない。そして、このどちらも単純に理解できるようにするんじゃなくて、散々言われてきたように「批判的に」読めるようにすることをねらっているものだ。
記事に書いてある「実用文しか読まない非教養人」を育てることになる、という指摘はミスリードだ。そして、こういう記事にミスリードされない人間を育てようとしているのが、今回の改訂だと言ってもいい。とはいえ、専門外の文章を批判的に読むことが難しいことは、今回のことでもよくわかっただろう。
今回の改訂には問題も色々ある。だが、不確かな情報で議論したところで得るものは少ない。
とりあえず、ダイヤモンドオンラインの書くことを真に受けて、「これでは日本が崩壊する!」とか叫ぶのはやめてほしい。「本当かな?」と思って調べる一歩を大切にしよう。
ブックマーク数15は超えて安心したが、デマに対するワクチンにはなりそうになくて残念だ。
とにかく、教育に関する議論は「自分が受けた教育」をベースに話す人が多いが、それには注意しよう。今のコンピューターのことを話すときに、WindowsXPの経験をもとに話されても困るだろう(これは比喩)。教育も同じことで、少なくとも10年単位で教育はかなり変わる。教科書も変わる。確かに、高校は変化がにぶい。だが、小学校や中学校は大きく変わっている。もちろん、「変わる」ことがいいことだとは限らない。
現状に問題がないわけでは全然ないが、自分が「いつの問題」のことを話しているかを意識して話さないと、互いの話は食い違い続ける。
こういうご指摘をはてなブックマークでいただいた。ありがとう。
myogab
反論の組み方が藁人形論法ぽくて、元記事の筆者もそんな極論だけを吹聴する気はないだろうよ…って感想。誤解が広まってるなら訂正は要るだろうが、論点逸らしをしてるなら逆効果だろな。
藁人形論法のつもりはなかったのだけど、冗長になると思ってあまり引用しなかったせいかもしれない。できれば元の記事を読んでみてほしい。論点は色々あるが、この記事では論点を示すことが目的ではなかったので触れなかった。触れた方が盛り上がるのかもしれないけど。
で、誤解なのだが、わりと広がりつつあって頭が痛い。Twitterでは、「#国語教科書の小説廃止に抗議します」というハッシュタグがある。だから廃止しないんだって。
今日は町山智浩さんが「国は国語教育から文学より実用文を重視する方針ということですが、それでいったい誰が国語教師になるというのでしょう?」と元の記事を引用してツイートしてた。読書猿の人も(おそらく好意的に)次のツイートをリツイートしてる。
hhasegawa
文学中心ではない国語教育を、というのは実はわからぬでもないものの、そこで持ち出される「実用文」が「生徒会の規約、自治体の広報、駐車場の契約書」なのがいかがわしい。文学以外の文章といえばそれしかないの?
小説や文芸評論ではないテクストがすなわち規約や広報や契約書ではないわけで、例えば論説記事でも歴史叙述でも新書のような学術的概説でもそれに該当し、どれも相応に「実用的」なのである。要するに、「論理国語」で真に排除されかかっているのは文学ではなく、「テーゼのある文章」一般ではないか。
「論理的な文章」に「論説文」が入ってるんだから、「テーゼのある文章」が排除されるわけがない。これも、元の記事があたかも「実用文」だけを学ぶ科目であるかのように書いたことが原因だろう。このツイートをした人は、数日後に次のようにツイートしてる。
一応、「論理国語」教材に「新書や新聞の社説などで取り上げられる様々な分野の学術的な学習の基礎的な課題に対して、論点が明確になるようなもの」も挙げられてはいた。が、ここまで「実用」志向だと、この「論理的な文章」の内実もどうなることやら。
その心配はたぶんないよ、と言いたい。これまでの傾向から完全に変える冒険を教科書会社はできない。これは良くも悪くも歴史が証明している(いや、悪いのだが)。冒険をする教科書は売れない。
このあたりの人は、いわゆる「一般の人」よりはリテラシーがあると思う。が、それでも不確かな記事をもとに不確かなことを言ってしまう。これはまあそういうもんだよな、と思うんだけど、燃え広がりつつあると真顔で「それはちがうよ」と言うしかない。