はてなキーワード: 不断とは
増田にとって辛かったのは、単に男女の友情が成立するかしないかという世間的真理の問題よりも、「一番の友達だ」「人と付き合ったりすることができない」「俺もだ」と言語化されていた関係を裏切られたことだったんじゃないかな。「嫌だ」って言ってるのに受け止めてくれなかったことじゃないかな。
世の中にいるんだよな、言葉を字面通りに受け取ってくれないやつ。恋愛が苦手だ、って言ってたのに告白してくるやつ。性的なことが苦手だって言ってたのに、それでもいいから付き合ってって一旦了承してから、やっぱセックスしたいとか言い出すやつ。NoがNoであると理解できないやつ。
そういう連中は決まって「でも常識的にはこうだから、その発言は無効だ」みたいなことを言い出すわけ。「口ではそういってても、実際には違うでしょ、カマトトぶってるだけでしょ」「そうはいっても一緒に映画をみたじゃないか、世間ではそれは通用しない」みたいな。世の中の人間の価値観や思考様式はさまざまなんだから、その差異を埋めるために言語を使うのが知的生物たる人間だ。それでも、放たれた言葉を真正面から受け止めず、自分の価値観が「多数派」であることを盾にして相手を飲み込もうとする。それは単なる暴力だ。
悲しいことに、確かに増田にできることは自衛しかない。そういう奴らは話が通じないから、話を通じさせる前提条件が飲み込めないのだから、説得してどうこうなる相手じゃないわけだ。襲いくるモンスターからは早めに逃げるしかない。どんなにあなたに非がなかったとしても。
だとしても、「男女の機微」なんてフレーズで、真正面からの合意形成をサボタージュしようとする連中の言葉をありがたがってみせる必要はない。自分ではない誰かと共に生きるならば、まるで異なる他者と生きるならば、それが恋愛であれ友情であれ、言語による合意形成の不断の努力なしには成り立たないのだから。
パンとサーカスって言うけど、人生で大事なものにパンとサーカス以外は無いだろって思う。なんか愚民の目を政治から逸らすための餌的なニュアンスらしいけど。
人はパンのみにて生きる訳ではないけど、あとはサーカスさえあれば十分でしょっていう。食って寝るだけの人生を良しとする、しなければやってらんないようなブッディストめいた人間もいるにせよ。
というかおれはむしろパンすらもサーカスを楽しむための従属的な存在と思ってる。まあ飯食うの寝るのも、単に生存の手段を超えて結構重要視されがちな楽しみだったりするけど。
サーカスっていうとなんかアレだけど娯楽という意味で言えば、愛とか存在意義への問いとか自己実現の欲求とか、果ては何らかの根源的な信仰さえも、言ってしまえばその範疇だと思う。サーカスで言ったら演じる側と観る側くらいの差はあれど。
満足に生きようとしなきゃ別にそんなもんいらないんで。でもどうしようもなく満足に生きたいから娯楽は欲しい。
それがその場しのぎの供給だとしたら話も違うけど、パンとサーカスが安定的に得られるんだったらもうそれ以上政治に関わる道理もないだろって思う。まあその政治を保全する不断の努力というやつはあるのかもしれんけど。
生活と娯楽が保障されるのなら、それは政治から意識を遠ざけるためのまやかしの餌どころか、むしろ人の営みの本質に対する支えだろとすら思う。
政治までもが娯楽の射程内かと言えば、それは流石に微妙な感じがするけど。政治の問題も社会問題も、更に還元していけばパンとサーカスが脅かされる状況こそが問題なのだろうし。
政治なんて他人に邪魔されないように、それか協力を得ながら、パンとサーカスに興じていられる環境を得るための手段でしかないでしょって思う。
誰かの意思に踊らされてるとかそういう事よりも、今自分が満足出来ているという実感の方が遥かに大事な気がする。
まあそれもラディカルな話になれば、じゃあブラック企業の社畜も今の環境を幸せだと感じるように価値観を矯正すれば幸せなのか?って事になるけど。
でもDVされてる人間が相手の暴力に対する考えを改めるのは「正しい」事だったりするし。
満足をもたらす価値観の変化について、結構都合良く解釈を使い分けてはいる。それは社会規範であったり共感なんかの辺りに基準のヒントがあるのかもしれない。
おれはあんまそういうの気にしてない。カルト集団にハマって金毟られたとしても、自分で心底満足だと思ってるのなら別にそれもいいと思う。
でも趣味人間が会社なりで忙殺されてる内に仕事最高!勤労・家庭愛・社会貢献こそが人間のあるべき姿!となっていく姿には、適応というよりもグロさを感じる。
これはまあ身近さ次第で共感出来る度合いに差があるのかもしれない。
まあどうせ自然法則からは逃れようもなく支配されてんだし。そこまで行くと自由意志なんてありませ〜んって話になってきそうだし、それもなんか味気ないから蓋をしておきたい所ではあるけど。
憲法には表現の自由とかを守るよう不断の努力をしろって書かれてる。
間違って覚えられがちだけど、表現の自由案件でスルーせず自由守る努力ってチキンレースじゃないよ。
裁判ギリギリのセーフラインまで好き勝手する事が、不断の努力だと思ってる戦士が結構多いと思うので、失礼ながら言わせてもらう。anond:20241107083807
だけど現代では、当たり前だけどリアルに書籍を焚き火にくべたりはしない。
実は、ゾーニングせずにカタギに迷惑をかけることこそ、焚書なんですよ。
一般市民が困る。
ブランドを傷付けられた企業は、明確に禁止せざるを得なくなる。
禁止事件のトラウマにおびえるオタクたちは、もう、精神の翼を広げて伸び伸びとエロ2次創作できない。
だから。
いや、マジで臭えんすよ。
作品⇔健全な受け手 間で成立する健康的な空気が台無しになっていくわけですよ。
たとえば映画やLIVEに行って隣でワキガプンプンさせてるデブオタがぴょんぴょん跳ねて臭い撒き散らしてたらこっちの集中力に制限がかかるでしょ?
そういうの本当に迷惑なんですよね。
それって別に屋外か屋内かだけじゃなく、リアルかネットかですらなく、たとえそれが雑誌の投稿の中だろうともいい迷惑なんですわ。
別に個人が陰でコッソリ消費してそれに対して個人的な妄想「〇〇ちゃんと俺が同じ部活だったら絶対仲良くなれたわ。俺達めっちゃ話し合いそう」とかクセー妄想するのは別にいいんすよ。
でもそれを他人の目に付く場所で垂れ流すのは辞めてほしいんすよね。
「ボクは◯◯って映画が好きで50回見てます!」みたいなのも辞めて欲しい。
まあ別にキモくも何ともない人がやるのは気にならないんすけど、キモい奴は一切合切そういうのしないで欲しいんですよ。
だってその作品に対しての印象にどうしても混ざってくるじゃないですか、「あっ、これあのサブカルオタク気取り中身空っぽ老害ジジイがめっちゃ好きだと言ってた作品じゃん。かぁ~~~っいい歳こいて何が好きかで自分を騙るのは辞めてほしいわ~~~」ってなるじゃないですか。
いやマジで思うんすけど「何が好き。何が嫌い」で自分を騙るのって学生時代までにするべきだと思うんですよ。
ある程度成長したら好き嫌いについてと自分語りは分けなきゃいけないと思うんですよ。
別に俺だって作品と自分をちゃんと切り離せる人の「これめっちゃ良かった」は批判しませんよ。
でもインターネットにいるような連中ってなにかの好き嫌いを口にする時に絶対にそれを自分語りに絡めてくるじゃないですか。
こないだだって「疲れている時にまんがタイムきらら原作のアニメが楽しかったけど、今見ると全然面白くない」みたいなツイートがありましたよね。
あれって「(意訳:虚無美少女水族館が楽しめちゃうぐらい疲れていた可哀想だった俺ちゃん。不断の努力により人生をV字回復させて離乳食アニメから卒業)」でしかなくて結局自分語りでしょ?
お前それ結局主体は自分語りで作品はマクガフィン扱いじゃねーか作品に対して失礼だと思わねーのかって感じませんか?
つまりですね「三国志おもしろいよね!曹操の生き様がカッコイイんだ!」はいいけど、「主人公扱いされている劉備ではなく曹操を推す俺、物語をただ右から左に読み流すアホとは一味違うだろ?」はマジキメーって話ですわ。
いや本当に「何が好きかで自分を語れよ」みたいなのをインターネットは持て囃しますけど、ハッキリ言って「自分を語るのに何が好きかを使うなよ」なんですわ。
好き嫌いを通してお前を語るんじゃねえよなんですわ。
アポトーシスとネクローシス(壊死)は違うし、君が国の状態に対してアポトーシスという喩えを使うなら、同じように国の状態に対してネクローシスという喩えを使ってはいけない理由が見当たらない。
追記:むしろ、能登の被災と今後辿るであろう展開はアポトーシスと言うよりネクローシスと言ったほうが喩えとしては的確だ。ここまで言ってもたぶん君は理解しないだろうけど。
健康な人体にアポトーシスが欠かせないように、元々人間は割のいい仕事や住みやすい土地に集まるし、コスパが悪くなった場所は廃れるということを常に繰り返している。
その不断の流れの一瞬のスナップショットが過密な都市であり過疎の田舎だ。
昭和の一頃に栄えに栄えた林業の町や炭鉱の町が消滅し、たくさんの島が無人島になり、何もなかった丘陵がベッドタウンになり、またそのベッドタウンが過疎化し、そういう動きは別に一方向的なものではない。
能登先端の災害が過疎化に拍車をかけたとして、別にそれは「日本が末端から壊死している」ことを示してない。
どんな田舎にも離島にも大勢の人がへばりつくように第一次産業頼みで暮らしているのが国として健康なことなのでもないし、逆に病気でもない。そういう選択にその時は合理性があるからそうなっていたというだけだ。
合理性が成り立たなくなった場所にリソースを注ぎ込んでにぎわいを維持することは国力と関係ない。国家予算が有り余っている国でもそんなことはしない。
「日本が末端から壊死してる」という俗耳に入りやすいフレーズ/メタファーを与えられて「腑に落ちた」とかいう奴は腑に落ちるも何もそもそも何も考えてないし自分で何かを考える能力もない。何か考えたような気分に浸るのが好きなだけだ。バカは単純に図式化されたら理解した気になるが、お前は人生で何も理解していない。死ねばいいのに。
健康な人体にアポトーシスが欠かせないように、元々人間は割のいい仕事や住みやすい土地に集まるし、コスパが悪くなった場所は廃れるということを常に繰り返している。
その不断の流れの一瞬のスナップショットが過密な都市であり過疎の田舎だ。
昭和の一頃に栄えに栄えた林業の町や炭鉱の町が消滅し、たくさんの島が無人島になり、何もなかった丘陵がベッドタウンになり、またそのベッドタウンが過疎化し、そういう動きは別に一方向的なものではない。
能登先端の災害が過疎化に拍車をかけたとして、別にそれは「日本が末端から壊死している」ことを示してない。
どんな田舎にも離島にも大勢の人がへばりつくように第一次産業頼みで暮らしているのが国として健康なことなのでもないし、逆に病気でもない。そういう選択にその時は合理性があるからそうなっていたというだけだ。
合理性が成り立たなくなった場所にリソースを注ぎ込んでにぎわいを維持することは国力と関係ない。国家予算が有り余っている国でもそんなことはしない。
「日本が末端から壊死してる」という俗耳に入りやすいフレーズ/メタファーを与えられて「腑に落ちた」とかいう奴は腑に落ちるも何もそもそも何も考えてないし自分で何かを考える能力もない。何か考えたような気分に浸るのが好きなだけだ。バカは単純に図式化されたら理解した気になるが、お前は人生で何も理解していない。死ねばいいのに。
差別について議論するなら、以下のような内容は「文系」的には常識なので、わざわざ「賢い僕が発見したよ!」みたいに主張されると萎える。
・そもそも人間の思考(言語の構造)自体が、何かと何かを分けてグルーピングすることによってしか成立しないので、あらゆる区別を差別と呼ぶなら、極論すれば(たとえばニワトリをニワトリ、女性を女性と呼ぶことまで含めて)全ては「差別」であり、それが不当であるか否かは「程度問題」である。
・従って、通常は「世間的に見て『不当』と判断するもの」を「差別」と呼ぶことになっており、そのため一般的な用語としての「差別」という語には、「不当なものである」という含意がある。(従って自民党の付け加えは無意味であり、逆に余計な含意をもってしまうので有害ですらある。)
・図示するとこんな感じ。( /数字/ は その語の使い分けにおける境界線を指す。たとえば⑴は「A混沌(と呼ばれるもの)」と「B区別(と呼ばれるもの)」の間の境界線を意味している。)
ただし、何者も区別しない「A混沌」については、何も思考することができない、言語以前の領域なので、思考し論じる対象にならない。
通常ここに明確な境界線があると考えている人が多いがそれは誤解である。確かに、「時代や文化が変わっても、明白(に見える根拠)があり、人為が働かない(ように見える)弁別がある」違いというものはあるため、たとえば液体と固体、水と氷を分けることは明白に「B区別」であり人為が関与しないかに見えるのも事実だが、たとえば水と湯を分ける境界線が日本語と英語で異なり、色の弁別が言語によって曖昧であるように、「認識」が関与する限りそこに見いだされた「差」は人為的なものであり、人の「価値観(すなわち偏見)」から自由になることはない。その意味で「B区別」と「Cグレー」の差も所詮「程度問題」である。スポーツにおける男女分け、のように、かつては「B区別」と考えられていたものが、ジェンダー論の発展や女性の地位向上など諸々の状況から、「本当に合理的な区別であるか」が問い直されている、などの例は、「B区別」から「Cグレー」ではないかという議論が起きている例であり、逆に、近代以前は大人と一緒くたにされていた「子ども」を取り出して教育の機会を与え、社会で保護しようという風に変化したのは、「Cグレー」から「B区別」へと変化した例である。
ここを明確に区分できるというのは、いわゆる「ためにする」差別議論を行う人の大きな誤解である。この境界線は決して「明確に区分・定義」はできず日々揺らいでおり、またその状態がもっとも健全な状態である。あくまで、どこで線引きをすることが社会の安定と発展のために寄与するのか、を主眼として、「D差別(明らかに行ってはならない区分け)」なのか「Cグレー(判断がつきにくい、不当に見えるが法的な規制も行き届かない)」の判断は、常に慎重に検討される必要がある。その際、社会が全体主義的(全体の幸福のために少数の犠牲は許容される)なのか民主主義的(少数の意見も他の意見と同等に重視される)なのか、によっても当然判断は異なることになる。また、Cと判断されたからオッケーではない、というのも重要な点であって、その判断が妥当かどうか、いま必要で重要な問題かどうか、判断時点からの状況変化、対象が曖昧でないかどうか、など、不断の議論が欠かせない。
さて、それを踏まえて話を牛角に戻そう。
サービス業における女性優遇キャンペーンの是非、いわゆる「レディスデー」問題は、男女という一見明確な「B区別」に依拠しているように見えても、その区分の合理性自体が「程度問題」に過ぎないこと、また、「女性の受けるサービス料金は男性が負担させられているのでは」という疑念が拭えないことなどから、「Cグレー」であると判断されるが、ではそれを「D差別(明確に是正すべき不当な行為)」と判断すべきか否かについては、行き過ぎと感じる人も多いのが現状かと思う。そのことは、牛角に限らず、多くの「レディスデー」キャンペーンを実施する店舗で、逆に男性から忌避されるなどの大きな営業上の不利益が出ていないことからも了解される。そもそも、映画にせよ焼き肉にせよ、提供者も多いことから、忌避するにしても他の選択肢があるわけで、ぶっちゃけ「大多数の人にとってはどうでもいい」問題に属する。では、なぜ「差別だ」と騒ぐ人がいるのか。
話が変わるように感じるかもしれないが、類似の例として、一部の広告を取り上げて「女性差別だ」と騒ぐ事例を考えたい。企業が営利目的でやっていることで、それ自体が積極的な被害を引き起こし法的に規制する必要があるとまでは多くの人が認識しない(つまりDではないがC)ものだが、これについても「差別だ」と騒ぐ人がいる。これは、何も学問的に見て明確にCとDを峻別してDだと判断できる、という話をしているわけではなく(もしそう信じている人がいるとしたら、それは相当に×××)、騒ぐことそれ自体によって人々の気分を醸成し、結果として社会状況自体を変化させようという社会運動(一種のデモ、まさにデモンストレーションという意味で。)の一種なのだ。誤解されているが、今日フェミニズムと呼ばれているものの多くはこの「デモ」であって「学問」ではない。(※)だから、騒ぐ人たちはおおむね一般常識とは異なることを主張する(常識的なことをデモで声高に述べる意味はない)が、その人たちが声高に述べることが「正しい」と証明されているわけではないし、その人たちも積極的にそれが「正しい」ことを証明したりはしない(証明できるならデモより論文で書く)。騒ぎになることこそ、デモの狙いなのだ。つまり、これに顔を真っ赤にして反論しようとするのは無意味というよりむしろデモ側の応援をしているのと同じである。従って、意見に賛成できない場合も、デモ自体はスルーして別のところで意見表明なり社会行動をするなりした方がよいと思う。
これを踏まえて、もう少し具体的に書く。「たわわ」や「宇崎ちゃん」を批判したフェミニストの狙いは激しい批判を巻き起こすことであり、それは社会運動として一定成功した。では「牛角」批判をする人は、男権主義者として失われた権利を獲得するため戦略的な意図でデモを行っているのだろうか、それとも、論理的に「レデイスデーはDであると証明できる」と考えて証明しようとしている人なのか、あるいは単に「この件で女性相手に憂さ晴らししたい」というルサンチマンに過ぎないのか。私は、そのいずれであってもこれは無意味な行動だと言いたい。
「たわわ」も「宇崎ちゃん」も、それらが女性差別「的」かと言えばそう論じることはもちろん可能だろうが、それを「D差別だ」などと言い切れば社会的には表現規制を強め過ぎる無意味・有害な主張であると思うし、それ以前に指摘し是正すべき有害で明確に「D差別」な女性差別が世の中にあふれているのだから(風俗業、芸能界などにおける性的搾取などはその典型だ)運動論としても拙劣だと思っているが、それらが激しい反応を引き起こしたという一点では運動論として評価することも可能かと思うし、その結果が女性の地位向上にわずかでもつながったのなら全く無意味とまでは言えないと思うが、「牛角・レディスデー」問題については、まず男権主義をこれ以上社会で伸張させることにはおそらく社会的合意は得られないだろうし、論理的証明は上で述べたようにほぼ不可能であり無意味でもあるし、ルサンチマンならそのエネルギーはもう少し建設的なことに使用した方がよいと思っているので、運動論としても学問的な意味でも、また俗論としても、とるべきところのない議論だなあと思っている。
仮に、真剣にいわゆる「弱者男性」問題を憂えているのなら、男権主義の伸張という方向でそれが解決されることはもう無い(過去一時的にあった「男というだけで威張ってるオッサン」があふれる社会に戻したい、などという主張は、当の男性からのものも含めて今後社会的合意を得ることはできないだろう。可能になるとすれば、そういう一派を集めてたとえばイスラム教勢力と結託し革命を起こして政権を奪取するくらいしかないだろう。)ので、機会平等社会の下で結果平等をいかに実現するかを考えるしかなく、つまり一種のアファーマティブアクションでしか対処方法がない。なので、そのためにはまずいわゆる「弱者男性」とそのルサンチマンを可視化し、それを救う方策を具体的に検討するのが近道だと思う。将来的には、たとえばVR空間へのアクセス権やアンドロイドの配布などが現実的な解かもしれない。いずれにせよ、牛角が女性サービスするかどうかなんて、それらに比べればおおよそ「どうでもいい」話で、議論したところで現実の弱者男性は一つも救われず、差別に関する社会的認識や理解など1ミリも深まらないし、一瞬の憂さ晴らしにしてはただの焼肉屋に迷惑がすぎるので、さっさと辞めた方がいいと思う。
※…もう少し丁寧に言うなら、主に「社会運動」を企図した活動であって、多くの人に認められうるような論理に基づき常識を解体・構築する「学問」的活動とはまた異なるところに主眼がある、ということ。後者は観測対象を描写・分析・記述するものだが、前者は積極的に観測対象を変化させることを目的としている。なお、社会学者の中には、学問の存在価値は現実を変革し社会運動となることにこそあると主張する人もいるが、その場合も、分析・記述に十分な力があるなら、それは自然と社会の常識を解体・再構築するであろう、という意味であり、観測対象の描写・分析・記述が"いい加減"であっても社会を変革できればいーや、という意味ではないと思う。
少子化によってどうにもならなくなった未来の日本に危機感を覚えておきながら、おまえは自分の意思で強制的に自分の子供をその未来に放り込もうとしていることを自覚した方がいい。
たしかにある日突然一致団結した日本人たちの不断の努力によって少子化問題が解決する奇跡が起る可能性はゼロではないが、当然ながらおまえ自身が怯えている通りの世界がやってくることだってありえるわけだ。
そんな状態を理解しながら子供にその世界で生きる可能性を背負わせるのはおまえの業だし、本当にそうなってしまったらしまったで周りの日本人すべての責任にすることで本質的な自分の選択のミスを認めることから簡単に逃げることのできる立場にいる。
自分の子供を自分が思い描く素敵な未来に住まわせたいと思うのなら、おまえ自身の手でどうにかすべきことだし、一人で成し得ないことならば尚のこと自分以外の他の人間を説得するために脅すことしかできない自身の浅はかさを省みた方がいい。
現在の少子化はたしかに政治の責任ではあるが、それを選択したのは最終的には日本人全員の曖昧なまま束ねられた意思であり、本当にその向かう先が地獄と思うのならば尚のこと自分のエゴに何の罪もない子供を巻き込むなよ。
無明は単なる知識の欠如ではなく、存在の根本的な誤解を指します。これは阿頼耶識(あらやしき)の深層に潜む根本無明(ごんぽんむみょう)に起因します。
3. 異熟識:業の結果が熟す場
根本無明は異熟識の最深部に位置し、輪廻の原動力となっています。
空性(くうせい)は単なる「無」ではなく、縁起の真理を示す概念です。
1. 有ではない
2. 無ではない
3. 有でも無でもない
4. 有でも無でもないのでもない
これは言語や概念による把握を超えた真理の在り方を指し示しています。
中観思想は「八不中道」を通じて、あらゆる概念的思考の限界を指摘します。
1. 不生(生じない)
2. 不滅(滅しない)
3. 不常(常住ではない)
4. 不断(断滅ではない)
5. 不一(一ではない)
6. 不異(異なるのではない)
7. 不来(来ないし)
8. 不去(去らない)
これらの否定は、究極的な真理が言語や論理では捉えられないことを示しています。
如来蔵思想は、全ての衆生に仏性があるとする考えですが、これは単純な本質主義ではありません。
これらの三性が不可分に絡み合い、我々の存在の本質を形成しています。
これらの四句は、究極的な真理が二元論的思考を超越していることを示しています。
これらの曼荼羅は、智慧と慈悲の不可分な関係を表現し、究極的な悟りの状態を象徴しています。
愚かさは、これらの深遠な真理を理解できないことから生じます。しかし、同時にこれらの真理は、概念的理解を超えたものです。
真の智慧は、言語や論理を超えた直接的な体験を通じてのみ得られます。それは単なる知識の蓄積ではなく、存在そのものの根本的な変容を意味します。
この観点から見れば、愚かさとは単なる無知ではなく、我々の存在の根源的な在り方に関わる問題なのです。それを超越することは、仏教の究極的な目標である悟りそのものに他なりません。
根源を遡っていけば共同体の在り方への漠然とした信仰しか残らない点で人権思想も宗教と変わりないし、どう考えてもイデオロギー以上のものではない。
それなのに人権は絶対だという人間が少なからず存在するのを割と不思議に思ってた。
別に倫理学なんか学ばなくとも単純に「なぜ?」を繰り返せばその結論に至ると思う。
学んだ所で、根っこの部分の正当化は割とお粗末な感じな気がした。おれはね。自然法とか定言命法とか直観とかさあ。
私たちの道徳的直観が「それは差別である」と判断します、とかもう何でもありじゃん。
そういうのと道徳的直観ではない個々人の感覚とをどう区別すんの?それこそ「それってあなたの感想ですよね」案件になっちゃうよね。
普遍性を要求するのなら誰の目にも明らかな論理が必要だけれど、それでは他の何らかの前提に寄りかかった仮言的な留まってしまう。
その前提となるような部分が倫理規範の根幹になる訳で、でもその前提自体には普遍性を見出だせない。
まあ当然と言えば当然で、論理は目的や前提あってのものに過ぎないし、後者はいくらでも自由に設定出来てしまう。仮説と検証の繰り返しでなんとなくのルールが見えてくる所与の自然法則とは話が違って、どこまで行っても「こうあるべき」という規範の形式を逸脱出来ない。
とはいっても共感だとか、実定法としての合意だとか、そういう点で普遍性とまでは言わなくとも正当性なり妥当性を見出だせなくもない気はする。
これも多数決なり功利主義なりを前提として要求する気がするけど。
合意っつったって、いつそんな合意を取ったんだよ?って感じはする。生まれた時に契約書の一筆でもしたためたか?これはあらゆる法規範に言えてしまうけど。
まあ生まれた時点で強制加入で、人を殺すなり何なりの行動を意思表示として破棄できる合意とでも言えなくもない気もする。
理屈はさておいてまあなんとなく共感は出来るし、そっちの方が良い気もする。じゃあそれをルールとしましょう、っていう。そういう正当性の確保。
宗教のそれに対する世俗規範の優位性があるのだとしたら、それはひとえに政治的に確保されたものに過ぎなくて、普遍性の問題ではない。
という所を踏まえると、「人権は絶対だ」と言うのも実は政治をやってるんじゃないかって気がした。うっすら思ってはいたけど、ちょっと確度が上がった。
何らかの信仰に基づいて人権という概念を本気でこの世の黄金律だと思っているんなら、まあ素直にそう言うんだと思う。
そうではなく、絶対の原理でもなければ自明に「ある」ものではないと自覚していたとしたら、わざわざそんな事言って相対化したりその価値を揺らがせるような真似はしないのかもしれない。そんな余計な真似をして、わざわざ一度作り上げたものを解剖してみせるメリットがあまりにも少ない。
絶対ではないながらも守るべきものだと思っていればこそ、絶対の存在であるかのように振る舞う。そしてその振る舞いが共同幻想をより強固にしていく。
これも不断の努力というやつなのかな。なんか猿の惑星で全ての真実を知りながら、人間と同じ轍は踏むまいと宗教でコミュニティをまとめてた奴を思い出した。
雨に因んだ名前の、水に濡れても綺麗な奴が。
しかしながら、諸事情により転校していた小学5年の時と、中学3年のとある大会の時にそれぞれ会って会話はしており、それなりに過去イベントは存在していた。
さらに、蓋を開けてみれば席は前と後ろ。入った部活も一緒。しかもその女も俺同様筋金入りのオタクと来たもんだ。
こんな『はよ付き合え』と神に急かされているようなラブコメ展開。クラスメイトにも早く付き合えと言われる日々。
おそらく、それまでまともな恋愛をしたことの無い清潔感皆無ガリ勉コミュ障オタクだったことで、変にリアル女子の理想が高まってしまい。
『別に付き合っても良いけど、コイツに恋したらなんか負けた気がする』―――なんて、イタいオタク特有のしょうもない考えに至ってしまったのである。
そのせいで、ズルズルと時は過ぎていき。
高2で垢抜けて、今ではピアスやファッションを好む中の中くらいの男にはなったのに。
女をナンパすることも増え、端から見ればモテるように見えるはずなのに。
名門大学に入って、来年からは高収入が約束された職業になれそうなのに。
ソイツと、何度かデートを重ねているのに。
ソイツと、何度も夜に語り合っているのに。
何なら自宅デートまでやっているのに。
『あんたのこと、男として考えたことないや』なんて言われたことを思い出し、また涙で枕を濡らす。
残念ながら、この世界はそう都合良くできていない。
顔が悪けりゃ馬鹿にされるし、まともに会話ができなきゃ迫害される。
運動部じゃなきゃカーストは低いし、オタクだったら取り敢えず引かれる。
巷に溢れる創作物は、やれ『底辺の俺が美少女に恋される』だの、『急に美少女姉妹を助けてモテモテになる』だの、『コミュ障だけど実は愛されて』だの、都合の良い展開に持っていきがちだ。
確かに、それは一瞬の慰めにはなるだろう。脳内で平面世界の美少女とセックスに励むのもある意味一興かもしれない。
しかしながら、それらは実を反映しているのだろうか?
結局、我々コミュ障は、不断の努力を重ねてもそう簡単に美少女ヒロインと結ばれることは無いのではないか?
オタクの培養地で無菌栽培された我々は、まともな恋愛の酸いも甘いも知らず、15か18で戦場へと駆り出される。
一般の人生を歩んでる奴らが早くて10歳で恋愛を始めることを考えると、5年程度の差だ。
しかしながら、青春という期限がある世界において、この5年の差はあまりにも致命的で。
俺らがアニメを模倣した無菌的な恋をしている間に、他の奴らはキスをし、ゴムを外し、常在菌を交換しあっているのである。
そして、その恋愛戦争に負けた男達は、その果たせなかったリピドーを盲目系ラブコメの創作へと費やし、自慰行為に励む。
その結果、また新たな純粋培養オタクが誕生し、恋愛市場に淘汰され、オタクの理想を具現化したラブコメへと吸い込まれていく。
そんなふうに文句を言う俺は、自分も輪廻から抜け出せないことから目を背けながら、今日も女を口説く。
「自分だけはもうコミュ障オタクの無限ループから解脱した。だから女を口説けるし、本気を出せばアイツを落とせる」なんて思いながら。
「俺を虐げるな」=「無条件で俺を世話して性処理をする女をあてがえ」
そもそも、誰かがそう主張すること自体は自由です。その主張を議論の俎上に載せて対話するのが民主主義です。もちろん、こんな主張を議論に乗せれば、それが通らないことは自明です(1人の人権を保障するために1人の人権を犠牲にするのでは社会にとって問題は何も解決しないからです。一般的に言って、無辜な何者かの生活を犠牲にすることによる解決は、少数意見を尊重する真っ当な民主主義においては認められる主張ではありません)が、それはそれとしてその「主張をすること」は自由であり権利です。逆に、その意見を封殺することは非民主的な行いです。
従って、
という態度は望ましくありません。意見が荒唐無稽だとしても、両者の意見のすりあわせと妥協点を探る(女性を奴隷にせずに、「俺」さんが「虐げられていない」と考える道は本当に無いのか?など)態度が民主主義です。このように、民主主義を標榜するなら「俺を虐げるな」などと言う人と対話しようとする姿勢が必要です。もちろん、相手がマサカリで武装しているなら、対抗言論上多少きつい言葉を使うことも許容されるべきでしょう。しかし、少なくとも人権と民主主義を尊重する近代人のふりがしたいなら、対話すべき相手を人間以前の生き物のようにレッテル貼りして言論を封殺しようとするべきではありません。そういう( 「弱者」男性に対する )マッチョな振る舞いが一部界隈では人気を博すのかもしれませんが、それは人権に名を借りたただの差別主義です。
差別主義とは何か。それは、社会に、本来は存在しない見えない線を区切ることです。そのような見えない分断は多くの人にとってはただ不都合でしかありませんし、特に、その区切りによって不利益を被る側には耐えがたいマイナスですが、その分断を強く主張し主導する人々にとってはそれが権力の源泉となります。たとえばエセマナー講師は、わかりやすいその一例です。奇妙なマナーを提唱して、社会を「"マナー"を知ってその通りに振る舞う人/"マナー"知らずで無礼な人」に区分けする、多くの人にとってはただ面倒が増えるだけですが、マナー講師にとってはその「社会全体の不利益」がそのまま「飯の種」になります。「流行・ファッション」などというのも、多くの場合これです。しかし、流行・ファッションを飯の種にする人は多くいて、そうなるともうこの「流行」なるものは実態のように振る舞い始め、被搾取者だけでなく受益者まで巻き込んで様々な悲喜劇を引き起こします。「文化・伝統」「宗教・信仰」もその類いであることは言うまでもありません(本来は信仰の守り手として受益者であるはずの行為の宗教家が、狂信者となることでどんな悲喜劇を引き起こすことか)。
ここで、しっかりと区別しておきたいことは、私はこのように振る舞うのが「好きだ」、私はこのような服装が「好きだ」、私はこのような文化が「好きだ」、私は神様を「信じている」……それは差別主義ではありません。しかし、人はこのように振る舞う「べきだ」、このような服装をする「べきだ」、このような文化を守る「べきだ」、誰もが私の神を信じる「べきだ」……となると、それはもう差別主義に足を踏み入れています。なぜならそれらは、そうする人としない人を区分けする考え方であり、しばしばまさに「区分けするため」になされる主張だからです。敵と味方にわけて闘うための思考が差別主義です。差別主義は戦いからこそ利益を得るのです。
同じく、私は人権を「大事だと思う」、人権は「大切だと思う」、はただの選好ですが、誰もが人権を「尊重するべきだ」、人権を守る「べきだ」、人権を信じる「べきだ」、人権に則って振る舞う「べきだ」……は、ここで言う差別主義に当たることになります。一見人権を大切にする結構な主張に似て見えますが、それらは社会に分断をもたらすことで結局は全体に不利益を与え、見えない壁を作り、そしてそう主張する者だけがそこから部分的な利益や権力を得る、そんな行いだからです。人権も民主主義も、この社会の構成員全てを等しく扱う考え方であり、「敵/味方」という思考法から最も遠いはずのものですから、「彼らは民主主義の敵だ」とか「我々は人権派だ(あいつらはそうではない)」といった主張は、本来存在するはずがないのです。
私たち一人一人は、弱く愚かです。間違いも犯す。だからこそ、いろいろと問題のある中で民主主義が選ばれ、尊重されているのです。たとえ自分が民主的で人権を尊重する人間であると自負していたとしても、私たちは不断に自らが本当にその名にふさわしい振る舞いをしているか、再確認する必要があるでしょう。人権や民主主義はありがたく飾っておけばすむ錦の御旗などではなく、常に実用の最前線にあり、限りない問いかけと異議申し立ての中で磨きぬかれてきた存在なのです。
『イージーライダー』を観た。
ニューシネマの代表と名高くて破滅的な青春の話だと思っていたけれど、どちらかと言えばニコルソン曰く自由を語りながら自由を恐れる時代に捻じ伏せられた若者の話って感じだった。
プッシャーやって得た金でイージーライダーを始めて、時計を投げ捨てるのがかっこよかった。
パンク修理で寄った家の"L.A"も伝わらない主人に「田舎に根を下ろしたんだな」と含みありげに語る主人公は逃げ場を求める気持ちを感じさせた。
ヒッピー集落では、はぐれ者同士身を寄せ合ってみても砂地じゃ食べ物にも困るような逃げ場の無さをほんのりと感じた。切迫した生活での信仰の頼りなさだとか、無知に生きる気楽さとか世知辛さとかも。
街へ出ていきなり逮捕されて出会ったニコルソンはボンボン風で人が良い。自由の体現者につられて、マリファナにビビったりはしつつ自分も口先で語るだけではない自由に飛び込んでみるのが冒険という感じがした。
立ち寄った食堂では主人公達に憧れる若者もいれば、怪訝な目でジロジロ見たり罵声を浴びせる保守的な連中もいて、結局そいつらにニコルソンが殺されてしまうのが辛い。
お通夜ムードで娼館に行って、謝肉祭に繰り出してグッチャグチャになる辺りはよう分からんかった。「神が不在なら発明する必要がある」はなんか印象的だった。
ラストの突き放すような呆気なさと虚しく響くエンディングは嫌いじゃない。
場面転換や謝肉祭のシーンに挟まれる謎のモンタージュが印象的だった。
作中で語られる"自由"はよくアメリカのそれと言われる"liberty"じゃなく"freedom"なんだな。
自由とは責任であり、自由とは不断の努力であり……とかそういうありきたりなの抜きで、おれもなんの束縛もしがらみもない自由を味わってみてえよ。たとえ世知辛くても……
新聞記者が障害者が助けられても感謝を言う必要が無い理由を、店員が客に担々麺を掛けた例で説明、「意味不明」との反応が集まる
いわく“社会は健常者用にできていて障害者は不当に割りを食ってるんだから、健常者が障害者に手助けするのは被害回復でありそこに感謝はいらない”
これが意味不明だと言われてるのだそうだが何も難しくはないだろう。むしろその逆で幼児の頭で考えたような単純な理屈だ。もちろんクソの役にも立たない。
こんにちアメリカの大分断を生んでいるのはひとえにMAGAトランピストのキチガイぶりによる、わけではない。争いには相手がいる。一方の「リベラル」勢力が依拠するのがこの原罪思考である。インディアンを駆逐して国土を簒奪した移民の子孫が、ニューカマーを「不法移民」と断じる権利はないという価値観。
エンジニア的な、問題解決型の思考と行動様式である。うるわしき伝統を崇めるより自分の手で不断に社会を改善していく。選挙以外にも多様な機会・手段を捉えて。ただし安易な暴力的手段に流れず。
それでなにか理想の社会を実現しようというのではない。そこまでやってやっと平常運転が保ち得るという諦観がベースにある。
そこにおいて障害者を助けるというのは贖罪なんかではない、単なるチームプレーの一環である。お互い助け合う集団のほうがトータルで強いに決まってるからそうするのだ。
罪深き我々と哀れな犠牲者という(実はめちゃくちゃ上から目線の)関係でなく、対等なマイトシップの発露以外の何ものでもない。
憲法は同性婚を想定していないまでは同意なんだけどその先が色々おかしいところあるような。
法というものは社会の中で生きているものだから解釈は変わっていくというのは法学の基礎だと思うんだけど。
社会情勢の変化により憲法解釈を変更すべきとのこと。まぁ分からなくもないが裁判所がそれを言うのはどうなんだろう。
例えば有名な尊属殺重罰規定の違憲判断について、最高裁は「社会情勢の変化」などは理由にせず、「目的に対する法定刑が重すぎる」ことを理由にしている。(社会情勢の変化に対応するのは立法府との判断だろうか)
と言っているけど、他の違憲判決は社会情勢の変化を取り込んだ判決はあるよね。
婚姻外の日本人男性と外国人女性の間に生まれた子供に日本国籍を認めるかで争われた最大判H20.6.4は法制定時には一定の合理性はあったけど社会通念、社会状況等の変化で時代遅れになっているとして、違憲判決を下している。
「国籍法3条1項の規定が設けられた当時の社会通念や社会的状況の下においては……一定の合理的関連性があったものということができる。しかしながら,その後,我が国における社会的,経済的環境等の変化に伴って,夫婦共同生活の在り方を含む家族生活や親子関係に関する意識も一様ではなくなってきており……社会通念及び社会的状況の変化に加えて,近年,我が国の国際化の進展に伴い国際的交流が増大することにより,日本国民である父と日本国民でない母との間に出生する子が増加しているところ……今日では必ずしも家族生活等の実態に適合するものということはできない。」
非嫡出子の法定相続分が嫡出子の半分であることが法の下の平等に反するかで争われた最大決H25.9.4では明確に昔は合憲であっても社会の変化で違憲に変わることがあると述べているよね。
「 最高裁平成3年(ク)第143号同7年7月5日大法廷決定・民集49巻7号1789頁は……その定めが立法府に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えたものということはできないのであって,憲法14条1項に反するものとはいえないと判断した。
しかし,法律婚主義の下においても,嫡出子と嫡出でない子の法定相続分をどのように定めるかということについては……時代と共に変遷するものでもあるから,その定めの合理性については,個人の尊厳と法の下の平等を定める憲法に照らして不断に検討され,吟味されなければならない。……婚姻,家族の形態が著しく多様化しており,これに伴い,婚姻,家族の在り方に対する国民の意識の多様化が大きく進んでいることが指摘されている。……当裁判所は,平成7年大法廷決定以来,結論としては本件規定を合憲とする判断を示してきたものであるが,平成7年大法廷決定において既に,嫡出でない子の立場を重視すべきであるとして5名の裁判官が反対意見を述べたほかに,婚姻,親子ないし家族形態とこれに対する国民の意識の変化,更には国際的環境の変化を指摘して,昭和22年民法改正当時の合理性が失われつつあるとの補足意見が述べられ,その後の小法廷判決及び小法廷決定においても,同旨の個別意見が繰り返し述べられてきた。特に,前掲最高裁平成15年3月31日第一小法廷判決以降の当審判例は,その補足意見の内容を考慮すれば,本件規定を合憲とする結論を辛うじて維持したものとみることができる。
……遅くともAの相続が開始した平成13年7月当時においては,立法府の裁量権を考慮しても,嫡出子と嫡出でない子の法定相続分を区別する合理的な根拠は失われていたというべきである。 したがって,本件規定は,遅くとも平成13年7月当時において,憲法14条1項に違反していたものというべきである。」
ほかに医療技術の進歩で妊娠判断がやりやすくなったため、女性のみ再婚禁止期間が6か月あった民法規定を違憲とした最大判H27.12.16もあるよ。
https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=85547
というわけで、札幌高裁の判決で社会情勢の変化を要素に入れても突飛な考えではないということだね。そういう法解釈の仕方は間違っているという考えはあると思うけど、最高裁が一顧だにしていない独自解釈ありがとうございます。解釈ですべてと変えられると成文の意味がなくなるという指摘は同意できるけど、ここで言うことかという問題だね。
元増田はゴリゴリの文理解釈主義者っぽいので条文は一意に解釈して解釈変更はできないという立場かもしれないけど、そうではないというのが現実なわけで
国立国会図書館「調査と情報―ISSUE BRIEF―」No.1257(2024. 2. 6)の特集がちょうど同性婚と日本国憲法でざっとまとまっているのでこれを読んでみるよ。
これまでの地裁判決では、次の点が確認できると指摘されている。①憲法第 24 条は、異性婚のみを保障範囲に含んでいるが、同性婚を禁止してはいないこと。②性的指向に基づく区別取扱いが合理的な区別か差別的な区別かが主たる争点であること。③憲法第 24 条(特に第 2 項)と憲法第 14 条第 1 項の議論が相互に重なり合っていること。④いずれの地裁判決も同性カップルの保護のために何らかの法整備を求めていること。③については、憲法の各条項間の関係をどのように整理するかが問題となると考えられる。④については、地裁段階とはいえ、うち 2 つが違憲、2 つが違憲状態とし、合憲とした 1 つも将来的な違憲の可能性を指摘したとして、「国に今後の対応を促したものといえる」とする評価もある。(強調は引用者)
は強く言い切れるほどの根拠あるのかな。この札幌高裁だけおかしいとまでは言えないよね。いや学説は違うんだと言いたいのかもしれないけど、地裁が禁止説を取っていないってのも尊重されるべきじゃないかとは思うよ、まあ最高裁じゃないのでそんな参考にすべきじゃないと言われたらまあその通りでもあるけど。なかなか通説はどうとか確認しにくいので言い切られると違うとは言いにくいのが困ったもので、ちょっと古いけど下の総論でもそこまで言っていないよねで留めておきます。
藤戸敬貴「同性カップルの法的保護をめぐる国内外の動向 : 2013年8月~2017年12月、同性婚を中心に」『レファレンス』₍2018.2₎
こういう主張は珍しくない。
至適な形容が見つかってないが、一種の「秩序感覚」によるのだろう。
つまり世の中のあらゆる問題について誰がどう対処するのか完全にルールとノウハウが整備された究極状態があり得、今はそこに向う過渡期の一点であるという、いわばシーケンシャルな社会観に立脚した感覚。
共産主義の人間性開放の神話みたいなものとも相似形である。歴史・社会には到達すべきハッピーエンドがあるという考え方。
しかし社会はただ不断の変化を続けているだけであってそれは進歩ですらない。永久に不完全なシステムの中で取りこぼされる誰かの困りごとが根絶されることはない。
その永遠の泥縄的パッチ作業に自ら能動的に手を染めようというのがボランティアの考え方でありまたリベラルという姿勢である。
シジフォスの苦役と違うのは、どうやったら楽にうまく岩を転がせるか常に工夫するエンジニア的思考が必要ということ。
そもそも「いつか正規の救援制度ができる邪魔になるから、困ってる人が居ても何もしないでおくべき」というのは頭で想像しただけの机上の空論である。
コタツでネットを介して見聞きするのでなく、リアルにそういうシチュエーションを経験すれば「自分には何ができるのか」と考え出すのは人間の本能と言って過言ではない。