はてなキーワード: 理想郷とは
川谷絵音とベッキーの不倫を知って、真っ先にラベリング効果のことを思い出した。
自分がゲスい人間だという自覚から川谷はこんなバンド名を思いついたのかもしれないが、
おかげで川谷の脳内に「俺はゲス人間→だからゲスな生き方をしても構わない」という道理が生まれてしまった。
SEKAI NO OWARIも実はラベリング効果だったりする。
彼らはバンド名に則って、この世の終わりの到来を心の奥底で理解しながら、現実逃避で理想郷を歌う曲ばかり作っている。
これが例えばSEKAI NO HAJIMARIというバンド名だったら、彼らは世界が未来を手にするための現実的な具体案を模索する曲を作るだろう。
キュウソネコカミは売れた後がやばい。売れたらキュウソではなくなるから。
年収70億なのに黒人差別を受けて怒り狂ったオプラ・ウィンフリーと同じ轍を踏むことになる。
DTMを連想させる語感であり、案の定彼らの音楽はボカロ系四つ打ちダンスロック。頭が悪すぎる。
MAN WITH A MISSIONは、イギリスのダンスロックバンドMANBREAKのパクリ。
おそらくソングライターの幼児体験にMANBREAKがあったのだろう。バンド名も音楽も無自覚にトレースしている。
大晦日ですし、高知愛を発散しておきましょうか。高知のいいところは、10;・みんな超適当10;・その日暮らし精神がすごい10;・酒飲みすぎ10;・野菜、米、魚、酒うますぎ10;・秘境多すぎ10;・新しいもの、よそ者好き10;・龍馬大好き、維新大好き10;・イケてる社会課題多すぎ10;なんてところですかね〜。— イケダハヤト (@IHayato) 2015, 12月 31
イケハヤって田舎暮らしに本当に向いてないと思うわ。— ボヴ (@cornwallcapital) 2015, 12月 31
東京でダメな奴は高知に行ってもダメ。— ボヴ (@cornwallcapital) 2015, 12月 31
高知はありのーままーのイケダハヤトを肯定してくれる理想郷でなくてはならないっていう願望を押し付けてるだけなんじゃねえの?
フィンランドのベーシックインカムの記事とそれに対するコメント群を読んで。
おもうにBIってコメントのみんなが思ってるような理想郷招来みたいな話でもないしそんな状況でも導入されねえんじゃないかなあ。
日本でいうと「年金システム破たんをごまかすための理想論」として導入されるんじゃねえかと思う。老人に20万払う代わりに全員に6万払うみたいな。
もっと「どうしようもなくなって」「苦し紛れで」実現する類の政策なんじゃねえかな。
でも奴隷解放もそうだったでしょ。奴隷を幸福にする理想社会建設のための実施されたわけじゃない。労働力確保のためだった。
だからそれでいいとおもうんだよ。今既得権益を受けてる人が、だんだん灼熱地獄であぶられて、悲鳴を上げて、初めて世が変わる。
考えてもみろ。
あらゆる争いは「あいつ」と「おれ」が違う人間だから生まれる。「あいつら」と「おれたち」が違うグループだから。
しかし、ここ匿名ダイアリーではあらゆる id、あらゆる派閥が「増田」のもとに統合される。
増田とはわれわれであり、増田とは彼らであり、増田とはすべての人々であり、増田とは自分一人だ。
争いも憎しみもない、完全無欠のハーモニー。
モヒカンである。ミニマリストである。マジョリティである。マイノリティである。ヘテロである。ゲイである。日本人である。外国人である。子どもである。大人である。女である。男である。理系である。文系である。研究者である。教育者である。生産者である。消費者である。技術者である。管理職である。右翼である。左翼である。ビッチである。清楚である。童貞である。処女である。底辺である。上流階級である。貴族である。平民である。老人である。赤ん坊である。母である。父である。孤独である。リア充である。オタクである。バカである。天才である。差別主義者である。博愛主義者である。教師である。生徒である。愛である。恋である。ブロガーである。ジャーナリストである。運営である。ユーザーである。キリスト教徒である。イスラム教徒である。スンニ派である。シーア派である。カソリックである。プロテスタントである。カルヴィニストである。ルター派である。犬派である。猫派である。作者である。読者である。戦争である。平和である。神である。人である。1である。0である。あらゆるものである。あらゆるものでない。
さあ、祈ろう。さあ、うたおう。
さあ、増田をはじめよう。
朝ドラの「まれ」を見ているのですが、なんかいらいらするストーリー展開だったので、妄想を吐き出します。
大悟は息を吐いた。
自分にいつも文句と皮肉しか言ってこなかった倅の大輔が希とひっついたのが始まりだった。大輔と希が結婚した後、希を2年間の前提でフランスに修行に出した。
「俺、嫁さんとフランスに行くわ。やっぱ、新婚が離れるのはよくないでしょ。で、ついでにむこうでMBAとってくるわ。」とあっさり、大輔もフランスに発っていった。
フランスでの2年間は、パティシエの希にとてつもないものをもたらした。菓子を作る技術だけではない。センスとか感覚とか、現場でなくては学べないなにかだ。希は明らかに自分がもっていないなにかをフランスから持ち帰ってきた。大輔は帰国後、コンサルティングファームに仕事を見つけた。
大輔と希が帰国後、2年経った頃、大輔が話があると自分を呼び出してきた。マシェリ・シュ・シュの多店舗経営と研究(修業)店舗の分離をしようと言ってきたのだ。そして、経営を自分に任せろという。通常の店舗で利益を出し、その利益を研究店にぶち込むというのが大輔の構想だった。店舗を展開するための資金繰りも付いているという。
「おれ、菓子の味、わかんないから、その辺は親父と嫁さんに任せるわ。で、おれが経営をみる限りは、二度と、あんなことにはしないから。」
マシェリ・シュ・シュが倒産目前になり、自分が料理の巨人に出演せざる負えなかったことだ。結果的にこれはうまくいった。大輔が言うところの経営と芸術の分離がうまく回っている。新しい支店は浅井と弥生にひとつずつ任せている。大悟の目から見れば、どっちも想像力のかけらもないパティシエだが、大悟のルセットに従い、菓子を作ることはできる。自分にはない常識的な金銭感覚もある。そして、大悟への忠実も厚い。店には大悟と希が週1-2回、顔を出している。
研究店は大悟と希の精進の場だ。大輔は明言した。「この店、親父のためのもんじゃないから。嫁さんを世界一のパティシエにするためのもんだから。」それでも、菓子のことだけを考えればいいこの店は大悟にとって理想郷のような場所だ。この研究店では、材料費はほぼ青天井。新しい機材もどんどん使う。仕込みに時間もかける。希と一緒に思いついたルセットを作り、客に出す。ダメなら、また作る、客に出す。その結果、一切れの菓子が3000円になることもある。それでも、客が来てくれる。海外からも、どこからか聞きつけて来る。
この研究店では、時には夜中の1時、2時まで希といっしょに菓子を作ることもある。外に出た陶子も休日には顔を出し、新しい技術、味を持ち込んでくる。そして、盗んでいく。大悟は60を過ぎた。この場所で希と菓子を作っていると、自分はパティシエとしてまだやれる。世の中をあっと言わすルセットを作れる。そんな自信があふれてくる。
多店舗展開と研究店が軌道に乗った頃、希が妊娠、出産した。男の子と女の子の双子だ。希は出産後、半年で店に復帰した。「パティシエの勘がぼける。」がその理由だった。ためらいはまったくなかった。大悟は希が出産後、母になることを優先するのではないかと恐れた。ヒトは多くのことはできない。それが大悟の信念だ。だが、希については杞憂だった。この義理の娘は自分が思っていた以上に菓子の神様に魅入られている。希はきっと世界一のパティシエになる。自分がしてみせる。自分の師匠であり、希の祖母であるロベール幸枝も自分も到達できなかった場所に希はきっと行ける。大悟はそう確信している。
アカディア(英:Acadia、仏:Acadie)は、北米東部大西洋岸、特に現在のアメリカ合衆国メイン州東部とカナダノバスコシア州に相当する地域の古名で、フランス人入植者によって名付けられた地名。「アカディア人」は英語では Acadian「アケイディアン」、フランス語では Acadien「アカディアン」と呼ばれる。また、現在アカディア人が多く居住する地域を指す。
英語ではAcadia と書き「アケイディア」、フランス語では Acadie と書き「アカディ」と発音する。アカディアの語源は「理想郷」を意味するギリシャ語の「アルカディア Arcadia」。また先住民ミクマク族(Micmacs、Mi'kmaq)の「場所」を意味する言葉「アカティ(akatie)」から来たとも言われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2
やばい。これは本当に泣ける。
蹲り地面ばかりを見ている視野は自身の影ばかり見つめ遥かな理想はもう空想の域を超えた願望と化して墜落し勝手に絶望している様が、話しかけてくる人物が男性であることと無骨な語り口調で伺える。
事情を飲み込んだ男性の説明が自身の立場および経験談から協調同和にて語るのもその人物の背景説明につながる導線となる先に悲しみが予想され切なさを誘う。
人が生命として活動する基本を関係的同意にしようと要望する下りから世界が急転する。
女の子が自分の影の中の世界ばかりみて勝手に絶望し触れもしない外界に絶望していたのが、こんどは勝手に他人の容姿に絶望し始める。
女の子自身の生きている意味は何なのか、目的は何なのか、女の子という存在はその存在たらしめる世界において何なのかという問い、存在自体への回答をすべて投げ捨てて意味のないものとする瞬間。
否定文を作成するたびに存在の意味や理由が失われていくその様。
完全に自殺していた、という状況。
他人にさそわれて、他人の主導で選択肢を作成し誘導されるままについていくことが自殺の回避になるという幻想を打ち砕くもの。
人が人の姿でありあるがままを問うたら、発生した初めての選択。
女の子は断るという選択肢を得て、自分の足で自分の選択肢をもつことができたという段階への移行。
本当に世の美を救い成り立たせ希望をもたせているのは世にある不細工であるということ、目に映る像とは影があるからこそ認識できるということ、夜のない世界は地獄だということ。
光と影が表裏一体などという単語は知りえていてもそれを理と理解するにはほど遠い難解なたとえをさらりと体現する。
そして全体として、視野狭窄にあった自意識過剰な女の子は、世界を見て世界を知り世界にむかって自己の存在を選択するということで立証していくことになる。
けれども、それは自分は着せ替え人形のお人形さんのようなものでヒロインプリンセスになるだろうという幻惑に囚われたまま、世界の存在と認識が乖離していくがままとなる様子もうかがえる。
世界の美であるもの、かわいくあるものは理想郷へと不細工により追い立てられ、他人に指図されるしか選択肢を持ち合わせていないものほど自分の意思があると強調し反発をするという比喩がたったこれだけの中に凝縮されている。
昔、ある出会いがあった。
おそらくは、一秒すらなかった光景。
されど。
その姿ならば、たとえ地獄に落ちようとも、鮮明に思い返すことができるだろう。
その先が地獄だとしても前に進むと決めた士郎と
その先が滅亡と知っていても王になると決意したセイバー
やっぱりこの二人は似たもの同士だと改めて思ったなあ
本編のアーチャーの詳細の中で「なんのペナルティもなく固有結界を使いこなし」という一文があったが、本当に消えかかった身でも発動可能なくらい消費が少なかったんだな
わりと初期の頃このペナルティがどれくらいのものなのかと議論されていたがまさかこんなところで結論が出ようとは
HAの『たとえ地獄に落ちようとも思い返すことのできる光景』をまさかUBWで見れようとはなぁ………
アーチャーが契約した“かつてのセイバー”に対する思い入れ、出会いの強さがしんみりと来たぜ
……だからこそ、歯痒いものを感じる
セイバーの聖杯に対する願望、そして自分の内にある鞘の存在を知るほどの関係に至っていたのに、なんで彼女を救えなかったんだ馬鹿野郎………!!
この世界の士郎は先にアーチャーを見たからこそ、アーチャーの様にはならないんだろうな。
守護者の立場が確定したアーチャーはもう抜け出せないけど、後悔だらけの自分とは違う道を示す自分を見たわけで。
本人にはもう救いはなくても、可能性を感じられるだけマシ、なのかなあ。
問おう、貴方が私のマスターか
のカットが入っててまたいいわ。あのシーンて確か本編士郎じゃなくて
本編アーチャーの過去編だったよね。
セイバーの表情もとても良かった。
そういえば士郎はよく「借り物の理想に執着してしまった愚かな男」って言われてるけど、どっかの誰かさんが言ったように「借り物の理想を持たない人間はいない」んだよな。そして自分も元だけど「借り物の理想」をもった人間に該当する。
何年か前、ある人の実況動画をみて、その実況者がプレイしたゲームの素晴らしさに憬れて、自分もそのゲームの製作者のように素晴らしい作品を造りたいと思うようになったのよ。
でもいつからだったか覚えてないんだけど、自分の抱いた理想が「そのゲームの製作者のように」ではなく「自分だけの、自分にしかできない作品を創りたい」という理想に変わったたんだ。
つまり何が言いたいかっていうと、全ての理想に対するanswerは「他人から受け継いだ借り物の理想を借り物の理想のままに終わらせるか」と「借り物の理想を自分だけの理想に変えられるか」という二つの結論に帰結するんじゃないかなといいたいんだ。
新規の人のコメントで「袖がないアーチャーの服は『涙を拭くことができない』ことを表していると思った。」っていうのを見てめちゃくちゃ納得した。
一晩たって落ち着いて考えてみると、この一番大事なシーンを時間の制限ついたアニメにしっかり合わせて分かりやすく構成してると感心するわぁ…
原作やったのがだいぶ昔でアーチャーの言葉にひたすら対抗して打ち合ってたイメージあったけど、ちゃんとその苦しみを理解してその上で対峙するって段階を丁寧に丁寧に描写してたのがほんとよかった、特に同情なんてしないけど心が欠けそうになるってシーン。
あと原作やった時は二人にしか目が行かなかったけどセイバーさんめっちゃ辛そうだな
挿入歌の「傷だらけの硝子の心が」の部分でボロボロの士郎が映って、「忘れかけた熱をともす」でアーチャーに切り替わってるんだよな
偶然かもしれないけど、なんか感じるところがあった
ある意味では士郎にとっても(桜関係や横暴なところを除けば)そういった持ち味を持った慎二も愛おしい日常の象徴だったんだな。だからこそHAでの殺し殺されるっていう緊迫した感じや魔術に対する毒気が抜けて、これから間桐家から出て一般人として再出発しようと語る慎二と士郎のやり取りは(セイバー&桜√で死んでることを考えると)胸にくるものがある。もしHAが映像化したらぜひ入れて欲しい。
理想に執着しているのであって助ける相手に執着していないと言っているのだと思う
衛宮士郎は幸福のために邁進する者ではなく、もっとあいまいなものを守ろうとしているに過ぎないと
だから誰を救うのかも定まらない
それは特定の誰かを助けるために必死になれる人間(たとえば士郎のために真剣に怒った凛など)に比べれば動機が弱い
自分の欲望ではなく願いのために戦うから薄っぺらいんだとエミヤは言いたいんだと思う
じっさいは薄っぺらいどころか士郎は折れる気配すらないと悟るんだけど
今思えばアヴァロンって必ず誰かを救ってくれる要なんだよね…士郎の命が切嗣によって救われただけじゃなく切嗣自身も士郎と出会い救われたし、SNでは後にセイバーが士郎と忘れられないあの夜に出会って彼女自身が救われるきっかけになったしさ。皆の架け橋のような存在だよね。
数ある宝具の中でも、特にアヴァロン(全て遠き理想郷)は尊いものに感じるな。
エミヤに「その先は地獄だぞ」と言われた後の士郎の微笑みが素晴らしかった。
自分の理想の根底にかつての自身の願いがあったことに思い至っての、自身の理想が空虚な借り物でなかったことへの安堵、かつての自分と同じようにたとえ未来の自分から進む先が地獄だと告げられてもその道を進むことをやめようと思わない「自分」と言う人間の性への苦笑、そしてこれからも理想を追い求めていくという決意、それらがあらわれた絶妙な表情だった。
「士郎は人間の振りをしたロボット」とよく言われていたけれど、実は士郎も自分自身のやりたいことを追い求めたれっきとした人間だったんだな。
士郎の始まりは切嗣との出会いでも「正義の味方」という借り物の理想ではなく大災害の地獄の中で願った「誰かを助けたい」という思いだった
今回の話は視聴するまで不覚にも自分ですら忘れていた事柄を士郎と一緒に再確認させられたエピソードだった
これまで士郎は「人間のフリをしたロボット」や「士郎が人間になれるのはHFだけ」っていう意見が多かったし、自分もそう思っていたところがあったけど
今回の回想を見て、改めて以前にきのこが語っていた「士郎という人間は大災害に遭わなくっても最初からああいう人間だった」や「士郎は成長しない主人公」という言葉通り、士郎は最初から士郎以外の何者でもないと改めて気付かされた
今回のUBWはアーチャーが忘れてしまった大切な事を思い出す物語であると同時に、視聴者が「衛宮士郎は衛宮士郎という一人の人間である」っていう原作をした時には分かっていたことを思い出す話じゃないのかな?
そういう風に思わせてくれるufoときのこの演出は本当にすごい
ある意味ではこれまでのfateの総決算ともいえるの名エピソードでした
Fate/stにおいては近くにアーサー王がいるとオートリジェネが入る便利装備
もう一つ便利機能があるがこれは別の話
アーサー王物語にて、策略でアーサー王と決闘させられたある騎士がすんでで相手の正体に気がつき
鞘をアーサーに返却、同時に鞘の加護が消滅してしまい、治癒しきっていなかった致命傷が元で死亡してしまった
と、本来なら死亡しているであろう傷でも命を繋ぎとめてしまう能力がある
もう一つの便利機能、害意判別といいアーサー王物語におけるエクスカリバーの本体はこっちなんじゃないかとの声も
忘れてしまったモノを思い出す為に記憶(うみ)に潜り、あの地獄、あの原初の光景の中にある大切なモノを手繰り寄せる。
Fateは偉大な英霊同士のバトルが目玉なのはよく分かるし、派手だから目に付きやすいし当然だと思う。
でもやっぱり、こういった『人間の想い』を丁寧に織り上げる物語こそが、Fateの真骨頂だとPC版をプレイした時からずっと感じてた。
次話の『answer』もだけど、これから終局まで続く怒涛の展開に期待!
ユニクロ士郎は前編通してやるともうこれしかねぇって感じになるからね、仕方ないね。
個人的に士郎のユニクロについては、端的に士郎の特徴を現してる気がする。
服装って現代では(昔からそうではあるが)自分をよりよく見せたいとか人と異なる服装をして自己の個性を出したい、または同じ服装をすることで一体感を味わいたいといった意味で使われると思う。でも、士郎にはそういった人より優れた自分を見せたいという“自己”には乏しい。士郎がユニクロ着てることからそういう風にも読み取れるんじゃないかなぁと自分は思ってます。
凛の「アイツはああでなくちゃいけないって、ああいうヤツがいてもいいんだって救われてる。」
20話視聴後の感想はまさにこの心境だった
衛宮士郎というキャラクターは創作物の中でも一番好きなキャラかもしれん
違うアーチャーも言ってただろ
「助けたいから助ける」そこに理由がないから偽善だって言ってる
普通の人は大切な人だからとか誰かを助けるに足る理由が存在する
でも士郎は見ず知らずの人すら命がけで助けてしまう
でその理由を挙げるなら死にそうな誰かを助けたいという理想しかないんだよ
間違ってない願いだけど人間として致命的に欠けている
「それを手にする前に、きちんと考えたほうがいい。それを手にしたが最後、君は人間ではなくなるよ」
「おい、そこから先は地獄だぞ」
剣を抜くカットもそうだけど、この辺りもまた対比になってるなぁ
元から、「今、願ってる主体」が士郎以外の誰かだったことはないよ原作でも。
これ、普通の物語なら「始まりがなんだろうとこれは俺の心だー!」になるんだけど
そこで、「もう借物だとか自分の心だとか、理想が理想である前には超些細ですし」
までぶっとぶのがUBW。
「笑いたかっただけ」みたいな話は、普通のキャラにとっては深刻なんだけど
衛宮士郎二人にとっては、自分が偽善呼ばわりされるなんて大した話じゃないから
話さくさく流れて理想の話になっちゃうんだよね。
そこを凄い脳内で拡大してる人が出たりする。
それこそ、「士郎は切嗣の行動をなぞってるだけ」とか。
士郎は切嗣に「憧れた」わけだけど、
それはつまり、「ああいうものに憧れを抱く、善しとする価値観」を
士郎が元々持っていないと始まらない。
それを考えると、もうちょっと複雑なんだよねその辺り。
アーチャーの「幸せそうだったから憧れただけ」を真に受けるのはナシだしな。
「実は贖罪」もそうだけど、UBWであいつが殊更露悪ぶって口にする言葉を
それよりは
>「―――覚えてる。俺を覗き込む目とか、助かってくれと懇願する声を。
> その淵で思ったんだ。自分が助かった事じゃなくて、助けてくれるヤツがいる事は、なんて」
> 素晴らしい、奇蹟なんだって事を。
の辺りを読み込んだ方が未だヒントになりそうな。
→じゃぁもっと決定打になるものを見せてやろう
っていう意味じゃないか? UBW展開は。
「お前の辿り着く先はこの不毛の荒野だ」を文字通り目に物見せると。
あと、演出的には、Ufoはアーチャーと士郎を背負う空(特に雲)で表すそうだから
多分answerが凄いことになる。
UBWは心象世界だから、心象のぶつかりあいをビジュアル化する装置になりうるんだよ。
まさかここにきて、「アーチャーのUBW展開はローコスト」という設定が
演出上の最強のカードになろうとは。
某動画サイトでのコメントはアーチャーがセイバーを間接的にdisってるwwって解釈してるから違和感ある。
あそこのシーンのセイバーはアーチャーの言葉に傷ついてるわけじゃなくて自分と同じような道を歩んだ士郎の成れの果てのアーチャーを痛々しく思いながらも自分と似た願いを持つアーチャーを否定しきれない葛藤も持ちながら二人の問答の答えがどうなるか見守ってるんだと思う。
ホントそれ。そもそも願いが間違いなだけでセイバーの在り方自体はFateの全編を通して否定しえないものとして書かれてる。
SNから入った人はセイバー√で初めにそれを理解するんだけどそれをZeroで盛大に全否定したもんだから
そこから入った連中はセイバー=否定される、していいキャラとして認識してるから大問題。
虚淵のネームバリューもあって被害は甚大よ。
たまに絵に起こしてもらうと、ゲームのCGイベントは戦闘だし、
「いかにもうおおおおおとか言いそう」なとこが対外的には押されがちだったけど
基本「己と向き合い自分の心を形にする」人間だから
実は「動」だけじゃなくて「静」の面も強いんだよね。
その「静」に支えられるから熱さもあるって感じ?
今回の、内面でのアーチャーとの静かな対峙で
「静」の面が凄いクローズアップされたと思った。
自分はこれが見たかったんだよね。
とりあえず、「以前の記憶がない」は「ほほをつたう」と矛盾してると思う。
士郎、思い出に浸るのを自分に禁じただけで、普通に記憶はあるぞ。
> 何もなくなった場所にいって、有りもしない玄関を開けて、
> 誰もいない廊下を歩いて、姿のない母親に笑いかけた。
> ……あの日の前に戻れて。
> 何もかも悪い夢だったのだと、そう目が覚める日を待ち続けた。
士郎って割と元々ああよ。
衛宮士郎がアーチャーと士郎に分かれて真剣に自分の将来を模索するお話まじ熱い
アーチャーは自分が辿った選択ではろくな道筋にならないと力説する
士郎は自分が進む未来は「選べる道」ではなく「選びたい道」を進もうとする
幾度の面談を経て衛宮士郎は見つけづらい険しい道筋を見つけて答えとする
自分会議(物理)は死ぬほどストレスたまりそうだけどその分効率の良さが半端じゃないな
今回のエピソードは、アーチャーの月下の誓いに対する「呪い」という言葉が
あまりにそのまま伝わり過ぎていることに対する反論的な意味もあるのかな……と思った。
余人から見れば呪いととられかねない歪なものなのは確かだし、発言したのが未来の士郎と
いう点もあって、「信憑度が高い」と取られても仕方がない部分はある。
だが、そうじゃない。そんなものは、アーチャーのレトリックに過ぎない。
「月下の誓いに至るには、大火災のさなかで救いを求める自分がいて、生存者がいないと分かりながらも
助けようとした切嗣がいた。だからこそ、救われない人間をこそ救おうとするエミヤが生まれた。呪いなんて、忘れてしまったアーチャーの後付だ」というように。
ここら辺、原作やってても勘違いしちゃう人間がいるし。これをより説明的にしたことを指してデチューンと言ってたのかもね。
なんだかんだ分析してるが、初見じゃもうボロボロ涙でて凄かったよ。そうだよ!そうだよ!と絶叫しちまった。
価値観っていうと語弊があるのかもしれないが
とにもかくにも「心」はないと憧れも発生し得ないってところは
押さえておいてもいいのではと。憧れって心の働きなので。
災害中の描写から、衛宮士郎の連続性を断つ描写は作者したつもりないと思うんだよな-。
っていうか、原作の描写をそう読まれちゃったことを踏まえて再構成したのが
んー、言いたいことは分る。確かにもっともだ。
だが、「心が死んだ」「ゼロの状態で切嗣から新規に心を貰った」だと
極論すると、士郎以外の誰であっても
上記二条件を満たせば、士郎の如き人間になるってことだろう。
実際問題、それは非常に考えづらくないか?
なんで士郎がああまで凄まじい人間になっちゃったのかって言ったら
やっぱり元々「何もできないのに謝って楽になるのはだめだ」と
涙を呑んで歩き続けるような真っ当すぎて真っ直ぐすぎる子供だったからで、
そういう心をベースに憧れが発生したからだろう。
「心が死んだ」「ゼロの状態で切嗣から新規に心を貰った」
を強調し過ぎると、なんっかその辺拾えてない印象になる。
大事そうな話をよく読むとさっくり投げっぱなしにしつつ
「え、そこ?」ってとこに落ち着くのな。
よく考えたら何故その話が理想に落ち着く、みたいな。
読み甲斐があるといえばそうなんだけど、お陰で
「借物」が「心がない」と誤解されたり
「笑いたかっただけ」が一人歩きしたり、
今回、物凄い分かり易くバッサリまとめてきて、色々衝撃だった。
始まりは憧れ、でも根底に在るのは願い って、きのこだなぁおい
思い出したよ、くっそながい文章アホみたいにぶっ通しで昼夜読み続けてここの所で「なんて尊い大馬鹿野郎どもだ」ってボロボロ泣いたの。
今回は素晴らしかった。
なんというか、エミヤシロウというキャラクターの魅力を再確認できたよ
人間なら誰であれ死に絶えるような地獄の中で意味もなく切り捨てられる小さな命をこそ守りたいと願った少年が、その地獄の希望をくれた人から受け継いだ理想によって、その最も救いたかったものを切り捨てて大多数を救うものになってしまったんだからやるせないよなあ
士郎が本当に凡人なら、途中で折れるんだろうけど、地獄の道行を後悔なく駆け抜けることができてしまった心身の強さに物悲しくなる
一応補足しとくけど、兄貴とディルでは置かれた状況が全く違うからな
兄貴とディルを比べてディルをけなしている人はそこらへんを忘れているし、あえてどちらがより酷いかといえばディルの方が遥かにひどい状況だったんだよなぁ
そりゃ恨み節の一つも吐きたくなるだろって納得するくらいに
仮にディルが戦闘続行を持ってて、セイバーと切嗣を倒してケイネスたちを救えた後に消滅したなら恨み節は残さなかったろうし
もし兄貴がディルと同じ状況だったら、恨み節はともかくとしてやはり憤怒の形相で怒っていたんではなかろうか
それに主君に忠を尽くすってディルの願いも、強い奴と全力で戦いたいっていう兄貴の願いも自分本位な願いという意味では同じだからディルも兄貴同様、立派なケルトの英雄だと思うけどなぁ
士郎が人助けをしたいのに、元々法政志望してたことが昔から疑問だった。救急隊とか医者とか、もっとわかりやすく人助けできる仕事があるのに、と。
でも、きっと士郎はそんな自分の手の届く距離だけに留まるミクロの人助けではなく、社会の仕組み全体を変えるようなマクロの人助けをしたかったんだろうな。
そう思うと、世界と契約したのも、膨大な力で社会全体をよりよくできるという期待を持ってたのに、実際は何の権限もないただの末端の処刑人でしたっていうオチに涙せずにいられない。
なんて愚かで、なんて愛おしいんだろう。大人しくレスキュー隊にでもなっていれば良かったのに。でも身の程を超えて、それより上を、人類の幸福の根源を求めてしまう士郎だからこそ、愛せずにはいられない。
大河になってアーチャーを馬鹿馬鹿って言いながら思い出してくれるまで思いっきり抱きしめたい。
俺もそんな風に思っていたけどFateを深く考察するようになってちょっと考えが変わった
士郎が最も助けたいのは苦しみ足掻いてなお幸せになろうとする人なんだよね
だからもしかしたら罪を犯しても尚幸せになろうと苦しんでいる人をこそ助けたいと思っていたのかも
分かりやすい消防隊員や警察官を目指さないのは
だからあのゲリラの少年を始めとする人々はアーチャーにとっては助けたい相手だったんじゃないかって
指導者はともかく実際に戦っている人達は思想に関係なく自分や家族が食べていく為だったりするし
>>「(幼士郎の)この地獄を覆してほしいという願い」
>原作ではこう
>>自分では持ち得ないから、その尊さに涙した。
>>いけないのか。自分の気持ちではないから、それは偽物なのか。
それ、別に矛盾しなくない?
士郎は元々恐ろしく真っ当な子供で、「『誰か』この地獄を覆してほしい、みんな助かってほしい」
っていう願いを持ってた。
でもそれは、救いのない、誰も彼も死んでいく現実をつきつけられて
意味をなさなくなった(これを「心が死んだ」作中では表現する)
そして、その地獄にあって未だ生存者を探す、
「『自分で』地獄をどうにかしようとする」切嗣に会って、
士郎は、「助かりたい」「助かってほしい」という情動すらボロボロになった己の心では
抱けなくなってたその思いに涙したわけだろう。
SN切嗣では強すぎて物語にならないのは分かるけどだからといってケイネス一人に原作で語られた外道戦術使うのはちょっと弱体化させすぎやな(せめてもう一組くらい・・・)
会話の制約があったとはいえ、セイバーをあからさまな無能騎士道中にしたり、切嗣に明らかにおかしい戦争は英雄のせいだ論を抱かせるのもちょっとな(過去編から考えても切嗣が恨むようになるのは魔術師のはずだし、セイバーがあんなに騎士道大好きなはずもないから、明らかに話の都合のためにそうなったようにしか見えない)
これはもうちょっとやり様があったのじゃないかと思ってしまう
後やっぱりなぜ切嗣は火災の犯人になったのだろうか?
虚淵さんが言峰大好きだったから変えたんじゃないよな流石に
ナタリアとの別れによる正義への絶望や故郷での事件等の過去編がよかったから余計にそこらへんの矛盾や弱体化が気になってしまうな
横からだけど、「士郎は正義の心を元来から備えていた」と思われる描写は今回、原作、前回のアニメでも見えたりしてるよ。
・泣きながら災害のなかを歩いた。その時、周囲から「助けて」 と声が聞こえてきた。止めてくれ、オレにはそんな力はない。という感じの描写。
・そして今回の顔。泣いてはいるけど、泣き顔ではない。
「誰か助けて」ではなく、「助けられないのに助けを求められることに対して謝りながら、歩き続けた」
スマホからだと書きにくいな…
俺は
「たしかに、始まりは憧れだった」
「けど、根底にあったものは願なんだよ」
「(幼士郎の)この地獄を覆してほしいという願い」
「(切嗣)誰かの力になりたかったのに、結局、何もかも取りこぼした男の、果たされなかった願いだ」
って解釈した
根底にある願いは切嗣に会う前から持っていた
のコメントを見て思ったけど、確かに「こんな地獄を覆して欲しい」っていう表現は、今まであの手この手を尽くして地獄を覆すために努力してきた切嗣の願いとしては受動的すぎるかなって思うんだよね。だからこれはやっぱり地獄を前に何も出来なかった子供士郎の願いなんだと思う。
車の傍の死体
暗転[黒い画面に白い文字で]理想(じごく)を見た。
トンネルの中の死体
暗転[黒い画面に白い文字で]理想(じごく)を見た。
荒野の木の周りの死体
暗転[黒い画面に白い文字で]理想(じごく)を見た。
世界との契約
暗転[赤い画面に黒い文字で]――いずれ辿る、地獄(りそう)を見た。
という事?
そうじゃなくて、
地獄を見た。
地獄を見た。
地獄を見た。
――いずれ辿る、理想(地獄)を見た。
ってこと。
いや、原作ではとてもそうは見えなかったけどな。
実力的には1/10しか戦闘能力出せない状態でも圧倒的に士郎<アーチャー。
そして勝負のついた最後の一刀もアーチャーなら余裕で防げた。けれど防がずに士郎の攻撃を受け入れたってちゃんと理解出来る用になってる。
セイバーも「アーチャー…何故……」って疑問を口にしてた筈だし。
だからこそDEEN版でそこが分かりづらくて不満点になってるんだし。
セイバーが辛そうなのは士郎達が殺し合ってるのに見てる事しか出来ない辛さだと、思うけどな。
彼女はずっと士郎の生き方は危ういと言ってたし、実際に破滅したアーチャーが士郎を殺そうとしてるんだからそりゃ辛い。
士郎とセイバーは似たもの同士だから士郎やアーチャーの気持ちもセイバーは理解できるだろうしね。
挿入歌にあるSTARDUSTって星屑もそうだけど「夢を見るようなロマンチックな気持ち」という意味もあると知ってショックを受けたよ。星屑はまさに「願い」の記号だけどそれだけじゃなく、地獄と知っていても夢を掴みにいく士郎の熱い気持ちも表しているようでAimerさん、なんという言葉を選んでくれたんだ。ついでに、
Ashは色も熱も失った灰塵=アーチャー
Judasはエミヤシロウを最後には殺してしまう裏切り者=理想
として歌詞を見ると本当にアニメ映像とリンクしていてもうこの歌が大好きになってしまったよ。本当になんてすばらしい物をつくってくれたんだこの人たちは。
事件とか起こるとすぐ「これだから女はクズ」とか「社会に出るべきじゃない」とか品のないコメントつける人がいたりするし、
はてなとかでクソフェミがとか叩かれる男死ね主義者がいたりするんで、そんじゃあんたらの理想郷ってどこよ?みたいなさ。
「あなたの怒りはどこから?」みたいな問いはミソジニーとかミサンドリーみたいなくくりで話す前に聞いてみてもいいことなのかもね。
そのへんってもうミソジニーもミサンドリーも関係なくその個人が自分の人生の中で鬱屈と憤怒をため込んでいて相手はなんであれ喚き散らしたいだけなんだと思う。フェミ問題なんて「そのときたまたま目について正論顔で殴ってもよさそうだと思った」以上の意味なんてないんだろう。Web上の祭なんて大半そんなもんじゃないか? 酒場での乱闘(しかも画面越しで痛くない)をやりたいだけであってそこに思想とか意味を求めるのも疲れちゃうだけだよ。
個人の理想郷なんて個人の努力で手に入れるしかないんだよ。社会批判で自分個人の理想郷が手に入るなんて夢見るほうが頭おかしい。理想郷を入手するための個人努力を放棄すると暇になるから暇つぶしで乱闘アミューズメントするんだよ。
なるほどね~
個人的な経験が社会全体の悪に直結するってあたりがなるほどって感じ。
なんかミソジニーにしてもミサンドリーにしても、時々「この人たち一体ホントは何に怒ってて、どうやったら本人的に満足するんだろーか」って考えちゃうんだよね。
事件とか起こるとすぐ「これだから女はクズ」とか「社会に出るべきじゃない」とか品のないコメントつける人がいたりするし、
はてなとかでクソフェミがとか叩かれる男死ね主義者がいたりするんで、そんじゃあんたらの理想郷ってどこよ?みたいなさ。
「あなたの怒りはどこから?」みたいな問いはミソジニーとかミサンドリーみたいなくくりで話す前に聞いてみてもいいことなのかもね。
へー
そしてハッピーエンド
ふざけるなよ。
ロリ・ヲタ・プーの救えない男が救えないまま人生を終えるような漫画がラブやんだろ。
谷底へ向かって等速直線運動をかまして緩やかに死へ向かう姿を描き続けるのがこの漫画の売りだろうが。
それをなんだこの終わり方は。
崖の終わりが見えもうすぐ飛び降りるぞって瞬間、死へ向かっていたボロボロのハイエースから翼が生えて天へと駆け抜けていったようなラストは。
駄目人間が駄目人間なまま最後を迎えてそれでも少しだけ救われる話だ。
最強伝説黒沢なんだ。
それがなんだこれ大逆転じゃねーか。
ロリという童貞の理想郷に囚われ現実のチャンスを取りこぼすこともなく、プーとして冥府魔道を突き進みゆるやかに己の首に縄をかけるでもなく、ヲタとして生産性皆無のまま人生を終えるでもなく。
好きな相手を見つけて結婚して、ちゃんと仕事もして、ヲタクだけど生産性も常識も有る側として生きて……なんなんだよこの裏切り者はよ……。
思えば数年前からちょっとずつ歯車が狂ってきていたがそれでも俺は俺たちは信じ続けたんだぞ。
カズフサは俺たちを裏切らないって。
思えばNHKにようこそもさんざん引き伸ばしてリア充恋愛エンドだったな。
くそっ……どいつもこいつも読者をなめやがって。
漫画として綺麗に締めれば信用できる漫画家だと思われるってか、違うね。
読者を裏切らないことが大事なんだ。
"一般的な漫画"のセオリーを守ることじゃなく、"それぞれの漫画"のセオリーを守ることが大事なんだ。
綺麗で味気のない終わり方なんてモグラ野郎に漫画を習ってるド素人共に任せときゃいい。
15年かけて続いた連載が爆発オチ、それが俺たちの信じピロシだと……そう信じていたのに……
もちろんフェミニズムと新自由主義という思想は非常に親和性が高く、互いが互いの考えに片足ずつ突っ込んでるという感じで切っても切り離せないのは周知の事実ではある。
しかし、決定的に相容れない部分があるのもまた事実。新自由主義というのを単純化して少々乱暴にいえば弱肉強食の理論なわけで、性差別の撤廃や男女同権をかかげるフェミニズムとは目指すべき世界観が理想郷が根本で違っている。
新自由主義者たちが推し進めた既得権益の打破、抜本的改革、岩盤規制の破壊、構造改革、民営化、規制緩和、国家戦略特区、道州制、小泉フィーバー、自民党をぶっ壊す、これらの政策にフェミニズムは利用された。女性の社会進出、男性社会の破壊。確かにフェミニストの掲げる目標の一部分は達成したのかもしれない。
みんなで貧乏になれば平等という話だ。世の中のイケメンを全員抹殺すれば相対的に顔面偏差値が上がってハーレムなのにと、妄言を吐くもてない男の与太話と大差ないが、それがまかり通るのが平成である。
あの竹中先生もおっしゃっていた。日本の最大の既得権益は正規労働者だと。彼ら正社員は非正規から搾取している悪人だと、だから全員非正規にすればみんなハッピーで世の中うまくいくとかなんとか。
真の狙いは不明だが、もしかしたら1%の金持ちに批判がいかないように正社員と非正規の対立を煽っているのかもしれない? もしそうだとしたらとんでもない策士であり。陰謀である。パソナの陰謀でしかない。
そんな巨悪があるかないか知ったことではないが、俺としては日本中の俺より幸せな人間が不幸になることを止める理由がないので、構造改革も規制緩和もどんどんすすめてくれてかまわない。みんなで不幸になろう。この日本という泥舟にのって、夜の国道を無灯火で爆走し、赤信号をわたりまくるのだ。
しかし、弱者男性とか言うゾンビよりも厄介で醜い死んでるのか生きてるのかわからない、燃えるゴミと燃えないゴミの間に生まれたような人間たちがフェミニスト連中を攻撃しているのは喜劇としかいえない。
たしかにフェミニストと聞くと三角めがねをかけて語尾がざますで田島なんたらみたいなのを想像しまいがちではあり、あのような人間なら傷口に塩を練りこんで、永眠する呪いのをかけたくなる気持ちが理解できなくもない。
が、それは罠だ。だれが仕掛けたかはしらん。しかし間違いなく弱者男性とフェミニストが対立しているのを見て爆笑しているやつがいる。弱者を生み出した黒幕が囁いているのだ。女を叩けと公務員を叩けと正社員を叩けと若者を年寄りを、地方を叩けと。
そんな黒幕が本当にいるのかは知らん。しかし弱者を生み出したのはフェミニズムなんていう軟弱で被害者面した奴らの思想ではない。弱者を追い詰めるのはいつだって強者の理論に決まっている。
そもそもこの新自由主義的政策を行ってきた政党が保守政党を名乗る自民党だということを考えてくれ。
ネオリベは保守と手を組みフェミニズムとも手を組み、巧みに姿かたちを変え、鵺のような立ち振る舞いであらゆる人間あらゆるす思想を取り込み吸収していく、よく乾いたスポンジのように。どんな考えを取り入れても新自由主義は歪まない、曲がらない、へこまない。矛盾を起こさない。きっちり辻褄を合わせてみせる、合わせたように振舞える。どんな角度から批判されても、するりとかわしてみせる、それはしなやかな柳をを連想させる。柔軟である。どんな相容れない存在も許容し、あるいはこちら側の色に染めるのだ。
そんな詐欺師のような理論は世界中であらゆる政治的な場面で大活躍だ。八面六臂とはこのことか。
まさに最強の理論。弱肉強食の理論こそが、この複雑な世界をもっともシンプルで、なんの矛盾も間違いもなく見渡せるのだ。誰だって弱肉強食を否定できない。
多面的なあらゆる関係性のなかに生きている俺らが一番最初に気づく真理がこれだ。
これに一枚かまない理由はない。俺もこの理不尽なゼロサムゲームに勝ちのころるために、弱者どもを言葉巧みに操り、被害者のふりをしながら一人ひとり地獄へ突き落としてやろう、そうしよう。
強者に媚びへつらい寄生し弱者からは搾取する。現実をとことんネガティブに捉えれば所詮こんなもんなのだ。開き直って詐欺師にでもなったほうが美味しい飯を食いながら人の不幸でおかわり三杯はいけるだろう。
右翼も左翼も利用して、男と女を対立させ、若者と年寄りを対立させ、日本人と外国人を対立させ、不毛な殴り合いを遥か高みから見下ろすのだ。膝に猫を抱えながら。
そしてどの勢力にも関わり、裏から扇動し、洗脳する。しかしどいつも俺らを批判できない。なぜならどいつもこいつも新自由主義に片足、いや両足つっこんでいるのだから。
フェミニストと新自由主義者が目指す理想郷はまったくの別世界であるが、これからもフェミニズムは利用され。新自由主義のピエロ、もしくはパンダとして消費されるだろう。
安部首相のいう女性の活用とかいう政策はまさにフェミニストと新自由主義者のねじれが引き起こした暗黒面だ。女も男も幸せにならないのだろう。いい気味である。
変えるのはとても簡単です。
まず、国の財務収支を健全にするため、円を大量にすりましょう。
もちろん歳出を減らすために公務員・国会議員は無給で働いてもらいます。
高齢者に係る高額な医療費の支給も辞めましょう。今後は健康保険も国が支給すべき人間を選定します。
また、医師や弁護士等に仕事を依頼できる人間も国力増強に資する人材のみです。
人口のバランスを正すために、今の20才から35才までの若者の結婚・出産を義務づけましょう。
日本の教育のレベルをあげるために、学校の休日を無くし二十四時間教育を行いましょう。
また、国の発展のために民間企業の収益は全て税として徴収します。
今、日本に生きる人達の苦しみ?関係ありません、未来のこの国のためです。
「こういう前提があるからできない?」何を言っているのですか
岡田斗司夫の元愛人を名乗る人物がtwitter上で暴露漫画を描いたことでネット上で物議をかもしている。
これが非常に面白いのだ。
そもそも岡田斗司夫は80人近くの女性と彼氏彼女の関係をもっていたと発言したのだが、ふたを開ければというかあけるまでもなくわかっていたことだが、それは愛人契約以外の何ものでもないということがわかった。
もちろんその事実がわかった段階では岡田氏を擁護する者は少なかったし、消極的に岡田氏を擁護する者はいても、全肯定したり、女の自業自得だ自己責任だと切り捨てる者は感覚的に少なかったように思われる。
しかし、この暴露漫画がtwitter上で話題になると岡田氏批判と擁護が拮抗しているように思われるのだ。(勝手に思っている)
何故なのか?
この疑問こそが僕の出発点だった。
僕の立場を言えば岡田氏のやっていることは100%間違っている。全否定派である。
のにだ。何故か批判派の論理はどこか矛盾しているように感じ擁護している側のほうにも正当性があるように感じてしまったのだ。これは考える価値のある疑問のように思われたので拙い知識で少し論じてみようと思う。
何故、岡田氏擁護側のほうにも論理的正しさを感じ、批判している側に矛盾を感じたのか。
これこそフェミニズムとネオリベラリズムのねじれ現象だと思うのだ。
批判派の論理はフェミニズム的思想によって行われ。擁護派の論理はネオリベラリズム的思想によって行われているのだ。
しかしこの二つの思想は僕にとっては共闘関係にあり手と手を繋ぎあっている仲間だと思っていたのだ!(書いてる途中でしったのだが、どうやらフェミニズムとネオリベラリズムはの関係性は大昔から論じられてきたらしい)
もちろんフェミニズムもネオリベラリズムも一枚岩ではないということは重々承知なのだが、もともと自由平等博愛という世界観を生み出した自由主義者たちが資本主義者と手を結びその中でで男女同権男女平等を唄うフェミニズム思想が生まれたのだと思えば、フェミニストは基本的に自由主義者だしネオリベラリスト達が掲げる国際化グローバリズム的思想とも
フェミニスト達は手を組めてしまうのだ。なぜならネオリベラリスト新自由主義者達は歴史、伝統、文化、国家などを解体し国境や国籍をなくし市場を開いて自由に! 平等に! 競争し貿易し取引し資本を儲けるという考え方なのだとしたら、
フェミニズムにとって邪魔な伝統や文化、家や血、身分や階級からの開放と非常に親和性の高いものだということがわかる。
つまりフェミニストの大半はおそらくグローバリストでありネオリベラリストなのだ。
ネオリベラリストたちの多くは自分のことをフェミニストだと思っている事だろう。
岡田氏擁護の論法はこうだ岡田氏はちゃんと見返りを与えている、それに選択肢も与えている、だったら女性の自己責任であろう、と。
これは男女の関係を金や権力または見た目の美しさかっこよさのみで取引できるという考え方が染み付いているのだろう。
さらに付け加えれば金や権力、美貌以外の価値観こそ女性を抑圧し束縛するものだと思っている可能性すらあるのだ。
最近togetterにまとめられていた「フェミニズムを拗らせた結果、レイプものや売春もの等しか受け付けなくなった人達(と、百合しか受け付けなくなった人達)」というのを読んだのだが、彼らは金、権力、美貌以外のもので男女が恋愛できるということを信じられなくなっているのだ! これは歴史でも伝統でも文化でも宗教でも国家でも家でも血でも身分でも階級でもなんでもいいんだけれど、そういったものにまったくリアリティを感じられない人たちに起こる現象ではないか? 彼らが異性と共有できる価値観なんてもはや金しかないと信じているのである。
そんな彼らがフェミニズムを拗らせたと名乗っているのだから面白い。
フェミニストがネオリベラリズムに正当性を与えネオリベラリストがフェミニズムの理論を武装したのである。
ネオリベラリズムの思想のなかには間違いなくフェミニズム的思想を取り込んでいるし。フェミニズムのなかにもネオリベラリズムと共有する価値観はあるということは間違いない。
しかしこの岡田斗司夫問題で、一見、僕からすれば同じグループの人間たちが喧嘩を始めるという奇妙さによって、フェミニズムとネオリベラリズムには価値観の多くを共有しているが、決定的に相容れない全く共有できない価値観があるということが浮き彫りになったのだ。(岡田氏本人がネオリベかどうかはよく知らない)
そんなの当たり前だろとおっしゃる方もいるだろうが、僕にとってこれは発見であり、フェミニズムという思想には大きな矛盾と逆説を抱えているように思ったのだ。
もちろん岡田氏を批判している多くの人は別にフェミニストなどではなくただ直感で不愉快に思ったからだろうが……。そのなかに紛れているフェミニスト達を見ていると(岡田はパワハラで性暴力で女性の敵! といった意見)岡田氏の様な恋愛資本主義的な思想に正当性をもたせたのはフェミニズムなんじゃないのかと思わずにはいられないのだ。
これまでフェミニストはどう考えてもネオリベラリストたちを利用してきたように思われる。
歴史、伝統、文化、国家からの開放という理念、男性社会からの開放という思想は
国家主導の経済政策ニューディーラーやケインズ理論のような社会主義的な政策を嫌うネオリベラリストをフェミニストは利用し、
男女同権をネオリベラリズムによる労働規制の緩和と非正規雇用や外国人労働者などを使った低賃金化といった改革によって達成した。
そして行き着いた先これである。
自由と平等を過激に極端に推し進め規制は悪であるという考え方が導き出した論理こそ弱肉強食なのだ。
クルーグマンもスティグリッツも最近話題のピケティも言っている格差問題はネオリベラリズムによるところが大きいが、
フェミニスト達にも米国におけるトップ1%が金融危機以来95%の富を得ている等の責任があるように思えてならない。
ネオリベラリズム的政策に正当性を与えたことは言うまでもない。
僕は今フェミニストがネオリベラリズムを利用したといったが、もちろんネオリベラリストがフェミニズムを利用したことも疑いようのない事実だとは思う。お互いがお互いをうまく利用してやろうとしたのだろう。
だからこそフェミニスト側が、ネオリベに裏切られた! 私達は被害者だというのはやめてもらいたい。ネオリベラリズムの思想によってフェミニズムの目的の大部分は達成したのだろうから。それが仮に弱肉強食にさらされるという事であっても……。
別に男と女が対立するのも結構だが、格差問題が深刻になりつつある今、フェミニストがやることはネオリベラリズム批判ではないだろうか?
フェミニスト達が今回の暴露漫画における岡田氏擁護派の論理、つまり弱肉強食という考え方を否定し資本による自由平等を批判しても、恐ろしいことにそれを望んでいたのは(少なくともそう見えた)フェミニストなのだから自分で自分を殴っているような滑稽さ、それが僕の違和感であり矛盾であり、擁護派にもそれなりの正当性があるように思えた理由なのだ。
家や見合いを否定し自由恋愛が生まれ、今度は家庭を否定し、恋愛資本主義にまでいきつき男女ともに恋愛による価値観は金と権力と美貌しかなくなるのも頷ける。
金と権力があればモテルやただしイケメンに限るなんてのもネオリベラリズムに毒されれば必然的な帰結だろう。
このような思考回路を持つ、岡田氏を擁護する人間や岡田氏の様な人間を作り上げたてしまった責任の一部にフェミニスト達が関係していることを考えるとなんともいえない気持ちになる。
男女の平等を達成するためにネオリベラリズムを利用したらネオリベラリストによって性的被害を受けた、なんと皮肉なことか。
弱肉強食と男女平等が共存する社会が仮にあるとすればそれは旧石器時代のようなものではないか? それこそがフェミニストとネオリベラリストの理想郷であることは疑いようもない。
日本人よりずっとワーカホリックなアメリカ人なんていっぱいいるし、
「そんな結婚だの家庭だのなんてとても無理だよ」というベイエリアの起業家もいる。
https://twitter.com/mozantotani/status/565179979348983808
https://twitter.com/mozantotani/status/565180425924902912
https://twitter.com/mozantotani/status/565180818834718720
こういう話もある。
アメリカ的スーパーマン、アメリカ的ファミリー、そういう理想像を実現していることを演じなければならない。
そもそも本当にアメリカが理想郷なら、わざわざ日本に移住してくるアメリカ人などいないはずだ。
物事の良い面だけを主張するのは、それだけで信用に値しないよね。
http://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2015/01/01/072258
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20150101/p1
読んだ。
だいたい自分は上のお二方と似たような経過をたどってきたと思う。その後、諸事情によって引きこもらざるを得なくなった点だけが違う。そして「やってることが10年以上、本質的になにも変わらなかった」という点ではおそらく上記お二方以上。どれくらい変わらなかったかというと、その息苦しさとやらがそもそもわからなかったくらいだ。俺は昔から「だれが読んでいるか」を意識したことがあまりない。「どれくらい読まれているか」しか考えてこなかった。具体的にはPVのことだが、それは結局数字なので、100が1万になったところでいずれは慣れる。なので、本質的には変わらない。
毀誉褒貶があったことはとうぜん承知していたが、それがリアルのほうに影響を及ぼすとはまったく思っていなかったわけだ。俺の場合、その息苦しさとやらを感じなかった代償が、いきなり現実の罰としてやってきた。つまり、10年以上、書き手として意識をまったく変化させずに「書きたいこと書いたるわ!」などとやっていると、それを不快に思った人からの罰が下る。ブコメを読む読まないの問題ではなく、リアルに影響が及ぶ。それだけインターネットの人口は増えたってことだ。おもらしこどもぱんつ口に突っ込まれてようじょのおうまさんとして東奔西走したいなあさあお兄ちゃんのミッションレバーを握ってごらんウッいきなりバッテリー液漏れだぁなどといえば、それを気持ち悪く思う人間はかならずいるということだ(いるだろう、そりゃ)。
もっともこんなことには解決策はある。リアルの情報をいっさい封じればいい。自分が何歳で、どこに住んでおり、どんな仕事をしているのか、そういう情報をカケラも出さなければ、たとえば「あの人は女の子の放尿シーンのすばらしさについてのみ語る人だ」という認識ができる。
しかしうまくいかないもので「書きたいこと」のなかには、たとえば仕事に関することや、近所の公園で見た桜の花がきれいだったなんてことも含まれたりする。そしてどうかすると、その公園の滑り台の降り口のところでべったりと匍匐しており、上から降りてきたちっさいこのぱんつが見えた経験もまた書きたいことだったりする。そういうものが渾然一体となってひとりの人間であり「書きたい」という欲望を持つ人間は、往々にしてそのへんの区別をしない。桜の花の美しさに感動するのも自分なら、ロリゲーなのにヒロインが処女じゃないことに激怒するのもまた自分である。
もちろん社会生活のうえでは尿ゲーと謳っておきながら着衣失禁が一度もないことに激怒していたことなんかはだれにも言わない。インターネットがもはや電話と同じように単なるインフラなら、リアルとネットという二項対立に意味はない。よって、リアルで言うべきではないことは、ネットでも言うべきではない。
なので、実は俺自身は「ネットってものの質が変化したんだから、不自由もなにもない」という意見になる。不自由さ、息苦しさのようなものを感じるのは、かつては「俺ら」の隠れ家や理想郷めいたものがそこにあったと錯覚しているからだ。実際あったかもしれない。しかしそれは流入人口が少ないがために偶発的に発生した空き地のようなもので、その空き地ではエロ本を隠れて読もうがなにしようが、だれも見咎める人がいなかった、というだけの話だと思う。
2015年、インターネットから空き地は消えた。遊び場が欲しければ、どこぞのSNSという名のビルの何号室かに、外部から干渉されない場所が用意されている。妹キャラにはオナニー必須だと叫んでも外には聞こえない。安心していい。
そう断言する俺自身を含め、どうしても郷愁めいたものが残るのだとしたら、それでもその場所は密室でしかないということだ。広い空き地があって、空が見えて、エロ本探しに飽きたらキャッチボールをやってもいい、駄菓子屋で買ってきたうまい棒を食っててもいい。空き地の前の道路は町につながっているし、その町には鉄道の駅があって、ひょっとしたら空き地にだれか知らない人が遊びに来るかもしれない。空き地で大声をあげて遊んでいる「俺ら」を見て「おもしろそうなことやってるね」と近寄ってくる人だっているかもしれない。かつて、それがどれほど嬉しかったことだろう。
ビルの何号室かは、部屋の番号を知らなければ訪れようがない。
でも、そういうものだ。人口が増えたら都市化は進む。あたりまえの話だ。
PVが増えたというのは、立地のいい駅前広場で、出力の高いスピーカーを装備しているようなもの。観客を集めることはでき、多くの人に自分の声を届けることもできるだろう。本人にそのつもりがなくても、地声がでかければ結果は同じだ。その声をマイクで拾って拡散する人だっている。
いいとか悪いとかの問題ではなく、それはまったく「そういうもの」でしかない。必然の結果ってやつだ。そのぶん、多くの人に声は届く。
とまあ、かつてはマイクの前で大声をあげており、いまは部屋の窓から外を眺めているだけの俺はそう思う。もう、あの場所はいいや、とも。
「大志を抱く地方青年は、東京だけを目指す」というのは、実は戦後の価値観でしかない、と思う。
戦前は、「東京を目指す」青年の数倍の数の青年が「満州を目指し」ていた。
戦前の帝都(東京)は確かに地方から見たら魅力的だったが、反面、財閥や華族・藩閥などの「旧勢力の巣窟」の都市だった。
だから、有為な青年は、「旧勢力のしがらみのない、実力本位」な満州を目指した。
戦後の東京一極集中という現象は、「満州を失った副作用」という側面もあると思う。
※「戦前は、人口流出の受け皿は帝都じゃなく満州だった」仮説、これはあくまで仮説なので、国勢調査データで検証してみたいのだが・・
話は飛ぶが、北海道民の県民性に「因習に縛られない、合理的」てのがある。
実は満州移民も、「県民性」は北海道と同じように「因習に縛られずに合理的」だったらしい。
アカデミックな世界や、技術の世界でも、満州は「因習に縛られない、合理的な新世界」だった。
満鉄などでは、内地でも(帝大などのしがらみが理由で)導入できない世界最先端の技術を、次々と導入して生産効率を高めていた
自分は帝国主義には否定的だが、「満州社会の合理性」の部分は、もっとポジティブに評価すべきだと思う。
満州は「内地では出来ないことをトライアルする、一種の特区だった」訳で、
戦後日本に「特区の成果」が導入されて社会改善に繋がった効果は否定出来ない。
現代日本の閉塞感って、満州みたいな「しがらみのない新世界」を持ってないことにも起因する気もする。
戦前の国民が、「満蒙は日本の生命線」という松岡洋右の言葉に激しく共感したのは、
死ねたら、それ以上の幸いはないのですよ
「心も、人生も、揺れる事がなければ良いのに」と、思うわけで
「VAZIAL SAGA(ヴァジアルサーガ)~愚民化戦略~」というゲームに、こんな一文があるので、これを〆とする
まずは、外の世界から隔離した場所をつくり、そこへ人間達を住まわせます。
人間が食べ物に不自由しないよう、飲むだけで空腹が満たされ、若さを保ち、健康でいられる”湖”をつくりました。
その水は、人間だけでなく、植物を潤し、空気もきれいにします。
身体にかけるだけで、汚れが取れ、傷が治り、とても良い香りに包まれます。
しかし、何ヶ月か過ぎると、人間達は不満を持つようになりました。
神様は、人間から男女の種別を無くし、その原因を取り除きます。
そして子孫を残せない代わりに、永遠の命を与えました。
調べてみると、綺麗な者が醜い者を虐げていました。