はてなキーワード: 経済学部とは
「逃げ恥」心理学を学んだことがある人たちは内容がリアルでいかにも…と思っているという話(togetterより)
「心理の院生がやりそうなダメっぽい研究」という指摘があったので、少し情報を整理して感想を述べる
原作冒頭において、こんなやりとりがある
黒●徹子(妄想)「あなた 大学では心理学をお勉強なさってたんですって?」
みくり「はい それで」
徹子「それで就職は人事部や企画 商品開発なんかを志望していたと」
徹子「だけどあなた ウフ ごめんなさい 全滅だったんですって?」
みくり「そうなんです 今思えば もっと業種を広く」
徹子「それで就職職浪人するよりも と大学院進学をしたけど 文系大学院は就職がさらに大変だったらしいじゃない」
みくり「文系の院全てがそうとは言い切れないとは思いますが 院で臨床心理士の資格を取ったのでそれを生かせる仕事ができればと」
徹子「でも 心理カウンセラーとかスクールカウンセラーは中々就職がなかったと」
――海野つなみ「逃げるは恥だが役に立つ 第1巻」より
臨床心理士は指定された大学院修士課程を修了後に「受験資格」が得られる
そして、臨床心理士資格認定試験は毎年10月に開催され合格発表は12月となる
修了後の4月は無資格なので、資格取得見込みでも受け入れてくれる仕事を探さないとならない
同じ大学院・研究室の先輩や指導教官に紹介して貰ったり、非常勤で週2~3日の仕事を自力で見つけて応募することが多い
作者である海野つなみがどこまで知っているかは不明だが、みくりは大学院修了後にそうした仕事にもつけず、資格取得後も就職先が見つからなかったことになる
ストレートで卒業・修了・資格取得をしたとすると、この時点で24歳である
心理学部・学科卒業で人事部や企画・商品開発を志望すること自体には問題がないが
「仕事がない」という理由だけで、より狭き門であるはずの心理職に進む所に見通しの甘さが感じられる
専門職である心理職は、何かの代わりに選んで成れるような進路ではない
(正直、指導教官や周りは大学院進学を止めなかったのか。それと、こんなにふわっとした見通しの甘い人間に、臨床心理士試験の面接官はよく合格を出したな)
「甘く見てましたね。まさか文系の大学院卒がこんなに就職できないとは」
「大学院では心理臨床コースを選択、卒業後に臨床心理士の資格を取得した上で再び就職活動に臨んだ(ナレーター)」
「2013年度 青明大学大学院入学式(大学院時代の写真より)」
2.2履歴書(一部抜粋および組換え)(出典はhttps://twitter.com/i/events/868751617960443908:title=こちらから)
【提出先(※推測)】
【提出日】
2014年12月15日(※大学院2年(最終学年)の12月に提出したものであると思われる。つまり、物語開始より1年前ほどのものになるか)
【生年月日】
【住所】
神奈川県横浜市都筑区黒沢5-5-6(※黒沢は架空の地名とのこと)
【学歴】
【資格】
2012年6月 実力英語検定2級(※いわゆる英検は、正式名称が「実用英語技能検定」であるので誤記の可能性がある)
2014年12月 臨床心理資格(取得予定)(※ナレーションでは「臨床心理士」と言っているため、誤記の可能性がある)
趣味はカフェ巡りです。特技は整理整頓です。サークルはお散歩サークルに入っていました。
具体的な内容:上記のテーマを「幼少期の両親の養育態度」と「甘え」の観点から分析しています。この研究で青年期になっても対人関係にコンプレックスを強く持つ者は、幼少期に両親から否定的なイメージを受けており、「甘え」という行為が成立していなかった場合に多く見られた。これによって「甘え」の形成は対人関係を育てることが分かったが「甘え」の感覚を得るには両親との幼い時の関係性が重要であることが学びとれた。
真面目なところと思いたったらすぐに行動するところです。
私の長所は真面目な所です。頼まれた仕事はきっちりこなす性格です。短所でもありますが、突拍子もないことを考え、思い切り突っ走ってしまい、びっくりされてしまうことも多いですが、その新しい発想のおかげで上手く運んだこともあったので、長所としてとらえています。
【学生時代に打ち込んだこと】
心理学の研究です。私は人の役に立つことが好きで、人が何を求めているか察知できる人間になりたいと思い、心理学を専攻しました。心理学で学んだことをアルバイトでの接客でも発揮され、お客様が求めていることを先回りして提供することができるようになりました。今後も、会社というチームの一員として自分に何ができるのか、お客様には何を提供できるのか、心理学を生かして察知していきたいです。
【志望理由】
私は貴社で、新商品の開発や企画に携わりたいです。貴社はもぐもぐ蕎麦という今までこの世になかった新しい商品で、世界の食文化を変えた会社であり、私ももぐもぐ蕎麦のように世界の文化にインパクトを与えるような商品を開発したいと思っています。大学では色彩心理学や希少性の原理などを学び、消費者心理についても研究してきました。大学院まで心理学を勉強してきたことを生かして、消費者がついつい買ってしまいたくなるようなアイデアを提案したいです。
世界中の、とくに栄養の不足に悩まされている地域の人々に、自分の開発した商品を伝え、健康を改善してくことが夢です。栄養不良に悩まされている人は8億人以上いるといわれていて、普及するには手軽さ・価格の安さ・おいしさの3つが必要だと私は考えます。そのまま食べられる、あるいは水やお湯などをかけるだけで簡単に作ることができ、安価ながらもおいしい食材で作られた商品を開発し、世界に広めたいです。
「青明大学 舞台」で調べた所によると、ロケ地自体は「日本大学経済学部7号館の前」との情報がみつかった
「青明大学」と同名の大学は勿論ないが、名前の響きからして「青山学院大学」や「明治大学」「明治学院大学」が近いと思われる
何となくこういうリア充的な雰囲気の学生は青学じゃねえのかという偏見がある。というか、青学は児童系の心理に強いイメージがある。なんでそんな大学院を選んだんだこいつ。何も考えないで生きてんのか
この場合、大学院修了後の2015年12月に臨床心理士資格は取得見込みとなる筈である
履歴書には「2014年12月 臨床心理資格(取得予定)」となっているので、資格名もしくは取得時期については現実の制度とは違いがある
ナレーションの説明とも乖離が起きているので、作成したスタッフの誤記や勘違いの可能性がある
他の資格について、大学1年生の11月に漢検2級を、大学4年の6月に英検2級を取得している
全体的に、こんな薄っぺらいやつ採用試験で落ちて然るべし。もっとちゃんと考えて進路決めなさい
漢検や英検くらい高校で取っておけよ。というか、色彩心理を研究したというなら、「色彩検定」とか「カラーコーディネーター検定」とか、色彩計の資格を取っておきなさいよ。
商品開発したいなら、日本商品開発士会の資格でも取りなさい。合格率も低くないみたいですよ
他国に自社の商品を売り出したいと思うなら、TOEICとTOEFLくらい受けておく発想には至らなかったんでしょうかねえ……
履歴書とは関係ないが、人事に行きたいなら産業カウンセラーを取りながら就職活動をしても良かったのでは……
臨床心理コースなので仕方がないが、「青年期の対人恐怖心性と自己愛傾向について」と志望部署の関連が薄い。本気で商品企画・開発したい人の選ぶ心理ではないよねえ
「青年期の対人恐怖心性と自己愛傾向について」は手垢が付いたような薄い研究なんよ。青年期を対象にした研究室でよくある、質問紙を都内大学生に沢山配ってやるような量産型研究なんですよ。土居健郎の「甘えの構造」とかを理論的支柱にして、適当な尺度を組み合わせて因子分析とか重回帰分析掛けるとそれっぽいデータが出るんですよ。そこらの大学の卒論発表会レベルのものを、大学院でやってはいかんのですよ。指導教官何やってんの。きっとこれじゃ、修論審査会でボコボコにされますよ、本当に(ry)
うだつのあがらない人生。目標や夢も特になく、彼女もいない、バイトして週末は友達と酒飲んでタバコ吸って二日酔いで過ごす日々を送ってきた。
なんか楽しいことないかなーって、ボケーッとテレビ見てたら黒柳徹子がスクワットが如何に素晴らしいかを説いてた。スクワットをすれば健康的に過ごせるらしい。
徹子曰く、爪先から膝が出ないように注意してスクワットするといいらしく、一回やってみたら確かにきつい。彼女は毎日50回やるそうだが、私は最初40回前後で限界を感じた。確かに生きてる感じがした。そこから私のスクワットライフがはじまった。
週五でスクワットした結果、1ヶ月後には100回以上はこなせるようになり、なんなら腕立てや腹筋、背筋もしてみようと筋トレにはまり、加えて体幹や有酸素運動(30分〜1時間ジョギング)もこなすようになった。
半年後、体重は10kg近く減り、体脂肪は11%と徹子のスクワットのススメきっかけで細マッチョになった。猫背は改善し、集中力もUPし、自信がついてモテ期もきた。筋トレしてると食生活にも気を使うようになり、酒量が減って、禁煙もした。
高校卒業後は4年ほどバイト生活をしていたのだが、大学に行きたいと思い、一念発起して4月から自力で勉強を開始。奇跡的に国立大の経済学部に合格し、東証1部上場企業に就職でき、コツコツ給料も上がってる。そして今もスクワットライフを続けている。
そういうわけでスクワットはマジでおすすめ。金はかからないし、スクワットだけなら3分もかからない。変な自己啓発本を買ったり、オンラインサロンに入るよりかスクワットした方が絶対いいと思う。
モヤモヤしてる時は限界スクワットがオススメ。これは自分が限界を感じたところからプラス10回を目標にスクワットすること。限界スクワットすると、サウナで整ったというか生きてる感じがする。野生に戻る感じ。オススメ
まず言うまでもなく、二次試験を行う場合、問題作成・管理・試験実施・採点のコストがかかる。単純にセンター試験の点数順に合格者を決めれば、これらのコストはかからない。
次に、二次試験には悪問が多い。大学入試には毎年、ほぼ全ての大学で、手をつけなくても合否に影響の無い難問奇問が出題される。これは試験の役割を全く果たしていない。入試問題は、高校の勉強の習熟度を図るために作成されるべきであり、一部の入試マニアの嗜好を満たすためにあるのではない。
勉強熱心な受験生諸君には残念なお知らせだが、二次試験の対策は、大学で学ぶ上で何の役にも立たない。大学入試の問題は、上に述べたような入試マニアを興奮させるための難問奇問にかなり偏っており、現実的に入試対策の大部分はそれらの対策となる。この入試に出てくる難問奇問は、大学で学ぶ学問とはほとんど何の関係もない。実際、たとえば経済学部生が高校数学を復習しようと思ったとして、東大や京大の過去問を解こうとする奴は一人もいない。
採点のコストとも関係するが、入試問題の採点には採点者の主観が大いに関係する。どう言うことかと言うと、採点者によって採点基準が異なるので、採点基準にズレが生じると、採点者間で議論をして全体の出来とか諸々を考慮して、その都度採点基準が変わる。その基準は全く公開されない不透明なものである。だから、たとえば受験生が極限の問題をロピタルの定理を使って解いたとして、それがマルになるかバツになるかは状況によって変わる。「この問題はほぼ全員できていたから、点差をつけるために、相加平均・相乗平均の不等式を使うところで、xとyが正の数であることを明記していない答案は減点する」などということは普通にある。マークシートならば、このような不透明さは無い。
そもそも現実問題、二次試験が必要な大学は日本に存在しない。東大ですら、合格者のセンター試験の得点は8割弱〜9割後半まで、200点近いばらつきがあり、単純に点数順に合格させるだけで意味のある選抜になる。その上、センター試験には上記に述べたようなデメリットは無い。
■ 慶應閥
三田会という組織を中心に、秘密警察のように梅雨時のカビのように広がる。
大学の特性として、平均的には能力が高いものの、本物のポンコツが結構含まれている。
にもかかわらず依怙贔屓で上からの引っ張りがあるので、バカ上司死ねと思ったら慶應だったりする。
慶應閥が強くない会社でも、トップが慶應になったとたんに慶應閥がはびこりがち。
慶應閥がはびこった会社は、必ず滅亡への道を歩む。カネボウ、三越、東芝…
地方ベンチャーとかで元気よかったのに、二代目が慶應で没落というのもよく聞く話。
要は、大変たちが悪い。
■ 一橋閥
如水会という組織を根城に、ハイフライヤーって感じで勢力を伸長する。
慶應との違いは、2つほどある。
一つは、単に就職偏差値が高い程度の会社だと、一橋出身者は閥をなすほど入らない。非常に高い会社にのみ存在する。
もう一つは、平均的能力も高いのは言うまでもなく、明らかなポンコツはごくまれ。
それにしても上からの引っ張りは強力。
要は、相当たちが悪い。でも慶應ほどではない。なぜか。
一橋閥は能力が高いし、彼らは一橋卒といえども無能を嫌うので、慶應閥のように会社を潰すことは稀だからだ。
鞏固な結束を誇る一橋閥にしても、慶應閥にしても、結束力がむやみに強い理由は、本質的には一つしかない。
それは次で述べる。
■ 東大閥
個々の戦闘力では、ほとんどの場合慶應と一橋は東大には及ばない。
むろん、慶應・一橋のトップと東大のボトムを比べれば、前者が圧勝するのは言うまでもない。
しかし、慶應・一橋のトップが入るとこには、東大のトップが入り、やはり残念ながら、個々の戦闘力では勝てない。
東大卒は無能を嫌う。東大卒の無能を最も嫌う。一緒にするなと思うからだ。
東大閥が存在すると言われる組織はあまたあるが、実際には東大閥は存在せず、たまたま東大卒がたくさん入るというだけだ。
東大法学部は経済学部と教養学部をさげすみ、経済学部と教養学部は文学部をさげすみ、群れることは一切ない。
一人ぼっちのオオカミが群れているように見えるのが東大閥の正体だ。
ただし、彼らは無能をことのほか嫌い、有能を評価するが、その場合の有能の評価基準は、知的な情報処理能力の高さだ。
そして、その能力が高い人間は、結果として東大卒である場合が多い。
東大卒が閥をなすとき。これは、慶應か一橋か京大のいずれか2つが閥をなし跋扈している場合だ。
その場合の東大閥の腹黒さ、他を蹴落とす策略の陰湿さは他に例を見ない。
結果として、東大閥と慶應閥と一橋閥と京大閥が争った場合、ハルマゲドンが発生する。
このハルマゲドン、私は唯一例しか知らないが、メガバンクが一個、本当に10年足らずで吹き飛んだ。三和銀行である。
■ 京大閥
京大は、地理的な遠隔もあり、上の三者の中間的な立ち位置になる。
すなわち、関西にあっては東大のように振る舞い、東京にあっては一橋や慶應のように振る舞う。
しかし、東京にあっては数が少ないので、慶應や一橋のようなパワーは多くの会社で持っていない。
京大閥が跋扈する会社は、関西発祥だが東京で生き延びている、住友系の会社が主である。
なお、東大に官僚志向が強いように、京大も、官僚志向が存在する。
しかし、国家公務員は東大濃度が高すぎるので、大阪市役所あたりに隠然と力を蓄えたりしている。
が、ここ30年の大阪市の長期低落で、有能な才能がすべて無駄遣いされている。
東大卒や一橋・慶應閥の荒野の中で勝ち抜いた京大卒というのが時折トップになるのを見る。
ただ、そういうトップは、意味なく東大を排除したりするので、コンプレックスというのは度し難いと感じさせられる。
結果、京大卒のトップが、東大を排除した結果、一橋又は慶應が跋扈するという事態が発生するのは時折観察される。
某赤いメガバンクなんかそうなってるって聞くよね。
他にリクエストがあれば書くよ!
「40歳でGAFAの部長に転職した僕が20代で学んだ仕事に対する考え方」っていう本が本屋の話題の本コーナーに載ってた。
気になって調べてみたけど、めちゃくちゃ怪しい。
・具体的にGAFAのどこで部長として採用されたのか?(具体的に言うとだめなの?)
・GAFAの部長ってどんな役職?(部長って言うの?○○マネージャー等では?)
・Kindle版を書籍にしたからか、目次からして内容が薄い(「会議とは何かを決める場所」って、会議の目的ってそれ以外になにかある?)
・「部長として○○しました」っていう記載がない。(このくらいのポジションなら、自分の実績自慢するよね)
・灘→東京大学経済学部を卒業後、日系メーカー(複合機メーカー)で17年間勤務。(その経歴で複合機メーカーに入る?)
情弱を狙ったハッタリにしか見えないんだけど、ショーンkみたいに、誰かに問い詰められないの?
みんなで騙そうとしてるみたいで怖い。
自分には悩みがある。それは「就活でアピールすることがない」ということだ。
(注 ここから先ただのくだらない愚痴です。聞いていてもつまらないと思います)
就活の時にやたら特技や何か珍しい経験を求められるが困ってしまう。
というのも自分は小学校に入学してからというのも、ただ学校へ行って授業を受ける、友達と遊ぶ、習い事に行くというのをただひたすら繰り返していただけだったのだ。中学、高校で部活もあったが自分はたいして何も結果を残していない。あるから行くを繰り返していただけだ。
大学でもそうだった。ただ自分が行けそうな大学を目指して勉強して入っただけだ。経済学に興味はたいしてない。部活も入ったがたいして何の実績もない。
バイトも別に普通のバイトだ。バイトで何か新しいことをしたというわけではなく、ただ任された仕事を淡々とこなしていただけだった。
単位も落とさないように計画を立てて順番に取ってきただけだ。成績も平凡である。
それで就活どうしよう というと 何かアピールできるのを準備してこなかったのが悪い といわれる。
だが、そういわれてもアピールできるほどの成績を部活で残せる人は少数派だろうし、資格なども本当にアピールできるのなんてそんなにないではないか。
バイトだって少し変わったのないの?といわれてもそんなに珍しいバイトや経験など自分は求めていない。なんでわざわざ珍しいバイトをする必要があるのか。
普通に飲食店でバイトや家庭教師など王道のバイトで生活していけるのだ。それでつまらないといわれても困ってしまう。
生活費が欲しいだけだ。就職だって同様だ。金が欲しい。ただそれだけ。
だいたいそもそも普通に横道にそれず淡々とやってきました がなぜ否定されるのか分からない。
そりゃ副業で100万とか稼いでいる人やスポーツで実績がある人がすごいのは良く分かる。でもそうは言ったって自分はこれまでの生活に不満がなかったのだから変える理由などなかった。
それなのに今就職になると急に人と違うことを求められる。はっきり言ってしまうと悪いが、私の学校にも変わったやつというのはいた。
でも別にそういう人達になろうとなんて思わなかった。だって別になる理由なんてないからだ。
私の周囲を見回してもこういう人は多い。絶対に自分のようにただ生活してきたという方が多いはずだ。なんでわざわざ少数派に合わせる必要があるのか。
嫌なら起業すればいい、海外に移住すればいい という人もいるがはっきり言ってなんの役にも立たない。「起業すればいいじゃん」って言われて起業する人などいるのだろうか。
それに海外に移住しろといわれても自分は日本語しか話せないから難しい。
あとおそらくだが海外移住は自分にとってそこまでいいものではない。自国で生きる方が楽に決まっているだろう。なんで法律も言葉も宗教も娯楽も違う国に行けというのか。それにそんなことをアドバイスするあなたはなぜ日本にいるのか。そんなに海外がいいならあなたこそとっとと日本から出ればいいじゃないか。
社会は厳しいといわれても みんなで厳しくない世の中を考えた方がいいだろう と思っている。
文句を言うなと言われても「言論の自由」があるし、そもそも日本は民主主義だ。それに文句を一度も言ったことない人はいるのだろうか。
だいたい「我慢しろ」なんていうアホみたいなルールでこれまでやってきたから少子化などが起きたんだろう。ブラック企業がこんなに世の中にはびこっているのだろう。
それにおそらく自分の思いに共感してくれる人は他にもいると思う。
自分は平凡の人間だ。だけどその分法律などルールは守るし、仕事も淡々とこなすつもりだ。別に残業もするし、後輩の面倒も見る。
それだけだ。
別に珍しい経験がある人の評価を下げろとは言っていない。そういう人だって頑張ってきたのだから就活が楽でもずるいとは思わない。
2歳の子供のいる26歳で、悪くない大学の経済学部を出て製造業の中では悪くない企業に就職しました。趣味がたくさんあって、正直言って一人でも生きていける人間だと思っています。独身の頃のように月に15万も20万も使えないですが、今の生活はそう悪いものではありません。
嫁は昔から子供が欲しかったようで、何度もその話をす繰り返し、その度に険悪なムードになりました。僕は子供と過ごすより嫁と2人で過ごす時間を多く持ちたかったので、子育てという選択は(若くて何でも挑戦できる)20代に選ぶつもりはありませんでした。
おそらく我々のようなタイプは、子供を持つことに対しデメリットを考えすぎるのではないかと思います。理性的に考えた場合、正直言って子供はリスクの塊です。このクソみたいな世界に命をひとつ生み出すことに対する責任というか、申し訳ないような気分になりませんか?また今後決して彼と家族を決して飢えさせることなく、我々が受けたような教育を受けさせることは非常に難しいと思いませんか?普通そう考えますよね。
我が家は嫁がどうしても欲しいというので、一か八かで挑戦しました。嫁は生まれるまで概ね楽観的で、僕は悲観的でした。大きくなるお腹と同じくらいのペースで不安は膨らみ、子供に障害が無いかとか、今の給与で養っていけるかとか、とにかくいろいろなことを考えました。
正直言って、娘が生まれるまでの10ヶ月と生まれてからの1年間は日々不安と闘っていました。ホルモンバランスが崩れて攻撃的になった嫁に頭を抱えたり、数時間おきに泣き喚く子供の面倒を見るのは正直言ってめちゃくちゃ辛かったですし、仕事のミスも増えましたし、趣味に割ける時間はほぼゼロでした。ただ面白いことに、時間が経つごとに娘が愛らしくなりました。
恐らく本能にインプットされているんでしょうが、子供の寝顔を見たり、少しずつ話せるようになる子供と会話したり、公園で楽しそうに遊んでいる姿を見ることがとてつもなく幸せに感じるようになりました。結局人間というのはただの動物で、子孫を残して育てることに物凄い幸せを感じるものだと気付かされました。
この心境の変化は自分でも予想外で、まさかここまで子供を可愛いと思う日が来るとは思いませんでした。嫁も嬉しそうですし、案外金銭面は何とかなります。子供を育てることは、理性を超えた喜びがあるようです。なのであなたにお勧めするのは、理性を飛ばしてセックスすることです。酒をたくさん飲んで挑んでください。大脳新皮質を麻痺させて、たまには動物の脳で考えるのも悪くないですよ。
同じような境遇かもしれない。
親がほんのり学歴を気にする人だった。
小学生の時に出会った本がきっかけで社会全般に興味があった。中学生のときに女性の年収が低いこと、再雇用の難しさを見て資格を取りたいと思った。会計士になりたいと思っていた。もちろん社会の成績、他の教科も良かったし高校は進学校に入れた。
親に経済学部とかの文系の学部に行きたいと言えばその学部を出ても職がないよと言われた。考えてみれば文系の人は沢山いて職に就いてる人はクソほどいると思う。でも就職できない未来が怖くて理系に逃げた。
それでも理科科目も好きだったし、これもいいかもと思ってた。生物が好きだったので親に生物系の学部に行きたいと言ったら辞めなさいと言われた。女性の研究は向いてないと言われた。就職も厳しいと。文系とかそういう学部に入ったら、両親がどうなるかは予想がついた。学費とか何やら言われるのが嫌だった。両親は職について欲しかったらしい。それで結局薬学部だ。
薬剤師はいらないと思う人、何をやってるのか知らない人が多いと思う。
業務の一部が人工知能に置き換わっていったら食いっぱぐれるだろう。
この話はそれ以上でもそれ以下でもない。
これはおそらく誰の役にも立たない、個人的な話だということを断っておく。
父親は暴力を振るうし(高専進学後はなくなったが)、自分が小学生ぐらいまでは定職に就いていなかったし(母親がパートしていた)
収入よりも支出が多く、子供の教育費にお金をかけるよりも自身の飲み食いにお金を使い、毎月金がないと騒いでいるような家だった。
ただ一応母親は比較的まともで高校までは学費を出してくれることを約束してくれた。
そして、大学の学費は出してあげられないけど奨学金を借りて家から通えばいいと教えてくれた。
幸い自分の学業成績は地元の公立中学校で上位5%程度でそれなりに良く地元の公立高校に進めば大学に行けそうだった。
でもこんな家庭環境が悪い家から大学に通うなんてまっぴらごめんだった。それに、公立高校は学費の他に、模試やら制服やら色々なこと
でお金がかかりそうで、父親からも文句を言われそうで嫌だった。
そこで、地元で一番偏差値が高い公立高校と同じ程度のレベルの高専に行くことにした。
高専には格安の寮があったし、学費自体は公立高校よりも高かったが模試や制服など諸経費が全くかからなかったから。
それに当時民主党政権時代の高校無償化で高専1年から3年までは半額で通うことができた。
技術にはあまり興味はなかったが、幸い理数系科目が好きだったので高専に進学してからも特に困らなかった。専門科目には一切興味がなかったが。
しかし、自分が通っていた高専は当時進学高専として名を馳せていたせいか、そういう技術に興味がないがいわゆるお勉強はできるみたいな人は少なくなかった。
教員や大学に入ったときの周りの高専生に話を聞くと、これは高専の中では結構特殊な部類らしい。
それはさておき、高専というのは自分と同じく家庭環境が最悪な人が集まるものらしいが、自分が通っていた高専は普通の家の人が多かった。
ただ、お国柄か失礼ながら育ちはそんなによくなかったとおもう。それに高専では当たり前かもしれないが変な人が多かった。
自分はそうは思わないが、多分自分も変わっていたので変な人とはウマが合ったように思うし、実際卒業してから結構経つが今でも付き合いのある友人は何人かいる。
高専4年になると、親からの援助はなくなり、自分で学費を払うことになった。学費を捻出するために日本奨学支援機構の奨学金を月5万円程度借りていた。
ただ、高専には経済的に苦しい人に授業料免除の制度があったので、奨学金は教科書や定期代に使う程度で残りは大学の入学金などのために貯めておいた。
この頃から進路について考えるようになった。大学に行くことは決めていたが、今の専門で今後4,50年生きるのは嫌だったので専門を変えて進学することにした。
幸いなことに大学の門戸は広く、工学部の他に理学部などの比較的親和性が高い学部や、医学部などの全く異なる学部、文学部、経済学部など文系の学部にも編入できるようだった。
手頃な旧帝大に自分の興味のある専門が学べるところがあったので、そこに行くことにした。真面目に1年間勉強すれば合格することができた。
おそらく一般の高校生よりも簡単な方法で入学したのだけれど、まぁ入ればこっちのものである。
入学金、最初の授業料、賃貸の諸経費で軽く100万くらい飛んでいったけれど、貯めていた奨学金やバイト代でなんとか支払うことができた。
大学のときは日本奨学支援機構の奨学金、給付奨学金、バイトでかろうじて一人暮らしができるようになった。
給付奨学金のおかげで、利子ありの奨学金を借りなくて済んで、関係あるかはわからないけど大学の名前に感謝した。
あと大学でも授業料免除をうけることができたので、そんなに苦労せずに大学生活を送ることができた。
(自分が特殊ルートなこともあって正しくはないかもしれないけど、日本の大学は勉強したい人にとっては
経済的に苦しくてもある程度の覚悟(奨学金)を負えば通えると思う。)
ただ専門を変えての入学だったので入学当初はかなり真面目に朝から夜まで勉強する必要があったけれど、
ただ、大学の人と話していると生まれの違いを見せつけられた気がした。
お金が足りなくなったら親に無心する、留学したければ簡単にできる、旅行をするために親から借金をする・・・
挙げていけばキリがないが、教育格差は親の経済状況に大きく左右されると改めて思った。
あの人たちは自分のことを友人として扱ってくれたけど、自分は彼らの国の住人じゃないと心底痛感した。
大学に入って初めて恋愛をして、恋人もできたけれどどうしても格差を感じてしまう、世界が違うと馴染めなかった。
ただ、彼らとの会話は楽しかった。
ほかの編入生と話す専門的な話も知的好奇心がくすぐられて有意義だったが
彼らと話すのは心地が良く、リラックスして会話を楽しむことができた。
本当は博士課程に残りたかったが、経済的に苦しかったので就職することにした。....というのは負け惜しみかもしれないけれど。
(もし本当に大学に残りたくて、実力もあれば、学振やらRTなどで生きることはできるように思う。)
就活を真面目にしなかったせいか、レベルの低い会社に就職してしまったように思う。自分のレベルが低いのかもしれないが。
周りの同期のレベルはそんなに高くなく、話していて楽しいとは全く思えない。それに自分の出身大学でいじられたりもする。面倒臭い。
自分はあまり学歴に興味はないけれど(本当に)、学歴で得をするのは中の上クラスの企業に勤めている人たちだけじゃないかと思う。
一番高いところにいる人たちは大学名なんて気にしない(と聞く)し、下の方のレベルの企業だとほかの人からの僻みでうっとうしい。
だから自分は、転職や大学に戻ることを考え、またあの心地よい会話ができることを心待ちにしている。
一生、自分の世界とは相入れないことを知りながらも、もがき続けるのだろう。自分は下のレベルではないと傲慢に自分を騙し続けながら。
SICP=Structure and Interpretation of Computer Programs(計算機プログラムの構造と解釈)ね。
いや、悪い本じゃないから、読みたい人は読めばいいと思うよ。
ただ、この本を読んだり、薦めたりしている人は、ほとんどこの本の主旨理解してないんじゃないかな。
まず、プログラマやプログラマ志望の人がこの本を読むのは、根本的にズレている(とくに、LispやSchemeを学ぶためにこの本を読む人)。
自動車を運転したい人が自動車のしくみを勉強するようなものだからだ。
もちろん、何度も言うように教材としては優れているから、読みたい人は読めばいい。
あと、これは前提知識が限られた人向けの参考書であって、計算機科学の主流の教科書ではない。
喩えるなら「経済学部生のための高校数学でわかる線形代数」とかそういう類の本であって、計算機科学を専攻する人がわざわざこの本を読むのは遠回り。最初から自分が学びたい分野の専門書を読めばいい。
和田秀樹らによるいわゆる「暗記数学」の要点をまとめると、以下のようになるだろう。
これは従来、数学の入試問題を解くのに必要なのが曖昧模糊とした「ひらめき」や「才能」だと思われていたことへのアンチテーゼである。「暗記」という語はその対比であり、特別な才能がなくとも、基礎事項を確実に習得することで、入試を通過できる程度の数学力は身に付くことを主張している。
そもそも、大学入試は大学で研究をする上で重要な知識や考え方の理解度を問うているわけであって、徒な難問を出して受験生を試しているわけではない。したがって、そのような重要事項(つまり、教科書の基礎事項や、数学を活用する上で頻繁に出てくるような考え方)を身に付けるのが正攻法である。
そのための教材としては、エレガントな別解や難問に拘ったものよりも、基礎事項や入試頻出の問題を網羅したスタンダードなものが良いとされる。
これはいわゆる解法暗記である。なぜ、具体的な実例を学ぶのかと言えば。数学に限らず、具体的な経験と関連付けられていない知識は理解できないためである。
実際、教科書を読んだばかりの人の多くは、自身の知識と入試問題との間にギャップを感じる。たとえば、ベクトルの内積の定義や線形性等の性質を知っただけでは、それを幾何学の問題に応用するのは難しいだろう。教科書を読んだばかりの段階というのは、将棋で喩えれば駒の動かし方を覚えただけのようなもので、実戦で勝つのは難しい。実戦で勝つには、定跡や手筋のような、ルールだけからは直ちに明らかではない、駒の活用法を身に着ける必要がある。
将棋の定跡を初心者が独自に発見するのが難しいのと同様に、数学の自明でない実例を見出すことも難しい。そのほとんどは歴代の数学者が生涯をかけて究明してきたものなのだから、当然である。しかし、現代の高校生には既に教科書や入試問題がある。特に入試問題は、数学の専門家が選りすぐった、良質な実例の宝庫である。受験生はこれを通じて数学概念の活用のされ方や、論理の展開等を深く理解するべきである。
そしてこれは、大学以降で数学や工学を学ぶ際も同様である。特に、大学以降の数学では、抽象的な概念が中心になるため、ほとんどの大学教員は、具体的な実例を通じて理解しているかを非常に重んじる。たとえば、セミナーや大学院入試等では、以下のような質問が頻繁になされる。
教科書の記述や、解いた問題は完全に理解すべきである。つまり、
といったことを徹底的に自問するべきである。自分の理解が絶対に正しいと確信し、それに関して何を聞かれても答えられる状態にならなければいけない。「微分で極値が求まる理屈は分からない(或いは、分からないという自覚さえない)が、極値問題だからとりあえず微分してみる」というような勉強は良くない。
そして、理解できたと思ったら、教科書の一節や問題の解答を何も見ずに再現してみる。これはもちろん、一字一句を暗記するということではなく、上に書いたような知識が有機的な繋がりを持って理解できているのかを確認することである。ある事実が、どのような性質を前提としていて、どのように示されるのかという数学のストーリーを理解していれば、何も見ずともスラスラ書けるはずだ。
また、問題を解く際は、いきなり答えを見るのではなく、一通り自分で解答を試みてから解答を見ることが好ましい。実際に手を動かすことにより、分かっている部分とそうでない部分が明確になるからである。
以上のことは、何も受験数学に限った話ではない。他の科目でも、社会に出て自分で調べたり考えたりしたことを他人に発表するときでも同様である。
要するに、数学の専門知識と社会的常識のある人は暗記数学に賛成しているようだ。
逆に、反対している人。
反対しているのは、金儲けが目的で目立つことを言っているか、何かをこじらせて勉強法に無駄な拘りを持っている人たちのようだ。
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思うに、アンチ暗記数学派というのは、精神の根底に以下のような考えを持っているのではないのだろうか?
一部の人は、大学入試では「ひらめき」「発想力」「頭の柔らかさ」「地頭の良さ」などを試すために敢えて典型的ではない問題を出しているとか、「天才」を発掘するために常人には解けないような難問を出題していると思っているのかも知れない。しかし、先にも述べたように、大学入試は、大学に入って研究するための基礎学力を測っており、入試問題は、そこで問われている知識や考え方が重要だから出題されるわけである。したがって、そういう重要な知識や考え方を十分に身に着けていれば受かる。ただそれだけの話である。そして、良識ある教育者は、数学で重要なところが分かっているから、それに基づいて教材や予想問題を作っている。そうでない人はもしかしたら、大学が普通の受験生には解けないように徒に問題を複雑にしていると思い込み、ひねくれた問題を教えているのかも知れない。
また、「数学自体は重要ではなく、数学を通じて思考力を鍛えることが重要」とか「受験勉強は社会に出て嫌な仕事を我慢するための訓練」等と思っている人もいるかも知れない。特に前者は、自称数学好きにもいるようだ。しかし、深く考えるまでもなく、大学受験に数学が課せられるのは、大学で研究するために(少なくとも、教員が望む水準で)絶対に必要だからである。そして何度も言うように、入試で問われるのは、研究のために必要な知識や考え方であり、「頭の柔らかさ」などではない。また、数学をそれほど使わない学部にも、受験に数学が課せられるのは、多くの大学には転部等の制度があり、文学部から経済学部とか、農学部から工学部に転部するような事例は珍しくないからである。
上記2つに共通するのは、「理解」よりも「ひらめき」等のオカルティックなものを重視することである。これは、上に述べた胡散臭い教育業者や、受験生に絡んでる学歴コンプが暗記数学に反対する理由と符合する。金儲けがしたい受験業者にとって、「基礎を確実に理解することが重要」と言うよりも「入試本番に典型問題は出ないから、ひらめきが大事(。そして、ウチの教材を使えば、それが鍛えられる)」などと言った方が、客は集まりやすいだろう。また、SNS等で受験生や教員などに絡んでる奴にしても、数学の本質が理解できず霊感的なものに価値を見出しておかしな勉強理論にかぶれてしまったと考えれば納得がいく。
大学・大学院とのんびりと生きてきた。その後シンクタンクに就職したが出来ない仕事を振られ精神的に摩耗し精神病を発症。
最終的に復職できずそのまま解雇され、実家から離れた遠い東京砂漠の片隅で親の経済的支援と公的保障で何とか一人暮らししながら食いつないでいる(無職)。
結局自分は失敗作だったんだなと。誰の期待にも応えられていない。親に経済的負担ばかりかけている。
『月刊少年ガンガンJOKER』を近所の本屋で買うという禁忌を犯したし、もうだめです。
バイト先の「ふぃよるど」というノルウェー料理店がコロナの影響で閉店することになって、全員で乃木坂まで閉店作業を手伝いに行った。全員といってもおれ自身を含めてバイトは学生の3人だけだったが、小さな店の厨房設備や什器を回収業者のトラックに運び込むにはその人数で十分だった。
夕方には作業が終わって、最後に3人でご飯でも行こうかということになり、平林の車に乗って南青山・六本木方面に行ったはいいが、どこも営業自粛中で閉まっている。
「どうする?」とおれが訊くと、「どこでもいいよ、ラーメン屋でもなんでも。ちょっと調べてみる」とディキンソンがiPhoneを取り出す。ディキンソンは女子大の英米文学科に行っていて、本名は別にあるのだが、エミリー・ディキンソンとかいう詩人について卒論を書くつもりらしい。理工学部の平林と経済学部のおれはその方面に全く無知だったので、詩人の名前の響きだけで衝撃を受け、以来店では彼女をディキンソンというあだ名で呼んでいた。
車内では爆音で日本語の歌がかかっている。バブル期ぐらいの日本の音楽を集めるのは平林の趣味で、とくにアイドルの音源を偏愛していた。高校まで競技水泳をやっていた平林は運転席でイカリ肩を揺らしながら酒井法子?の歌に合わせて All Right, All Right と裏声で歌う。
恋を失くした
悔しいけど
「あった、開いてるとこ。オメガラーメン。麻布十番。どう?」ディキンソンが後ろの席から画面を差し出す。青山霊園を走る車の中で、平林は相変わらず All Right, All Right と裏声で歌う。「ちょっと、うるさい」とディキンソンが平林の頭を押さえつける。おれは助手席からiPhoneの画面を覗き込む。「いんじゃないかな。あとは車停める所か、探してみる」
オメガラーメンは空いていた。というか客はおれたちしかいなかった。カウンター6席ほどの店で、3人並んで座るとけっこう密だったが、今日いっぱい密だったので、いまさらどうしようもないよなと話しながら座った。
「えいらっしゃい」と店主らしき人がカウンターごしにメニューを置くが、オメガラーメンと一行書いてあるだけだ。3人ともオメガラーメンを頼んだ。
出てきたのは真黒なラーメンで、独特のぬめりがあるスープから肉の塊らしきものが突き出している。ビーフカレーのようにも見えるが、中央に配置された白髪ねぎの小山がラーメンらしい外観をかろうじて保っていた。
味はなんというか、微妙だった。3人とも無言で平らげて店を出た。
代々木上原に住むディキンソンを途中で降してから、赤羽に実家がある平林と田端に住むおれは北へ向かった。
「また3人でこうやって会うこと、あるのかな」
「どうかな。まあ、あるんじゃないかな。当面、全員日本にいることになりそうだし」
「どういうこと?」
「咲は、あ、ディキンソンは、秋からアメリカの大学に留学が決まってたんだけど、話が流れちゃったらしい。コロナのせいで先行きがわからないからって。それでけっこうがっかりしてたんだ」
「そうなのか」としか言えなかった。
なぜおれは知らないのか。なぜ平林は知っているのか。なぜディキンソンの下の名前を言ってからディキンソンと言い直したのか。
動坂下の交差点で降してもらい、セブンイレブンに寄ってからアパートへ向かうあいだ、胸に覚えのない異物感を感じ続けていた。それは甘すぎたオメガラーメンによる胸焼けなのか、ディキンソンにこれまで自分が何かを感じていたことにたいする動揺なのか、わからなかった。